2017年度

4/1 「驚きと喜びの知らせ」 マタイの福音書28章1~15節   小林泰輔師

 イエスがよみがえられたというニュースは、大スクープであり、ある人にとってはスキャンダルでもありました。
 神さまが、復活の最初の目撃者に選んだのは三人の女性たちでした(マルコ16:1)。十字架と葬りの際にも遠巻きに見守っていた人たちでした。安息日が明けて改めて遺体に香料を塗ったりしようと、墓まで行くと、墓の封印は解け、石の蓋が除けてありました。墓が空であるのを見たマグダラのマリアは急いで弟子たちに告げに行きました(ヨハネ20:1-2)。地震が起きて御使いが現れると、イエスさまはここにはなくよみがえられたことを告げました。それを聞いたもう一人のマリアとサロメは他の弟子たちに知らせに行きますが、その道中でよみがえりのイエスさまにお会いしました。彼女たちは御足を抱いて礼拝し、主イエスが礼拝すべきお方であり王の王であることを示しました。
 墓の番兵たちの幾人かがユダヤ人指導者の下へ知らせに行きました。そこで指導者たちは番兵たちの証言を改ざんさせて、夜間に弟子たちが遺体を盗んだと、これを言い広めさせました。ユダヤ人指導者たちにとってはこれはまさにスキャンダル(Ⅰコリ1:23、原語スカンダロン「つまずき」の意)だったのです。
 主イエスの復活のニュースはインパクトのあるものでした。イエスが死に勝利したことで、「信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)ことが確証されました。罪の赦しも確かなものとなりました(Ⅰコリ15:17,20)。しかし、信じない者にとってはイエスが真の神、王の王であられたので反逆者になってしまう、つまずきの知らせでした。
 私たちはこの知らせを伝えるべく召された者です。世界中に知らせましょう。

3/25 「十字架のイエスさま」 ルカの福音書23章32~34,39~43節 小林泰輔師

 イエスさまは罪のないお方ですが、当時のユダヤ人指導者たちに憎まれて十字架につけられることになりました。十字架の上のイエスさまは多くを語ることはできませんでした。罵られても罵り返すようなことはなく、苦しみにもだえながらも耐え忍ばれました。4つの福音書を見るとイエスさまの十字架上のことばは7つであったことがわかります。そのいくつかを見ていきます。
「父よ彼らをお赦しください」人々は罵ったり、自分を救ってみろと言ったりしましたが、そういう人たちのために父なる神さまに赦しを願って祈られました。私たちも自分の罪の重さも分からずに神さまに対して罪を犯しますが、その私のためにも祈ってくださるのです。
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」二人の犯罪人のうちの一人がイエスさまに言いました。「わたしを思い出してください」自分の罪を思い知って、神に赦しを請うことすらできないと思ったのか、精いっぱいの心でただ思い出してくださいと願った者の心を見てくださり、ただちに救いの確証を与えてくださいました。
 「父よ。わが霊を御手にゆだねます」苦しみの中で私たち罪人のために祈ってくださり、私たちの身代わりとなり、神に見捨てられた者のように叫ばれ(マルコ15:34参照)、残された者のために愛の絆を結び(ヨハネ19:26,27)、贖いのみわざを完了されたイエスさまは、父なる神に霊をゆだねますと言って息を引き取られました。その一部始終を見ていたローマ兵士は「本当に、この人は正しい方であった」(47)と感化を受け、神を賛美しました。

3/18 「勇気を出しなさい」 使徒の働き23章1~11節   小林泰輔師

主は私たちに使命を与え、私たちの人生を用いて、ご自身の栄光を表してくださいます。それを最後まで成し遂げてくださるのは主の御手によるということを知るなら、勇気が湧いてきます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ2:13)「今よりわれは主なり。わが手より救ひだし得るなし。われ行わば、誰かとどむることを得んや」(イザヤ43:13文語訳)。
 パウロは捕らえれローマの千人隊長の管理下でユダヤ人の最高法院(サンヘドリン)にて取り調べを受けることになります。パウロの度重なる弁明は、神が用いられたメッセージの機会でした。パウロの弁明を遮る大祭司アナニヤは、神からパウロを通して「白く塗った壁」と言われ、また後に神に打たれることが明かされます。パウロはサドカイ派とパリサイ派の分断をねらって、小細工をしたのでそれ以上の証しの機会は失われました。
 その夜、主はパウロのそばに立って「勇気を出しなさい」と語られました。ローマに行くということはパウロの願いであるばかりでなく、神の御心でもあることがここで明らかになります。そして、事を行ってくださる神の御手が、パウロを守り導くのです。
 パウロ暗殺のために40人の刺客が決起しますが、神はローマの軍隊を用いて10倍の兵力で護送します。私たちの周りにも御使いの軍勢が取り囲み守られています。「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)。どんな困難や試みの中でも勇気をもって証しの生涯を歩み続けましょう。

3/11「受けるよりも与えるほうが幸い」      使徒の働き20章35節           小林泰輔師

「主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」
2018年度の標語聖句です。福音書にはないイエスさまのみことばですが、「幸いな者とは誰か」ということは、山上の説教での八福の教え(マタイ5:3-11)や、詩篇においても取り扱われています。詩篇においては「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩2:12後半)とあるように、主のそばにいることが一番の幸いだと教えています。また、山上の説教においては、貧しくても、悲しくても、状況に左右されすに、主とともにある者を幸いだとしているのです。
誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。
そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。


3/4「パウロの弁明」              使徒の働き22章1~22節         小林泰輔師

「アジアから来たユダヤ人」の言いがかりと扇動によってパウロは殺されそうになりましたが、間一髪やって来たローマ兵により難を逃れます。パウロはそこで弁明の機会を与えられますが、これを自分の名誉の回復のためではなく、主を証しするための好機として用いました。
主イエスは、捕らえられ、受難に向かい歩まれる中でも、一言も弁明をされませんでした。主は無言により、パウロは雄弁により、ともに神の御心を明らかにし、神の栄光のために機会を用いたのです。
パウロの弁明から主の救いを証しすることの手本として学ぶことができます。①私も皆さんと同じ罪人でした(1-5節)。過去にどのような人生を辿って来たかは人それぞれですが、神の救いを必要としている罪人であることは共通しています。パウロはキリスト教の迫害者でした。➁主イエスとの出会い(6-11節)。パウロは「なぜわたしを迫害するのか」という主の声を聞きました。そこで自分の迫害してきたイエスと愛する主が同じ方であることに気づきました。あなたが主に出会い、悔い改めに導かれたのはどのようなみことばを通してでしょうか。③信仰に導くために主が用いられた人(12-16節)。主はアナニヤにも語られ用いられました。あなたを導いた人に働かれた主のわざを証ししましょう。④新しく与えられた使命(17-21節)。救われてのち、あなたに起きた変化は何でしょう。新しくされた人生はどのようなものでしょう。パウロは異邦人宣教という使命が与えられました。
「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ人への手紙5:16)

誰かのそばにいると、その人から強い影響を受けるように、私たちが主イエスさまのそばにいるなら、主に似た者に変えられていきます。私たち自身が小さなキリストとなって、受ける者から与える者へと成長することができます。しかし、幹であるイエスさまを離れては何もできませんから(ヨハネ15:5)、つながり続け、自分自身も恵みを受けつつ、その恵みを分け与えるのです。
私たちはすでに恵まれました。神さまの愛をいっぱい身に受けています。そのことを喜びをもって証しし、分かち合いましょう。与えられた豊かな賜物もまた分け合いましょう。受けることばかりでは成長がありません。しかし受けることなしに与えるなら枯れ尽き果ててしまいます。兄弟姉妹とともに主からの恵みに浴しつつ、その実を分け合いともに成長して参りましょう。そして、礼拝、伝道、奉仕に、自分自身を献げて参りましょう。

2/25「恐れないで、信じる」(『成長』より)  マルコの福音書5章21~24、35~43節   小林泰輔師

会堂管理者のヤイロという人の、12歳の娘が病気で死にかけていました。ヤイロはイエスさまが病気を癒すことのできるお方だと信じて、娘のために祈って癒してくださるようにお願いしに来ました。イエスさまはヤイロの願いに応えて家に向かいますが、道中で12年間病気に悩まされていた女性に出会います。その女性の求めにも応じていると、その間にヤイロの娘は死んでしまったという知らせがやってきました。それでもイエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい」(36節)と言われました。今度は病気の癒しではなく死人の復活を信じなければならないのですが、イエスさまは信じ続けなさいと言われます。イエスさまが家に入られるとたくさんの人が泣いていました。イエスさまは、これは死んだのではない、眠っているのだと言いましたが、それを聞いて人々はあざ笑いました。
イエスさまが「少女よ、起きなさい」という意味の言葉を語られると、少女の目が開いて、起き上がり、歩き始めたとあります。そうして、食事をとるように優しく勧めてくださいました。
このように、初めより状況が悪くなっても、主は、信じ続けなさいと言われます。神さまが「恐れるな」と言われるときは何かをなさろうとするときです。信じて待ち続けましょう。

2/18「ただまっすぐに」         使徒の働き2章1~26節       小林泰輔師

パウロは使命に燃えてエルサレムを目指しますが、そこでは受難が待っていることが聖霊によって本人にも、周りの人にも示されていました。それでもパウロはただまっすぐにエルサレムに向かっていきました。これは、受難が予期されていながらエルサレムに向かったイエスさまのお姿に重なるものがあります。
イエスさまはご自身で受難の予告をされました(マタイ16:21)。それをペテロが諫めると「下がれ、サタン」とまで仰られて「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られました(同23節)。その後、十字架を負って主イエスに従うという大切な教えを語られました。
パウロの場合も、パウロを心配する弟子たちから、エルサレム行きをやめるよう説得されます。彼らもまた「御霊に示されて」のことでしたが(4)、パウロも「御霊に縛られて」(20:22、2017版)、自分の十字架を負って突き進むのでした。
エルサレムに着いてから、異邦人伝道の成果を報告し、神を賛美したのもつかの間、エルサレム教会の長老たちはパウロについての噂を取り扱います。パウロがユダヤ人の慣習をことごとく捨てるように教えているというのです。これは根も葉もないことでしたが、このユダヤ人にとってはつまずきとなる悪い噂を払拭するために、長老たちはパウロが誓願の費用を負担することを提案します。パウロはこれに何も反論していません。もはやこのような取るに足らないことで足止めをされるより、パウロは異邦人宣教とユダヤ人との融和を求めて、ただまっすぐに進みたかったのではないかと想像します。私たちも与えられた使命にまっすぐに向き合い走り続けましょう。

2/11「天のふるさとへ」          ルカの福音書23章32~43節     岩井清師

3回のシリーズでお招き頂いた。これまでに①天地創造の主を知ること②罪からの救い主であるキリストを知ること、このように語ってきた。今回は③天のふるさと、永遠のいのちについて語りたい。永遠のいのちとは、まことの神と、イエスを知ることだとある(ヨハネ17:3)。
イエスの弟子の代表格はペテロとパウロであるが、両者とも“すねに傷持つ者”であった。パウロはキリスト者たちを迫害していたが、律法に「木にかけられた者は神にのろわれた者」とある(申命21:23)、その十字架の木にかけられたイエスがメシアだなんてと、つまずいたのである。しかし後に目覚めてイエスさまは私たちの代わりに本当にのろわれた者となってくださったのだと知ったのである。
ルカが記す十字架の詳細には他の福音書にはない二人の強盗とのやりとりがある。おそらく二人とも最初はイエスをののしったのであろう。けれども、十字架の苦しみを耐え忍びつつ「父よ。彼らをお赦しください」とご自身を傷つける罪人たちのために祈る救い主イエスさまの姿を見て、この一人の強盗は目覚めて回心したのである。私たちも人生の苦しみの中で神の恵みと真実に触れ、信仰に目覚めることがある。この強盗はイエスさまが天国の御座に就くとき「私を思い出してください」と願ったが、すぐに「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束してくださった。主イエスは私たちのために御座から祈られる。「I pray for you.」と約束してくださる方。
主は私たちが天国に至る旅路を歩むために、祈っていてくださる。私たちは生まれたとき、目的地を知らずにこの世の旅を始めるが、福音を聞き、目的地は天国と神の栄光であることを知らされた。旅の途中で引き裂かれ、傷つけられることもある。しかし主は忘れないで祈っていてくださる。この旅を終えて天のふるさとへ凱旋するその時まで。

2/4「みことばによる育成」        使徒の働き20章28~38節      小林泰輔師

パウロの告別説教の後半部分から学びます。前半はパウロの姿勢から教えられましたが、この後半は教会へのより具体的な忠告が含まれています。
まず群れの監督、指導者たちに忠告します(28)。「群れ」という言葉が示すのは私たちは弱い羊であるということです。昨今、リーダーシップが叫ばれていますが、まさに主イエスのような良い羊飼いとしてのリーダーシップこそ必要です。また聖霊によって任命されたリーダーに従います。リーダー自身は聖霊の導きを求めてみことばに仕える働き人です。
教会には色々な「教えの風」(エペソ4:14)が吹き込まれるおそれがあります。外からは偽預言者が羊の皮をかぶった狼のようにしてやって来て(マタイ7:15)、内では毒麦が紛れ込んでいる(マタイ13章)ようなものですが、両方とも、実によって見分けることができます。
パウロの良い実は、昼夜絶えず、涙をもって執り成しの祈りを続けた姿勢に見られます(31)。そしてさらにみことばに信頼する教役者パウロは、「神と恵みのみことばに」(32)ゆだねました。信仰を成長させてくださるのはパウロではなく、神さまだからです(Ⅰコリント3:7)。成長して良い実を結ぶ者は御国を受け継ぐのです。
「受けるよりも与えるほうが幸い」(35)と思えるのは成長の実の表われです。主はそれを実行できる者に私たちを造り変えられます。神がご自身の血をもって教会を買い取られたように、犠牲を惜しまず種を蒔く人に変えられます。そのようにしてキリストに似た者へと変えられるのです。

1/28 「イエスさまの弟子」(『成長』より) ヨハネの福音書1章35~51節      小林泰輔師 

イエスさまの最初の弟子たちのお話です。アンデレとヨハネは、ともにバプテスマのヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネがイエスさまを見て「見よ、神の小羊」と言うのを聞いて、イエスさまの方についていくことにしました。アンデレには兄弟がいて、名をシモンといいました。アンデレはシモンに「私たちはメシヤ(キリスト)に会った」と言ってイエスさまを紹介しました。シモンはイエスさまから「ケパ(ペテロ、「岩」の意)」と呼ばれて、イエスさまの弟子になりました。その翌日、ガリラヤに向かう途中でピリポに出会ったイエスさまは「わたしに従って来なさい」と声をかけられました。ピリポも弟子になりました。ピリポはナタナエルにイエスさまのことを話しました。聖書に書いてある救い主に会ったと話したのですが、ナタナエルは聖書をよく勉強していました。ナザレから救い主が出るとは書いていないと言って信じませんでした(イエスさまはベツレヘムで生まれました)。しかし、イエスさまと出会い、イエスさまがナタナエルのことをよく知っていて「あなたはほんとうのイスラエル人だ」と言ってくださったので、イエスさまを信じて「あなたは神の子です。イスラエルの王です。」と告白しました。
弟子たちはイエスさまのお働きを一番近くで見て学びました。私たちもイエスさまに従い、イエスさまから学び、神さまを伝えるお手伝いをしましょう。

1/14 「愛を求めて」     ヨハネの手紙4章7~12節     小林泰輔師

  •  パウロのエペソ教会への告別メッセージより、パウロの伝道者・牧会者としての姿勢から学びます。
    ①いつも人々とともに過ごしてきた。人間嫌いでは牧会はできません。人付き合いが苦手な性格だったとしても、まず自分自身が主の愛を身に受けることで、必ず変えられます。主のまなざしで人を見るようになります。
    ②試練の中でも謙遜であった。誤解され、迫害を受けても、我を通すのではなく、謙遜でいることで主イエスの十字架の姿が表されます。
    ③涙とともに仕えた。多くの人が十字架の敵(ピリピ3:18)として歩んでいるのを見て、涙の祈りをもって執り成しました。
    ④本当に有益なことを語り、信頼された。主イエスの福音を語り、いのちにあふれた生き方を伝えたので人々に請われて講堂や家庭集会で語ることができました。
    パウロが伝えてきたメッセージは①神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰、十字架の力への信頼(21節)②神の恵みの福音(24節)③御国の到来(25節)④神のご計画のすべて―天地創造~再臨・新天新地(27節)でした。
    パウロはアジアの諸教会の献金を携えてエルサレムを目指しますが、そこでは迫害が待っていると聖霊によって示されます(23節)。しかし、パウロはそれでも旅を続けます。自分の命を永らえさせるために生きているのではなく、主の御用のために生かされていることを確信しているからです。それが、パウロの走るべき道のりでした(24節)。私たちにもそれぞれの走るべき道のりがあります。終わりまで主にゆだねて走り尽くす生涯を送りましょう。
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1/7 「恵みふかき主」       マタイの福音書20章1~16節       宗眞理子師

    • 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(16節)
      イエスさまの譬え話。ぶどう園(神の教会)の主人は朝早く出掛けてぶどう園の働きびとを呼び集め1日1デナリの約束をして送り出しました。それから9時、12時、3時にも同じ様にしましたが、夕方5時ごろに行くとまだ立っている人がいたので彼らもぶどう園に招かれました。1日の労働が終ると皆1デナリを頂きましたが、朝から働いた人たちは期待した額ではなかったので不満でした(12節)。私たちの経験や常識では考えられない天国の譬え話だからです。神さまは小さい者や貧しい者たちにもご自身の愛と権威をもって大きな恵みを注いでおられます(14節)。
      一切を捨てて主にお従いしてきたペテロに(19:27)自らを大きくする思いを警告され、近づく受難、十字架、復活の栄光を語られ「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、贖いの死の代価として多くの人に真のいのちを与えるためです」(28節意訳)と、ユダの足をも洗ってくださいました(ヨハネ伝13章参照)。「神の国の到来」を告げるため此の世から召された私たちも喜びと感謝をもって与えられた賜物を自覚し用いられて人々を教会にお招きいたしましょう。

12/31 「救いの神」   ルカの福音書2章1~12節     小林泰輔師

  •  イエスさまがお生まれになった時代の皇帝とシリア総督の名前が記されています(1,2節)。イエスさまが確かに歴史の中にお生まれになったことを証明しています。
     イエスさまをお腹に宿したマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに来ていました。けれども、どこも宿屋はいっぱいで、ルカの福音書2章1~12節泊まるところがありません。ようやく見つけたところは家畜小屋でした。「宿屋には彼らの居場所がなかったからである」(7節)イエスさまは居場所のないところに生まれてくださいました。
     また、救い主の降誕の最初の知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは職業の性質上、礼拝からも除外されていた人たちでした。居場所のない者たちのところに、喜ばしい知らせが告げられたのです。イエスさまはその生涯において、取税人や遊女や罪人など、居場所のない人たちのところに出て行き救いの福音をお告げになられました。イエスさまの復活を最初に目撃したのも女性たちでした。イエスさまは居場所のないところに生まれましたが、居場所のない人たちの友となってくださり、インマヌエル(神が共におられる)と呼ばれるお方として、すべての人の居場所となってくださいました。この方により、私たちは赦されて、愛されていることを知り、ここに居ていいのだと認められ、生きていくことができるようにされたのです。
     罪のゆえに神のみそばを離れ、居場所を失った私たちを、もう一度、みそばに引き寄せるために生まれてきてくださいました。そして、十字架の贖いにより私たちを罪と死から救い出してくださいました。この方を主キリストと信じて告白し、いつまでもみそばにお従いして参りましょう。
     「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

12/24 「最高のプレゼント」     ヨハネの福音書3章16節         小林泰輔師

  • 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
     クリスマスは楽しい行事ですが、その楽しさの理由のひとつは、プレゼントをもらえることにあるのではないでしょうか。今日のみことばには、神さまが私たちに与えてくださった最高のプレゼントのことが書いてあります。それは、「ひとり子イエスさま」のことであり、また「永遠のいのち」のことです。
     イエスさまは、神さまのひとり子としてヨセフとマリヤのもとにお生まれになりました。それは昔々からの神さまの約束の成就でした。神さまのもとから心も体も遠く離れてしまって、罪のために滅びそうになっている私たちを救うために、イエスさまは人となってこの地に来られたのです。
     私たちを救うその方法とは、実に、十字架の上で私たちの罪を身代わりに背負うことでした。イエスさまが鞭打たれ、傷つき、十字架によって死なれることで私たちは罪の罰を免れるのです。イエスさまがそのいのちを捨てて、私たちのために与えてくださったのです。そうしてイエスさまが復活されたことにより、私たちは罪赦されたことを知り、永遠のいのち、新しいいのちに生きることができるようになりました。神さまからの最高のプレゼントを感謝して受け取りましょう。

12/17 「主の宝となる」       出エジプト記19章1~15節         小林泰輔師

  • 19章以降は、シナイ山における律法の授与と律法の内容に入っていきます。「第三の月の新月」は過越から七週目あたりですが、主は律法(みおしえ)を授けるために、モーセを山に誘われました。そこで、主はまず「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと…を見た」(4節)と、自分たちが経験したことを覚えておくように言われました。主はイスラエルを御翼の陰にかくまい、時に御翼に載せるようにして守り導いて来られました。私たちも主に守られた経験を思い出すことにより信仰が強められ、励まされます。
    そしてその後、“だから”主に聞き従いなさいというふうに「…聞き従い、わたしの契約を守るなら、…わたしの宝となる」(5節)と言われます。交換条件のように聞こえますが、民の従順より先に、御翼に守られる恵みがあったのです。私たちの従順が神の恵みを引き出すのではなく、先行する恵みがあって、その応答として、聞き従う責任を全うするのです。
    アブラハムの家族から民へ、そして国へと増え広がりました。今や主の「宝」(5節)、「祭司の王国、聖なる国民」(6節)とされるのです。これは神の一方的な恵みによる祝福であり、アブラハムとの契約の成就でありました。
    民は応答しました。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」(8節)。すると主は、民がモーセを通して語られるみことばを「いつまでも…信じるために」臨在を約束してくださいました(9節)。私たちの信仰維持の努力より先に、臨在をもってご自身を現してくださるのです。民は三日目に主が降りて来られることに備えて、その衣を洗いました(10,11)。私たちも神の御前に立つ備えとして、小羊イエスの血で洗われた衣を身にまといます(黙示7:14)。それはキリストの花嫁の証しです(黙示19:8)。花婿イエスさまは、花嫁を宝のように愛おしみ守ってくださいます(黙示7:15-18)。

12/10 「主の助け手」       出エジプト記18章13~27節         小林泰輔師

  • このところで主は、舅のイテロを通してモーセをみこころへと導かれました。モーセはエジプト脱出の旅のどこかのタイミングで妻子をミデヤンの舅のもとへ帰していました。アマレクとの戦闘が終わるとモーセの妻子を連れてイテロが会いに来ました。そこでモーセは主がどのようなところから民を救い出してくださったかを語り、イテロもそれを聞きともに喜び主をほめたたえました。麗しい信頼関係が見られます。
    その後、モーセが民の諸問題を、霊的なことや、政治的、軍事的なことだけでなく、民事的なことまで、何もかも一人でさばいているのを見て、はっきりと言います。「あなたのしていることは良くありません」(17)信頼関係があればこそ言える忠告です。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」(箴言27:5)。「地上の誰にもまさって非常に謙遜であった」(民12:3)モーセもそのまま忠告を受け入れました(24)。
    モーセと民の関係は共倒れになる危機をはらんでいました(18)。そこでイテロは重荷を分け合うことを提案します。「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われた神は、「ふさわしい助け手」として妻を与えられました(創2:18)。私たちはひとりでは生きられません。重荷は分け合われなければならないのです。そのためには、夫婦だけでない主からの助け手が備えられています。
    イテロのアドバイスは的確で具体的でした。問題の仕分けをし(22)、階層を分け(21)、それにふさわしい助け手である小リーダーを立てました。小リーダーは①神を恐れる者、②問題に適した力のある者、③不正の利を憎む誠実な人が望まれました。
    私たちもお互いを牧会するためにこそ召されたのです。そのようにして教会は成長し、宣教が前進するのです。(使徒6:7)

12/2「主はわが旗」         出エジプト記17章8~16節          小林泰輔師

  • 荒野における水の確保は死活問題であり、それはアマレク人も同じでした。おそらくメリバ・マサで水が湧いたことを聞きつけたのでしょう、アマレク人が来てイスラエルと戦闘になりました(8)。モーセはヨシュアと民に命じてアマレク人と戦わせ、自分は丘の頂きに立ち、この戦いのために祈りました(9,10)。
    この戦いは主が命じたものではありませんでした。また、エジプト脱出の対エジプト軍の時のように主ご自身が戦われたものでもありませんでした。モーセの判断と決断により、ヨシュアが実行した戦いでした。神に依り頼むということは、自分では何も判断も行動もしないということではありません。「肉の思い」と称して主体的な決断を避けようとするのは聖書的と言えるのでしょうか。ローマ8:7,8によれば「肉の思い」とは神に反抗すること、神の喜ばれない判断のことです。その限りにおいて祈りつつも主体的に判断し、経過においても祈り続け、なすべきことを行うときに、主が私たちの決断をご自身の計画に組み込んでくださるのではないでしょうか。
    モーセは神の杖を手に持ち、高く掲げました。それは民の勝利のために祈ったことと、力ある神の杖を旗印に掲げたことと二つの意味があります。自分で決断し実行したことを祈りにおいて進めていくのです。また、戦場において疲れた兵士が旗印を見上げて奮起するように、私たちも自分に起きた神の救いのみわざ―主はわが旗―をいつも思い起こすことです。そうすれば勇気が与えられて勝利を得ることができます。
    旗印である神の杖を持つ手が下がらないよう、両脇でアロンとフルが支えました(11,12)。祈り合う友の存在は尊いものです。私は誰の祈りの友となれるでしょうか。

11/26 「イサクの結婚」      創世記24章2~4、7、10~14節       小林泰輔師

 アブラハムは息子イサクのための嫁さがしを始めました。異教のカナン人と結婚することは望ましいことではなかったので、アブラハムの親類が多くいる故郷へしもべを遣わしました。そのしもべが任務を忠実に祈りつつ行ったことに教えられます。
神さまが私たちに第一に期待されることは、信頼することです。ここではしもべだけでなく、アブラハムも、リベカも、リベカの兄ラバンも、イサクも、主のみこころの最善を信じてゆだねました。
 また、しもべは主人アブラハムに対して忠義を尽くしました(12,14,27節)。主人の益となることを祈り求めました。私たちも人々が主からの恵みを受けられるように仕え、とりなし、祈ります。
 また、任務の遂行のためによく祈り、そして注意深くその祈りの答えを待ちました(21節)。「主にあって受けた務めを、注意してよく果たす」(コロ4:17)ためにはよく祈らなければなりません。
 それから節目ごとに礼拝をささげ(26,52節)、成功にあっても謙虚でありました。まず、主に栄光を帰し、次に主人のことを考え、最後に自分のことを考えました(27節)。
 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)私たちの行こうとする道を主に信頼して全くゆだねて行くなら、主がみこころを成し遂げてくださるのです。

11/19 「なぜ主を試みるのか」   出エジプト記17章1~16節           小林泰輔師

 「なぜ主を試みるのか」とは、その理由や動機を問うているのではなく、主を試みてよい理由など一つもないという叱責の言葉です。主は私たちを試みられるときがあります。それは、私たちが試練を通して信仰的にも人格的にも成長するためです。しかし、神は成長する必要がないので私たちによって試みられる必要もありません。にもかかわらず、私たちは祈りにおいて神を試みるようなことがあります。それは大変不遜なことです。
 イスラエルの民は天からのマナが与えられたシンの荒野を出てすぐ、今度は水の問題にぶち当たります。そこで民は、モーセに押し迫り、不平を言いました。やはり、「こんなことならエジプトにいた方がましだ!」という、救いの主に対する忘恩のつぶやきでした。後にこの土地は「マサ(試み)」「メリバ(争い)」と名付けられ、イスラエルのしくじりは教訓として語り継がれることになりました(申命6:16,詩篇95:7,8,ヘブ3:7-10等)。
 モーセは主に叫びました。試練に対する正しい反応は不平ではなく主に叫んで祈ることです。主はモーセに応えてくださいました。エジプト脱出の象徴である「あの杖」(5節)で岩を打て、そうすれば水が出ようというのです。その時、主はモーセとイスラエルの前に立ち(6節)、臨在されるのです。主はどんな時でも、目には見えずとも“目の前に”立たれる方です。これが臨在の信仰です。主を試みるとは、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」(7節)と臨在を疑うことです。
 どんな試練の中でも主は生きて共におられることを信じて従うならば、目の前の岩(キリスト)からいのちの水が湧き出てくるのです。信じて従いましょう。

11/12「神さまの約束」       創世記21章1~8節           小林泰輔師

神さまは、天の無数の星のように、あなたの子孫を増やそうと、アブラハムと約束されました(15:5)。しかし、20年以上待って、アブラハムとサラが高齢になっても子どもは与えられませんでした。神さまはもう一度現れてくださり、今度は具体的に「来年の今頃、…男の子が」(18:10)と約束してくださいました。期待することに疲れたのか、サラは心の中で笑ってしまいました。ところが、「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに」(21:1)男の子を与えてくださいました。かつてアブラハムも神さまの約束を笑ったのですが、その時に神さまは「笑う」という意味の「イサク」という名前にしなさいと命じられた(17:15-19)ので、その通りにしました。子どもが与えられ、家庭に笑いがもたらされ、人々もまたアブラハムの家族を喜び笑うように神さまがしてくださったのです(6節)。
 約束の子イサクですが、次の試練は、その愛し子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいというものでした。イサクによって子孫を増やすと約束された神が、そのように命じられたのです。それでもアブラハムは神を信じて、「翌朝早く」(3節)直ちに行動に移しました。道中、イサクがいけにえの羊はどこにあるのですかと聞いたときには、「神ご自身が…備えてくださるのだ」と信じ続けました。アブラハムは神の命じられたことの真意は分からなくてもただ主を信じて従い通しました。その信仰を良しとされた神さまは、刀を振り下ろそうとするアブラハムを止め、イサクの代わりのいけにえの羊を与えてくださいました。主の山に備えあり、私たちのためにはイエスさまがいてくださいます。信じて従いましょう。

11/5 「日ごとのマナ」        出エジプト記16章1~12節         小林泰輔師

 エジプトを脱出してひと月、エリムの泉を経てシンの荒野まで来たときに、そこでまた不平不満が出てきました。食べるものがなくなり、ひもじくなったのです。肉鍋のそばに座って食べた頃を思い出し、こんなことならエジプトにいた方がましだとつぶやきました。それは、神の救いのみわざを忘れた恩知らずなことでした。
 つぶやきにさえも主は答えてくださり、天からパンを降らすという思いもよらない方法で助けてくださいました。しかし、この奇跡の主目的はイスラエルの空腹を満たすことではありませんでした。「彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるため」でした(4節)。私たちは、神が祈りを聞いて下さるか、神を試みるような思いでいることがありますが、真に試みられているのは私たちの神への信頼なのではないでしょうか。
 マナを集めるルールが決められました。一日に必要な分だけ集めること(16-18)、そして、六日目のみ二倍集めることが許され、七日目を聖なる安息の日とすること(22,23)です。週のうち一日を神の前に取り分けておいて、ささげることが安息日を聖なる日とすることです。キリスト教会では日曜日を「聖日」として、「聖日礼拝」を神にささげます。私たちの生活の中心に聖日を置いて過ごしましょう。「労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)。聖なる安息を守っても、日々の必要は十分に備えられています。また、「聖日」は「主日」でもあり、天からのいのちのパン(ヨハネ6:35)であるイエス・キリストを記念します。主イエスこそ私たちの必要や悩みに対する解決、解放ですから、主イエスをあがめ、礼拝します。

10/29 「うちに帰ろう」        ルカの福音書15章11~24節       小林泰輔師

イエスさまが取税人や罪人たちと親しく話しているのを見て、パリサイ人や律法学者たちは不愉快そうでした(ルカ15:1,2)。そこでイエスさまは三つのたとえを話されました。失われた羊、失われた金貨、そして失われた息子の話です。
 弟息子は父の財産の生前分与を願い出ました。父が亡くなれば受け継がれるものを今与えて欲しいと言うのは、今すぐ死んでほしいと言っているのも同じ悲しいことです。それでも父は息子の願いを聞き財産を与えました。
しかし、弟息子は放蕩し湯水のように使いきってしまい、その後でききんが起きたので食べるのにも困ってしましました。ある人のもとで豚の世話をしているとみじめさが込み上げてきて、父の家に帰ろうと考えます。あんなことを言って家を出てしまって、今さら元の様には受け入れられまいと思い、雇人のひとりとして置いてもらおうと考えました。
 父は遠くから弟息子の帰ってくる姿を見ると走って迎え、抱きしめて口づけをし、今すぐに良い着物や指輪を着せ、くつを履かせなさいとしもべに命じ、それから、皆で息子の帰還を喜び祝いました。
 この放蕩息子は自分中心な罪人の私たちの姿です。そして、父は神さまです。神さまは罪ゆえに彷徨う私たちをも愛し続けてくださり、悔い改めて立ち返るならば喜んで子として迎え入れてくださる方です。父なる神のもとへ帰りましょう。

10/22 「神に愛されている」      イザヤ書43章1~4節      小林泰輔師

聖書には神さまから私たちへのメッセージが書かれています。それは「わたしはあなたを愛している」というラブレターのようなものです。
 ①あなたの価値「あなたは高価で尊い」
愛しているとのメッセージの前に「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とあります。私たちは収入額や、人からの評価で自分の価値を測ろうとします。しかし、それらは移ろいゆく空しいものです。しかし、神には移り変わりはありません。「高価で尊い」という言葉も決して、また永遠に変わらないものなのです。
 ②被造物への愛「あなたを愛している」
なぜ、神は私たちを高価で尊いもののように扱ってくださるのでしょう。それは1節にあるように神が「あなたを形造った方」だからです。「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)愛を注ぐ相手がいなければ愛は成り立ちません。神さまは愛する相手として人を創られたのです。私たちは神に愛されるために生まれたのです。
 ③十字架に表された愛「人をあなたの代わりとする」どのように神は私たちを愛してくださったのでしょうか。それは、罪の奴隷であった私たちを、代価を支払って買い戻してくださるように、イエス・キリストの十字架の犠牲によって私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったことによって表されました。そして私たちをご自身の所有としてくださり、子として迎え入れてくださいました。父なる神の愛を喜び、ともに歩んでまいりましょう。




10/8 「イエスに出会う」 使徒の働き2章36~47節 小林泰輔師

  •  「キリスト者(クリスチャン)」とは、イエス・キリストに出会った人たちのことです。出会うと言っても、イエスが目の前に現れるわけではありません。また、「良い本に出会う」というような比喩でもありません。イエスさまを、今も生きておられる人格的な方として受け入れ、聖書を通して出会うのです。
     私たちの人生には、各々のストーリーがあります。そしてイエス・キリストのストーリー(His story)は、神と人との歴史(History)として旧新約聖書は物語るのです。多くの日本人にとって、その両者のストーリーは交わることがないように思われています。―神が天地を創造し、イスラエルの民を選び、愛して導こうとされるがイスラエルは反逆する、そして神はひとり子イエスを使者としてその愛を伝えようとされるが、御子イエスさえも拒絶され十字架にかけられる、しかしそれは人の罪を贖うための救いのご計画であった―という神による人類救済の物語が、イスラエルや人類といった漠然としたものではなく、他ならぬ私のためであったと知るとき、私のストーリーと神のストーリーがつながり、そこで、つまり、十字架において、私たちはイエスに出会うのです。「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(36節)。
     このことに心を刺され、悔い改め、バプテスマを受けるなら、神は私たちの人生に入って来てくださり、私たちとともに生きてくださいます。そうしてやがて人生の中心がイエスさまになり、この方のために、この方とともに、生きたいと思うようになるのです。イエスに出会い、神の愛の中で喜び生かされる日々を。

10/1 「ともに生きよう」 マタイの福音書11章28~30節       小林泰輔師

  •  神が私たちを愛しておられるというのはどういうことか、言い換えるならばそれは神が私たちに「ともに生きよう」と語りかけてくださることではないかと思います。神はイスラエルの民を求められ、ともに生きたい、あなたと一緒がいいと語りかけているようですが、これは愛の告白に他ならないですよね。
     神が世界をお創りになったとき、すべては人間の生活の必要に合わせて創られました(大気、気温等)。また「愛する」には相手が必要ですが、神の愛の対象としてアダムが創られました。その後、アブラハムを選び、イスラエル民族を選び、人と神の愛の交流のモデルとされました。イスラエルとともに旅する神となられました。しかし、神がイスラエルを求めても、イスラエルは常に神を求めるわけではありませんでした。他の神々に浮気をするのです。神はその引き裂かれるような胸の痛みを伝えるために、預言者ホセアに姦淫の女をめとらせたりもなさいました(ホセア書参照)。
     そうしてついに神ご自身が人となってこの地に来られ、その愛のメッセージを直接届けられました。それがイエスさまです。神のみこころは、神の子どもたちである人間が、神の御前で喜び歌い踊る姿を見ることです。私たちが活き活きとしていることが神の喜び(神の栄光)なのです。ですから、疲れていれば癒し、重荷を負っていれば共に担ってくださるのです。そして御子イエスさまは私たちの罪の重荷をも背負われて十字架にかけられたのです。主イエスは私たちの苦悩を知っておられ、ともに苦しみ、しかし、癒してくださり、よみがえりのいのちをもってもう一度立たせてくださるのです。