説教要旨

11/3 「今日を共に生きる」 ヘブル人への手紙3章1~19節 小林泰輔師

  •  私たちは、明日(来世)を御国で生きるために、今日(地上の生涯)を共に生きるのです。「今日」と言える日があるうちに神に会う備えをしなければならないのです。やがて「今日」も「明日」もない「永遠」という時が来るのです。その時になってからでは遅いという日がやって来るのです。人生は長い旅路です。楽しいことより苦しいことの方が多いかもしれません。ですから共に旅する者として私たちは励まし合います。
     ①私たちは神の家、一人一人は家族です。モーセは神の家族が脱落することのないように、忠実にリーダーの役目を果たそうとしました。イエスさまはモーセ以上のお方です。神の子とされた者が誰も落後することがないように導いてくださいます。
     ②ですから御霊は言われるのです。「今日」という日があるうちに悔い改めて生きよと。その御声を聞くなら、心を頑なにせず、ただちに悔い改めましょう。人生の終わりがいつ来るか分からないように、それ以上に主の再臨と最後の裁きはいつ来るか分かりません。御霊は私たちに悔い改めを迫るために、私たちを荒野(試練)に追いやることがあります。しかし、それを機に悔い改めるなら、救いを得ることができます。
     ③これは個人の救済にとどまる話ではありません。兄弟姉妹として互いに励まし合いながら、「生ける神から離れる者がないように」「罪に惑わされて頑なにならないように」気を付けて戒め合い、励ましあいながら、天の御国の安息を共に目指すのです。罪の悔い改めという重荷を互いに負い合うのです(ガラテヤ6:1,2)。誰かの弱さを引き受け、自らの弱さも披歴して助けを請う、そのような交わりが教会には必要なのです。私たちは信仰の友、神の家族なのですから。

10/27 「バトンを渡す」 列王記第二2章6~14節 小林泰輔師

  •  預言者エリヤはその後継者として、神の導きによりエリシャを見出しました。エリヤがエリシャにかけてやった外套は預言者としての使命というバトンのようでした。エリヤはエリシャをしもべとして共に過ごし、預言者としての訓練を施しました。
     エリヤが竜巻に乗って天に携え挙げられる日が近づいてきた頃、エリヤはエリシャを残して静かに主のみもとへ去ろうとしたのでしょか、しかし、エリシャはエリヤから離れようとしません。ヨルダン川ではエリヤが外套を丸めて水を打つと、水が二つに分かれて乾いた地を渡る奇跡も起きました。そして、エリシャに最後に何をしてやるべきかを尋ねました。するとエリシャはエリヤの霊の二倍の分を求めました。大胆な求めでしたが、エリヤがこの世から取り去られる姿を見ることができれば、そうなるだろうと約束が与えられました。
     そのあと、火の戦車と火の馬が現れ、エリヤは竜巻に乗って携え挙げられていきました。エリシャはそれを見て「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と泣き叫びましたが、エリヤは見えないところに行ってしまいました。エリヤの身から落ちた外套を拾い、水を打つと同じように水が分かれて乾いた地を渡りました。エリヤの霊と力と使命とはエリシャに引き継がれたのです。「エリヤは我と同じ人なり」。私たちにもエリヤの働きが受け継がれています。エリヤに出来たことは私たちにも出来るのです。主は昔も今もこれからも変わることがないからです。私たちはその使命を教会の父祖たちから受け継ぎました。そしてまた、子や孫に受け継がせていくのです。そうしてこの地の宣教が続くように祈りましょう。

10/20 「信仰の友」 ルカの福音書5章17~26節 チョウ・エミリー師

  • 「中風を患っている人」の物語がルカの福音書5章17〜26節に記載されています。
    この人はイエスのところに行きたいと願いましたが、自分には無理なので、友人たちに運んでもらいました。しかし、人が大勢いて、
  • この人は部屋には入れなかったのです。すると、彼を運んでいる友たちは屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を人々の真ん中、イエスの前につり降ろしました。
    散々な困難があっても、乗り越える決心をして、どうしてもイエスの前に行かなければならないとして、彼らは行動したのです。もちろん、
  • 信仰の対象が間違ったらすべて無駄になりますが、対象が正しければ、正しい「信仰」が生じます。それは、人の意志とは関係なく、また人の能力とも関わらないです。なぜかというと、信仰の対象は人間ではなく、神様です。ですから、誰を信じるかという信仰の対象はキーポイントです。
    対象以外に、信仰についてもう一つのポイントをイエスに教えられました。それはあきらめずに、かたく守るという決心です。困難にあったら畏縮し、
  • 信仰を揺らして、他人、物事に依り頼もうとするのはまさにその反対です。病人と彼の友たちが、困難の中に、畏縮せず、乗り越えた結果、イエスは彼らの
  • 「信仰」を見たのです。
    信仰によってイエス様から友として受け入れた病人と彼の友たちと同じように、私たちも主イエスに友と呼ばれます。私たちはただ同じ教会を通っている
  • 「教会の友達」ではなく、主によって信仰の友たちになりました。人の子、主イエスがこの地において託された使命を果たすことが出来ますように、共に努めましょう。

10/13「光を輝かせ」 マタイの福音書5章16節 森田学師

  •  私たちは色々な思いを抱いて、今ここに招かれています。2000年前、お弟子さんも、また大勢の群衆も色々な思いを抱いてイエス様のそばにやってきました。そのイエス様が言われます。『あなたがたは世の光です。』このみことばは今も私たちに語られています。え?私なんてふさわしくない…。私なんて世の光になれない。そう思うことがあるでしょうか?でも、違うのです。世の光になりなさいとは言っていません。これは、イエス様の宣言で、言われた通りに必ずなるのです。ですから、私たちはもう『世の光』なのです。イエス様が私たちを世の光としてくださっているのです。イエス様が言われるみことばを素直に信じて受け入れる者でありたいです。
     世の光であることを認めないなら大変なことになります。13節と15節で言われていますが、塩が塩気を失うように、光がその輝きを失うならその隙を突いてサタンは闇に飲み込もうと惑わしてきます。
     主が宣言してくださっているのだから、世の光とされている身分を隠すことはもうやめましょう。『あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。』と、主が言われる通りです。私たちは、自分自身に、またお互いに、世の光とされているのだと感謝と勇気をもって励まし合うことが大事です。そして、イエス様の愛の素晴らしさとその良い御業を反射させる私たちと変えられていくのです。主は私たちに願っておられます。今まで一度も明かしたことのない友人や、家族、または職場の同僚の前で身分を明らかにしてゆくことを。それはとても輝かしいことです。
     私たちは何よりも、みことばを信じて、みことばに生きる私たちとされたいです。そのように私たちを内側から支え、助け、建て上げるのは聖霊のなされることです。みことばを信じていくときに、私たちの内で、主のことばは自由に生きて働き続けます。

10/6「人となられた神」 ヨハネの福音書1章14~18節 小林泰輔師

  •  ちょうど400年前のこの日(1619年10月6日)、京都では大殉教がありました。橋本太兵衛、妻テクラ、子どもたち他合わせて53名(胎児含む)が迫害の末十字架火あぶりの刑に処されたのです。しかし、彼らはキリストの苦しみに与る栄誉を喜んでいたと言われています。
     人となられた神である御子イエスさまは苦しみを受けられるためにこの地に来てくださいました。そして私たちを罪から救うため十字架の上で死なれ、三日目によみがえり、その後しばらくして天に昇られました。これが福音(ゴスペル=Good News)だと聖書は言っています。
     イエスさまはおそらく仮庵の祭りの頃に生まれたと思います。荒野での神の臨在を表す仮庵は、御子がひととき人となられてこの地に住まわれることを示しているようです。イエスさまがお生まれになったとき飼葉桶に寝かされましたが、これは「しるし」であると言われます(ルカ2:12)。イスラエルの民に拒絶されるしるし(イザヤ1:2,3)であり、すべての人が救われて真理を知るようになる(Ⅰテモテ2:4)ために誰でもお会いできる飼葉桶に生まれたこともしるしです。御子を拒絶する私たち罪人のために来てくださいました。
     この方には神の恵みとまこと(契約に対する誠実)が満ちていました。モーセを通して与えられた律法に神の恵みとあわれみが表現されていましたが、イエスさまによって神の恵みとまこととが実現したのです(17)。主は決して私たちを見捨てることはなく、その愛の約束は永遠です。どんな困難があっても主イエスの愛に信頼するなら乗り越えられないことはありません。信じて歩みましょう。

9/29「聖なる招き」(『成長』より) テモテへの手紙第二1章1~5節 小林泰輔師

  •  パウロは第一回伝道旅行の際、リステラの町でテモテに出会いました。母ユニケ、祖母ロイスに育てられ、唯一まことの主なる神さまを信じる信仰をしっかり持っていました。また父はギリシア人だったのでギリシア語も話せました。異邦人伝道に最適な人材として主が出会わせてくださったと確信したパウロは、テモテを伝道旅行に連れていきました。
     パウロとともに伝道旅行をするなかで、テモテはパウロから教えと薫陶を受けたことでしょう。パウロもテモテを自分の実の子のように愛し、弟子として手塩に掛けて育てました。
     パウロは今や投獄され、おそらく処刑されることになるだろうその時、夜昼、この愛弟子のために覚えては祈りました。テモテという働きの実を見ることができたことは大きな喜びでパウロは神さまに感謝しました。しかし、これから迫害が厳しくなっていく中で、テモテや教会に危害が及ぶことが予想され、そのためには主がテモテをさらに強めてくださるようにと祈らずにはいられませんでした。
     神さまは地の基の置かれる前から、テモテを選び、ユニケとロイスを通して信仰継承がなされ、「聖なる招きをもって召してくださ」り、パウロと旅を共にすることで訓練されました。聖霊がテモテを祝福し、賜物を与えてくださいました。それは力と愛と慎みの霊でありました。そのことを思い起こして信仰に堅く立つように励まします。
     私たちも「聖なる招き」によって召されたものです。神のご計画と恵みの確かさに信頼して、しっかりと務めを果たして参りましょう。

9/22「御子は救いの創始者」 ヘブル人への手紙2章1~18節  小林泰輔師

  •  引き続き御使いとの比較から、御使いは霊的存在であり、御子は肉をもって来られたこと、御使いは敗北しないが、御子の十字架は見る人によっては敗北に見えたことなどから、御子は御使いに劣ると考え、「こんなにすばらしい(御子による)救いをないがしろに」してしまう人たちがいました。しかし、救いは御子によって語られ(3)、父なる御神の力あるわざによって証しされ、聖霊なる神の与える賜物により、御霊に満たされた人を通して証しされたのです。
     御子イエスの十字架は、決して敗北ではなく、その苦しみのゆえに栄光と誉れの冠を受けられたものであり(9)、私たちと同じ血肉をもって死なれ、よみがえられることによって、死と悪魔の力とを滅ぼされた勝利のしるしでした(14)。十字架と復活によって私たちは死の恐怖の奴隷から解放されたのです(15)。私たちの恐れは生活、老い、病、罪、つまるところ死につながる恐怖です。御子の十字架と復活だけがその解決であるのです。
     そのためには、御子は肉体をもって人として来られる必要があったのです。そのために御子は「御使いよりもわずかの間低いものと」(7)なられたのです。ご自身が永遠の大祭司としてと同時に神の子羊として犠牲になられることによって、神の御怒りの宥めとなってくださり、私たちは救われたのです。
    「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(18)
    「もしも主イエスが苦しまなかったら 神さまの愛は表れなかった」(新聖歌292水野源三さん作詞)

9/15 「御子は神の栄光の輝き」 ヘブル人への手紙1章1~14節 小林泰輔師

  •  聖書の神さま、キリスト教の神さまの一番の特徴は“啓示の神”であることです。神がご自身で神についてお語りになるのです。昔、旧約聖書(律法と預言者)において語られました(1節)。この世の終わりの近い今は、御子にあって語られます。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(3節)ですので、神について知りたければ御子イエス・キリストを見つめることです。御子の十字架に神の愛は輝いた、復活に希望は輝いた、昇天に、主の再臨の約束に、王の輝きがあったのです。
     ①御子は創造主であり、御国の相続者であり、万物を保つお方です。「力あるみことば」によって創造され、保持されるお方です。茫漠として何もないところから「光よあれ」と天地を創造した方は、何もない私の心にきよい心を造ることのできるお方です。この方の言葉に聴き従います。
     ②御子は罪のきよめを成し遂げられた方です。力ある主イエスの血によってそれを成し遂げてくださいました(9:12,14)。主はとこしえの大祭司であり、生ける神の子羊である方です。この方の“御名と御宝血を崇めます。”
     ③御子は大いなる方の右の座におられます。復活後、天に昇られ、父なる神の右の座に着かれました。万物の相続者の着座するところです。そこから統べ治めておられ、執り成しておられ、やがてその御座から再び降りて来られる、王の王、主の主なるお方です。この方を待ち望みます。
     御子は、預言者として、祭司として、王として来られました。そして私たちを救ってくださる救い主、真の神、主なる神です。この方にひれ伏し礼拝します。

9/8「平和をつくる者」 マタイ5:9 コリント第二5:18 森田学師

  •  平和、それは多くの人が望むこと。しかし…平和は一体どこにあるのか?平和とは一体何と何の平和なのか?そう思います。
     ①イエス・キリストにこそ平和がある。イエスさまは『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。』と言われます。しかし、人だけではつくることはできません。なぜなら、本当の平和は、『平和の君』である、主イエス・キリストにあるからです。
     ②平和はイエス・キリストを信じるときに与えられる。イエス・キリストを知らなかった私たちすべての人は、本当の平和なんて知らずに、罪の中を生きる、争いの根源である悪魔の奴隷でした。神と平和があるどころか、神と敵対する存在でした。しかし、愛でいっぱいの神は、私たちが神と敵対し続けることを見過ごすようなことはしないで、平和を、神の方からもたらしてくださいました。イエス様こそが私の救い主です。と信じて、告白するとき、私たちは、罪を赦され、悪魔の支配から解放されて、神と和解し、平和を与えられるのです。イエスを信じるなら、私たちは神との平和を持っているのです。
     ③神との平和を、隣人にお知らせする。イエス様は、私たち“が”ではなくて、私たち“を”通して平和がつくり出されるように、と言われているのです。この神様との平和という素晴らしい知らせを、神様ご自身から私たちに、委ねられているのです(コリント②5:17~19)。そんな大役をと恐れることはありません。私たちには、力強い助っ人がいてくださいます。『御霊の実は、愛、喜び、平安…』と言われているように、神の愛の中で生きる私たちには、聖霊によって、平安=平和という実を、実らせる者に変えてくださいました。主なる神は、平和を宣べ伝える神の大使として、今、私たちに特別な権利を与えて下さっています。人の力ではできませんが、みことばの通りにしてくださる主なる神を信じ、さんびします。

9/1「イエスに出会った人々」 使徒の働き26章16~18節 小林泰輔師

  •  ①スカルの井戸の女性。ユダヤ人からは差別されていたサマリヤ人の女性。さらに私生活上の問題から周りの人を避けていた。主イエスはこの人の心の飢え渇きを知っておられ、尽きることのない命の水を与え、渇きを満たして下さった。
     ②ツァラアトに冒された人。ツァラアトは伝染性の皮膚病、宗教的なけがれともされ、宿営の外に住み、人々の前では「私はけがれています」と叫ばなければならなかった。主イエスはこの人の肌に触れ、心に触れ、きよめてくださった。
     ③極悪取税人ザアカイ。取税人は賤しい職業とされ、人々から除け者にされていた。ザアカイも心が拗ねて、人々の税に上乗せし不当な利益を得ていた。主はこのザアカイ目がけてエリコの町に来られ、彼の友となり、食卓をともにされた。
     ④迫害者サウロ(パウロ)。律法的に正しい人を自認するパリサイ人。イエスをメシアと認めず、主の弟子たちを追い回しては捕らえていた。あるとき、眩い光に圧倒され、目が見えなくなり、天の声を聞く。声の主がイエスであったことを知らされ、激しく悔い改め、主イエスの弟子に変えられた。
     これらの人々に共通することは、皆、主イエスを伝える人に変えられたことである。「わたしがあなたに現れたのは、…あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」(使徒26:16)。私たちも主の救いの喜びを伝える証人とされている。

8/25 「みことばの勢い」(『成長』より)  使徒の働き19章11~20節 小林泰輔師

  •  パウロはエペソの町でおよそ3年ほど伝道しました。エペソの町は栄えていましたがアルテミス神殿があり偶像崇拝の問題がある町でした。パウロは初めユダヤ人の会堂でもイエスが救い主であることを伝えましたが頑なに拒む人もいたので、その後は、ティラノの講堂で異邦人たちに語りました。パウロはイエスさまのことを語るとともに、神さまも奇跡を行ってくださり、パウロを通してたくさんの人が病を癒やされ、悪霊から解放されました。そうして人々は「主イエスの名をあがめるようになった」のです。(17節)
     悔い改めて神さまのもとへと立ち返った人たちに大きな変化が起きました。これまで魔術を行い悪霊に関わっていた人たちが、悔い改めるとともに、その魔術の書物を焼き捨てたのです。売れば銀貨五万枚にもなるものでしたが、売らずに焼き捨てました。二度とそのようなものに関わらないし、関わる人を増やさないという決意だったのではないでしょうか。
     「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」(20節)。さまざまな迫害や妨害があってもパウロは決してみことばを語ることを止めず、語り続けました。偶像崇拝をしていた人たちも、みことばの力と勢いによって心が突破されて、変えられたのです。主のみことばに信頼して、私たちも主の証し人として語り続けましょう。

8/11「こころに欠かせない栄養」 マタイの福音書4章1~11節 森田学師

  •  荒野で四十日四十夜断食をし、お腹を空かせていたイエス様。そこへ悪魔が「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と誘惑してきます。悪魔が私たちを誘惑する目的は、まことの神さまから引き離し、生きる目的を見失わせ、霊的な死に誘うことです。悪魔はイエス様をも誘惑してきます。それは、父なる神への従順をやめさせ、自分の力に頼るように仕向けようと。そうして、十字架への道を失敗さてやろうと。
  •  しかしイエス様は言われます。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」イエス様は、その神の口から出る一つ一つのことばによって、悪魔を徹底的に退けました。あえて私たちのお手本として悪魔の誘惑に会われたイエス様は教えてくださいます。私たちが生きるためには、からだの栄養(パン)も欠かせないが、何より必要な栄養は、神の口から出る一つ一つのことばであると。この神のことばは、“生きていて、力があります。私たちにいのちを与えます。私たちのこころの栄養となり、私たちを生かします。確かに生かすのですが、ただ単に食べるだけではあまり意味がありません。私たちが毎日食べるからだのごはん、おいしいなぁって感謝して食べるときにこそ、からだの栄養となります。同じように、こころのごはんもそうです。神さまのみことば一つ一つ、喜んでおいしくいただくときにこそ、栄養となり、測り知れない力となって私たちを生かすのです。悪魔の誘惑をも撃退します。本当に神のことばは完全で素晴らしいです。その、神の口から出る一つ一つのことばで生きる者へと、聖霊が必ず私たちを創り変え続けてくださいます。みことばで生きる私たちのうちから、神さまの賛美があふれ、私たちとことばを交わす隣人が、神のことばに触れ、ともに神様のすばらしさを味わい、私たちは、行く先々で神様の栄光を見るようになります。

8/4「赦される」詩篇103篇8~14節 小林泰輔師

  •  すべての人類に共通している一つのことは、「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:23)ということです。神の目から見た罪の基準は、神をも恐れぬ態度ということでしょうか。ですから、法律上の罪や倫理的な罪を犯していても、いなくても、人はみな罪人なのです。
     しかし、神はその罪人である私たちを赦して下さるというのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。
     「私たち」とは誰か。ヨハネはクリスチャンの向けてこの手紙を書きました。クリスチャンも罪の問題を卒業したわけではないのです。「罪を言い表す」ということが重要です(箴言28:13)。
     「神は真実で正しい方」です。この世の道徳的正義は、罪には報いがあるということですが、神が真実で正しい方であるというのは、イスラエル(神の民)を愛するという契約に対して誠実を尽くされるということです(エレミヤ31:3)。
     神は真実であるがゆえに、罪を赦して下さいます。しかし、それは罪を見過ごすということを意味しません。神の正しさと愛ゆえの赦しが共存しうるための鍵語は「御子イエスの血」(同7節)による犠牲なのです。
     神の愛は私たちをおおい(箴言10:12)「悪からきよめてくださいます」。罪人をきよめて神の勇士と造り変えて下さるのです(詩篇103:8~22)

7/28「ペテロが見た夢」(『成長』より)  使徒の働き10章1~22節  小林泰輔師

  •  カイサリアにローマの百人隊長でコルネリウスという人がいました。この人は異邦人であったけれども神さまを信じていました。彼は幻の中で神の使いに会い、ペテロを家に招くようにとのお告げを受けます。そしてその通りにペテロのもとへ使者を遣わしました。
     一方、ペテロの方も同じく幻を見ていました。ペテロは屋上で祈っていましたが、昼時になり空腹を覚えながら夢心地になっていると、幻を見たのです。天上から四隅を吊るされた敷物が降りて来て、そこには旧約聖書で“けがれている”とされた動物たちが入っていたのです。そしてそれを「屠って食べなさい」という声が聞こえました。ペテロは聖書の教えに従ってけがれた動物を食べたことはありませんでしたので「できません」と答えました。ところが、もう一度天の声がして「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と言うのです。そんなやりとりを三回もして、それから敷物は天に戻っていきました。そこで目が覚めたのですが、ちょうどその時、コルネリウスからの使者が訪ねてきました。異邦人の食卓に招かれて食事をするということは、ユダヤ人にとっては許されないことでした(28)。しかしペテロは幻に続いて御霊の声を聞きました。「ためらわずに彼らと一緒に行きなさい」(20)。
     コルネリウスは一族郎党友人知人を招いてペテロを出迎えました。そこでお互いに見た幻のことを明かすと、神さまのみこころがはっきりと表されました。「神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(34~36)

7/21 「御国と家庭」 コロサイ人への手紙3章18節~4章1節 小林泰輔師

  •  ここには“良い家庭”の姿があります。良い家庭は一人一人が主イエスに従うことで築かれるものです。「御心の天になるごとく」この家庭にも成させたまえと
  • 求めていくものです。前の箇所で学んだように、新しくされ、キリストを身に着せられ、愛を身に帯びる者として、成長し、訓練される場所が家庭なのではない」でしょうか。またそれはすべての人間関係の基礎を学ぶことでもあります。
     夫も、妻も、子どもも、父(親)も、しもべも(奴隷も家族の一員)、主人も、みなそれぞれが主に結ばれていることが大前提です。「主にある者にふさわしく」(18)、「主に喜ばれる」(20)、「主を恐れつつ」(21)、「主に対してするように」(22)、「主キリストに仕え」(24)と、すべての人間関係において彼と
  • 我との間に主を置くことが大切なポイントです。
     夫婦は互いに尊敬し合い、仕え合うことです。尊敬は獲得するものではなく、尊敬は与え合う贈り物です。尊敬に値する夫だから従うのではなく、
  • 尊敬に値する妻だから愛するのではなく、自分から主体的に尊敬を贈り物としてささげるのです。そのようにして夫婦が、親子が、愛し合うときに、
  • 天の父が栄光を受けられます。
     また子は親に従うべきであり、親は子どもを「十分な威厳をもって…従わせる」(Ⅰテモテ3:4)べきですが、親の権威もまた神から授けられ、家庭の成員から
  • 賦与されるものです。主イエスは良い羊飼いとして人々に仕え、尊敬を持って接し、人々を愛されたので多くのフォロワーによって権威が認められました。
     現代日本に奴隷はいませんが、今や私たちは神のしもべとして家族に仕え、隣人に仕えるものです。主にあって愛を注がれ満たされて、互いに尊敬し、
  • 愛し合うことで、御父の栄光を表し、神をあがめましょう。

7/14「弱いときにこそ輝く宝」 コリント人への手紙第二4章6~15節 森田学師

  •  私たちは生きるときに、弱さをおぼえます。精神的にも、肉体的にも。でも、自分が弱いことを責めないでください。自分に対しても、相手に対してもです。そうではなく、自分の弱さを認めることが大切です。
     聖書は語ります。とてもたくさんの苦しみにあってきたパウロを通して証ししてくれています。私たちは弱い土の器であることを。 7節『私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるためです。』とあります。
     “イエスさまの救い、イエスさまのすばらしさ”とも言える宝を、私たちは持っているのです。そして、この宝が最も輝くときがあります。それは、私たちが弱いときです。ですから、弱くて脆く壊れやすい土の器で大丈夫なのです。
     勘違いしないでください。弱さを責めるとは神さまは言ってはいません。弱いことがだめだと誰が責めるのですか?
     危険なのは弱さを否定することです。否定すると自分の弱さしか見えなくなります。否定して自分が強いとなると、自分の力が輝いて、イエス様の輝きが見えなくなります。否定して開き直ると、弱さを理由に間違ったこと、罪を堂々と犯すということになりかねません。否定すると悪魔の罠にはまっていきます。
     私たちは弱くて、土の器にすぎないですが、その弱さを通して、測り知れない力の主が、私たちのうちで偉大な働きをなしてくださるのです。12章に『わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』とある通りです。
     そして、弱さを認めるとき、10節『私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。』と、イエス様が十字架で私たち一人ひとりの罪を背負って死なれた、贖いの死によって、いまの私たちはあるのだ。ああ、イエス様無しには生きることが出来ない。そのように気づかされていくのです。
     さらに、15節『…恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。』のみことばのとおりに、私たちの宝が、私たちの弱さを通して、輝きを放ち、多くの人に神様の栄光があらわされるように。そのように私たちを聖霊が用いてくださいます。

7/7 「主に感謝せよ」 コロサイ人への手紙3章12~17節 小林泰輔師

  •  士師サムエルはペリシテ人を退けたときに記念の塚を立て、「主がここまで助けてくださった」と感謝しつつそれをエベン・エゼル(助けの石の意)と名付けました。私たちも神の助けによって今日あることを覚え、この礼拝を記念の塚としたいと思います。
    しかし、95年の歴史と伝統に依って驕るのではなく、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(ピリピ3:13)行く私たちに必要なのは、今生きて共にいてくださる主の御声です。私たちのこれまでの歩みに対する自己評価とは全く関係なく、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」との父の御声によって支えられるものです。
     私たちが何者であるかについて(12節)。
    ①「選ばれた者」であると言います。「おめでとう、恵まれた方」。マリヤはイエスさまを身ごもり母となるという務めのために選ばれました。私たちも神さまの御用のために選ばれた者です。使命に生きるものです。
    ②「聖なる者」とされています。私たちの努力によって聖くなったのではなく、神によって善いわざのために取り分けられたということが「聖別」ということです。私たちは神さまにとって“とっておき”なのです。
    ③「愛されている者」です。選び、取り分けられたがゆえに、愛を注いでくださいます。ヨセフが愛された子どもであるしるしに袖付きの長服を着せられたように、私たちも愛された子どものしるしが着せられます。それはイエス・キリストの姿形によって仕立てられたものです。それを着せられるとき、私たちは主イエスのように、深い慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐を身につけます。そしてそれらを用いるのに最後に愛を加えます。
     感謝の心をもって、神の子どもとされたことを喜び、共に主を礼拝しましょう。そして召された私たちは、キリストのからだなる教会として、これからも「互いに」愛し合いながら歩みましょう。また、すべてのことをイエスの御名のために行い、歩んで参ります。

6/30 「語り続ける弟子たち」(『成長』より) 使徒の働き5章15~42節 小林泰輔師

  • 聖霊に満たされたペテロたちは、みことばを語り続けました。また人々は使徒たちの周りに集まり、病気が癒されたり、不思議な奇跡もありました。神さまの栄光が表され、人々が喜んでいるのに、祭司長やサドカイ人たちは面白くありません。ねたみにかられて使徒たちを捕らえにかかります。
    しかし捕らえられても使徒たちには主がともにいてくださいます。主の使いが牢の戸を開け逃がしてくれました。そのとき「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」という主のことばがありました。捕らえられた現場にもう一度戻りなさいということですが、聖霊に満たされたペテロたちは恐れません。再び宮に入り、イエスさまのことを教え始めました。
    使徒たちを裁くために牢屋に行くとそこはもぬけの殻です。鍵もかかっていて、見張りもいたのに、使徒たちはいなくなっていたのです。そこへ使徒たちがまた宮で教えているという知らせが来ました。そこでもう一度捕らえに行き、尋問を始めました。イエスのことを語ってはいけないと言われても使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです」と答えました。いよいよ議会の人たちは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人の提案によって、助けられました。使徒たちの語るようにイエスが救い主なのかどうか、もしにせキリストなら神が裁かれるだろうと言うので、その意見に皆従いました。使徒たちは、むちを打たれた上で釈放されましたが、イエスさまのお役に立てるならと、むち打たれたことさえ喜びました。また、二度とイエスのことを教えてはならないと戒められましたが、人の言葉に従うのでなく、神さまの命令に従って、イエスさまが救い主であることを語り続けました。「そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった」(5:42)

6/23「古い人を脱ぎ捨てよ」 コロサイ人への手紙3章1~14節 小林泰輔師 

  •  「上にあるものを求めなさい」(3)とは、天の御国の在りようを求め、“御心の天になるごとく地にも成させたまえ”とすることでしょう。この地にあって“イエスならどうされるか?(WWJD)”と生きていくことです。それは人生の目的の大変化であり、暗やみから光へ救われたことの証しです。
     その上で、地においては戦いがあることを覚えさせられます。「肉」(2:18,23)、「地にあるからだの部分」(5) 、「古い人」(9)はいつでも顔を覗かせ誘惑してくるのです。それらは古いものであり、脱ぎ捨てるべきものなのですが、悪しき愛着とでも言いましょうか、ボロボロの罪の衣服を出してはそれを着てしまうのです。けれども、もはやそれは神の子たる私たちには似つかわしくないものなので、脱ぎ捨てるべきものなのです。
     パウロは、新しくされた者に古い罪の性質が誘惑してくることをほぼすべての手紙の中で取り扱っています。そして、その罪に戻り、再び闇の中を歩き続ける者には、神の御国を受け継ぐ資格がないことも厳しく語っています。古い人の持つ罪として、コロサイ書では性的な罪を取り上げます。そしてそれらの大元は「貪欲」であることを鋭く指摘しています。偶像礼拝者を象徴するのは「貪欲」です(5)。しかし、パウロは他の手紙同様ここでも改めて「あなたがたも以前は」(7)と(Ⅰテモテ1:13「私も以前は」)、罪の奴隷であったのは過ぎたことで、キリストの力により救われた「今」(8)を強調します。対人関係の罪は言葉になって表れますが、その大元は「怒り」です。それらもすべて古い人として脱ぎ捨てるべきものです。
    そうして、キリストの似姿にかたどられた「新しい人」を着るのです(10)。これはイエスの型紙で作られた衣服のようなものですが、その衣服がぶかぶかでも私たちの方が成長させられて、神のかたちを回復していくのです。「愛の帯」(14)を締めて、光の子どもらしく歩みましょう。

6/16「心に刻まれる律法」 コロサイ2章16節~3章4節 小林泰輔師

  •  先週、ペンテコステと七週の祭りについて触れられましたが、七週の祭りは律法の授与を記念する日でもあります。その五旬節の日に聖霊がくだり、新しい契約―心に律法が刻まれる(エレミヤ31:31-34)―が成就したのです。
  •  律法は「来るべきものの影であって、本体はキリストにあります」(2:17)。そしてキリストは来られたのです。イエス・キリストによって律法は完成しました。動物のいけにえによって表されていた罪の贖いは、ただ一度のキリストの犠牲により成就したのです。旧約の儀式律法はキリストの贖いを指し示していたのです。律法を守ることで自分の救いが成し遂げられるというのは律法主義です。クリスチャン生活にも律法主義が入り込むことがあります。それで裁き合うこともあるかもしれませんが、それは正しい姿ではありません。しかし、それと同程度に誤った行き方は、無律法主義と言われるものです。新約の時代にあって律法はすべて無用となったのだとする考え方です。律法の中に表された神の基準は変わることはありません。道徳律法と呼ばれるもの(例えば十戒)は今も私たちの最高規範です。私たちは生まれながらに自律的・自由な者として造られたのではなく、神に従うべき者として造られたのです。ですから、神を恐れて、神の御心に従わなければならないのです。
  •  新しい契約の時代、聖霊の時代には律法のある部分においては役割が終わりました。それは儀式律法と政治律法です。これらは旧約時代の必要に応じて定められた律法です。ですから今は何を食べて良いかを気にする必要はありません(マルコ7:19)。どの日を守るとか破るとかいうこともありません。安息日は七日ごとの主日(日曜)に、よみがえりの主を記念して私たちも聖別します。
  •  そのためにみことばが私たちの心に刻まれ、聖霊が心に注がれました。私の中で神が生きておられ、御心のうちを歩ませてくださるのです(ガラテヤ2:20)。

6/9「もう一人の助け主」 ヨハネの福音書14章15~24節 森田学師

  •  ペンテコステ(五旬節・七週の祭り)は、聖霊が降られた記念として降誕節、復活節と並んでとても大切です。
     聖霊は「もう一人の助け主」です。一人目の助け主はイエス・キリストです。イエス様と同じく聖霊も人格を持ち、私たちを導き、慰め、励まし、助け、とりなしてくださるお方です。イエス様が語られたすべてのことを思い起こさせ、イエス・キリストについて証ししてくださいます。聖霊は、私たちが罪人であることと、イエス様が救い主であることを、私たちの心に語りかけてくださいます。私たちは聖霊によってイエス様が私の救い主ですと告白することができるのです。
     この聖霊は私たちのうちに住んでくださるのです。もう一人の助け主、聖霊を遣わすよ。あなたを見捨てない、孤児にはしないよ。と言われるイエス様の約束通りです。そればかりでなく、「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と聖霊だけでなく、父、御子、御霊の三つで一つのお方が私たちのうちにいてくださるというのです。三位一体の愛の交わりが私たちのうちにあるのです。
     それでも、全く祈れず苦しむとき、誰にも理解されず誰にも相談できないとき、孤独の中で心を閉ざしていることがあるかもしれません。そのようなとき、もう一人の助け主が、私たちの心の奥深くにある思いを知ってくださり、祈ることもできない私たちの代わりにうめきを知って祈っていてくださいます。聖霊とはそのようなお方です。
     今、神様が私たちに求めていることが一つあります。それはみことばを守ることです。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」神様のみことばを無視ではなく、その愛にとどまる選ぶ者とさせていただきたいです。その愛の中で私たちは聖霊によって、神を知らずに深い闇の中で生きる隣人へ、神の愛を届ける者へと育まれていくのです。

6/2「父の愛」 ヨハネの福音書15章9~11節 小林泰輔師

  • 人間の父の愛と母の愛には違いがあると言われます。母の愛は無条件に受け入れる愛ですが、父の愛は条件つきの愛です。父の愛は子どもに期待し、要求します。そしてそれに子どもが応えるときに承認という形で愛を与えるのだそうです。
    神の愛は無条件の愛と承認の愛の両方を含んでいます。無条件に「高価で尊い」ものとして愛してくださる(イザヤ43:4)一方、「~するなら」祝福を受けられるという、承認条件のようなみことばも多くあります。
    父なる神の愛は、私たちに期待し、要求する愛です。子どもに何も期待しない父親は子どもを愛していると言えるでしょうか。ヘブル人への手紙12:5-8でそれは「懲らしめ」(2017版「訓練」)ということに表れています。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」(ヘブル12:6)。叱ったり、懲らしめたりすることは一時的に子どもに嫌われることになりますが、父が子どもの罪に向き合うことをしなければ、その子を滅びるままにさせておくのに等しいのです。
    私たちはイエスさまの十字架の贖いを信じ受け入れることで、神の子どもとされました。それは無条件の愛です。一度、神の子どもとされたのなら善い行いや正しい行いで神の子どもであることを証明する必要はありません。神の愛を受け身的に表すならそこまでですが、神の愛のより能動的な関係は、父の愛の期待に積極的に応えていくことではないでしょうか。父の戒めを守るときに私たちの心は本当に満たされるのです(ヨハネ15:9-11)。イエスさまは十字架にかかられる前、父がわたしを愛されたように…あなたがたも互いに愛し合いなさいと言われました。これがイエスさまの遺言(テスタメント)です。

5/26「ぶどう園のたとえ」マタイの福音書20章1~16節 小林泰輔師

  • イエスさまは天の御国についてぶどう園のたとえをもって話されました。
    ぶどう園にたくさんの収穫がありましたが、働き人が足りません。そこで主人は朝早く市場に出て行き、一日1デナリの約束で人を雇いました。それでもまだ人では足りません。朝の9時、正午、午後3時にも同じ様にして市場で声をかけ雇いました。主人は終業近くの午後5時にも市場に出かけて行きました。するとまだ市場に立っている人がいます。一日中何もしないでいたのか?と問うと、誰も雇ってくれないのですとその人は答えましたので、その人も雇ってやりました。
    午後の6時にその日の収穫を終え、給料の支払いをしました。一番遅く来た人から始めて、その人には1デナリを与えました。午後3時の人も、昼からの人も、朝からの人も。最後に一番朝早くから来た人の番です。時給に換算すれば前の人たちより多くもらえるはずだと期待しましたが、与えられたのは同じく1デナリでした。不公平に感じたこの人は主人に文句を言いました。しかし、主人は1デナリは約束通りで不正はしていないと。何時から働いた人でも同じくしてやりたいのだ、気前よく与えたいのだと答えました。
    このたとえ話のポイントは、「気前良さ」です。天の御国、神さまの統治においては、気前良く救ってやりたいと、神さまは考えておられるのです。早くから雇われた人たちは若さや力強さがあったのでしょう。雇ってもらえなかった人はそのような基準からあぶれた人かもしれません。天の御国の救いは人の能力や功績によらず、ただ神さまの気前良いあわれみによるのです。
    早くに救われた人も、遅くに救われた人も、教会生活の長さも奉仕の量も関係ないのです。また、ある意味では私たちは皆が午後5時からの働き人です。私たちに救いに値する功績など何もないのですから。ただただ主のあわれみに感謝し御名をたたえます。

5/19「根こそぎ変えられる」 コロサイ人への手紙2章6~15節 小林泰輔師

  •  主キリスト・イエスを信じて受け入れ、キリストにあって歩むなら、その人は根本から造り変えられます。
     「キリストにあって歩む」(6)とはどういうことかが7節により教えられます。
     ①「キリストのうちに根ざし」
    私たちの内に深く根を下ろし、そこに住んでくださる聖霊を求めましょう。それは同時にみことばが私たちの内に根付くということでもあります。そのために私たちが良い土壌であることを種まきのたとえから教えられます(マルコ4章)。良い土壌は柔らかく(みことばを素直に聴く)、深く掘り下げられ(真心からの悔い改め)、雑草がない(主のみに頼る)のです。
     ②「(キリストのうちに)建てられる」
    神は私たちをあらゆる面で成長させてくださいます。成長は変化でもあります。主の御手による介入と変化を受け入れなければ成長はありません。自分のスタイルが成長を阻害しているのであれば、根こそぎ引き抜いて「心の一新」によって主に変えていただくのです。
     ③「教えられたとおり信仰を堅くし」
    決して変えてはいけないものは教えられた真理です。みことばを身勝手な自己解釈などしてはいけません。教えられたとおりに信仰を堅くし、それを捨ててはいけません(箴言3:1-4)。
     ④「あふれるばかりに感謝しなさい」
    キリストのうちに根差し、キリストの似姿に成長し、信仰を堅く保つなら、心の根本から造り変えられて、喜びと賛美と感謝があふれるようになります。そのあふれるままに喜んで神を礼拝し、献げ、仕えます。
     キリストにある神のご性質と、復活の神の力は、私たちのうちにも満ちていて(9,10)、私たちを新しくします。罪と律法の責めは十字架にともに釘付けにされました(14)。「私たちはキリストとともによみがえらされたのです」(12)。ハレルヤ!

5/12「こころの満たし」 マタイの福音書5章3節 森田学師

  •  マタイの5章から始まり7章の終わりまで続くイエス様の山上の説教では、そばに近寄ってきた弟子たちだけではなく、たくさんの人がイエス様を慕ってお話を聞いています。開口一番イエス様は『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。』と言われました。心の貧しい者とは、霊において飢え渇いている人のことです。
     私たちの霊、それは、神様が下さるいのちの息(創世記)、あるいは神の下さる霊(伝道者の書)です。ですから、霊において、本来あるべき神の霊への飢え渇きに気づかされる人は幸いです。 その人は渇きを満たされ、その人のうちから天の御国=神様の統治がはじまるからです。
     今、神の霊(聖霊)に、飢え渇いているでしょうか。聖霊を求めないことは危険です。求めないと知らぬ間に“聖霊欠乏症”になってしまいます。言葉や態度だけでなく、心の奥底から本当に聖霊に飢え渇いているかと問われているようです。『御霊を消してはなりません』とも言われますが、ときには、自分の罪の深さにがっかりし、求めることを忘れてしまうことがあるかもしれません。しかし、そのようなときこそ自分の罪を認め、罪を言い表し、ますます聖霊を求めるものとさせていただきたいです。聖霊は私たちの求めに応じて必ず与えられます。
     『神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。私を あなたの御前から投げ捨てず あなたの聖なる御霊を 私から取り去らないでください。』この詩篇51:10,11は、大きな罪を犯したダビデが、預言者ナタンに罪を指摘され、その罪を認め、罪を悔い改めて、それから聖霊を求めているところであります。
     私たちの霊が飢え渇き、聖霊を求め満たされるとき、揺るがないものへと変えられ、神様の統治が私たちのうちからはじまり広がってゆく。その希望に歩む者へとされていきましょう。

5/5「休もう」 マタイの福音書11章28~30節 小林泰輔師

  •  イエスのおられる所は安らぎに満ちていたのではないでしょうか。人々は安らぎを求めてイエスのまわりに集まりました。当時のユダヤの民はローマ帝国の圧政に苦しみ、疲れていました。ユダヤの宗教家たち(祭司、律法学者等)はその苦しみをケアするのではなく、さらに律法主義(行為義認)の重いくびきを負わせていました。そのような背景にあって、イエスは「疲れた人」「重荷を負っている人」を招かれ、「休もう」と声をかけられました。
     この世界が始まって以来、一番最初に「休もう」と言われたのは、ほかでもない主ご自身でした(創2:2,3)。そして後に律法の十戒において人間に休むことを命じました(出エジ20:8-11)。これは、第一に人の弱さをあわれみ、休息を与えてくださったことであり、第二に、このことを通して主のみことばへの従順を試すためでありました。
     イエスが、安息日に病人を癒し、弟子たちが空腹を満たすために収穫したことを許容されたのは、律法の本質が愛とあわれみだからです。そして「律法主義」の重いくびきではなく、イエスとともに担うくびきを負って神に従い歩むことを勧められたのです(決して律法を廃棄したのではありません)。主の許で本当の安息を得るのなら、心が満たされ、感謝と喜びにあふれて主のみこころを行うことができます。安息から奉仕に遣わされていくのです。

4/28「キリストとクリスチャン」 ヨハネの福音書21章1~19節 エミリー・チョウ宣教師

  •  ヨハネ福音書の21章は、ヨハネの福音書の番外編のようなものだと考えられます。福音書本編の中心は主人公であるイエスさまの生涯と彼の復活です。漫画やドラマと同じように、番外編では人気キャラクター同士の面白いやりとりが描かれています。そのやりとりを通じて、物語本編の内容を読者に思い出させます。よみがえられたイエスさまとペテロの再会シーンでは、二人が出会った時の出来事を思い出すでしょう。数年前、ガリラヤ湖で漁師として暮らしていたペテロが、イエスさまの呼びかけに答えて、弟子となりました。そして同じガリラヤ湖で、将来人間をとる漁師になるという使命をイエスさまから与えられました。
     みなさんはどうでしょうか?自分が初めてイエスさまを主として受け入れた時のことを覚えていますか。自分の人生に対する神さまのご計画について祈り求めたことを覚えていますか。信仰の歩みの中で自分の失敗や過ちを許せなくなってしまったとき、イエスさまから励まされた経験を覚えていますか?

    ヨハネの福音書21書19節はイエスさまがペテロに言われたことです。
  • 「わたしに従いなさい」
  • 主は私達にも呼びかけています。

4/21 「三日目の復活」 ヨハネの福音書20章1~10節 小林泰輔師

  •  夜が明けて新しい朝、主はよみがえられました。十字架の贖いを成し遂げられて、すべてが新しくなりました。世界の再創造の始まりです。
    イエスさまは十字架の死から三日目によみがえられましたが、そのことを予告しておられました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、
  • 三日でそれを建てよう」(ヨハ2:19)。空の墓を見て、何が起きたのか理解できなかった(20:9)弟子たちも、この言葉を思い起こした時に「聖書とイエスが
  • 言われたことばとを信じた」のです(2:22)。
     この予告は宮きよめのときに話されたことでした。神殿が金儲けの場所になっているというのは堕落した世の中の象徴のようです。神の御住まいで
  • あるはずの世界は、人々の罪と欲にまみれています。神が創造された天と地は「それは非常に良かった」(創1:31)のですが、堕落によってその
  • 美しい世界は失われ破壊されてしまったのです。それを主イエスは建て直してくださるのです。三日目によみがえられたことによってそのことを
  • 思い起こさせてくださいました。
     主イエスの復活は、わたしたちのいのちが死で終わるものではなく、主イエスを信じる者には永遠に続くいのちであることを確信させるものです。
  • しかし、それだけでなく、真の主、王の王であり、やがて来られる方が治める、新しい御国を建て上げる再創造の始まりであります。
  •  「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ5:17)。
  • 古い罪の生き方に死に、主とともに新しく御国を建て上げ、御国の到来を宣べ伝える使命に生かされて参りましょう。

4/14「苦しみの欠けを満たす」 コロサイ書1章24節~2章5節 小林泰輔師

  •  受難週は、イエスさまのエルサレム入城から始まりました。歓呼の声でメシア・キリストとして迎えられましたが、逮捕されると民の失望は「十字架につけろ」という叫びに変わりました。そうしてイエスさまは、罵られ、辱められ、十字架の痛みと苦しみを味わわれました。これは聖書の預言の成就でした。イザヤ書53章には、「苦難のしもべ」が描かれています。まさに十字架のイエスさまを指し示す箇所です。真のしもべは苦難を受けつつ世を救う者となるという、この預言と使命は、選びの民イスラエルの負うべき使命でした。しかし、イスラエルはその任務を全うしきれなかったので、ダビデの家に生まれたイエスさまが、真のイスラエル、苦難のしもべとして遣わされ、その任を全うされたのです。キリストの「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテロ2:24)とある通り、私たちの罪は贖われ癒やされたのです。
     今や、この苦難のしもべはキリストのからだである教会の使命となりました。キリスト者は自分の十字架を負ってイエスさまに従い行く者です。それゆえ、パウロは自分が苦難の中にあることを喜んでいます。それは神の使命に生きていることを表すからです。神さまのために、この世を救うために、神のしもべとして負うべきキリストの苦しみがあり、それを十分に負いきれていないという自覚から「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(24)という表現になったのです。
     私たちの神のしもべとして、キリストのからだなる教会で仕え、自分の十字架を負ってイエスさまとともに歩んで参りましょう。私たちの労苦と苦闘への信仰の報酬は人々のたましいの救いの喜びです。

4/7「向きを変えて」 マタイの福音書18章1~10節 小林泰輔師

  •  2019年度の初めであり、受難節です。新標語「心の一新」をおぼえつつ、このところから「悔い改め」について教えられたいと願います。「悔い改め」とは何か、それは「向きを変えること」です。3節のみことばは2017年版では「向きを変えて」となっていますが、前の版では「悔い改めて」となっています。
     弟子たちはイエスさまに質問しました。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」(1)。後の20章にもヤコブとヨハネを右大臣・左大臣のようにしてくださいなどというお願いも出てくるように、弟子たちの関心事が何であったかが見え透いている言葉です。能力主義による出世競争などは「この世の調子」の最たるものです。そんな弟子たちにイエスさまは「向きを変えなさい」と言われたのです。そして一番偉いのは子どもだと言われました。それは能力主義からいくと最もあり得ない答えでした。無能な子どもを引き合いに出すことで、弟子たちのこの世の考えを一蹴されたのです。子どもは自分が親の庇護なしには生きていけないことを知っていますので、全面的に親に依存します。そのように、すがるように熱心に神を求める者こそが、最も神に喜ばれる者だというのです。
     自分の力に頼って生きる行き方をやめ、神に立ち返って、御顔を仰ぎ見て生きる者は、心のきよい者です(マタイ5:8)。また、神の子どもとして父の愛を一身に受けて満たされるならば、他者を愛し受け入れることができる者に変えられます。小さい者のつまずきにならず、むしろ受け入れ、愛し、支え、建て上げる者へと変えられます。平和をつくる者になるのです(5:9)。そのためにこそ神に向きを変えて、悔い改めましょう。

3/31「三つの軛」申命記6章1~9節 エミリー・チョウ宣教師

  •  新約聖書の中でイエスさまが語られた第一の戒めは、ユダヤ人にとってシェマーという申命記6:4-9の箇所です。ユダヤ教では神さまとの契約を中心としているので、この箇所は神さまとの関係を毎日確認するため朝夕復唱されます。契約の対象であるその人が主の命令を守るならば、神さまからの祝福が受けられます。なのでこの箇所はユダヤ教のラビたちに「天国への軛」と呼ばれるようになりました。
     シェマーにはもう一つの箇所があります。申命記11:13-20です。ここのシェマーによると、ただ祝福のためだけに神さまに従うのではなく、守らなければ滅びるという恐れがあるのです。だからこの箇所はラビたちに「戒めの軛」と呼ばれています。
     同じ戒めを教えているイエスさまの、彼の軛とラビたちの軛を比べると違いがあります。「軛」という言葉から、奴隷、重荷、苦しみなどがイメージされているとしても、地上のすべてのものがそうであるように、イエス・キリストによってすべては造り変えられます。「わたしのくびき」と言われるイエスのくびきは、私たちの罪のために十字架で死なれ復活したイエスさまの愛と、その愛に応えたいという思いである神への愛と組み合わせるものです。キリストと共に歩む私たちは、自分の生活を通して具体的に真理を体験できます。神さまは赦しを与え、そして恵みと導きを与え、私たちを日々変え、成長させてくださいます。

3/24 「イエスさまに従う」(『成長』より)  マタイの福音書16章21~26節 小林泰輔師

  •  「叱られたペテロ」という題が教会学校教案『成長』ではつけられています。前の週のお話はどちらかというと「ほめられたペテロ」というような内容だったのですが、その後すぐ叱られているんですね。人々は人の子のことをなんだと思っているかと聞かれ、バプテスマのヨハネや、エリヤ、エレミヤといった偉大な預言者の名前があがるなか、ペテロは信仰をもって、「生ける神の御子キリストです」と答えました(16)。そしてあなたは幸いですとイエスさまはペテロに言いました。それは天の御父がペテロに教えられたことだからです。
     その後、イエスさまはご自分がユダヤ人の長老、祭司長、律法学者たちから苦しめられ、殺され、三日目によみがえらなければならないという十字架の贖いと復活の御心を話されました。ところが、ペテロがイエスさまを脇にお連れし、いさめて、そんなことがあるはずありませんと否定しました。イエスさまを思う気持ちと、また、イエスさまをユダヤ人の解放者に仕立て上げたいという願望もあったことでしょう。そのような心を見透かされて、イエスさまはペテロを叱って言います。「下がれ。サタン。…あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23)。私たちも自分勝手な願望をイエスさまに押し付けていることがあるのではないでしょうか。自分の願いが神の御心にかなうものかどうかを、へりくだって吟味していかなければなりません。
     そして、イエスさまは言われました。「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(24)。自己中心的な自我に死んで天の父の御心を求めていくなら主は教えてくださいます。そうしてイエスさまに従って参りましょう。

3/17 「御子による和解」 コロサイ人への手紙1章15~23節 小林泰輔師

  •  この短い箇所のなかにはキリスト教信仰や世界観が凝縮されています。私の救いという個人的な事柄だけでなく、万物に至る宇宙的な広がりを持たせながら御子による救いについて語っています。また、万物の和解という言葉は、現在の世界を読み解く鍵でもあります。天と地が創られたとき、それは完全で美しくとても良かったと、創造主なる神は満足されました。けれどもアダムとエバの堕落により、罪が入り込み、世界の秩序は破壊され、被造物もまた元のかたちを失ってしまったのです。人の内側に生まれながらにある罪の性質により、この世は争いや差別や貧困が絶えないものとなりました。また、万物被造物も人に対して猛威をふるうようになり、天災により苦しめられるようになりました。また花粉症や原発事故などは人の罪が生み出した人災と呼べるものでもあるでしょう。
     御子と御父は同質であられ(15)、天地万物の創造は御子により、御子のために造られ(16)、また御子にあって保持されていること(17)、御子は教会のかしらで、死者の中から最初によみがえられた方(18)、御子の十字架の犠牲により神の怒りはなだめられ、和解させられたこと(20)など、御子イエスに集中して書かれています。
     そして、私たちはかつて神に敵対していた者であったのが、御子の犠牲により聖く、傷なく、非難されるところのない者とされました(22)。やがて私たちとともに万物は新しくされて、神の国が建てられるのです。これが福音です。この知らせは「天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられる」(23)べきものですから、布告の周知徹底が図られなければなりません。この福音信仰に堅く立って、希望を語り続けましょう。

3/10「心の一新」 ローマ人への手紙12章1~8節 小林泰輔師

  •  2019年度の標語は「心の一新」です。聖書新改訳2017では「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」と受身形で訳されているように、神さまが私たちを造り変えてくださるためのご介入を、心を明け渡して受け入れたいと思います。
     「この世と調子を合わせてはいけません。」「調子」という単語は「枠組みを持った計画」という意味です。「スキーム」という言葉がカタカナ英語として日常の中で使われることも珍しくありませんが、その語源です。この世のスキームと同調してはならないのです。この世の価値観という枠組みではなく、神の国の価値観でものを見て計画を立て歩んでいきます。
     そのためには、私たちの心の枠組みを変えていただく必要があります。そして、そのために私たちができることは、心を新しくすることです。「革新」とは革を新しくすると書きますが、古い革袋は伸びきって自由がありません。新しい革袋は柔らかく柔軟性があります。心を新たにするとは、私たちの心を柔らかくし、神の介入を受け入れ、変えられやすい者となることです。
     私たちは自分をとりまく状況を変えたいという思いと、しかし、なるべく自分のスタイルは変えたくないという自我があります。そして自分ではなく、相手を変えようとしてぶつかり合うことがあります。イエスさまは当時のパリサイ人をはじめとする、心の頑なな人に、神の力を受け入れ、変わることを求められました。神の力は復活の力です。古い生き方に死んで、新しい心に造り変えられて、イエスさまとともによみがえる、神の力によって新しいスキームに生かされて参りましょう。心を明け渡して、神のご介入を受け入れましょう。

3/3「あなたの居場所」 ヨハネの福音書14章1~4節 小林泰輔師

  •  ここにあなたの居場所があります。教会をあなたの居場所として、憩いの場所としてください。とある教会では席に名前のプレートがついていて、指定席になっているところもあるようですが、ここにはありません。しかし、あなたの席は用意されています。イエスさまがあなたを招き、あなたの場所を用意してくださるのです。
     そこは、神さまの御前です。恐れ多い、自分はふさわしくない、そういう思いがあるでしょうか。確かに私たちはそれぞれ、心に傷を持ち、闇を抱え、人には言えないような罪を持っています。すべての人の共通点は、神の前に罪を犯したということでもあります。しかし、それを承知で、それでも神さまは私たちを御前に引き寄せ、そこに居らせてくださるのです。
     旧約聖書にダビデという王がいます。ダビデが新しく王になったときに、前王室の者を捜しました。王室が変わったときに、禍根を残さぬために前王室の者を粛清することはよくあることでした。この時、前王サウルの子でダビデの親友ヨナタンの息子メフィボシェテが見つかりました。しかし、ダビデはこの生き残った青年を赦し、自分の家の食卓に招きました。そこに彼の居場所を作って、息子の一人のように迎えました。メフィボシェテは驚きました。幼い頃の事故により受傷し、足が萎えておりましたから、生かされても戦で功を立てて恩返しもできません。しかし、ダビデは親友ヨナタンとの約束に誠実であるがゆえにメフィボシェテを迎え入れ、養ったのです。
     私たちも神さまの前に、同じような思いであります。罪を犯し、神への敵対者であった私を赦して、神の子どもとして迎えてくださいました。それは、イエスさまの十字架の犠牲によることでした。この愛と恵みに感激する者です。「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)。ここに私の居場所があります。

2/23 「救いの神」(『成長』より)ルカの福音書2章1~12節 小林泰輔師

  •  イエスさまがお生まれになった時代の皇帝とシリア総督の名前が記されています(1,2節)。イエスさまが確かに歴史の中にお生まれになったことを証明して
  • います。
     イエスさまをお腹に宿したマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに来ていました。けれども、どこも宿屋はいっぱいで、泊まるところがありません。
  • ようやく見つけたところは家畜小屋でした。「宿屋には彼らの居場所がなかったからである」(7節)イエスさまは居場所のないところに生まれてください
  • ました。
     また、救い主の降誕の最初の知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは職業の性質上、礼拝からも除外されていた人たちでした。居場所のない者
  • たちのところに、喜ばしい知らせが告げられたのです。イエスさまはその生涯において、取税人や遊女や罪人など、居場所のない人たちのところに出て行き
  • 救いの福音をお告げになられました。イエスさまの復活を最初に目撃したのも女性たちでした。イエスさまは居場所のないところに生まれましたが、
  • 居場所のない人たちの友となってくださり、インマヌエル(神が共におられる)と呼ばれるお方として、すべての人の居場所となってくださいました。
  •  この方により、私たちは赦されて、愛されていることを知り、ここに居ていいのだと認められ、生きていくことができるようにされたのです。
    罪のゆえに神のみそばを離れ、居場所を失った私たちを、もう一度、みそばに引き寄せるために生まれてきてくださいました。そして、十字架の贖いに
  • より私たちを罪と死から救い出してくださいました。この方を主キリストと信じて告白し、いつまでもみそばにお従いして参りましょう。
    「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

2/16 「低くなられたキリスト」 ピリピ1章27節~2章11節 小林泰輔師

  •  2018年を表す漢字は「災」だそうですが、私たちは「災い転じて福音となす」神さまの恵みを知っています。何が福音(良い知らせ)なのでしょうか。苦難や病気や貧しさなどの災いがなくなることではありません。そのような困難な状況の中にあって「霊を一つにして堅く立ち」「心を一つにしてともに戦う」仲間がいること、教会があること、これが福音なのです。反対者たちからの迫害を受けるとき、それはむしろ教会にとって救いのしるしとなるとあります(1:28)。迫害によって教会の愛が練り清められ、信仰の成長と救いの達成に近づくからです。
     パウロはピリピの教会に「私の喜びを満たしてください」と願います(2:1,2)。困難な状況にある兄弟姉妹が教会において、互いに愛し合い、助け合う姿を見せてください、それらを通して信仰の成長を見せてくださいと願っているのです。これは主イエスの願っておられることです。教会がこの地にあって福音に生きる姿を見たい、御心が天で行われるように、地でも行われるさまを見たい、そう願っておられるのです。
     神である方が、低くなられ人となって来られたのがイエスさまです。「人間と同じようになられ」た(2:7)イエスさまこそ、真の人となられた方です。人は、神と同じように“神のかたち”に創られましたが、堕落により罪が入り、神のかたちを失いました。イエスさまは第二のアダムとして来られ、真の人の生き方を示してくださいました。すなわち、自分を捨てて他者のために生き、神の栄光を表す生き方です。この人を見よ!
     人の罪は「自分病」のようなもので、幸福を求め自分が快が不快かに一喜一憂するものです。最善の治療法はキリストのように生きることです。それが幸福への近道です。私たちは今や御霊により「他の人のことも顧み」ることができるようになりました。真の人となられた、信仰の創始者で完成者なるイエスさまを見上げて歩みましょう。

2/10「キリスト者の生活」 ピリピ人への手紙4章1~20節 小林泰輔師

  •  この箇所から、キリスト者の生活として、①喜び(賛美)、②感謝と祈り、③行いについて教えられます。前章の最後に天の御国に思いを向けた後、「そういうわけですから、…主にあってしっかりと立ってください」(1)と、パウロは現実に目を向けるようにうながしています。天国の民として、地上の生活を見直していくのです。
     第一に、喜びの賛美を日々ささげているでしょうか。主がともにいてくださることを日々、喜び賛美することができます。賛美の歌をもって、また祈りを通して。「主は近いのです」(5)とあるように、賛美のなかに主は住まわれます。その喜びと恵みにひたるとき、寛容な心が与えられ、人々に伝わっていきます。
     第二に、感謝と祈りを日々ささげているでしょうか。祈りと願いは私たちから神に向かうものですが、神さまから私たちに与えられる恵みについての感謝を忘れてはいけません。祈りは神さまとの交わりですが、交わりというのは双方向のものです。願い事ばかりでは一方通行になり、交わりとは呼べないものになります。賛美をささげ、感謝をもって祈り、また、そこにみことばに聴くことが加われば、それは礼拝となります。日々の生活における礼拝が大切です。そして神を礼拝することを通して、「人のすべての考えにまさる神の平安」が与えられ、心と思いが守られて、日々を歩むことができるのです。God be with you!
     第三に、日々の生活のなかで良いわざを行います。社会のなかでなされているすべての良い働きに目を向けているでしょうか。政治、経済、学問、芸術、教育、家庭、そのようなことに関心を持ち、責任をもっているでしょうか。キリスト者こそ、この世の良き管理者として選ばれた者ですから、すべてを聖書を通して神さまから教えられたとおりに行いましょう。主イエスさまはいつもあなたがたとともにおられます。

2/3「神のみもとに帰ろう」 ルカの福音書15章11~24節 内田和彦師

  •  これはイエスさまが話されたたとえ話であるが、神の愛と恵みのすべてが詰まっている話である。
     第一幕「家出した息子」―ある人に二人の息子があったが、その弟の方が父に財産の生前贈与を願い出た。これは父に対して侮辱にあたることでもあったが、それでも父は息子の言う通りにしてやった。それで、息子は父から遠く離れたところに住み、放蕩の限りを尽くした。ここに私たちの姿を見る。神から遠く離れるのはなぜか。それは自分の好きなように生きるためである。神を都合よく利用したいという思いはあるが、上に居て支配されるのは拒む。しかし、神なき歩みは挫折し行き詰まるのである。
     第二幕「我に返る」―試練に遭い、苦しみのどん底で気づきが与えられる。試練は己の限界を知り神のもとへ立ち返る機会となる。そのことのゆえに試練は悪いものではない。私たちも、神を無視して歩んできた人生を悔やみ、方向転換をして、父なる神のみもとに立ち返るのである。ただ上手くいかなかったから帰るのであれば虫のいい話だが、天に対して、父なる神に対して罪を犯したことを悟り、自分には赦してもらう必要があることを悟り、我に返ったのだ。
     第三幕「父に赦される」―弟息子は、我に返り、父のもとへ帰ることを行動に移した。長い道のりを物乞いをしながら家に向かって歩き続けた。すると父は通りに出て来ていて彼の帰りを待っていてくれた。みすぼらし姿を見つけて、走り寄り、抱きしめて喜んだ。これが神の愛であり、恵みである。神に受け容れられるにふさわしい聖い者だからではなく、ありのままのみにくい姿でも、神は受け容れてくださる。そして父が子に指環をはめさせ、子としてふさわしい姿にしたように、神も私たちを子として受け容れ、それにふさわしく聖いものとしてくださる。この恵みによる救いは、世で唯一であり、キリストのみわざによることである。

1/27「主は心を見る」 第一サムエル記16章1~13節 小林泰輔師

  •  サウル王は罪を犯したので、イスラエルには新しい王が必要でした。そこで神さまはサムエルをベツレヘム人エッサイのところに遣わされました。サムエルはエッサイの息子たちを見て、まず、エリアブに目をとめました。見栄えもよく、背丈も高く、王様にふさわしいように見えましたが、神さまが選んだのはエリアブではありませんでした。その場にいたほかの息子たちもそれぞれ見どころがありましたが、主が選んだ者ではありませんでした。その場にいない末の子ダビデこそが神さまが選ばれた器でした。ダビデも顔色も良く、生気に満ち、立派な姿をしていましたが、そのような見た目のゆえではなく、主はその心を見られて選ばれたのです。後に続くダビデの生涯を見ていくと、神さまを頼りとし神さまと共に歩んだ信仰の生涯を見ることができます。
     「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。神さまを心の中心に据えているかどうかが大事なのです。イエスさまが私を選んでくださったのは、うわべを見られてのことではなく、心のきよさや信心深さのゆえにでもなく、ただ一方的な神の愛と恵みのゆえでした。この神さまからの召しに応えて、神さまを心の中心に迎えて、主とともに歩む生涯を歩ませていただきましょう。そのような者に神さまは油を注いでくださり、用いてくださいます。(ヨハネ15:16)

1/20 「一心に走り続ける」  ピリピ人への手紙3章12~21節 小林泰輔師

私たちは、パウロと共に追い求める者であります。歩みを止めるのではなく、手を、足を、前に運び続ける者です。洗礼を受けて神の国に行く切符を手に入れたら終わりではありません。時は流れ続け、神の御国のご計画は前に進み続けます。天の御国はすでにこの地に侵入して来ています。私たちはその現実のなかで生き、神の国のために働き、歩を速めて前に向かって走り続けるのです(13)。パウロが追い求めていたものは御国の完成でした。御国を受け継ぐことを賞として、目標を目ざして走っていたのです(14)。
 私たちはやがて、からだのよみがえりを経て新天新地を迎えます。主が来てくださるのです(20)。そして、それまでの地上の働きは何かのかたちで新天新地に表されることが期待できます。パウロはそれゆえに、からだのよみがえりの希望を語ったのちに「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」と語りました(Ⅰコリ15:58)。天国行きが決まれば何もしないで待つだけ、という考え違いがあるならば、それを改めましょう(15)。神は、私のために、私を救われただけでなく、私を通して世を救うために、私を選ばれたのです。
 「十字架の敵」(18)は教会の内外にいます。異教徒、にせ教師、律法主義者たちです。彼らの共通点は、神によって変えられることを拒み自分のスタイルを貫き通そうとすることです。自分の欲望を神とすることが偶像崇拝ですが、彼らは快楽や自己顕示欲を神としているのです。私たちのうちにも残る罪の性質により、自分のうちにある偶像崇拝との闘いは続きます。「地上のことだけ」のマインドを、神によって砕かれ、変えられることを求め、受け入れましょう。そうして神の国の市民として、ふさわしい歩みをしましょう。神の国のマインドをもって、御心が天で行われるように地でも、と祈りつつ、歩んで参りましょう。

1/13「神から与えられる義」 ピリピ人への手紙3章1~11節 小林泰輔師

  • 「神から与えられる義」とは、ここでは法廷の言葉のように、罪がないという立場のことを指しています。私たちは生まれながらに罪人でしたが、十字架の贖いによってそれが赦されて、罪がない者とされました。罪人から前科者になったのではなく、罪人から神の子どもとされたのです。これが救いの喜びです。
    パウロは「主にあって喜びなさい」とここでも繰り返し命じています(1)。救いの喜びを奪い去る力が迫っていたからです。「犬ども」(異教徒)、「悪い働き人」(にせ教師)、「肉だけの割礼者」(ユダヤ教からの迫害者)と、教会の内外からそれらは迫ってきていたのです(2)。しかし、キリスト者は真の神を御霊によって礼拝し、自分を誇るのではなくキリストを誇り、肉の割礼を頼みとせず、心の割礼(聖霊)によって歩む者です(3)。パウロ自身がかつての自分がいかに肉を頼みとしていたかを語り(4~6)、それらがちりあくたに過ぎないことを気づかされた体験を語っています。パウロが捨てたものとは何でしょうか。それはエリートとしての出世コースとかではなく、律法によって自分の義を立てる生き方をパウロはちりあくたのように捨てたのです(8)。
    代わりにパウロが得たのは、キリストの信実によって与えられる義でありました。主はご自身の契約に対して誠実であられ、イスラエルを贖うという約束を御子イエスさまによって成就されました。死に至るまで父なる神に従われた御子の信実によって、十字架の贖いは成し遂げられ、イスラエルも私たちも救われて、神からの義を与えられたのです(9)。「復活の力」は私たちを変えるのに不可能はない力です。「キリストの死と同じ状態」(10)にし、自我に死に、十字架を負って主に従う者と変えられる力です(聖化)。そうしてやがてよみがえりの主と同じ栄光のからだが与えられ(栄化)、御国を受け継ぐその日を待ち望むのです(11)。

1/6「雪よりも白く」 詩篇51篇1~13節 小林泰輔師

  • この詩篇には、ダビデがバテ・シェバと姦通し罪を犯したことを預言者ナタンに指摘されたときの告白や祈りなどが表されています。このところから、私たちも、罪と悔い改めについて考えたいと思います。
    神さまは私たちを深く愛していてくださり、ご自分の子としてくださる方です。だからこそ、私たちが罪を犯すのを見過ごすことができないので、懲らしめることをなさいます(ヘブ12:6)。私たちも神さまが罪を指摘されるのを受け止めなければなりません。ダビデが特別罪深いわけではなく、これは私たちの問題でもあるのです。聖書は憚ることなく「すべての人は罪を犯した」(ロマ3:23)と言います。
    聖書が言う罪とは刑法に触れるようなことはもちろんのこと、それだけでなく、罪を犯し得る心の在りようそのものを「罪」と呼びます。神さまを無視して自分勝手に生きることがすべての根本(「原罪」)なのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ダビデが「私は咎ある者として生まれ」たと言うように、私たちは罪の性質を生まれ持っているのです。
    「罪滅ぼし」と言いますが、私たちは自分の犯した罪を幾ばくかの良い行いで帳消しにすることはできません。ただキリストの十字架の血による犠牲によってのみ、私たちの罪は滅ぼされるのです。
    私たちが原罪のままに神さまを無視して生き続けることによって、神の御子イエスさまを十字架につけてしまいました。実に十字架は私の罪のゆえでした。私の手は血塗られた手なのです。ヒソプをもって私の罪を除いてくださいとダビデとともに告白し祈ります。そうすれば、小羊イエスの血によって罪は洗われ、雪よりも白くされるのです。どんな罪も汚れもきれいに洗われ、白くされ、赦されるのです。「わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザ1:18)

12/30「いのちに輝け」 ピリピ人への手紙2章12~30節 小林泰輔師

  •  与えられたいのちにおいて、人生において、世の光として輝くためにはどうした良いのでしょうか。それは「いのちのことばをしっかり握って」(16)神さまに「つぶやかず、疑わずに」(14)従うことです。
    「自分の救いの達成に努めなさい」(14)とは、キリストの十字架による救いに不完全な部分があるという意味ではありません。救われた者が、神の御心に生きて喜び、輝くときに、神の救いのご計画が達成されたことを見ることができるという意味です。すでに救いは成し遂げられたのですが、それを目に見える形にするには、御心を行うことが大切なのです。
    私たちが世の光として輝くのは「彼らの間で」(16)です。それは「曲がった邪悪な世代の中」(15)のことです。そこに私たちは置かれているのです。そのただ中にあって「光を放て」(イザヤ60:1)と言われているのです。私たち一人一人はとても小さな光かもしれませんが、教会においてその光を束ねるならば、より大きな光になり、遠くまで広く照らすことができます。キリストの愛の光に照らされて、教会の兄弟姉妹と互いに愛し合い、支え合い、祈り合い、ともに歩んでいくときに、その姿を通して神の栄光が表されるのです。
    二人の実例があげられます。テモテがその一人です。世の人々の誰もが自分のことだけしか考えないような中にあって、テモテは真実な心でピリピの教会の人々を思っていました。そうしてパウロとともにピリピ教会のために奉仕しているのです。
    もう一人はエパフロディトです。彼はパウロを見舞うために教会から派遣されましたが、道中病気になり、かえってパウロの世話になってしまったのです。しかし、命の危険を冒してまでパウロを訪問したその姿の内に、主イエスの愛の光が輝いてい見えます。私たちの教会ももそのような愛のわざを行い、世の光とされたいと願います。

12/23「救いの神」(『成長』より) ルカの福音書2章1~12節 小林泰輔師

  •  イエスさまがお生まれになった時代の皇帝とシリア総督の名前が記されています(1,2節)。イエスさまが確かに歴史の中にお生まれになったことを証明しています。
     イエスさまをお腹に宿したマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに来ていました。けれども、どこも宿屋はいっぱいで、泊まるところがありません。ようやく見つけたところは家畜小屋でした。「宿屋には彼らの居場所がなかったからである」(7節)イエスさまは居場所のないところに生まれてくださいました。
     また、救い主の降誕の最初の知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは職業の性質上、礼拝からも除外されていた人たちでした。居場所のない者たちのところに、喜ばしい知らせが告げられたのです。イエスさまはその生涯において、取税人や遊女や罪人など、居場所のない人たちのところに出て行き救いの福音をお告げになられました。イエスさまの復活を最初に目撃したのも女性たちでした。イエスさまは居場所のないところに生まれましたが、居場所のない人たちの友となってくださり、インマヌエル(神が共におられる)と呼ばれるお方として、すべての人の居場所となってくださいました。この方により私たちは赦されて、愛されていることを知り、ここに居ていいのだと認められ、生きていくことができるようにされたのです。
     罪のゆえに神のみそばを離れ、居場所を失った私たちを、もう一度、みそばに引き寄せるために生まれてきてくださいました。そして、十字架の贖いにより私たちを罪と死から救い出してくださいました。この方を主キリストと信じて告白し、いつまでもみそばにお従いして参りましょう。
    「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

12/16「低くなられたキリスト」 ピリピ1章27節~2章11節 小林泰輔師

  •  2018年を表す漢字は「災」だそうですが、私たちは「災い転じて福音となす」神さまの恵みを知っています。何が福音(良い知らせ)なのでしょうか。苦難や病気や貧しさなどの災いがなくなることではありません。そのような困難な状況の中にあって「霊を一つにして堅く立ち」「心を一つにしてともに戦う」仲間がいること、教会があること、これが福音なのです。反対者たちからの迫害を受けるとき、それはむしろ教会にとって救いのしるしとなるとあります(1:28)。迫害によって教会の愛が練り清められ、信仰の成長と救いの達成に近づくからです。
     パウロはピリピの教会に「私の喜びを満たしてください」と願います(2:1,2)。困難な状況にある兄弟姉妹が教会において、互いに愛し合い、助け合う姿を見せてください、それらを通して信仰の成長を見せてくださいと願っているのです。これは主イエスの願っておられることです。教会がこの地にあって福音に生きる姿を見たい、御心が天で行われるように、地でも行われるさまを見たい、そう願っておられるのです。
     神である方が、低くなられ人となって来られたのがイエスさまです。「人間と同じようになられ」た(2:7)イエスさまこそ、真の人となられた方です。人は、神と同じように“神のかたち”に創られましたが、堕落により罪が入り、神のかたちを失いました。イエスさまは第二のアダムとして来られ、真の人の生き方を示してくださいました。すなわち、自分を捨てて他者のために生き、神の栄光を表す生き方です。この人を見よ!
     人の罪は「自分病」のようなもので、幸福を求め自分が快が不快かに一喜一憂するものです。最善の治療法はキリストのように生きることです。それが幸福への近道です。私たちは今や御霊により「他の人のことも顧み」ることができるようになりました。真の人となられた、信仰の創始者で完成者なるイエスさまを見上げて歩みましょう。

12/9「切なる祈りと願い」 ピリピ人への手紙1章12~26節 小林泰輔師

  •  パウロの切なる祈りと願いとは、自分の身によってキリストがあがめられるようになることでした。そのためであれば、生かされても、死ぬことになってもどちらでも良いと、主に委ねきっていたのです。主の導かれるままに―Let it be―との信仰をパウロに見ます。
     受胎告知を受けたマリヤ(ルカ1:26~)は、思いもよらない神のご計画や、未婚で妊娠するということが周囲に与える影響や、罰せられる恐れなどで、にわかに受け止めきれない思いだったのではないでしょうか。けれども、親類のエリサベツ(不妊であった)に子が与えられたことが、奇跡のしるしとして御使いから語られ「神にとって不可能なことは一つもありません」との言葉を聞いたときに、待ち受ける困難はそのままに信仰をもってこの告知を受け止めました。信仰は神の言葉によって呼び覚まされるのです。そうしてマリヤは「おことばどおりこの身になりますように」―Let it be―と、主に委ねました。
     パウロは自分の「身に起こったこと」(1:12)が福音の前進に役立つことを喜びます。直近の出来事は投獄されたことですが、ダマスコ途上で主イエスに捕らえられて以来のすべての出来事が、主のご経綸により福音の前進に役立てられていることを喜ぶのです。私たちの経験も、たとえそれが困難な試練であっても、必ず福音の前進に役立つという確信を持つなら、私たちも―Let it be―と主に委ねることができます。
     生きようが死のうがどっちでもいいとは、投げやりになったのではなく、むしろキリストがあがめられ、人々がキリストを知ることにつながるならという強い願いに裏打ちされた信仰の告白なのです。私たちも、たとえ状況や環境が困難でも、自分の力で変えることのできないものだとしても、不可能なことはない神の力に信頼して、委ねて参りましょう。(ガラテヤ2:20)

12/2「愛は選択するもの」 ピリピ人への手紙1章1~11節 小林泰輔師

  •  ピリピ書はパウロが獄中で書いた手紙ですが、その特徴は「喜び」にあります。獄中でその後のことがわからない不安や恐れの中で、にもかかわらずパウロは喜んでいたのです。ピリピの教会がパウロの見舞いのためにエパフロディトを派遣したのですが、彼が病気になり、かえってパウロの世話を受けることになったため、パウロは彼を送り返すのにこの手紙を添えることにしました。しかし、そのピリピの信徒たちの愛の行動のゆえに、パウロは感謝の思いに満たされたのでした。その愛に表されたピリピの信徒たちの信仰の成長を見て、喜びに満たされたのでした。「コイノニア」とは交わりという意味ですが、ともに何かに与ることを意味しています。ピリピの教会は、パウロの宣教の働きのために、祈りとささげものとエパフロディトの派遣によって支援し、その働きに参与したのです。そうしてまたともに恵みに与ったのです。
     パウロの祈りは、さらに教会が愛において成長するようにということでした。愛は知識と識別力によて豊かになります。愛は大切なことを見分け、決断することを伴います。私たちが何かを選択するときには色々な判断をしています。損か得か、勝算があるか、ストーリーの背景や道理、コスト、それを回収できるか、リスクはどうかなどです。選択にはそういったデーターが必要です。それらが実証されているかはさらに重要です。そして一番確かな御霊の知識と識別力は「イエスに倣え」を唯一の勝利の道であると導きます。イエスの愛は十字架で実証されました。十字架に死に私たちを生かしてくださる主の愛に倣い、それを選択することが、私たちの喜びにつながるのです。

11/25「忠実な人」(『成長』より) ルツ記2章1~7節 小林泰輔師

  •  ルツとナオミは未亡人としてともにベツレヘムで暮らしていくことになりました。しかし、女性二人で生きていくのは大変です。ルツは、生活のために落ち穂拾いをしにでかけていきました。“落ち穂拾い”は神さまのあわれみによる律法でした。収穫の刈り入れのとき、こぼれ落ちたものは拾ってはならない、それは貧しい人や寄留者のために取っておかなければならなかったのです(レビ19:9,10)。そうして出かけていった所が、「はからずも」親類のボアズの畑だったのです。ボアズは、ルツのことを周りから聞いて知っていました。モアブ人でありながら、イスラエル人の義母に仕えて同じ神を信じていること(1:16)などを聞いて、感銘を受けていたのでしょう。ルツにとても親切にし保護しました。そして、他の畑に行かなくても良いと告げ、十分に食べられるように落ち穂を拾わせてあげました。家に帰ったルツは親切な畑の持ち主のことをナオミに話しました。すると、そのボアズはナオミの夫エリメレクの親類で、「買い戻しの権利」(レビ25章参照)を持つ人だったのです。
     私たちにとっては偶然のように思える出来事も、神さまの摂理の御手のうちにあっては必然だったのです。また、「買い戻し」とは「贖い」のことであって、ルツ記を見ると、神が私たちを贖ってくださるということがどういうことかが良く分かります。優しいボアズは行き場のないルツを買い戻し、そばに置き、妻として愛しました。ボアズの姿にイエスさまの姿を重ね合わせて見ることができます。罪の中から贖い出してくださり、キリストの花嫁として下さったことを心から感謝します。

11/18 「霊の戦い」 エペソ人への手紙6章10~20節 小林泰輔師

  •  エペソ書において、パウロは教会について語ってきました。それは、終わりの日、贖いの日のために、教会を整えるためでしたが、戦闘の前にラッパを
  • 鳴らすように、ここで、最後の戦いに備えよとのメッセージを聞きます。地上の教会は戦う教会です。その敵は血肉(人間や国々)ではありません。
  • 霊の戦いであるとパウロは語ります。
     霊的存在は三つあり、それは①神、②御使い、③人間です。中でも堕落した御使いが悪霊なのです。悪霊のかしらはサタンです。また、人類の敵は聖書では
  • ①罪、②死、③諸々の力(悪霊)と言っています。罪は主イエスの十字架によってすでに打ち砕かれました。死は最後の敵でありますが、それもやがて完全に
  • 滅ぼされると書かれています(Ⅰコリ15:26、黙示20:14)。日々直面する戦いにおける敵は、諸力としての罪です。罪は原罪として私たちの内にあるだけでなく、
  • 諸力として外側からも誘惑や攻撃をしてくるのです。
     しかし、私たちは主にあって(in Christ)大能の力に強められます(10)。神は戦いに勝利するに十分な武具を与えてくださいます。①腰は肉の要ですが、
  • 真理を私たちの中心に据えます②心臓(命)を守るのは正義に歩むことです③足もとを固めるには、神との平和をしっかり確立することです
  • ④火矢は思わぬところから放たれますが、それを守り打ち消すのは信仰の大盾です⑤頭(知性)を守るために、救われた者としてふさわしいことに知性を
  • 用います⑥みことばの剣によってサタンの誘惑に勝利します。それから祈りによって自身を整え、全軍のためにとりなしの祈りによって備えるのです。
  • 勝利はすでに約束されています(ヨハネ16:33)

11/11 「キリストと教会の奥義」 エペソ人への手紙5章21節-6章4節 小林泰輔師

  •  この箇所は、結婚論、家庭論のようでありながら実は教会論であります。キリストと教会の関係の奥義の中に夫婦の奥義があります。キリスト者は、キリストと教会の愛し従う関係を知っているので、良い夫婦とは何かを知っているとも言えます。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(21節)。これが教会論の肝です。それを説明するために格好の材料として夫婦や家庭を例に挙げているのです。
     妻は主に従うように夫に従いなさいとあります。これは男女論や優劣の問題ではなく、秩序の問題です。キリストがかしら(頭、トップ)で教会はからだです。かしらはからだに命令を出しますが、また当然、かしらはからだを労わります。互いの権利を主張し合っていては良い夫婦にはなれないように、教会の兄弟姉妹は自分を捨て、一致して、主に仕えるように互いに仕え合います。
     夫はキリストが教会を愛したように、妻を愛しなさいとあります。主イエスがどのように教会を愛されたかを思い起こしましょう。十字架に自分をささげて愛してくださいました。①言葉②時間③手助け④スキンシップ⑤プレゼントによって愛を伝えることができますが、相手の求める仕方で伝えるために苦手なことでも練習しましょう。また主イエスは花嫁を聖く整えてくださいました。夫が妻を愛するなら妻は聖く整えられて夫に喜んで従います。その麗しい関係は神の栄光を表します。
     キリストの教会の中に尊敬と服従と愛が正常に流れているなら、平和があり、愛が満ち、神の栄光が表されます。壊れた世界を愛で築き直すため主はあなたを遣わされます。御跡に従って歩みましょう。

11/4 「生き返った女の子」 ルカの福音書8章40-42,49-56節 小林泰輔師

  •  会堂管理者ヤイロの娘が病気で死にかけていたために、ヤイロ自身が主イエスのみもとに来て、ひれ伏して、自分の家に来て下さいと頼みました。主イエスは応じて下さり、ヤイロと共に少女のところに向かいますが、途中で長血を患う女性を癒す出来事があり、そうしている間にヤイロの娘が息を引き取ったという知らせが舞い込んできます。それでも主イエスはヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。そうすれば、娘は直ります」(50)と言われました。大勢の人が娘の死を泣き悲しんでいるところで、主は「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」と言われましたが、人々はそれをあざ笑いました。しかし、主が娘に「起きなさい」と声をかけられると、なんと娘は生き返ったのです。
  • ①ヤイロは、イエスさまならば娘の病気を直すことができると信じてみもとに来ました。私たちもイエスさまを頼って祈ることができます。
    ②祈りの答えがすぐに得られない時でも恐れないで神さまを信じ続けるならば、必ず祈りはきかれます。
    ③主イエスは死んだ人をも生き返らせることのできるお方です。「ただひとり大いなる不思議を行われる方」(詩篇136:4)に、不可能なことはありません。
  • 神さまを信じ、神さまに祈り続け、神さまから力を受けて歩んで参りましょう。

10/28 「約束の地で」 ヨシュア記14章、24章 小林泰輔師

  •  神さまがイスラエルに与えると約束して下さったカナンの地にやって来ました。ここまで来るまでに神さまは不思議な方法でイスラエルを助けて下さいました。ヨルダン川の流れをせき止めて下さったり、エリコの城壁を崩して下さったりと、いつもイスラエルと一緒にいて助けてくださったのです。
     カナンの地に入ってから、ヨシュアは土地を12部族で分けようと提案しました。それぞれの部族のリーダーがくじを引いて土地が割り当てられていきました。カレブは85歳になっていましたが、強い敵のいるアナク人が住む地域をあえて選んで出て行きました。神さまを信じていれば勝てるという信仰があったのでしょう。そうしてアナク人に買ってヘブロンに住みました。
     ヨシュアがおじいさんになったとき、イスラエルの人たちを集めて言いました。イスラエルを救ってくださった神さまをいつまでも信じるかと。民は信じますと答えました。そしてヨシュアは「私と私の家とは主に仕える」(24章15節)と言って、記念に大きな石を立てて信仰告白のしるしとしました。
     私たちも、イスラエルを救い出し、私たちを罪から救い出してくださった神さま、御子イエスさまを信じて、その信仰を子どもや孫や、そのまた孫の孫まで信仰を継承していきましょう。

10/21 「幸福の方程式」 使徒の働き20章17~35節 エミリー・チョウ宣教師

  • 「受けるよりも与える方が、幸いである。」教会の2018年度の年間聖句の箇所です。方程式の「x,y,z」を用いて説明しましょう。
    【X=キリスト】Xはギリシャ語の「キリスト」の頭文字です。パウロはイエス様が語られた言葉を大事にしていました。イエス・キリストは頭であり、
  • イエス様に従いたいというモチベーションをもって御言葉を受け取ると、力が与えられ、それが霊的成長に繋がり、神さまが用意された真の人生の祝福を
  • 受け取ることができます。
    【Y=なぜ(Why)】Y―英語の発音では「なぜ(Why)」と同じ―なぜ私たちも教会で集まった人に関心を持つべきなのでしょう。
  • 教会は、父なる神と御子イエスと聖霊と共に三位一体の働きによって成り立っている共同体だからです。聖霊の導き、あるいは賜物を受けるだけでも
  • 素晴らしいですが、さらにそれを他の人に与え、神さまのなさるみわざを伝えていくことが本当に祝福されることだと思います。
     【Z=絶対の真理】Z―日本語で読むと「絶対的な真理」を思い出します。「絶対」というのは完全に信頼できることです。パウロは聖書時代の人たちに、
  • 「受けるよりも与えるほうが本当に幸いであると、真理として受け取ってください」と教えました。現代の私たちは何が人生の幸せだと思っているでしょうか?
  • 何よりもキリストに従う人生こそが幸いであると信じますか?

10/14「神の物語」 マタイの福音書25章31~34節 小林泰輔師

  •  この世界はどこから始まり、どこに向かっているのか。これもまた普遍的な問いです。聖書にはその答えがあります。世界の始まりから終わりまでの神の物語(His story)が私たちの世界の歴史(History)なのです。
     今日の短い箇所の中に終わりと始まりのことが記されています。「人の子」は御子イエスのことですが、彼はやがて御使いを伴って来て、栄光の王座に着座されます(31)。その王座は裁きの座でもあります。すべての国の民が集められ、山羊の中から羊をより分けるように裁かれます。羊飼いであるイエスのことばに聴き従った者たちは羊として、主の右に置かれるのです(31,32)。そうして王は右にいる者たちに言われるのですが、この情景はナイト(騎士たち)が王の前に跪き、ナイトの称号とともに権威の剣を授けられるようなものです。私たちの称号は「父に祝福された人たち」です。世の初めから選ばれ分かたれていた者たち。その者たちが呼び集められ、御子イエスとともに御国を治める権威を与えられるのです(34)。
     そこから始まる新しい物語、それは今まで関係ないと思っていた私の物語と神の物語とが出会って、ひとつに結ばれ、紡がれていく、新世界の物語です。私たちはそのひと紡ぎの物語のただ中に置かれています。そこにおいて、聖書に記された過去の歴史は「前回までのあらすじ」、黙示に記された出来事は「次回予告」(断片的にしか見ることができない)のようなものです。聖書に示された新しい神の国のあり方とその民のあるべき姿を、主イエスの模範に従って歩んで参りましょう。

10/7「何のために生きるのか」 ミカ書6章8節 小林泰輔師

  •  「何のために生きるのか」とは普遍的な問いであり、それは「人はどこから来てどこへ行くのか」という風にも問われることがあります。存在の根源を問いつつそこから生きる意味を見出そうということでしょう。そこには前提として人は至高の存在(創造主)によって生み出されたものであるということがあります(もし人が進化論的偶然の産物ならこのような問いは全く無意味です)。
     あらゆる思想(宗教を含め)による答えは「幸せになるために生きる」ということにたどり着きます。そこで今度は「何が人にとって幸せなのか」という問いになっていきます。伝道者の書において、著者である「伝道者」(ソロモン王を指す)は幸せとは何か、およそ人が言いそうなことをすべて試してみます。労苦によって得たものを楽しみ、快楽を得ることに幸せを見出しますが、それは一過性のものでしかありませんでした。人の労苦に対する神からの賜物として一定の価値は認めつつ、やはり快楽を追い求めていくことは空しいと言います。
     また、人のあらゆる生の営みを詩的に表現し、そこには神の時があることを見出しました(3章)。そして、神が働かれる時、私たちの為したことはすべて実りあるものに変えられる、それは美しいことだと言うのです。今ここで私の為したことが御手の中で用いられ、神の御国を形造っていくのです。そこに私たちの生きる意味があり、喜びがあるのです。同じ道のりを歩んでも“神のために”“神と共に”歩むのか、そうでないかで、喜びの人生か、空しい人生かに分かれるのです。主イエスのように公正を行い、誠実を愛し、神と共に歩んで参りましょう。

9/30 「約束の地の偵察」(『成長』より) 民数記13章1~3、17~20節 小林泰輔師

  •  エジプトから救い出したイスラエルの民に神さまは「カナンの地」を与えると約束してくださいました。その約束の地に近づいたとき、神さまはモーセにカナンの地を探らせるように命じられました。そうして各部族から代表者が選ばれ、12人の偵察隊がカナンの地に入りました。そこで大きなぶどうをひと房とり、棒でかついで、他のくだものとともに持ち帰りました。そのくだものに表されているように、約束の地は、とても良い土地だったのです。しかし、そこには強力な先住民がいました。「ネフィリム人のアナク人」は巨人だったのでしょうか。彼らには「自分がいなごのように見えた」と言ってその強大さを恐ろし気に報告しました。民はその報告にすっかり意気消沈して、こんなことならエジプトで死んだ方がましだったとつぶやきました。それどころか、神さまがお立てになった指導者であるモーセとアロンに代えて、新しい指導者のもとエジプトに帰ろうとまで言い出す始末でした。
     けれども、カレブとヨシュアの報告は違いました。他の10人と同じく「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった」と言いましたが、さらに「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう」と信仰によって報告しました。また神の約束の地を前に人々を恐れて引き返すことは、神にそむくことであると言い、主がともにおられるのだから恐れてはならないと信仰によって奮い立ちました。主はイスラエルの不信仰をさばかれ、20歳以上の者とカレブとヨシュアのみが約束の地に入れられることになりました。

9/16 「恵みを与える人」 エペソ人への手紙4章17~32節 小林泰輔師

  •  この箇所には道徳的な教えがたくさん出てきます。それらは何のためにあるのでしょうか。私たちが立派な人になるためでしょうか。死の間際に
  • 「良い人生だった」と言えるようにするためでしょうか。もしそれだけならキリスト教でなくてもよいかもしれません。しかし、聖書が命じることは、
  • 「贖いの日のために」(30)という終末論的観点をもって見なければなりません。
     主イエスは再び来られ、この天地を新しくされ、王として統治される主なる神です。それが「贖いの日」であり、そのときすべての被造物は贖われて
  • 新しくされるのです。天の御国の文字通りの始まりですが、その日に先行して今、すでに神の国(支配)は始まっています。私たちはキリストとともに
  • よみがえって新しくされ、新しい神の国の秩序と規範に生きる者です。
     タラントのたとえにあるように、私たちが主イエスからタラントを与えられたのは、この世を良く管理するためです。道徳的に立派な人間になるためではなく主の御心を成し遂げるためです。主は「わたしとともに冒険しよう、世界を変えよう」と私たちを召しておられるのです。神からの恵みを地中に埋めて
  • 無駄にするのではなく、リスクを冒してでも、コストを払ってでも、この世を神の国のように変えるために、今ここで、私たちの良いわざが必要と
  • されているのです。
     この世は神の痛みに無感覚です(19)。神が創造され良しとされた世界、神のいのちからいかに遠く離れていることか(18)。
  • そのような今の世であるからこそ、キリスト者が、教会が、恵みを分け与える者でなければなりません。新創造される世界には、悲しみや怒りの叫びは似つかわしくありません(31)。互いに赦し合い愛し合う世界となるのです(32)。主よ。御心が天で行われるように地でも。今ここで、私を用いてください。

9/9「愛のうちに建てられる」 エペソ人への手紙4章1~16節 小林泰輔師

  •  私たちは、イエスさまのように成熟した愛の器となるために、この世にに置かれています。私たちはこの世の流れに逆らう者です。パワハラの横行する世に謙遜と柔和を、他者に非寛容な世に寛容、愛、忍耐を、分断されている世に平和、一致をもたらすために、教会はこの世から呼び出され、置かれているのです(1-3)。
     それぞれが自分の価値観や思想や宗教で自由に生きていくことが認められている反面、“普遍的な唯一の真理”というものは幻想であったかのようにとらえられている世にあって、唯一の神を信じ、救いの道はただ一つであると証しし、教会はキリストのからだとして一つであることを宣言して歩むように召されています(4-6)。
     しかし、からだは一つだけれども、さまざまな器官が備えられているように、私たちはそれぞれユニークに造られたものです。各人に与えられた賜物があります(ロマ12:4-8、Ⅰコリ12:4-11、Ⅰペテ4:11参照)。牧師や教師の務めは聖徒たちを整えることです。そうしてキリストのからだを建て上げるのです(11,12)。
     キリストの信実と知識によって私たちは力を受けて、内側から造り変えられることによって成熟し、キリストの身丈にまで達することができます。自分の力で生まれ変わることはできません(13)。
     「教えの風」や「波」(14)に流されないようにするためには、キリストの十字架の愛を錨として打ち込み、愛のうちにしっかりとどまっていなければなりません。十字架の愛とは自分をささげることです。真理などないと言う世の流れに逆らって、愛をもって真理を語り、愛のうちに教会を建て上げることによってキリストの栄光を示す、その召しにふさわしく歩みましょう。

9/2「第二の人生」 ヨハネの福音書3章1~5節 小林泰輔師

  •  パリサイ人で議員のニコデモが、夜、イエスさまのもとを訪れるお話です。律法の教師であり、議員でもあり、いわゆる「センセイ」と呼ばれる立場の人でしたが、この人の心には飢え渇きがありました。イエスさまが「神がともにおられる」ような「しるし」をともなう力ある働きをしておられるのを見て(2)、感嘆し、自分もイエスさまのような働きをしたいという願いを秘めてみもとにやって来たのです。
     イエスさまは言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3)。ニコデモは生まれつきの自分ではダメだという現状の否定を受け入れなければなりませんでした。「センセイ」と呼ばれ、生活に不自由なく過ごしていましたが、それでも満たされない飢え渇き、心の夜を抱えていました。それは生まれつきの罪の性質からくるものです。そのような自分に死んで、イエスさまとともによみがえり、生まれ変わる必要があるのです。
     「人は、老年になっていて、どのようにして…」とは、年老いたニコデモにとって「too late」という諦めに近い心境でしょう。どんなに自分を変えようと思ってもできず、新しく生まれるなどどのようにしてできるのだろうかと、絶望したのではないうでしょうか。イエスさまは然り(アーメン)とおっしゃいました。新しく生まれることは自力ではできません。イエスさまは「水と御霊によって生まれなければ」と言い換えられました。水のバプテスマは悔い改めの儀式です。水に沈められ古い自我に死ぬことです。御霊によってとは、イエスさまの復活のいのちに与り新しく生まれ変わることです。そうして私たちは神の力を受けて永遠のいのちに、神の国(支配)のうちに生かされるのです。

8/26 「エジプトに下った災い」(『成長』より)  出エジプト記6章1~8節 小林泰輔師

  •  神さまはエジプトで奴隷になっているイスラエルの民を救い出すために、モーセとアロンをファラオの前にお遣わしになりました。主を礼拝するためにイスラエルの民を行かせなさいと伝えましたが、「主とは誰だ」と言って知らん顔です。すると神さまはエジプト全土に10の災いをお下しになりました。
     エジプト人にとってのシンボル、ナイル川の水を真っ赤な血に変えても、街中をカエルだらけにしても、王様は神さまの言うことを聞きません。虫(ぶよ、はえ、いなご)による作物や人への被害や、家畜の病気や、人のからだのできものでも言うことを聞きません。恐ろしい雷や雹が降ってきてもダメです。ひどい災いが起こるとちょっと心が変わりますが、災いが過ぎるとすぐ元通りに頑なになってしまいます。
     それから神さまはエジプト全土を真っ暗闇にされました。エジプト人の信じる神は、太陽の神でしたから、真っ暗になるということはイスラエルの神(ヤハウェ)の方がエジプトの太陽神よりすぐれているということになります。ほんとは太陽の神などなく、ただおひとり、イスラエルの神しかおられないのです。
     それでも王様はイスラエルを行かせません。そこで最後の災いが下されますが、それは大変恐ろしいものでした。エジプト中の初子が人や家畜に至るまで、みな死んでしまったのです。これには王様だけでなく家臣たちも懲りて、そうしてイスラエルはエジプトから救い出されました。このようにお救い下さる神さまはただおひとりだけです。

8/19 「ジーザス・リメンバー・ミー」 ルカの福音書23章32~43節 エミリー・チョウ師

  •  「リメンバー」という言葉を辞書で調べると、「覚える」と「思い出す」の2つの意味があります。誰かから「リメンバー」されたいということは、人にとって最大の願望とも言えます。人生の最期の時、死にゆく人は、だれの記憶の中であったとして、生き続けるのだと感じたいのです。
  •  ルカの福音書に出てくるイエス様と一緒に十字架に付けられた犯罪人は、イエスさまに人生の最期で「リメンバー・ミー」のようなリクエストをしました。誰も自分のことを覚えておらず、これから死ぬという全くの絶望の中でも誰かに覚えられていたいという願いが彼にはあったのです。
    ずっと沈黙されていたイエス様は彼の願いを聞いた時、こう言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は完全な救いをこの人に告げられました。ただこの人のことを覚えていて、そして天国に入れる時に思い出すということだけではなく、イエス様は、この人と神様との関係が回復することを約束されました。
      リメンバーについて理解したいのは、「覚える」と「思い出す」の他にもさらに「リ・メンバー」―私たちが、再び神の家族のメンバーになるということです。教会というのは、神の家族としてリ・メンバーされている人たちの交わりです。これからも共にその愛の中で成長しましょう。

8/12 「キリストにある富」  エペソ人への手紙3章1~21節 小林泰輔師   

  •  ①キリストにある囚人パウロ。ローマに捕らわれたという事実をパウロはキリスト・イエスにあって囚われているのだと捉えています。そして、パウロ投獄中にも主は教会を通して宣教のみわざを進めてくださるのなら、それはエペソ教会にとっても光栄なことだから落胆しないようにと励ましています(13)。
     ②教会を通して実現する神の奥義。奥義とは秘められていたことですが、それが啓示によって明らかになりました。その奥義とは、異邦人もユダヤ人もともにキリスト・イエスにあって、神の国の共同相続人とされるということです(6)。パウロはそのために異邦人伝道の使徒に召されました(7-9)。パウロは自分を「いと小き者より小き者」(文語訳)と述べて、そのような者に「キリストの測りがたい富」が委ねられているというコントラストを示しています。これこそが人を召して用いる神のやり方でした。土の器(Ⅱコリ4:7)である私たちを通しても主は福音宣教を進めてくださいます。
     ③キリストの愛を知る力。1章同様のパウロの祈りが展開されますが、ここではキリストの愛を知る力が強調されます。「力をもって…内なる人を強くして」(16)、「理解する力」(18)、「私たちのうちに働く力」(20)。キリストの愛は「人知をはるかに越え」ているので(19)私たちの知性に頼って悟ることはできません。かえって私たちは自分の経験則などにより、広さ、長さ、高さ、深さのリミットを設けて神の愛を考えてしまいます。神の愛は測り知れないほど深く、それは豊かな富のように莫大な恵みをもたらすということを知るのもまた、神の力なのです。神の愛と御力に満たされて参りましょう。

8/5「ただ一つのこと」  ルカの福音書10章38~42節  小林泰輔師

  •  聖書の教えていることはシンプルです。それは、神を愛して生きるということです。
     【必要なことは一つ】イエスさまはマルタとマリヤ(そしてラザロ)の家に招かれました。そこでマルタは愛するイエスさまとそのご一行のために一生懸命もてなしました。妹のマリヤはイエスさまのそばに座り話に聞き入っています。そこでマルタは忙しさから、先生であるイエスさまに、マリヤにも手伝うように言ってくださいと注文します。イエスさまは愛をもってマルタを諭しました。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです」(42)。給仕とみことばを聞くことの単純な比較ではないでしょう(礼拝が何よりも大切なことは言うまでもないことです)。必要なことは主イエスを愛する思いで目の前のことに取り組むことです。
     【ただ一人の神】神は唯一です。それと同じく神は私たちを唯一の者として愛してくださいます。神は私を宝としてくださいます(申命7:6-9)私のために死んでくださる神が他にあるでしょうか。イエスさまはかけがえのない私のために、十字架で罪を贖ってくださったのです。
     【一番大切なこと】ある律法学者が、一番大切な教えは何ですかと、主イエスに尋ねました(マルコ12:28-34)。イエスさまは、一番大切なのは「われらの神である主は、唯一の主である」と答えられました。どんなときでもこの神さまを全力で愛すること以上に大切なことはないのです。神を愛することは、隣人をどれだけ愛したかではかられますから、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えてくださいました。

7/29 「心配しない」  マタイの福音書6章19~34節  小林泰輔師

  • 「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(20)と、イエスさまはおっしゃいました。そして「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(21)と。これは私たちが何を一番頼りにしているかを問うています。頼みにしているものがあるところにその心は向きますが、神さまを頼みにしている人の心は神さまに向くのです。神と富とを同時に頼みとすることは、二心の仕え方であると教えられました(24)。
     だから、空の鳥や、野の花を神さまが養い育ててくださるように、愛する私たちのためならなおのこと、よくしてくださらないわけがないのです。何を食べるか、何を着るかということは、異邦人の切に求めているものです(32)というのは、この世の神々を頼みとする人たちがまさにそうです。与えられる御利益だけを求めていく関係が、この世の神々との関係ですが、まことの神が求めておられるのは、私たちの信頼と畏敬、礼拝です。ですから、イエスさまは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33)と、まず神さまに信頼し、神さまの統治(神の国)を求めなさいと言われました。神さまはご自身の国を良く治められる方ですから、神さまの国とその支配が完成するなら、自ずと私たちの必要は満たされることになるのです。
    天の父、私の主、来るべき王である神さまを信頼しましょう。

  • 7/22 「キリストこそ平和」 エペソ人への手紙2章11~22節 小林泰輔師

    •  キリストにあって新しく造られた私たち(10)は、ユダヤ人も異邦人もなく、「新しいひとりの人」(15)、すなわち「教会」として建て上げられていきます。パウロはエペソの異邦人信徒たちに語りかけます。以前、どのようなものであったか、神の救いの契約の外にいて、神もなく望みもなく歩んでいたことを引き受けてくださり、十字架で死なれたことにより成し遂げられました(13~15)。ユダヤ人は神の律法に内在する裁く力を使って異邦人を断罪していました。しかし、もはや律法の敵意はキリストの十字架によって廃棄されたので、思い出してくださいと(11,12)。私たちも同じく、真の神を知らず、罪を犯し、神に対する反逆者として暗闇の中を歩んでいました。しかし、神は私たち異邦人をも救い出して、神の民に加えてくださいました。それは、反逆者に対する神の敵意を、神のひとり子イエスさまが一身にユダヤ人も異邦人もひとつにせられるのです。
       そうして神は、新しいひとりの人、「教会」を創造されたのです。教会は「神の家族」(19)です。初めに創造されたアダムとエバの、失われた「神のかたち」を回復すべく、神は教会を再び家族としてお造りになられたのです。個人の救いを越えて、共同体として、共に生きるように呼び集められたのです。教会では、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストを要の石としてしっかり結び合わされ、成長していきます。神の家族として父の御前に出ていきます。そして、主は私たちを主の宮として住み、教会を用いてこの地を治められるのです。このキリストこそ平和であることを宣べ伝え、和解の使者として破れ口に立ってとりなし、祈りましょう。

    7/15 「破れ口に立つ」 創世記18章1~3.3節 田中秀亮師

    • ①信仰の回復(1-15節)
       17章に続いて神はアブラハムに現れた。それはサラに子どもが来年生まれることを直接伝えるためであった。しかし、サラは自分の年齢という現実を
    • 見つめ、神の約束を一笑に付した。われわれ人間は現実から未来を予測する。
    • それ自体は否定されるものではないが、それだけしかないならば、そこに信仰はない。ただの現実主義者である。神はわれわれの知恵や常識、
    • 自然界の法則を超越して事を為される。そのことを約束することばを語りかける。アブラハムとサラは神のことばが真実であることを知っていった。
    • われわれも語りかける神を待ち望み、神のことばが真実であることを知っていくのである。
      ②破れ口に立つ(16-33節)
       神はアブラハムを友と(イザヤ41:8)、イエス・キリストにある者を友と呼ばれ(ヨハネ15:5)、ご自身の御心を明らかにされる。神は友であるわれわれに
    • 世の「叫び」を聞かせ、留まるべき「破れ口」に立たせる。この世界の「破れ」を執り成させるためである。キリスト者は人間の善や正しさを増幅したり、
    • 貫徹することを追求するよりは、神の大きなあわれみと恵みがこの世界にもたらされることを追求することによって執り成す存在である。
    • 神はその祈りを聞いてくださり、この世界をあわれんでくださる。

    7/8「この世の中で」  エペソ人への手紙2章1~10節   小林泰輔師

    •  私たちが今いる世、この世の真っただ中に神が下りて来てくださり、私たちは救われたということ。これが神の恵みによる救いということです。
       ①この世の中で。「~の中で(希)エン(英)in」という語がいくつも出てきます。「罪過と罪の中で」(1節)「罪の中」(2)「不従順の子らの中」(2,3)。私たちの罪は聖い神からすれば汚泥のようなもので、私たちはその罪の泥沼のただ中でもがいている者です。また「この世の流れ」(2)とは、今日的には自由主義や個人主義もそうでしょうか。それらは濁流のようで、逆らって生きることができません。「空中の権威を持つ支配者」サタンにより聖い生き方を選べないようにされ、愛し合い仕え合う生き方よりも、自由主義や個人主義を吹聴しながら、その実孤独に生きることを強いられているのです。
       ➁恵みによる救い。「しかし、あわれみ豊かな神は」(4)罪のただ中にある私たちを救い出してくださいました。イエスさまが人となってこの濁流と汚泥のただ中に入って来られ、十字架の死という危険を自ら冒して救ってくださったのです。これは「ただ恵みによる」ことでした。
       ③新しい創造。神はアダムを神の似姿に創られましたが、堕落によって罪が入って来て、神のかたちを失いました。神はもう一度私たちを「キリスト・イエスにあって造られ」ました。この罪の世のただ中で、キリストにあって(in Christ)造られたのです。新しく造り変えられた者には、新しい生き方「良い行い」が備わっています。最新の掃除機には素晴らしく掃除をする機能が備わっているように。神は教会を整え、教会を通してご自身の恵みと慈愛を明らかにしてくださいます。

    7/1「主の喜びの宴」      ルカの福音書15章1~10節     小林泰輔師

    •  ルカの福音書15章には三つのたとえ話が出てきますが、これは三つでひとつのたとえです。話の流れはみな、失われたもの、探される神、見つけられる喜びで共通しています。
       ①失われた者。私たちは神の前から失われた者です。羊は極端に弱い生き物です。羊飼いの守りと導きがなければ死んでしまいます。銀貨は価値あるものですが、持ち主の手を離れては価値を発揮することができません。家出息子は父との愛の関係を失いました。私たちは、神を離れては命を失い、生きる価値を失い、愛と喜びの関係を失ってしまうのです。
       ➁探される神。羊飼いは命をかけて羊を探します。危険を顧みず深い谷底に下りて来てまで救うのです。銀貨を探すためには家の明かりをつけ(燃料を消費する)見つかるまで労力を惜しまずに探されます。家出息子は父の愛を思い出し、その愛に手繰り寄せられて、帰郷を果たしました。父は遠くから見つけて走り寄り、もう一度息子として受け容れました。
       ③主は喜び歌われる神。迷子の羊も、失われた銀貨も、家出息子も、ともに元に戻ったときには祝宴が開かれます。ゼパニヤ書3:17には主は喜び歌われると書いてあります。これは私たちが贖われたことを喜び歌われているのです。古代の王が勝利したときには吟遊詩人に勝利の歌を歌わせ、戦利品を眺めて楽しんだように、主は私たちをご自身の所有とされたことを喜び歌われるのです。しかも、主なる神の愛による支配は私たちにとっても安らぎとなるのです。主イエスは剣によってではなく十字架の贖いを通して勝利を取られましたから、主のもとに立ち返りましょう。そこに真の喜びと平安があります。

    6/24「教会の主」       エペソ人への手紙1章15~23節   小林泰輔師

    •  教会の主はイエス・キリストです。神の救いのご計画とその素晴らしさは、1章前半に見てきた通りです。パウロはそれを賛歌のように記していますが後半はパウロの祈りが記されています。
       パウロはエペソ教会の信仰の成長を喜び、感謝をもって祈っています(15,16)。そしてさらに祈りますが、それは「あなたがたが、知ることができるように」という祈りでした。①神ご自身を知るように(17)。父、御子、御霊のひとりなる神を知ることができるように。「知る」とは一体となるほどに近くなることを意味しています。三位一体の神が親しく交わるように、私たちも神さまと一体となるほどに近くなれますように。➁心の目がはっきり見えるように(18)。目に見えない神さまの、まだ見ていないけれどもやがて見ることになる御国の完成の約束を、幻(ビジョン)として見ることができますように。そうして実際に目で見てきた者のようにその素晴らしさを知ることができるように(ヘブル11:1)。③神の力を知ることができるように(19)。力は体感するものです。「力」はデュナミスとエネルゲイアという言葉が使われています。ダイナマイト、エネルギーとなっていく言葉です。固い岩盤をも打ち砕くような力が神さまにはあります。私たちの困難な状況や、固定観念を打ち破り、「どんなことでもできる」(ピリピ4:13)力です。その力は主の復活と高挙によって明らかにされました(20)。
       主は天の御座につき世を統べ治められます(21)。主は私たちをキリストのからだとしてくださり、私たちは力を帯び、この世を治めます。世が神を知るために、神の満ち満てるところ(23)として、私たちの教会も建て上げられて参ります。

  • 6/10「恵みの栄光」        エペソ人への手紙1章1~14節   小林泰輔師

    •  エペソ書はおそらくパウロがローマで軟禁されている状況で書かれました。エペソをはじめアジアの諸教会にあてて書かれたものと思われます。ここでは教会について学ばされます。みことばの適用が、いま、ここで、私に語られていると受け取ると同時に、「私たち」「あなたがた」とは私たちの教会へのメッセージであることを受け取りたいと思います。
       3節から14節までは句点なしの一つの分として書かれています。ほむべきかな!と始まるこの文章は、神の啓示を受けたパウロが、それをまるで素晴らしい一枚の絵画のように描き出しながら、多角的に主を賛美しているところです。そこには父、御子、御霊のひとりなる神が登場し、様々な教理やその意義が描かれ、さらに歴史や物語が織り込まれています。
       パウロはここで、「世界の基の置かれる前」(4)から、再臨のとき「御国を受け継ぐ」(14)も至るまでの神の救いの歴史を描き出します。それは御父が御子イエスにあって行われたことであり、それが神のご計画であったことを解き明かしています。神が与えてくださる祝福(3)は、救われる者として私たちが選ばれたこと(4)、神の子とされること(5)、それが予め定められたこと(5)です。そしてイエスさまの初臨によって十字架による血の贖いがなされ(7)、私たちは神のものとなりました。また再臨にあって御国の完成のときに私たちはそれをキリストにあって受け継ぐ者となります(11)。その恵みの栄光(6)と喜びは、聖霊が与えられたことにより確かなものとされました。聖霊は御国を受け継ぐことの保証(別訳「手付金」)なのです(14)。私たち教会は、この恵みの栄光をほめたたえるために集められました。
  • 6/3「あるべき姿に」       ヨハネの福音書5章1~18節   小林泰輔師

    •  エルサレムの賑やかな祭りの裏側に、ベテスダの池の奇跡伝説にすがる病人たちのたまり場がありました。イエスさまはそこに来られ、38年間病気に苦しんできた人を癒されました。主はその人を「見て」、その苦しみが長いのを「知って」、「良くなりたいか」と聞いてくださいました。主は私たちの問題を知っていてくださいます。それが長いことであるのも知っていてくださいます。そして、この朝、みことばを通して「良くなりたいか」と聞いてくださいます。
       病人を癒したその日は、安息日でした。安息日は神が天地を造られ、それを良しとされた後、7日目にみわざをやめられて休まれました。ですから、私たちにも7日目は休むようにと聖書で命じておられます。しかし、聖書のほかにユダヤ人の伝統的ルールにおいては安息日にしてはいけないことがたくさんありました。癒された人が床を担いで歩くのはユダヤ人にとっては違反にあたることでしたので、ユダヤ人はこの人を咎めます。イエスさまは安息日に病人を癒し、罪の赦しを宣言することをよくされました。それによってご自身が神であることをあらわしておられたのです。安息日は人にとっては休息ですが、神さまは、堕落によって失われた人間と世界を救うために今も休まず働いておられるのです。
       主が私たちに聞いてくださる「良くなりたいか」は、個人的な問題の解決というところを越えて、神に創られた良いものとしてのあるべき姿に戻りたいかということではないでしょうか。あるべき姿を取り戻したなら、救ってくださった方がイエスさまであることを知らせるように遣わしてくださいます。

    5/27 「聖霊の働き」       使徒の働き28章16~31節    小林泰輔師  

    •  ペンテコステは聖霊が弟子たちに降ったことの記念です。聖霊に満たされた弟子たちによって宣教が拡がり、使徒パウロがローマに遣わされるところまでを
    • 「使徒の働き」は取り扱っていますが、それはそのまま「聖霊の働き」でした。
       ペンテコステの聖霊は「炎」のようでした。①炎は熱い。私たちの心を燃やし、神への愛と人々の救いのための情熱に駆り立てます。
    • ➁炎は燃やし尽くします。罪や汚れを燃やすために、悔い改めに導かれます。イザヤは唇を炭火によってきよめられました(イザヤ6章)。
    • ③ペンテコステは言葉にまつわる奇跡でした。聖霊に満たされた人は言葉が変えられます。
       パウロはイエスさまに出会い、悔い改め、聖霊に満たされ、イエスさまを呪う者からイエスを主と宣べ伝える者へと変えられました。
       27章では囚人パウロの移送における船旅において、難破しそうになるところです。私たちの人生航路が難船しそうなときこそ聖霊が必要です。
    •  神はパウロに船の乗員276名を与え、パウロを用いてその命を救いました。私たちも置かれている所でその人々の魂をゆだねられたものです。
    • その人々救いに導くために主にあって遣わされています。
       28章ではついにローマにたどり着きます。そこでユダヤ人の同胞たちにイエスさまを宣べ伝えますが、目に見える成果はほとんどありませんでした。
    • パウロはイエスさまと同様(マタイ13:14-17)イザヤ書のみことばを用いて叱責しました。
      私たちは聖書を通して主イエスを見、みことばを聞き、祈りに応えられ、癒される、そのような経験をしています。主を信じて従い、主を宣べ伝えましょう。
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5/20「祈りを教えてください」   ルカの福音書11章1~13節   小林泰輔師

  •  召天者記念礼拝を、主の昇天記念の日に行うようにしています。主は「昇天」ですが、私たちは自力で天に昇ることはできないので「召天」です。
     十字架で死なれたイエスさまは三日目に神の力によってよみがえり、40日を弟子たちとともに過ごしたのち天に昇られました。それはまた同じ有様で天から下ってこられることを弟子たちが信じるためのしるしでした。もう一度同じ有様で来られた時には、この天地を目に見える形で統べ治める真の王として来られます。天の御国の民は、この真の王なるイエスさまに信従する者でなければなりません。ですから、王の支配が宣言・予告されているこのときに、イエスさまを信じて従いましょう―これが教会の使信です。
     聖書はテスタメントと英語では言われますが、それは「遺言」という意味もあります。先に召された方々の姿が遺しているのはこの御国の福音とともに、主の前で謙って祈る姿ではないでしょうか。イエスさまご在世当時、弟子たちは「祈りを教えてください」と願いました。すると主は「主の祈り」を教えてくださいました。①父よと親しく呼びかけ➁神が聖なる唯一の神としてあがめられますように③主の統べ治める御国が来ますように④日ごとの必要が満たされることによって主の統治が素晴らしいことが証しされますように⑤私たちの罪を赦していただくとともに、私たちも他者の罪を赦すことができますように(互いに愛し合い赦し合うことが新しい御国のルール、ヨハネ13:34)と祈るように教えてくださいました。また聞かれるまで祈ること、父の御思いは最も良いものを与えることであることなどです。信仰の父母の姿にならい祈りの生涯を歩みましょう。

5/6「キリストによって招かれて」  イザヤ書43章10~13   小林泰輔師

  •  イザヤ43:1にこうあります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」イスラエルの民に言われた言葉は、イエス・キリストによって今日、私たちにも語られています。私たちはキリストによって招かれて、一人一人、名前を呼ばれてこの場所にいるのです。神が私を招きたいという御思いは強く、それを実行される御腕も強く、誰もそれをとどめることはできません(13節)。
     私自身が教会に導かれたときのことを思い起こします。友人を通して教会に招かれ、初めは別の興味で教会に集っていたのが、いつしか聖書の御言葉を聞いてみたい、礼拝に参加したいという思いが与えられました。聖書を読むようになってイエスさまを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けたいという願いが与えられましたが、親の反対に遭いました。しかし、祈り、祈られて、神の導きにより、親の心も変えられて同意を得られて受洗の恵みに与りました。
     神はあなたの名を呼んで招いておられます。私たちは神に逆らう罪の奴隷でした。奴隷が名前で呼ばれることはほとんどないでしょう。しかし、神がキリストの十字架の犠牲によって代価を支払い、私たちを買い取ってくださり、私たちはキリストによって親しく名前で呼ばれる者となりました。私たちは自分で選んで教会に来たのではなく、はるか昔から、神の救いのご計画によって選ばれて、そうして時至って今、名前を呼ばれてここにいるのです。神さまからの招待を喜んで受け入れ、イエスさまを救い主として信じましょう。力強い御手に守られ、導かれる生涯は幸いです。ぜひ信じましょう。

4/29「主の証し人」  使徒の働き26章   小林泰輔師

  •  アグリッパ王の前でなされた弁明もまた、証しそのものでした。パウロの証しから、私たちの救いの証しの手本にすることができます。パウロは「以前は、私自身も」と、自分がどのように罪深い者であったかを語り始めます。私たちもそうするべきです。それから、復活のイエスさまに出会って、変えられた体験を話しました。
     パウロに現れたイエスさまの声は「起き上がって、自分の足で立ちなさい」と言われました。主の証し人として証しするためにこそパウロは選ばれ、救われたのです。(16節)
     また主は、ご自身で選び任命された証し人を「救い出し、遣わ」して、証しと宣教の使命を全うすることができるように任命責任を果たされます。(17節)
     福音の全容と証し人のゴールは、人々の「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」ることです。また信仰により赦しの確信が与えられ、聖なる神の子どもとして御国を相続するのです。(18節)
     パウロの弁明を通しての証しは、アグリッパ王や総督フェストの心に大きな影響は与えたようです。どちらも素直に信仰を持つことには至りませんでしたが。文章には表れてはいませんが、迫害されているのに喜びに溢れており、鎖につながれているのに誰よりも自由であり、犯罪人のように貶められているのに高貴な威厳をたたえて語る姿がそこにはあったのではないかと想像します。パウロは霊の目が開かれ御国の栄光を見ていたのではないでしょうか。

4/22「天に昇られたイエスさま」(『成長』より)   使徒の働き25章1~12節 小林泰輔師

  • 十字架にかけられ、墓に葬られ、三日目によみがえられたイエスさまは、それから40日あまりのあいだ、弟子たちの前に現れました。イエスさまは、弟子たちに命じられました。「あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、御子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、…彼らを教えなさい」(マタイ28:19)そして、そのためにはイエスさまご自身がともにいてくださることを約束してくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
     それから、聖霊を与えられるまでエルサレムにとどまるように言われました。聖霊はバプテスマのように上から注がれるということを予告されました(使徒の働き1:4,5)。そうすれば、力を受けてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、またイスラエルから遣わされて地の果てにまで、イエスさまの証し人として用いられると語られました。
     その後、弟子たちの見ている前で天に昇られました。呆然と立ち尽くす弟子たちに御使いが現れて言われました。「イエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)再び来られるときには王として統べ治めるために来られます。私たちはその神の国の統治が始まることを伝えるのです。聖霊により力を受けて、ともにおられる主に励まされながら、神の国の到来の知らせを宣べ伝えましょう。

4/15 「裁きのとき」  使徒の働き25章1~12節   小林泰輔師

  •  新総督フェストゥスの着任に伴い、二年間放置されていたパウロの裁判が再び行われました。ユダヤ人指導者たちの執拗な訴えにもかかわらず、
  • やはりここでも何も罪に定められることはありませんでした。それでも釈放とはならなかったので、パウロはこの問題の決着のために皇帝に上訴しました。
  • こうしてパウロのローマ行きが決定しました。
     パウロを訴えるユダヤ人の執念から思い起こされるのは、私たちを罪に定めようと迫ってくる告発者がいることです。サタンは告発者(黙示12:10)として、私たちの罪を訴えます。しかし、エルサレムに向かう前のパウロが書いているように、神によって義とされた私たちを訴えることのできる者は誰もありません(ローマ8:33,34)。また、私たちの罪の罪状書きや、債務証書は、十字架に釘付けられて破棄されましたから(コロサイ2:14)、サタンが偽りの罪状書きを捏造して訴えてもそれは無効です。
     しかし、私たちは神の御前に出る時がやがて来ます。それは皇帝の法廷以上の最高の権威がある裁きの場です。御子を信じる者が裁かれることはありません(ヨハネ3:18)。しかし、福音を信じたその後の歩みがどのようなものであったかは、神の御前で申し開きをしなければなりません。十字架の贖いという土台は揺るぎません。しかし、その土台の上に何を建て上げたかは問われます。取るに足りないちりあくたのようなものを積み上げたのか、自分の持てる最も尊いものを神にささげて天に宝を積んだのか(Ⅰコリ3:10-15)。裁きのときにそれらが明らかになり、行いに応じて報酬が与えられます。天においてすべての労苦が報われます。良いわざに励みましょう。


4/8 「福音の感染力」 使徒の働き24章1~21節   小林泰輔師

  •  福音(良い知らせ)は人を動かす力があり、またそれを要求します。パウロや使徒たちが語った福音は、「勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続け」ました(コロサイ1:6)。パウロを訴えるユダヤ人弁護士テルティロがパウロを「ペスト(疫病)のよう」と評したのは悪意からでしたが、案外、言い得て妙なところがありました。
     疫病は、人々にとって害のあるものです。確かに福音はある人々にとっては良い知らせではありませんでした。イエスはよみがえられたという知らせは、イエスが真のメシア(救い主)であり、王であり、神であったことを示す証しです。それを信じ受け入れたくない人にとっては、つまずき(スキャンダル)だったのです。イエスはよみがえられ、天に昇られたという事実は、やがて真の王としてもう一度来られるという予告を信じさせるものであり、人々に服従を要求するものです。しかし、主イエスの統治は愛とあわれみと公義によるものです。それは神の民となることで味わうことのできるものです。あなたはこの支配を受け入れますか。
     また疫病は強い感染力を持ちます。あわれみに満ちた、真の義なる王が統べ治められるという知らせは、人々を喜ばせ、慰め、希望をもたらします。新しい王の統治はくまなく布告されてから実現します。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて…それから、終わりの日が来ます」(マタイ24:14)。ある意味で世界に死をもたらすものですが(十字架に死ぬこと)、それはあたらしく再生するために必要なことです。すでに新生の恵みをいただいた私たちを通して、この福音は感染していきます。主のものとされていることを喜び、人々に感化を与えるクリスチャンにならせていただきましょう。

4/1 「驚きと喜びの知らせ」 マタイの福音書28章1~15節   小林泰輔師

  •  イエスがよみがえられたというニュースは、大スクープであり、ある人にとってはスキャンダルでもありました。
     神さまが、復活の最初の目撃者に選んだのは三人の女性たちでした(マルコ16:1)。十字架と葬りの際にも遠巻きに見守っていた人たちでした。安息日が明けて改めて遺体に香料を塗ったりしようと、墓まで行くと、墓の封印は解け、石の蓋が除けてありました。墓が空であるのを見たマグダラのマリアは急いで弟子たちに告げに行きました(ヨハネ20:1-2)。地震が起きて御使いが現れると、イエスさまはここにはなくよみがえられたことを告げました。それを聞いたもう一人のマリアとサロメは他の弟子たちに知らせに行きますが、その道中でよみがえりのイエスさまにお会いしました。彼女たちは御足を抱いて礼拝し、主イエスが礼拝すべきお方であり王の王であることを示しました。
     墓の番兵たちの幾人かがユダヤ人指導者の下へ知らせに行きました。そこで指導者たちは番兵たちの証言を改ざんさせて、夜間に弟子たちが遺体を盗んだと、これを言い広めさせました。ユダヤ人指導者たちにとってはこれはまさにスキャンダル(Ⅰコリ1:23、原語スカンダロン「つまずき」の意)だったのです。
     主イエスの復活のニュースはインパクトのあるものでした。イエスが死に勝利したことで、「信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)ことが確証されました。罪の赦しも確かなものとなりました(Ⅰコリ15:17,20)。しかし、信じない者にとってはイエスが真の神、王の王であられたので反逆者になってしまう、つまずきの知らせでした。
     私たちはこの知らせを伝えるべく召された者です。世界中に知らせましょう。

3/25 「十字架のイエスさま」 ルカの福音書23章32~34,39~43節 小林泰輔師

  •  イエスさまは罪のないお方ですが、当時のユダヤ人指導者たちに憎まれて十字架につけられることになりました。十字架の上のイエスさまは多くを語ることはできませんでした。罵られても罵り返すようなことはなく、苦しみにもだえながらも耐え忍ばれました。4つの福音書を見るとイエスさまの十字架上のことばは7つであったことがわかります。そのいくつかを見ていきます。
    「父よ彼らをお赦しください」人々は罵ったり、自分を救ってみろと言ったりしましたが、そういう人たちのために父なる神さまに赦しを願って祈られました。私たちも自分の罪の重さも分からずに神さまに対して罪を犯しますが、その私のためにも祈ってくださるのです。
    「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」二人の犯罪人のうちの一人がイエスさまに言いました。「わたしを思い出してください」自分の罪を思い知って、神に赦しを請うことすらできないと思ったのか、精いっぱいの心でただ思い出してくださいと願った者の心を見てくださり、ただちに救いの確証を与えてくださいました。
     「父よ。わが霊を御手にゆだねます」苦しみの中で私たち罪人のために祈ってくださり、私たちの身代わりとなり、神に見捨てられた者のように叫ばれ(マルコ15:34参照)、残された者のために愛の絆を結び(ヨハネ19:26,27)、贖いのみわざを完了されたイエスさまは、父なる神に霊をゆだねますと言って息を引き取られました。その一部始終を見ていたローマ兵士は「本当に、この人は正しい方であった」(47)と感化を受け、神を賛美しました。

3/18 「勇気を出しなさい」 使徒の働き23章1~11節   小林泰輔師

  • 主は私たちに使命を与え、私たちの人生を用いて、ご自身の栄光を表してくださいます。それを最後まで成し遂げてくださるのは主の御手によるということを知るなら、勇気が湧いてきます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13)「今よりわれは主なり。わが手より救ひだし得るなし。われ行わば、誰かとどむることを得んや」(イザヤ43:13文語訳)。
     パウロは捕らえれローマの千人隊長の管理下でユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)にて取り調べを受けることになります。パウロの度重なる弁明は、神が用いられたメッセージの機会でした。パウロの弁明を遮る大祭司アナニヤは、神からパウロを通して「白く塗った壁」と言われ、また後に神に打たれることが明かされます。パウロはサドカイ派とパリサイ派の分断をねらって、小細工をしたのでそれ以上の証しの機会は失われました。
     その夜、主はパウロのそばに立って「勇気を出しなさい」と語られました。ローマに行くということはパウロの願いであるばかりでなく、神の御心でもあることがここで明らかになります。そして、事を行ってくださる神の御手が、パウロを守り導くのです。
     パウロ暗殺のために40人の刺客が決起しますが、神はローマの軍隊を用いて10倍の兵力で護送します。私たちの周りにも御使いの軍勢が取り囲み守られています。「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)。どんな困難や試みの中でも勇気をもって証しの生涯を歩み続けましょう。

3/11「受けるよりも与えるほうが幸い」 使徒の働き20章35節 小林泰輔師

  • 「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
    2018年度の標語聖句です。福音書にはないイエスさまのみことばですが、「幸いな者とは誰か」ということは、山上の説教での八福の教え(マタイ5:3-11)や、詩篇においても取り扱われています。詩篇においては「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩2:12後半)とあるように、主のそばにいることが一番の幸いだと教えています。また、山上の説教においては、貧しくても、悲しくても、状況に左右されすに、主とともにある者を幸いだとしているのです。
    誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
    私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。
  • そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

    3/4「パウロの弁明」              使徒の働き22章1~22節         小林泰輔師

    • 「アジアから来たユダヤ人」の言いがかりと扇動によってパウロは殺されそうになりましたが、間一髪やって来たローマ兵により難を逃れます。パウロはそこで弁明の機会を与えられますが、これを自分の名誉の回復のためではなく、主を証しするための好機として用いました。
      主イエスは、捕らえられ、受難に向かい歩まれる中でも、一言も弁明をされませんでした。主は無言により、パウロは雄弁により、ともに神の御心を明らかにし、神の栄光のために機会を用いたのです。
      パウロの弁明から主の救いを証しすることの手本として学ぶことができます。①私も皆さんと同じ罪人でした(1-5節)。過去にどのような人生を辿って来たかは人それぞれですが、神の救いを必要としている罪人であることは共通しています。パウロはキリスト教の迫害者でした。➁主イエスとの出会い(6-11節)。パウロは「なぜわたしを迫害するのか」という主の声を聞きました。そこで自分の迫害してきたイエスと愛する主が同じ方であることに気づきました。あなたが主に出会い、悔い改めに導かれたのはどのようなみことばを通してでしょうか。③信仰に導くために主が用いられた人(12-16節)。主はアナニヤにも語られ用いられました。あなたを導いた人に働かれた主のわざを証ししましょう。④新しく与えられた使命(17-21節)。救われてのち、あなたに起きた変化は何でしょう。新しくされた人生はどのようなものでしょう。パウロは異邦人宣教という使命が与えられました。
      「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ人への手紙5:16)

    誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
    私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

2/25「恐れないで、信じる」(『成長』より)  マルコの福音書5章21~24、35~43節   小林泰輔師

  • 会堂管理者のヤイロという人の、12歳の娘が病気で死にかけていました。ヤイロはイエスさまが病気を癒すことのできるお方だと信じて、娘のために祈って癒してくださるようにお願いしに来ました。イエスさまはヤイロの願いに応えて家に向かいますが、道中で12年間病気に悩まされていた女性に出会います。その女性の求めにも応じていると、その間にヤイロの娘は死んでしまったという知らせがやってきました。それでもイエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」(36節)と言われました。今度は病気の癒しではなく死人の復活を信じなければならないのですが、イエスさまは信じ続けなさいと言われます。イエスさまが家に入られるとたくさんの人が泣いていました。イエスさまは、これは死んだのではない、眠っているのだと言いましたが、それを聞いて人々はあざ笑いました。
    イエスさまが「少女よ、起きなさい」という意味の言葉を語られると、少女の目が開いて、起き上がり、歩き始めたとあります。そうして、食事をとるように優しく勧めてくださいました。
    このように、初めより状況が悪くなっても、主は、信じ続けなさいと言われます。神さまが「恐れるな」と言われるときは何かをなさろうとするときです。信じて待ち続けましょう。

2/18「ただまっすぐに」         使徒の働き2章1~26節       小林泰輔師

  • パウロは使命に燃えてエルサレムを目指しますが、そこでは受難が待っていることが聖霊によって本人にも、周りの人にも示されていました。それでもパウロはただまっすぐにエルサレムに向かっていきました。これは、受難が予期されていながらエルサレムに向かったイエスさまのお姿に重なるものがあります。
    イエスさまはご自身で受難の予告をされました(マタイ16:21)。それをペテロが諫めると「下がれ、サタン」とまで仰られて「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました(同23節)。その後、十字架を負って主イエスに従うという大切な教えを語られました。
    パウロの場合も、パウロを心配する弟子たちから、エルサレム行きをやめるよう説得されます。彼らもまた「御霊に示されて」のことでしたが(4)、パウロも「御霊に縛られて」(20:22、2017版)、自分の十字架を負って突き進むのでした。
    エルサレムに着いてから、異邦人伝道の成果を報告し、神を賛美したのもつかの間、エルサレム教会の長老たちはパウロについての噂を取り扱います。パウロがユダヤ人の慣習をことごとく捨てるように教えているというのです。これは根も葉もないことでしたが、このユダヤ人にとってはつまずきとなる悪い噂を払拭するために、長老たちはパウロが誓願の費用を負担することを提案します。パウロはこれに何も反論していません。もはやこのような取るに足らないことで足止めをされるより、パウロは異邦人宣教とユダヤ人との融和を求めて、ただまっすぐに進みたかったのではないかと想像します。私たちも与えられた使命にまっすぐに向き合い走り続けましょう。

2/11「天のふるさとへ」          ルカの福音書23章32~43節     岩井清師

  • 3回のシリーズでお招き頂いた。これまでに①天地創造の主を知ること②罪からの救い主であるキリストを知ること、このように語ってきた。今回は③天のふるさと、永遠のいのちについて語りたい。永遠のいのちとは、まことの神と、イエスを知ることだとある(ヨハネ17:3)。
    イエスの弟子の代表格はペテロとパウロであるが、両者とも“すねに傷持つ者”であった。パウロはキリスト者たちを迫害していたが、律法に「木にかけられた者は神にのろわれた者」とある(申命21:23)、その十字架の木にかけられたイエスがメシアだなんてと、つまずいたのである。しかし後に目覚めてイエスさまは私たちの代わりに本当にのろわれた者となってくださったのだと知ったのである。
    ルカが記す十字架の詳細には他の福音書にはない二人の強盗とのやりとりがある。おそらく二人とも最初はイエスをののしったのであろう。けれども、十字架の苦しみを耐え忍びつつ「父よ。彼らをお赦しください」とご自身を傷つける罪人たちのために祈る救い主イエスさまの姿を見て、この一人の強盗は目覚めて回心したのである。私たちも人生の苦しみの中で神の恵みと真実に触れ、信仰に目覚めることがある。この強盗はイエスさまが天国の御座に就くとき「私を思い出してください」と願ったが、すぐに「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださった。主イエスは私たちのために御座から祈られる。「I pray for you.」と約束してくださる方。
    主は私たちが天国に至る旅路を歩むために、祈っていてくださる。私たちは生まれたとき、目的地を知らずにこの世の旅を始めるが、福音を聞き、目的地は天国と神の栄光であることを知らされた。旅の途中で引き裂かれ、傷つけられることもある。しかし主は忘れないで祈っていてくださる。この旅を終えて天のふるさとへ凱旋するその時まで。

2/4「みことばによる育成」        使徒の働き20章28~38節      小林泰輔師

  • パウロの告別説教の後半部分から学びます。前半はパウロの姿勢から教えられましたが、この後半は教会へのより具体的な忠告が含まれています。
    まず群れの監督、指導者たちに忠告します(28)。「群れ」という言葉が示すのは私たちは弱い羊であるということです。昨今、リーダーシップが叫ばれていますが、まさに主イエスのような良い羊飼いとしてのリーダーシップこそ必要です。また聖霊によって任命されたリーダーに従います。リーダー自身は聖霊の導きを求めてみことばに仕える働き人です。
    教会には色々な「教えの風」(エペソ4:14)が吹き込まれるおそれがあります。外からは偽預言者が羊の皮をかぶった狼のようにしてやって来て(マタイ7:15)、内では毒麦が紛れ込んでいる(マタイ13章)ようなものですが、両方とも、実によって見分けることができます。
    パウロの良い実は、昼夜絶えず、涙をもって執り成しの祈りを続けた姿勢に見られます(31)。そしてさらにみことばに信頼する教役者パウロは、「神と恵みのみことばに」(32)ゆだねました。信仰を成長させてくださるのはパウロではなく、神さまだからです(Ⅰコリント3:7)。成長して良い実を結ぶ者は御国を受け継ぐのです。
    「受けるよりも与えるほうが幸い」(35)と思えるのは成長の実の表われです。主はそれを実行できる者に私たちを造り変えられます。神がご自身の血をもって教会を買い取られたように、犠牲を惜しまず種を蒔く人に変えられます。そのようにしてキリストに似た者へと変えられるのです。

1/28 「イエスさまの弟子」(『成長』より) ヨハネの福音書1章35~51節      小林泰輔師

  • イエスさまの最初の弟子たちのお話です。アンデレとヨハネは、ともにバプテスマのヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネがイエスさまを見て「見よ、神の小羊」と言うのを聞いて、イエスさまの方についていくことにしました。アンデレには兄弟がいて、名をシモンといいました。アンデレはシモンに「私たちはメシヤ(キリスト)に会った」と言ってイエスさまを紹介しました。シモンはイエスさまから「ケパ(ペテロ、「岩」の意)」と呼ばれて、イエスさまの弟子になりました。その翌日、ガリラヤに向かう途中でピリポに出会ったイエスさまは「わたしに従って来なさい」と声をかけられました。ピリポも弟子になりました。ピリポはナタナエルにイエスさまのことを話しました。聖書に書いてある救い主に会ったと話したのですが、ナタナエルは聖書をよく勉強していました。ナザレから救い主が出るとは書いていないと言って信じませんでした(イエスさまはベツレヘムで生まれました)。しかし、イエスさまと出会い、イエスさまがナタナエルのことをよく知っていて「あなたはほんとうのイスラエル人だ」と言ってくださったので、イエスさまを信じて「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と告白しました。
    弟子たちはイエスさまのお働きを一番近くで見て学びました。私たちもイエスさまに従い、イエスさまから学び、神さまを伝えるお手伝いをしましょう。

1/21 「終わりまで走り尽くす」 使徒の働き20章17~27節        小林泰輔師

  • パウロのエペソ教会への告別メッセージより、パウロの伝道者・牧会者としての姿勢から学びます。
    ①いつも人々とともに過ごしてきた。人間嫌いでは牧会はできません。人付き合いが苦手な性格だったとしても、まず自分自身が主の愛を身に受けることで、必ず変えられます。主のまなざしで人を見るようになります。
    ②試練の中でも謙遜であった。誤解され、迫害を受けても、我を通すのではなく、謙遜でいることで主イエスの十字架の姿が表されます。
    ③涙とともに仕えた。多くの人が十字架の敵(ピリピ3:18)として歩んでいるのを見て、涙の祈りをもって執り成しました。
    ④本当に有益なことを語り、信頼された。主イエスの福音を語り、いのちにあふれた生き方を伝えたので人々に請われて講堂や家庭集会で語ることができました。
    パウロが伝えてきたメッセージは①神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰、十字架の力への信頼(21節)②神の恵みの福音(24節)③御国の到来(25節)④神のご計画のすべて―天地創造~再臨・新天新地(27節)でした。
    パウロはアジアの諸教会の献金を携えてエルサレムを目指しますが、そこでは迫害が待っていると聖霊によって示されます(23節)。しかし、パウロはそれでも旅を続けます。自分の命を永らえさせるために生きているのではなく、主の御用のために生かされていることを確信しているからです。それが、パウロの走るべき道のりでした(24節)。私たちにもそれぞれの走るべき道のりがあります。終わりまで主にゆだねて走り尽くす生涯を送りましょう。

1/14 「愛を求めて」        ヨハネの手紙4章7~12節          小林泰輔師

  • 「LINE」などのSNSの普及と流行の背後には、誰かとつながりたいという欲求があるように思います。人々の愛を求めてさまよう姿の表われでしょうか。
    ①愛を求めてさまよう私たち。聖書は「ここに愛がある」(10節)と愛をもとめてさまよう私たちに答えを提供しています。心に開いた穴を埋めるために、人とのつながりを求めるのですが、神の愛だけが私たちの心を満たすことができるのです。「神は愛」である(8節)とありますが、愛は、神のご性質の一つというよりもすべてです。神の正義も、神の裁きも、神の聖さもすべて私たちへの愛のゆえです。
    ②何によって神とつながるのか。それは「その方によって」(9節)とあるように、ひとり子イエスさまによってです。「いいね」を求めて承認されるよう努力しなくても、神の方からひとり子イエスさまを世に遣わしてくださり、私たちの仲介者としてくださったのです。愛を知らない罪人であった私たちは、その罪ゆえに神の怒りを身に受けるべき者でしたが、イエスさまの十字架によってその罪が赦されました。そして、愛する生き方を知らなかった私たちに、ご自身のいのちをささげる生き方を通して、愛するということを示してくださいました。
    ③誰とつながるのか。神に愛されているという確信を得て、神とつながるならば、神の愛を供給源として、他者とつながることができます。神の愛を人々に提供することができます。私たちの努力ではなく、神の子どもとされ、神に似せられた者として愛に生きることができるように、真のいのちを得させてくださったからです。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(11節)。愛を求めてさまよう人々に、愛の神とつながるように知らせましょう。