説教要旨

12/2「愛は選択するもの」 ピリピ人への手紙1章1~11節 小林泰輔師

  •  ピリピ書はパウロが獄中で書いた手紙ですが、その特徴は「喜び」にあります。獄中でその後のことがわからない不安や恐れの中で、にもかかわらずパウロは喜んでいたのです。ピリピの教会がパウロの見舞いのためにエパフロディトを派遣したのですが、彼が病気になり、かえってパウロの世話を受けることになったため、パウロは彼を送り返すのにこの手紙を添えることにしました。しかし、そのピリピの信徒たちの愛の行動のゆえに、パウロは感謝の思いに満たされたのでした。その愛に表されたピリピの信徒たちの信仰の成長を見て、喜びに満たされたのでした。「コイノニア」とは交わりという意味ですが、ともに何かに与ることを意味しています。ピリピの教会は、パウロの宣教の働きのために、祈りとささげものとエパフロディトの派遣によって支援し、その働きに参与したのです。そうしてまたともに恵みに与ったのです。
     パウロの祈りは、さらに教会が愛において成長するようにということでした。愛は知識と識別力によて豊かになります。愛は大切なことを見分け、決断することを伴います。私たちが何かを選択するときには色々な判断をしています。損か得か、勝算があるか、ストーリーの背景や道理、コスト、それを回収できるか、リスクはどうかなどです。選択にはそういったデーターが必要です。それらが実証されているかはさらに重要です。そして一番確かな御霊の知識と識別力は「イエスに倣え」を唯一の勝利の道であると導きます。イエスの愛は十字架で実証されました。十字架に死に私たちを生かしてくださる主の愛に倣い、それを選択することが、私たちの喜びにつながるのです。

11/25「忠実な人」(『成長』より) ルツ記2章1~7節 小林泰輔師

  •  ルツとナオミは未亡人としてともにベツレヘムで暮らしていくことになりました。しかし、女性二人で生きていくのは大変です。ルツは、生活のために落ち穂拾いをしにでかけていきました。“落ち穂拾い”は神さまのあわれみによる律法でした。収穫の刈り入れのとき、こぼれ落ちたものは拾ってはならない、それは貧しい人や寄留者のために取っておかなければならなかったのです(レビ19:9,10)。そうして出かけていった所が、「はからずも」親類のボアズの畑だったのです。ボアズは、ルツのことを周りから聞いて知っていました。モアブ人でありながら、イスラエル人の義母に仕えて同じ神を信じていること(1:16)などを聞いて、感銘を受けていたのでしょう。ルツにとても親切にし保護しました。そして、他の畑に行かなくても良いと告げ、十分に食べられるように落ち穂を拾わせてあげました。家に帰ったルツは親切な畑の持ち主のことをナオミに話しました。すると、そのボアズはナオミの夫エリメレクの親類で、「買い戻しの権利」(レビ25章参照)を持つ人だったのです。
     私たちにとっては偶然のように思える出来事も、神さまの摂理の御手のうちにあっては必然だったのです。また、「買い戻し」とは「贖い」のことであって、ルツ記を見ると、神が私たちを贖ってくださるということがどういうことかが良く分かります。優しいボアズは行き場のないルツを買い戻し、そばに置き、妻として愛しました。ボアズの姿にイエスさまの姿を重ね合わせて見ることができます。罪の中から贖い出してくださり、キリストの花嫁として下さったことを心から感謝します。

11/18 「霊の戦い」 エペソ人への手紙6章10~20節 小林泰輔師

  •  エペソ書において、パウロは教会について語ってきました。それは、終わりの日、贖いの日のために、教会を整えるためでしたが、戦闘の前にラッパを
  • 鳴らすように、ここで、最後の戦いに備えよとのメッセージを聞きます。地上の教会は戦う教会です。その敵は血肉(人間や国々)ではありません。
  • 霊の戦いであるとパウロは語ります。
     霊的存在は三つあり、それは①神、②御使い、③人間です。中でも堕落した御使いが悪霊なのです。悪霊のかしらはサタンです。また、人類の敵は聖書では
  • ①罪、②死、③諸々の力(悪霊)と言っています。罪は主イエスの十字架によってすでに打ち砕かれました。死は最後の敵でありますが、それもやがて完全に
  • 滅ぼされると書かれています(Ⅰコリ15:26、黙示20:14)。日々直面する戦いにおける敵は、諸力としての罪です。罪は原罪として私たちの内にあるだけでなく、
  • 諸力として外側からも誘惑や攻撃をしてくるのです。
     しかし、私たちは主にあって(in Christ)大能の力に強められます(10)。神は戦いに勝利するに十分な武具を与えてくださいます。①腰は肉の要ですが、
  • 真理を私たちの中心に据えます②心臓(命)を守るのは正義に歩むことです③足もとを固めるには、神との平和をしっかり確立することです
  • ④火矢は思わぬところから放たれますが、それを守り打ち消すのは信仰の大盾です⑤頭(知性)を守るために、救われた者としてふさわしいことに知性を
  • 用います⑥みことばの剣によってサタンの誘惑に勝利します。それから祈りによって自身を整え、全軍のためにとりなしの祈りによって備えるのです。
  • 勝利はすでに約束されています(ヨハネ16:33)

11/11 「キリストと教会の奥義」 エペソ人への手紙5章21節-6章4節 小林泰輔師

  •  この箇所は、結婚論、家庭論のようでありながら実は教会論であります。キリストと教会の関係の奥義の中に夫婦の奥義があります。キリスト者は、キリストと教会の愛し従う関係を知っているので、良い夫婦とは何かを知っているとも言えます。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(21節)。これが教会論の肝です。それを説明するために格好の材料として夫婦や家庭を例に挙げているのです。
     妻は主に従うように夫に従いなさいとあります。これは男女論や優劣の問題ではなく、秩序の問題です。キリストがかしら(頭、トップ)で教会はからだです。かしらはからだに命令を出しますが、また当然、かしらはからだを労わります。互いの権利を主張し合っていては良い夫婦にはなれないように、教会の兄弟姉妹は自分を捨て、一致して、主に仕えるように互いに仕え合います。
     夫はキリストが教会を愛したように、妻を愛しなさいとあります。主イエスがどのように教会を愛されたかを思い起こしましょう。十字架に自分をささげて愛してくださいました。①言葉②時間③手助け④スキンシップ⑤プレゼントによって愛を伝えることができますが、相手の求める仕方で伝えるために苦手なことでも練習しましょう。また主イエスは花嫁を聖く整えてくださいました。夫が妻を愛するなら妻は聖く整えられて夫に喜んで従います。その麗しい関係は神の栄光を表します。
     キリストの教会の中に尊敬と服従と愛が正常に流れているなら、平和があり、愛が満ち、神の栄光が表されます。壊れた世界を愛で築き直すため主はあなたを遣わされます。御跡に従って歩みましょう。

11/4 「生き返った女の子」 ルカの福音書8章40-42,49-56節 小林泰輔師

  •  会堂管理者ヤイロの娘が病気で死にかけていたために、ヤイロ自身が主イエスのみもとに来て、ひれ伏して、自分の家に来て下さいと頼みました。主イエスは応じて下さり、ヤイロと共に少女のところに向かいますが、途中で長血を患う女性を癒す出来事があり、そうしている間にヤイロの娘が息を引き取ったという知らせが舞い込んできます。それでも主イエスはヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。そうすれば、娘は直ります」(50)と言われました。大勢の人が娘の死を泣き悲しんでいるところで、主は「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」と言われましたが、人々はそれをあざ笑いました。しかし、主が娘に「起きなさい」と声をかけられると、なんと娘は生き返ったのです。
  • ①ヤイロは、イエスさまならば娘の病気を直すことができると信じてみもとに来ました。私たちもイエスさまを頼って祈ることができます。
    ②祈りの答えがすぐに得られない時でも恐れないで神さまを信じ続けるならば、必ず祈りはきかれます。
    ③主イエスは死んだ人をも生き返らせることのできるお方です。「ただひとり大いなる不思議を行われる方」(詩篇136:4)に、不可能なことはありません。
  • 神さまを信じ、神さまに祈り続け、神さまから力を受けて歩んで参りましょう。

10/28 「約束の地で」 ヨシュア記14章、24章 小林泰輔師

  •  神さまがイスラエルに与えると約束して下さったカナンの地にやって来ました。ここまで来るまでに神さまは不思議な方法でイスラエルを助けて下さいました。ヨルダン川の流れをせき止めて下さったり、エリコの城壁を崩して下さったりと、いつもイスラエルと一緒にいて助けてくださったのです。
     カナンの地に入ってから、ヨシュアは土地を12部族で分けようと提案しました。それぞれの部族のリーダーがくじを引いて土地が割り当てられていきました。カレブは85歳になっていましたが、強い敵のいるアナク人が住む地域をあえて選んで出て行きました。神さまを信じていれば勝てるという信仰があったのでしょう。そうしてアナク人に買ってヘブロンに住みました。
     ヨシュアがおじいさんになったとき、イスラエルの人たちを集めて言いました。イスラエルを救ってくださった神さまをいつまでも信じるかと。民は信じますと答えました。そしてヨシュアは「私と私の家とは主に仕える」(24章15節)と言って、記念に大きな石を立てて信仰告白のしるしとしました。
     私たちも、イスラエルを救い出し、私たちを罪から救い出してくださった神さま、御子イエスさまを信じて、その信仰を子どもや孫や、そのまた孫の孫まで信仰を継承していきましょう。

10/21 「幸福の方程式」 使徒の働き20章17~35節 エミリー・チョウ宣教師

  • 「受けるよりも与える方が、幸いである。」教会の2018年度の年間聖句の箇所です。方程式の「x,y,z」を用いて説明しましょう。
    【X=キリスト】Xはギリシャ語の「キリスト」の頭文字です。パウロはイエス様が語られた言葉を大事にしていました。イエス・キリストは頭であり、
  • イエス様に従いたいというモチベーションをもって御言葉を受け取ると、力が与えられ、それが霊的成長に繋がり、神さまが用意された真の人生の祝福を
  • 受け取ることができます。
    【Y=なぜ(Why)】Y―英語の発音では「なぜ(Why)」と同じ―なぜ私たちも教会で集まった人に関心を持つべきなのでしょう。
  • 教会は、父なる神と御子イエスと聖霊と共に三位一体の働きによって成り立っている共同体だからです。聖霊の導き、あるいは賜物を受けるだけでも
  • 素晴らしいですが、さらにそれを他の人に与え、神さまのなさるみわざを伝えていくことが本当に祝福されることだと思います。
     【Z=絶対の真理】Z―日本語で読むと「絶対的な真理」を思い出します。「絶対」というのは完全に信頼できることです。パウロは聖書時代の人たちに、
  • 「受けるよりも与えるほうが本当に幸いであると、真理として受け取ってください」と教えました。現代の私たちは何が人生の幸せだと思っているでしょうか?
  • 何よりもキリストに従う人生こそが幸いであると信じますか?

10/14「神の物語」 マタイの福音書25章31~34節 小林泰輔師

  •  この世界はどこから始まり、どこに向かっているのか。これもまた普遍的な問いです。聖書にはその答えがあります。世界の始まりから終わりまでの神の物語(His story)が私たちの世界の歴史(History)なのです。
     今日の短い箇所の中に終わりと始まりのことが記されています。「人の子」は御子イエスのことですが、彼はやがて御使いを伴って来て、栄光の王座に着座されます(31)。その王座は裁きの座でもあります。すべての国の民が集められ、山羊の中から羊をより分けるように裁かれます。羊飼いであるイエスのことばに聴き従った者たちは羊として、主の右に置かれるのです(31,32)。そうして王は右にいる者たちに言われるのですが、この情景はナイト(騎士たち)が王の前に跪き、ナイトの称号とともに権威の剣を授けられるようなものです。私たちの称号は「父に祝福された人たち」です。世の初めから選ばれ分かたれていた者たち。その者たちが呼び集められ、御子イエスとともに御国を治める権威を与えられるのです(34)。
     そこから始まる新しい物語、それは今まで関係ないと思っていた私の物語と神の物語とが出会って、ひとつに結ばれ、紡がれていく、新世界の物語です。私たちはそのひと紡ぎの物語のただ中に置かれています。そこにおいて、聖書に記された過去の歴史は「前回までのあらすじ」、黙示に記された出来事は「次回予告」(断片的にしか見ることができない)のようなものです。聖書に示された新しい神の国のあり方とその民のあるべき姿を、主イエスの模範に従って歩んで参りましょう。

10/7「何のために生きるのか」 ミカ書6章8節 小林泰輔師

  •  「何のために生きるのか」とは普遍的な問いであり、それは「人はどこから来てどこへ行くのか」という風にも問われることがあります。存在の根源を問いつつそこから生きる意味を見出そうということでしょう。そこには前提として人は至高の存在(創造主)によって生み出されたものであるということがあります(もし人が進化論的偶然の産物ならこのような問いは全く無意味です)。
     あらゆる思想(宗教を含め)による答えは「幸せになるために生きる」ということにたどり着きます。そこで今度は「何が人にとって幸せなのか」という問いになっていきます。伝道者の書において、著者である「伝道者」(ソロモン王を指す)は幸せとは何か、およそ人が言いそうなことをすべて試してみます。労苦によって得たものを楽しみ、快楽を得ることに幸せを見出しますが、それは一過性のものでしかありませんでした。人の労苦に対する神からの賜物として一定の価値は認めつつ、やはり快楽を追い求めていくことは空しいと言います。
     また、人のあらゆる生の営みを詩的に表現し、そこには神の時があることを見出しました(3章)。そして、神が働かれる時、私たちの為したことはすべて実りあるものに変えられる、それは美しいことだと言うのです。今ここで私の為したことが御手の中で用いられ、神の御国を形造っていくのです。そこに私たちの生きる意味があり、喜びがあるのです。同じ道のりを歩んでも“神のために”“神と共に”歩むのか、そうでないかで、喜びの人生か、空しい人生かに分かれるのです。主イエスのように公正を行い、誠実を愛し、神と共に歩んで参りましょう。

9/30 「約束の地の偵察」(『成長』より) 民数記13章1~3、17~20節 小林泰輔師

  •  エジプトから救い出したイスラエルの民に神さまは「カナンの地」を与えると約束してくださいました。その約束の地に近づいたとき、神さまはモーセにカナンの地を探らせるように命じられました。そうして各部族から代表者が選ばれ、12人の偵察隊がカナンの地に入りました。そこで大きなぶどうをひと房とり、棒でかついで、他のくだものとともに持ち帰りました。そのくだものに表されているように、約束の地は、とても良い土地だったのです。しかし、そこには強力な先住民がいました。「ネフィリム人のアナク人」は巨人だったのでしょうか。彼らには「自分がいなごのように見えた」と言ってその強大さを恐ろし気に報告しました。民はその報告にすっかり意気消沈して、こんなことならエジプトで死んだ方がましだったとつぶやきました。それどころか、神さまがお立てになった指導者であるモーセとアロンに代えて、新しい指導者のもとエジプトに帰ろうとまで言い出す始末でした。
     けれども、カレブとヨシュアの報告は違いました。他の10人と同じく「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった」と言いましたが、さらに「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう」と信仰によって報告しました。また神の約束の地を前に人々を恐れて引き返すことは、神にそむくことであると言い、主がともにおられるのだから恐れてはならないと信仰によって奮い立ちました。主はイスラエルの不信仰をさばかれ、20歳以上の者とカレブとヨシュアのみが約束の地に入れられることになりました。

9/16 「恵みを与える人」 エペソ人への手紙4章17~32節 小林泰輔師

  •  この箇所には道徳的な教えがたくさん出てきます。それらは何のためにあるのでしょうか。私たちが立派な人になるためでしょうか。死の間際に
  • 「良い人生だった」と言えるようにするためでしょうか。もしそれだけならキリスト教でなくてもよいかもしれません。しかし、聖書が命じることは、
  • 「贖いの日のために」(30)という終末論的観点をもって見なければなりません。
     主イエスは再び来られ、この天地を新しくされ、王として統治される主なる神です。それが「贖いの日」であり、そのときすべての被造物は贖われて
  • 新しくされるのです。天の御国の文字通りの始まりですが、その日に先行して今、すでに神の国(支配)は始まっています。私たちはキリストとともに
  • よみがえって新しくされ、新しい神の国の秩序と規範に生きる者です。
     タラントのたとえにあるように、私たちが主イエスからタラントを与えられたのは、この世を良く管理するためです。道徳的に立派な人間になるためではなく主の御心を成し遂げるためです。主は「わたしとともに冒険しよう、世界を変えよう」と私たちを召しておられるのです。神からの恵みを地中に埋めて
  • 無駄にするのではなく、リスクを冒してでも、コストを払ってでも、この世を神の国のように変えるために、今ここで、私たちの良いわざが必要と
  • されているのです。
     この世は神の痛みに無感覚です(19)。神が創造され良しとされた世界、神のいのちからいかに遠く離れていることか(18)。
  • そのような今の世であるからこそ、キリスト者が、教会が、恵みを分け与える者でなければなりません。新創造される世界には、悲しみや怒りの叫びは似つかわしくありません(31)。互いに赦し合い愛し合う世界となるのです(32)。主よ。御心が天で行われるように地でも。今ここで、私を用いてください。

9/9「愛のうちに建てられる」 エペソ人への手紙4章1~16節 小林泰輔師

  •  私たちは、イエスさまのように成熟した愛の器となるために、この世にに置かれています。私たちはこの世の流れに逆らう者です。パワハラの横行する世に謙遜と柔和を、他者に非寛容な世に寛容、愛、忍耐を、分断されている世に平和、一致をもたらすために、教会はこの世から呼び出され、置かれているのです(1-3)。
     それぞれが自分の価値観や思想や宗教で自由に生きていくことが認められている反面、“普遍的な唯一の真理”というものは幻想であったかのようにとらえられている世にあって、唯一の神を信じ、救いの道はただ一つであると証しし、教会はキリストのからだとして一つであることを宣言して歩むように召されています(4-6)。
     しかし、からだは一つだけれども、さまざまな器官が備えられているように、私たちはそれぞれユニークに造られたものです。各人に与えられた賜物があります(ロマ12:4-8、Ⅰコリ12:4-11、Ⅰペテ4:11参照)。牧師や教師の務めは聖徒たちを整えることです。そうしてキリストのからだを建て上げるのです(11,12)。
     キリストの信実と知識によって私たちは力を受けて、内側から造り変えられることによって成熟し、キリストの身丈にまで達することができます。自分の力で生まれ変わることはできません(13)。
     「教えの風」や「波」(14)に流されないようにするためには、キリストの十字架の愛を錨として打ち込み、愛のうちにしっかりとどまっていなければなりません。十字架の愛とは自分をささげることです。真理などないと言う世の流れに逆らって、愛をもって真理を語り、愛のうちに教会を建て上げることによってキリストの栄光を示す、その召しにふさわしく歩みましょう。

9/2「第二の人生」 ヨハネの福音書3章1~5節 小林泰輔師

  •  パリサイ人で議員のニコデモが、夜、イエスさまのもとを訪れるお話です。律法の教師であり、議員でもあり、いわゆる「センセイ」と呼ばれる立場の人でしたが、この人の心には飢え渇きがありました。イエスさまが「神がともにおられる」ような「しるし」をともなう力ある働きをしておられるのを見て(2)、感嘆し、自分もイエスさまのような働きをしたいという願いを秘めてみもとにやって来たのです。
     イエスさまは言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3)。ニコデモは生まれつきの自分ではダメだという現状の否定を受け入れなければなりませんでした。「センセイ」と呼ばれ、生活に不自由なく過ごしていましたが、それでも満たされない飢え渇き、心の夜を抱えていました。それは生まれつきの罪の性質からくるものです。そのような自分に死んで、イエスさまとともによみがえり、生まれ変わる必要があるのです。
     「人は、老年になっていて、どのようにして…」とは、年老いたニコデモにとって「too late」という諦めに近い心境でしょう。どんなに自分を変えようと思ってもできず、新しく生まれるなどどのようにしてできるのだろうかと、絶望したのではないうでしょうか。イエスさまは然り(アーメン)とおっしゃいました。新しく生まれることは自力ではできません。イエスさまは「水と御霊によって生まれなければ」と言い換えられました。水のバプテスマは悔い改めの儀式です。水に沈められ古い自我に死ぬことです。御霊によってとは、イエスさまの復活のいのちに与り新しく生まれ変わることです。そうして私たちは神の力を受けて永遠のいのちに、神の国(支配)のうちに生かされるのです。

8/26 「エジプトに下った災い」(『成長』より)  出エジプト記6章1~8節 小林泰輔師

  •  神さまはエジプトで奴隷になっているイスラエルの民を救い出すために、モーセとアロンをファラオの前にお遣わしになりました。主を礼拝するためにイスラエルの民を行かせなさいと伝えましたが、「主とは誰だ」と言って知らん顔です。すると神さまはエジプト全土に10の災いをお下しになりました。
     エジプト人にとってのシンボル、ナイル川の水を真っ赤な血に変えても、街中をカエルだらけにしても、王様は神さまの言うことを聞きません。虫(ぶよ、はえ、いなご)による作物や人への被害や、家畜の病気や、人のからだのできものでも言うことを聞きません。恐ろしい雷や雹が降ってきてもダメです。ひどい災いが起こるとちょっと心が変わりますが、災いが過ぎるとすぐ元通りに頑なになってしまいます。
     それから神さまはエジプト全土を真っ暗闇にされました。エジプト人の信じる神は、太陽の神でしたから、真っ暗になるということはイスラエルの神(ヤハウェ)の方がエジプトの太陽神よりすぐれているということになります。ほんとは太陽の神などなく、ただおひとり、イスラエルの神しかおられないのです。
     それでも王様はイスラエルを行かせません。そこで最後の災いが下されますが、それは大変恐ろしいものでした。エジプト中の初子が人や家畜に至るまで、みな死んでしまったのです。これには王様だけでなく家臣たちも懲りて、そうしてイスラエルはエジプトから救い出されました。このようにお救い下さる神さまはただおひとりだけです。

8/19 「ジーザス・リメンバー・ミー」 ルカの福音書23章32~43節 エミリー・チョウ師

  •  「リメンバー」という言葉を辞書で調べると、「覚える」と「思い出す」の2つの意味があります。誰かから「リメンバー」されたいということは、人にとって最大の願望とも言えます。人生の最期の時、死にゆく人は、だれの記憶の中であったとして、生き続けるのだと感じたいのです。
  •  ルカの福音書に出てくるイエス様と一緒に十字架に付けられた犯罪人は、イエスさまに人生の最期で「リメンバー・ミー」のようなリクエストをしました。誰も自分のことを覚えておらず、これから死ぬという全くの絶望の中でも誰かに覚えられていたいという願いが彼にはあったのです。
    ずっと沈黙されていたイエス様は彼の願いを聞いた時、こう言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は完全な救いをこの人に告げられました。ただこの人のことを覚えていて、そして天国に入れる時に思い出すということだけではなく、イエス様は、この人と神様との関係が回復することを約束されました。
      リメンバーについて理解したいのは、「覚える」と「思い出す」の他にもさらに「リ・メンバー」―私たちが、再び神の家族のメンバーになるということです。教会というのは、神の家族としてリ・メンバーされている人たちの交わりです。これからも共にその愛の中で成長しましょう。

8/12 「キリストにある富」  エペソ人への手紙3章1~21節 小林泰輔師   

  •  ①キリストにある囚人パウロ。ローマに捕らわれたという事実をパウロはキリスト・イエスにあって囚われているのだと捉えています。そして、パウロ投獄中にも主は教会を通して宣教のみわざを進めてくださるのなら、それはエペソ教会にとっても光栄なことだから落胆しないようにと励ましています(13)。
     ②教会を通して実現する神の奥義。奥義とは秘められていたことですが、それが啓示によって明らかになりました。その奥義とは、異邦人もユダヤ人もともにキリスト・イエスにあって、神の国の共同相続人とされるということです(6)。パウロはそのために異邦人伝道の使徒に召されました(7-9)。パウロは自分を「いと小き者より小き者」(文語訳)と述べて、そのような者に「キリストの測りがたい富」が委ねられているというコントラストを示しています。これこそが人を召して用いる神のやり方でした。土の器(Ⅱコリ4:7)である私たちを通しても主は福音宣教を進めてくださいます。
     ③キリストの愛を知る力。1章同様のパウロの祈りが展開されますが、ここではキリストの愛を知る力が強調されます。「力をもって…内なる人を強くして」(16)、「理解する力」(18)、「私たちのうちに働く力」(20)。キリストの愛は「人知をはるかに越え」ているので(19)私たちの知性に頼って悟ることはできません。かえって私たちは自分の経験則などにより、広さ、長さ、高さ、深さのリミットを設けて神の愛を考えてしまいます。神の愛は測り知れないほど深く、それは豊かな富のように莫大な恵みをもたらすということを知るのもまた、神の力なのです。神の愛と御力に満たされて参りましょう。

8/5「ただ一つのこと」  ルカの福音書10章38~42節  小林泰輔師

  •  聖書の教えていることはシンプルです。それは、神を愛して生きるということです。
     【必要なことは一つ】イエスさまはマルタとマリヤ(そしてラザロ)の家に招かれました。そこでマルタは愛するイエスさまとそのご一行のために一生懸命もてなしました。妹のマリヤはイエスさまのそばに座り話に聞き入っています。そこでマルタは忙しさから、先生であるイエスさまに、マリヤにも手伝うように言ってくださいと注文します。イエスさまは愛をもってマルタを諭しました。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです」(42)。給仕とみことばを聞くことの単純な比較ではないでしょう(礼拝が何よりも大切なことは言うまでもないことです)。必要なことは主イエスを愛する思いで目の前のことに取り組むことです。
     【ただ一人の神】神は唯一です。それと同じく神は私たちを唯一の者として愛してくださいます。神は私を宝としてくださいます(申命7:6-9)私のために死んでくださる神が他にあるでしょうか。イエスさまはかけがえのない私のために、十字架で罪を贖ってくださったのです。
     【一番大切なこと】ある律法学者が、一番大切な教えは何ですかと、主イエスに尋ねました(マルコ12:28-34)。イエスさまは、一番大切なのは「われらの神である主は、唯一の主である」と答えられました。どんなときでもこの神さまを全力で愛すること以上に大切なことはないのです。神を愛することは、隣人をどれだけ愛したかではかられますから、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えてくださいました。

7/29 「心配しない」  マタイの福音書6章19~34節  小林泰輔師

  • 「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(20)と、イエスさまはおっしゃいました。そして「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(21)と。これは私たちが何を一番頼りにしているかを問うています。頼みにしているものがあるところにその心は向きますが、神さまを頼みにしている人の心は神さまに向くのです。神と富とを同時に頼みとすることは、二心の仕え方であると教えられました(24)。
     だから、空の鳥や、野の花を神さまが養い育ててくださるように、愛する私たちのためならなおのこと、よくしてくださらないわけがないのです。何を食べるか、何を着るかということは、異邦人の切に求めているものです(32)というのは、この世の神々を頼みとする人たちがまさにそうです。与えられる御利益だけを求めていく関係が、この世の神々との関係ですが、まことの神が求めておられるのは、私たちの信頼と畏敬、礼拝です。ですから、イエスさまは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33)と、まず神さまに信頼し、神さまの統治(神の国)を求めなさいと言われました。神さまはご自身の国を良く治められる方ですから、神さまの国とその支配が完成するなら、自ずと私たちの必要は満たされることになるのです。
    天の父、私の主、来るべき王である神さまを信頼しましょう。

  • 7/22 「キリストこそ平和」 エペソ人への手紙2章11~22節 小林泰輔師

    •  キリストにあって新しく造られた私たち(10)は、ユダヤ人も異邦人もなく、「新しいひとりの人」(15)、すなわち「教会」として建て上げられていきます。パウロはエペソの異邦人信徒たちに語りかけます。以前、どのようなものであったか、神の救いの契約の外にいて、神もなく望みもなく歩んでいたことを引き受けてくださり、十字架で死なれたことにより成し遂げられました(13~15)。ユダヤ人は神の律法に内在する裁く力を使って異邦人を断罪していました。しかし、もはや律法の敵意はキリストの十字架によって廃棄されたので、思い出してくださいと(11,12)。私たちも同じく、真の神を知らず、罪を犯し、神に対する反逆者として暗闇の中を歩んでいました。しかし、神は私たち異邦人をも救い出して、神の民に加えてくださいました。それは、反逆者に対する神の敵意を、神のひとり子イエスさまが一身にユダヤ人も異邦人もひとつにせられるのです。
       そうして神は、新しいひとりの人、「教会」を創造されたのです。教会は「神の家族」(19)です。初めに創造されたアダムとエバの、失われた「神のかたち」を回復すべく、神は教会を再び家族としてお造りになられたのです。個人の救いを越えて、共同体として、共に生きるように呼び集められたのです。教会では、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストを要の石としてしっかり結び合わされ、成長していきます。神の家族として父の御前に出ていきます。そして、主は私たちを主の宮として住み、教会を用いてこの地を治められるのです。このキリストこそ平和であることを宣べ伝え、和解の使者として破れ口に立ってとりなし、祈りましょう。

    7/15 「破れ口に立つ」 創世記18章1~3.3節 田中秀亮師

    • ①信仰の回復(1-15節)
       17章に続いて神はアブラハムに現れた。それはサラに子どもが来年生まれることを直接伝えるためであった。しかし、サラは自分の年齢という現実を
    • 見つめ、神の約束を一笑に付した。われわれ人間は現実から未来を予測する。
    • それ自体は否定されるものではないが、それだけしかないならば、そこに信仰はない。ただの現実主義者である。神はわれわれの知恵や常識、
    • 自然界の法則を超越して事を為される。そのことを約束することばを語りかける。アブラハムとサラは神のことばが真実であることを知っていった。
    • われわれも語りかける神を待ち望み、神のことばが真実であることを知っていくのである。
      ②破れ口に立つ(16-33節)
       神はアブラハムを友と(イザヤ41:8)、イエス・キリストにある者を友と呼ばれ(ヨハネ15:5)、ご自身の御心を明らかにされる。神は友であるわれわれに
    • 世の「叫び」を聞かせ、留まるべき「破れ口」に立たせる。この世界の「破れ」を執り成させるためである。キリスト者は人間の善や正しさを増幅したり、
    • 貫徹することを追求するよりは、神の大きなあわれみと恵みがこの世界にもたらされることを追求することによって執り成す存在である。
    • 神はその祈りを聞いてくださり、この世界をあわれんでくださる。

    7/8「この世の中で」  エペソ人への手紙2章1~10節   小林泰輔師

    •  私たちが今いる世、この世の真っただ中に神が下りて来てくださり、私たちは救われたということ。これが神の恵みによる救いということです。
       ①この世の中で。「~の中で(希)エン(英)in」という語がいくつも出てきます。「罪過と罪の中で」(1節)「罪の中」(2)「不従順の子らの中」(2,3)。私たちの罪は聖い神からすれば汚泥のようなもので、私たちはその罪の泥沼のただ中でもがいている者です。また「この世の流れ」(2)とは、今日的には自由主義や個人主義もそうでしょうか。それらは濁流のようで、逆らって生きることができません。「空中の権威を持つ支配者」サタンにより聖い生き方を選べないようにされ、愛し合い仕え合う生き方よりも、自由主義や個人主義を吹聴しながら、その実孤独に生きることを強いられているのです。
       ➁恵みによる救い。「しかし、あわれみ豊かな神は」(4)罪のただ中にある私たちを救い出してくださいました。イエスさまが人となってこの濁流と汚泥のただ中に入って来られ、十字架の死という危険を自ら冒して救ってくださったのです。これは「ただ恵みによる」ことでした。
       ③新しい創造。神はアダムを神の似姿に創られましたが、堕落によって罪が入って来て、神のかたちを失いました。神はもう一度私たちを「キリスト・イエスにあって造られ」ました。この罪の世のただ中で、キリストにあって(in Christ)造られたのです。新しく造り変えられた者には、新しい生き方「良い行い」が備わっています。最新の掃除機には素晴らしく掃除をする機能が備わっているように。神は教会を整え、教会を通してご自身の恵みと慈愛を明らかにしてくださいます。

    7/1「主の喜びの宴」      ルカの福音書15章1~10節     小林泰輔師

    •  ルカの福音書15章には三つのたとえ話が出てきますが、これは三つでひとつのたとえです。話の流れはみな、失われたもの、探される神、見つけられる喜びで共通しています。
       ①失われた者。私たちは神の前から失われた者です。羊は極端に弱い生き物です。羊飼いの守りと導きがなければ死んでしまいます。銀貨は価値あるものですが、持ち主の手を離れては価値を発揮することができません。家出息子は父との愛の関係を失いました。私たちは、神を離れては命を失い、生きる価値を失い、愛と喜びの関係を失ってしまうのです。
       ➁探される神。羊飼いは命をかけて羊を探します。危険を顧みず深い谷底に下りて来てまで救うのです。銀貨を探すためには家の明かりをつけ(燃料を消費する)見つかるまで労力を惜しまずに探されます。家出息子は父の愛を思い出し、その愛に手繰り寄せられて、帰郷を果たしました。父は遠くから見つけて走り寄り、もう一度息子として受け容れました。
       ③主は喜び歌われる神。迷子の羊も、失われた銀貨も、家出息子も、ともに元に戻ったときには祝宴が開かれます。ゼパニヤ書3:17には主は喜び歌われると書いてあります。これは私たちが贖われたことを喜び歌われているのです。古代の王が勝利したときには吟遊詩人に勝利の歌を歌わせ、戦利品を眺めて楽しんだように、主は私たちをご自身の所有とされたことを喜び歌われるのです。しかも、主なる神の愛による支配は私たちにとっても安らぎとなるのです。主イエスは剣によってではなく十字架の贖いを通して勝利を取られましたから、主のもとに立ち返りましょう。そこに真の喜びと平安があります。

    6/24「教会の主」       エペソ人への手紙1章15~23節   小林泰輔師

    •  教会の主はイエス・キリストです。神の救いのご計画とその素晴らしさは、1章前半に見てきた通りです。パウロはそれを賛歌のように記していますが後半はパウロの祈りが記されています。
       パウロはエペソ教会の信仰の成長を喜び、感謝をもって祈っています(15,16)。そしてさらに祈りますが、それは「あなたがたが、知ることができるように」という祈りでした。①神ご自身を知るように(17)。父、御子、御霊のひとりなる神を知ることができるように。「知る」とは一体となるほどに近くなることを意味しています。三位一体の神が親しく交わるように、私たちも神さまと一体となるほどに近くなれますように。➁心の目がはっきり見えるように(18)。目に見えない神さまの、まだ見ていないけれどもやがて見ることになる御国の完成の約束を、幻(ビジョン)として見ることができますように。そうして実際に目で見てきた者のようにその素晴らしさを知ることができるように(ヘブル11:1)。③神の力を知ることができるように(19)。力は体感するものです。「力」はデュナミスとエネルゲイアという言葉が使われています。ダイナマイト、エネルギーとなっていく言葉です。固い岩盤をも打ち砕くような力が神さまにはあります。私たちの困難な状況や、固定観念を打ち破り、「どんなことでもできる」(ピリピ4:13)力です。その力は主の復活と高挙によって明らかにされました(20)。
       主は天の御座につき世を統べ治められます(21)。主は私たちをキリストのからだとしてくださり、私たちは力を帯び、この世を治めます。世が神を知るために、神の満ち満てるところ(23)として、私たちの教会も建て上げられて参ります。

  • 6/10「恵みの栄光」        エペソ人への手紙1章1~14節   小林泰輔師

    •  エペソ書はおそらくパウロがローマで軟禁されている状況で書かれました。エペソをはじめアジアの諸教会にあてて書かれたものと思われます。ここでは教会について学ばされます。みことばの適用が、いま、ここで、私に語られていると受け取ると同時に、「私たち」「あなたがた」とは私たちの教会へのメッセージであることを受け取りたいと思います。
       3節から14節までは句点なしの一つの分として書かれています。ほむべきかな!と始まるこの文章は、神の啓示を受けたパウロが、それをまるで素晴らしい一枚の絵画のように描き出しながら、多角的に主を賛美しているところです。そこには父、御子、御霊のひとりなる神が登場し、様々な教理やその意義が描かれ、さらに歴史や物語が織り込まれています。
       パウロはここで、「世界の基の置かれる前」(4)から、再臨のとき「御国を受け継ぐ」(14)も至るまでの神の救いの歴史を描き出します。それは御父が御子イエスにあって行われたことであり、それが神のご計画であったことを解き明かしています。神が与えてくださる祝福(3)は、救われる者として私たちが選ばれたこと(4)、神の子とされること(5)、それが予め定められたこと(5)です。そしてイエスさまの初臨によって十字架による血の贖いがなされ(7)、私たちは神のものとなりました。また再臨にあって御国の完成のときに私たちはそれをキリストにあって受け継ぐ者となります(11)。その恵みの栄光(6)と喜びは、聖霊が与えられたことにより確かなものとされました。聖霊は御国を受け継ぐことの保証(別訳「手付金」)なのです(14)。私たち教会は、この恵みの栄光をほめたたえるために集められました。
  • 6/3「あるべき姿に」       ヨハネの福音書5章1~18節   小林泰輔師

    •  エルサレムの賑やかな祭りの裏側に、ベテスダの池の奇跡伝説にすがる病人たちのたまり場がありました。イエスさまはそこに来られ、38年間病気に苦しんできた人を癒されました。主はその人を「見て」、その苦しみが長いのを「知って」、「良くなりたいか」と聞いてくださいました。主は私たちの問題を知っていてくださいます。それが長いことであるのも知っていてくださいます。そして、この朝、みことばを通して「良くなりたいか」と聞いてくださいます。
       病人を癒したその日は、安息日でした。安息日は神が天地を造られ、それを良しとされた後、7日目にみわざをやめられて休まれました。ですから、私たちにも7日目は休むようにと聖書で命じておられます。しかし、聖書のほかにユダヤ人の伝統的ルールにおいては安息日にしてはいけないことがたくさんありました。癒された人が床を担いで歩くのはユダヤ人にとっては違反にあたることでしたので、ユダヤ人はこの人を咎めます。イエスさまは安息日に病人を癒し、罪の赦しを宣言することをよくされました。それによってご自身が神であることをあらわしておられたのです。安息日は人にとっては休息ですが、神さまは、堕落によって失われた人間と世界を救うために今も休まず働いておられるのです。
       主が私たちに聞いてくださる「良くなりたいか」は、個人的な問題の解決というところを越えて、神に創られた良いものとしてのあるべき姿に戻りたいかということではないでしょうか。あるべき姿を取り戻したなら、救ってくださった方がイエスさまであることを知らせるように遣わしてくださいます。

    5/27 「聖霊の働き」       使徒の働き28章16~31節    小林泰輔師  

    •  ペンテコステは聖霊が弟子たちに降ったことの記念です。聖霊に満たされた弟子たちによって宣教が拡がり、使徒パウロがローマに遣わされるところまでを
    • 「使徒の働き」は取り扱っていますが、それはそのまま「聖霊の働き」でした。
       ペンテコステの聖霊は「炎」のようでした。①炎は熱い。私たちの心を燃やし、神への愛と人々の救いのための情熱に駆り立てます。
    • ➁炎は燃やし尽くします。罪や汚れを燃やすために、悔い改めに導かれます。イザヤは唇を炭火によってきよめられました(イザヤ6章)。
    • ③ペンテコステは言葉にまつわる奇跡でした。聖霊に満たされた人は言葉が変えられます。
       パウロはイエスさまに出会い、悔い改め、聖霊に満たされ、イエスさまを呪う者からイエスを主と宣べ伝える者へと変えられました。
       27章では囚人パウロの移送における船旅において、難破しそうになるところです。私たちの人生航路が難船しそうなときこそ聖霊が必要です。
    •  神はパウロに船の乗員276名を与え、パウロを用いてその命を救いました。私たちも置かれている所でその人々の魂をゆだねられたものです。
    • その人々救いに導くために主にあって遣わされています。
       28章ではついにローマにたどり着きます。そこでユダヤ人の同胞たちにイエスさまを宣べ伝えますが、目に見える成果はほとんどありませんでした。
    • パウロはイエスさまと同様(マタイ13:14-17)イザヤ書のみことばを用いて叱責しました。
      私たちは聖書を通して主イエスを見、みことばを聞き、祈りに応えられ、癒される、そのような経験をしています。主を信じて従い、主を宣べ伝えましょう。
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5/20「祈りを教えてください」   ルカの福音書11章1~13節   小林泰輔師

  •  召天者記念礼拝を、主の昇天記念の日に行うようにしています。主は「昇天」ですが、私たちは自力で天に昇ることはできないので「召天」です。
     十字架で死なれたイエスさまは三日目に神の力によってよみがえり、40日を弟子たちとともに過ごしたのち天に昇られました。それはまた同じ有様で天から下ってこられることを弟子たちが信じるためのしるしでした。もう一度同じ有様で来られた時には、この天地を目に見える形で統べ治める真の王として来られます。天の御国の民は、この真の王なるイエスさまに信従する者でなければなりません。ですから、王の支配が宣言・予告されているこのときに、イエスさまを信じて従いましょう―これが教会の使信です。
     聖書はテスタメントと英語では言われますが、それは「遺言」という意味もあります。先に召された方々の姿が遺しているのはこの御国の福音とともに、主の前で謙って祈る姿ではないでしょうか。イエスさまご在世当時、弟子たちは「祈りを教えてください」と願いました。すると主は「主の祈り」を教えてくださいました。①父よと親しく呼びかけ➁神が聖なる唯一の神としてあがめられますように③主の統べ治める御国が来ますように④日ごとの必要が満たされることによって主の統治が素晴らしいことが証しされますように⑤私たちの罪を赦していただくとともに、私たちも他者の罪を赦すことができますように(互いに愛し合い赦し合うことが新しい御国のルール、ヨハネ13:34)と祈るように教えてくださいました。また聞かれるまで祈ること、父の御思いは最も良いものを与えることであることなどです。信仰の父母の姿にならい祈りの生涯を歩みましょう。

5/6「キリストによって招かれて」  イザヤ書43章10~13   小林泰輔師

  •  イザヤ43:1にこうあります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」イスラエルの民に言われた言葉は、イエス・キリストによって今日、私たちにも語られています。私たちはキリストによって招かれて、一人一人、名前を呼ばれてこの場所にいるのです。神が私を招きたいという御思いは強く、それを実行される御腕も強く、誰もそれをとどめることはできません(13節)。
     私自身が教会に導かれたときのことを思い起こします。友人を通して教会に招かれ、初めは別の興味で教会に集っていたのが、いつしか聖書の御言葉を聞いてみたい、礼拝に参加したいという思いが与えられました。聖書を読むようになってイエスさまを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けたいという願いが与えられましたが、親の反対に遭いました。しかし、祈り、祈られて、神の導きにより、親の心も変えられて同意を得られて受洗の恵みに与りました。
     神はあなたの名を呼んで招いておられます。私たちは神に逆らう罪の奴隷でした。奴隷が名前で呼ばれることはほとんどないでしょう。しかし、神がキリストの十字架の犠牲によって代価を支払い、私たちを買い取ってくださり、私たちはキリストによって親しく名前で呼ばれる者となりました。私たちは自分で選んで教会に来たのではなく、はるか昔から、神の救いのご計画によって選ばれて、そうして時至って今、名前を呼ばれてここにいるのです。神さまからの招待を喜んで受け入れ、イエスさまを救い主として信じましょう。力強い御手に守られ、導かれる生涯は幸いです。ぜひ信じましょう。

4/29「主の証し人」  使徒の働き26章   小林泰輔師

  •  アグリッパ王の前でなされた弁明もまた、証しそのものでした。パウロの証しから、私たちの救いの証しの手本にすることができます。パウロは「以前は、私自身も」と、自分がどのように罪深い者であったかを語り始めます。私たちもそうするべきです。それから、復活のイエスさまに出会って、変えられた体験を話しました。
     パウロに現れたイエスさまの声は「起き上がって、自分の足で立ちなさい」と言われました。主の証し人として証しするためにこそパウロは選ばれ、救われたのです。(16節)
     また主は、ご自身で選び任命された証し人を「救い出し、遣わ」して、証しと宣教の使命を全うすることができるように任命責任を果たされます。(17節)
     福音の全容と証し人のゴールは、人々の「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」ることです。また信仰により赦しの確信が与えられ、聖なる神の子どもとして御国を相続するのです。(18節)
     パウロの弁明を通しての証しは、アグリッパ王や総督フェストの心に大きな影響は与えたようです。どちらも素直に信仰を持つことには至りませんでしたが。文章には表れてはいませんが、迫害されているのに喜びに溢れており、鎖につながれているのに誰よりも自由であり、犯罪人のように貶められているのに高貴な威厳をたたえて語る姿がそこにはあったのではないかと想像します。パウロは霊の目が開かれ御国の栄光を見ていたのではないでしょうか。

4/22「天に昇られたイエスさま」(『成長』より)   使徒の働き25章1~12節 小林泰輔師

  • 十字架にかけられ、墓に葬られ、三日目によみがえられたイエスさまは、それから40日あまりのあいだ、弟子たちの前に現れました。イエスさまは、弟子たちに命じられました。「あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、御子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、…彼らを教えなさい」(マタイ28:19)そして、そのためにはイエスさまご自身がともにいてくださることを約束してくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
     それから、聖霊を与えられるまでエルサレムにとどまるように言われました。聖霊はバプテスマのように上から注がれるということを予告されました(使徒の働き1:4,5)。そうすれば、力を受けてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、またイスラエルから遣わされて地の果てにまで、イエスさまの証し人として用いられると語られました。
     その後、弟子たちの見ている前で天に昇られました。呆然と立ち尽くす弟子たちに御使いが現れて言われました。「イエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)再び来られるときには王として統べ治めるために来られます。私たちはその神の国の統治が始まることを伝えるのです。聖霊により力を受けて、ともにおられる主に励まされながら、神の国の到来の知らせを宣べ伝えましょう。

4/15 「裁きのとき」  使徒の働き25章1~12節   小林泰輔師

  •  新総督フェストゥスの着任に伴い、二年間放置されていたパウロの裁判が再び行われました。ユダヤ人指導者たちの執拗な訴えにもかかわらず、
  • やはりここでも何も罪に定められることはありませんでした。それでも釈放とはならなかったので、パウロはこの問題の決着のために皇帝に上訴しました。
  • こうしてパウロのローマ行きが決定しました。
     パウロを訴えるユダヤ人の執念から思い起こされるのは、私たちを罪に定めようと迫ってくる告発者がいることです。サタンは告発者(黙示12:10)として、私たちの罪を訴えます。しかし、エルサレムに向かう前のパウロが書いているように、神によって義とされた私たちを訴えることのできる者は誰もありません(ローマ8:33,34)。また、私たちの罪の罪状書きや、債務証書は、十字架に釘付けられて破棄されましたから(コロサイ2:14)、サタンが偽りの罪状書きを捏造して訴えてもそれは無効です。
     しかし、私たちは神の御前に出る時がやがて来ます。それは皇帝の法廷以上の最高の権威がある裁きの場です。御子を信じる者が裁かれることはありません(ヨハネ3:18)。しかし、福音を信じたその後の歩みがどのようなものであったかは、神の御前で申し開きをしなければなりません。十字架の贖いという土台は揺るぎません。しかし、その土台の上に何を建て上げたかは問われます。取るに足りないちりあくたのようなものを積み上げたのか、自分の持てる最も尊いものを神にささげて天に宝を積んだのか(Ⅰコリ3:10-15)。裁きのときにそれらが明らかになり、行いに応じて報酬が与えられます。天においてすべての労苦が報われます。良いわざに励みましょう。


4/8 「福音の感染力」 使徒の働き24章1~21節   小林泰輔師

  •  福音(良い知らせ)は人を動かす力があり、またそれを要求します。パウロや使徒たちが語った福音は、「勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続け」ました(コロサイ1:6)。パウロを訴えるユダヤ人弁護士テルティロがパウロを「ペスト(疫病)のよう」と評したのは悪意からでしたが、案外、言い得て妙なところがありました。
     疫病は、人々にとって害のあるものです。確かに福音はある人々にとっては良い知らせではありませんでした。イエスはよみがえられたという知らせは、イエスが真のメシア(救い主)であり、王であり、神であったことを示す証しです。それを信じ受け入れたくない人にとっては、つまずき(スキャンダル)だったのです。イエスはよみがえられ、天に昇られたという事実は、やがて真の王としてもう一度来られるという予告を信じさせるものであり、人々に服従を要求するものです。しかし、主イエスの統治は愛とあわれみと公義によるものです。それは神の民となることで味わうことのできるものです。あなたはこの支配を受け入れますか。
     また疫病は強い感染力を持ちます。あわれみに満ちた、真の義なる王が統べ治められるという知らせは、人々を喜ばせ、慰め、希望をもたらします。新しい王の統治はくまなく布告されてから実現します。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて…それから、終わりの日が来ます」(マタイ24:14)。ある意味で世界に死をもたらすものですが(十字架に死ぬこと)、それはあたらしく再生するために必要なことです。すでに新生の恵みをいただいた私たちを通して、この福音は感染していきます。主のものとされていることを喜び、人々に感化を与えるクリスチャンにならせていただきましょう。

4/1 「驚きと喜びの知らせ」 マタイの福音書28章1~15節   小林泰輔師

  •  イエスがよみがえられたというニュースは、大スクープであり、ある人にとってはスキャンダルでもありました。
     神さまが、復活の最初の目撃者に選んだのは三人の女性たちでした(マルコ16:1)。十字架と葬りの際にも遠巻きに見守っていた人たちでした。安息日が明けて改めて遺体に香料を塗ったりしようと、墓まで行くと、墓の封印は解け、石の蓋が除けてありました。墓が空であるのを見たマグダラのマリアは急いで弟子たちに告げに行きました(ヨハネ20:1-2)。地震が起きて御使いが現れると、イエスさまはここにはなくよみがえられたことを告げました。それを聞いたもう一人のマリアとサロメは他の弟子たちに知らせに行きますが、その道中でよみがえりのイエスさまにお会いしました。彼女たちは御足を抱いて礼拝し、主イエスが礼拝すべきお方であり王の王であることを示しました。
     墓の番兵たちの幾人かがユダヤ人指導者の下へ知らせに行きました。そこで指導者たちは番兵たちの証言を改ざんさせて、夜間に弟子たちが遺体を盗んだと、これを言い広めさせました。ユダヤ人指導者たちにとってはこれはまさにスキャンダル(Ⅰコリ1:23、原語スカンダロン「つまずき」の意)だったのです。
     主イエスの復活のニュースはインパクトのあるものでした。イエスが死に勝利したことで、「信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)ことが確証されました。罪の赦しも確かなものとなりました(Ⅰコリ15:17,20)。しかし、信じない者にとってはイエスが真の神、王の王であられたので反逆者になってしまう、つまずきの知らせでした。
     私たちはこの知らせを伝えるべく召された者です。世界中に知らせましょう。

3/25 「十字架のイエスさま」 ルカの福音書23章32~34,39~43節 小林泰輔師

  •  イエスさまは罪のないお方ですが、当時のユダヤ人指導者たちに憎まれて十字架につけられることになりました。十字架の上のイエスさまは多くを語ることはできませんでした。罵られても罵り返すようなことはなく、苦しみにもだえながらも耐え忍ばれました。4つの福音書を見るとイエスさまの十字架上のことばは7つであったことがわかります。そのいくつかを見ていきます。
    「父よ彼らをお赦しください」人々は罵ったり、自分を救ってみろと言ったりしましたが、そういう人たちのために父なる神さまに赦しを願って祈られました。私たちも自分の罪の重さも分からずに神さまに対して罪を犯しますが、その私のためにも祈ってくださるのです。
    「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」二人の犯罪人のうちの一人がイエスさまに言いました。「わたしを思い出してください」自分の罪を思い知って、神に赦しを請うことすらできないと思ったのか、精いっぱいの心でただ思い出してくださいと願った者の心を見てくださり、ただちに救いの確証を与えてくださいました。
     「父よ。わが霊を御手にゆだねます」苦しみの中で私たち罪人のために祈ってくださり、私たちの身代わりとなり、神に見捨てられた者のように叫ばれ(マルコ15:34参照)、残された者のために愛の絆を結び(ヨハネ19:26,27)、贖いのみわざを完了されたイエスさまは、父なる神に霊をゆだねますと言って息を引き取られました。その一部始終を見ていたローマ兵士は「本当に、この人は正しい方であった」(47)と感化を受け、神を賛美しました。

3/18 「勇気を出しなさい」 使徒の働き23章1~11節   小林泰輔師

  • 主は私たちに使命を与え、私たちの人生を用いて、ご自身の栄光を表してくださいます。それを最後まで成し遂げてくださるのは主の御手によるということを知るなら、勇気が湧いてきます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13)「今よりわれは主なり。わが手より救ひだし得るなし。われ行わば、誰かとどむることを得んや」(イザヤ43:13文語訳)。
     パウロは捕らえれローマの千人隊長の管理下でユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)にて取り調べを受けることになります。パウロの度重なる弁明は、神が用いられたメッセージの機会でした。パウロの弁明を遮る大祭司アナニヤは、神からパウロを通して「白く塗った壁」と言われ、また後に神に打たれることが明かされます。パウロはサドカイ派とパリサイ派の分断をねらって、小細工をしたのでそれ以上の証しの機会は失われました。
     その夜、主はパウロのそばに立って「勇気を出しなさい」と語られました。ローマに行くということはパウロの願いであるばかりでなく、神の御心でもあることがここで明らかになります。そして、事を行ってくださる神の御手が、パウロを守り導くのです。
     パウロ暗殺のために40人の刺客が決起しますが、神はローマの軍隊を用いて10倍の兵力で護送します。私たちの周りにも御使いの軍勢が取り囲み守られています。「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)。どんな困難や試みの中でも勇気をもって証しの生涯を歩み続けましょう。

3/11「受けるよりも与えるほうが幸い」 使徒の働き20章35節 小林泰輔師

  • 「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
    2018年度の標語聖句です。福音書にはないイエスさまのみことばですが、「幸いな者とは誰か」ということは、山上の説教での八福の教え(マタイ5:3-11)や、詩篇においても取り扱われています。詩篇においては「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩2:12後半)とあるように、主のそばにいることが一番の幸いだと教えています。また、山上の説教においては、貧しくても、悲しくても、状況に左右されすに、主とともにある者を幸いだとしているのです。
    誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
    私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。
  • そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

    3/4「パウロの弁明」              使徒の働き22章1~22節         小林泰輔師

    • 「アジアから来たユダヤ人」の言いがかりと扇動によってパウロは殺されそうになりましたが、間一髪やって来たローマ兵により難を逃れます。パウロはそこで弁明の機会を与えられますが、これを自分の名誉の回復のためではなく、主を証しするための好機として用いました。
      主イエスは、捕らえられ、受難に向かい歩まれる中でも、一言も弁明をされませんでした。主は無言により、パウロは雄弁により、ともに神の御心を明らかにし、神の栄光のために機会を用いたのです。
      パウロの弁明から主の救いを証しすることの手本として学ぶことができます。①私も皆さんと同じ罪人でした(1-5節)。過去にどのような人生を辿って来たかは人それぞれですが、神の救いを必要としている罪人であることは共通しています。パウロはキリスト教の迫害者でした。➁主イエスとの出会い(6-11節)。パウロは「なぜわたしを迫害するのか」という主の声を聞きました。そこで自分の迫害してきたイエスと愛する主が同じ方であることに気づきました。あなたが主に出会い、悔い改めに導かれたのはどのようなみことばを通してでしょうか。③信仰に導くために主が用いられた人(12-16節)。主はアナニヤにも語られ用いられました。あなたを導いた人に働かれた主のわざを証ししましょう。④新しく与えられた使命(17-21節)。救われてのち、あなたに起きた変化は何でしょう。新しくされた人生はどのようなものでしょう。パウロは異邦人宣教という使命が与えられました。
      「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ人への手紙5:16)

    誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
    私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

2/25「恐れないで、信じる」(『成長』より)  マルコの福音書5章21~24、35~43節   小林泰輔師

  • 会堂管理者のヤイロという人の、12歳の娘が病気で死にかけていました。ヤイロはイエスさまが病気を癒すことのできるお方だと信じて、娘のために祈って癒してくださるようにお願いしに来ました。イエスさまはヤイロの願いに応えて家に向かいますが、道中で12年間病気に悩まされていた女性に出会います。その女性の求めにも応じていると、その間にヤイロの娘は死んでしまったという知らせがやってきました。それでもイエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」(36節)と言われました。今度は病気の癒しではなく死人の復活を信じなければならないのですが、イエスさまは信じ続けなさいと言われます。イエスさまが家に入られるとたくさんの人が泣いていました。イエスさまは、これは死んだのではない、眠っているのだと言いましたが、それを聞いて人々はあざ笑いました。
    イエスさまが「少女よ、起きなさい」という意味の言葉を語られると、少女の目が開いて、起き上がり、歩き始めたとあります。そうして、食事をとるように優しく勧めてくださいました。
    このように、初めより状況が悪くなっても、主は、信じ続けなさいと言われます。神さまが「恐れるな」と言われるときは何かをなさろうとするときです。信じて待ち続けましょう。

2/18「ただまっすぐに」         使徒の働き2章1~26節       小林泰輔師

  • パウロは使命に燃えてエルサレムを目指しますが、そこでは受難が待っていることが聖霊によって本人にも、周りの人にも示されていました。それでもパウロはただまっすぐにエルサレムに向かっていきました。これは、受難が予期されていながらエルサレムに向かったイエスさまのお姿に重なるものがあります。
    イエスさまはご自身で受難の予告をされました(マタイ16:21)。それをペテロが諫めると「下がれ、サタン」とまで仰られて「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました(同23節)。その後、十字架を負って主イエスに従うという大切な教えを語られました。
    パウロの場合も、パウロを心配する弟子たちから、エルサレム行きをやめるよう説得されます。彼らもまた「御霊に示されて」のことでしたが(4)、パウロも「御霊に縛られて」(20:22、2017版)、自分の十字架を負って突き進むのでした。
    エルサレムに着いてから、異邦人伝道の成果を報告し、神を賛美したのもつかの間、エルサレム教会の長老たちはパウロについての噂を取り扱います。パウロがユダヤ人の慣習をことごとく捨てるように教えているというのです。これは根も葉もないことでしたが、このユダヤ人にとってはつまずきとなる悪い噂を払拭するために、長老たちはパウロが誓願の費用を負担することを提案します。パウロはこれに何も反論していません。もはやこのような取るに足らないことで足止めをされるより、パウロは異邦人宣教とユダヤ人との融和を求めて、ただまっすぐに進みたかったのではないかと想像します。私たちも与えられた使命にまっすぐに向き合い走り続けましょう。

2/11「天のふるさとへ」          ルカの福音書23章32~43節     岩井清師

  • 3回のシリーズでお招き頂いた。これまでに①天地創造の主を知ること②罪からの救い主であるキリストを知ること、このように語ってきた。今回は③天のふるさと、永遠のいのちについて語りたい。永遠のいのちとは、まことの神と、イエスを知ることだとある(ヨハネ17:3)。
    イエスの弟子の代表格はペテロとパウロであるが、両者とも“すねに傷持つ者”であった。パウロはキリスト者たちを迫害していたが、律法に「木にかけられた者は神にのろわれた者」とある(申命21:23)、その十字架の木にかけられたイエスがメシアだなんてと、つまずいたのである。しかし後に目覚めてイエスさまは私たちの代わりに本当にのろわれた者となってくださったのだと知ったのである。
    ルカが記す十字架の詳細には他の福音書にはない二人の強盗とのやりとりがある。おそらく二人とも最初はイエスをののしったのであろう。けれども、十字架の苦しみを耐え忍びつつ「父よ。彼らをお赦しください」とご自身を傷つける罪人たちのために祈る救い主イエスさまの姿を見て、この一人の強盗は目覚めて回心したのである。私たちも人生の苦しみの中で神の恵みと真実に触れ、信仰に目覚めることがある。この強盗はイエスさまが天国の御座に就くとき「私を思い出してください」と願ったが、すぐに「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださった。主イエスは私たちのために御座から祈られる。「I pray for you.」と約束してくださる方。
    主は私たちが天国に至る旅路を歩むために、祈っていてくださる。私たちは生まれたとき、目的地を知らずにこの世の旅を始めるが、福音を聞き、目的地は天国と神の栄光であることを知らされた。旅の途中で引き裂かれ、傷つけられることもある。しかし主は忘れないで祈っていてくださる。この旅を終えて天のふるさとへ凱旋するその時まで。

2/4「みことばによる育成」        使徒の働き20章28~38節      小林泰輔師

  • パウロの告別説教の後半部分から学びます。前半はパウロの姿勢から教えられましたが、この後半は教会へのより具体的な忠告が含まれています。
    まず群れの監督、指導者たちに忠告します(28)。「群れ」という言葉が示すのは私たちは弱い羊であるということです。昨今、リーダーシップが叫ばれていますが、まさに主イエスのような良い羊飼いとしてのリーダーシップこそ必要です。また聖霊によって任命されたリーダーに従います。リーダー自身は聖霊の導きを求めてみことばに仕える働き人です。
    教会には色々な「教えの風」(エペソ4:14)が吹き込まれるおそれがあります。外からは偽預言者が羊の皮をかぶった狼のようにしてやって来て(マタイ7:15)、内では毒麦が紛れ込んでいる(マタイ13章)ようなものですが、両方とも、実によって見分けることができます。
    パウロの良い実は、昼夜絶えず、涙をもって執り成しの祈りを続けた姿勢に見られます(31)。そしてさらにみことばに信頼する教役者パウロは、「神と恵みのみことばに」(32)ゆだねました。信仰を成長させてくださるのはパウロではなく、神さまだからです(Ⅰコリント3:7)。成長して良い実を結ぶ者は御国を受け継ぐのです。
    「受けるよりも与えるほうが幸い」(35)と思えるのは成長の実の表われです。主はそれを実行できる者に私たちを造り変えられます。神がご自身の血をもって教会を買い取られたように、犠牲を惜しまず種を蒔く人に変えられます。そのようにしてキリストに似た者へと変えられるのです。

1/28 「イエスさまの弟子」(『成長』より) ヨハネの福音書1章35~51節      小林泰輔師

  • イエスさまの最初の弟子たちのお話です。アンデレとヨハネは、ともにバプテスマのヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネがイエスさまを見て「見よ、神の小羊」と言うのを聞いて、イエスさまの方についていくことにしました。アンデレには兄弟がいて、名をシモンといいました。アンデレはシモンに「私たちはメシヤ(キリスト)に会った」と言ってイエスさまを紹介しました。シモンはイエスさまから「ケパ(ペテロ、「岩」の意)」と呼ばれて、イエスさまの弟子になりました。その翌日、ガリラヤに向かう途中でピリポに出会ったイエスさまは「わたしに従って来なさい」と声をかけられました。ピリポも弟子になりました。ピリポはナタナエルにイエスさまのことを話しました。聖書に書いてある救い主に会ったと話したのですが、ナタナエルは聖書をよく勉強していました。ナザレから救い主が出るとは書いていないと言って信じませんでした(イエスさまはベツレヘムで生まれました)。しかし、イエスさまと出会い、イエスさまがナタナエルのことをよく知っていて「あなたはほんとうのイスラエル人だ」と言ってくださったので、イエスさまを信じて「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と告白しました。
    弟子たちはイエスさまのお働きを一番近くで見て学びました。私たちもイエスさまに従い、イエスさまから学び、神さまを伝えるお手伝いをしましょう。

1/21 「終わりまで走り尽くす」 使徒の働き20章17~27節        小林泰輔師

  • パウロのエペソ教会への告別メッセージより、パウロの伝道者・牧会者としての姿勢から学びます。
    ①いつも人々とともに過ごしてきた。人間嫌いでは牧会はできません。人付き合いが苦手な性格だったとしても、まず自分自身が主の愛を身に受けることで、必ず変えられます。主のまなざしで人を見るようになります。
    ②試練の中でも謙遜であった。誤解され、迫害を受けても、我を通すのではなく、謙遜でいることで主イエスの十字架の姿が表されます。
    ③涙とともに仕えた。多くの人が十字架の敵(ピリピ3:18)として歩んでいるのを見て、涙の祈りをもって執り成しました。
    ④本当に有益なことを語り、信頼された。主イエスの福音を語り、いのちにあふれた生き方を伝えたので人々に請われて講堂や家庭集会で語ることができました。
    パウロが伝えてきたメッセージは①神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰、十字架の力への信頼(21節)②神の恵みの福音(24節)③御国の到来(25節)④神のご計画のすべて―天地創造~再臨・新天新地(27節)でした。
    パウロはアジアの諸教会の献金を携えてエルサレムを目指しますが、そこでは迫害が待っていると聖霊によって示されます(23節)。しかし、パウロはそれでも旅を続けます。自分の命を永らえさせるために生きているのではなく、主の御用のために生かされていることを確信しているからです。それが、パウロの走るべき道のりでした(24節)。私たちにもそれぞれの走るべき道のりがあります。終わりまで主にゆだねて走り尽くす生涯を送りましょう。

1/14 「愛を求めて」        ヨハネの手紙4章7~12節          小林泰輔師

  • 「LINE」などのSNSの普及と流行の背後には、誰かとつながりたいという欲求があるように思います。人々の愛を求めてさまよう姿の表われでしょうか。
    ①愛を求めてさまよう私たち。聖書は「ここに愛がある」(10節)と愛をもとめてさまよう私たちに答えを提供しています。心に開いた穴を埋めるために、人とのつながりを求めるのですが、神の愛だけが私たちの心を満たすことができるのです。「神は愛」である(8節)とありますが、愛は、神のご性質の一つというよりもすべてです。神の正義も、神の裁きも、神の聖さもすべて私たちへの愛のゆえです。
    ②何によって神とつながるのか。それは「その方によって」(9節)とあるように、ひとり子イエスさまによってです。「いいね」を求めて承認されるよう努力しなくても、神の方からひとり子イエスさまを世に遣わしてくださり、私たちの仲介者としてくださったのです。愛を知らない罪人であった私たちは、その罪ゆえに神の怒りを身に受けるべき者でしたが、イエスさまの十字架によってその罪が赦されました。そして、愛する生き方を知らなかった私たちに、ご自身のいのちをささげる生き方を通して、愛するということを示してくださいました。
    ③誰とつながるのか。神に愛されているという確信を得て、神とつながるならば、神の愛を供給源として、他者とつながることができます。神の愛を人々に提供することができます。私たちの努力ではなく、神の子どもとされ、神に似せられた者として愛に生きることができるように、真のいのちを得させてくださったからです。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(11節)。愛を求めてさまよう人々に、愛の神とつながるように知らせましょう。

1/7 「恵みふかき主」       マタイの福音書20章1~16節       宗眞理子師

  • 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(16節)
    イエスさまの譬え話。ぶどう園(神の教会)の主人は朝早く出掛けてぶどう園の働きびとを呼び集め1日1デナリの約束をして送り出しました。それから9時、12時、3時にも同じ様にしましたが、夕方5時ごろに行くとまだ立っている人がいたので彼らもぶどう園に招かれました。1日の労働が終ると皆1デナリを頂きましたが、朝から働いた人たちは期待した額ではなかったので不満でした(12節)。私たちの経験や常識では考えられない天国の譬え話だからです。神さまは小さい者や貧しい者たちにもご自身の愛と権威をもって大きな恵みを注いでおられます(14節)。
    一切を捨てて主にお従いしてきたペテロに(19:27)自らを大きくする思いを警告され、近づく受難、十字架、復活の栄光を語られ「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、贖いの死の代価として多くの人に真のいのちを与えるためです」(28節意訳)と、ユダの足をも洗ってくださいました(ヨハネ伝13章参照)。「神の国の到来」を告げるため此の世から召された私たちも喜びと感謝をもって与えられた賜物を自覚し用いられて人々を教会にお招きいたしましょう。

12/31 「愛の契り」        出エジプト記20章1~11節        小林泰輔師

  • 律法(十誡)授与の場面から2回に分けて学びます。律法は恵みであることを学びたいと思います。十誡という言葉は聖書には出て来ず、「十のことば」となっています(出エジ34:28等)。ヘブル語「トーラー」は原意は「道、方法」という意味ですから、『神の民として本当に豊かないのちを生きるための10の方法』と言えます。
    第一のみおしえは、ユダヤ人の解説書『タルムード』によれば2節です(キリスト教では前文として捉える)。エジプトから救い出してくださった主の恵みを覚えることが始まりです。第二は、ほかに神があってはならない、その像を作り、拝んではいけない、というものです(3~6節)。神の存在が“見える化”されるのは、民が神を信じ、みことばに従って生きるときです。そこに人々が神の存在を見るのです。神は人を神のかたちに造られたのですから、ほかの神を石や木で作ってはならないのです。
    第三は御名をみだりに唱えてはならない。自分の都合で神を使役するかのような祈りは、神を「あなた」としてではなく、「それ」として扱う行為です。第四は安息日を守ることです。何もしないことが神のみおしえを守ることになるのですから、神の恵みの最たるものです。現代社会で生産性の奴隷にさせらえている人々には必要な恵みです。「何もしてはいけない」ということではなく、主イエスのように安息日に良いわざを行うのはみこころにかなうことです。神の恵みを記念し、週ごとの安息を喜び祝うのが教会の礼拝です。愛の契りに置かれた者として喜んで神とともに、この道を歩んで参りましょう。

12/24 「最高のプレゼント」     ヨハネの福音書3章16節         小林泰輔師

  • 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
     クリスマスは楽しい行事ですが、その楽しさの理由のひとつは、プレゼントをもらえることにあるのではないでしょうか。今日のみことばには、神さまが私たちに与えてくださった最高のプレゼントのことが書いてあります。それは、「ひとり子イエスさま」のことであり、また「永遠のいのち」のことです。
     イエスさまは、神さまのひとり子としてヨセフとマリヤのもとにお生まれになりました。それは昔々からの神さまの約束の成就でした。神さまのもとから心も体も遠く離れてしまって、罪のために滅びそうになっている私たちを救うために、イエスさまは人となってこの地に来られたのです。
     私たちを救うその方法とは、実に、十字架の上で私たちの罪を身代わりに背負うことでした。イエスさまが鞭打たれ、傷つき、十字架によって死なれることで私たちは罪の罰を免れるのです。イエスさまがそのいのちを捨てて、私たちのために与えてくださったのです。そうしてイエスさまが復活されたことにより、私たちは罪赦されたことを知り、永遠のいのち、新しいいのちに生きることができるようになりました。神さまからの最高のプレゼントを感謝して受け取りましょう。

12/17 「主の宝となる」       出エジプト記19章1~15節         小林泰輔師

  • 19章以降は、シナイ山における律法の授与と律法の内容に入っていきます。「第三の月の新月」は過越から七週目あたりですが、主は律法(みおしえ)を授けるために、モーセを山に誘われました。そこで、主はまず「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと…を見た」(4節)と、自分たちが経験したことを覚えておくように言われました。主はイスラエルを御翼の陰にかくまい、時に御翼に載せるようにして守り導いて来られました。私たちも主に守られた経験を思い出すことにより信仰が強められ、励まされます。
    そしてその後、“だから”主に聞き従いなさいというふうに「…聞き従い、わたしの契約を守るなら、…わたしの宝となる」(5節)と言われます。交換条件のように聞こえますが、民の従順より先に、御翼に守られる恵みがあったのです。私たちの従順が神の恵みを引き出すのではなく、先行する恵みがあって、その応答として、聞き従う責任を全うするのです。
    アブラハムの家族から民へ、そして国へと増え広がりました。今や主の「宝」(5節)、「祭司の王国、聖なる国民」(6節)とされるのです。これは神の一方的な恵みによる祝福であり、アブラハムとの契約の成就でありました。
    民は応答しました。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」(8節)。すると主は、民がモーセを通して語られるみことばを「いつまでも…信じるために」臨在を約束してくださいました(9節)。私たちの信仰維持の努力より先に、臨在をもってご自身を現してくださるのです。民は三日目に主が降りて来られることに備えて、その衣を洗いました(10,11)。私たちも神の御前に立つ備えとして、小羊イエスの血で洗われた衣を身にまといます(黙示7:14)。それはキリストの花嫁の証しです(黙示19:8)。花婿イエスさまは、花嫁を宝のように愛おしみ守ってくださいます(黙示7:15-18)。

12/10 「主の助け手」       出エジプト記18章13~27節         小林泰輔師

  • このところで主は、舅のイテロを通してモーセをみこころへと導かれました。モーセはエジプト脱出の旅のどこかのタイミングで妻子をミデヤンの舅のもとへ帰していました。アマレクとの戦闘が終わるとモーセの妻子を連れてイテロが会いに来ました。そこでモーセは主がどのようなところから民を救い出してくださったかを語り、イテロもそれを聞きともに喜び主をほめたたえました。麗しい信頼関係が見られます。
    その後、モーセが民の諸問題を、霊的なことや、政治的、軍事的なことだけでなく、民事的なことまで、何もかも一人でさばいているのを見て、はっきりと言います。「あなたのしていることは良くありません」(17)信頼関係があればこそ言える忠告です。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」(箴言27:5)。「地上の誰にもまさって非常に謙遜であった」(民12:3)モーセもそのまま忠告を受け入れました(24)。
    モーセと民の関係は共倒れになる危機をはらんでいました(18)。そこでイテロは重荷を分け合うことを提案します。「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われた神は、「ふさわしい助け手」として妻を与えられました(創2:18)。私たちはひとりでは生きられません。重荷は分け合われなければならないのです。そのためには、夫婦だけでない主からの助け手が備えられています。
    イテロのアドバイスは的確で具体的でした。問題の仕分けをし(22)、階層を分け(21)、それにふさわしい助け手である小リーダーを立てました。小リーダーは①神を恐れる者、②問題に適した力のある者、③不正の利を憎む誠実な人が望まれました。
    私たちもお互いを牧会するためにこそ召されたのです。そのようにして教会は成長し、宣教が前進するのです。(使徒6:7)

12/2「主はわが旗」         出エジプト記17章8~16節          小林泰輔師

  • 荒野における水の確保は死活問題であり、それはアマレク人も同じでした。おそらくメリバ・マサで水が湧いたことを聞きつけたのでしょう、アマレク人が来てイスラエルと戦闘になりました(8)。モーセはヨシュアと民に命じてアマレク人と戦わせ、自分は丘の頂きに立ち、この戦いのために祈りました(9,10)。
    この戦いは主が命じたものではありませんでした。また、エジプト脱出の対エジプト軍の時のように主ご自身が戦われたものでもありませんでした。モーセの判断と決断により、ヨシュアが実行した戦いでした。神に依り頼むということは、自分では何も判断も行動もしないということではありません。「肉の思い」と称して主体的な決断を避けようとするのは聖書的と言えるのでしょうか。ローマ8:7,8によれば「肉の思い」とは神に反抗すること、神の喜ばれない判断のことです。その限りにおいて祈りつつも主体的に判断し、経過においても祈り続け、なすべきことを行うときに、主が私たちの決断をご自身の計画に組み込んでくださるのではないでしょうか。
    モーセは神の杖を手に持ち、高く掲げました。それは民の勝利のために祈ったことと、力ある神の杖を旗印に掲げたことと二つの意味があります。自分で決断し実行したことを祈りにおいて進めていくのです。また、戦場において疲れた兵士が旗印を見上げて奮起するように、私たちも自分に起きた神の救いのみわざ―主はわが旗―をいつも思い起こすことです。そうすれば勇気が与えられて勝利を得ることができます。
    旗印である神の杖を持つ手が下がらないよう、両脇でアロンとフルが支えました(11,12)。祈り合う友の存在は尊いものです。私は誰の祈りの友となれるでしょうか。

11/26 「イサクの結婚」      創世記24章2~4、7、10~14節       小林泰輔師

11/19 「なぜ主を試みるのか」   出エジプト記17章1~16節           小林泰輔師

11/12「神さまの約束」       創世記21章1~8節           小林泰輔師

11/5 「日ごとのマナ」        出エジプト記16章1~12節         小林泰輔師

10/29 「うちに帰ろう」        ルカの福音書15章11~24節       小林泰輔師

10/22 「神に愛されている」      イザヤ書43章1~4節      小林泰輔師

10/8 「イエスに出会う」 使徒の働き2章36~47節 小林泰輔師

  •  「キリスト者(クリスチャン)」とは、イエス・キリストに出会った人たちのことです。出会うと言っても、イエスが目の前に現れるわけではありません。また、「良い本に出会う」というような比喩でもありません。イエスさまを、今も生きておられる人格的な方として受け入れ、聖書を通して出会うのです。
     私たちの人生には、各々のストーリーがあります。そしてイエス・キリストのストーリー(His story)は、神と人との歴史(History)として旧新約聖書は物語るのです。多くの日本人にとって、その両者のストーリーは交わることがないように思われています。―神が天地を創造し、イスラエルの民を選び、愛して導こうとされるがイスラエルは反逆する、そして神はひとり子イエスを使者としてその愛を伝えようとされるが、御子イエスさえも拒絶され十字架にかけられる、しかしそれは人の罪を贖うための救いのご計画であった―という神による人類救済の物語が、イスラエルや人類といった漠然としたものではなく、他ならぬ私のためであったと知るとき、私のストーリーと神のストーリーがつながり、そこで、つまり、十字架において、私たちはイエスに出会うのです。「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(36節)。
     このことに心を刺され、悔い改め、バプテスマを受けるなら、神は私たちの人生に入って来てくださり、私たちとともに生きてくださいます。そうしてやがて人生の中心がイエスさまになり、この方のために、この方とともに、生きたいと思うようになるのです。イエスに出会い、神の愛の中で喜び生かされる日々を。

10/1 「ともに生きよう」 マタイの福音書11章28~30節       小林泰輔師

  •  神が私たちを愛しておられるというのはどういうことか、言い換えるならばそれは神が私たちに「ともに生きよう」と語りかけてくださることではないかと思います。神はイスラエルの民を求められ、ともに生きたい、あなたと一緒がいいと語りかけているようですが、これは愛の告白に他ならないですよね。
     神が世界をお創りになったとき、すべては人間の生活の必要に合わせて創られました(大気、気温等)。また「愛する」には相手が必要ですが、神の愛の対象としてアダムが創られました。その後、アブラハムを選び、イスラエル民族を選び、人と神の愛の交流のモデルとされました。イスラエルとともに旅する神となられました。しかし、神がイスラエルを求めても、イスラエルは常に神を求めるわけではありませんでした。他の神々に浮気をするのです。神はその引き裂かれるような胸の痛みを伝えるために、預言者ホセアに姦淫の女をめとらせたりもなさいました(ホセア書参照)。
     そうしてついに神ご自身が人となってこの地に来られ、その愛のメッセージを直接届けられました。それがイエスさまです。神のみこころは、神の子どもたちである人間が、神の御前で喜び歌い踊る姿を見ることです。私たちが活き活きとしていることが神の喜び(神の栄光)なのです。ですから、疲れていれば癒し、重荷を負っていれば共に担ってくださるのです。そして御子イエスさまは私たちの罪の重荷をも背負われて十字架にかけられたのです。主イエスは私たちの苦悩を知っておられ、ともに苦しみ、しかし、癒してくださり、よみがえりのいのちをもってもう一度立たせてくださるのです。


3/12「下に根を張り、上に実を結ぶ」 イザヤ書37章31節、詩篇37篇3節 小林泰輔師

  • 「ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」イザヤ書37:31
    「主に信頼して善を行え。地に住み誠実を養え。」詩篇37:3
     新年度の標語聖句はこの二つを導かれました。イザヤ書36~37章は第二列王記18~19章とほとんど同じですが、ヒゼキヤ王の代の南ユダ王国がアッシリヤの脅威にさらされたところ、イザヤを通して語られたみことばです。
     「下に根を張る」とは、第一にみことばに根ざすことではないでしょうか。詩篇1篇には、みことばを口ずさむように生きる者は水路に植わった木のように豊かな実を結ぶとあります。また、この地域に根ざすということも導かれています。「その実は食物となり、葉は薬となる」(エゼ47:12)とある通り、民を癒す者とならせていただきたいのです。
    詩篇37篇にも「上」と「下」の二つの方向が描かれています。上は天を仰ぎ、主に信頼して善を行うこと、下は地に住み、世の人々の方を向いて良いわざを行うことです。「誠実を養え」とは、わかるような、わからないような表現ですが、「誠実」神との契約に対する誠実を意味します。「養え」と訳された語は「食物とする」という意味もある語です。それはイエスさまの歩みそのものです。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)。イエスさまの足跡について行き、この地にあって良いわざを行わせてくださる御霊の導きに従いましょう。