説教要旨

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  • 2023年度

3/17 「神の与える喜び」 ピリピ人への手紙1章1〜13節 森田学師

  • ★パウロの喜び★
     死刑を覚悟するパウロは、初めから最後まで、喜びなさい喜びなさいと、牢獄の中から外にいる人々を励まし続けます。パウロが上辺でもなく、開き直りでもなく、心の奥底から喜びに満たされているのは、どんなに不利な状況であっても祈り合い、慕い合い、助け合い、愛し合う、そんな神の家族がいたからです。神と私が人格的に交わりを持つように集まる者同士が、神の臨在の中で互いに交わりを持つことは、キリストの教会と呼ばれる集まりの特権です。たとえ一致が壊されても(ピリピ4:2)、諦めずにキリストにある励まし、愛の慰め、聖霊の交わり、愛情と憐れみが、私の心にあるだろうかと(同2:1)、自分自身を吟味することを心掛けたいと願います。自分を吟味するとき、隣人をも余裕をもって考慮する心が神から与えられるからです。
    ★みことばの力★
     そしてパウロを喜びで満ち溢れさせるもう一つの秘訣は、“神は良いお方で、常に最善をなしてくださる”とどんな状況でも信じて疑わない心です。(①コリント10:13)8節にあるように、真実な神のなされることを、心に留めることでもあります。一言で、これを信仰と言います。神の語られるみことばに感謝して、心にいただく、それが神の与える喜び平安となるのです。私たちの心が酷い状態でも、みことばは力となり私たちを確かに支えます。私自身、父を亡くし悲しみと疲れ、憤りに心が乱れ倒れた時、神が語られるみことばに心を留めると、聖霊が働かれて、そのみことばの通りになり(ピリピ4:4,5)、完全に倒れないように、神が支え助けてくださいました。
    ★神の約束★
     パウロは、貧しい境遇でも、富んで満ち足りている境遇でも、境遇に左右されずに、主とともに生きることに満足することを神から学んだと告白します。それは13節『私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。』と心得ることです。私たちは弱いですが、私たちを強くしてくださるお方、十字架で罪を贖い、死を打ち破られた力強いお方が、私たちの味方です。私たちは、環境や境遇によって、心が左右され易いです。これからも、納得できないことや、理解できないことが起こりますが、イエスとともに生きる私たちに、失望は似合いません。どんなに私たちが愚かであっても、すばらしい私たちの神が、私たちのうちで理屈では説明できない、私たちの理解を超えた、平安と喜びが私たちを満たしてくださる約束を受け取りましょう。(ピリピ4:7)

3/10 「神のあわれみ〜万年成長期」 ローマ人への手紙12章1〜12節 森田学師 

  • ★無条件に愛されている★
     私たちは生まれる前からすでに、そのままを神に愛されています。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』【エレミヤ31:3】唯一の神、救い主イエスと出会い、この方を信じる人生の中で、自分卑下したり、自己否定したり、自分をよく見せようとしてしまったとしても、今のあなたを、神は永遠の愛で愛してくださっています。
    ★成長を願われる神★
     そんな私たちに、神は成長をも願っておられます。(①コリント14:20)私たちの体の成長はいつか止まりますが、私たちの魂…特に神を信じ愛して生きる心や態度、人生が、より神の望まれるものへ成長することを神は願っておられます。『この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。』【ローマ12:2】
    ★成長という祝福★
     クリスチャンであっても、失敗もせず、つまずきもしない、欠けも弱さも全くない人はいません。それでも神はすべて承知の上で、成長を望まれているのです。もっと神と豊かに交わり、恵みをあふれ流されせる祝福の器へと創り変え続けられるために。自分で自分を変えるのではなく、変えてくださいと、神様にへりくだり、求めることがポイントです。成長しなければならないとDOINGで自分を追い込むと、苦しくなり、成長の遅く見える者を裁き始めます。しかし、私は弱いけれども、神の望まれる私へと成長をさせてくださいと、BEINGで生きるならば、聖霊が私たちのうちで豊かに働き、私たちの意思をも変えてくださいます。
    ★成長は小さくなること★
     パウロがそうです。彼は、“使徒の中で最も小さい者 ⇒ 全クリスチャンの中で最も小さな私 ⇒ 全人類の中で罪人のかしら”と、罪赦され愛されている喜びの中で、時を追うごとに低く低く、愛と謙遜が成長させられていきます。私たちが、信仰生活の長さにとらわれず、今も成長が必要であることを認め、へりくだり求める時。その時、私たちのうちで聖霊が愛を実らせてくださり、私たちと出会う人々が、私たちのところから、知らぬ間に聖霊の愛の実を取っていくのです。高ぶる人に近づいても、得るものは何もないでしょう。しかし、水が低いところへ流れ込んでくるように、低くされた私たちを通して神の恵みがひろがるように、神は私たちに成長を求め、用いたいと願われておられることを、感謝します。

3/3 「報いが与えられる時」 ヨハネの黙示録11章15〜19節 小林泰輔師

  •  第七の御使いがラッパを吹く時が来ました。来るべき三つの災いの最後の合図です。マトリョーシカのように七つ目の何かが開かれると、そこからまた七つの何かが出てくるというのは、先回のまとめで見ました(バイブルプロジェクト動画参照)。この第七のラッパが吹かれると七つの鉢がぶちまけられ、第三の災いが起こることになります。しかし、その啓示の前にこの11章が挿入されました。あまりの恐ろしさに希望を失わないためにでしょうか。
     「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」このみことばが成就するのです。現在はサタンの支配下にあり、人々は罪の中にあり、互いに愛し合うよりも傷つけあうことの方が多い世の中です。しかし、キリストの支配(神の国)がついにこの地に完成するのです。本当の最後の時がやってくるのです。
     このことは二つの意味を持ちます。イエスを主の主、王の王として迎えた人々には慰めの言葉に、神の支配を拒み否んできた人々には最終的な裁きの宣告になります。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(Ⅰコリ1:18)。十字架のことばは「福音」ですが、信じない人々には愚かに聞こえるのです。知恵のない者がすがる宗教に思えたり、あるいは救いの方法があまりにも簡単(イエスを信じるだけ)なので、もっと難しい修行を好む人たちもいます。けれども、神はそのような人間の知恵の方こそ愚かなものとされました。納得のいかない「諸国の民」は怒るでしょう(18節)。けれどもその怒りを上回るさらに凄まじい怒りが神からくだされるのです。
     「報い」にも二つの側面があります。「報復」のようなものと、「報酬」のようなものです。ただイエスを信じて罪を悔い改めるなら、小さい者にも大きい者にも同じ報酬が与えられます。信じて救われ、神の力をいただいて歩みましょう。

2/25 「香油をささげたマリア」(『成長』より) ヨハネの福音書12章1〜11節 小林泰輔師 

  •  「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ人への手紙5章10節)食べ物をよく味わうときには、この料理には出汁が効いているなとか、ほんのり柑橘系の味がするなとかを考えたり感じたりすると思います。「吟味」とはそういうことではないでしょうか。神さまがどんなことに喜ぶかというのも、深く考えてみる必要があることです。
     マルタとマリアとラザロのきょうだいの家にやってきたイエスさまでしたが、それぞれがそれぞれの仕方でイエスさまをもてなしました。少し前にラザロは一度死んでしまったのですが、イエスさまの奇跡によりよみがえったのです。マルタは給仕をすることで、ラザロはイエスさまのそばでお話を聞くことでイエスさまへの感謝を表しました。そしてマリアはというと、とても高価なナルドの香油が入った壺を持ってきてイエスさまの御足に塗りました。そして自分の髪の毛でそれを拭いました。
     マリアの振る舞いを見た弟子のユダは、怒って言いました。「なんてもったいないことをするのだ。その高価な香油を売ればたくさんの貧しい人に食物を食べさせることができるというのに!」ユダの言うことももっともかもしれません。ユダはユダで、自分の正しいと思うことを考えたつもりでしょうし、それは誰の目に見ても正しいことかもしれません。
     けれども、イエスさまは十字架にかけられ葬られる時が近づいていましたから、マリアはそれと知らずに葬りの儀式を先取りしたのです。マリアにとってはイエスさまを一番大事に思って、一番喜んでもらえることは何かをまっすぐに考えてのことでした。人の目には無駄なこと、もったいないことに見えたかもしれません。けれども、神さまの目にはマリアの信仰の心からのささげものはとても喜ばしいことでした。神さまに何かをささげるということは、心をこめてすることが何よりも大事なことです。神さまは心を見ておられるからです。

2/18 「教会はキリストの使節」 ヨハネの黙示録11章1〜14節 小林泰輔師

  •  黙示録も前半折り返しまできました。まとめの学びにちょうどよい動画がありますのでご参照ください(「バイブルプロジェクト」で検索)。
     11章では、異邦人が聖なる都を42ヶ月間(1,260日)踏み荒らします。そこで二人の証人が立てられ、預言してまあっ割ります。彼らにはさまざまな権威が神から与えられますが、二人が証言を終えると底知れぬところから上がってきた「獣」によって殺されてしまいます。この二人の証人は「オリーブの木」、「燭台」という言葉から「教会」のことを指すように思えます。当時、裁判でも証言には必ず二人必要でしたから、信用に足る証人という意味の象徴的数字だと思います。
     彼らは殺されてしまい、都で十字架にかけられ、人々にさらされますます。獣の勢力の勝利に思われますが、しかし、彼らに神の息が吹きかけられると二人は生き返るのです。そして彼らは敵たちの見ている前で天に携え上げられ、その後、大きな地震が起きます。この地震は都の10分の1、七千人の死者を出します。10や7は完全数であるので、これも文字通りの人数というよりも多くの人ということだと思います。これが第二のわざわいであり、残った人たちは神に恐れを抱き、天の神に栄光を帰すこととなりました。
     第七のラッパが吹かれると、第三のわざわいが訪れます。そのときまで残されたわずかな時間を今私たちは生きています。教会は神の国から派遣されたキリストの使節(大使)です。神との和解が許されているうちに、和解を勧めていきましょう。
    「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(二コリ5:20)
     神は懇願しておられるのです。一人でも多くの人が、神と和解することを。キリストに代わって懇願するように人々に宣べ伝えましょう。

2/11 「もはや時は残されておらず」 ヨハネの黙示録10章1〜11節 小林泰輔師 

  •  本当の説教題はもう少し長くて「もはや時は残されておらず」という時が来る前に…です。聖書に出てくる「時」は「クロノス(時間)」と「カイロス(機会)」です。ここで使われているのは「クロノス」です。イエス・キリストの再臨までもう時間が残されていない。すぐそこまで来ている。ですから、この機会を逃さずに救いの恵みに与りましょう。そう人々に伝えましょう。これが結論です。
     11章の聖書本文を見ていきます。一人の強い御使いが出てきます。これまでに登場したどの御使いとも違います。この天使は片足は海に、もう片方は地に下ろして立っているというのだから、巨大な御使いなのでしょうか。手には開かれたあの巻物を持っていますが、相対的に巻物は小さく見えます。七つ目の封印が解かれたら、七人のラッパを吹く御使いが現れますが、最後の第七のラッパの前に10章と11章が挿入されています。そこで七つの雷が語るとあります。それは神の御声であると思われますが、それを書き記してはならないとヨハネは言われるのです。雷から連想するのは神の怒りですが、その内容がわからないのです。神の御怒りのゆえに災いがふりかかろうとしているのに、その内容は秘められているのです。聖書は神のご計画のすべてを記しているわけではありません。なお秘められている奥義があり、それは神の主権のうちにあるものです(参照申命記29:29)。この世界に目を向けたときに、神がおられるのなら、どうしてこのようなことが…と叫びたくなるようなこともありますが、私たちにはすべてはわからないのです。私たちが神の座につき、神に向かって「なぜこのようなことをするのか」などと裁くべきではありません。理不尽に思えるようなことにさえ、神の深い摂理があり、神の主権の中で起きていることを認めなければならないのです。
     第七のラッパが吹かれると、それはイエスさまの再臨の合図です。再臨は最後の審判のときでもあります。そのときに神の奥義が実現するとあります。もはや秘められたことはなく、すべてが明るみになり、すべてが報われるときが来るのです。
     ヨハネは御使いから巻物を手渡され、あのエゼキエルのように、それを食べよと言われて食べます。それは口には甘いが、腹には苦いとあります。救いの恵みに与った者には甘いが、なお救われていない同胞を見るときにそれは苦い思いとなります。福音は良い知らせとは言いますが、悪い知らせを含んでいます。神を信じず、イエスを主と告白しないのならば滅びが待っているという事実です。福音は甘くて苦いのです。
     巻物(いのちのみことば)は今や私たち教会に託されています。世の不条理を解き明かすことはできませんが、救いの道を宣べ伝えることはできます。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

2/4 「焦る時こそ主を求める時」 Ⅰサムエル30章1〜8節 森田学師 

  •  ★神を頼らない道★ダビデは、サムエルの死(25:1)を境に、神に頼らず、独り暗闇をさまよい始めます。裕福なナバルを頼ると“お前は誰だ?”とさげすまれ、ダビデは激しく憤り、赦す心を失います。しかし、あわれみ深い神は、ナバルの妻アビガイルによってダビデを罪から救い、横柄なナバルには死を…、さらにアビガイルをダビデの妻とされるのです。
     ★焦りは冷静さを失わせる★ナバルの死を知ったダビデは、サウルの最期をも悟ります(26:10)。主の救いを確信(26:24)したのもつかの間、ダビデは、サウルに滅ぼされる…敵の地に逃れるほかない…と決断し(27:1)、敵ペリシテを頼り、取り入り、自分を保つため嘘を重ね、アマレクを虐殺するのです。ついに、ペリシテ人とイスラエル人との全面戦争が始まってしまいます。それでも神はあわれみ深く、ダビデを戦場から退けます(29:9)。一方、神に頼らず、悪霊(霊媒で占う)にまで頼るサウルは『主はあなたから去り、あなたの敵になられた』(28:16)と、神と和解せずに生き続けるなら命は無いと、あわれみ深い神の宣告を受けます。
     ★苦難の時、神に心を★自力で進むダビデは、アマレクに家族を奪われ、味方からも責められ、大変な苦境に立たされます(30:6)。その時ダビデは『神、主によって奮い立』ち、奪われたすべてを『必ず救い出すことができる。』と神から応答をいただきます。(30:8)『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』(ピリピ4:6、7)失敗の中、素直に罪を認め、神に助けを呼び求める時、神は即座にダビデを救われるのです。その瞬間、神の愛を回復させてくださいます。ダビデは、敵の奴隷を助け、戦いに参加しなかった者にも等しく褒美を分け合う、神の愛に再び生かされます。(30:23、24)
     ★お互いに祈りを励ます★焦る時には、助けてイエス様!と祈る願いに応えてくださる神が、あなたのそばにいつもいてくださることを、思い出してください。独りで悩み焦り、神に相談し忘れることがないようにと、お互い預言(勧め慰め励まし)し合うことから始めていきましょう(コリント①14:3、31)。共にお互いを神ご自身に向かわせ、その神の愛に飛び込ませる、そんな神の家族とならせてくださる聖霊の働きに感謝します。

1/28 「心配しない」(『成長』より) マタイの福音書6章25〜34節 小林泰輔師 

  •  私たちには、さまざまな心配事があります。衣食住の問題、健康の問題、人間関係の問題、さまざまです。けれどもイエスさまは心配しなくてもよいということを弟子たちに教えられました。
     空の鳥を見なさいと言われました。神さまがお造りになった世界で、鳥は自由に空を羽ばたいて生きています。鳥は食べ物の心配などせず、畑を耕したりはしません。神さまが養ってくださるので、ただかわいらしい声で神さまを賛美するのみです。
     また、野の花を見なさいと言われました。イスラエル地方にも咲く「アネモネ」のことではないかと言われますが、一日咲いたら、荒野を吹く乾燥した風により次の日には枯れてしまうような花です。そんな花でも神さまは美しく装ってくださり、ソロモン王国の栄華さえそれには及ばないというのです。
     神さまが造られたこの世界の中で、私たち人間は最も神さまから愛されている存在です。空の鳥や、野の花でさえ、いつくしみ、守り、養われる主なる神さまが、まして私たちに良くしてくださらないことがありましょうか。ですから、心配事や自分の思惑は神さまにお委ねし、神さまが喜ばれること(神の国と神の義)を第一に生きていきなさいというのです。そうすれば、私たちのすべての必要を知っておられる神さまは、私たちが願うより先にすべての必要を満たしてくださるのです。神は良い父であると信頼し、天を仰ぎ見ることが「信仰」なのです。そうでないなら、「信仰が薄い」とイエスさまは教えられました。
     子どものように、素直な心で神さまを仰ぎ見て、良い父である神のふところに飛び込み、その胸に抱かれるようにして養われることを信じましょう。そして、父なる神の喜ばれることを生きる指針の第一にしましょう。そうすれば、心が平安に満たされ、すべての必要は満たされるのです。

1/21 「ラストチャンスを逃すな」 ヨハネの黙示録9章1〜21節 小林泰輔師

  •  この9章では、第五の御使いと第六の御使いがラッパを吹きます。第五の御使いがラッパを吹くと、星が天から落ちてきて、底知れぬ穴(アビス)ができます。そこから「いなご」が現れて、草木には害を及ぼさずに人間を五ヶ月間苦しめるようになります。自然界のイナゴとはどうやら異なる何かのようです。「いなご」には王がいて「アバドン(滅び、よみ)」または「アポリュオン(破壊者)」などと呼ばれます。「いなご」はサソリの尾のような針(とげ)を持ちます。その苦しみは、むしろ死んだ方がましと思われるような苦しみのようです。しかし、死ぬこともできないとあります。ここでも抑制的に期限が定められ、神は悔い改めのチャンスを与えておられます。
     しかし、キリスト者には勝利が与えられています。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(Ⅰコリ15:55,56)「確かにわたしはあなたがたに蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」と約束されています(岡山英雄著「ヨハネの黙示録注解」参照)。
     第六の御使いがラッパを吹くと、ユーフラテス側につながれている四人の御使いが解き放たれます。以前に出て来た四人の御使いは地の四隅に立ち、害を抑えていたのですが、こちらの御使いはむしろ人々を殺すために解き放たれるのです。二億の騎兵が現れ人間の1/3が殺されます。「いなご」や「騎兵」のピクチャを思い浮かべると、例えば無人飛行機(ドローン)や、戦車のようなオーバーテクノロジーをヨハネのボキャブラリーで表現したのかと解釈したくもなります。世界戦争でも起きるというのでしょうか。そのような当てはめ方は安易な読み方として慎まなければならない一方、他方で、ひどい災害や、痛ましい戦争の現実を見ても、神を恐れることも、自らを顧みることもしない、そのような繰り返す歴史を見るときに、聖書の「いなご」「騎兵」が何を示すのかは分からないけれども、聖書の記述の結果のとおりになっていることは読み取れます。もし、聖書の記述のままの異形の存在が裁きをもたらすようなら、人々はもう少し真剣に考えると思うのですが、恐ろしいことに人々はそれでも一向に悔い改めようとしないのです。
     黙示録の裁きは激しさを増していきます。まだラストチャンスではありません。今はまだ悔い改めるチャンスがいつでも目の前にあります。しかし、もう遅いという時は盗人のように来ます。自己中心の罪を悔い改めて、神を恐れて生きる道に立ち返りましょう。

1/14 「逃げることを祝福する神」 Ⅰサムエル23:7〜14、24:14〜20 森田学師 

  • ★忍耐=逃げない。ではない★
     私たちは、逃げることは敗北であり、よくないことだと思ってるかもしれません。しかし、時には逃げることも、神様は導かれるのです。苦難の中で、歯を食いしばって、一方的に傷を受け、体も心までも壊れてしまうことは、行き過ぎと言えます。神さまが私たちに求める忍耐とは、私自身の中にある、神様の願われていないことをしたくなる衝動を抑えて、神様からの求めを優先させることです。この聖霊による忍耐が私たちのうちで働くとき、焦りではなく、神の愛に心が満たされていきます。
    ★逃げることも神の導き★
     色々な思い考えの中、ダビデは23章で、主の言われることに心を留め、サウルの悪意と堂々と向き合わずに、距離をとり、逃げ回り続けることを選びます。一方サウルは、地位や名誉、財産を守るために、ダビデを嫉妬し、執拗に追いかけ回します。私たちは、明らかに身の危険を感じる場所や、悪い影響を与える場所には、あえて近づかないように気を付けます。同じように、私たちの魂が破壊されないように、敵意を持って近づく人から、神様は距離をとり守るのです。ダビデとサウルとの間を仕切られたようにです。(①サムエル23:28)
    ★逃げる中で養わる愛と謙遜★
     ダビデが逃げて隠れている洞穴に、サウルが独りでトイレに入って来た時、ダビデの部下は、サウルに仕返しをする絶好の機会だと言い張ります。しかし、ダビデは、神様の愛に生きることを選びます。『…「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」』(ロマ12:19)ですから、サウルの上着の裾を切り取ったことでさえも、心を痛めたのです。さらに、私は追いかけまわす価値もない犬の死体のようなものですと、謙遜なダビデを通して、サウルは一時的に正気を取り戻します。神様はいつだって、サウルをあわれみ、愛をやめることはありません。
    ★イエスの愛に生きる★
     神様は、迫害から逃げ回る苦難のダビデに、神の愛と謙遜を養われます。『「…自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」』(マタイ5:44)敵を愛するとは、敵を好きになることでもなく、敵と一緒に歩むことでもありません。ダビデは、神の愛をもって敵の祝福を祈り、サウルとは別の道を行きます。相手を祝福して祈ることは、私たち自身が、敵の悪意に呑み込まれ、同じ罪を犯させないためでもあります。敵に迫害され逃げることになっても、私たちは、イエス様の愛に生きることを選んでいきましょう。

1/7 「聖徒たちの祈り」 ヨハネの黙示録8章1〜13節 小林泰輔師

  •  子羊によって第七の封印がついに解かれました。嵐の前の静けさのあと、七つのラッパを吹く御使いが現れました。それらの御使いがラッパを吹くと、恐ろしい出来事が起きます。この8章では前半の四つのラッパが取り扱われます。黙示録では「七」という数字が頻出しますが、前半と後半に分けられる描写の時は、後半が特に激しくなることがあります。
     嵐の前の静けさや、途中の小休止のような時間に、神の御思いを見る気がします。子よ、我に帰れという、御父の思いです。厳しい裁きのただ中にあっても神はあわれみで御胸が裂かれるような思いで、私たちが悔い改めて立ち返るのを待っておられるのです。
     ここで描かれる前半の四つのラッパの内容は、①血の混じった雹と火が地に降る、②火の燃えるような山のようなものが海に入る、③天からたいまつのような星「苦よもぎ」が川に落ちてくる、④光(太陽、月、星が欠ける)の輝きが失われる、などというものでした。やはり文字通りに読むべきものか、象徴的に読むべきものか、予言のように読むべきものか、難しいところです。共通しているのは1/3が悪影響を受けるというところです。そこから言えることは、この期に及んでもなお、抑制的な神のあわれみではないでしょうか。
     そして、この章の最後に中天を飛ぶもの言う鷲により「わざわいが来る」と警告が発せられるのです。荒野を通るような試練の中で神の御声を聴いたなら、心を頑なにせず、悔い改めることです。そうすれば、イエス・キリストの十字架の犠牲により、裁きを免れ、いのちを得ます。
     そのために「聖徒たち」つまり教会はとりなしの祈りをするのです。その祈りは神の御前に香の煙のように立ち上るものです。歴代の聖徒たち、教会たちが祈りを積んで来ました。祈りは伝道です。伝道は愛を根拠になされます。世に対するあわれみを忘れない神に倣い、私たちも人々の救いを求めて祈りましょう。

12/31 「主は私たちの王」 マタイの福音書2章1〜12節 小林泰輔師 

  •  最初に救い主降誕の知らせを聞いたのは、貧しく差別もされていた羊飼いたちでした。しかし、次に幼子イエス(2歳前後?)を礼拝するために知らせを受けたのは、裕福で知識もある、しかし異邦人(消えた10部族なのでは?という説もある)である東方の博士たちでした。救い主は虐げられた弱い者のためにお生まれになったと思われがちで、それ自体間違いではないけれども、男女の差や民族の違いだけでなく貧富の差も関係なく、すべての罪人の贖いのためにお生まれになったのです。
     博士たちがイスラエルの血を引く者たちであったとすれば聖書預言の知識があったことも頷けます。さらに占星術という異教の習慣をも神さまは用いて、博士たちに救い主の誕生を気づかせました。そこでユダヤ人の王のヘロデ大王のところを訪ねますが、聖書専門家の本流であるはずの律法学者たちは、預言はすぐに思い当たったものの、その預言を信じる信仰や、御子の誕生を喜び、なんとでも礼拝したいというような熱意はなく、ヘロデのご機嫌を伺うばかりでした。
     「イスラエルの王としてお生まれになった方」と聞いたヘロデ王は嫉妬と権力にしがみつく思いに囚われ、博士たちを利用して御子を探し出して、密かに殺そうとしました。そのために多くの子どもたちが犠牲にもなったのです。
     イエスさまは博士たちの礼拝を受けました。博士たちが用意してきた贈り物は、黄金(王の証)、乳香(祭司の証)、没薬(死んで葬られる証)でした。没薬を幼子に送るのは明らかに奇妙でしたが、それも神の摂理の導きでした。
     「主は私たちの王、この方が私たちを救われる」(イザヤ33:22)。この世の王は、人々を救うことはありません。搾取されることすらあります。しかし、真の王であるイエスさまは恵みを施し、ご自身のいのちまで与えて私たちを生かしてくださる方です。この方に感謝と賛美の礼拝をささげましょう。

12/24 「救い主のお生まれ」 ルカの福音書2章6〜20節 小林泰輔師 

  •  「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
     ローマ帝国による住民登録命令のために、身重のマリアとヨセフはベツレヘムに来ていました。そこで産気づいてイエスさまがお生まれになりました。ナザレに住んでいたヨセフとマリアですが、イエスさまはナザレではなく預言の通り、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになったのです。
     時期は定かではありません。仮庵の祭りの頃ではないかという推論も成り立ちます(祭司の当番の記述から計算して)。馬小屋あるいは家畜小屋などと言われますが、聖書には飼葉桶に寝かせられたという記述があるだけです。重要なのは「飼葉桶」です。イザヤ書1:3「牛はその飼い主を、ろばは飼葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」とあるように、イザヤの預言の始めは民が神の恵みを忘れ、神に背き、イエスが救い主であるということを悟らないという預言から始まるのです。
     救い主の御降誕の知らせは、人口調査の数にも入れられていなかった羊飼いたちの元に真っ先に告げられました。そして羊飼いたちは飼葉桶に寝ておられるイエスを探し当て(ダビデの町というヒントだけを頼りに相当熱心に探したと思われる)、イエスを礼拝したのでした。
     「きょう」イエスさまはいつでも、イエスを主と受け入れる人の心の中に住んでくださいます。今日という日があるうちに受け入れましょう。
     「ダビデの町で」聖書の約束は必ず成就します。一見関係のないローマ帝国の人口調査を用いてでもベツレヘムで生まれるように仕組まれた神さまは、私たちを愛し救いに導くという約束をなんとしてでも成し遂げてくださいます。
     「あなたがたのために」羊飼いのような差別されていた人のためにも、そうでない普通の人のためにも、裕福な人のためにも、すべての人のための救い主として生まれてくださいました。しかし「あなた」一人のためだったとしてもイエスは十字架にかかられたでしょう。全人類のためと他人事にはできません。
     「この方こそ主キリストです」この方だけが唯一、私たちの罪のために死の犠牲となられた神です。この方だけが唯一、死を打ち破りよみがえられた方です。私たちの唯一の復活の希望、永遠のいのちを与える方です。この方を主と信じ、心の王座に迎えましょう。

12/17 「救いは神と子羊にある」 ヨハネの黙示録7章1〜17節 小林泰輔師 

  •  前章で七つの封印の神の裁きについて語られた後、別の情景に移ります。四人の御使いが地の四方からの風を抑えています。それは害をもたらすようなものでしたが、もう一人の御使いがやってきて、すべての神のしもべたちの額に印を押してしまうまでは害を加えてはいけないと命じます。地上にある神の民と教会は、終末にはたたかいの中に置かれています。14万4千人という数字は象徴的なものだと思いますが、その最後の一人に印を押してしまうまでは大きな害がないように制限されているのです。
     その後は、天上の礼拝の光景を見せられます。「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた」(9節)。その白い衣は子羊の血で洗って白くしたものでした。バプテスマのヨハネが預言したとおり、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)となられた主イエスの犠牲により、すべての罪は洗い清められたのです。その礼拝の民は叫んで言いました。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(10節)
     牧者である子羊は、聖徒たちをいのちの水の泉に導き、その目の涙をことごとく拭い去ってくださるのです(17節)。この章から受け取る福音のメッセージもまたシンプルです。『十字架に犠牲となられた子羊イエスを信じて救われよ』そして、『やがて、すべての労苦が報われる時が来る』ということです。この地上においては、たたかう教会として迫害や困難にも立ち向かわなければなりません。罪とのたたかいも続きます。けれどもイエスを信じるだけで勝利は約束されます。そして天の礼拝においては、白い衣を着せられて神のみもとで永遠の休みに入れられ、涙も苦しみもなくすべての労苦が報われるのです。
     主イエスを信じて天の御国に入れられる日まで、信仰の道を歩み続けましょう。

12/10 「七つの封印」 ヨハネの黙示録6章1〜17節 小林泰輔師 

  •  6章では七つの封印が紐解かれますが、七つめは6章ではなく後述されます。第一から第四の封印が開かれると、それぞれ馬と騎手が出てきます。白い馬に乗った騎手は弓を持ち、飽くなき勝利を求めて出ていきます。信仰の勝利などという文脈よりも、この後の文脈と調和するのは戦争に次ぐ戦争という意味でしょうか。赤い馬の乗り手は剣を持ち平和を奪うとあります。戦争、災害などにより平穏な暮らしを破壊するものでしょうか。黒い馬の乗り手は秤を持ち、小麦や大麦の価格が高騰します。しかしオリーブ油や葡萄酒には害がないようにされます。食糧難があるが、限定的なものということでしょうか。厳しい裁きのなかにもあわれみがあります。青ざめた馬に乗る者は手には何も持っておりませんが存在そのものが死を象徴していました。剣やききんや疫病や地の獣によって人口の4分の1を支配して多くの者が殺される権威が与えられました。
     第五の封印からは馬は登場せず、恐ろしい裁きが続きます。キリスト者への迫害により多くの殉教者が出ます。しかし彼らの叫びは神に届き、彼らには白い衣が着せられ、やがて御国の完成を見るまで主のもとでの安息が与えられました。
     第六の封印では未曾有の天変地異が起こります。地震や異常気象、さらに想像を絶するような天体の変化が起こります。その時、地に住む者たちは崩れ去る山々さえも都合よく自分たちの上に覆い被さって、神との間に断絶をもたらし裁きを免れさせてくれと叫びます。悔い改めて神の前に立ち返るのではなく、どこまでも神から離れて行こうとするのです。そのような者が神の裁きを逃れる術はありません。
     イザヤ書54章10節には「たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。−あなたをあわれむ方、主は言われる」とあります。山々が動くほどの驚天動地にあっても、信仰者への主の愛と、救いの契約は1mmも動くことはないと約束されているのです。
     この天と地が滅び去るときがやがて必ずやって来ますが、聖書の伝えるメッセージは絶望ではなく希望のメッセージです。それはとてもシンプルで力強いメッセージです。「時が満ち、神の国(支配)が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

12/3 「新世界を開く方」 ヨハネの黙示録5章1〜14節 小林泰輔師

  •  前章に続いてヨハネの見た幻の中で、御座についておられる神さまの右の手に巻物があるのを見ました。御使いがこれを開くことの出来る者はあるかと聞いても誰一人答える者はありませんでした。ヨハネは今までは幻を見せられていただけでしたが、その中に入り込むようにして、その巻物の中身が見られないことを悲しみ、激しく泣きました。その巻物の中には何が書いてあるのか、この時点ではわかりませんでしたが、ヨハネはよっぽど中身が見たかったのでしょう。ただの好奇心というのではなさそうです。おそらくその中身には未来を含む世界の歴史、神さまの摂理のご計画が書かれていると予感したのでしょう。ヨハネやその時代の教会が置かれていた境遇を考えると、歴史の行く末を知りたいと思うのも頷けます。なぜなら、ローマ帝国の支配の中で教会は迫害下にあり、ヨハネ自身はパトモス島に流罪になっていたからです。人は苦しみの中にある時、それがいつ終わるのかが分かれば、あるいは何のための苦しみなのかが分かれば耐えることもできます。しかし、それがいつ終わるのか、どんな意味があるのかが分からないと耐えることができません。ですから、ヨハネは絶望して激しく泣いたのです。
     そこへ長老がやってきて言いました。泣いてはいけない。ユダ族から出た獅子である方、ダビデの子孫としてお生まれになった方、イエス・キリストが勝利したので、その巻物を開くことができるというのです。すると、子羊の姿が目に入り、子羊イエスさまは、御座におられる父なる神から巻物を受け取られました。四つの生き物と24人の長老は倒れ伏して子羊を礼拝します。そして竪琴を巧みにかき鳴らし主イエスを賛美し、香に満ちた金の鉢から煙のように良い香りが立ち上ります。それは聖徒たちの祈りだといいます。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って覚えられています」(使徒10:4)。勝利の主がほめたたえられ、そして子羊イエスの血によって贖われた者たちが、主と共に新世界を統べ治めることが宣言されました。そうしてすべての栄光が御座についておられる方と子羊に帰せられます。賛美と祈りとみことばの宣言と頌栄と、荘厳な天の礼拝の様子が繰り広げられたのです。
     「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」私たちが毎週、毎日祈る主の祈りが香の煙のように立ち上り、覚えられ、みこころが成就した姿がここにはあるのです。

11/26 「少年イエス」 ルカの福音書2章41〜52節 小林泰輔師 

  •  イエスさまにも少年時代がありました。まことの人として来られたので当たり前と言えば当たり前ですが、聖書のなかに公生涯(宣教開始の30歳頃)以前の記述が極端に少ないので、ルカのこの記載は興味深いですね。どんな少年時代を送られたのか、想像してみるのも面白いかもしれませんが、私たちと同じようなところ、そして私たちとは違うところがあったことでしょう。
     今朝の箇所では、地域の信仰共同体のみんなと一緒に過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに向かう場面が描かれています。12歳の少年イエスさまも同年代の子どもたちと一緒に歩いて旅をしました。子どもが先頭、次に女性、そして最後に男性という隊列で旅をしたようです。お喋りをしたり、詩篇にあるような都上りの歌を歌ったり楽しい旅だったかもしれません。
     帰り道も同じように集団で移動しました。ところがしばらく進んだところでイエスさまがいないことが分かりました。ヨセフとマリアは心配しながらエルサレムに引き返し、街中を探し回りました。するとイエスさまは神殿でユダヤのラビたちと聖書の話しをしていました。律法学者の先生から教わりながら、少年イエスさまも賢い質問やお答えをしていました。教師たちはイエスさまの知恵と霊性に驚いたようです。
     そこに両親がやってきて、迷子になったと思っていたイエスさまを見つけました。マリアが「どうしてこんなことをしたのですか…心配してあなたを捜していたのです」と言うと、イエスさまは不思議そうに答えました「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存知なかったのですか。」両親はその言葉の深い意味は理解できませんでしたが、聖霊によって身ごもったマリアはこれらのことを心に留めておきました。
     こうして少年イエスは、知恵が増し加わり、背丈も伸びて、神と人とに愛されながら成長していきました。私たちも神の愛のなかで成長しています。一日ごとにイエスさまに似た者に成長しています。これを聖化といいます。この世界が神の神殿そのものであり、神は見えないけれども今、私たちとともに住んでおられます。神の御子イエスさまと、父なる神と、聖霊なる神の臨在のなかに私たちも住み、神の愛のなかで成長し、両親や家族や隣人に仕えることを通して神に仕えて参りましょう。

11/19 「新世界の序曲」 ヨハネの黙示録4章1〜11節 小林泰輔師

  •  新しい世界が始まる歌がする、そんなお話しです。3章までを振り返ると、七つの教会への手紙が出てきました。それぞれの教会は、主イエスから称賛と叱責などがあり、そして励ましの言葉がありました。当時の教会は迫害下に置かれていましたが、それでも神の助けを信じて待ち望み、信仰をもって歩みなさいというメッセージでした。
     4章では当時の教会のことではなく、こらから先のことを示そうというのです。その内容は著者ヨハネの語彙の限界を越えるようなところもあり、文字通りに理解できるところもあれば、表現的限界を加味しながら読むべきものがあります。ヨハネが見せられた幻は、旧約のエゼキエルが見たものと同じものでした。それでヨハネはエゼキエル書の表現を用いた可能性もあります。言葉で書き表せないくらいの美しさだったということです。神さまの御座があり、それは宝石や虹に例えられる美しさでした。神さまご自身も光で表され「碧玉」や「赤めのう」のように見えていたというのです。
     また御座の周りには24の座があり、それぞれに白い衣を着て冠を被った長老が座っていました。それは旧約を代表するイスラエル12部族と、新約を代表する12弟子を合わせた数のように思います。イスラエルとキリスト教会からなる神の民、それが天国の民ということでしょう。
     次に音で表現されます。御座からする声は雷のようであったというのです。雷の音は自然の厳しさや恐ろしさを感じさせるものではないでしょうか。神の怒りが表されていると思われます。神は何をどのように怒っておられるのか、神の裁きについてはこの後、七つの御霊によって明らかにされていきます。
     そして、四つの生き物が出てきます。これもまたヨハネの見たことのあるもので表現するには限界がありました。獅子、牛、人間の顔を持つ者、鷲、そしてそれらは六つの翼を持っていました。イザヤ書には六つの翼を持つ御使いが出てきます。そして先ほどの24人の長老がもう一度出てきます。彼らは神さまの前に倒れ伏して、冠を捨てて、主を賛美し礼拝しました。
     その賛美とは、主がすべてを造られたということ、そして主はもう一度この世界をご自身の御心にかなうものに再創造されるのです。新しく造り直すためには古いものは壊されなければなりません。私たちも古い罪の性質をもっていますが悔い改めて、自分の栄光(冠)を捨てて神さまの前にひれ伏し礼拝しましょう。

11/12 「私の目の前に主を」 サムエル記第一21章10節〜22章2節 森田学師

  •  ★命を狙われるダビデ★
     王位に固執するサウルは、息子ヨナタンを王にするため、神が次に選んだダビデを亡き者にしようとします。ヨナタンは、父の殺意を信じられず、父に嘘をついてまで親友ダビデを庇います。【20:31】サウルは自己中心で承認欲求に囚われ、隠れるダビデを暴こうと、追回します。詮索され秘密を暴こうと(=噂話)されるダビデ。巨人ゴリヤテを倒した勇敢なダビデであっても、精神的な圧力の前に、理性を保つのも大変だったのです。
     ★ダビデ必死の逃亡★
     ヨナタンに助けられたダビデは、祭司アヒメレクのもとへ独りで着きます。独りを不審に思われたダビデは、嘘をついて(サウルの配下ドエグを認知しながら)かくまってもらいます。【21:2】悲しいことに後日、祭司アヒメレクと一族85人は、1人を残して全員殺されてしまいます。【22:18】人を恐れるダビデは、『門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたり』【21:13】プライドを捨てて、逃亡生活を続けるのです。
     ★主を前に置くダビデ★
     そんなダビデの周りには、気づけば弱い者たちが集まります。【22:2】 一方、サウルは人々を恐怖に陥れます。違いは明確です。サウルの目の前には、初めは愛し慕っていた主が、もやはいなくなっていたのです。【詩篇54:3】しかし、ダビデはどんな状況でも『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』のです。【詩篇16:8】目に見えないお方を目の前に置くとは、私たちの内に住まわれる主ご自身に、あなた自身をゆだねることです。
     ★イエスの愛を知る★
     私たちもダビデのように、沈黙に生きざるを得ない中を通されます。そのとき必要なのは、イエスの愛です。『愛は…すべてを耐え…』【コリント①13:7】すべてを耐えるとは、“脅かすものを避けるために沈黙する。秘密を覆い隠し守る。”という意味の言葉です。まさに、イエス様の愛です。イエス様は十字架の上で、理不尽に責められ、ありもしない悪口を言われ、私たちの人間の罪をなすりつけられても、ただ黙っておられました。
     ★主を前に置くことを選ぶ★
     私たちは、イエス様を信じていても、失敗はありますし、判断を間違えることもあります。完全ではありません。しかし、ダビデのように、自分の弱さを認め、主に告白し、どんな状況の中に置かれていたとしても、神さまを愛していくことを選び取っていくことが、私たちの生きる力となるのです。神様こそが、私たちの歩むべき道を示し、私のいのちもすべてを守っておられるお方であるからです。

11/5 「休め!」 出エジプト記20章8〜11節 小林泰輔師

  •  神さまは私たちに、六日間仕事をして、七日目は休めと命じられました。心を亡くすと書いて「忙」と書くように、あまりに忙しいと心もからだも疲れ果ててしまいます。忙しさに囚われて「休め!」と命じられないと休めない私たちのために、神さまは七日ごとに休むことをルールにしてくださったのです。
     七日目に休むこの「安息日」は聖なるものとされました。それは安息日をちゃんと守って真面目に緊張感をもってこの日を守らなければならないという意味ではなく、他の日とくっきり区別したという意味です。安息の日ですから、この日は楽しみの日、祝祭の日であり、緊張する日ではないのです。
     何を祝うのかと言えば、それは神さまがこの世界と私たちをすばらしくお造りになったことと、エジプトの奴隷状態(申命記5:5)や罪の奴隷状態から十字架の贖いによって救われたことを思い起こしてお祝いするのです。人間はすぐに神さまの恵みを忘れるので、七日ごとに集まってみんなで一緒に神さまに感謝と賛美をささげるのです。これが日曜礼拝の意義です。本来、安息日は土曜ですが主イエスの復活された日曜(主日)に集まることがキリスト教会の伝統になりました。
     イエスさまは私たちを安息に招いておられます。疲れた人、重荷を負わされている人、すべての人をご自身のみもとで休むように願われています。私たちのたましいとからだは六日間のうちに無自覚にバランスを崩します。ですから七日ごとに主にある安息に帰るのです。そうかと言って、その他の六日間はイエスさまから離れて良いわけではありません。ぶどうの樹のイエスさまから離れては枝である私たちは何もできないからです。
     イエスさまの願いは、私たちをご自身の安息に招き、共に生きることです。「おいで」と招かれたところで主イエスは私たちの話を聞いてくださいます。楽しかったことや辛かったことを話します。そうしてイエスさまの御顔を仰ぎ見ると笑ったり泣いたりしている、そんな気がします。祈りが聴かれていることを知って私たちの渇いた心が癒されます。
     安息日は恵みのリズムです。これに調子を合わせることが楽しく幸せな礼拝と献身の生活になるのです(ローマ12:1-2)。

10/29 「復活と新しい国」 第一コリント15章50〜58節 小林泰輔師 

  •  イエスさまは復活され、新しい栄光のからだによみがえられました。私たちがよみがえる時も同じ栄光のからだが与えられてよみがえります。使徒信条の「からだのよみがえりを信じます」というのはそういうことです。
     イエスさまを信じて罪の赦しを受けた者にとっては、死は終わりではありません。永遠のいのちが約束されています。この地上で死を迎えるならば、それは眠りであり、やがてイエスさまがもう一度来られる時に空に引き挙げられ、空中で主とお会いし、そして主とともに地におりて千年の間、世を治めると聖書に約束されています。生きている間にその再臨を経験する者は眠ることはありません。
     イエスさまが最初にこの世に来られた時(クリスマス、初臨)に、この聖書の約束が完成したのです。イエスさまも十字架の上で「完了した」と言われました。神さまが私たち罪人を救うご計画の段取りが完了したのです。ですから、すでに私たちは永遠のいのちをいただいていて、永遠の時を生き始めていると言えます。別の言い方をするならば、天の御国はすでに来ているということです。
     天国が来るための準備が始まったのです。天国に住む人は、今までの古い生き方ではなく、イエスさまが地上の生涯でそうされたように、父なる神を愛し、隣人を愛する生き方をするようになるのです。それが天国民の生き方だからです。未だ罪の性質を持つ私たちですが、不完全ながらもそのような天国基準の生き方にチャレンジしていくように示されているのです。
     「福音」とは「良い報せ」であり、また「告示」でもあります。新しい国ではこういう生き方がスタンダードになりますよということを前もって報せているのです。ですから、今のうちから準備しましょう。自分の力では無理でも、聖霊が与えられていますから大丈夫です。聖霊の声に従って天国の道を歩みましょう。

10/22 「十字架の死と復活」 第一コリント15章3〜11節 小林泰輔師 

  •  世の中いろいろなニュースがありますが、フェイクニュースもありますので、その報道が真実かどうかの事実確認が大切となっています。新約聖書もまた、事実の証言をもとに書かれた報道だと言えます。「福音」とは「良い報せ」という意味です。
     今朝の箇所には、著者が聞き、また事実確認をしたことで、すべての人々に報せるべきだと示されたことが書かれています。報道はまた、誰がそれを報じているかも重要です。素人が聞きかじった噂程度のことなのか、専門家の確かな情報なのかで大きく違ってきます。このコリント人への手紙を書いたのは、パウロ(旧サウロ)であって、元々は旧約聖書や律法の専門家であり天才エリートユダヤ教徒でした。神に対する熱心さは、イエスの弟子たちを迫害したほどでした(復活のイエスに出会う前のサウロは、イエスは神の子を自称する冒涜者と思っていた)。しかし、復活のイエスに出会ったことで、イエスが預言されていたメシアであり、本当に神の御子、神ご自身である方だということに目が開かれました。旧約聖書に書かれているたくさんのことごとの無数の点と点が線で結ばれたように一気に真理を悟ったのです。モーセの時代のエジプト脱出の出来事が、罪と死からの脱出を意味し、動物のいけにえの血が罪をきよめるわけではなく、小羊イエスの血による贖いを象徴していることなど、すべてを悟り知ったのです。
     それからのパウロは全世界(当時は地中海周辺が全世界のように思われた)に福音を広めることに文字通り命をかけました。報道されたことが事実であるかどうかはまた歴史の証人による検証が必要です。パウロや当時の弟子たちだけでなく、多くの天才学者たちが検証してなお、信じるに値するものとして語り継がれてきたのです。初代教会は迫害を経験してきました。命の危険もありました。本当でないことに命をかけるのは馬鹿らしいことです。しかし実際多くの信徒が真理のために迫害を受け、命を落としてきたのです。
     神が人となってこの地に来られ、私たちを罪と死の呪いから救うために、身代わりに十字架で死なれ、墓に葬られたのです。しかし衝撃のニュースはこの先です。イエスは死からよみがえられ復活され大勢の人に目撃されたのです。復活されたことによって、イエスが神であり救い主であることが証明されました。十字架による罪の赦しが有効であることが証明されました。聖書が語るように、イエスを信じて罪を悔い改めバプテスマを受けるなら、聖霊がその人の中に住み、義に生きることができるようになります。そして死は終わりではなく、神の国の永遠の命が与えられるのです。

10/15 「人の救いとイエスの愛、十字架」 ヨハネの手紙第一4章7〜10節 森田学師 

  •  ★無条件の神の愛★ 私たちを創られ生かすお方、その神を無視して生きる罪人である私たちに、神は言われます。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』【ヨハネ①4:10】私たち人間の愛は、条件付きで、不完全です。〇〇だからあなたを愛します。〇〇してくれたからあなたを愛します。感情にも揺さぶられます。しかし神は、私たちに何の善いところが無くても、愛されるはずもない者を、永遠に変わらない真実な愛で、無条件で、まず神の方から私たちを愛してくれているのです。私たちを罪から救いたいと願い、私たちが頼んでもいないのに、救い主イエス・キリストの方から進んで私たちを愛してくださるのです。本来、罪人の私たちが受けるはずの、神の怒りの裁きを…罰と呪いを、身代わりに全て受けて、十字架でイエスは死なれたのです。そして、三日目に復活されました。イエスこそ私の救い主ですと、心で信じて、口で告白して、私たち人間は救われます。
     ★嫌われ者ザアカイ★ 取税人ザアカイは、税金の数倍をも搾り取り、敵国へ貢いでいました。そんな彼を人々は罪人と呼びます。そんな彼の住んでいる町へ、イエスがやって来るとのこと。誰からも招かれない彼は、それでも心からイエスに会いたいと願い、気づけば木に登っていました。すると、ザアカイを心から求めてやって来ていたイエスの方から、ザアカイに声をかけ愛を注がれます。あのザアカイをイエスが招くものですから、人々は罪人ザアカイのところへ行って客になりやがって…と不満大爆発です。しかし真理はこうです。『人の子(イエス)は、失われた者を捜して救うために来たのです。』【ルカ19:10】神はザアカイを、世界の創られる前から愛することを決めておられました。初めに創られた人間、アダムとエバが神との約束を破って、罪を犯した時『「あなたは、どこにいるのか。」』【創世記3:9】と言われた神は、今も私たちを求めて招いておられます。神は愛だからです。人間を、怒り狂って捜し叫んでいるのではなく、深い喪失感に心を痛められた神が、“あなたは、今どこにいるの?”呼んでおられます。あなたもザアカイのように、『あなたがたがわたし(救い主イエス・キリスト)を捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。』のです。【エレミヤ29:13】
     ★愛と赦しの神★ イエスの愛に包まれたその瞬間、思わず神に罪を告白し、神に悔い改め、喜びがあふれてきます。9『「今日、救いがこの家に来ました。』ハレルヤ!これほど嬉しい善い知らせはありません。いま、十字架の愛を、罪の赦しを受け取ってほしいと神はあなたに願っておられます。

10/8 「人の罪とキリストの十字架」 ローマ人への手紙1章16節〜2章5節 小林泰輔師 

  •  一般に「罪」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。真っ先に思い浮かぶのは「犯罪」でしょう。それから法的には罪ではなくても道義的に罪と呼べるような「道徳」。世間一般の認識はそんなところでしょう。しかし、聖書がいう罪とは「神に対する不従順」のことです。そこには道徳も犯罪も含まれます。世間一般の道徳の中でも世間体のようなものは神への不従順には含まれず、却って世間体を気にして神に背くことさえあるかもしれません。
     一番の罪、根っこの部分は「まことの神さまを礼拝しないこと」です。天と地を造られ、私たちをも造られ、被造物を愛のうちに保ってくださっている造り主なる神を無視することは、とても大きな罪と言えます。
     二番目の罪は「偶像崇拝」です。神でないものを神として拝むことです。偶像には動物の形をしたものや人間の像などがありますが、それだけではなく、神さま以上に大事なものがあったらそれも偶像(英語で「アイドル」)になります。拝金主義のことを「マンモニズム」と言いますが、「マンモン」という神として拝まれていた時代もあったほどです。現代の日本人の神は「世間様」かもしれません。
     三番目は「諸々の罪」のことです。ここで犯罪や道徳的悪のことが出てきます。それらは元はと言えば、神さまを恐れず、神さまとの約束を無視する心から来るものです。罪を犯して「罪人(つみびと)」となるのではなく、元々神を無視しようとする罪の性質を持っているから諸々の罪を犯すのです。代表的なものに性的倒錯の罪(26-27節)や日常生活における罪(29-31節)が挙げられています
     四番目は「偽善」という罪です。人の罪をあげつらうことをしながら、自分の罪には鈍感であることです。前項の諸々の罪の一つを犯している者を責めるけれども、自分も別の罪を犯しているので、それは他人を裁きながら自分にも裁きを下していることなのです(2:1)。
     これらの罪がありながら神のみもとへ行くことはできません。そのためにイエス・キリストは道となってくださいました(ヨハ14:6)。すなわち、十字架で私たちの罪の刑罰を代わりに負ってくださり、私たちの罪咎を消し去ってくださったのです。罪の記憶からも解放してくださいました。キリストの打ち傷によって癒されるのです(Ⅰペテ2:24)。罪を認めて悔い改め、イエスさまの十字架の愛を受け取りましょう。

10/1 「創造主の愛と人の罪」 創世記2章18〜25節 小林泰輔師

  •  日本国民の幸福度は137カ国中47位だそうです。G7のうちでは自殺者数がワーストだそうです。日本国民はなぜ幸せだと感じられないのでしょうか。そこには魂の軽視、霊性の軽視があるのではないかと思います。
     キリスト教会がその使命として人々に伝えたいことは、人は神に愛されていることを知った時に初めて本当の平安と幸福を得るのだということです。そこには宗教勧誘目的の野心などは毛頭ありません(本来言うまでもないことですが時勢的にあえて言及しました)。人生の諸問題の解決の鍵はすべてイエス・キリストの福音(良き知らせ)にあります。
     人は自分の生まれてきた意味や、生かされている意味が分からなければ幸せを見出すことも難しいでしょう。聖書は神が人を造られたと言います。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(別訳「霊」)を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2章7節)。土くれから造られた人の形をしたものに、神さまの霊が吹き込まれてはじめて人は生きものになったのです。ですから私たちのうちには神の霊が宿っています。それが魂とか霊性というものです。さらに霊性とは「神は人をご自身のかたち(性質)として創造された」(創世記1章27節)とありますから、すばらしい神さま、聖なる方であり、愛であり、正義である方の性質にそっくり似せられた存在なのです。それが私たちの本質、霊性を持った人ということなのです。ですから神さまに似せて造られた私たちは、神さまのように聖なる者として生きたい、愛を与える者として生きたいという本来的な願望があります。ところが、その通りには生きられない弱さを持っています。それは人が神さまから離れて生きるようになったことで始まった「罪」のゆえでした。
     人が自分の作品に愛着を持つ、それ以上に神はご自身の造られた人に多大なる愛を注いでおられます。掛け値なしに愛してくださいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)。何かができるかどうかではなく、存在そのものを愛してくださるのです。だから私たちは生きていて良いのです。神の愛から彷徨い出た私たちに、イエスさまは帰って来て欲しいと懇願しておられます。イエスさまの招きに応じて、神のもとへと帰りませんか?

9/24 「あなたの道を主にゆだねよ」 創世記24章1〜9節 小林泰輔師 

  •  イサクの結婚のお話ですが、これは同時にアブラハムのしもべ(エリエゼル?)の冒険のお話でもあります。アブラハムは息子イサクのためにお嫁さんを迎えようと思いました。しかし、カナンの地の人々は偶像を拝む人たちばかりだったので、まことの神さまを信じる人たち(親族)の中からお嫁さんを迎えるために、自分の故郷にしもべを派遣することになったのです。たくさんのらくだにたくさんの贈り物を持たせて出発しました。
     アブラハムの故郷に辿り着いたしもべですが、たくさんいる人の中から誰がアブラハムの親族で、誰が神さまを信じる人か、探し出すのはとても大変です。そこで、しもべは神さまに祈りました。井戸のそばで出会う女性に「お水を飲ませてください」と言ったときに飲ませてくれ、「らくだにも飲ませてあげましょう」と言ってくれたら、その方が神さまの導いてくださった方と信じます。そんな祈りをしました。
     しもべはきっと、主人のアブラハムがそんなふうにいつも神さまに祈って物事を決めていく姿を見て学んできたのでしょう。アブラハムは「私は主の前に歩んできた」と言っていました。神さまがアブラハムに「わたしの前を歩きなさい、そして完全に信頼しなさい」(創17:1意訳)と言われたからです。「全き者であれ」とは道徳的に完全な者であれというよりかは、神さまに完全に信頼する者でいなさいという意味だと思います。確かにアブラハムの生涯は失敗もありながらも、神さまにゆだねきった生涯でした。しもべにもイサクにも子孫にも、その信仰は継承されていきました。
     神さまは必ず祈りに応えてくださる。そんな信頼を寄せて祈るときに、神さまは期待以上の応えをくださいます。しもべが祈り終わらないうちに早くも一人の女性が近づいてきます。その人はリベカといってアブラハムの親族でした。そして祈りの通りに、らくだにも水を飲ませてくれる優しい女性でした。しもべは神さまの前にひざまずいて感謝の礼拝をささげました。リベカの兄で保護者のラバンもそしてリベカ本人もこのことを神さまの導きと信頼して決心しました。そしてアブラハムのようにリベカもまた、嫁いで行く先がどのようなところかを知らずに、信仰と信頼によってイサクと結婚したのです。イサクもまた神さまの導きに信頼してリベカを迎え、心からリベカを愛しました。

9/17 「熱いか冷たいかであれ」 ヨハネの黙示録3章14〜22節 小林泰輔師

  •  七つの教会へのメッセージ、最後はラオディキアの教会へ宛てたメッセージです。そこには称賛はなく叱責と忠告があるだけです。
    「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(15,16節)
     ラオディキアの町の近くには冷たい湧水の出るところがあり、また、熱い温泉が出るところもありました。水が冷たければ夏の渇きを癒すことができます。温泉が熱ければさっぱりします。けれども生ぬるければどちらの用にも役立たずになってしまいます。この話の結論は、神さまへの思いが生ぬるいことが一番よくないということです。
     ラオディキアの町の特徴に合わせて、神さまは教会に語られます。ラオディキアは金融の町でありました。教会の人々も豊かな人たちでした。何にも欠けることがないと思っているけれども、本当の心は貧しくみじめだと主は言われるのです。だから、火で精錬された金を買いなさいと言われました。それは信仰の試練のことです。試練や困難は誰もが避けたいことですが、挑戦もせず生ぬるい生活では信仰が鍛えられることはないのです。
     また黒羊の毛織物の町であったので、上等な着物を着ていました。しかし、実は裸の恥をさらしているというのです。だからキリストの血で洗って白くした衣を着なさいというのです。そうすれば罪の汚れは洗い清められ、恥は覆われるのです。
     そして薬で有名な町でもありました。人々は目がよく見えて、物事の善悪がよくわかっていると思い込んでいるけれども、実は本質が見えていないというのです。だから霊の目がよく見えるように目薬を買いなさいというのです。そうすれば、兄弟の目のちりを取り除くことができるようになります(ルカ6:42)。互いに戒め合いながら霊的成長を目指していくことができるのです(ガラ6:1-2)。
     色々言われていますが、実は一つのことです。熱心になって悔い改めなさいというのです。そうすれば、主はあなたの心に住み、内側からきよめ、心を燃やしてくださいます。

9/10 「難を逃れさせてくださる方」 サムエル記第一19章18〜24節 森田学師

  •  ★嫉妬はどこから?★ 神の愛を追い出して、人間関係を壊すのは、いつも私たち自身の中にある欲たちです。ヨハネの手紙では、『肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢』こそが、神の愛と相反するものだと言います。
     ①肉の欲によって、サウルは自己中心になり、自分の正義で隣人をさばきます。その結果、神の無限の能力を否定し、ダビデを勝利させた神をも否定するのです。
     ②サウルは、自分よりも神様に用いられているダビデの働きを気に入らず、怖れ、自分の立場を守ろうとします。その目の欲が、不平不満を生み出し、ダビデを羨ましがり、嫉妬し怒り、排除(殺人)へと繋げます。
     ③さらに、暮らし向きの自慢、正確に言えば、自分を見せて認められたい欲が発動します。三つの中では、クリスチャンが最も陥りやすいサタンの罠です。
     神様があなたを選び、救われたのに…、私は神様に認められていない。こんなに頑張って生きている私を見て欲しい、認めて欲しい。そう承認欲求が芽生え、次第に、頑張る自分の生き方が基準になり、肉の欲へつながります。
     ★助け手を備える神様★ サウルは自分の立場を守るため、権力と力によってダビデを排除しますが、神様はダビデを見捨てません。独りでなんとかしろ、弱さを見せずに耐えろという文化が世にはあります。しかし、サウルの異常な行動と言葉に危険を察知した人たち(親友ヨナタン、妻ミカル)が神様に促され、ダビデを救い出します。さらに、サムエルのところへ逃げ込む道を主は備えておられました。
     神様を信じる信仰は一筋ですが、神様が私たちを導く信仰の歩みは実に豊かです。以前の私は、高慢にも神様がダビデと共におられるなら、逃げずに信仰で突き進めばいいのでは?と答えはいつも同じだと思い込んでいました。しかし、神様は一人ひとり、それぞれにふさわしい最善の助けを与えてくださるのです。『…神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』【コリント①10:13】
     試練と誘惑は聖書では同じ言葉ですが、誘惑に負けてつぶれそうなサウルをも神様はみことばを語り続け助け出そうとされます。(23節)
    私たちは嫉妬したり、されたり、悩ましい中にありますが、嫉妬される試練からも、嫉妬してしまう誘惑からも助け出してくださるお方がいることを感謝します。罪から離れさせてくださるイエス様により頼んでいきましょう。

9/3 「とどまれ、神の愛に」 ヨハネの黙示録3章7〜13節 小林泰輔師

  •  フィラデルフィアの教会へのメッセージです。「兄弟愛」という意味を持つこの小さな町の小さな教会は、主から称賛を受けますが叱責はありませんでした。彼らの住む町はデュオニソス(バッカス)を神とする町で異教の中で、まことの主を礼拝していました。また、「サタンの会衆」と種から言われてしまうユダヤ人たちからの迫害もありました。
     主イエスは、聖なる方であり、真実な方であり、ダビデの鍵を持つ方と言われます。ダビデの鍵は王宮の宝物庫の鍵としてイザヤ書に出てきます。財宝よりも尊い、いのちの冠が天の宝物庫にはあるのです。フィラデルフィアの人たちは迫害の中にあっても信仰を捨てなかったので、彼らの前には決して閉じることのない、いのちの門が開かれたのです。
     しかし、フィラデルフィアの教会は「少しばかりの力があって」とあるのです。他の訳では、「少しの力しかないのにもかかわらず」とも言われています。少しの力でも、十字架のイエスさまの忍耐を思い出し、イエスさまのことばを守って信仰を捨てなかったのです。少しの力で忍耐した、自分にできる精一杯のことをしたのです。それだけでよかったのです。イエスさまのことばとは、互いに愛し合いなさい、愛し合う姿を通して神の栄光を表しなさいということでした。兄弟愛をもって互いに愛し合っていたのです。
     そんな彼らの前にサタンの会衆と言われたユダヤ人たちもやって来て彼らの足元にひれ伏し、主イエスに回心すると約束されました。神が異邦人もユダヤ人も隔てなく愛しておられ、ともに神の民としてくださることをユダヤ人は知るようになるのです。
     また、そうしていのちの冠を奪われることのないように、信仰の試練にあっても神さまは守ってくださるというのです。それも全世界的な試練においても守ってくださるというのです。ですから、そのみことばの約束に信頼し、神さまの愛を疑わずに、神さまの愛にとどまることで、信仰の試練を乗り越えましょう。

8/27 「神さまの約束」 創世記15章1〜6節 小林泰輔師

  •  今日はアブラム(アブラハム)と神さまとの約束のお話です。アブラムは父親など親族とともにカルデアのウルというところ(またはハラン)に住んでいました。そこは月神を拝む偶像崇拝の地でした。天地を創られた真の神がアブラムを呼び出し、約束の地に向けて旅立つよう命じます。アブラムは主を信じて、そこがどこか、どういうところかを知らないまま、旅立ちました。そうすれば神が祝福をくださると約束してくださったからです。(12章)
     次の約束は、アブラムに星空のようにたくさんの子孫が与えられるというものでした。しかし、その時点でアブラムも妻のサライも歳を取りすぎていました。俄かに信じられるような約束ではありませんでした。アブラムはしもべのエリエゼルを跡取りにと考えたこともありましたが、神さまがその方法を退け、あくまでも約束の成就を待つように言われたので信じて待ちました。(15章)
     それからさらに数十年の時が経ました。アブラムが99歳の時、神さまが現れ、アブラムとの約束をもう一度思い出させてくださいました。「わたしは全能の神である」と神には不可能はないことを示し、「わたしの前に歩み、全き者であれ」と言われました。これは道徳的に完全な者であれ、義人、善人であれという意味でなく、神に対する信頼において完全でありなさいという意味でした。そうすれば、約束の通りにあなたの子孫を大いに増やすと言われました。やがてその初穂となる息子イサクが与えられ、その子孫からイスラエルの民が増え広がっていきます。やがてそのイスラエルの子孫として来られた御子イエスさまによって私たちもアブラハムの霊的子孫に数えられることとなりました。
     アブラハムは信仰の父と呼ばれます。アブラハムの信仰は、神さまに完全に信頼して約束を信じて待つところにありました。それが彼の信仰の表現であり、それが彼の義(信仰の証)であったのです。私たちも信仰の父に倣って、神さまに全幅の信頼を置いて、約束の賜物である信仰が与えられることを待ち望みましょう(エペソ2:8)。

8/20 「ただ愛されたい」 ヨハネの福音書15章7〜17節 小林泰輔師

  •  「あなたは愛されていますか。」そのように聞かれたら何と答えるでしょうか。「はい。愛されています。」「いいえ、誰からも愛されていません。」答えは人それぞれであると思います。
     神は聖書を通して私たちに「わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と宣言しておられます。ほかの誰からも愛されていないと感じていたとしても、神はあなたを愛している、これが聖書の語る揺るがない真実です。
     その愛は、人類の歴史の中にもはっきりと刻み込まれました。救い主イエス・キリストがこの地に生まれ、私たちを罪の呪いから救うために十字架にかかられた、そのことによって私たちに愛が示されたのです。
     神の愛は、与える愛です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。人間の愛は、何か良いもの、美しいもの、気高いものなどの価値を認めて、それを獲得しようとするものですが、神の愛はそうではありません。私たちの能力とか、功績といったものに関係なく、私たちを価値あるものと認め、そして私たちのために、ご自身のいのちを与えてくださったのです。
     冒頭の問いに対して、「あなたは愛されています」と聖書は保証を与えています。そして、「『あなたを愛している』と言われる神のことばを信じますか。」とあらためて問いかけます。
     ただ愛されたいというのはすべての人の願いであると思います。神はあなたを愛しておられます。あなたも神の愛を信じ、受け入れるなら、必ずその歩みに力を得るでしょう。

8/13 「立ち返る恵み」 ルカの福音書15章11〜20節 森田学師

  •  罪人を招くのは、イエス・キリストただひとり。人の罪を赦し、滅びから救い、永遠のいのちに生かすために。イエスさまの周りには、私は弱いダメな人間だ…と落ち込む人たち、片や、私は他の人たちよりも神を信じきよく正しく生きている。と自負している。そんな罪人たちが集まります。【1~3節】どちらの弱さもあるのが私たち人間です。イエスさまは今、私たちが自身の弱さを認め、神に向き直(悔い改め)るよう語られるのです。
     ★神との離別★神さまの一番そばで、幸せに暮らしていた弟息子は、“後は自分の好きにさせてよ。”と、神さまにしかない宝物を、根こそぎ頂戴し、飛び出して行ってしまいました。【12~14節】神さまがくださるすべての善い賜物…真実の愛や、喜び、心の安らぎ…などは、その源である神さまを抜きにしては、使い方を間違え、枯渇してしまうのに。
     ★気づき★自分の方から離れ、自分の思い通りにしてきたけど、もう…無理死にそう。神さまへ帰るきっかけは、たったそれだけでした。ハッとして、自分は罪ある(的外れな)者だと気づき、神さまへ向きを変えたその瞬間から、神さまとの関係は再び回復し始めるのです。【17~19節】神の愛は怖ろしいほどです。神さまのほうへ向き直る弟息子に、“わたしの財産を無駄にして、私を無視して好き勝手やって、人生失敗したよね。”とは言わない。神さまの愛とあわれみは、人の理解をはるかに超えています。【20~24節】
     ★向き直り歩く力★しかしなぜ、豚の餌すら食べられず飢え死に寸前の弟息子が、はるか遠く離れた父なる神のもとへ帰ることができたのでしょうか。『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』【イザヤ63:9】私たちが父なる神に立ち返る決意をした瞬間、私たちが瞬時に神のもとへ帰れるように、弱り果てた私たちを背負い、運んでくださる、イエスさまがいるからです。こんなに一方的に神から愛されている私たちは、神から離れ、愛を拒んで生きたいと思いますでしょうか。
     ★神と永遠に生きる★愛し合っていた夫婦が、ある時を境に、もう愛し合わなくても、お互い今までの愛があるから、後は大丈夫…なんてことはありえません。神さまと私たちとの関係は、もっとすばらしい親密な関係です。絶えず神さまを求め続けることを、日々毎時毎分毎秒、大切に生きてゆきたいです。そんな渇いた霊を神様は喜ばれます。【マタイ5:3】その生きる姿からこぼれる神の愛は、私たちばかりか隣人をも潤すのです。

8/6 「行いに応じて報いる神」 ヨハネの黙示録2章18〜29節 小林泰輔師 

  •  「行いに応じて報いる神」と聞くと、ただ信仰のみによって救われるのではないのか?という思いが浮かぶかもしれません。その場合、「救い」と「報い」が同じ意味に捉えられているのかもしれません。「報い」には良い報いも悪い報いもあります。良い行いをした人には褒美(家内安全商売繁盛学業成就のような)が与えられて、悪い行いをした人には天罰(病気や災難)が与えられるのでしょうか。それは因果応報の考え方で、聖書のメッセージとは異なります。
     今日はティアティラの教会に送られたイエスさまからのメッセージです。ほめられるべきところは、行いにも、愛と信仰と奉仕と忍耐にもすぐれていたところであり、なおかつそれが初めの頃より成長していたことです。イエスさまは「燃える炎のような目を持ち」私たちのことを熱い情熱をもってよく見て知っていてくださるということがわかります。
     また責められるべきところもありました。イゼベル(旧約の人物でアハブ王の妃、イスラエルにバアル崇拝を持ち込んだ)に例えられる女が、教会のなかで預言者を自称し間違った教えを流布するのをさすがままにさせているというのです。その結果、信仰深く愛にも熱心な教会が偶像崇拝の罪に陥ってしまったのです。二つの別のグループのことなのか、同じ人々の二面性なのか、どちらにしても主イエスにとっては悲しく憤りをおぼえることでした。「わたしは悔い改める機会を与えたが…」彼らは悔い改めませんでした。イエスさまは悔い改めの機会を与えてくださる忍耐深いお方であることがわかります。
     人は2種類に分けることができます。神に向かって悔い改める人と、悔い改めない人です。悔い改めるというのはただの後悔や反省ではありません。神に向かってとしたように、神さまへの不従順をやめ、神さまに向き直ることです。そうすれば誰でも主イエスの十字架の犠牲と復活により、赦されるのです。しかし「その足は光り輝く真鍮のような神の子」はその足で、悔い改めない者、その背後にいるサタンの頭を踏み砕くお方です。
     私たちにできるたった一つの最高の良い行いは、熱心になって神に向かって悔い改めることです。そうすれば聖霊に満たされ、その働きの邪魔をすることなく、私の言動を通して神の善が表されます。そのような生涯は最高の良い報いと言えるでしょう。

7/30 「最高のプレゼント」 ヨハネの福音書1章12,14章6節 藤井聡美姉

  •  大学へ行って福音を伝えています、と言うと、よく「どのように福音を伝えていますか?」と聞かれます。おもに今は『KGP』と呼ばれる小冊子を用いて福音を伝えています。これは聖書を4つのポイントでまとめて福音を伝える、というものです。「それだけで神様を信じる人がいるの!?」と思われる方もいるかもしれませんが、これを用いて伝えるだけで信じる人はたくさんいます。実は、私もそのうちの一人です。
     今日はこの『KGP』に書かれている4つのポイントに沿って福音を語らせていただきます。1つ目のポイントは「神様は私たちを造り、私たちを愛している」ということ、2つ目のポイントは「人には罪があって神との間に深い断絶ができているゆえに、人は神を知ることができなくなっている」ということ、3つ目のポイントは「人の罪のために、神様が用意してくださった解決が、イエス・キリスト」であること、4つ目のポイントは「イエス・キリストを受け入れることによって、神を知り、神の愛を体験できるようになる」ということです。
     「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)。私たちはイエス様を個人的に信頼する必要があり、そうすることによって神様と親しい関係を築くことができるのです。私たちは何か良い行いをして救われるのではなく、ただイエス様を信頼することによって救われます。それは、神様からの最高のプレゼントなのです。
     でも、この神様を知らない人が日本にはたくさんいます。いつも恐れずに、大胆に神の子どもとして福音を伝えていきましょう。

7/23 「弟子たちを招く」 ヨハネの福音書1章35〜51節 小林泰輔師

  •  こども讃美歌に、12弟子おぼえ歌があるのでそれでおぼえるといいでしょう。「ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとトマスとマタイたち、ヤコブとタダイ、シモンとユダ、バルトロマイが12弟子。弟子たちは、イエスさまのお手伝いをしたのです。ぼくたちも、イエスさまのお手伝いをいたしましょう」
     今日は、その中でも何人かを見てみましょう。バプテスマのヨハネもまた多くのフォロアーがいました。バプテスマのヨハネがイエスさまを見て「見よ、神の子羊」と言われたのを聞いて、ヨハネの許から出てイエスさまについて行ったのはおそらくアンデレとゼベダイの子ヨハネだと言われています。イエスさまは彼らに会って「あなたがたは何を求めているのですか」と問われました。イエスさまはその時点での彼らの求めをご存知でしたでしょうけれども(おそらく政治的な救世主を求めたか、自己啓発や個人的成長のためか)、彼らの求めを知りながら、弟子として迎えてくださいました。彼らはイエスさまの宿所を聞き、そこで一晩をともに過ごして、イエスさまと語らったのでしょうか。イエスさまにつき従う決心をしました。そしてアンデレは兄弟シモンを引き合わせました。イエスさまは彼に出会うやいなや、ペテロ(岩の意)という名前で呼びました。
     それからイエスさまはピリポに出会い、「わたしに従ってきなさい」と弟子に招きました。ピリポは招きに従い弟子となり、友であるナタナエル(バルトロマイ)にイエスさまを紹介しました。ナタナエルはイスラエルの救いを願い、よく聖書を読み祈っていたので、“救い主はベツレヘムから出る”ことを知っていたのでしょう。ナザレから何のよいものが出るかと懐疑的でしたが、ナタナエルがよくいちじくの木の下で祈っている姿を見ていたことをイエスさまに知られていたことを通して、弟子になる決心をしました。
     「イエスさまに出会う」とは私たちにとってどういうことでしょうか。イエスさまは出会うその前から私たちのことをよく知っていてくださいます。何を考え、何に悩み苦しみ、何を喜びとするのかを知っていてくださいます。そして神の御心にそって生きることこそが平安であり、私たちに一番必要でふさわしいことを知らせてくださいます。そうしてイエスさまの教えに従って生きるようになること、これがイエスさまとの出会いです。イエスに従う者は神の国(統治)を第一に生きるようになり、本物のいのちにあふれて永遠に生きるようになります。

7/16 「百年の計は」 第一コリント3章6〜15節 小林泰輔師

  •  清和キリスト教会創立99周年おめでとうございます。このようなときに「これから先も100周年、200周年まで、教会が栄えますように」などという祝辞が述べられることがありますが、その前に再臨が来ることをまずは切に望むものであります。けれども、主が来られるのはいつかは誰も知ることがありません。来年かもしれないし、本当に百年以上後かもしれません。ですから、長期的な展望を持つことは大事です。再臨は近いという切望とまた危機感は持ちつつも、今、地上に置かれている教会として出来ることは何かを祈らなければなりません。
     『百年の計は人を植うるにあり』とは、中国の思想家の言葉からくる古事成語です。一年先のためなら穀物を、十年先のためなら樹木を、そして百年先のためを考えるなら人を育てなさいということです。樹齢百千年の大樹もありますが、それらを育てられるのは神さまです。「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(7節)。人は植え、水を遣ることぐらいしかできません。この教会のひとりひとりも、そして信仰共同体としての教会も、神さまによって育てられていきます。また反対のことを言えば、植えたり、水を遣ることによって神さまのお手伝いをすることはできるのです。
     イエスさまがもう一度来られる時、世の終わり、また再臨の時については、目安が書かれています。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ24:14)。再臨を待ち望み、その日に備えるためには、福音を宣べ伝えることです。「宣伝」コマーシャルはありとあらゆる手段でなされますが、それならなおのこと、神の子どもたちは賢くあらゆる手段を用いて福音を宣伝することができます。
     教会にいる子どもたちは、身近な求道者です。また、私たちは子どもたちに、神が唯一であること、力を尽くして主を愛することを教えなければなりません。「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(申命記6:7)と主が命じておられるからです。
     子どもに教えることを通して、大人もともに成長することができます。教会の行う信仰継承・教育や伝道は信者を増やして教会建造物を生き永らえさせるためではなく、再臨に備える道と言うことができます。大人は主を愛し、主とともに生きる喜びを子どもたちに語り聞かせ、神の愛に信頼する姿を見せることで宣伝することができます。全身全霊を用いていただき福音を宣べ伝えましょう。

7/9 「愛と尊敬と、」 サムエル記第一18章1-12節 森田学師

  •  神の愛で愛し合うダビデとヨナタンの心は信仰の友として結ばれ(=同盟・束ねる)、相手を高め、自分の所持する善いものを与えます。一方サウルは、自分の地位が脅かされると、ダビデを恐れ怒りで心が一杯です。自分よりも認められている人が身近にいると“なんであいつが”と思ったり、逆に、何だお前は目障りだと迫害されることもあります。人を羨ましがる時、①自己卑下・卑屈=嫉(そね)みが生まれ、②相手への憎悪=妬(ねた)みが生まれ、③大切なものを奪われてたまるか!=嫉妬という恐怖心に支配されます。『人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。』とある通りです。【箴言29:25】
     サウルに足りなかったのは、神に愛されているという確信です。罪を告白し、神に悔い改めても、未だ私には○○が無いと嘆くのは、神の愛で自分を愛せていないためなのです。でも、思い出してください。『わたしの恵みはあなたに対して充分である。』とイエスは言われます。 五感や手足指…ばかりか、働く力、考える脳、学ぶと養われる知識、鍛錬すると成長する筋肉、磨くと輝く技術、感動する心、何もかも神が私たちを愛し創られたとき、プレゼントされたものです。私たちにあるもので、当たり前のものなど何一つないのです。何より、人には解決できない罪という病から生まれる死の呪いを、イエスは十字架で身代わりに命を捨てて背負い解放してくださった、その救いの恵みと、あなたは高価で尊いと言われる神の愛を受けているのです。
     サウルは既に王座から退けられていましたが、それでも神の愛をスルーしなかったのなら、人への恐れ・嫉妬・承認欲求、そのような罪から解放され、自分より若く活躍しているダビデを尊敬し、ああ、神はダビデを愛して祝福していると気付かされたことでしょう。『兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。』本当の愛は、尊敬とセットであると神は言われます。
     隣人を自分よりもすぐれたものとして心から見ることが出来るかどうか…、サウルにもう一つ足りなかったのは、相手への尊敬です。頭の中で、なんであの人が…と、つぶやくことがあるかもしれませんが、神はそんな私たちの弱さを知った上で、嫉妬から離れ、神の愛に生きようと、イエスは今日も私たちを応援してくれています。イエスの十字架の愛が今も私たちを包み、生かされていることを感謝し、嫉妬ではなく、隣人を愛し尊敬することを選び取ることを、聖霊にすがりながらお互いに求めて参りましょう。

7/2 「立ち直れ、何度でも」 ルカ22章31-34、54-62節 小林泰輔師

  •  イスカリオテのユダの裏切りに続いて、筆頭弟子のペテロの裏切りを見ていきます。サタンはペテロを誘惑する(ふるいにかける)にあたって神さまの許可を得たようです。悪魔といえど、神さまの許しなしには何もできないことがわかります(ヨブ記参照)。なぜ神さまはそのような悪魔のしわざをやめさせてくれないのでしょうか。答えはわかりません。
     ペテロ自身も自分がまさまイエスさまを裏切ることになろうとは思っていませんでした。自信満々にイエスさまにどこまでも従うつもりと答えます。事実、イエスさまと一緒に抵抗して戦って死ぬつもりだったのでしょうか、捕らえに来た兵士に撃ちかかりました。けれどもイエスさまに制止されると、ペテロはどうやってイエスさまへの忠誠を示せば良いかわからなくなりました。神殿やローマの権威に抵抗する英雄的死なら受け入れたかもしれません。けれどもイエスさまのように何も抵抗せずに処刑されることには従えなかったのでしょうか。イエスさまが語られた隣人を愛する神の愛をどのように表すかがわからなかったのです。自分は兵士に撃ちかかった前科があるので、面が割れています。こっそりイエスさまの様子を見についていきますが、弟子の一味であることを指摘されるとイエスさまを三度否みました。鶏が鳴いたその時、ペテロイエスさまの予告を思い出して大泣きしました。
     イエスさまを裏切ったのは、ユダヤペテロだけではありません。他の弟子たちも散り散りになったのです。十字架の最後まで見届けたのは女性の弟子たちとヨハネだけだったようです。私たちもその時代、その場所にいたらどうだったでしょうか。そして、今はどうでしょうか。イエスさまが十字架にかからなければ救われないほどの罪深い私たちです。
     ペテロはその後どうなったかは福音書の続きや使徒の働きに書かれていますが、イエスさまの予告と祈りの通りに立ち直ったのです。そして兄弟たちを力づけ助ける人に変えられたのです。ペテロの裏切りはペテロにとっては“黒歴史”ですが、聖書はそれを正面から描くのです。偉大な使徒でも王でも罪や失敗を聖書は隠しません。そのことによって、それでも立ち直らせてくださる神の愛とあわれみ、聖霊の力に目が向けられます。私たちも罪を犯します。何度も失敗します。そのたびに私たちの目の前にイエスさまの十字架が立ち上ってくるのです。何度でも立ち直れる力を、主からいただくことができ、そして兄弟を力付けることもできるのです。

6/25 「バベルの塔」 創世記11章1〜9節 小林泰輔師

  •  ノアの方舟の時代から、時は経ち、地に人々が増え始めました。この頃、人々は一つの言語を話していました。そして画期的な発明がありました。煉瓦と瀝青(アスファルト)です。それらを使うと頑丈でどこまでも高い建物を建てられることを発見したのです。技術の進歩や向上心を否定するわけではありませんが、本人たちも気付かぬうちにか、神に近づくことができると思い上がってしまったのです。サタンは元々御使いでしたが、神の位置にまで高みに近づこうとして堕落したのです。
     神は、地上の人々を見られてご決断なさいました。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」(6、7節)
     人々の言葉はそれで通じなくなり、バラバラの多言語となった彼らはそれぞれに別の地域に広がっていきました。ヘブライ語「バラル」は混乱するの意です。またの呼び名をバベルあるいはバビロンというので、この地はバベルと呼ばれるようになりました。結果的には、産めよ。増えよ。地を満たせ。という神のみこころの通りに、世界のすみずみまで人々が満ちていくようになっていったのです。
     「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる。」(ペテロの手紙第一5:5)人々が散らされたのは、人々が高ぶったからでした。
     先の6、7節のみことばは、今やイエス・キリストの贖いと聖霊の注ぎによって回復されようとしています。伏線回収のように、一つの神の民となり、言語こそ違えど、信仰による一致によって、神の栄光を表すためには不可能なことは何もないようになったのではないでしょうか。へりくだって神の栄光を求めていくなら、一つの信仰、一つのバプテスマ、一つの聖餐によって、神の御国をどこまででも広めていくことができるのです。技術の進歩も向上心も自己実現のために用いるのではなく、神の御国の実現のために用いていくなら、神さまは喜んで恵みを与えてくださるでしょう。

6/18 「弟子たちの裏切り」 ルカの福音書22章1〜6節 小林泰輔師

  •  22章では、二人の弟子の裏切りを描いています。イスカリオテのユダとペテロです。今回はイスカリオテのユダの裏切りについてみていきます。
     ユダは元々イエスさまによって特別に選ばれた、12人の弟子の一人でした。イエスさまは決してエリートを選り好みしたわけではありませんでしたが(むしろその逆)、選ばれるだけの信仰の熱量や器量があったことは想像できます。ユダは弟子の一団の財務管理を任されていたようです。私たちも信頼のおける人でなければお金を預けるようなことはしないでしょう。それなりに信用信頼されていたと思われます。ただし、信頼に反して預かっていたものを着服していたようです(ヨハネ12:6)。
     今朝のところでは、そのユダに「サタンが入った」とあります。サタンは悪魔であり告発者です。ユダに入ったサタンがどのような方法でイエスさまを裏切るように仕向けたのかは書いてありません。歴史上、いろんな人がユダの裏切りのミステリーを解明しようと試みましたが、答えはわかりません。
     「イスカリオテ」とは「ケリヨテの人」という意味と思われます。そこがどこかは判明しておりませんが、イスラエル南部ではないかと言われています。他の多くの弟子たちやイエスさまの出身であるガリラヤとは別地方ですから、異質な存在であったかもしれません。他にも「シカリ派(暗殺者集団)」説や「スカル人(サマリヤ人)」説などもあります。熱心党員だったのでは?という説もあります。
     ユダはイエスさまが政治的、軍事的メシアとして立ち上がるため、それを焚き付けるために、業を煮やす思いから祭司長に逮捕を持ちかけたのではないかという説がありますが、それも真相はわかりません。銀貨30枚でイエスさまを売り渡しました。日雇いの賃金、または奴隷一人を贖うための料金などとも言われます。お金欲しさだったのかは分かりません。マタイが描くユダは、自分の行動を激しく後悔し、祭司のところに戻っています(ヨハネの描くユダは完全に悪人のよう)。自分の過ちを告白するユダに祭司長カヤパがかけた言葉は「知ったことか。自分で始末することだ」(マタイ27:4)でした。絶望しかありません。ユダはその言葉通り、自分の命を絶ってしまいます。真の永遠の大祭司イエスさまは決してそのようなことは言いません。ペテロの裏切りのために祈ったイエスさまは、ユダのためにも祈ってくださったでしょう。そして、この私の罪の裏切りのためにも祈ってくださるのです。悔い改めて、主の赦しを得て立ち上がりましょう。何度でも。

6/11 「取るに足らない者を用いられる神」 第一サムエル記17章1〜11節 森田学師

  • ★神の計画に無駄はない★
     生きていると、自分なんている意味があるのか、今していることに意味があるのか、悩み苦しむことがあります。末っ子なのに、ダビデは家族から存在を忘れられ、取るに足らない者として扱われます。人知れず羊を飼っていたダビデは、父に使いっパシリを頼まれ、兄たちのいる戦場に図らずもやって来ます。(17、18節)兵糧のあるはずの陣営に、弁当を運ぶ意味があるのだろうか?と思うかもしれません。ところが、私たちの目に無意味と思うことが、実は、神にとって重要な意味があるのです。その時、巨人ゴリヤテは凄まじい圧力で神の民をけなし続け、誰もが怯え、逃げてしまいます。そんなイスラエルのピンチに、神が遣わされたのは、誰からも見向きもされなかった少年ダビデです。パシリには、ちゃんと神様の偉大なご計画があり、確かな意味があったのです。
    ★救いは主のもの★
     兄エリアブは、堂々としているダビデに怒鳴り散らし(28節)、周りの大人たちまでもがダビデをうざがるので、ダビデの存在がサウルの耳に入ります。勇気を神様からいただいたダビデが、一歩を踏み出そうとしたときに、神様は次々と道を整えていかれることを、私たちは知ります。神様と二人きりで誠実にしてきた仕事、自分から望んだわけではなかった羊飼の経験が、神様の栄光のために用いられるのです。(34節)自分の経験、特技や賜物を誇るのではなく、目の前の巨人ゴリヤテでもなく、それらを超えて救われる神様に目を上げ頼る信仰告白こそ、私たちの力です。(37節)この神様への信頼は、私たちに神の愛を柔らかく染み込ませ、恐れを沈め、落ち着いた心で神の助けを受け取らせてくださり、たった一つの石ころで巨人ゴリヤテを撃退します。
    ★神を愛する時、すべては益となる★
     日々の生活の中で、理不尽な苦しみがあるのは、私たちが神様の愛する子どもとされているからであります。(ペテロ①2:20、21)私たちはダビデではないですし、ダビデにはなれませんが、神様は私たち一人ひとりをいつも必要とされています。私たちを見捨てない神様への信頼によって、今ある目の前の巨人ゴリヤテに立ち向かうなら、神様は必ず勝利を与えてくださいます。(ヨハネ16:33)そして、いつも後から気付かされるのです。誰からも必要とされていない、していることの意味がわからない、そう感じる時を過ごしたことは、神様の栄光のための備えであったことを。(ロマ8:28)

6/4 「三つで一人の神」 第二コリント13章13節 小林泰輔師

  •  聖書の神さまは三位一体の神と言われますが、その言葉自体は聖書の中にあるわけではありません。しかし、神が三つの位格を持ちつつ唯おひとりの神であることは、聖書が証ししていることです。三位一体とはどういうことなのか、聖書から見てまいりましょう。
     「三位一体の盾」という有名な図式があります。父と御子はイコールではなく、御子と聖霊、聖霊と父もそれぞれ別の位格です。しかし、父も御子も聖霊も神であられます。一人の神の中の三つの位格がその時々に応じて使い分けられるのではありません(様態論の否定)。けれども神が三人おられるわけでもありません(三神論の否定)。これは、私たちには理解しきれないことであります。もし神をすべて理解することができるのなら、神は人間にも作れることになります。神は捉えきれないほどに大きいのです。
     三つの位格を持つ神さまは、交わる神さまです。御父は御子を愛し、御子は御父と祈りのうちに親しく語り、聖霊は御子を証しします(ルカ3:22ほか)。私たちは互いに愛し合う三位一体の神の交わりの中に招かれているのです。そのように神と交わることが礼拝の本質です。父を礼拝する真の礼拝者は真理(イエス)と御霊によって礼拝するとある通りです(ヨハネ4:23,24)。
     御父は「年を経た方」という聖書の記述から老人の姿で描かれることがあります。御子は人々の前に見える形で来られました。聖霊は鳩のようであったり、炎のような分かれた舌のような、さまざまな形で臨在されました。聖霊は私たちが使役できるような「力」ではありません。位格であり、「お方」です。聖霊によって私たちは自らの罪深さを知り、救い主がイエスさまであることを知るのです。聖霊は求める者には誰にでも与えられ、内側に住んでくださいます。
     三位一体は一体全体どういうことなのか。正解は「よくわからない」です。聖書に書いてある範囲でしか捉えることができませんが、それでも私たちに愛と希望を与えるには十分です。神についての議論に拘泥すると教会の交わりは冷たいものになります。生きて私たちとともにおられる神の体温を感じられるような教会でありたいものです。

5/28 「新しいぶどう酒」 第二コリント5章17節 小林泰輔師

  •  2023年度標語聖句は「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」(ルカの福音書5章38節)です。イエスさまの語られたたとえ話で、新しいぶどう酒は発酵して膨らむので、伸縮性のない古い皮袋に入れると、皮袋を裂いてしまうというのです。ですから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないのです。これはたとえですから、新しいぶどう酒とは何のことかということです。新しいぶどう酒とは、主が私たちに注いでくださる聖霊のことであり、聖霊に導かれて生きる生き方です。古いぶどう酒(古い生き方)は自分のために生きるのです(IIコリント5:15)。
     ペンテコステに注がれた聖霊は、弟子たちを新しく造り変え、臆病な者だったのが大胆にみことばを語る者へと変えられました。そのために三千人の人が洗礼を受けて救われ、世界で最初のキリスト教会が誕生しました。
     「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント5:17)。聖霊の注ぎを受けた私たちは、一人一人の内側から聖霊の愛が、きよさが、湧き出る者となります。私たち自身の生き方や考え方が古いまま(自己中心的)だと聖霊が十分に働くことができません。古い自分を捨て、神さまが注いでくださる聖霊により、新しく造り変えていただきましょう。
     また、内からあふれる聖霊は私たち個人の中でとどまるものではなく、生ける水の川となって流れていくものです。私たち自身の中で救いの恵みの実が熟成され、香りの良いぶどう酒のようになって、世の人々をキリストのもとへと導き、神の恵みにより楽しませ喜ばせることができるのです。聖霊はそのために私たちのうちに、愛と喜びと平安、御霊の実を実らせてくださいます。教会が新しい皮袋になって、聖霊のなさる新しいみわざを柔軟に行えるように、古い自分を捨て、聖霊の注がれることを待ち望み、備えていきましょう。

5/21 「天と地はひとつに」 ヘブル人への手紙12章1〜3節 小林泰輔師

  •  今日は召天者記念主日礼拝です。今年から、召天者の写真を掲示することにしました。今朝のみことばにあるように、「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と、旧約の族長たちのみならず、私たちの愛する兄弟姉妹もともに、私たちを取り巻き、ともに主を礼拝していることを想起するためです。
    ★母は今どこにいるのか
     召天された方々は今どこにおられるのでしょうか。お墓や納骨堂の中に遺骨はありますが、そこにいるわけではありません。目には見えないけれども私たちのそばにいるというわけでもなく(「雲のように取り巻いている」は比喩かと思われる)、意外かもしれませんが、天国にいるのでもありません。天国は来つつあるけれどもまだ完成していないからです。天国は行くのではなくて、天国は来るのです。やがて天と地がひとつになる日が来るのです。聖書のさまざまな箇所を見ていくと、眠っている(一時的に)という表現があったり、「よみ」というところなのか、イエスさまは「パラダイス(園)」という言葉を使われたこともあり、譬え話では「アブラハムの懐」という場所も出てきます。天でも地でもない、ここではないどこか、中間の状態があるようです。
    ★イエスは今どこにいるのか
     イエスさまは今どこにおられるのでしょうか。目には見えないけれども私たちのそばにいる、それは御霊によって臨在されるイエスさまです。イエスさまは十字架で死んで葬られ、三日目にからだをもってよみがえられました。そして40日後にそのからだのまま天に昇られました。人間の姿でこの地に来られ、神の姿に戻ったのではなく、人間のからだ(ただしそれは私たちの体とも違う)で天に昇られたのです。また、天とは、空の上にあるのではなく、それもまた、ここではないどこかです。そしてそこで父なる「神の右に着座されたのです」。
    ★イエスはもう一度来られる
     そしてイエスさまはもう一度来られるのです。天に昇られた時と同じ人間の姿で、栄光に輝くからだと、真の王の姿で来られるのです。その時、天と地は新しくひとつになり、イエスさまと共に新天新地が現れるのです。そしてまた、ここではないどこかで眠っている私たちの母や父はイエスさまと同じ栄光のからだを与えられて、イエスさまとともに神の国を治めるようになるのです。これが御国が来るということです。そのことを信じて母や父は信仰の馳場を駆け抜けました。私たちもその日が来るまで忍耐を持って走り続けようではありませんか。

5/14 「目よりも心を見てくださる神」 サムエル記第一16章1〜13節 森田学師

  • ★神の配慮、言わない知恵★
     主なる神ご自身のために見出された王・ダビデ。神を退ける民のわがままをあえて許容され選ばれた王・サウル。ある意味サウルは犠牲者だったとも言えます。それはそうと、サウルの心は神から離れ不安定です。そんなサウルに、新しい王を迎えに…なんて言った日には殺されると、恐れるサムエルに、神は新たな知恵を授けます。つい恐れるな!と言ってしまいがちですが、信仰は方程式ではありません。瞬間瞬間の神さまとその人との生きた交わりによって新たに導かれ続けることが大事です。相手の心を十分知らずに、無慈悲なことを言う私とは違い、神は、サムエルの心に寄り添い、脆いサウルの心にも配慮し、神経を逆なでることはなさらないのです。正直に言わないことは、嘘ではなく、神の愛の配慮です。この神の知恵は、さらにダビデの父エッサイとその息子たちを招くにも最善でした。なんでもかんでも正直に言う事よりも、神の願いに従う事が私たちの祝福なのです。神はいつも、私たちに最善をしてあげたいと願われているからです。
    ★目を見る人間、心を見る神★
     ダビデを見出した神は言われます。『人はうわべを見るが、主は心を見る。」』(7節)神が言われる人の価値は『高価で尊い』と変わらないのに、私たち人間は、見た目の受ける印象や感覚で、その人の人格を思い描き、うわべでその人の価値を見積もってしまいます。直訳では、“人は目を見る”と言われています。なるほど、ことわざには「目は口ほどに物を言う」とあり、また目は嘘をつかないと人は言います。あるいは、相手の目を見て何かを読み取ることもあるかもしれません。しかし、心と心が触れ合うまで真意は分りません。私たちは神ではないからです。神は、私たちが相手の目を見て、相手の心をまるで把握したかのように、高ぶることがないように、そう教えておられます。
    ★心と心の交わりを大切に★
     全知全能の神でさえ、私たちのうわべや目を見て判断はされません。心に直接触れて知ってくださるお方です。私たちも神に祈るとき、私の目を見れば何も言わなくてもわかるでしょう?とは言いません。そんな私たちが、人に“話さなくても目を見ればわかる”と思うことは、傲慢でしかありません。私たちの常識を超えて働かれる神の謙遜と柔和な心を養われていきたいと願います。目を見て語り合い、心と心の交わりの中にこそ、神さまの愛がより鮮やかに現われ働かれると信じます。日々出会う人と人との交わりが、神の愛の心で導かれ、神の素晴らしさが証しされますように、ともに祝福をお祈りしてまいりましょう。

5/7 「ときのしるし」 ルカの福音書21章5〜36節 小林泰輔師

  •  立派なエルサレム神殿(ヘロデが建てた第二神殿)を見た人々が感嘆していると、イエスさまが神殿の崩壊をほのめかすようなことを言われました。神の臨在を象徴する神殿が崩壊するとは、世界の終わりのように人々には感じられたかもしれません。そのようなことが起こるとはにわかには信じ難い人々は、いつそのようなことが起こるのか、そのときのしるしはどのようなものかを尋ねました。
     それらは、にせキリストの登場と惑わし(8節)、戦争や暴動のうわさ(9節)、地震や飢饉や疫病(10節)、迫害(11節)などです。「それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないから」(9節)恐れる必要はありませんと言われました。たしかにこれらは歴史上、幾度も繰り返されてきたことで、現在もあることです。とは言え、どれも私たちにとって嬉しいことではなく、苦しみを伴うものです。マタイの福音書24:8では「これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言われました。産みの苦しみの次に待っているのは、新しい命の誕生の喜びです。また、これらのときのしるしを、いちじくの木やすべての木にたとえて言われました。いちじくは実が成り、葉が茂ると、それで夏が近いことが分かると言います。同じようにこれらのしるしが過ぎ去ったら、神の国が近いのです。
     イエスさまの約束のみことばに聞きましょう。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません」(18節)。その前の文脈では迫害で命を落とす者もいるとのことですから、これは神の前にあるあなたの永遠のいのちには誰も手出しができないということです。そして「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(33節)。神のことばによって約束されたことは決して違えることはないのです。いよいよというときのしるしは、「天のもろもろの力が揺り動かされる」(26節)ような天変地異でしょうか。そしてそのとき人の子イエスさまが雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ると言います(27節)。
     そのときまでどのように過ごすか。これはすべてのみことばに対する応答として共通です。聖書を読み、神のみこころとご計画を知ったなら、そのときまでどのように過ごすのかが問われるのです。その日は盗人のように突然来ます。いつ来てもよいように、放蕩に耽ったり、思い煩いで信仰を失うようなことがないように、いつも目を覚まして祈り、待ち望みましょう。

4/30 「天に昇ったイエス様」 使徒の働き1章3〜14節 小林泰輔師

  •  一度は絶望してしまった弟子たちですが、復活のイエスさまに出会って希望を取り戻しました。その希望は、メシアとしてイスラエル国を復興してくださるのではないかというものでした(6節)。しかし、イエスさまはそのことには言及されず、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け…わたしの証人となります。」(8節)と語られました。聖霊で心が満たされること(聖霊のバプテスマ)と、その結果、イエスさまの復活の証人となることが約束されたのです。
    そう言ってからイエスさまは弟子たちの見ている前で天に昇って行かれました。あまりに不思議な厳かな光景に言葉を失い突っ立っていると、白い衣を着た人が二人そばに立ち、イエスさまは「同じ有様で、またおいでになります」と告げられました。
     そこで使徒たちや他の弟子たちはエルサレムのとある家の上の階にみな集まり、熱心にイエスさまの約束のときがくるのを待ちました。御使いが言われたように、イエスさまがもう一度来ることを待っていたのか、イエスさまが言われたのように聖霊が降るのを待っていたのか、とにかく、神さまの御心が成るのをひたすら祈って待っていたのではないでしょうか。
     イエスさまはどうして天に昇る必要があったのでしょうか。イエスさまは今、雲の上に、宇宙にいるのでしょうか。そうではありません。弟子たちの前から見えなくなるということが必要だったのです。目には見えないけれども今生きているイエスさま、イエスの御霊を信じる必要があるからです。それからは、御霊とともに歩むことになるからです。そして、イエスさまが命じられたように聖霊を待ち望み、聖霊に満たされて、イエスさまの証人としての働きをする必要がありました。イエスさまの証人となるということでは、自分の力だけではできないことです。聖霊によるのでなければ誰もイエスを主と呼ぶことはできません。説得力のある話や親切な取り扱いだけで人が救われるのではなく、聖霊が臨むときに受ける力が必要なのです。
     弟子たちは、イエスさまの昇天を見せられることによって、主はまたもう一度来られるということを強烈に覚えさせられました。それは神にしか成し得ないことです。そして主イエスは神であり、この天と地を作り変えて、新しい天と地をもたらしてくださるということを弟子たちは信じて宣べ伝え、主の証し人となりました。
     私たちも聖書を通して、また歴代の証人たちの証しを通して、この信仰を受け継いでいます。主が来られる日まで私たちも証し人として、聖霊に導かれて歩んでまいりましょう。

4/23 「献金について」 ルカの福音書21章1〜4節,第二コリント9章6〜15節 小林泰輔師

  •  イエスさまは人々が献金箱にお金を投げ入れるのを眺めていました。金持ちたちが大金を入れる一方、とあるやもめの女性がレプタ銅貨二枚を投げ入れました。それはとても小さな額でしたが、しかし、その人の全財産でした。イエスさまはその人の行動とその背後にある信仰を認められました。2017年訳では彼女は「持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と訳され、彼女のしたことの尊さがよくわかるようになりました。献金は額の大小にかかわらず、自分自身(心、人生、献身)をささげることにこそ、神の喜びがあるのだということを教えられます。
     あの事件以来、宗教団体において“すべてをささげる”ということはデリケートなテーマになりました。十分の一献金という教会のよき慣習と伝統もあまり歓迎されなくなってきた感もあります。こういう時代だからこそ、献金について、聖書的に考えていきましょう。
     献金は喜びであり祝福を伴うものです。ささげることができる何かが与えられているということが感謝であり、祝福です。力をささげ、時間をささげ、金銭をささげ、生きる手立てのすべてをささげて、神の栄光を表していくことが喜びです。神さまもまた、私たちのささげものを喜んで受けてくださり、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。神を喜び、神に喜ばれる、愛の交わりなのです。
     十分の一献金はマラキ書3章10節で勧められています。最初の十分の一のささげものは、律法や戒律ではなく、アブラムがサレムの王メルキゼデク(天的な存在を思わせる不思議な人物、創世記14:18-20)に贈った贈り物でした。
     贖いの代価はイエス・キリストの十字架ですべて支払われたので、私たちが何か義務的に支払うべきものもありません。十分の一はあくまでも目安であり、縛られるべき義務ではありません。また十分の一は神のもので、十分の九は私のものというわけでもありません。十分の十が神さまのものです。私たちは神さまのタラントをお預かりしているにすぎないのです。
     イエスさまご自身が、律法学者やパリサイ人が偽善的、義務的、形式的に十分の一のささげものをしているのを戒めながらも、「十分の一もおろそかにしてはいけない」(マタイ23:23)と言っておられます。
     大切なのはどこまでいってもいつの時代でも神さまを愛する心です。「いやいやながら…強いられて」なら、しないほうがましです。「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリ9:7)。

4/16 「アーメン」 サムエル記第一15章1〜12節 森田学師

  •  あわれみ深い神は、失敗したサウルに、関係をやり直そうと声をかけます。『今、主の言われることを聞きなさい。』(15:1)サウルの信仰を育もうと、神はサウルを試されます。
     信仰とは、“神はよいお方であると信頼し疑わないこと”と言えます。神が言われることは、私が良いと思うことよりも確かで、間違いがありません、従います。アーメン。そう神の言葉に生きるとき、神に栄光を帰すことになるのです。
     神はサウルに、アマレク人とその家畜を聖絶(完全に神のものとして捧げ尽くす/呪われたものとして分離)せよと言われます。かつてアマレク人は、エジプトから脱出し長旅で疲れ果て倒れたイスラエル人を、後ろから襲って殺したのです。男も女も、年配者も幼子までも。その時、神は、アマレクの記憶を天の下から消し去ると、重ねて預言されました。あわれみ深く怒るのに遅い神ではありますが、神の定めたルールから意図的に外れ続け(=罪を犯し続け)、さらに他人を巻き込んで悪に陥れるアマレク人を、聖絶せよと言われます。厳かな命令ですが、この世の終わりのときには、イエスを信じる者と信じない者とを完全に分けられる、主なる神の姿を見ます。
     神のことばを聞いたサウルは、アーメンと神に従ったように思われましたが、『ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶』します。(15:9)サウルは自分にとって良いと思うこと(最上級のささげ物を神へささげること)を優先させて、神の望まれていたことを無視してしまいます。加えて、民のことも思わず、自分の名誉のために生きることをサウルは選びます。そのために嘘に嘘を重ね、失敗を他人のせいにする。私たちも陥りやすい罪であります。
    神は何度もサウルをあわれんで、正直に罪を告白することを待たれるのですが、残念ながらサウルは神に従えなかったことを隠し、神に向き直(悔い改め)る気がなく、無関心です。ついに神は、これ以上サウルが罪に罪を重ねて責任ある立場ゆえの悪い影響が周りへ溢れないように、あわれまれて、サウルを王位から退けられます。
     『「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』(15:22)
     私たちは、自分の思い描くよいこと、それ以上に神がよいお方であると信頼する者とさせていただきましょう。神の言われることにアーメンと、信頼して歩むとき、その遣わされているところで、ああやっぱりこの神は本当にすばらしいと、聖霊が私たちを通して証ししてくださいます。

4/9 「復活」 ルカの福音書24章1〜12節 小林泰輔師

  •  十字架から三日目の朝早く、女弟子たちはイエスが葬られた墓に急ぎました。慣習に従って香油を塗るなどの葬りの儀式をするためです。十字架にかけられたのが金曜日でその日没から安息日に入るため、ちゃんとした葬りの儀式をできなかったので、改めて週が明けた日曜に墓に向かったのです。女弟子たちは十字架でイエスさまがお苦しみのときもそばで見ていたし、こうして墓に葬られるまでずっと見守っていました。イエスさまをとても愛していたのですね。
     けれども、イエスさまは前もってわたしは「三日目によみがえらなければならない」(9:22)と言っておられました。その言葉をそのまま信じていたならば葬りの儀式は不要のはずです。女性たちはイエスさまへの愛着はありましたが、みことばへの信仰という面では男の弟子たちと同じく、不信仰だったとも言えます。(パリサイ人や律法学者の方が、イエスさまの遺体がなくなったことに狼狽えて、弟子たちが盗んだという嘘の情報を流させています。皮肉なことに彼らの方が復活を理解し恐れていたのです。)
     女の人たちは、墓に到着すると、墓の封印が解かれ、蓋の石が転がされているのに驚きました。中を覗いて見ると、イエスさまのお体がありません。そこへ御使いが現れ、イエスさまの復活を告げます。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」(8節)ので、復活を事実として受け入れる信仰に目覚めました。しかし、男の弟子たちはその報告を受けても「たわごと」として取り合わずにいました。ペテロは直接墓に走って行き、空の墓を見ますが、ただ驚くだけで信じるには至りませんでした(12節)。
     「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。イエスはよみがえられた!この知らせが新約聖書の中核をなすものです。そしてキリストを死者の中からよみがえらせた神は生きておられる!その全能の神が私たちを愛し、私たちのために救いの道を用意してくださいました。それがイエスさまの十字架と復活です。そしてイエスさまはもう一度来られるときに、ご自分の御国を実現させてくださるのです。聖書はそのことの前もっての「告知」です。信じなければ神の国に入ることはできません。信仰を呼び覚ますイエスの御霊の声に聞き、信じて神の国に入りましょう。

4/2 「裸の王様」 ルカの福音書23章32〜38節 小林泰輔師

  •  先日行われた中高生キャンプのテーマが「裸の王に俺はなる!」というものでした。人気漫画『ワンピース』の主人公ルフィのセリフ「海賊王に俺はなる!」をもじったものでしょう。けれども、「裸の王」と言うと、童話『裸の王様』も思い出されますし、キャンプ委員会の意図や如何に?と思いつつ参加しました。講師のメッセージによりわかったことは、裸の王とは、イエスさまの十字架のお姿のことでした。
     十字架の凄まじい痛みと苦しみについては何度も説教などで聞かされたことですが、その恥辱と汚れについても解き明かされました。文字通りに全裸で、そして「これはユダヤ人の王」という罪状にて十字架にかけられたのです。私たちの受けるべき痛みと苦しみを身代わりに背負い、罪のないきよい神の御子が、私たちの罪の汚辱にまみれた姿で十字架にかけられたのです。
     そのような中でイエスさまが発せられたみことばの一つは「父よ、彼らをお赦しください」でした。自分を苦しめ痛めつけ辱めた人々のために、その罪の赦しを祈られたのです。なんという愛でしょうか。そのような神がほかにあるでしょうか。このことを初めて聞いたとき私は驚愕しました。そしてその時からイエスさまは私のヒーローになりました。
     また、「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」とも言われました。裸の王様は自分がどんなに愚かなことをしているか分かっていない、それでいて自分は賢いと思っている、そんな滑稽な姿を描いた物語です。同じ時に十字架にかけられた強盗の一人はイエスさまを罵りました。まさにそこに神への叛逆を罪と思わない罪人である私たちの姿があります。
     イエスさまの十字架の愛に感動し、罪を悔い改めて、洗礼を受けた高校生の頃の私ですが、神の御子が死ななければならないほどに人間の罪は重いのだと観念的に理解しただけで、他の誰でもない自分自身の本当の愚かさ、醜さ、罪深さが身に染みてわかったのはそれから先のことでした。この私のためにこそイエスさまは十字架で死なれたのです。裸の王様のような私のために身代わりとなられ、罪なきイエスさまが罪の汚れと、神のさばきである十字架の痛みと苦しみを引き受けてくださったのです。まことの王であり、神である主イエスの愛に感謝して、悔い改め、神のもとへ立ち返りましょう。

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「献金について」 ルカの福音書21章1〜4節 第二コリント9章6〜15節 小林泰輔師