1/7 「恵みふかき主」 マタイの福音書20章1~16節 宗眞理子師
- 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(16節)
イエスさまの譬え話。ぶどう園(神の教会)の主人は朝早く出掛けてぶどう園の働きびとを呼び集め1日1デナリの約束をして送り出しました。それから9時、12時、3時にも同じ様にしましたが、夕方5時ごろに行くとまだ立っている人がいたので彼らもぶどう園に招かれました。1日の労働が終ると皆1デナリを頂きましたが、朝から働いた人たちは期待した額ではなかったので不満でした(12節)。私たちの経験や常識では考えられない天国の譬え話だからです。神さまは小さい者や貧しい者たちにもご自身の愛と権威をもって大きな恵みを注いでおられます(14節)。
一切を捨てて主にお従いしてきたペテロに(19:27)自らを大きくする思いを警告され、近づく受難、十字架、復活の栄光を語られ「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、贖いの死の代価として多くの人に真のいのちを与えるためです」(28節意訳)と、ユダの足をも洗ってくださいました(ヨハネ伝13章参照)。「神の国の到来」を告げるため此の世から召された私たちも喜びと感謝をもって与えられた賜物を自覚し用いられて人々を教会にお招きいたしましょう。
- 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(16節)
12/31 「救いの神」 ルカの福音書2章1~12節 小林泰輔師
- イエスさまがお生まれになった時代の皇帝とシリア総督の名前が記されています(1,2節)。イエスさまが確かに歴史の中にお生まれになったことを証明しています。
イエスさまをお腹に宿したマリヤとヨセフは住民登録のためにベツレヘムに来ていました。けれども、どこも宿屋はいっぱいで、ルカの福音書2章1~12節泊まるところがありません。ようやく見つけたところは家畜小屋でした。「宿屋には彼らの居場所がなかったからである」(7節)イエスさまは居場所のないところに生まれてくださいました。
また、救い主の降誕の最初の知らせを聞いたのは、羊飼いたちでした。彼らは職業の性質上、礼拝からも除外されていた人たちでした。居場所のない者たちのところに、喜ばしい知らせが告げられたのです。イエスさまはその生涯において、取税人や遊女や罪人など、居場所のない人たちのところに出て行き救いの福音をお告げになられました。イエスさまの復活を最初に目撃したのも女性たちでした。イエスさまは居場所のないところに生まれましたが、居場所のない人たちの友となってくださり、インマヌエル(神が共におられる)と呼ばれるお方として、すべての人の居場所となってくださいました。この方により、私たちは赦されて、愛されていることを知り、ここに居ていいのだと認められ、生きていくことができるようにされたのです。
罪のゆえに神のみそばを離れ、居場所を失った私たちを、もう一度、みそばに引き寄せるために生まれてきてくださいました。そして、十字架の贖いにより私たちを罪と死から救い出してくださいました。この方を主キリストと信じて告白し、いつまでもみそばにお従いして参りましょう。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
12/24 「最高のプレゼント」 ヨハネの福音書3章16節 小林泰輔師
- 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
クリスマスは楽しい行事ですが、その楽しさの理由のひとつは、プレゼントをもらえることにあるのではないでしょうか。今日のみことばには、神さまが私たちに与えてくださった最高のプレゼントのことが書いてあります。それは、「ひとり子イエスさま」のことであり、また「永遠のいのち」のことです。
イエスさまは、神さまのひとり子としてヨセフとマリヤのもとにお生まれになりました。それは昔々からの神さまの約束の成就でした。神さまのもとから心も体も遠く離れてしまって、罪のために滅びそうになっている私たちを救うために、イエスさまは人となってこの地に来られたのです。
私たちを救うその方法とは、実に、十字架の上で私たちの罪を身代わりに背負うことでした。イエスさまが鞭打たれ、傷つき、十字架によって死なれることで私たちは罪の罰を免れるのです。イエスさまがそのいのちを捨てて、私たちのために与えてくださったのです。そうしてイエスさまが復活されたことにより、私たちは罪赦されたことを知り、永遠のいのち、新しいいのちに生きることができるようになりました。神さまからの最高のプレゼントを感謝して受け取りましょう。
12/17 「主の宝となる」 出エジプト記19章1~15節 小林泰輔師
- 19章以降は、シナイ山における律法の授与と律法の内容に入っていきます。「第三の月の新月」は過越から七週目あたりですが、主は律法(みおしえ)を授けるために、モーセを山に誘われました。そこで、主はまず「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと…を見た」(4節)と、自分たちが経験したことを覚えておくように言われました。主はイスラエルを御翼の陰にかくまい、時に御翼に載せるようにして守り導いて来られました。私たちも主に守られた経験を思い出すことにより信仰が強められ、励まされます。
そしてその後、“だから”主に聞き従いなさいというふうに「…聞き従い、わたしの契約を守るなら、…わたしの宝となる」(5節)と言われます。交換条件のように聞こえますが、民の従順より先に、御翼に守られる恵みがあったのです。私たちの従順が神の恵みを引き出すのではなく、先行する恵みがあって、その応答として、聞き従う責任を全うするのです。
アブラハムの家族から民へ、そして国へと増え広がりました。今や主の「宝」(5節)、「祭司の王国、聖なる国民」(6節)とされるのです。これは神の一方的な恵みによる祝福であり、アブラハムとの契約の成就でありました。
民は応答しました。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」(8節)。すると主は、民がモーセを通して語られるみことばを「いつまでも…信じるために」臨在を約束してくださいました(9節)。私たちの信仰維持の努力より先に、臨在をもってご自身を現してくださるのです。民は三日目に主が降りて来られることに備えて、その衣を洗いました(10,11)。私たちも神の御前に立つ備えとして、小羊イエスの血で洗われた衣を身にまといます(黙示7:14)。それはキリストの花嫁の証しです(黙示19:8)。花婿イエスさまは、花嫁を宝のように愛おしみ守ってくださいます(黙示7:15-18)。
12/10 「主の助け手」 出エジプト記18章13~27節 小林泰輔師
- このところで主は、舅のイテロを通してモーセをみこころへと導かれました。モーセはエジプト脱出の旅のどこかのタイミングで妻子をミデヤンの舅のもとへ帰していました。アマレクとの戦闘が終わるとモーセの妻子を連れてイテロが会いに来ました。そこでモーセは主がどのようなところから民を救い出してくださったかを語り、イテロもそれを聞きともに喜び主をほめたたえました。麗しい信頼関係が見られます。
その後、モーセが民の諸問題を、霊的なことや、政治的、軍事的なことだけでなく、民事的なことまで、何もかも一人でさばいているのを見て、はっきりと言います。「あなたのしていることは良くありません」(17)信頼関係があればこそ言える忠告です。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」(箴言27:5)。「地上の誰にもまさって非常に謙遜であった」(民12:3)モーセもそのまま忠告を受け入れました(24)。
モーセと民の関係は共倒れになる危機をはらんでいました(18)。そこでイテロは重荷を分け合うことを提案します。「人が、ひとりでいるのは良くない」と言われた神は、「ふさわしい助け手」として妻を与えられました(創2:18)。私たちはひとりでは生きられません。重荷は分け合われなければならないのです。そのためには、夫婦だけでない主からの助け手が備えられています。
イテロのアドバイスは的確で具体的でした。問題の仕分けをし(22)、階層を分け(21)、それにふさわしい助け手である小リーダーを立てました。小リーダーは①神を恐れる者、②問題に適した力のある者、③不正の利を憎む誠実な人が望まれました。
私たちもお互いを牧会するためにこそ召されたのです。そのようにして教会は成長し、宣教が前進するのです。(使徒6:7)
12/2「主はわが旗」 出エジプト記17章8~16節 小林泰輔師
- 荒野における水の確保は死活問題であり、それはアマレク人も同じでした。おそらくメリバ・マサで水が湧いたことを聞きつけたのでしょう、アマレク人が来てイスラエルと戦闘になりました(8)。モーセはヨシュアと民に命じてアマレク人と戦わせ、自分は丘の頂きに立ち、この戦いのために祈りました(9,10)。
この戦いは主が命じたものではありませんでした。また、エジプト脱出の対エジプト軍の時のように主ご自身が戦われたものでもありませんでした。モーセの判断と決断により、ヨシュアが実行した戦いでした。神に依り頼むということは、自分では何も判断も行動もしないということではありません。「肉の思い」と称して主体的な決断を避けようとするのは聖書的と言えるのでしょうか。ローマ8:7,8によれば「肉の思い」とは神に反抗すること、神の喜ばれない判断のことです。その限りにおいて祈りつつも主体的に判断し、経過においても祈り続け、なすべきことを行うときに、主が私たちの決断をご自身の計画に組み込んでくださるのではないでしょうか。
モーセは神の杖を手に持ち、高く掲げました。それは民の勝利のために祈ったことと、力ある神の杖を旗印に掲げたことと二つの意味があります。自分で決断し実行したことを祈りにおいて進めていくのです。また、戦場において疲れた兵士が旗印を見上げて奮起するように、私たちも自分に起きた神の救いのみわざ―主はわが旗―をいつも思い起こすことです。そうすれば勇気が与えられて勝利を得ることができます。
旗印である神の杖を持つ手が下がらないよう、両脇でアロンとフルが支えました(11,12)。祈り合う友の存在は尊いものです。私は誰の祈りの友となれるでしょうか。
11/26 「イサクの結婚」 創世記24章2~4、7、10~14節 小林泰輔師
アブラハムは息子イサクのための嫁さがしを始めました。異教のカナン人と結婚することは望ましいことではなかったので、アブラハムの親類が多くいる故郷へしもべを遣わしました。そのしもべが任務を忠実に祈りつつ行ったことに教えられます。神さまが私たちに第一に期待されることは、信頼することです。ここではしもべだけでなく、アブラハムも、リベカも、リベカの兄ラバンも、イサクも、主のみこころの最善を信じてゆだねました。
また、しもべは主人アブラハムに対して忠義を尽くしました(12,14,27節)。主人の益となることを祈り求めました。私たちも人々が主からの恵みを受けられるように仕え、とりなし、祈ります。
また、任務の遂行のためによく祈り、そして注意深くその祈りの答えを待ちました(21節)。「主にあって受けた務めを、注意してよく果たす」(コロ4:17)ためにはよく祈らなければなりません。
それから節目ごとに礼拝をささげ(26,52節)、成功にあっても謙虚でありました。まず、主に栄光を帰し、次に主人のことを考え、最後に自分のことを考えました(27節)。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)私たちの行こうとする道を主に信頼して全くゆだねて行くなら、主がみこころを成し遂げてくださるのです。
11/19 「なぜ主を試みるのか」 出エジプト記17章1~16節 小林泰輔師
「なぜ主を試みるのか」とは、その理由や動機を問うているのではなく、主を試みてよい理由など一つもないという叱責の言葉です。主は私たちを試みられるときがあります。それは、私たちが試練を通して信仰的にも人格的にも成長するためです。しかし、神は成長する必要がないので私たちによって試みられる必要もありません。にもかかわらず、私たちは祈りにおいて神を試みるようなことがあります。それは大変不遜なことです。イスラエルの民は天からのマナが与えられたシンの荒野を出てすぐ、今度は水の問題にぶち当たります。そこで民は、モーセに押し迫り、不平を言いました。やはり、「こんなことならエジプトにいた方がましだ!」という、救いの主に対する忘恩のつぶやきでした。後にこの土地は「マサ(試み)」「メリバ(争い)」と名付けられ、イスラエルのしくじりは教訓として語り継がれることになりました(申命6:16,詩篇95:7,8,ヘブ3:7-10等)。
モーセは主に叫びました。試練に対する正しい反応は不平ではなく主に叫んで祈ることです。主はモーセに応えてくださいました。エジプト脱出の象徴である「あの杖」(5節)で岩を打て、そうすれば水が出ようというのです。その時、主はモーセとイスラエルの前に立ち(6節)、臨在されるのです。主はどんな時でも、目には見えずとも“目の前に”立たれる方です。これが臨在の信仰です。主を試みるとは、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」(7節)と臨在を疑うことです。
どんな試練の中でも主は生きて共におられることを信じて従うならば、目の前の岩(キリスト)からいのちの水が湧き出てくるのです。信じて従いましょう。
11/12「神さまの約束」 創世記21章1~8節 小林泰輔師
神さまは、天の無数の星のように、あなたの子孫を増やそうと、アブラハムと約束されました(15:5)。しかし、20年以上待って、アブラハムとサラが高齢になっても子どもは与えられませんでした。神さまはもう一度現れてくださり、今度は具体的に「来年の今頃、…男の子が」(18:10)と約束してくださいました。期待することに疲れたのか、サラは心の中で笑ってしまいました。ところが、「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに」(21:1)男の子を与えてくださいました。かつてアブラハムも神さまの約束を笑ったのですが、その時に神さまは「笑う」という意味の「イサク」という名前にしなさいと命じられた(17:15-19)ので、その通りにしました。子どもが与えられ、家庭に笑いがもたらされ、人々もまたアブラハムの家族を喜び笑うように神さまがしてくださったのです(6節)。約束の子イサクですが、次の試練は、その愛し子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいというものでした。イサクによって子孫を増やすと約束された神が、そのように命じられたのです。それでもアブラハムは神を信じて、「翌朝早く」(3節)直ちに行動に移しました。道中、イサクがいけにえの羊はどこにあるのですかと聞いたときには、「神ご自身が…備えてくださるのだ」と信じ続けました。アブラハムは神の命じられたことの真意は分からなくてもただ主を信じて従い通しました。その信仰を良しとされた神さまは、刀を振り下ろそうとするアブラハムを止め、イサクの代わりのいけにえの羊を与えてくださいました。主の山に備えあり、私たちのためにはイエスさまがいてくださいます。信じて従いましょう。
11/5 「日ごとのマナ」 出エジプト記16章1~12節 小林泰輔師
エジプトを脱出してひと月、エリムの泉を経てシンの荒野まで来たときに、そこでまた不平不満が出てきました。食べるものがなくなり、ひもじくなったのです。肉鍋のそばに座って食べた頃を思い出し、こんなことならエジプトにいた方がましだとつぶやきました。それは、神の救いのみわざを忘れた恩知らずなことでした。つぶやきにさえも主は答えてくださり、天からパンを降らすという思いもよらない方法で助けてくださいました。しかし、この奇跡の主目的はイスラエルの空腹を満たすことではありませんでした。「彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるため」でした(4節)。私たちは、神が祈りを聞いて下さるか、神を試みるような思いでいることがありますが、真に試みられているのは私たちの神への信頼なのではないでしょうか。
マナを集めるルールが決められました。一日に必要な分だけ集めること(16-18)、そして、六日目のみ二倍集めることが許され、七日目を聖なる安息の日とすること(22,23)です。週のうち一日を神の前に取り分けておいて、ささげることが安息日を聖なる日とすることです。キリスト教会では日曜日を「聖日」として、「聖日礼拝」を神にささげます。私たちの生活の中心に聖日を置いて過ごしましょう。「労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)。聖なる安息を守っても、日々の必要は十分に備えられています。また、「聖日」は「主日」でもあり、天からのいのちのパン(ヨハネ6:35)であるイエス・キリストを記念します。主イエスこそ私たちの必要や悩みに対する解決、解放ですから、主イエスをあがめ、礼拝します。
10/29 「うちに帰ろう」 ルカの福音書15章11~24節 小林泰輔師
イエスさまが取税人や罪人たちと親しく話しているのを見て、パリサイ人や律法学者たちは不愉快そうでした(ルカ15:1,2)。そこでイエスさまは三つのたとえを話されました。失われた羊、失われた金貨、そして失われた息子の話です。弟息子は父の財産の生前分与を願い出ました。父が亡くなれば受け継がれるものを今与えて欲しいと言うのは、今すぐ死んでほしいと言っているのも同じ悲しいことです。それでも父は息子の願いを聞き財産を与えました。
しかし、弟息子は放蕩し湯水のように使いきってしまい、その後でききんが起きたので食べるのにも困ってしましました。ある人のもとで豚の世話をしているとみじめさが込み上げてきて、父の家に帰ろうと考えます。あんなことを言って家を出てしまって、今さら元の様には受け入れられまいと思い、雇人のひとりとして置いてもらおうと考えました。
父は遠くから弟息子の帰ってくる姿を見ると走って迎え、抱きしめて口づけをし、今すぐに良い着物や指輪を着せ、くつを履かせなさいとしもべに命じ、それから、皆で息子の帰還を喜び祝いました。
この放蕩息子は自分中心な罪人の私たちの姿です。そして、父は神さまです。神さまは罪ゆえに彷徨う私たちをも愛し続けてくださり、悔い改めて立ち返るならば喜んで子として迎え入れてくださる方です。父なる神のもとへ帰りましょう。
10/22 「神に愛されている」 イザヤ書43章1~4節 小林泰輔師
聖書には神さまから私たちへのメッセージが書かれています。それは「わたしはあなたを愛している」というラブレターのようなものです。①あなたの価値「あなたは高価で尊い」
愛しているとのメッセージの前に「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とあります。私たちは収入額や、人からの評価で自分の価値を測ろうとします。しかし、それらは移ろいゆく空しいものです。しかし、神には移り変わりはありません。「高価で尊い」という言葉も決して、また永遠に変わらないものなのです。
②被造物への愛「あなたを愛している」
なぜ、神は私たちを高価で尊いもののように扱ってくださるのでしょう。それは1節にあるように神が「あなたを形造った方」だからです。「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)愛を注ぐ相手がいなければ愛は成り立ちません。神さまは愛する相手として人を創られたのです。私たちは神に愛されるために生まれたのです。
③十字架に表された愛「人をあなたの代わりとする」どのように神は私たちを愛してくださったのでしょうか。それは、罪の奴隷であった私たちを、代価を支払って買い戻してくださるように、イエス・キリストの十字架の犠牲によって私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったことによって表されました。そして私たちをご自身の所有としてくださり、子として迎え入れてくださいました。父なる神の愛を喜び、ともに歩んでまいりましょう。
10/8 「イエスに出会う」 使徒の働き2章36~47節 小林泰輔師
- 「キリスト者(クリスチャン)」とは、イエス・キリストに出会った人たちのことです。出会うと言っても、イエスが目の前に現れるわけではありません。また、「良い本に出会う」というような比喩でもありません。イエスさまを、今も生きておられる人格的な方として受け入れ、聖書を通して出会うのです。
私たちの人生には、各々のストーリーがあります。そしてイエス・キリストのストーリー(His story)は、神と人との歴史(History)として旧新約聖書は物語るのです。多くの日本人にとって、その両者のストーリーは交わることがないように思われています。―神が天地を創造し、イスラエルの民を選び、愛して導こうとされるがイスラエルは反逆する、そして神はひとり子イエスを使者としてその愛を伝えようとされるが、御子イエスさえも拒絶され十字架にかけられる、しかしそれは人の罪を贖うための救いのご計画であった―という神による人類救済の物語が、イスラエルや人類といった漠然としたものではなく、他ならぬ私のためであったと知るとき、私のストーリーと神のストーリーがつながり、そこで、つまり、十字架において、私たちはイエスに出会うのです。「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(36節)。
このことに心を刺され、悔い改め、バプテスマを受けるなら、神は私たちの人生に入って来てくださり、私たちとともに生きてくださいます。そうしてやがて人生の中心がイエスさまになり、この方のために、この方とともに、生きたいと思うようになるのです。イエスに出会い、神の愛の中で喜び生かされる日々を。
10/1 「ともに生きよう」 マタイの福音書11章28~30節 小林泰輔師
- 神が私たちを愛しておられるというのはどういうことか、言い換えるならばそれは神が私たちに「ともに生きよう」と語りかけてくださることではないかと思います。神はイスラエルの民を求められ、ともに生きたい、あなたと一緒がいいと語りかけているようですが、これは愛の告白に他ならないですよね。
神が世界をお創りになったとき、すべては人間の生活の必要に合わせて創られました(大気、気温等)。また「愛する」には相手が必要ですが、神の愛の対象としてアダムが創られました。その後、アブラハムを選び、イスラエル民族を選び、人と神の愛の交流のモデルとされました。イスラエルとともに旅する神となられました。しかし、神がイスラエルを求めても、イスラエルは常に神を求めるわけではありませんでした。他の神々に浮気をするのです。神はその引き裂かれるような胸の痛みを伝えるために、預言者ホセアに姦淫の女をめとらせたりもなさいました(ホセア書参照)。
そうしてついに神ご自身が人となってこの地に来られ、その愛のメッセージを直接届けられました。それがイエスさまです。神のみこころは、神の子どもたちである人間が、神の御前で喜び歌い踊る姿を見ることです。私たちが活き活きとしていることが神の喜び(神の栄光)なのです。ですから、疲れていれば癒し、重荷を負っていれば共に担ってくださるのです。そして御子イエスさまは私たちの罪の重荷をも背負われて十字架にかけられたのです。主イエスは私たちの苦悩を知っておられ、ともに苦しみ、しかし、癒してくださり、よみがえりのいのちをもってもう一度立たせてくださるのです。