説教要旨

4/14「苦しみの欠けを満たす」 コロサイ書1章24節~2章5節 小林泰輔師

  •  「○○○○」は、○○○○○○○受難週は、イエスさまのエルサレム入城から始まりました。歓呼の声でメシア・キリストとして迎えられましたが、逮捕されると民の失望は「十字架につけろ」という叫びに変わりました。そうしてイエスさまは、罵られ、辱められ、十字架の痛みと苦しみを味わわれました。これは聖書の預言の成就でした。イザヤ書53章には、「苦難のしもべ」が描かれています。まさに十字架のイエスさまを指し示す箇所です。真のしもべは苦難を受けつつ世を救う者となるという、この預言と使命は、選びの民イスラエルの負うべき使命でした。しかし、イスラエルはその任務を全うしきれなかったので、ダビデの家に生まれたイエスさまが、真のイスラエル、苦難のしもべとして遣わされ、その任を全うされたのです。キリストの「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテロ2:24)とある通り、私たちの罪は贖われ癒やされたのです。
     今や、この苦難のしもべはキリストのからだである教会の使命となりました。キリスト者は自分の十字架を負ってイエスさまに従い行く者です。それゆえ、パウロは自分が苦難の中にあることを喜んでいます。それは神の使命に生きていることを表すからです。神さまのために、この世を救うために、神のしもべとして負うべきキリストの苦しみがあり、それを十分に負いきれていないという自覚から「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(24)という表現になったのです。
     私たちの神のしもべとして、キリストのからだなる教会で仕え、自分の十字架を負ってイエスさまとともに歩んで参りましょう。私たちの労苦と苦闘への信仰の報酬は人々のたましいの救いの喜びです。

4/7「向きを変えて」 マタイの福音書18章1~10節 小林泰輔師

  •  2019年度の初めであり、受難節です。新標語「心の一新」をおぼえつつ、このところから「悔い改め」について教えられたいと願います。「悔い改め」とは何か、それは「向きを変えること」です。3節のみことばは2017年版では「向きを変えて」となっていますが、前の版では「悔い改めて」となっています。
     弟子たちはイエスさまに質問しました。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」(1)。後の20章にもヤコブとヨハネを右大臣・左大臣のようにしてくださいなどというお願いも出てくるように、弟子たちの関心事が何であったかが見え透いている言葉です。能力主義による出世競争などは「この世の調子」の最たるものです。そんな弟子たちにイエスさまは「向きを変えなさい」と言われたのです。そして一番偉いのは子どもだと言われました。それは能力主義からいくと最もあり得ない答えでした。無能な子どもを引き合いに出すことで、弟子たちのこの世の考えを一蹴されたのです。子どもは自分が親の庇護なしには生きていけないことを知っていますので、全面的に親に依存します。そのように、すがるように熱心に神を求める者こそが、最も神に喜ばれる者だというのです。
     自分の力に頼って生きる行き方をやめ、神に立ち返って、御顔を仰ぎ見て生きる者は、心のきよい者です(マタイ5:8)。また、神の子どもとして父の愛を一身に受けて満たされるならば、他者を愛し受け入れることができる者に変えられます。小さい者のつまずきにならず、むしろ受け入れ、愛し、支え、建て上げる者へと変えられます。平和をつくる者になるのです(5:9)。そのためにこそ神に向きを変えて、悔い改めましょう。

3/31「三つの軛」申命記6章1~9節 エミリー・チョウ宣教師

  •  新約聖書の中でイエスさまが語られた第一の戒めは、ユダヤ人にとってシェマーという申命記6:4-9の箇所です。ユダヤ教では神さまとの契約を中心としているので、この箇所は神さまとの関係を毎日確認するため朝夕復唱されます。契約の対象であるその人が主の命令を守るならば、神さまからの祝福が受けられます。なのでこの箇所はユダヤ教のラビたちに「天国への軛」と呼ばれるようになりました。
     シェマーにはもう一つの箇所があります。申命記11:13-20です。ここのシェマーによると、ただ祝福のためだけに神さまに従うのではなく、守らなければ滅びるという恐れがあるのです。だからこの箇所はラビたちに「戒めの軛」と呼ばれています。
     同じ戒めを教えているイエスさまの、彼の軛とラビたちの軛を比べると違いがあります。「軛」という言葉から、奴隷、重荷、苦しみなどがイメージされているとしても、地上のすべてのものがそうであるように、イエス・キリストによってすべては造り変えられます。「わたしのくびき」と言われるイエスのくびきは、私たちの罪のために十字架で死なれ復活したイエスさまの愛と、その愛に応えたいという思いである神への愛と組み合わせるものです。キリストと共に歩む私たちは、自分の生活を通して具体的に真理を体験できます。神さまは赦しを与え、そして恵みと導きを与え、私たちを日々変え、成長させてくださいます。

3/24 「イエスさまに従う」(『成長』より)  マタイの福音書16章21~26節 小林泰輔師

  •  「叱られたペテロ」という題が教会学校教案『成長』ではつけられています。前の週のお話はどちらかというと「ほめられたペテロ」というような内容だったのですが、その後すぐ叱られているんですね。人々は人の子のことをなんだと思っているかと聞かれ、バプテスマのヨハネや、エリヤ、エレミヤといった偉大な預言者の名前があがるなか、ペテロは信仰をもって、「生ける神の御子キリストです」と答えました(16)。そしてあなたは幸いですとイエスさまはペテロに言いました。それは天の御父がペテロに教えられたことだからです。
     その後、イエスさまはご自分がユダヤ人の長老、祭司長、律法学者たちから苦しめられ、殺され、三日目によみがえらなければならないという十字架の贖いと復活の御心を話されました。ところが、ペテロがイエスさまを脇にお連れし、いさめて、そんなことがあるはずありませんと否定しました。イエスさまを思う気持ちと、また、イエスさまをユダヤ人の解放者に仕立て上げたいという願望もあったことでしょう。そのような心を見透かされて、イエスさまはペテロを叱って言います。「下がれ。サタン。…あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23)。私たちも自分勝手な願望をイエスさまに押し付けていることがあるのではないでしょうか。自分の願いが神の御心にかなうものかどうかを、へりくだって吟味していかなければなりません。
     そして、イエスさまは言われました。「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(24)。自己中心的な自我に死んで天の父の御心を求めていくなら主は教えてくださいます。そうしてイエスさまに従って参りましょう。

3/17 「御子による和解」 コロサイ人への手紙1章15~23節 小林泰輔師

  •  この短い箇所のなかにはキリスト教信仰や世界観が凝縮されています。私の救いという個人的な事柄だけでなく、万物に至る宇宙的な広がりを持たせながら御子による救いについて語っています。また、万物の和解という言葉は、現在の世界を読み解く鍵でもあります。天と地が創られたとき、それは完全で美しくとても良かったと、創造主なる神は満足されました。けれどもアダムとエバの堕落により、罪が入り込み、世界の秩序は破壊され、被造物もまた元のかたちを失ってしまったのです。人の内側に生まれながらにある罪の性質により、この世は争いや差別や貧困が絶えないものとなりました。また、万物被造物も人に対して猛威をふるうようになり、天災により苦しめられるようになりました。また花粉症や原発事故などは人の罪が生み出した人災と呼べるものでもあるでしょう。
     御子と御父は同質であられ(15)、天地万物の創造は御子により、御子のために造られ(16)、また御子にあって保持されていること(17)、御子は教会のかしらで、死者の中から最初によみがえられた方(18)、御子の十字架の犠牲により神の怒りはなだめられ、和解させられたこと(20)など、御子イエスに集中して書かれています。
     そして、私たちはかつて神に敵対していた者であったのが、御子の犠牲により聖く、傷なく、非難されるところのない者とされました(22)。やがて私たちとともに万物は新しくされて、神の国が建てられるのです。これが福音です。この知らせは「天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられる」(23)べきものですから、布告の周知徹底が図られなければなりません。この福音信仰に堅く立って、希望を語り続けましょう。

3/10「心の一新」 ローマ人への手紙12章1~8節 小林泰輔師

  •  2019年度の標語は「心の一新」です。聖書新改訳2017では「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」と受身形で訳されているように、神さまが私たちを造り変えてくださるためのご介入を、心を明け渡して受け入れたいと思います。
     「この世と調子を合わせてはいけません。」「調子」という単語は「枠組みを持った計画」という意味です。「スキーム」という言葉がカタカナ英語として日常の中で使われることも珍しくありませんが、その語源です。この世のスキームと同調してはならないのです。この世の価値観という枠組みではなく、神の国の価値観でものを見て計画を立て歩んでいきます。
     そのためには、私たちの心の枠組みを変えていただく必要があります。そして、そのために私たちができることは、心を新しくすることです。「革新」とは革を新しくすると書きますが、古い革袋は伸びきって自由がありません。新しい革袋は柔らかく柔軟性があります。心を新たにするとは、私たちの心を柔らかくし、神の介入を受け入れ、変えられやすい者となることです。
     私たちは自分をとりまく状況を変えたいという思いと、しかし、なるべく自分のスタイルは変えたくないという自我があります。そして自分ではなく、相手を変えようとしてぶつかり合うことがあります。イエスさまは当時のパリサイ人をはじめとする、心の頑なな人に、神の力を受け入れ、変わることを求められました。神の力は復活の力です。古い生き方に死んで、新しい心に造り変えられて、イエスさまとともによみがえる、神の力によって新しいスキームに生かされて参りましょう。心を明け渡して、神のご介入を受け入れましょう。

3/3「あなたの居場所」 ヨハネの福音書14章1~4節 小林泰輔師

  •  ここにあなたの居場所があります。教会をあなたの居場所として、憩いの場所としてください。とある教会では席に名前のプレートがついていて、指定席になっているところもあるようですが、ここにはありません。しかし、あなたの席は用意されています。イエスさまがあなたを招き、あなたの場所を用意してくださるのです。
     そこは、神さまの御前です。恐れ多い、自分はふさわしくない、そういう思いがあるでしょうか。確かに私たちはそれぞれ、心に傷を持ち、闇を抱え、人には言えないような罪を持っています。すべての人の共通点は、神の前に罪を犯したということでもあります。しかし、それを承知で、それでも神さまは私たちを御前に引き寄せ、そこに居らせてくださるのです。
     旧約聖書にダビデという王がいます。ダビデが新しく王になったときに、前王室の者を捜しました。王室が変わったときに、禍根を残さぬために前王室の者を粛清することはよくあることでした。この時、前王サウルの子でダビデの親友ヨナタンの息子メフィボシェテが見つかりました。しかし、ダビデはこの生き残った青年を赦し、自分の家の食卓に招きました。そこに彼の居場所を作って、息子の一人のように迎えました。メフィボシェテは驚きました。幼い頃の事故により受傷し、足が萎えておりましたから、生かされても戦で功を立てて恩返しもできません。しかし、ダビデは親友ヨナタンとの約束に誠実であるがゆえにメフィボシェテを迎え入れ、養ったのです。
     私たちも神さまの前に、同じような思いであります。罪を犯し、神への敵対者であった私を赦して、神の子どもとして迎えてくださいました。それは、イエスさまの十字架の犠牲によることでした。この愛と恵みに感激する者です。「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)。ここに私の居場所があります。

2/23 「救いの神」(『成長』より)ルカの福音書2章1~12節 小林泰輔師

  •  イエスさまがお生まれになった時代の皇帝とシリア総督の名前が記されています(1,2節)。イエスさまが確かに歴史の中にお生まれになったことを証明して
  • います。
     イエスさまをお腹に宿したマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに来ていました。けれども、どこも宿屋はいっぱいで、泊まるところがありません。
  • ようやく見つけたところは家畜小屋でした。「宿屋には彼らの居場所がなかったからである」(7節)イエスさまは居場所のないところに生まれてください
  • ました。
     また、救い主の降誕の最初の知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは職業の性質上、礼拝からも除外されていた人たちでした。居場所のない者
  • たちのところに、喜ばしい知らせが告げられたのです。イエスさまはその生涯において、取税人や遊女や罪人など、居場所のない人たちのところに出て行き
  • 救いの福音をお告げになられました。イエスさまの復活を最初に目撃したのも女性たちでした。イエスさまは居場所のないところに生まれましたが、
  • 居場所のない人たちの友となってくださり、インマヌエル(神が共におられる)と呼ばれるお方として、すべての人の居場所となってくださいました。
  •  この方により、私たちは赦されて、愛されていることを知り、ここに居ていいのだと認められ、生きていくことができるようにされたのです。
    罪のゆえに神のみそばを離れ、居場所を失った私たちを、もう一度、みそばに引き寄せるために生まれてきてくださいました。そして、十字架の贖いに
  • より私たちを罪と死から救い出してくださいました。この方を主キリストと信じて告白し、いつまでもみそばにお従いして参りましょう。
    「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

2/16 「低くなられたキリスト」 ピリピ1章27節~2章11節 小林泰輔師

  •  2018年を表す漢字は「災」だそうですが、私たちは「災い転じて福音となす」神さまの恵みを知っています。何が福音(良い知らせ)なのでしょうか。苦難や病気や貧しさなどの災いがなくなることではありません。そのような困難な状況の中にあって「霊を一つにして堅く立ち」「心を一つにしてともに戦う」仲間がいること、教会があること、これが福音なのです。反対者たちからの迫害を受けるとき、それはむしろ教会にとって救いのしるしとなるとあります(1:28)。迫害によって教会の愛が練り清められ、信仰の成長と救いの達成に近づくからです。
     パウロはピリピの教会に「私の喜びを満たしてください」と願います(2:1,2)。困難な状況にある兄弟姉妹が教会において、互いに愛し合い、助け合う姿を見せてください、それらを通して信仰の成長を見せてくださいと願っているのです。これは主イエスの願っておられることです。教会がこの地にあって福音に生きる姿を見たい、御心が天で行われるように、地でも行われるさまを見たい、そう願っておられるのです。
     神である方が、低くなられ人となって来られたのがイエスさまです。「人間と同じようになられ」た(2:7)イエスさまこそ、真の人となられた方です。人は、神と同じように“神のかたち”に創られましたが、堕落により罪が入り、神のかたちを失いました。イエスさまは第二のアダムとして来られ、真の人の生き方を示してくださいました。すなわち、自分を捨てて他者のために生き、神の栄光を表す生き方です。この人を見よ!
     人の罪は「自分病」のようなもので、幸福を求め自分が快が不快かに一喜一憂するものです。最善の治療法はキリストのように生きることです。それが幸福への近道です。私たちは今や御霊により「他の人のことも顧み」ることができるようになりました。真の人となられた、信仰の創始者で完成者なるイエスさまを見上げて歩みましょう。

2/10「キリスト者の生活」 ピリピ人への手紙4章1~20節 小林泰輔師

  •  この箇所から、キリスト者の生活として、①喜び(賛美)、②感謝と祈り、③行いについて教えられます。前章の最後に天の御国に思いを向けた後、「そういうわけですから、…主にあってしっかりと立ってください」(1)と、パウロは現実に目を向けるようにうながしています。天国の民として、地上の生活を見直していくのです。
     第一に、喜びの賛美を日々ささげているでしょうか。主がともにいてくださることを日々、喜び賛美することができます。賛美の歌をもって、また祈りを通して。「主は近いのです」(5)とあるように、賛美のなかに主は住まわれます。その喜びと恵みにひたるとき、寛容な心が与えられ、人々に伝わっていきます。
     第二に、感謝と祈りを日々ささげているでしょうか。祈りと願いは私たちから神に向かうものですが、神さまから私たちに与えられる恵みについての感謝を忘れてはいけません。祈りは神さまとの交わりですが、交わりというのは双方向のものです。願い事ばかりでは一方通行になり、交わりとは呼べないものになります。賛美をささげ、感謝をもって祈り、また、そこにみことばに聴くことが加われば、それは礼拝となります。日々の生活における礼拝が大切です。そして神を礼拝することを通して、「人のすべての考えにまさる神の平安」が与えられ、心と思いが守られて、日々を歩むことができるのです。God be with you!
     第三に、日々の生活のなかで良いわざを行います。社会のなかでなされているすべての良い働きに目を向けているでしょうか。政治、経済、学問、芸術、教育、家庭、そのようなことに関心を持ち、責任をもっているでしょうか。キリスト者こそ、この世の良き管理者として選ばれた者ですから、すべてを聖書を通して神さまから教えられたとおりに行いましょう。主イエスさまはいつもあなたがたとともにおられます。

2/3「神のみもとに帰ろう」 ルカの福音書15章11~24節 内田和彦師

  •  これはイエスさまが話されたたとえ話であるが、神の愛と恵みのすべてが詰まっている話である。
     第一幕「家出した息子」―ある人に二人の息子があったが、その弟の方が父に財産の生前贈与を願い出た。これは父に対して侮辱にあたることでもあったが、それでも父は息子の言う通りにしてやった。それで、息子は父から遠く離れたところに住み、放蕩の限りを尽くした。ここに私たちの姿を見る。神から遠く離れるのはなぜか。それは自分の好きなように生きるためである。神を都合よく利用したいという思いはあるが、上に居て支配されるのは拒む。しかし、神なき歩みは挫折し行き詰まるのである。
     第二幕「我に返る」―試練に遭い、苦しみのどん底で気づきが与えられる。試練は己の限界を知り神のもとへ立ち返る機会となる。そのことのゆえに試練は悪いものではない。私たちも、神を無視して歩んできた人生を悔やみ、方向転換をして、父なる神のみもとに立ち返るのである。ただ上手くいかなかったから帰るのであれば虫のいい話だが、天に対して、父なる神に対して罪を犯したことを悟り、自分には赦してもらう必要があることを悟り、我に返ったのだ。
     第三幕「父に赦される」―弟息子は、我に返り、父のもとへ帰ることを行動に移した。長い道のりを物乞いをしながら家に向かって歩き続けた。すると父は通りに出て来ていて彼の帰りを待っていてくれた。みすぼらし姿を見つけて、走り寄り、抱きしめて喜んだ。これが神の愛であり、恵みである。神に受け容れられるにふさわしい聖い者だからではなく、ありのままのみにくい姿でも、神は受け容れてくださる。そして父が子に指環をはめさせ、子としてふさわしい姿にしたように、神も私たちを子として受け容れ、それにふさわしく聖いものとしてくださる。この恵みによる救いは、世で唯一であり、キリストのみわざによることである。

1/27「主は心を見る」 第一サムエル記16章1~13節 小林泰輔師

  •  サウル王は罪を犯したので、イスラエルには新しい王が必要でした。そこで神さまはサムエルをベツレヘム人エッサイのところに遣わされました。サムエルはエッサイの息子たちを見て、まず、エリアブに目をとめました。見栄えもよく、背丈も高く、王様にふさわしいように見えましたが、神さまが選んだのはエリアブではありませんでした。その場にいたほかの息子たちもそれぞれ見どころがありましたが、主が選んだ者ではありませんでした。その場にいない末の子ダビデこそが神さまが選ばれた器でした。ダビデも顔色も良く、生気に満ち、立派な姿をしていましたが、そのような見た目のゆえではなく、主はその心を見られて選ばれたのです。後に続くダビデの生涯を見ていくと、神さまを頼りとし神さまと共に歩んだ信仰の生涯を見ることができます。
     「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。神さまを心の中心に据えているかどうかが大事なのです。イエスさまが私を選んでくださったのは、うわべを見られてのことではなく、心のきよさや信心深さのゆえにでもなく、ただ一方的な神の愛と恵みのゆえでした。この神さまからの召しに応えて、神さまを心の中心に迎えて、主とともに歩む生涯を歩ませていただきましょう。そのような者に神さまは油を注いでくださり、用いてくださいます。(ヨハネ15:16)

1/20 「一心に走り続ける」  ピリピ人への手紙3章12~21節 小林泰輔師

私たちは、パウロと共に追い求める者であります。歩みを止めるのではなく、手を、足を、前に運び続ける者です。洗礼を受けて神の国に行く切符を手に入れたら終わりではありません。時は流れ続け、神の御国のご計画は前に進み続けます。天の御国はすでにこの地に侵入して来ています。私たちはその現実のなかで生き、神の国のために働き、歩を速めて前に向かって走り続けるのです(13)。パウロが追い求めていたものは御国の完成でした。御国を受け継ぐことを賞として、目標を目ざして走っていたのです(14)。
 私たちはやがて、からだのよみがえりを経て新天新地を迎えます。主が来てくださるのです(20)。そして、それまでの地上の働きは何かのかたちで新天新地に表されることが期待できます。パウロはそれゆえに、からだのよみがえりの希望を語ったのちに「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」と語りました(Ⅰコリ15:58)。天国行きが決まれば何もしないで待つだけ、という考え違いがあるならば、それを改めましょう(15)。神は、私のために、私を救われただけでなく、私を通して世を救うために、私を選ばれたのです。
 「十字架の敵」(18)は教会の内外にいます。異教徒、にせ教師、律法主義者たちです。彼らの共通点は、神によって変えられることを拒み自分のスタイルを貫き通そうとすることです。自分の欲望を神とすることが偶像崇拝ですが、彼らは快楽や自己顕示欲を神としているのです。私たちのうちにも残る罪の性質により、自分のうちにある偶像崇拝との闘いは続きます。「地上のことだけ」のマインドを、神によって砕かれ、変えられることを求め、受け入れましょう。そうして神の国の市民として、ふさわしい歩みをしましょう。神の国のマインドをもって、御心が天で行われるように地でも、と祈りつつ、歩んで参りましょう。

1/13「神から与えられる義」 ピリピ人への手紙3章1~11節 小林泰輔師

  • 「神から与えられる義」とは、ここでは法廷の言葉のように、罪がないという立場のことを指しています。私たちは生まれながらに罪人でしたが、十字架の贖いによってそれが赦されて、罪がない者とされました。罪人から前科者になったのではなく、罪人から神の子どもとされたのです。これが救いの喜びです。
    パウロは「主にあって喜びなさい」とここでも繰り返し命じています(1)。救いの喜びを奪い去る力が迫っていたからです。「犬ども」(異教徒)、「悪い働き人」(にせ教師)、「肉だけの割礼者」(ユダヤ教からの迫害者)と、教会の内外からそれらは迫ってきていたのです(2)。しかし、キリスト者は真の神を御霊によって礼拝し、自分を誇るのではなくキリストを誇り、肉の割礼を頼みとせず、心の割礼(聖霊)によって歩む者です(3)。パウロ自身がかつての自分がいかに肉を頼みとしていたかを語り(4~6)、それらがちりあくたに過ぎないことを気づかされた体験を語っています。パウロが捨てたものとは何でしょうか。それはエリートとしての出世コースとかではなく、律法によって自分の義を立てる生き方をパウロはちりあくたのように捨てたのです(8)。
    代わりにパウロが得たのは、キリストの信実によって与えられる義でありました。主はご自身の契約に対して誠実であられ、イスラエルを贖うという約束を御子イエスさまによって成就されました。死に至るまで父なる神に従われた御子の信実によって、十字架の贖いは成し遂げられ、イスラエルも私たちも救われて、神からの義を与えられたのです(9)。「復活の力」は私たちを変えるのに不可能はない力です。「キリストの死と同じ状態」(10)にし、自我に死に、十字架を負って主に従う者と変えられる力です(聖化)。そうしてやがてよみがえりの主と同じ栄光のからだが与えられ(栄化)、御国を受け継ぐその日を待ち望むのです(11)。

1/6「雪よりも白く」 詩篇51篇1~13節 小林泰輔師

  • この詩篇には、ダビデがバテ・シェバと姦通し罪を犯したことを預言者ナタンに指摘されたときの告白や祈りなどが表されています。このところから、私たちも、罪と悔い改めについて考えたいと思います。
    神さまは私たちを深く愛していてくださり、ご自分の子としてくださる方です。だからこそ、私たちが罪を犯すのを見過ごすことができないので、懲らしめることをなさいます(ヘブ12:6)。私たちも神さまが罪を指摘されるのを受け止めなければなりません。ダビデが特別罪深いわけではなく、これは私たちの問題でもあるのです。聖書は憚ることなく「すべての人は罪を犯した」(ロマ3:23)と言います。
    聖書が言う罪とは刑法に触れるようなことはもちろんのこと、それだけでなく、罪を犯し得る心の在りようそのものを「罪」と呼びます。神さまを無視して自分勝手に生きることがすべての根本(「原罪」)なのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。ダビデが「私は咎ある者として生まれ」たと言うように、私たちは罪の性質を生まれ持っているのです。
    「罪滅ぼし」と言いますが、私たちは自分の犯した罪を幾ばくかの良い行いで帳消しにすることはできません。ただキリストの十字架の血による犠牲によってのみ、私たちの罪は滅ぼされるのです。
    私たちが原罪のままに神さまを無視して生き続けることによって、神の御子イエスさまを十字架につけてしまいました。実に十字架は私の罪のゆえでした。私の手は血塗られた手なのです。ヒソプをもって私の罪を除いてくださいとダビデとともに告白し祈ります。そうすれば、小羊イエスの血によって罪は洗われ、雪よりも白くされるのです。どんな罪も汚れもきれいに洗われ、白くされ、赦されるのです。「わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザ1:18)

12/30「いのちに輝け」 ピリピ人への手紙2章12~30節 小林泰輔師

  •  与えられたいのちにおいて、人生において、世の光として輝くためにはどうした良いのでしょうか。それは「いのちのことばをしっかり握って」(16)神さまに「つぶやかず、疑わずに」(14)従うことです。
    「自分の救いの達成に努めなさい」(14)とは、キリストの十字架による救いに不完全な部分があるという意味ではありません。救われた者が、神の御心に生きて喜び、輝くときに、神の救いのご計画が達成されたことを見ることができるという意味です。すでに救いは成し遂げられたのですが、それを目に見える形にするには、御心を行うことが大切なのです。
    私たちが世の光として輝くのは「彼らの間で」(16)です。それは「曲がった邪悪な世代の中」(15)のことです。そこに私たちは置かれているのです。そのただ中にあって「光を放て」(イザヤ60:1)と言われているのです。私たち一人一人はとても小さな光かもしれませんが、教会においてその光を束ねるならば、より大きな光になり、遠くまで広く照らすことができます。キリストの愛の光に照らされて、教会の兄弟姉妹と互いに愛し合い、支え合い、祈り合い、ともに歩んでいくときに、その姿を通して神の栄光が表されるのです。
    二人の実例があげられます。テモテがその一人です。世の人々の誰もが自分のことだけしか考えないような中にあって、テモテは真実な心でピリピの教会の人々を思っていました。そうしてパウロとともにピリピ教会のために奉仕しているのです。
    もう一人はエパフロディトです。彼はパウロを見舞うために教会から派遣されましたが、道中病気になり、かえってパウロの世話になってしまったのです。しかし、命の危険を冒してまでパウロを訪問したその姿の内に、主イエスの愛の光が輝いてい見えます。私たちの教会ももそのような愛のわざを行い、世の光とされたいと願います。

12/23「救いの神」(『成長』より) ルカの福音書2章1~12節 小林泰輔師

  •  イエスさまがお生まれになった時代の皇帝とシリア総督の名前が記されています(1,2節)。イエスさまが確かに歴史の中にお生まれになったことを証明しています。
     イエスさまをお腹に宿したマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに来ていました。けれども、どこも宿屋はいっぱいで、泊まるところがありません。ようやく見つけたところは家畜小屋でした。「宿屋には彼らの居場所がなかったからである」(7節)イエスさまは居場所のないところに生まれてくださいました。
     また、救い主の降誕の最初の知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは職業の性質上、礼拝からも除外されていた人たちでした。居場所のない者たちのところに、喜ばしい知らせが告げられたのです。イエスさまはその生涯において、取税人や遊女や罪人など、居場所のない人たちのところに出て行き救いの福音をお告げになられました。イエスさまの復活を最初に目撃したのも女性たちでした。イエスさまは居場所のないところに生まれましたが、居場所のない人たちの友となってくださり、インマヌエル(神が共におられる)と呼ばれるお方として、すべての人の居場所となってくださいました。この方により私たちは赦されて、愛されていることを知り、ここに居ていいのだと認められ、生きていくことができるようにされたのです。
     罪のゆえに神のみそばを離れ、居場所を失った私たちを、もう一度、みそばに引き寄せるために生まれてきてくださいました。そして、十字架の贖いにより私たちを罪と死から救い出してくださいました。この方を主キリストと信じて告白し、いつまでもみそばにお従いして参りましょう。
    「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

12/16「低くなられたキリスト」 ピリピ1章27節~2章11節 小林泰輔師

  •  2018年を表す漢字は「災」だそうですが、私たちは「災い転じて福音となす」神さまの恵みを知っています。何が福音(良い知らせ)なのでしょうか。苦難や病気や貧しさなどの災いがなくなることではありません。そのような困難な状況の中にあって「霊を一つにして堅く立ち」「心を一つにしてともに戦う」仲間がいること、教会があること、これが福音なのです。反対者たちからの迫害を受けるとき、それはむしろ教会にとって救いのしるしとなるとあります(1:28)。迫害によって教会の愛が練り清められ、信仰の成長と救いの達成に近づくからです。
     パウロはピリピの教会に「私の喜びを満たしてください」と願います(2:1,2)。困難な状況にある兄弟姉妹が教会において、互いに愛し合い、助け合う姿を見せてください、それらを通して信仰の成長を見せてくださいと願っているのです。これは主イエスの願っておられることです。教会がこの地にあって福音に生きる姿を見たい、御心が天で行われるように、地でも行われるさまを見たい、そう願っておられるのです。
     神である方が、低くなられ人となって来られたのがイエスさまです。「人間と同じようになられ」た(2:7)イエスさまこそ、真の人となられた方です。人は、神と同じように“神のかたち”に創られましたが、堕落により罪が入り、神のかたちを失いました。イエスさまは第二のアダムとして来られ、真の人の生き方を示してくださいました。すなわち、自分を捨てて他者のために生き、神の栄光を表す生き方です。この人を見よ!
     人の罪は「自分病」のようなもので、幸福を求め自分が快が不快かに一喜一憂するものです。最善の治療法はキリストのように生きることです。それが幸福への近道です。私たちは今や御霊により「他の人のことも顧み」ることができるようになりました。真の人となられた、信仰の創始者で完成者なるイエスさまを見上げて歩みましょう。

12/9「切なる祈りと願い」 ピリピ人への手紙1章12~26節 小林泰輔師

  •  パウロの切なる祈りと願いとは、自分の身によってキリストがあがめられるようになることでした。そのためであれば、生かされても、死ぬことになってもどちらでも良いと、主に委ねきっていたのです。主の導かれるままに―Let it be―との信仰をパウロに見ます。
     受胎告知を受けたマリヤ(ルカ1:26~)は、思いもよらない神のご計画や、未婚で妊娠するということが周囲に与える影響や、罰せられる恐れなどで、にわかに受け止めきれない思いだったのではないでしょうか。けれども、親類のエリサベツ(不妊であった)に子が与えられたことが、奇跡のしるしとして御使いから語られ「神にとって不可能なことは一つもありません」との言葉を聞いたときに、待ち受ける困難はそのままに信仰をもってこの告知を受け止めました。信仰は神の言葉によって呼び覚まされるのです。そうしてマリヤは「おことばどおりこの身になりますように」―Let it be―と、主に委ねました。
     パウロは自分の「身に起こったこと」(1:12)が福音の前進に役立つことを喜びます。直近の出来事は投獄されたことですが、ダマスコ途上で主イエスに捕らえられて以来のすべての出来事が、主のご経綸により福音の前進に役立てられていることを喜ぶのです。私たちの経験も、たとえそれが困難な試練であっても、必ず福音の前進に役立つという確信を持つなら、私たちも―Let it be―と主に委ねることができます。
     生きようが死のうがどっちでもいいとは、投げやりになったのではなく、むしろキリストがあがめられ、人々がキリストを知ることにつながるならという強い願いに裏打ちされた信仰の告白なのです。私たちも、たとえ状況や環境が困難でも、自分の力で変えることのできないものだとしても、不可能なことはない神の力に信頼して、委ねて参りましょう。(ガラテヤ2:20)

12/2「愛は選択するもの」 ピリピ人への手紙1章1~11節 小林泰輔師

  •  ピリピ書はパウロが獄中で書いた手紙ですが、その特徴は「喜び」にあります。獄中でその後のことがわからない不安や恐れの中で、にもかかわらずパウロは喜んでいたのです。ピリピの教会がパウロの見舞いのためにエパフロディトを派遣したのですが、彼が病気になり、かえってパウロの世話を受けることになったため、パウロは彼を送り返すのにこの手紙を添えることにしました。しかし、そのピリピの信徒たちの愛の行動のゆえに、パウロは感謝の思いに満たされたのでした。その愛に表されたピリピの信徒たちの信仰の成長を見て、喜びに満たされたのでした。「コイノニア」とは交わりという意味ですが、ともに何かに与ることを意味しています。ピリピの教会は、パウロの宣教の働きのために、祈りとささげものとエパフロディトの派遣によって支援し、その働きに参与したのです。そうしてまたともに恵みに与ったのです。
     パウロの祈りは、さらに教会が愛において成長するようにということでした。愛は知識と識別力によて豊かになります。愛は大切なことを見分け、決断することを伴います。私たちが何かを選択するときには色々な判断をしています。損か得か、勝算があるか、ストーリーの背景や道理、コスト、それを回収できるか、リスクはどうかなどです。選択にはそういったデーターが必要です。それらが実証されているかはさらに重要です。そして一番確かな御霊の知識と識別力は「イエスに倣え」を唯一の勝利の道であると導きます。イエスの愛は十字架で実証されました。十字架に死に私たちを生かしてくださる主の愛に倣い、それを選択することが、私たちの喜びにつながるのです。

11/25「忠実な人」(『成長』より) ルツ記2章1~7節 小林泰輔師

  •  ルツとナオミは未亡人としてともにベツレヘムで暮らしていくことになりました。しかし、女性二人で生きていくのは大変です。ルツは、生活のために落ち穂拾いをしにでかけていきました。“落ち穂拾い”は神さまのあわれみによる律法でした。収穫の刈り入れのとき、こぼれ落ちたものは拾ってはならない、それは貧しい人や寄留者のために取っておかなければならなかったのです(レビ19:9,10)。そうして出かけていった所が、「はからずも」親類のボアズの畑だったのです。ボアズは、ルツのことを周りから聞いて知っていました。モアブ人でありながら、イスラエル人の義母に仕えて同じ神を信じていること(1:16)などを聞いて、感銘を受けていたのでしょう。ルツにとても親切にし保護しました。そして、他の畑に行かなくても良いと告げ、十分に食べられるように落ち穂を拾わせてあげました。家に帰ったルツは親切な畑の持ち主のことをナオミに話しました。すると、そのボアズはナオミの夫エリメレクの親類で、「買い戻しの権利」(レビ25章参照)を持つ人だったのです。
     私たちにとっては偶然のように思える出来事も、神さまの摂理の御手のうちにあっては必然だったのです。また、「買い戻し」とは「贖い」のことであって、ルツ記を見ると、神が私たちを贖ってくださるということがどういうことかが良く分かります。優しいボアズは行き場のないルツを買い戻し、そばに置き、妻として愛しました。ボアズの姿にイエスさまの姿を重ね合わせて見ることができます。罪の中から贖い出してくださり、キリストの花嫁として下さったことを心から感謝します。

11/18 「霊の戦い」 エペソ人への手紙6章10~20節 小林泰輔師

  •  エペソ書において、パウロは教会について語ってきました。それは、終わりの日、贖いの日のために、教会を整えるためでしたが、戦闘の前にラッパを
  • 鳴らすように、ここで、最後の戦いに備えよとのメッセージを聞きます。地上の教会は戦う教会です。その敵は血肉(人間や国々)ではありません。
  • 霊の戦いであるとパウロは語ります。
     霊的存在は三つあり、それは①神、②御使い、③人間です。中でも堕落した御使いが悪霊なのです。悪霊のかしらはサタンです。また、人類の敵は聖書では
  • ①罪、②死、③諸々の力(悪霊)と言っています。罪は主イエスの十字架によってすでに打ち砕かれました。死は最後の敵でありますが、それもやがて完全に
  • 滅ぼされると書かれています(Ⅰコリ15:26、黙示20:14)。日々直面する戦いにおける敵は、諸力としての罪です。罪は原罪として私たちの内にあるだけでなく、
  • 諸力として外側からも誘惑や攻撃をしてくるのです。
     しかし、私たちは主にあって(in Christ)大能の力に強められます(10)。神は戦いに勝利するに十分な武具を与えてくださいます。①腰は肉の要ですが、
  • 真理を私たちの中心に据えます②心臓(命)を守るのは正義に歩むことです③足もとを固めるには、神との平和をしっかり確立することです
  • ④火矢は思わぬところから放たれますが、それを守り打ち消すのは信仰の大盾です⑤頭(知性)を守るために、救われた者としてふさわしいことに知性を
  • 用います⑥みことばの剣によってサタンの誘惑に勝利します。それから祈りによって自身を整え、全軍のためにとりなしの祈りによって備えるのです。
  • 勝利はすでに約束されています(ヨハネ16:33)

11/11 「キリストと教会の奥義」 エペソ人への手紙5章21節-6章4節 小林泰輔師

  •  この箇所は、結婚論、家庭論のようでありながら実は教会論であります。キリストと教会の関係の奥義の中に夫婦の奥義があります。キリスト者は、キリストと教会の愛し従う関係を知っているので、良い夫婦とは何かを知っているとも言えます。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(21節)。これが教会論の肝です。それを説明するために格好の材料として夫婦や家庭を例に挙げているのです。
     妻は主に従うように夫に従いなさいとあります。これは男女論や優劣の問題ではなく、秩序の問題です。キリストがかしら(頭、トップ)で教会はからだです。かしらはからだに命令を出しますが、また当然、かしらはからだを労わります。互いの権利を主張し合っていては良い夫婦にはなれないように、教会の兄弟姉妹は自分を捨て、一致して、主に仕えるように互いに仕え合います。
     夫はキリストが教会を愛したように、妻を愛しなさいとあります。主イエスがどのように教会を愛されたかを思い起こしましょう。十字架に自分をささげて愛してくださいました。①言葉②時間③手助け④スキンシップ⑤プレゼントによって愛を伝えることができますが、相手の求める仕方で伝えるために苦手なことでも練習しましょう。また主イエスは花嫁を聖く整えてくださいました。夫が妻を愛するなら妻は聖く整えられて夫に喜んで従います。その麗しい関係は神の栄光を表します。
     キリストの教会の中に尊敬と服従と愛が正常に流れているなら、平和があり、愛が満ち、神の栄光が表されます。壊れた世界を愛で築き直すため主はあなたを遣わされます。御跡に従って歩みましょう。

11/4 「生き返った女の子」 ルカの福音書8章40-42,49-56節 小林泰輔師

  •  会堂管理者ヤイロの娘が病気で死にかけていたために、ヤイロ自身が主イエスのみもとに来て、ひれ伏して、自分の家に来て下さいと頼みました。主イエスは応じて下さり、ヤイロと共に少女のところに向かいますが、途中で長血を患う女性を癒す出来事があり、そうしている間にヤイロの娘が息を引き取ったという知らせが舞い込んできます。それでも主イエスはヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。そうすれば、娘は直ります」(50)と言われました。大勢の人が娘の死を泣き悲しんでいるところで、主は「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです」と言われましたが、人々はそれをあざ笑いました。しかし、主が娘に「起きなさい」と声をかけられると、なんと娘は生き返ったのです。
  • ①ヤイロは、イエスさまならば娘の病気を直すことができると信じてみもとに来ました。私たちもイエスさまを頼って祈ることができます。
    ②祈りの答えがすぐに得られない時でも恐れないで神さまを信じ続けるならば、必ず祈りはきかれます。
    ③主イエスは死んだ人をも生き返らせることのできるお方です。「ただひとり大いなる不思議を行われる方」(詩篇136:4)に、不可能なことはありません。
  • 神さまを信じ、神さまに祈り続け、神さまから力を受けて歩んで参りましょう。

10/28 「約束の地で」 ヨシュア記14章、24章 小林泰輔師

  •  神さまがイスラエルに与えると約束して下さったカナンの地にやって来ました。ここまで来るまでに神さまは不思議な方法でイスラエルを助けて下さいました。ヨルダン川の流れをせき止めて下さったり、エリコの城壁を崩して下さったりと、いつもイスラエルと一緒にいて助けてくださったのです。
     カナンの地に入ってから、ヨシュアは土地を12部族で分けようと提案しました。それぞれの部族のリーダーがくじを引いて土地が割り当てられていきました。カレブは85歳になっていましたが、強い敵のいるアナク人が住む地域をあえて選んで出て行きました。神さまを信じていれば勝てるという信仰があったのでしょう。そうしてアナク人に買ってヘブロンに住みました。
     ヨシュアがおじいさんになったとき、イスラエルの人たちを集めて言いました。イスラエルを救ってくださった神さまをいつまでも信じるかと。民は信じますと答えました。そしてヨシュアは「私と私の家とは主に仕える」(24章15節)と言って、記念に大きな石を立てて信仰告白のしるしとしました。
     私たちも、イスラエルを救い出し、私たちを罪から救い出してくださった神さま、御子イエスさまを信じて、その信仰を子どもや孫や、そのまた孫の孫まで信仰を継承していきましょう。

10/21 「幸福の方程式」 使徒の働き20章17~35節 エミリー・チョウ宣教師

  • 「受けるよりも与える方が、幸いである。」教会の2018年度の年間聖句の箇所です。方程式の「x,y,z」を用いて説明しましょう。
    【X=キリスト】Xはギリシャ語の「キリスト」の頭文字です。パウロはイエス様が語られた言葉を大事にしていました。イエス・キリストは頭であり、
  • イエス様に従いたいというモチベーションをもって御言葉を受け取ると、力が与えられ、それが霊的成長に繋がり、神さまが用意された真の人生の祝福を
  • 受け取ることができます。
    【Y=なぜ(Why)】Y―英語の発音では「なぜ(Why)」と同じ―なぜ私たちも教会で集まった人に関心を持つべきなのでしょう。
  • 教会は、父なる神と御子イエスと聖霊と共に三位一体の働きによって成り立っている共同体だからです。聖霊の導き、あるいは賜物を受けるだけでも
  • 素晴らしいですが、さらにそれを他の人に与え、神さまのなさるみわざを伝えていくことが本当に祝福されることだと思います。
     【Z=絶対の真理】Z―日本語で読むと「絶対的な真理」を思い出します。「絶対」というのは完全に信頼できることです。パウロは聖書時代の人たちに、
  • 「受けるよりも与えるほうが本当に幸いであると、真理として受け取ってください」と教えました。現代の私たちは何が人生の幸せだと思っているでしょうか?
  • 何よりもキリストに従う人生こそが幸いであると信じますか?

10/14「神の物語」 マタイの福音書25章31~34節 小林泰輔師

  •  この世界はどこから始まり、どこに向かっているのか。これもまた普遍的な問いです。聖書にはその答えがあります。世界の始まりから終わりまでの神の物語(His story)が私たちの世界の歴史(History)なのです。
     今日の短い箇所の中に終わりと始まりのことが記されています。「人の子」は御子イエスのことですが、彼はやがて御使いを伴って来て、栄光の王座に着座されます(31)。その王座は裁きの座でもあります。すべての国の民が集められ、山羊の中から羊をより分けるように裁かれます。羊飼いであるイエスのことばに聴き従った者たちは羊として、主の右に置かれるのです(31,32)。そうして王は右にいる者たちに言われるのですが、この情景はナイト(騎士たち)が王の前に跪き、ナイトの称号とともに権威の剣を授けられるようなものです。私たちの称号は「父に祝福された人たち」です。世の初めから選ばれ分かたれていた者たち。その者たちが呼び集められ、御子イエスとともに御国を治める権威を与えられるのです(34)。
     そこから始まる新しい物語、それは今まで関係ないと思っていた私の物語と神の物語とが出会って、ひとつに結ばれ、紡がれていく、新世界の物語です。私たちはそのひと紡ぎの物語のただ中に置かれています。そこにおいて、聖書に記された過去の歴史は「前回までのあらすじ」、黙示に記された出来事は「次回予告」(断片的にしか見ることができない)のようなものです。聖書に示された新しい神の国のあり方とその民のあるべき姿を、主イエスの模範に従って歩んで参りましょう。

10/7「何のために生きるのか」 ミカ書6章8節 小林泰輔師

  •  「何のために生きるのか」とは普遍的な問いであり、それは「人はどこから来てどこへ行くのか」という風にも問われることがあります。存在の根源を問いつつそこから生きる意味を見出そうということでしょう。そこには前提として人は至高の存在(創造主)によって生み出されたものであるということがあります(もし人が進化論的偶然の産物ならこのような問いは全く無意味です)。
     あらゆる思想(宗教を含め)による答えは「幸せになるために生きる」ということにたどり着きます。そこで今度は「何が人にとって幸せなのか」という問いになっていきます。伝道者の書において、著者である「伝道者」(ソロモン王を指す)は幸せとは何か、およそ人が言いそうなことをすべて試してみます。労苦によって得たものを楽しみ、快楽を得ることに幸せを見出しますが、それは一過性のものでしかありませんでした。人の労苦に対する神からの賜物として一定の価値は認めつつ、やはり快楽を追い求めていくことは空しいと言います。
     また、人のあらゆる生の営みを詩的に表現し、そこには神の時があることを見出しました(3章)。そして、神が働かれる時、私たちの為したことはすべて実りあるものに変えられる、それは美しいことだと言うのです。今ここで私の為したことが御手の中で用いられ、神の御国を形造っていくのです。そこに私たちの生きる意味があり、喜びがあるのです。同じ道のりを歩んでも“神のために”“神と共に”歩むのか、そうでないかで、喜びの人生か、空しい人生かに分かれるのです。主イエスのように公正を行い、誠実を愛し、神と共に歩んで参りましょう。

9/30 「約束の地の偵察」(『成長』より) 民数記13章1~3、17~20節 小林泰輔師

  •  エジプトから救い出したイスラエルの民に神さまは「カナンの地」を与えると約束してくださいました。その約束の地に近づいたとき、神さまはモーセにカナンの地を探らせるように命じられました。そうして各部族から代表者が選ばれ、12人の偵察隊がカナンの地に入りました。そこで大きなぶどうをひと房とり、棒でかついで、他のくだものとともに持ち帰りました。そのくだものに表されているように、約束の地は、とても良い土地だったのです。しかし、そこには強力な先住民がいました。「ネフィリム人のアナク人」は巨人だったのでしょうか。彼らには「自分がいなごのように見えた」と言ってその強大さを恐ろし気に報告しました。民はその報告にすっかり意気消沈して、こんなことならエジプトで死んだ方がましだったとつぶやきました。それどころか、神さまがお立てになった指導者であるモーセとアロンに代えて、新しい指導者のもとエジプトに帰ろうとまで言い出す始末でした。
     けれども、カレブとヨシュアの報告は違いました。他の10人と同じく「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった」と言いましたが、さらに「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう」と信仰によって報告しました。また神の約束の地を前に人々を恐れて引き返すことは、神にそむくことであると言い、主がともにおられるのだから恐れてはならないと信仰によって奮い立ちました。主はイスラエルの不信仰をさばかれ、20歳以上の者とカレブとヨシュアのみが約束の地に入れられることになりました。

9/16 「恵みを与える人」 エペソ人への手紙4章17~32節 小林泰輔師

  •  この箇所には道徳的な教えがたくさん出てきます。それらは何のためにあるのでしょうか。私たちが立派な人になるためでしょうか。死の間際に
  • 「良い人生だった」と言えるようにするためでしょうか。もしそれだけならキリスト教でなくてもよいかもしれません。しかし、聖書が命じることは、
  • 「贖いの日のために」(30)という終末論的観点をもって見なければなりません。
     主イエスは再び来られ、この天地を新しくされ、王として統治される主なる神です。それが「贖いの日」であり、そのときすべての被造物は贖われて
  • 新しくされるのです。天の御国の文字通りの始まりですが、その日に先行して今、すでに神の国(支配)は始まっています。私たちはキリストとともに
  • よみがえって新しくされ、新しい神の国の秩序と規範に生きる者です。
     タラントのたとえにあるように、私たちが主イエスからタラントを与えられたのは、この世を良く管理するためです。道徳的に立派な人間になるためではなく主の御心を成し遂げるためです。主は「わたしとともに冒険しよう、世界を変えよう」と私たちを召しておられるのです。神からの恵みを地中に埋めて
  • 無駄にするのではなく、リスクを冒してでも、コストを払ってでも、この世を神の国のように変えるために、今ここで、私たちの良いわざが必要と
  • されているのです。
     この世は神の痛みに無感覚です(19)。神が創造され良しとされた世界、神のいのちからいかに遠く離れていることか(18)。
  • そのような今の世であるからこそ、キリスト者が、教会が、恵みを分け与える者でなければなりません。新創造される世界には、悲しみや怒りの叫びは似つかわしくありません(31)。互いに赦し合い愛し合う世界となるのです(32)。主よ。御心が天で行われるように地でも。今ここで、私を用いてください。

9/9「愛のうちに建てられる」 エペソ人への手紙4章1~16節 小林泰輔師

  •  私たちは、イエスさまのように成熟した愛の器となるために、この世にに置かれています。私たちはこの世の流れに逆らう者です。パワハラの横行する世に謙遜と柔和を、他者に非寛容な世に寛容、愛、忍耐を、分断されている世に平和、一致をもたらすために、教会はこの世から呼び出され、置かれているのです(1-3)。
     それぞれが自分の価値観や思想や宗教で自由に生きていくことが認められている反面、“普遍的な唯一の真理”というものは幻想であったかのようにとらえられている世にあって、唯一の神を信じ、救いの道はただ一つであると証しし、教会はキリストのからだとして一つであることを宣言して歩むように召されています(4-6)。
     しかし、からだは一つだけれども、さまざまな器官が備えられているように、私たちはそれぞれユニークに造られたものです。各人に与えられた賜物があります(ロマ12:4-8、Ⅰコリ12:4-11、Ⅰペテ4:11参照)。牧師や教師の務めは聖徒たちを整えることです。そうしてキリストのからだを建て上げるのです(11,12)。
     キリストの信実と知識によって私たちは力を受けて、内側から造り変えられることによって成熟し、キリストの身丈にまで達することができます。自分の力で生まれ変わることはできません(13)。
     「教えの風」や「波」(14)に流されないようにするためには、キリストの十字架の愛を錨として打ち込み、愛のうちにしっかりとどまっていなければなりません。十字架の愛とは自分をささげることです。真理などないと言う世の流れに逆らって、愛をもって真理を語り、愛のうちに教会を建て上げることによってキリストの栄光を示す、その召しにふさわしく歩みましょう。

9/2「第二の人生」 ヨハネの福音書3章1~5節 小林泰輔師

  •  パリサイ人で議員のニコデモが、夜、イエスさまのもとを訪れるお話です。律法の教師であり、議員でもあり、いわゆる「センセイ」と呼ばれる立場の人でしたが、この人の心には飢え渇きがありました。イエスさまが「神がともにおられる」ような「しるし」をともなう力ある働きをしておられるのを見て(2)、感嘆し、自分もイエスさまのような働きをしたいという願いを秘めてみもとにやって来たのです。
     イエスさまは言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3)。ニコデモは生まれつきの自分ではダメだという現状の否定を受け入れなければなりませんでした。「センセイ」と呼ばれ、生活に不自由なく過ごしていましたが、それでも満たされない飢え渇き、心の夜を抱えていました。それは生まれつきの罪の性質からくるものです。そのような自分に死んで、イエスさまとともによみがえり、生まれ変わる必要があるのです。
     「人は、老年になっていて、どのようにして…」とは、年老いたニコデモにとって「too late」という諦めに近い心境でしょう。どんなに自分を変えようと思ってもできず、新しく生まれるなどどのようにしてできるのだろうかと、絶望したのではないうでしょうか。イエスさまは然り(アーメン)とおっしゃいました。新しく生まれることは自力ではできません。イエスさまは「水と御霊によって生まれなければ」と言い換えられました。水のバプテスマは悔い改めの儀式です。水に沈められ古い自我に死ぬことです。御霊によってとは、イエスさまの復活のいのちに与り新しく生まれ変わることです。そうして私たちは神の力を受けて永遠のいのちに、神の国(支配)のうちに生かされるのです。

8/26 「エジプトに下った災い」(『成長』より)  出エジプト記6章1~8節 小林泰輔師

  •  神さまはエジプトで奴隷になっているイスラエルの民を救い出すために、モーセとアロンをファラオの前にお遣わしになりました。主を礼拝するためにイスラエルの民を行かせなさいと伝えましたが、「主とは誰だ」と言って知らん顔です。すると神さまはエジプト全土に10の災いをお下しになりました。
     エジプト人にとってのシンボル、ナイル川の水を真っ赤な血に変えても、街中をカエルだらけにしても、王様は神さまの言うことを聞きません。虫(ぶよ、はえ、いなご)による作物や人への被害や、家畜の病気や、人のからだのできものでも言うことを聞きません。恐ろしい雷や雹が降ってきてもダメです。ひどい災いが起こるとちょっと心が変わりますが、災いが過ぎるとすぐ元通りに頑なになってしまいます。
     それから神さまはエジプト全土を真っ暗闇にされました。エジプト人の信じる神は、太陽の神でしたから、真っ暗になるということはイスラエルの神(ヤハウェ)の方がエジプトの太陽神よりすぐれているということになります。ほんとは太陽の神などなく、ただおひとり、イスラエルの神しかおられないのです。
     それでも王様はイスラエルを行かせません。そこで最後の災いが下されますが、それは大変恐ろしいものでした。エジプト中の初子が人や家畜に至るまで、みな死んでしまったのです。これには王様だけでなく家臣たちも懲りて、そうしてイスラエルはエジプトから救い出されました。このようにお救い下さる神さまはただおひとりだけです。

8/19 「ジーザス・リメンバー・ミー」 ルカの福音書23章32~43節 エミリー・チョウ師

  •  「リメンバー」という言葉を辞書で調べると、「覚える」と「思い出す」の2つの意味があります。誰かから「リメンバー」されたいということは、人にとって最大の願望とも言えます。人生の最期の時、死にゆく人は、だれの記憶の中であったとして、生き続けるのだと感じたいのです。
  •  ルカの福音書に出てくるイエス様と一緒に十字架に付けられた犯罪人は、イエスさまに人生の最期で「リメンバー・ミー」のようなリクエストをしました。誰も自分のことを覚えておらず、これから死ぬという全くの絶望の中でも誰かに覚えられていたいという願いが彼にはあったのです。
    ずっと沈黙されていたイエス様は彼の願いを聞いた時、こう言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様は完全な救いをこの人に告げられました。ただこの人のことを覚えていて、そして天国に入れる時に思い出すということだけではなく、イエス様は、この人と神様との関係が回復することを約束されました。
      リメンバーについて理解したいのは、「覚える」と「思い出す」の他にもさらに「リ・メンバー」―私たちが、再び神の家族のメンバーになるということです。教会というのは、神の家族としてリ・メンバーされている人たちの交わりです。これからも共にその愛の中で成長しましょう。

8/12 「キリストにある富」  エペソ人への手紙3章1~21節 小林泰輔師   

  •  ①キリストにある囚人パウロ。ローマに捕らわれたという事実をパウロはキリスト・イエスにあって囚われているのだと捉えています。そして、パウロ投獄中にも主は教会を通して宣教のみわざを進めてくださるのなら、それはエペソ教会にとっても光栄なことだから落胆しないようにと励ましています(13)。
     ②教会を通して実現する神の奥義。奥義とは秘められていたことですが、それが啓示によって明らかになりました。その奥義とは、異邦人もユダヤ人もともにキリスト・イエスにあって、神の国の共同相続人とされるということです(6)。パウロはそのために異邦人伝道の使徒に召されました(7-9)。パウロは自分を「いと小き者より小き者」(文語訳)と述べて、そのような者に「キリストの測りがたい富」が委ねられているというコントラストを示しています。これこそが人を召して用いる神のやり方でした。土の器(Ⅱコリ4:7)である私たちを通しても主は福音宣教を進めてくださいます。
     ③キリストの愛を知る力。1章同様のパウロの祈りが展開されますが、ここではキリストの愛を知る力が強調されます。「力をもって…内なる人を強くして」(16)、「理解する力」(18)、「私たちのうちに働く力」(20)。キリストの愛は「人知をはるかに越え」ているので(19)私たちの知性に頼って悟ることはできません。かえって私たちは自分の経験則などにより、広さ、長さ、高さ、深さのリミットを設けて神の愛を考えてしまいます。神の愛は測り知れないほど深く、それは豊かな富のように莫大な恵みをもたらすということを知るのもまた、神の力なのです。神の愛と御力に満たされて参りましょう。

8/5「ただ一つのこと」  ルカの福音書10章38~42節  小林泰輔師

  •  聖書の教えていることはシンプルです。それは、神を愛して生きるということです。
     【必要なことは一つ】イエスさまはマルタとマリヤ(そしてラザロ)の家に招かれました。そこでマルタは愛するイエスさまとそのご一行のために一生懸命もてなしました。妹のマリヤはイエスさまのそばに座り話に聞き入っています。そこでマルタは忙しさから、先生であるイエスさまに、マリヤにも手伝うように言ってくださいと注文します。イエスさまは愛をもってマルタを諭しました。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです」(42)。給仕とみことばを聞くことの単純な比較ではないでしょう(礼拝が何よりも大切なことは言うまでもないことです)。必要なことは主イエスを愛する思いで目の前のことに取り組むことです。
     【ただ一人の神】神は唯一です。それと同じく神は私たちを唯一の者として愛してくださいます。神は私を宝としてくださいます(申命7:6-9)私のために死んでくださる神が他にあるでしょうか。イエスさまはかけがえのない私のために、十字架で罪を贖ってくださったのです。
     【一番大切なこと】ある律法学者が、一番大切な教えは何ですかと、主イエスに尋ねました(マルコ12:28-34)。イエスさまは、一番大切なのは「われらの神である主は、唯一の主である」と答えられました。どんなときでもこの神さまを全力で愛すること以上に大切なことはないのです。神を愛することは、隣人をどれだけ愛したかではかられますから、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えてくださいました。

7/29 「心配しない」  マタイの福音書6章19~34節  小林泰輔師

  • 「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(20)と、イエスさまはおっしゃいました。そして「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(21)と。これは私たちが何を一番頼りにしているかを問うています。頼みにしているものがあるところにその心は向きますが、神さまを頼みにしている人の心は神さまに向くのです。神と富とを同時に頼みとすることは、二心の仕え方であると教えられました(24)。
     だから、空の鳥や、野の花を神さまが養い育ててくださるように、愛する私たちのためならなおのこと、よくしてくださらないわけがないのです。何を食べるか、何を着るかということは、異邦人の切に求めているものです(32)というのは、この世の神々を頼みとする人たちがまさにそうです。与えられる御利益だけを求めていく関係が、この世の神々との関係ですが、まことの神が求めておられるのは、私たちの信頼と畏敬、礼拝です。ですから、イエスさまは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33)と、まず神さまに信頼し、神さまの統治(神の国)を求めなさいと言われました。神さまはご自身の国を良く治められる方ですから、神さまの国とその支配が完成するなら、自ずと私たちの必要は満たされることになるのです。
    天の父、私の主、来るべき王である神さまを信頼しましょう。

  • 7/22 「キリストこそ平和」 エペソ人への手紙2章11~22節 小林泰輔師

    •  キリストにあって新しく造られた私たち(10)は、ユダヤ人も異邦人もなく、「新しいひとりの人」(15)、すなわち「教会」として建て上げられていきます。パウロはエペソの異邦人信徒たちに語りかけます。以前、どのようなものであったか、神の救いの契約の外にいて、神もなく望みもなく歩んでいたことを引き受けてくださり、十字架で死なれたことにより成し遂げられました(13~15)。ユダヤ人は神の律法に内在する裁く力を使って異邦人を断罪していました。しかし、もはや律法の敵意はキリストの十字架によって廃棄されたので、思い出してくださいと(11,12)。私たちも同じく、真の神を知らず、罪を犯し、神に対する反逆者として暗闇の中を歩んでいました。しかし、神は私たち異邦人をも救い出して、神の民に加えてくださいました。それは、反逆者に対する神の敵意を、神のひとり子イエスさまが一身にユダヤ人も異邦人もひとつにせられるのです。
       そうして神は、新しいひとりの人、「教会」を創造されたのです。教会は「神の家族」(19)です。初めに創造されたアダムとエバの、失われた「神のかたち」を回復すべく、神は教会を再び家族としてお造りになられたのです。個人の救いを越えて、共同体として、共に生きるように呼び集められたのです。教会では、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストを要の石としてしっかり結び合わされ、成長していきます。神の家族として父の御前に出ていきます。そして、主は私たちを主の宮として住み、教会を用いてこの地を治められるのです。このキリストこそ平和であることを宣べ伝え、和解の使者として破れ口に立ってとりなし、祈りましょう。

    7/15 「破れ口に立つ」 創世記18章1~3.3節 田中秀亮師

    • ①信仰の回復(1-15節)
       17章に続いて神はアブラハムに現れた。それはサラに子どもが来年生まれることを直接伝えるためであった。しかし、サラは自分の年齢という現実を
    • 見つめ、神の約束を一笑に付した。われわれ人間は現実から未来を予測する。
    • それ自体は否定されるものではないが、それだけしかないならば、そこに信仰はない。ただの現実主義者である。神はわれわれの知恵や常識、
    • 自然界の法則を超越して事を為される。そのことを約束することばを語りかける。アブラハムとサラは神のことばが真実であることを知っていった。
    • われわれも語りかける神を待ち望み、神のことばが真実であることを知っていくのである。
      ②破れ口に立つ(16-33節)
       神はアブラハムを友と(イザヤ41:8)、イエス・キリストにある者を友と呼ばれ(ヨハネ15:5)、ご自身の御心を明らかにされる。神は友であるわれわれに
    • 世の「叫び」を聞かせ、留まるべき「破れ口」に立たせる。この世界の「破れ」を執り成させるためである。キリスト者は人間の善や正しさを増幅したり、
    • 貫徹することを追求するよりは、神の大きなあわれみと恵みがこの世界にもたらされることを追求することによって執り成す存在である。
    • 神はその祈りを聞いてくださり、この世界をあわれんでくださる。

    7/8「この世の中で」  エペソ人への手紙2章1~10節   小林泰輔師

    •  私たちが今いる世、この世の真っただ中に神が下りて来てくださり、私たちは救われたということ。これが神の恵みによる救いということです。
       ①この世の中で。「~の中で(希)エン(英)in」という語がいくつも出てきます。「罪過と罪の中で」(1節)「罪の中」(2)「不従順の子らの中」(2,3)。私たちの罪は聖い神からすれば汚泥のようなもので、私たちはその罪の泥沼のただ中でもがいている者です。また「この世の流れ」(2)とは、今日的には自由主義や個人主義もそうでしょうか。それらは濁流のようで、逆らって生きることができません。「空中の権威を持つ支配者」サタンにより聖い生き方を選べないようにされ、愛し合い仕え合う生き方よりも、自由主義や個人主義を吹聴しながら、その実孤独に生きることを強いられているのです。
       ➁恵みによる救い。「しかし、あわれみ豊かな神は」(4)罪のただ中にある私たちを救い出してくださいました。イエスさまが人となってこの濁流と汚泥のただ中に入って来られ、十字架の死という危険を自ら冒して救ってくださったのです。これは「ただ恵みによる」ことでした。
       ③新しい創造。神はアダムを神の似姿に創られましたが、堕落によって罪が入って来て、神のかたちを失いました。神はもう一度私たちを「キリスト・イエスにあって造られ」ました。この罪の世のただ中で、キリストにあって(in Christ)造られたのです。新しく造り変えられた者には、新しい生き方「良い行い」が備わっています。最新の掃除機には素晴らしく掃除をする機能が備わっているように。神は教会を整え、教会を通してご自身の恵みと慈愛を明らかにしてくださいます。

    7/1「主の喜びの宴」      ルカの福音書15章1~10節     小林泰輔師

    •  ルカの福音書15章には三つのたとえ話が出てきますが、これは三つでひとつのたとえです。話の流れはみな、失われたもの、探される神、見つけられる喜びで共通しています。
       ①失われた者。私たちは神の前から失われた者です。羊は極端に弱い生き物です。羊飼いの守りと導きがなければ死んでしまいます。銀貨は価値あるものですが、持ち主の手を離れては価値を発揮することができません。家出息子は父との愛の関係を失いました。私たちは、神を離れては命を失い、生きる価値を失い、愛と喜びの関係を失ってしまうのです。
       ➁探される神。羊飼いは命をかけて羊を探します。危険を顧みず深い谷底に下りて来てまで救うのです。銀貨を探すためには家の明かりをつけ(燃料を消費する)見つかるまで労力を惜しまずに探されます。家出息子は父の愛を思い出し、その愛に手繰り寄せられて、帰郷を果たしました。父は遠くから見つけて走り寄り、もう一度息子として受け容れました。
       ③主は喜び歌われる神。迷子の羊も、失われた銀貨も、家出息子も、ともに元に戻ったときには祝宴が開かれます。ゼパニヤ書3:17には主は喜び歌われると書いてあります。これは私たちが贖われたことを喜び歌われているのです。古代の王が勝利したときには吟遊詩人に勝利の歌を歌わせ、戦利品を眺めて楽しんだように、主は私たちをご自身の所有とされたことを喜び歌われるのです。しかも、主なる神の愛による支配は私たちにとっても安らぎとなるのです。主イエスは剣によってではなく十字架の贖いを通して勝利を取られましたから、主のもとに立ち返りましょう。そこに真の喜びと平安があります。

    6/24「教会の主」       エペソ人への手紙1章15~23節   小林泰輔師

    •  教会の主はイエス・キリストです。神の救いのご計画とその素晴らしさは、1章前半に見てきた通りです。パウロはそれを賛歌のように記していますが後半はパウロの祈りが記されています。
       パウロはエペソ教会の信仰の成長を喜び、感謝をもって祈っています(15,16)。そしてさらに祈りますが、それは「あなたがたが、知ることができるように」という祈りでした。①神ご自身を知るように(17)。父、御子、御霊のひとりなる神を知ることができるように。「知る」とは一体となるほどに近くなることを意味しています。三位一体の神が親しく交わるように、私たちも神さまと一体となるほどに近くなれますように。➁心の目がはっきり見えるように(18)。目に見えない神さまの、まだ見ていないけれどもやがて見ることになる御国の完成の約束を、幻(ビジョン)として見ることができますように。そうして実際に目で見てきた者のようにその素晴らしさを知ることができるように(ヘブル11:1)。③神の力を知ることができるように(19)。力は体感するものです。「力」はデュナミスとエネルゲイアという言葉が使われています。ダイナマイト、エネルギーとなっていく言葉です。固い岩盤をも打ち砕くような力が神さまにはあります。私たちの困難な状況や、固定観念を打ち破り、「どんなことでもできる」(ピリピ4:13)力です。その力は主の復活と高挙によって明らかにされました(20)。
       主は天の御座につき世を統べ治められます(21)。主は私たちをキリストのからだとしてくださり、私たちは力を帯び、この世を治めます。世が神を知るために、神の満ち満てるところ(23)として、私たちの教会も建て上げられて参ります。

  • 6/10「恵みの栄光」        エペソ人への手紙1章1~14節   小林泰輔師

    •  エペソ書はおそらくパウロがローマで軟禁されている状況で書かれました。エペソをはじめアジアの諸教会にあてて書かれたものと思われます。ここでは教会について学ばされます。みことばの適用が、いま、ここで、私に語られていると受け取ると同時に、「私たち」「あなたがた」とは私たちの教会へのメッセージであることを受け取りたいと思います。
       3節から14節までは句点なしの一つの分として書かれています。ほむべきかな!と始まるこの文章は、神の啓示を受けたパウロが、それをまるで素晴らしい一枚の絵画のように描き出しながら、多角的に主を賛美しているところです。そこには父、御子、御霊のひとりなる神が登場し、様々な教理やその意義が描かれ、さらに歴史や物語が織り込まれています。
       パウロはここで、「世界の基の置かれる前」(4)から、再臨のとき「御国を受け継ぐ」(14)も至るまでの神の救いの歴史を描き出します。それは御父が御子イエスにあって行われたことであり、それが神のご計画であったことを解き明かしています。神が与えてくださる祝福(3)は、救われる者として私たちが選ばれたこと(4)、神の子とされること(5)、それが予め定められたこと(5)です。そしてイエスさまの初臨によって十字架による血の贖いがなされ(7)、私たちは神のものとなりました。また再臨にあって御国の完成のときに私たちはそれをキリストにあって受け継ぐ者となります(11)。その恵みの栄光(6)と喜びは、聖霊が与えられたことにより確かなものとされました。聖霊は御国を受け継ぐことの保証(別訳「手付金」)なのです(14)。私たち教会は、この恵みの栄光をほめたたえるために集められました。
  • 6/3「あるべき姿に」       ヨハネの福音書5章1~18節   小林泰輔師

    •  エルサレムの賑やかな祭りの裏側に、ベテスダの池の奇跡伝説にすがる病人たちのたまり場がありました。イエスさまはそこに来られ、38年間病気に苦しんできた人を癒されました。主はその人を「見て」、その苦しみが長いのを「知って」、「良くなりたいか」と聞いてくださいました。主は私たちの問題を知っていてくださいます。それが長いことであるのも知っていてくださいます。そして、この朝、みことばを通して「良くなりたいか」と聞いてくださいます。
       病人を癒したその日は、安息日でした。安息日は神が天地を造られ、それを良しとされた後、7日目にみわざをやめられて休まれました。ですから、私たちにも7日目は休むようにと聖書で命じておられます。しかし、聖書のほかにユダヤ人の伝統的ルールにおいては安息日にしてはいけないことがたくさんありました。癒された人が床を担いで歩くのはユダヤ人にとっては違反にあたることでしたので、ユダヤ人はこの人を咎めます。イエスさまは安息日に病人を癒し、罪の赦しを宣言することをよくされました。それによってご自身が神であることをあらわしておられたのです。安息日は人にとっては休息ですが、神さまは、堕落によって失われた人間と世界を救うために今も休まず働いておられるのです。
       主が私たちに聞いてくださる「良くなりたいか」は、個人的な問題の解決というところを越えて、神に創られた良いものとしてのあるべき姿に戻りたいかということではないでしょうか。あるべき姿を取り戻したなら、救ってくださった方がイエスさまであることを知らせるように遣わしてくださいます。

    5/27 「聖霊の働き」       使徒の働き28章16~31節    小林泰輔師  

    •  ペンテコステは聖霊が弟子たちに降ったことの記念です。聖霊に満たされた弟子たちによって宣教が拡がり、使徒パウロがローマに遣わされるところまでを
    • 「使徒の働き」は取り扱っていますが、それはそのまま「聖霊の働き」でした。
       ペンテコステの聖霊は「炎」のようでした。①炎は熱い。私たちの心を燃やし、神への愛と人々の救いのための情熱に駆り立てます。
    • ➁炎は燃やし尽くします。罪や汚れを燃やすために、悔い改めに導かれます。イザヤは唇を炭火によってきよめられました(イザヤ6章)。
    • ③ペンテコステは言葉にまつわる奇跡でした。聖霊に満たされた人は言葉が変えられます。
       パウロはイエスさまに出会い、悔い改め、聖霊に満たされ、イエスさまを呪う者からイエスを主と宣べ伝える者へと変えられました。
       27章では囚人パウロの移送における船旅において、難破しそうになるところです。私たちの人生航路が難船しそうなときこそ聖霊が必要です。
    •  神はパウロに船の乗員276名を与え、パウロを用いてその命を救いました。私たちも置かれている所でその人々の魂をゆだねられたものです。
    • その人々救いに導くために主にあって遣わされています。
       28章ではついにローマにたどり着きます。そこでユダヤ人の同胞たちにイエスさまを宣べ伝えますが、目に見える成果はほとんどありませんでした。
    • パウロはイエスさまと同様(マタイ13:14-17)イザヤ書のみことばを用いて叱責しました。
      私たちは聖書を通して主イエスを見、みことばを聞き、祈りに応えられ、癒される、そのような経験をしています。主を信じて従い、主を宣べ伝えましょう。
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5/20「祈りを教えてください」   ルカの福音書11章1~13節   小林泰輔師

  •  召天者記念礼拝を、主の昇天記念の日に行うようにしています。主は「昇天」ですが、私たちは自力で天に昇ることはできないので「召天」です。
     十字架で死なれたイエスさまは三日目に神の力によってよみがえり、40日を弟子たちとともに過ごしたのち天に昇られました。それはまた同じ有様で天から下ってこられることを弟子たちが信じるためのしるしでした。もう一度同じ有様で来られた時には、この天地を目に見える形で統べ治める真の王として来られます。天の御国の民は、この真の王なるイエスさまに信従する者でなければなりません。ですから、王の支配が宣言・予告されているこのときに、イエスさまを信じて従いましょう―これが教会の使信です。
     聖書はテスタメントと英語では言われますが、それは「遺言」という意味もあります。先に召された方々の姿が遺しているのはこの御国の福音とともに、主の前で謙って祈る姿ではないでしょうか。イエスさまご在世当時、弟子たちは「祈りを教えてください」と願いました。すると主は「主の祈り」を教えてくださいました。①父よと親しく呼びかけ➁神が聖なる唯一の神としてあがめられますように③主の統べ治める御国が来ますように④日ごとの必要が満たされることによって主の統治が素晴らしいことが証しされますように⑤私たちの罪を赦していただくとともに、私たちも他者の罪を赦すことができますように(互いに愛し合い赦し合うことが新しい御国のルール、ヨハネ13:34)と祈るように教えてくださいました。また聞かれるまで祈ること、父の御思いは最も良いものを与えることであることなどです。信仰の父母の姿にならい祈りの生涯を歩みましょう。

5/6「キリストによって招かれて」  イザヤ書43章10~13   小林泰輔師

  •  イザヤ43:1にこうあります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」イスラエルの民に言われた言葉は、イエス・キリストによって今日、私たちにも語られています。私たちはキリストによって招かれて、一人一人、名前を呼ばれてこの場所にいるのです。神が私を招きたいという御思いは強く、それを実行される御腕も強く、誰もそれをとどめることはできません(13節)。
     私自身が教会に導かれたときのことを思い起こします。友人を通して教会に招かれ、初めは別の興味で教会に集っていたのが、いつしか聖書の御言葉を聞いてみたい、礼拝に参加したいという思いが与えられました。聖書を読むようになってイエスさまを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けたいという願いが与えられましたが、親の反対に遭いました。しかし、祈り、祈られて、神の導きにより、親の心も変えられて同意を得られて受洗の恵みに与りました。
     神はあなたの名を呼んで招いておられます。私たちは神に逆らう罪の奴隷でした。奴隷が名前で呼ばれることはほとんどないでしょう。しかし、神がキリストの十字架の犠牲によって代価を支払い、私たちを買い取ってくださり、私たちはキリストによって親しく名前で呼ばれる者となりました。私たちは自分で選んで教会に来たのではなく、はるか昔から、神の救いのご計画によって選ばれて、そうして時至って今、名前を呼ばれてここにいるのです。神さまからの招待を喜んで受け入れ、イエスさまを救い主として信じましょう。力強い御手に守られ、導かれる生涯は幸いです。ぜひ信じましょう。

4/29「主の証し人」  使徒の働き26章   小林泰輔師

  •  アグリッパ王の前でなされた弁明もまた、証しそのものでした。パウロの証しから、私たちの救いの証しの手本にすることができます。パウロは「以前は、私自身も」と、自分がどのように罪深い者であったかを語り始めます。私たちもそうするべきです。それから、復活のイエスさまに出会って、変えられた体験を話しました。
     パウロに現れたイエスさまの声は「起き上がって、自分の足で立ちなさい」と言われました。主の証し人として証しするためにこそパウロは選ばれ、救われたのです。(16節)
     また主は、ご自身で選び任命された証し人を「救い出し、遣わ」して、証しと宣教の使命を全うすることができるように任命責任を果たされます。(17節)
     福音の全容と証し人のゴールは、人々の「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」ることです。また信仰により赦しの確信が与えられ、聖なる神の子どもとして御国を相続するのです。(18節)
     パウロの弁明を通しての証しは、アグリッパ王や総督フェストの心に大きな影響は与えたようです。どちらも素直に信仰を持つことには至りませんでしたが。文章には表れてはいませんが、迫害されているのに喜びに溢れており、鎖につながれているのに誰よりも自由であり、犯罪人のように貶められているのに高貴な威厳をたたえて語る姿がそこにはあったのではないかと想像します。パウロは霊の目が開かれ御国の栄光を見ていたのではないでしょうか。

4/22「天に昇られたイエスさま」(『成長』より)   使徒の働き25章1~12節 小林泰輔師

  • 十字架にかけられ、墓に葬られ、三日目によみがえられたイエスさまは、それから40日あまりのあいだ、弟子たちの前に現れました。イエスさまは、弟子たちに命じられました。「あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、御子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、…彼らを教えなさい」(マタイ28:19)そして、そのためにはイエスさまご自身がともにいてくださることを約束してくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
     それから、聖霊を与えられるまでエルサレムにとどまるように言われました。聖霊はバプテスマのように上から注がれるということを予告されました(使徒の働き1:4,5)。そうすれば、力を受けてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、またイスラエルから遣わされて地の果てにまで、イエスさまの証し人として用いられると語られました。
     その後、弟子たちの見ている前で天に昇られました。呆然と立ち尽くす弟子たちに御使いが現れて言われました。「イエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)再び来られるときには王として統べ治めるために来られます。私たちはその神の国の統治が始まることを伝えるのです。聖霊により力を受けて、ともにおられる主に励まされながら、神の国の到来の知らせを宣べ伝えましょう。

4/15 「裁きのとき」  使徒の働き25章1~12節   小林泰輔師

  •  新総督フェストゥスの着任に伴い、二年間放置されていたパウロの裁判が再び行われました。ユダヤ人指導者たちの執拗な訴えにもかかわらず、
  • やはりここでも何も罪に定められることはありませんでした。それでも釈放とはならなかったので、パウロはこの問題の決着のために皇帝に上訴しました。
  • こうしてパウロのローマ行きが決定しました。
     パウロを訴えるユダヤ人の執念から思い起こされるのは、私たちを罪に定めようと迫ってくる告発者がいることです。サタンは告発者(黙示12:10)として、私たちの罪を訴えます。しかし、エルサレムに向かう前のパウロが書いているように、神によって義とされた私たちを訴えることのできる者は誰もありません(ローマ8:33,34)。また、私たちの罪の罪状書きや、債務証書は、十字架に釘付けられて破棄されましたから(コロサイ2:14)、サタンが偽りの罪状書きを捏造して訴えてもそれは無効です。
     しかし、私たちは神の御前に出る時がやがて来ます。それは皇帝の法廷以上の最高の権威がある裁きの場です。御子を信じる者が裁かれることはありません(ヨハネ3:18)。しかし、福音を信じたその後の歩みがどのようなものであったかは、神の御前で申し開きをしなければなりません。十字架の贖いという土台は揺るぎません。しかし、その土台の上に何を建て上げたかは問われます。取るに足りないちりあくたのようなものを積み上げたのか、自分の持てる最も尊いものを神にささげて天に宝を積んだのか(Ⅰコリ3:10-15)。裁きのときにそれらが明らかになり、行いに応じて報酬が与えられます。天においてすべての労苦が報われます。良いわざに励みましょう。


4/8 「福音の感染力」 使徒の働き24章1~21節   小林泰輔師

  •  福音(良い知らせ)は人を動かす力があり、またそれを要求します。パウロや使徒たちが語った福音は、「勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続け」ました(コロサイ1:6)。パウロを訴えるユダヤ人弁護士テルティロがパウロを「ペスト(疫病)のよう」と評したのは悪意からでしたが、案外、言い得て妙なところがありました。
     疫病は、人々にとって害のあるものです。確かに福音はある人々にとっては良い知らせではありませんでした。イエスはよみがえられたという知らせは、イエスが真のメシア(救い主)であり、王であり、神であったことを示す証しです。それを信じ受け入れたくない人にとっては、つまずき(スキャンダル)だったのです。イエスはよみがえられ、天に昇られたという事実は、やがて真の王としてもう一度来られるという予告を信じさせるものであり、人々に服従を要求するものです。しかし、主イエスの統治は愛とあわれみと公義によるものです。それは神の民となることで味わうことのできるものです。あなたはこの支配を受け入れますか。
     また疫病は強い感染力を持ちます。あわれみに満ちた、真の義なる王が統べ治められるという知らせは、人々を喜ばせ、慰め、希望をもたらします。新しい王の統治はくまなく布告されてから実現します。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて…それから、終わりの日が来ます」(マタイ24:14)。ある意味で世界に死をもたらすものですが(十字架に死ぬこと)、それはあたらしく再生するために必要なことです。すでに新生の恵みをいただいた私たちを通して、この福音は感染していきます。主のものとされていることを喜び、人々に感化を与えるクリスチャンにならせていただきましょう。

4/1 「驚きと喜びの知らせ」 マタイの福音書28章1~15節   小林泰輔師

  •  イエスがよみがえられたというニュースは、大スクープであり、ある人にとってはスキャンダルでもありました。
     神さまが、復活の最初の目撃者に選んだのは三人の女性たちでした(マルコ16:1)。十字架と葬りの際にも遠巻きに見守っていた人たちでした。安息日が明けて改めて遺体に香料を塗ったりしようと、墓まで行くと、墓の封印は解け、石の蓋が除けてありました。墓が空であるのを見たマグダラのマリアは急いで弟子たちに告げに行きました(ヨハネ20:1-2)。地震が起きて御使いが現れると、イエスさまはここにはなくよみがえられたことを告げました。それを聞いたもう一人のマリアとサロメは他の弟子たちに知らせに行きますが、その道中でよみがえりのイエスさまにお会いしました。彼女たちは御足を抱いて礼拝し、主イエスが礼拝すべきお方であり王の王であることを示しました。
     墓の番兵たちの幾人かがユダヤ人指導者の下へ知らせに行きました。そこで指導者たちは番兵たちの証言を改ざんさせて、夜間に弟子たちが遺体を盗んだと、これを言い広めさせました。ユダヤ人指導者たちにとってはこれはまさにスキャンダル(Ⅰコリ1:23、原語スカンダロン「つまずき」の意)だったのです。
     主イエスの復活のニュースはインパクトのあるものでした。イエスが死に勝利したことで、「信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)ことが確証されました。罪の赦しも確かなものとなりました(Ⅰコリ15:17,20)。しかし、信じない者にとってはイエスが真の神、王の王であられたので反逆者になってしまう、つまずきの知らせでした。
     私たちはこの知らせを伝えるべく召された者です。世界中に知らせましょう。

3/25 「十字架のイエスさま」 ルカの福音書23章32~34,39~43節 小林泰輔師

  •  イエスさまは罪のないお方ですが、当時のユダヤ人指導者たちに憎まれて十字架につけられることになりました。十字架の上のイエスさまは多くを語ることはできませんでした。罵られても罵り返すようなことはなく、苦しみにもだえながらも耐え忍ばれました。4つの福音書を見るとイエスさまの十字架上のことばは7つであったことがわかります。そのいくつかを見ていきます。
    「父よ彼らをお赦しください」人々は罵ったり、自分を救ってみろと言ったりしましたが、そういう人たちのために父なる神さまに赦しを願って祈られました。私たちも自分の罪の重さも分からずに神さまに対して罪を犯しますが、その私のためにも祈ってくださるのです。
    「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」二人の犯罪人のうちの一人がイエスさまに言いました。「わたしを思い出してください」自分の罪を思い知って、神に赦しを請うことすらできないと思ったのか、精いっぱいの心でただ思い出してくださいと願った者の心を見てくださり、ただちに救いの確証を与えてくださいました。
     「父よ。わが霊を御手にゆだねます」苦しみの中で私たち罪人のために祈ってくださり、私たちの身代わりとなり、神に見捨てられた者のように叫ばれ(マルコ15:34参照)、残された者のために愛の絆を結び(ヨハネ19:26,27)、贖いのみわざを完了されたイエスさまは、父なる神に霊をゆだねますと言って息を引き取られました。その一部始終を見ていたローマ兵士は「本当に、この人は正しい方であった」(47)と感化を受け、神を賛美しました。

3/18 「勇気を出しなさい」 使徒の働き23章1~11節   小林泰輔師

  • 主は私たちに使命を与え、私たちの人生を用いて、ご自身の栄光を表してくださいます。それを最後まで成し遂げてくださるのは主の御手によるということを知るなら、勇気が湧いてきます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13)「今よりわれは主なり。わが手より救ひだし得るなし。われ行わば、誰かとどむることを得んや」(イザヤ43:13文語訳)。
     パウロは捕らえれローマの千人隊長の管理下でユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)にて取り調べを受けることになります。パウロの度重なる弁明は、神が用いられたメッセージの機会でした。パウロの弁明を遮る大祭司アナニヤは、神からパウロを通して「白く塗った壁」と言われ、また後に神に打たれることが明かされます。パウロはサドカイ派とパリサイ派の分断をねらって、小細工をしたのでそれ以上の証しの機会は失われました。
     その夜、主はパウロのそばに立って「勇気を出しなさい」と語られました。ローマに行くということはパウロの願いであるばかりでなく、神の御心でもあることがここで明らかになります。そして、事を行ってくださる神の御手が、パウロを守り導くのです。
     パウロ暗殺のために40人の刺客が決起しますが、神はローマの軍隊を用いて10倍の兵力で護送します。私たちの周りにも御使いの軍勢が取り囲み守られています。「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)。どんな困難や試みの中でも勇気をもって証しの生涯を歩み続けましょう。

3/11「受けるよりも与えるほうが幸い」 使徒の働き20章35節 小林泰輔師

  • 「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
    2018年度の標語聖句です。福音書にはないイエスさまのみことばですが、「幸いな者とは誰か」ということは、山上の説教での八福の教え(マタイ5:3-11)や、詩篇においても取り扱われています。詩篇においては「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩2:12後半)とあるように、主のそばにいることが一番の幸いだと教えています。また、山上の説教においては、貧しくても、悲しくても、状況に左右されすに、主とともにある者を幸いだとしているのです。
    誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
    私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。
  • そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

    3/4「パウロの弁明」              使徒の働き22章1~22節         小林泰輔師

    • 「アジアから来たユダヤ人」の言いがかりと扇動によってパウロは殺されそうになりましたが、間一髪やって来たローマ兵により難を逃れます。パウロはそこで弁明の機会を与えられますが、これを自分の名誉の回復のためではなく、主を証しするための好機として用いました。
      主イエスは、捕らえられ、受難に向かい歩まれる中でも、一言も弁明をされませんでした。主は無言により、パウロは雄弁により、ともに神の御心を明らかにし、神の栄光のために機会を用いたのです。
      パウロの弁明から主の救いを証しすることの手本として学ぶことができます。①私も皆さんと同じ罪人でした(1-5節)。過去にどのような人生を辿って来たかは人それぞれですが、神の救いを必要としている罪人であることは共通しています。パウロはキリスト教の迫害者でした。➁主イエスとの出会い(6-11節)。パウロは「なぜわたしを迫害するのか」という主の声を聞きました。そこで自分の迫害してきたイエスと愛する主が同じ方であることに気づきました。あなたが主に出会い、悔い改めに導かれたのはどのようなみことばを通してでしょうか。③信仰に導くために主が用いられた人(12-16節)。主はアナニヤにも語られ用いられました。あなたを導いた人に働かれた主のわざを証ししましょう。④新しく与えられた使命(17-21節)。救われてのち、あなたに起きた変化は何でしょう。新しくされた人生はどのようなものでしょう。パウロは異邦人宣教という使命が与えられました。
      「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ人への手紙5:16)

    誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
    私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

2/25「恐れないで、信じる」(『成長』より)  マルコの福音書5章21~24、35~43節   小林泰輔師

  • 会堂管理者のヤイロという人の、12歳の娘が病気で死にかけていました。ヤイロはイエスさまが病気を癒すことのできるお方だと信じて、娘のために祈って癒してくださるようにお願いしに来ました。イエスさまはヤイロの願いに応えて家に向かいますが、道中で12年間病気に悩まされていた女性に出会います。その女性の求めにも応じていると、その間にヤイロの娘は死んでしまったという知らせがやってきました。それでもイエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」(36節)と言われました。今度は病気の癒しではなく死人の復活を信じなければならないのですが、イエスさまは信じ続けなさいと言われます。イエスさまが家に入られるとたくさんの人が泣いていました。イエスさまは、これは死んだのではない、眠っているのだと言いましたが、それを聞いて人々はあざ笑いました。
    イエスさまが「少女よ、起きなさい」という意味の言葉を語られると、少女の目が開いて、起き上がり、歩き始めたとあります。そうして、食事をとるように優しく勧めてくださいました。
    このように、初めより状況が悪くなっても、主は、信じ続けなさいと言われます。神さまが「恐れるな」と言われるときは何かをなさろうとするときです。信じて待ち続けましょう。

2/18「ただまっすぐに」         使徒の働き2章1~26節       小林泰輔師

  • パウロは使命に燃えてエルサレムを目指しますが、そこでは受難が待っていることが聖霊によって本人にも、周りの人にも示されていました。それでもパウロはただまっすぐにエルサレムに向かっていきました。これは、受難が予期されていながらエルサレムに向かったイエスさまのお姿に重なるものがあります。
    イエスさまはご自身で受難の予告をされました(マタイ16:21)。それをペテロが諫めると「下がれ、サタン」とまで仰られて「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました(同23節)。その後、十字架を負って主イエスに従うという大切な教えを語られました。
    パウロの場合も、パウロを心配する弟子たちから、エルサレム行きをやめるよう説得されます。彼らもまた「御霊に示されて」のことでしたが(4)、パウロも「御霊に縛られて」(20:22、2017版)、自分の十字架を負って突き進むのでした。
    エルサレムに着いてから、異邦人伝道の成果を報告し、神を賛美したのもつかの間、エルサレム教会の長老たちはパウロについての噂を取り扱います。パウロがユダヤ人の慣習をことごとく捨てるように教えているというのです。これは根も葉もないことでしたが、このユダヤ人にとってはつまずきとなる悪い噂を払拭するために、長老たちはパウロが誓願の費用を負担することを提案します。パウロはこれに何も反論していません。もはやこのような取るに足らないことで足止めをされるより、パウロは異邦人宣教とユダヤ人との融和を求めて、ただまっすぐに進みたかったのではないかと想像します。私たちも与えられた使命にまっすぐに向き合い走り続けましょう。

2/11「天のふるさとへ」          ルカの福音書23章32~43節     岩井清師

  • 3回のシリーズでお招き頂いた。これまでに①天地創造の主を知ること②罪からの救い主であるキリストを知ること、このように語ってきた。今回は③天のふるさと、永遠のいのちについて語りたい。永遠のいのちとは、まことの神と、イエスを知ることだとある(ヨハネ17:3)。
    イエスの弟子の代表格はペテロとパウロであるが、両者とも“すねに傷持つ者”であった。パウロはキリスト者たちを迫害していたが、律法に「木にかけられた者は神にのろわれた者」とある(申命21:23)、その十字架の木にかけられたイエスがメシアだなんてと、つまずいたのである。しかし後に目覚めてイエスさまは私たちの代わりに本当にのろわれた者となってくださったのだと知ったのである。
    ルカが記す十字架の詳細には他の福音書にはない二人の強盗とのやりとりがある。おそらく二人とも最初はイエスをののしったのであろう。けれども、十字架の苦しみを耐え忍びつつ「父よ。彼らをお赦しください」とご自身を傷つける罪人たちのために祈る救い主イエスさまの姿を見て、この一人の強盗は目覚めて回心したのである。私たちも人生の苦しみの中で神の恵みと真実に触れ、信仰に目覚めることがある。この強盗はイエスさまが天国の御座に就くとき「私を思い出してください」と願ったが、すぐに「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださった。主イエスは私たちのために御座から祈られる。「I pray for you.」と約束してくださる方。
    主は私たちが天国に至る旅路を歩むために、祈っていてくださる。私たちは生まれたとき、目的地を知らずにこの世の旅を始めるが、福音を聞き、目的地は天国と神の栄光であることを知らされた。旅の途中で引き裂かれ、傷つけられることもある。しかし主は忘れないで祈っていてくださる。この旅を終えて天のふるさとへ凱旋するその時まで。

2/4「みことばによる育成」        使徒の働き20章28~38節      小林泰輔師

  • パウロの告別説教の後半部分から学びます。前半はパウロの姿勢から教えられましたが、この後半は教会へのより具体的な忠告が含まれています。
    まず群れの監督、指導者たちに忠告します(28)。「群れ」という言葉が示すのは私たちは弱い羊であるということです。昨今、リーダーシップが叫ばれていますが、まさに主イエスのような良い羊飼いとしてのリーダーシップこそ必要です。また聖霊によって任命されたリーダーに従います。リーダー自身は聖霊の導きを求めてみことばに仕える働き人です。
    教会には色々な「教えの風」(エペソ4:14)が吹き込まれるおそれがあります。外からは偽預言者が羊の皮をかぶった狼のようにしてやって来て(マタイ7:15)、内では毒麦が紛れ込んでいる(マタイ13章)ようなものですが、両方とも、実によって見分けることができます。
    パウロの良い実は、昼夜絶えず、涙をもって執り成しの祈りを続けた姿勢に見られます(31)。そしてさらにみことばに信頼する教役者パウロは、「神と恵みのみことばに」(32)ゆだねました。信仰を成長させてくださるのはパウロではなく、神さまだからです(Ⅰコリント3:7)。成長して良い実を結ぶ者は御国を受け継ぐのです。
    「受けるよりも与えるほうが幸い」(35)と思えるのは成長の実の表われです。主はそれを実行できる者に私たちを造り変えられます。神がご自身の血をもって教会を買い取られたように、犠牲を惜しまず種を蒔く人に変えられます。そのようにしてキリストに似た者へと変えられるのです。

1/28 「イエスさまの弟子」(『成長』より) ヨハネの福音書1章35~51節      小林泰輔師

  • イエスさまの最初の弟子たちのお話です。アンデレとヨハネは、ともにバプテスマのヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネがイエスさまを見て「見よ、神の小羊」と言うのを聞いて、イエスさまの方についていくことにしました。アンデレには兄弟がいて、名をシモンといいました。アンデレはシモンに「私たちはメシヤ(キリスト)に会った」と言ってイエスさまを紹介しました。シモンはイエスさまから「ケパ(ペテロ、「岩」の意)」と呼ばれて、イエスさまの弟子になりました。その翌日、ガリラヤに向かう途中でピリポに出会ったイエスさまは「わたしに従って来なさい」と声をかけられました。ピリポも弟子になりました。ピリポはナタナエルにイエスさまのことを話しました。聖書に書いてある救い主に会ったと話したのですが、ナタナエルは聖書をよく勉強していました。ナザレから救い主が出るとは書いていないと言って信じませんでした(イエスさまはベツレヘムで生まれました)。しかし、イエスさまと出会い、イエスさまがナタナエルのことをよく知っていて「あなたはほんとうのイスラエル人だ」と言ってくださったので、イエスさまを信じて「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と告白しました。
    弟子たちはイエスさまのお働きを一番近くで見て学びました。私たちもイエスさまに従い、イエスさまから学び、神さまを伝えるお手伝いをしましょう。

1/21 「終わりまで走り尽くす」 使徒の働き20章17~27節        小林泰輔師

  • パウロのエペソ教会への告別メッセージより、パウロの伝道者・牧会者としての姿勢から学びます。
    ①いつも人々とともに過ごしてきた。人間嫌いでは牧会はできません。人付き合いが苦手な性格だったとしても、まず自分自身が主の愛を身に受けることで、必ず変えられます。主のまなざしで人を見るようになります。
    ②試練の中でも謙遜であった。誤解され、迫害を受けても、我を通すのではなく、謙遜でいることで主イエスの十字架の姿が表されます。
    ③涙とともに仕えた。多くの人が十字架の敵(ピリピ3:18)として歩んでいるのを見て、涙の祈りをもって執り成しました。
    ④本当に有益なことを語り、信頼された。主イエスの福音を語り、いのちにあふれた生き方を伝えたので人々に請われて講堂や家庭集会で語ることができました。
    パウロが伝えてきたメッセージは①神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰、十字架の力への信頼(21節)②神の恵みの福音(24節)③御国の到来(25節)④神のご計画のすべて―天地創造~再臨・新天新地(27節)でした。
    パウロはアジアの諸教会の献金を携えてエルサレムを目指しますが、そこでは迫害が待っていると聖霊によって示されます(23節)。しかし、パウロはそれでも旅を続けます。自分の命を永らえさせるために生きているのではなく、主の御用のために生かされていることを確信しているからです。それが、パウロの走るべき道のりでした(24節)。私たちにもそれぞれの走るべき道のりがあります。終わりまで主にゆだねて走り尽くす生涯を送りましょう。

1/14 「愛を求めて」        ヨハネの手紙4章7~12節          小林泰輔師

  • 「LINE」などのSNSの普及と流行の背後には、誰かとつながりたいという欲求があるように思います。人々の愛を求めてさまよう姿の表われでしょうか。
    ①愛を求めてさまよう私たち。聖書は「ここに愛がある」(10節)と愛をもとめてさまよう私たちに答えを提供しています。心に開いた穴を埋めるために、人とのつながりを求めるのですが、神の愛だけが私たちの心を満たすことができるのです。「神は愛」である(8節)とありますが、愛は、神のご性質の一つというよりもすべてです。神の正義も、神の裁きも、神の聖さもすべて私たちへの愛のゆえです。
    ②何によって神とつながるのか。それは「その方によって」(9節)とあるように、ひとり子イエスさまによってです。「いいね」を求めて承認されるよう努力しなくても、神の方からひとり子イエスさまを世に遣わしてくださり、私たちの仲介者としてくださったのです。愛を知らない罪人であった私たちは、その罪ゆえに神の怒りを身に受けるべき者でしたが、イエスさまの十字架によってその罪が赦されました。そして、愛する生き方を知らなかった私たちに、ご自身のいのちをささげる生き方を通して、愛するということを示してくださいました。
    ③誰とつながるのか。神に愛されているという確信を得て、神とつながるならば、神の愛を供給源として、他者とつながることができます。神の愛を人々に提供することができます。私たちの努力ではなく、神の子どもとされ、神に似せられた者として愛に生きることができるように、真のいのちを得させてくださったからです。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(11節)。愛を求めてさまよう人々に、愛の神とつながるように知らせましょう。