3/29 「キリストの弟子」 マタイの福音書 28章19節 小林泰輔師
- 新年度を迎え、私たちの教会も新しい体制へと移行しようとしています。今年度の教会の標語は「キリストの弟子」です。今、日本のキリスト教界は高齢化と牧師の深刻な不足による「2030年問題」に直面しています。私たちがこれから取り組むべきは、単なる体制の穴埋めではなく、これからの教会が生き残るための意識改革であり、根本的なブレイクスルーです。
極端に聞こえるかもしれませんが、「教会という組織や建物は終わってもいい」と私は思っています。私たちの目的は組織や建物の維持ではなく、その教会が「新しいいのち(生き生きとした信仰)」を生み出せるかどうかにあります。それこそが、教会に使命があるかどうかの分岐点なのです。
教会の働きをいかに牧師に依存してしまっているかという課題があります。しかし、牧師ならではの使命は、すべての信徒を整えて、それぞれの奉仕の働きをさせることです(エペソ4章11-12節)。教会は皆で共に建て上げていくものであり、牧師が複数兼牧していても揺るがない教会へと変わっていかなければなりません。新しいことをするには「新しい皮袋」が必要ですが、何より大切なのは、皮袋よりも先に「新しいいのち」を持つことです。
その意識改革の核心は、「キリストのために」から「キリストと共に」という献身へのパラダイムシフトです。「教会のために奉仕を増やす」ことだけが模範とされ、社会で働く人の価値が軽んじられてきた面がありました。しかし、社会で一生懸命に働いている方々もまた、立派に献身しているのです。皆さんは今も毎日献身しています。
「生きることはキリスト」です(ピリピ1章21節)。家事をする時も、会社で働く時も、教会で奉仕する時も、私たちはいつも主と共に働いています。「100%信仰、100%日常」です。信仰と日常を分けることなく、父なる神さまのみこころと一つになり、私たちの全生活を通して「キリストと共に」歩む。この新しく、生き生きとした「いのち」の意識を持って、新体制の今年度を共に歩み出しましょう。
3/22 「偽教師たちにご用心!」 ペテロの手紙第二 2章1〜10節 小林泰輔師
- 情報があふれる現代社会において、何が真実 かを見分けることは非常に難しくなっていま す。今日の聖書箇所でペテロが警告しているの は、教会にひそかに入り込む「偽教師」の存在 です。現代でも、キリスト教の仮面をかぶった 異端や、極端な陰謀論など微妙なラインの教え があふれています。なぜ人はそのような教えに 騙されてしまうのでしょうか。その背景には、 人生におけるコントロール感の欠如や、社会の 中で傷ついた自尊心を満たそうとする「優越 感」があります。多数派が知らない隠された真 実を知っていると思い込むことで、傷ついた心 を守ろうとしているのです。
しかし、イエスさまは「その実によって彼ら を見分ける」と言われました。偽教師の教えの 中心には「貪欲」があり、みことばを自己顕示 や欲求の道具にする「不法」があります。聖書 が語る「不法」とは、神さまの主権を退け、自 分が神さまの座に座ろうとする態度です。
このような情報社会の中で、私たちは情報に 対してすぐに感情的に反応するのではなく、立 ち止まって深く思考し、神さまのみことばに聴 き直す勇気を持つ必要があります。自分の確信 すら疑い、みことばに聴き直すことこそが私た ちを偽りから守るのです。
私たちが最も目を向けるべきは、偽教師の悪 事ではなく、「神さまが何をしてくださった か」という確かなみわざです。神さまは、十字 架の血潮という途方もない代価を払って、私た ちを買い取ってくださいました。世界がどれほ ど不法に満ちていても、神さまはご自分の民を 滅びから救い出し、敬虔な者たちを試練からど のように救い出すかを完全に「心得ておられ る」全能の保護者です。
偽教師の教えは、私たちの信仰をかき乱す 「ノイズ」に過ぎません。聖書が語る本当の知 識とは、単なる情報ではなく、神さまとの深 い、体験的な愛の交わりのことです。偽教師は 私たちを利用したいだけですが、神さまは違い ます。私たちは神さまに買い取られ、完全に知 られ、愛されています。この事実に立ち返り、 ノイズから離れ、私たちを救い出す術を心得て おられる主との深い愛の結びつきの中に留まり 続けましょう。
3/15 「夜が明けるまでは」 ペテロの手紙第二 1章12〜21節 小林泰輔師
- 「世界終末時計」が破滅へのカウントダウンを刻むように、現代社会は暗闇が深まっています。私たちキリスト者は、イエスさまによって「すでに」救われていますが、この世界は「いまだ」完成していない、いわば夜明け前の暗闇の中を生きています。しかし使徒ペテロは、滅びに向かうカウントダウンではなく、「希望の夜明けに向かうカウントダウン」を私たちがどう生きるべきかを力強く語っています。ペテロは自分の死が間近に迫っていることを知りながら、決して恐れていませんでした。彼は自分の肉体を「幕屋(仮住まい)」と呼び、その先にある「永遠の御国に入る恵み」を見据えていたからです。永遠の住まいが用意されているなら、古くなった仮のテントに執着する必要はありません。ペテロは、自分がこの世を去った後も、残される人々が「永遠の御国」という希望をいつでも思い起こせるようにと、命懸けで手紙を書き残しました。私たちの短い地上の生涯は、長く永遠に続く未来の希望を語り継ぐためにあるのです。ペテロは変貌山で、キリストの圧倒的な威光を直接見た真の「目撃者」でした。天の父なる神さまが御子イエスさまに光を当て、「これはわたしの愛する子」と語られたのをその耳で聞きました。イエスさまの初臨という確かな歴史的事実があるからこそ、キリストの再臨と永遠の御国も、決して作り話ではなく、必ず起こる確かな神さまの約束なのです。さらに私たちには、聖霊の導きによって書かれた、完全に信頼できる「預言のみことば」が与えられています。今はまだ、夜明け前の暗い時代です。その中で私たちのなすべきことは「ともしびになること」です。それは、自分自身の輝きを求める自己実現ではありません。神さまの光を反射させて、イエスさまにスポットライトを当て、そのお姿を人々に証ししていくことです。私たち一人ひとりがしっかりとイエスさまに焦点を当て続ければ、それが証しになります。朝日が昇れば、ともしびは必要なくなります。永遠の住まいに行けば、仮庵の幕屋もいりません。しかし、今はまだ夜明け前です。だからこそ、ともしびを絶やさないでください。世の光として来られたイエスさまから目を離さず、みことばの光に示された希望のメッセージを握りしめて、確かな夜明けに向かって共に歩んでまいりましょう。
3/8「流れ出る神の恵みの力!」 マルコの福音書 5章25〜34節 川口竹志師
- マルコの福音書5章には、12年間長血を患い、医者にかかっても治らなかった女性が登場します。彼女は、「あの方の衣にでも触れれば救われる」という、当時の誰にも思いつかないような、素朴で純粋な信仰を持ってイエスさまに近づきました。すると、その瞬間に病が癒やされたのです。
神さまは、私たちが抱くこのような「素朴な信仰」に、今も豊かにこたえてくださる方です。難しく考えず、ただ純粋に信じて神さまに近づくなら、神さまは必ずあなたに寄り添ってくださいます(ヤコブ4:8)。
もう一つ、この出来事で興味深いのは、イエスさまがご自身から力が流れ出たことに「後から気づかれた」という点です。イエスさまはただ歩いておられただけでしたが、信仰をもって触れた女性に対して、無意識のうちに神の力が流れ出ていきました。第一ヨハネ4章17節に、「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです」とあります。また、イエスさまは「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」(ヨハネ14:12)と約束されました。つまり、イエスさまを信じる私たちも、キリストと同じように、無意識であってもただ歩んでいるだけで、神の力が流れ出る存在とされているのです。
「あなたがたは自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(第一コリント3:16)。このみことばの通り、私たちは「歩く神の泉」です。何か特別な働きをしようと気負わなくても、私たちがただ誰かとご飯を食べ、お茶を飲み、共に時間を過ごすだけで、私たちの内側から神のいのちの水が流れ、人が癒やされ、生かされていくのです。
自分の能力や存在を過小評価するのはもったいないことです。あなたが神さまとつながり、ただそこで生きているだけで、必ず神さまは働いてくださいます。この驚くべき特権を素朴に信じ、周りの人へ神の愛を流す者として、今日からまた新たな一歩を踏み出していきましょう。
3/1 「人生を豊かにする信仰」 ペテロの手紙第二1章1〜11節 小林泰輔師
- 私たちの人生を豊かにする信仰とはどのようなものでしょうか。 ペテロの手紙から3つのポイントで見ていきましょう。
第一に、「すべては神から発している」ということです。 世の中の自己啓発は自分の努力から始まりますが、私たちの信仰やいのちは、自分の中から絞り出すものではなく、神さまから一方的に「与えられた」ものです。 古い自分を外側から飾り立てるような偽りの豊かさや、物質的な渇望を手放す「霊的な断捨離」が必要です。 不要なものを手放してできた新しいスペースに、神さまからの良いものが与えられます。 真の豊かさは、すでに神さまから与えられている恵みに気づくことから始まります。
第二に、「神によって成り」です。 世の中の目的は自分の能力を最大化する自己実現ですが、私たちの目的は「神さまのご性質にあずかる者となる」ことです。 私たちは生まれながらに何かが欠乏しており、この世のものを無機質に足し合わせようとすることで不格好な罪人の姿になってしまいます。 しかし信仰から始まるものは違います。 聖霊の働きによって、信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、そして頂点である「愛」へと、内側から美しく神さまの似姿にチューニングされ、整えられていくのです。
第三に、「永遠の御国と、神の栄光に至る」ということです。 世の中の満足は現世の一時的な平穏で完結してしまいます。 しかし、私たちが神さまによって内側から整えられ、召しと選びがはっきりする時、主体的な「あなた自身」がいのちを吹き返して生き始めます。 その行き着く先は「愛」であり、永遠の御国に入る恵みへと続いていくのです。 私たちが豊かにされるのは自己満足のためではなく、最終的に神さまに栄光を帰すためです。
すべては、神から発し、神によって成り、神に至ります。 この尽きることのない、永遠に続く真の豊かさを、今週も味わいながら歩んでまいりましょう。
2/22 「宮きよめ」『成長』より マタイの福音書21章12〜17節 小林泰輔師
- エルサレムに入られたイエスさまが最初に向かわれたのは神殿でした。神殿は本来、神さまを礼拝し、自分の罪を告白してささげ物をする大切な場所です。しかし、お祭りの時期だった神殿で聞こえてきたのは、「ささげ物の鳩はいかがですか」「両替には手数料が必要です」という商売人たちの賑やかな声でした。当時の宗教のリーダーたちは神殿での商売を認め、そこから場所代などの利益を得ていたのです。
これをご覧になったイエスさまは、深く悲しまれました。そして「わたしの家は祈りの家と呼ばれる。それなのに、お前たちはそれを強盗の巣にしている」と厳しく言われ、細縄でむちを作って(ヨハネ2:15に書いてありました)、商売人たちを追い出して宮をきよめられました。
その後、目の見えない人や足の不自由な人たちが集まってくると、イエスさまは彼らを癒やされました。子どもたちはその姿を見て「ダビデの子にホサナ(救い主イエスさま万歳)」と素直に賛美し、イエスさまも彼らの純粋な信仰を喜ばれました。一方で、自分たちの利益や人気を奪われた宗教リーダーたちは腹を立て、イエスさまを捕らえようと企み始めます。
神さまの家は「祈りの家」です。私たちが毎週教会に集うのは、神さまを心から礼拝するためです。今はもう動物のいけにえを用意する必要はありません。イエスさまご自身が身代わりとして十字架にかかり、よみがえってくださったからです。
神さまは、私たちが子どもたちのように素直な心で礼拝をささげることを、とても喜んでくださいます。いつでもそばにいてくださるイエスさまとともに、これからも喜びをもって祈り、心からの礼拝をささげ続けていきましょう。
2/15 「わたしの羊を飼いなさい」 ペテロの手紙第一5章1〜11節 小林泰輔師
- ペテロの手紙第一の締めくくりとして「互いに支え合う教会の姿」を学びます。この手紙を書くペテロの脳裏には、ガリラヤ湖畔での鮮烈な記憶があったことでしょう。イエスさまが十字架にかかられる前夜、ペテロは大祭司の庭の「炭火」の前で、主を三度知らないと否認してしまいました。しかし復活の朝、イエスさまは湖畔で「炭火」をおこし、傷ついたペテロを責めることなく「わたしを愛しますか」と三度問いかけられました。三度の裏切りは三度の愛の告白によって上書きされ、ペテロは赦しと「わたしの羊を飼いなさい」という牧会の使命を受け取り直したのです。
それから数十年が経ち、老境に至ったペテロは、苦難の中に散らされている信徒たちに手紙を書き、教会のリーダーである長老たちに、群れを支配するのではなく、自らの弱さを認めてキリストに従う「模範」となるよう勧めました。また教会全体に対しても「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と語ります。教会とは、一部のカリスマ的な指導者が引っ張る組織ではなく、一人ひとりが自分の弱さを認めて他者に身を預け、同時に他者の重みを受け止める相互依存の共同体なのです。
私たちは皆、日々の生活の中で多くの「思い煩い」を抱えています。しかし、ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを顧みて(ケアして)くださるからです」と語ります。ペテロ自身が、霊的挫折状態から、イエスさまの深い愛のケアによって回復させられたからこそ、力強く語れるのです。
「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、今や特別な人だけではなく、私たち一人ひとりへ向けられた牧会の招きでもあります。祈りや励ましの言葉、ただ隣に寄り添うことなど、それぞれの賜物を用いて、お互いにケアし合う愛の「円座」を作ってまいりましょう。神さまはしばらくの苦しみの後で、必ず私たちを回復させ、堅く立たせてくださるのです。
2/8 「みことばの礎の上に」 ルカの福音書6章46〜49節 池淵亮介KGK主事
- イエスさまは「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」と問われました。当時、多くの群衆はイエスさまの奇跡や祝福を求めましたが、人格的にイエスさまに従おうとはしませんでした。
イエスさまは、みことばを聞いて行う人を「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てた人」にたとえられました。イスラエルの土地は乾季、特に干ばつのような時には青銅のように固くなります。その固い地面を岩盤に当たるまで掘り下げる作業は、大変な労力と根気を要します。それはスポーツの基礎練習のように、地道な積み重ねです。
私たちの心もまた、大人になるにつれ、自分の経験や世の価値観で固まってしまいがちです。しかし、みことばを聞くだけで満足し、自分の考えという浅い土台の上に人生を建ててしまうなら、試練という「洪水」が来たときに脆くも崩れ去ってしまいます。かつてイスラエルの民が、神さまの言葉よりも目に見えるエジプトとの同盟を頼みとし、失敗したように、私たちも目に見えるものに頼りがちです。
しかし、神さまはシオンに「礎の石」を据えられました(イザヤ28:16)。この方こそイエス・キリストです。この方に信頼する者は慌てふためくことがありません。 イエスさまは私たちに、何か大きな偉業を求めておられるのではありません。日常の小さな決断、人間関係、お金の使い方、悩みの只中での祈りにおいて、みことばに聴き、一歩ずつ従うことを求めておられます。
固くなった心をみことばによって耕していただきましょう。賢い大工であるイエスさまとともに、揺るがない岩の上に、確かな人生を築き上げていこうではありませんか。
2/1 「真実な創造者にゆだねよ」 ペテロの手紙第一4章12〜19節 小林泰輔師
- 人生には時として、思いがけない「火のような試練」が襲います。しかしペテロは、「驚き怪しんではなりません」と語ります。それは神さまのご計画におけるエラーではなく、私たちを純金のように練りきよめるためのプロセスだからです。
苦しみには、肉の罪によるものと、キリスト者としての苦しみがあります。後者は恥ではありません。私たちがイエスさまに従い、この世に「神の義と愛」という光を持ち込むとき、世の価値観との間に摩擦が生じます。私たちは世の安寧を揺るがす「特異点」であり、愛ある干渉者です。その摩擦による痛みは、私たちが天のいのちを宿し、正常に機能している証拠なのです。
また、「さばきが神の家から始まる」とは、愛する子らを最高傑作にするための神さまの熱心な取り扱いを意味します。「かろうじて(苦労して)救われる」という聖書の言葉には、曲がりくねった私たちを何とかして真っ直ぐにしようとされる、陶器師なる主の深い愛の労苦が込められているように思います。
苦難の中で、無理に笑顔を作る必要はありません。煤(すす)だらけの顔のままで、神さまの御前に出ましょう。私たちの個性、弱さ、目的のすべてを知っておられる「真実な創造者」にたましいをゆだねるのです。礼拝の中で神さまの愛に浸り、恐れが平安へと書き換えられていくとき、私たちの顔は、モーセのように神の栄光を映して輝き始めることでしょう。
1/25 「救われたユダヤ人」 ローマ人への手紙8章28節 小林泰輔師
- エステル記は、聖書の中で唯一「神」という言葉が一度も出てこない不思議な書巻です。しかし、そこには神さまのあざやかなご支配、すなわち「摂理」が力強く描かれています。
物語の舞台はペルシア帝国です。ユダヤ人の絶滅を企むハマンの悪巧みにより、民は絶体絶命の危機に瀕しました。しかし、神さまは人間の目には「偶然」と見える出来事を紡ぎ合わせ、驚くべき逆転劇を用意しておられました。 孤児であったエステルが王妃とされていたこと、命がけで王の前に進み出た時に金の笏(しゃく)が差し伸べられたこと。すべてが神さまの時の中にありました。エステルの勇気ある行動を通して、ハマンがモルデカイのために用意した処刑台には彼自身が掛かり、ユダヤ人は救われました。悲しみは喜びに変わり、この逆転の勝利が「プリムの祭り」へとつながっています。
エステル記が私たちに教えるのは、たとえ神さまの名前が出てこなくても、神さまは沈黙しておられるわけではないということです。 使徒パウロは「神を愛する人たち……のためには、すべてのことがともに働いて益となる」と語りました。私たちの人生にも、神さまが見えず、ただの偶然の連続のように感じる時があるかもしれません。しかし、神さまは決してあなたを見捨ててはおられません。私たちの理解を越えたところで、最善のご計画を進めておられます。 たとえ今は困難の中にいても、すべての出来事は、あなたが神さまの愛を知り、喜びの人生を送るためのプロセスへとつながっています。見えない神さまを信頼し、今置かれている場所で信仰の一歩を踏み出しましょう。すべてのことが益とされる約束を信じて。
1/18 「終末の大掃除」 ペテロの手紙第一4章1〜11節 小林泰輔師
- 聖書は「万物の終わりが近づいた」と語ります。歴史のクライマックスを前に、私たちは何を整えるべきでしょうか。かつてイスラエルの民が「パン種(罪や古い性質の象徴)」を家から取り除いて祭りを祝ったように、私たちも魂の大掃除をして、新しい時を迎える備えをしましょう。
第一に、古いパン種を捨て、「させられる」生き方から「選び取る」生き方へと変えられることです。ペテロはイエスさまと「同じ心構えで自分を武装しなさい」と勧めます。イエスさまは、仕方なくではなく、私たちを救うために「自ら選び取って」十字架にかかられました。対して私たちは、「世間の常識だから」「断ると悪口を言われるから」と、周囲の圧力や欲望に流されて生きてしまいがちです。しかし、みことばは「過ぎ去った時は、もう十分です」と語ります。流される生き方に「もう十分だ」と宣言し、神さまの御心を主体的に選び取っていこうではありませんか。
第二に、掃除をして空いた心のスペースに、神さまのいのちを循環させることです。そこには「祈り」「愛」「奉仕」という美しいプロセスがあります。 まず「祈り」です。これは義務ではなく、神さまの前に静まり、自分がどれほど愛され、赦されているかを受け取る時です。 次に「愛」です。「愛は多くの罪を覆う」とあります。イエスさまが私の罪を暴かずにご自身の血で覆ってくださったように、私たちも互いの弱さや失敗を、愛の風呂敷でそっと包み込むのです。 そして「奉仕」へとつながります。自分のガソリンで走れば疲れてしまいますが、神さまが供給してくださる力によって、お互いの賜物を生かして仕え合うのです。
私たちが互いに愛し合い、神さまの力によって生き生きと歩む姿を通してこそ、神さまがあがめられます。心の大掃除をして、新しい力を豊かに受け取って歩み出しましょう。
1/11 「あなたがいてくれてよかった!」 マルコの福音書2章1〜12節 鈴木雅也師
- 中風の人をイエス様のところに連れて行った4人。彼らは、どうして我先にと一人でイエス様のところに向かわなかったのでしょうか?それは、「一緒に」「この人と」「この喜びを共にしたい」があったから。私たちにも、「一緒に」「この喜びを共にしたい」そう思って心に浮かぶ誰かがいます。皆さんにとってはそれは誰ですか?5節には、イエスは彼らの信仰を見てとあります。彼らの信仰、それは中風の人を「自分たちの力で」でも、「この医者のところに」でもなく、自分たちではどうすることもできない中風の人の癒しを願ってイエス様のところに運んだのでした。しかも、また今度ではなく、今この時ににしがみついて屋根まで剥がしたのでした(4)。それが彼らの行動に表された信仰でした。私たちも、自分ではどうすることもできないこともイエス様のところに運ぶものでありたいのです。このこと、あのこと、何より一緒にを受け取りたいあの人のために、今この時にと祈ること、声をかけ招くこと、愛することを諦めない者であリたいのです。もう一つ大切なこととして、私たちのお願いリストと神様の手渡したいリストがあるとお話ししました。神様は全能なる方、中風の人の病を癒し、立ち上がらせることも、私たちの今の必要に応えることも簡単にできることでしょう。でも、イエス様には手渡したい、いやあなたに受け取って欲しいリストがありました。それが罪の赦し。そのためにイエス様はこの地上に来られ、十字架にかかられたのです。何を手にしたとしても、あなたが救われず、滅ぶなら、罪赦されておらず神に迎えていただけないなら、それほど悲しいことはないからです。罪ある私たちをイエス様は命をかけて救いたいと来てくださったお方です。そのイエス様は、私たちが、あの人も一緒にその救いにと祈る時、ちゃんと心を留めてくださるお方です。彼らの信仰(思いと行動)に応えるように、イエス様は中風の人を癒し、招いてくださったのですから。
1/4 「健全な良心は弁明する」 ペテロの手紙3章9〜22節 小林泰輔師
- 掃除機が自分をファンヒーターだと思い込み、必死にモーターを回して熱を出そうとしても、部屋は暖まりません。私たちも「クリスチャンらしくあらねば」と、自分の努力で熱心さを生み出そうとして、ガス欠になっていないでしょうか。ペテロの手紙は、私たちが神さまに造られた本来の機能、すなわち「健全な良心」を取り戻す道を語ります。
聖書が語る「善(アガソス)」とは、重苦しい道徳的義務ではありません。それは、掃除機がスムーズにゴミを吸うように、神さまに造られた本来の機能が絶好調である状態を指します。つまり「本来の機能を発揮し」「役に立つ」という意味があります。健全さの回復は、神さまのなされる善いことに憧れ、惚れ込むことから始まります。まず「心の中でキリストを主」とする(15節)とき、罪で目詰まりしていた良心は修理され、息を吹き返します。その回復の喜びが内からあふれ出る時、それは言葉による論破を超えた、最強の「弁明(証し)」となるのです。
また、「義のために苦しむ」ことも恐れる必要はありません。それは故障の痛みではなく、正常に機能し始めたからこそ、罪の世界との間で生じる「摩擦熱」だからです。その痛みは、あなたが霊的に健康であることの証明書なのです。イエスさまが砕氷船のように、十字架によって罪という厚い氷を割り、勝利の水路をすでに開いてくださいました。私たちはその後に続くだけです。
バプテスマとは、単なる儀式ではなく、イエスさまの血によって邪悪な良心(ヘブル10:22)を回復させられた者が、「これからはあなたに向かって正しく機能します」と応答する神さまへの誓約です。自分の熱心さで周りを暖めようとする努力をやめましょう。ただ神さまという源に繋がり、良心をきよめていただきましょう。「主が私を直してくださった」。その喜びの弁明が、あなたの内から豊かにあふれ出しますように。
12/28 「主は良い羊飼い」 ヨハネの福音書10章11〜15節 小林泰輔師
- 「わたしは良い羊飼い」というイエスさまのことばは、当時の人々にとって衝撃的だったかもしれません。当時、羊飼いは社会的に蔑まれた職業だったからです。しかし、主があえてこの名を名乗られたのは、遠く安全な場所から指示する支配者ではなく、私たちの罪深い泥沼の現実にまで降りてきてくださる神さまであることを示すためでした。
羊は一度ひっくり返ると、自力では起き上がれません。人生の重荷に倒れ、動けなくなっている私たちのすぐそばまで、イエスさまは来てくださり、命を捨てて救い出してくださいます 。
本来の「良い羊飼い」という称号が示すのは、神さまご自身であるということです(エゼ34章ほか)。主は私たちを「知って」おられます。それは単なる知識ではなく、深い人格的な結びつきです。誰にも見せられない心の闇や弱さのすべてを知り尽くした上で、なお私たちを愛し、受け入れてくださるのです。この安心感があるからこそ、ダビデのように「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と告白し、魂の平安を得ることができるのです。
主は「囲いに属さないほかの羊」である私たち異邦人をも、その愛の群れの中に招き入れてくださいました 。復活された主は今、キリストのからだである私たちが「小さな羊飼い」となり、孤独の中にある人々の隣に降りていくことを願っておられます 。良い羊飼いの声に聞き従い、その愛を携えて歩んでまいりましょう 。
12/21 「道〜約束の王を求めて」 マタイの福音書2章1〜12節 小林泰輔師
- 二千年前、星に導かれ「約束の王」を求めて旅をした東方の博士たち。彼らの姿は、真理の「道」を渇望する私たちの歩みを象徴するかのようです。
博士たちは、この世の安住に留まらず、天の導きを求める「霊的な旅人」でした。私たち日本人が持つ「どこかに真理があるはずだ」という敬虔な信心は、神さまが備えてくださった素晴らしいポテンシャルです。ひとたび真実の王であるイエスさまに出会いさえすれば、その信仰は人生を根底から変える大きな力となるに違いありません。
対照的なのは、当時の宗教指導者たちです。彼らは救い主誕生の「知識」を持ちながら、実際には一歩も動きませんでした。「ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない」(イザヤ1:3)とのみことば通り、彼らは知識に慣れ、自分の地位を守ることに汲々として主を拒絶したのです。
博士たちは幼子を見出し、ひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を捧げました。没薬は後に十字架で死なれる主の受難の予兆でもありました。本来の民が拒絶した恵みを、異邦人である博士たちが先に受け取ったように、かつては神の民ではなかった私たちも、今やキリストによって「選ばれた種族」(Ⅰペテロ)とされています。
主に出会った博士たちは、夢の戒めにより「別の道を通って」帰りました。キリストの栄光に触れた者は、もはや以前と同じ自分勝手な生き方の「道」に戻ることはできません。私たちも主に出会った者として、神さまの恵みと平安に満ちた「新しい道」へと踏み出しましょう。その変えられた歩みこそが、真実の王を知らない人々への最も力強いあかしとなるのです。
12/14 「神があなたのために歌う理由」 ゼパニヤ書3章14〜20節 エミリー宣教師
- 降臨節第3週は、教会の伝統において「喜び」をおぼえる週です。ゼパニヤ書3:14-20は、罪と混乱、不安に満ちた時代に生きる民に向かって、「歓呼せよ、喜べ」と呼びかけます。この喜びは一時的な感情ではなく、主が刑罰を取り除き、王として民のただ中に来てくださるという、揺るがない事実に根ざしています。
この約束は、イエス・キリストの降誕によって成就し、「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」が現実となりました。神は私たちを喜び、愛をもって新しくし、歌って喜ばれるお方です。
この喜びは、恥を誉れへと変え、弱さや孤立の中にある者をも回復へと招きます。
クリスマスは、破れた世界のただ中に、主が来てくださったことをおぼえる時であり、状況を超えて与えられる喜びに生きるよう私たちを招いています。
12/7 「すべての人を敬う愛」 ペテロの手紙第一3章1〜9節 小林泰輔師
- 先週の礼拝では、ペテロの手紙第一3章1節から9節を通して、「すべての人を敬う愛 ~家族というシステムに命を吹き込む道~」と題し、みことばを聴きました。ペテロが語った「すべての人を敬いなさい」という原則は、私たちの生活の最も身近で、かつ最も感情が揺さぶられる現場である「家庭」においてこそ、その真価が問われます。
第一に、妻たち(母)に対して「言葉ではなく、清い生き方によって夫を勝ち取りなさい」と勧められました。人間関係がこじれる時、私たちはつい「正論」という言葉で相手を変えようとしてしまいます。しかし、罪人である私たちは、自力では感情的な「負の連鎖」を止めることができません。ここで求められている「柔和で穏やかな霊」とは、単なる大人しさではなく、神さまに望みを置いて善を行う、しなやかな強さ(レジリエンス)のことです。この凛とした「言葉なき愛」こそが、頑なな心を溶かし、家族というシステムに神の命を吹き込むのです。
第二に、夫たち(父)に対しては、妻を「弱い器」として理解し、敬うことが命じられています。聖書は「強さ」を否定しませんが、その力を支配のためではなく、弱い立場にある者を守り、生かすために用いるよう迫ります。夫婦は、神の国の恵みを共に受け継ぐ対等な「共同相続人」です。もし身近な人を軽んじるなら、神さまとの関係もまた、息詰まってしまうと警告されています。
私たちは皆、家族という関係の中で、被害者になり、同時に加害者にもなる弱さを持っています。親(夫であり妻)から受け継いだのかもしれない「先祖伝来のむなしい生き方」や、愛されなかった痛みに苦しむことがあるかもしれません。しかし、キリストの十字架は、その負の連鎖を断ち切ってくださいました。あなたの人生は、過去の失敗や家庭環境(親ガチャ)で決まるのではありません。あなたはキリストの尊い血によって買い取られた、高価で尊い「神の子」なのです。
家族や人間関係は、私たちが「祝福を受け継ぐ者」へと変えられるための道場です。十字架の愛に支えられ、悪に対して祝福を返す新しい生き方を、それぞれの遣わされた場所で始めていきましょう。
11/30 「神さまの約束」(『成長』より) イザヤ書9章1〜7節 小林泰輔師
- 預言者イザヤの時代、イスラエルはアッシリア帝国の脅威にさらされ、人々は国の滅亡という「出口のない暗闇」の中で震えていました。しかし、神さまはそのような絶望の淵にある民に、驚くべき約束を語られました。「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る」(イザヤ9:2)。
その光とは、強力な軍隊でも財産でもなく、「ひとりの男の子」の誕生でした。当時の人々は名君ヒゼキヤ王に期待したかもしれませんが、神さまの約束は、人間の王の限界を超えた、完全な救い主イエス・キリストを指し示していたのです。
イザヤ書は、この救い主を4つの名で呼び、その性質を現しています。
第一に「不思議な助言者」です。私たちが人生の壁に行き詰まった時、人の知恵を超えた解決へと導いてくださいます。
第二に「力ある神」です。私たちを最も苦しめる罪と死に対し、完全に打ち勝つことのできるお方です。
第三に「とこしえの父」です。地上の指導者とは異なり、決して見捨てることなく、永遠に私たちを養い守ってくださいます。
第四に「平和の君」です。神さまとの関係を回復させ、心に真の平安(シャローム)を与えてくださいます。
現代の私たちもまた、将来への不安や世界の暗いニュースという「闇」の中にいるかもしれません。しかし、約束の光であるイエスさまはすでに与えられました。闇は光に勝つことはできません。このクリスマス、私たちのすべてを包み込む救い主として、イエスさまを改めて心にお迎えしましょう。
11/23 「不当な苦しみの中で魂を守る道」 ペテロの手紙第一2章21〜25節 小林泰輔師
- 私たちは理不尽な苦しみや不当な扱いに直面する際、「徹底的にやり返す」か「泣き寝入りする」かの両極端になりがちです。しかし、ペテロによって著されたイエスさまの姿は、そのどちらでもない「レジリエンス(しなやかに回復する力)」です。
イエスさまは、ののしられても言い返さず、正しくさばかれる方にお任せになりました。これは諦めではなく、神さまという最高裁に案件を委ね、相手と自分の間に「ここからは神さまの領域」という境界線を引く能動的な戦いです。これによって、憎しみや復讐心から自分の魂を守るのです。
私たちの魂は、神さまから管理を任された大切な預かりものです。だからこそ、不当な攻撃によって魂をすり減らしてはいけません。必要なのは、神さまへの信頼に基づく「Stewardship(管理者意識)」と、「Necessary Ending(必要な終わり)」です。
「キリストにあるレジリエンス」とは、単に心が折れないことではなく、傷つきながらも古い自分に死ぬことです。私自身も、実父に対する「静かな復讐心」という罪を認め、「自己憐憫」を十字架につけて終わらせる必要がありました。悲しみの底つきをし、古い自我や恨みの鎖を断ち切り、罪に対して死ぬとき、そこに新しい命を受け取るスペースが生まれるからです。
私たちはかつてさまよう羊でしたが、今は「たましいの牧者であり監督者」であるイエスさまのもとに帰りました。復讐の毒を飲み込むのではなく、すべてをご存じの牧者に委ね、魂を守り導いていただきましょう。
11/16 「神のしもべは良き市民」 ペテロの手紙第一2章11〜21節 小林泰輔師
- 私たちは天国に国籍を持つ者でありながら、この地上では「旅人、寄留者」として生きています。本当の故郷は天にありますが、神さまはこの地上にいる間、私たちが周囲の人々に対して「何かが違う」という輝きを放つことを望んでおられます。聖書はそれを「立派な行い」と呼びますが、原語では「美しきわざ(カラ・エルガ)」という意味があります。これは、義務感や「こうしなければならない」という人間の努力(ガンバリism)から生まれるものではありません。神さまからいただく恵みと喜びから自然とあふれ出る、美しく魅力的な生き方のことです。
しかし、私たちの中には「肉の欲」と呼ばれる自己中心的な性質が残っています。日常の不満や利己的な思いは、私たちのたましいの美しさを奪おうと戦いを挑んできます。だからこそ、私たちは聖霊の助けによって、カラッと明るい光の子として歩むことが大切です。その姿が、世の人々に「なぜ彼らはあんなに喜んでいるのか?」という聖なる問いかけを与え、神さまへの関心を呼び起こすからです。
具体的には、私たちは「主のゆえに」人が立てた制度に従い、良き市民として歩みます。それは指導者が立派だからではなく、すべての権威の背後に神さまがおられると信じ、神さまに仕えるしもべとして生きるからです。ただし、その土台は常に「神を恐れる」ことにあります。もし地上の権威が神の領域を侵し、信仰を否定するなら、私たちは人よりも神に従うことを選びます。神への誠実さゆえに不服従を選ぶこともまた、神の栄光を現す「美しき業」なのです。
社会の中で、理不尽な苦しみや意地悪な扱いに遭うこともあるでしょう。しかし、一人で歯を食いしばって耐え、心をすり減らす必要はありません。私たちには、共に泣き、共に祈り、支え合う教会の「兄弟愛」が与えられています。この愛の交わりに支えられているからこそ、私たちは困難な中でも希望を失わず、美しきわざを行い続けることができるのです。神のしもべは、自分の力だけで良き市民であろうとするのではありません。キリストのいのちと、教会の愛に根ざして歩むとき、私たちの忍耐は神に喜ばれるものとなります。あなたのその歩みを通して、神さまがあがめられますように。
11/9 「ピースメーカー」 ヨハネの福音書4章31〜38節 深谷与那人師
- 清和キリスト教会の皆様と、共に礼拝を捧げられた恵みに感謝いたします。京都復興教会で、一年間心に留めてきたみことばを、分かち合いました。そのテーマは「教会への奉仕と伝道」です。これは、信仰の上級レベルということができるでしょう。ですから、難しいなぁと感じても、あたりまえで落ち込む必要はありません。まず、神の愛に心を開き、そしてみことばを味わい、さらに交わりの中で恵みを経験することが大切です。しかし、主の御心は、私たちの思いをはるかに超える世界です。私たちを新たなステージへと、聖霊は促しています。イエス様の満足・喜びは、どんな食べ物の満腹感よりも、御心が成就したという満たしだったのです。
同時に「神様はあなたを、試練の前よりはるかに良くしてくださる」というメッセージが、私たちに与えられています。東日本大震災の被災者への励ましとして語られたこの言葉は、深い苦しみの中から救われたサマリヤの女のように、神が新しい命と希望を与えてくださるという約束です。現実は厳しくとも、神の「はるかに良くしてくださる」希望は動き始めています。傷を負いながらも立ち上がる人々の姿に、主の業が表されています。
ボランティアは自分の意思で行いますが、教会の奉仕は神の御心によって導かれるものです。神に目を向け、その使命に応えて生きることが奉仕の本質です。奉仕は、使命を与えられた主なる神様を、心の目で見つめつつ行う業なのです。インド短期宣教でのアン・カンヒ先生から、神の御心に従うことの大切さを改めて教えられました。
この地に平和をもたらす「ピースメーカー」として、私たちは召されています。神様の御心は、天国の喜びと賛美が、全てを包む祝福の世界なのです。たとえ小さな存在でも、神の愛に応えて仕えるとき、そこにすばらしい天国の希望が輝きはじめるのです。
11/2 「十字架の死と復活 ③」 コリント人への手紙第一15章35〜44節 小林泰輔師
- 「十字架の死と復活」シリーズの最終回です。これまで、十字架が私たちの罪のためであり、復活がその救いの力を証明したことを見てきました。今回は、イエスさまの復活が私たちにもたらす「からだのよみがえり」という希望についてです。私たちは病やコンプレックスなど、思い通りにならない「からだ」に苦しんでいます。しかし、私たちが本当に求めているのは、「からだ」を捨てて霊魂になることではなく、不完全さから解放された「本来の、本当の自分」を取り戻すことではないでしょうか。聖書が語る「からだのよみがえり」とは、まさに神さまによる「再創造」の希望です。イエスさまは、十字架で私たちの弱さや死を引き受け、三日目に幽霊としてではなく、栄光の「新しいからだ(ソーマ)」をもってよみがえられました。これは、単に一人が生き返ったというニュースではなく、神さまによる「新しい世界の創造(再創造)」が始まったという宣言です。そして聖書は、「教会はキリストのからだ」であると語ります。復活されたキリストが聖霊を送られたとき、バラバラだった個人が結び合わされ、一つの「キリストのからだ」すなわち教会が誕生しました。ですから、教会とは「からだのよみがえり」が、今まさに進行している「現場」なのです。私たちの人生は、死んで天国へ行くまでの「待合所」ではありません。「からだのよみがえり」という希望は、「すでに、今、ここ」から始まっているからです。私たちが教会で生きることは、キリストの「からだ」の手足として、この世界に始まった神さまの「再創造」の御業に参画することです。私たちの最終的な希望は、魂だけが天国へ行くことではなく、この世界そのものが新しくされる「新しい天と新しい地」です 。それは、私たちが「新しいからだ」をもって、神さまや愛する人々とリアルに食べ、飲み、笑い、生きる、完成された世界です。このリアルな希望の共同体に加わり、あなたも「本当の自分」へと新しく創り変えられていく人生を、今日から始めてみませんか。
10/26 「信じるだけで救われる」『成長』より 使徒の働き15章1〜11節 小林泰輔師
- 初代教会で、大きな問題が起こりました。異邦人が多く集うアンティオキア教会では、たくさんの人々がイエスさまを信じていましたが、そこへユダヤから来た人々がやって来て、「イエスさまを信じるだけではだめだ。私たちユダヤ人と同じように律法(割礼など)を守らなければ救われない」と教えたのです。これを聞いた異邦人のクリスチャンたちは、「私たちは割礼を行っていない。救われないのだろうか」と心配になりました。この問題を話し合うため、パウロとバルナバはエルサレム教会に行き、そこで会議が開かれました。「ユダヤ人と同じく割礼を守るべきだ」という意見と、「イエスさまを信じるだけでよいはずだ」という意見が激しくぶつかります。その中で、ペテロが、かつての経験を証しました。「神さまは、異邦人にも、救いの印として聖霊を送ってくださいました。私はそれをこの目で見ました」。パウロとバルナバも「神さまはユダヤ人にも異邦人にも同じ救いを与えてくださっています」と報告しました。最後に、エルサレム教会のリーダーであったヤコブが「異邦人が救われることは旧約聖書にも約束されていました。イエスさまを信じるなら、それだけで救われるのです」と宣言しました。会議は聖霊の導きにより、「割礼を守らなくても、イエスさまを信じるだけで救われます」という結論に達しました。この知らせの手紙を読んだ外国の教会は、安心し、大きな喜びに満たされました。私たちの救いも同じです。「あなたがたは皆、信仰によりキリスト・イエスにあって神の子どもです」(ガラ3:26)。私たちの努力や良い行いによって神さまの子供とされるのではありません。ただイエスさまが、十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなり、天のお父さんにつなげてくださったからです。何ができてもできなくても、何を得ても失っても、ただイエスさまを信じるだけで、私たちは神さまの子どもです。この揺るがない恵みを感謝し、安心して喜んで、神さまと共に歩んでいきましょう。
10/19 「十字架の死と復活 ②」 使徒の働き2章22〜32節 小林泰輔師
- なぞなぞで「入り口は一つ、出口は二つ」というものがあります。答えはズボンです。しかし、これは人生の真理でもあります。私たちはみな、母のお腹から生まれるという一つの入り口を通りますが、死後には天国と地獄という二つの出口に分かれるのです。神さまは私たちに、どちらに行くかを選ぶ自由を与えてくださいました。天国行きの道は、「イエスさまの十字架によって私の罪は赦された」と心で信じ、口で告白することです(ロマ10:9-10)。
今日は、十字架の死の意味を決定づけた「復活」について見ていきましょう。ペテロは、イエスさまが捕らえられた時、人々から問われ、三度も「あんな人は知らない」とイエスさまを否定するという大失敗を犯しました。弱く、情けない姿をさらけ出したのです。
しかし、イエスさまは、そんなペテロを復活の最初の目撃者の一人として選ばれました。さらに、復活したイエスさまはペテロの前に現れ、「私を愛しますか」と三度尋ねられました。ペテロは三度「愛します」と答えました。それは主の逮捕の時に言えなかった言葉であり、失敗のトラウマが克服された瞬間でした。ペテロは聖霊を受け、臆病だった彼が、大勢の人の前でイエスさまのことを大胆に語る人に変えられました。
聖書はイエスさまだけが救い主であると教えています。なぜその言葉が真理だと言えるのでしょうか。それは、イエスさまが「死からよみがえられた」からです。死んでよみがえった人間はいません。死を打ち破られたイエスさまは、本当に神であったということです。そして、その神さまの言われることだから、聖書はすべて正しいのです。ペテロは「私たちはその復活の証人です」(32節)と力強く宣言しました。
神さまは、私たちが滅びることを望んでおられません。ひとり子イエスさまの十字架によって罪を赦し、天国に行ける道を作ってくださいました。イエスさまの復活は、この十字架の赦しが確かに有効であることの証しです。
この罪の赦しは、死後の救いだけでなく、今を生きる私たちに大きな変革をもたらします。過去の失敗や恥の記憶さえも、「イエスさまに愛されている」という記憶に上書きされ、私たちをまったく新しいいのちに造り変えます。そして主が新しい人生を共に歩んでくださるのです。多くを赦された者として、多く愛するようになるのです。
10/12 「恵みを現す神の作品」 エペソ人への手紙2章1-10章 石山麻美主事(KGK)
- みなさまは「教会」と聞いて何をイメージするでしょうか。私は長い間、建物をイメージしていました。しかし、「教会」と訳された元の言葉は「呼び集められた者たち」という意味です。神様が目的を持って、救いに招かれた者たちの集まりが教会であり、教会は神の作品です。
私たちは、かつてはみな罪の中に死んでいました。悪魔は必死に、私たちを神様から遠ざけ、罪の中の死へと引っ張っていこうとします。実際にからだは生きていても、私たちを造り、私たちにいのちを与えた神様から離れているとき、それは霊的に死んでいる状態なのです。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛するその大きな愛のゆえに、イエス様をこの地に送ってくださいました。イエス様の十字架によって私たちの罪を赦し、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。救いは、神様から先に、そして一方的に与えられる恵みです。この救いの恵みを、手を開いてただ受け取ることが信仰です。救いの恵みゆえの信仰によって、私たちは罪から自由にされ、キリストのいのちに生きる者とされました。
キリストによって生かされていることを誇るお一人おひとりの集まりである教会を、著者パウロは「神の作品だ」と言います。私たちは、キリストのいのちに結びつき、キリストのからだである教会に組み合わされています。神の作品である教会は、神を愛し人を愛するという良い行いに歩むために、キリストにあって造られました。行いによって救われるのではありません。しかし、救いの恵みに応答して生きたいと願う時、それは良い行いとなって表れていくのではないでしょうか。そして、神の愛を土台として良い行いに生きる教会の交わりから、神の愛と恵みがこの地に明らかにされていきます。私たちは、神の恵みの証拠作品として、神の限りなく豊かな愛と恵みを、今日もそしてこれからもこの世に現していきましょう。
10/5 「十字架の死と復活 ① 」 ヘブル人への手紙9章26-28章 小林泰輔師
- 先週、父の逝去に加え、短期間に相次いで三名の訃報に接し、私たち誰もがいつかは迎える「死」という現実をおぼえさせられました。聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と教えています(27節)。この世の騒がしさの中で忘れがちなことですが、人の死に触れるとき、私たちは自らも死すべき者であることを思い起こします。その備えはできているでしょうか。本当に必要な備えは、葬儀の準備や相続といった地上の「終活」ではなく、「死後」についての備えです。
私たちは皆、この地上での肉体の死だけでなく、その後の「さばき」への備えをしなければなりません。では、どうすれば死後の備えができるのでしょうか。それは、神のひとり子イエス・キリストが、私たちの罪を取り除くために、ご自分をいけにえとして十字架にかかり、死んでくださったという真理を受け入れることです 。イエスさまの十字架の死は、私の罪を身代わりに背負うためだったのです。しかし、イエスさまの贖いは十字架で終わりません。死からよみがえり、天に昇られ、ご自分を信じる人々のために天国に場所を用意してくださっています。そして、イエスさまは再び来られます。「二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます」(28節)。
イエスさまは今朝、「あなたのためにも居場所を準備してあるよ」と招いておられます。私たちはこの招きに「はい、主よ、参ります」と答えられるよう、イエスさまを信じる信仰の備えをしましょう。イエスさまの救いを受け入れ、天国の永遠の命への備えを完了することが、人生における最も大切な「死への備え」なのです。
9/28 「みことばに従ったヨシヤ」 列王記第二22章1-2章 小林泰輔師
- 南ユダ王国の王ヨシヤは、聖書において「主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」と記されている人です。父アモンは主に背を向けた悪い王でしたが、ヨシヤはわずか8歳で王位につくと、まっすぐに神さまだけを見つめて歩みました。ヨシヤの治世中、神殿から律法の書が発見されます。それを聞いたヨシヤは、自分たちの民が、先祖の代からいかに神さまのみこころから離れ、罪を犯してきたかを知り、大きな衝撃を受けました。彼は自分のことだけでなく、民全体の罪を深く悲しみ、衣を引き裂いて心から悔い改め、涙ながらに神さまに祈ったのです。神さまは、ヨシヤのその謙虚な祈りを聞き入れられます。「あなたが心を痛めて主の前にへりくだり…わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる」と約束され、ヨシヤが生きている間は、国にわざわいを下さないと告げられました。この姿は、私たちのために涙をもってとりなしてくださるイエスさまの姿と重なります。ヨシヤは言葉だけでなく、行動をもって国中から偶像や神さまが嫌われるものを徹底的に排除し、民を神さまへと立ち返らせました。その生涯は、「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった」と、最高の言葉で称賛されています。しかし、これほど偉大な信仰者であったヨシヤの子どもは、残念ながら父の信仰を受け継ぎませんでした。このことは、私たちの信仰の拠り所が誰であるべきかを教えています。私たちのまことの父は、天におられる神さまです。 私たちが日々見つめるべきは、地上の誰かではなく、天の父なる神さまお一人なのです。人生の最後まで「神さまの子どもとして立派に歩んだね」と主に言っていただけるように、聖霊の助けをいただきながら、右にも左にもそれず、まっすぐにイエスさまの足跡に従って歩ませていただきましょう。
9/14 「御国を受け継ぐ者とされている」 サムエル記第二6章6-13章 森田学師
- 【神を認める?認めない?】神を認める。それは、耳で聞き、頭で知り、心に招くことです。その神とは、命の無い像や人の想像で作る神ではなく、私たち人間を創り命を与える、生きておられる神です。
【神を認めないウザ】ウザは、神の思いではなく、自分の都合で判断し、神の箱に触れます。その箱は、目には見えない神が確かに私たちとともに“そこにおられる”ことを覚えさせるものでした。しかし、神をただの置き物であるかのようにつかんだウザ。そこにウザと神との関係が見てきます。神を認めない、自分の都合や判断で生きるその先で、ウザに神の怒りが燃え上がり、ウザは神に打たれ死にました(第二サムエル6:6)。
【神を認めるダビデ】神を認めて生きるダビデは、この事件に激し(動揺し)ます(6:8)。ダビデは神に負の感情をぶつけるほどに、神を認めているからです。神の御思いに敬意を払い、誠実に神と向き合い、事あるごとに神との会話を大切にします(5:17-19,22-25)。そこには、歩数を正確に覚えるほどに、神への感謝を事細かに覚える、ダビデの神への愛があります(6:13)。
【誰もが祝福の中へ招かれている】神を認めず自分の経験や悟りだけに頼り、慣れや惰性という態度で神に接したウザ。かたや、一歩いっぽ神に頼り、感謝し、神の愛を覚え、神の恵みを受け、神の祝福の中で神から委ねられている王国を神の恵みによって支配していくダビデ。神は今、イスラエルの王ダビデの歩みへと、すべての人を招いてくださっています。
【神の御怒りを飲み干されたイエス】神を認めず生きている私たちが、本来受けるはずの御怒りを、御子イエスに身代わりに背負わせ、イエスを十字架で死なせてくださったのもまた神です。この救い主イエスを信じる者は、神の御怒りを受けず、永遠に滅びることはありません。(第一テサロニケ1:10、5:9)誰でも神の救いの呼びかけに応え、神を心に迎えるときに、必ず神はそこから引きあげ救い、神との関係を癒やし回復させてくださいます。そして、ダビデのように、神の王国を受け継ぎ治める、神の子どもとして私たちを用いたいと願われている、神のことばを聴くことになります。
『またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。』(エペソ1:11)
【神の国を継ぐ者】この世での肩書よりも、もっと大切な私たちのアイデンティティー、それは神の国を継ぐ者です。神の国を受け継ぐとは、神さまあなたは私を通して何をされようとしているのですか?と、神の権威と支配を尊重して生きる時、自分だけではなく、周りの人々をも祝福していくのです。
9/7 「朽ちない種から生まれる」 ペテロの手紙第一1章13-25章 小林泰輔師
- 秋風を感じるこの季節に、人生の「秋」を考えることから始めましょう。聖書は、人の命を「人はみな草のよう、その栄えはみな草の花のようだ」と語り、その儚さを率直に表現しています。どんなに美しく咲き誇った花も、やがては枯れてしまうように、私たちの人生もまた、確実に「老い」を経て「死」を迎えるのです。
しかし神は、聖書を通して、空しさで終わる人生を語っているのではなく「決して朽ちることのない永遠の命」を約束してくださっています。それは、私たちが持っている、やがては朽ちてしまう命とはまったく別種の、聖なる「朽ちない種」から生まれる新しいいのちです。この種とは、神のみことばのことです。
私たちは品種改良のような努力では、朽ちる種を朽ちないものに変えることはできません。イエス・キリストの尊い犠牲によって与えられた神さまからの「新しいいのち」は、神のことばであるイエスさまによって与えられました。それを受け取るとき、私たちの人生は根本的に変えられ、確かな希望に満たされるのです。
そして、神さまの子どもとして新しく生まれた私たちは、「神の家族」の一員とされます。同じ神さまを御父と呼び、イエスさまを長兄とし、クリスチャン同士は兄弟姉妹として互いに愛し合うようになります。教会とは、この三位一体の神の交わりに入れられた、神の家族が集まる場所なのです。
さらに、神の子とされた私たちは「聖なる者」となるよう求められます。しかしこれは、道徳的に完璧になるということではありません。神さまが世の汚れからご自身を区別されるように、私たちもこの世から区別され、神さまだけのものとされることです。子どもが自然と家風を身につけ、父親に似ていくように、神さまの家族の一員として生きる中で、私たちも少しずつ、父なる神の性質に、御子イエスさまの姿に似た者へと変えられていきます。
この素晴らしい救いの恵みは、死後のためだけにあるのではありません。人生の空しさから解放され、永遠の命という揺るぎない希望に生きる「今ここから始まる」ものです。私たちの力ではなく、神さまの呼びかけに応えるとき、この計り知れない祝福は、今、この瞬間にも、あなたのものとなるのです。
8/31 「たましいの救いと喜び」 ペテロの手紙第一1章1-12章 小林泰輔師
- 使徒ペテロは、苦難のただ中にあった小アジアの信徒たちへ手紙を書きました。それは、厳しい現実を生きる私たちへの希望のメッセージでもあります。ペテロは、試練の先にある栄光がいかに素晴らしいものであるかを示し、私たちはすでに「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っている」のだと宣言します。
私たちが救われたのは、私たちの功績ではなく、父、御子、御霊なる三位一体の神さまの一方的な選びと、大きなあわれみによるものです。その確かな証拠が、イエスさまが死者の中からよみがえられたこと。この復活によって、私たちには決して朽ちることのない「生ける望み」が与えられました。この世の富は失われることがあっても、神さまと隣人のために用いたものは、朽ちることも汚れることもない永遠の資産として天に蓄えられていきます。
地上での歩みには試練が伴います。サタンは苦難を通して神さまへの不信感を抱かせようとしますが、私たちは信仰によって「神の力に守られている」のです。それゆえ、試練は私たちの信仰を鍛え、不純物を取り除き、より純粋なものとするために神さまが用いられるプロセスです。試練を通して私たちはキリストに似た者へと成長させられ、やがてイエスさまの前に立つ日には、その信仰は「賞賛と栄光とほまれ」へと変えられるのです。
ペテロの手紙の受け手たちは、イエスさまを直接見たことはありませんでしたが、みことばによって心を燃やされ、心から信じ、愛していました。その結果、彼らの内側から「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」が湧き上がり、心は躍っていたのです。私たちも同じです。この喜びこそ、「たましいの救い」を受け取っている確かな証しです。聖書の語る救いとは、死後のことだけでなく、今この瞬間に私たちの生き方そのものが新しく造り変えられること。神の子としての新しいアイデンティティを与えられ、揺るぎない希望に向かって歩む者とされることです。
だからこそ私たちは、試練の中にあっても圧倒的な勝利と幸いをすでに手にしています。この救いの素晴らしさを心に留め、その喜びに生きることを通して、周りの人々に神さまの愛と、勝利の証ししていきましょう。
8/24 「ソロモン王の富と罪」 列王記第一10章、11章 小林泰輔師
- ソロモンは、世界のどの王よりも賢く、どんな質問にも答えられ、国を豊かにしたことで知られています。その名声は国境を越え、シェバの女王が多くの贈り物を携えて彼を訪れるほどでした。女王はソロモンの知恵、壮麗な宮殿、豪華な食事、そして彼に仕える人々の様子に息をのみ、感嘆しました。彼女は、ソロモンを王とされたイスラエルの神を褒めたたえたほどです。ソロモンは若い頃、神を愛し、父ダビデの掟に歩んでいました。
しかし、その恵まれたソロモンが、外交政策のために多くの外国の女性と結婚したことが、人生の後半で大きな罪へとつながります。正式な妻だけで700人、そばめを含めると1000人もの女性がいたのです。これらの女性たちはそれぞれ異なる文化を持ち、信じる神も異なりました。彼女たちはソロモンに、それぞれの信じる偽りの神々を礼拝する場所を建てるよう求めました。神さまはかつてイスラエル人に、異国の民と交わってはならないと命じ、彼らは必ずあなたの心を翻して彼らの神々に従わせると警告していました。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかったため、ついには妻たちのために偶像の礼拝所を建て、そして自分自身も偽りの神々を拝むようになってしまったのです。
神さまを心から愛していたはずのソロモンが、晩年には「彼女たちを愛して離れなかった」と聖書に記されたところに、神さまの深い悲しみが表されています。このソロモンの偶像礼拝という罪が国全体に広がり、その結果、イスラエルの国は二つに分裂してしまうという悲劇を招いたのです。
ソロモンの生涯は、私たちにどのような教訓を残すでしょう。たとえ今、あなたの信仰が強く、神さまと共に歩んでいると感じていても、決して油断してはいけません。誰もが罪に陥る可能性を秘めているのです。しかし、もしあなたが道を踏み外してしまったとしても、神さまは決してあなたを見捨てません。いつでも「神さま、ごめんなさい」と立ち返れば、神は喜んで赦し、受け入れてくださいます。大切なのは、どんな時もただ父なる神だけを信じ続け、小さな一歩でも毎日、主イエスを仰ぎ続けることです。私たち自身の力ではなく、聖霊の導きによって、喜びをもって礼拝し続けることができますように。
8/17 「贖いの代価として」レビ記16章6-10節 小林泰輔師
- 今朝の箇所から、人間の罪深さと神の聖さの隔たりを埋める、イエス・キリストによる完全な贖いについて教えられます。
日本人は土着の信仰と仏教の融合から「因果応報」や「自業自得」といった思想に縛られ、自らの努力で罪を償おうとしたり、先祖や子孫の救いが功徳を積むことで得られると考えます。福音は、そのような呪縛から人を救います。人間が自力で罪に勝利することは不可能であり、根本的な解決にはならないと聖書は教えます。福音が示すのは、神の一方的な恵みとあわれみによって無償で与えられる救いです。その核心は「キリストが身代わりになられたこと」です。
旧約聖書の「贖罪の日」には二頭の雄山羊が用いられました。一つは「主のために」罪の代価として屠られ、その血で神の怒りがなだめられることを象徴し、もう一つは「アザゼルのために」民の罪を背負って荒野に放たれ、罪が共同体から完全に除去されることを表しました。
イエス・キリストは、罪なきご自身が身代わりとなり十字架にかけられ、血をもって罪の代価を完全に支払い、神の義の要求を満たされました。そして「ただ一度の十字架の贖い」が「永遠の贖い」を成し遂げ、過去、現在、未来のすべての罪を解決されたのです。マルコ10章45節にあるように、主イエスは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」に来られました。神は、私たちが誰一人滅びることを望まず、その愛と正義の葛藤の中で、ひとり子イエスを犠牲にされました。
一方で、人間の罪深い現実として、ロマ書1章の「罪に引き渡される」裁きは、神を拒絶する人間がその心の欲望のままに放置され、罪が蔓延していく姿を描写します。野に放たれ、草の根まで食い尽くし、ついには崖から落ちて死ぬアザゼルの山羊のように、罪のまま生きることは破滅へと向かいます。しかし、主は、そのような私たちを諦めきれませんでした。人間の目には一貫性がないように見えても、そこには、ご自身の御子イエスの命をもって私たちを救おうとする、神の揺るぎない、徹底した愛があるのです。
この愛が私たちを山羊から羊へと変え、良い羊飼いの招きに応え、感謝と賛美を捧げる清められた共同体へと導いてくださいます。
8/10 「エパフラスのように」 コロサイ人への手紙1章1-8節 岡研二郎兄
- 今回のテーマは、救われた私たちの中に宿るキリストという「奥義」です。
聖書は、私たちが完全でなくとも、「聖なる者」「忠実な兄弟姉妹」と呼びかけます。私たちの日常生活には未熟な側面があるかもしれません。しかし、これは矛盾ではなく、まさに神様の深い真理なのです。その真理とは、私たちの中に「キリストがおられること」こそが、「栄光の望み」だということです。たとえ未熟な私たちであっても、心に宿るキリストは種のように働き、愛という実をはじめ、様々な良い実を結び、世界中で力強く成長していきます。遠い地でのクリスチャン人口の驚くべき増加も、この奥義の働きが今も続いている証です。
かつて、ルターは、神の義を「罪を裁くもの」と恐れ悩みましたが、やがて、「神の義とは、信じる者に与えられる義である」と理解し、真に新しく生まれ、天国に入ったかのように感じたと告白しました。律法は私たちの罪を明らかにするかもしれませんが、福音だけがキリストの十字架を通して私たちを救い、生かします。
私たちは不完全な「土の器」ですが、主は私たちを「聖なる者」と呼んでくださいます。それは、私たちのうちにキリストが住んでおられるからです。そして、神様は私たちを器として用いて、キリストの福音を証しし、神様の栄光を現そうとされます。
さあ、古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を身につけましょう。神様に選ばれ、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容をまとい、互いに忍耐し、許し合い、何よりも愛を身につけましょう。キリストの言葉を心豊かに宿らせ、感謝をもって神を賛美する日々を送りましょう。私たちも、かつて福音を伝えた人々の歩みに倣い、悔い改めと感謝の信仰生活を日々新たに歩んでまいりましょう。キリストが私たちの中に住まわれるその力によって、あなたは変えられ、その栄光を現すことができるのです。
8/3 「救われるたった一つの方法」 使徒の働き4章5-12節 小林泰輔師
- 前回の招待礼拝では、「大切なお知らせ」として、信じて永遠の命か、信じないで永遠の滅びか、という二択を迫られました。今回のテーマは、救いの道はイエス・キリストを通じたただ一つ、一択しかないということです。聖書は「この方以外には誰によっても救いはありません」と明確に告げています。
私たちは生まれながら霊的に死んでいます。そのことがすでにさばきなのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。このままでは喜びのない人生を送ることになります。すでに滅びのさばきが始まっているのです。
しかし、私たちの払いきれない罪の負債は、イエス・キリストの十字架と復活によりすでに全額支払われました。「完了した」との言葉は「借金返済完了」の意味です。この支払い証明書を手にするには、神を無視した罪を悔い改め、心でイエス様を信じ、口で告白するだけ。ローマ人への手紙10章10節の通り、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。
信仰告白の瞬間から、あなたの霊は息を吹き返し、永遠の命をすでに受けた人の道を歩むことになります。生きる意味を知り、喜びに目覚めるでしょう。肉体の死は、神への応答期限です。いつ来るか分からないその時まで、神はあわれみにより待っておられますが、今日という日があるうちに応答することが何よりも大切です。
私たちのため命を捨てよみがえられた唯一の救い主、イエス・キリストを心に迎え、その名を呼び求めましょう。喜びあふれる人生を、ここから共に歩みませんか?
7/27 「全世界に出て行く教会」 使徒の働き11章19-26節 小林泰輔師
- 先週の礼拝では、「全世界に出て行く教会」と題してお話ししました。中心となった聖句は、マルコによる福音書16章15節の「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」というみことばでした。
「クリスチャン(キリスト者)」という呼び名がどのようにして生まれたかをご存知でしょうか。かつてアンティオキアという町で、ステパノの迫害から散らされた信者たちが、ユダヤ人だけでなく、ギリシア語を話す外国人にもイエスさまの福音を伝え始めました。アンティオキアは外国人が多い町だったのです。そうして、異文化の人々を受け入れ、ともに礼拝する、聖書に出てくる最初の「外国人の教会」がここに誕生しました。そして、イエスさまを信じる人々が「クリスチャン(キリストに属する者)」と呼ばれ始めたのです。それは、このアンティオキアからだったのです。
神さまはこのアンティオキアの教会から、バルナバとサウロ(後にパウロと呼ばれる)を「伝道旅行」へと送り出しました。これは単なる観光旅行ではありません。彼らは命がけで、まだイエスさまを知らない多くの人々に救いのメッセージを届ける旅に出たのです。
この「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」というみことばは、パウロやバルナバのような特別なリーダーたちだけに語られたのではありません。私たち一人ひとりに語られている神さまからの大切な使命なのです。
もちろん、誰もが彼らのように遠くまで旅に出られるわけではありません。ですが、私たちの持ち場、立場において、身近にいる「すべての造られた者」、つまり隣人や友人、家族にイエスさまの愛を伝えることはできます。私たちの住む日本は「全世界」の果てです。今いるところを宣教地として神の国から遣わされているのです。日々の生活の中で、神さまが私たちに与えてくださった召命に応答して歩んでいきましょう。
7/20 「きよさのなかで和む教会」 レビ記19章1-4節 小林泰輔師
- 先週の創立記念礼拝では、「きよさのなかで和む教会」ということで、レビ記が示す「聖なる」ことの意味を探り求めました。レビ記は一見、私たちから遠い専門書のように感じられるかもしれません。しかし、そこで繰り返し語られるのは、「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」という神の呼びかけです。
「聖なる」とは、人間的な営みである「俗なるもの」と完全に分離している状態を指します。私たち自身の力ではこの基準に達することは到底できません。レビ記は、病や死に関することを「儀式的な汚れ」としています。神のみこころである生殖に関わることでも、命(経血や精液など)が地に落ちることから「汚れ」状態とされ、一時的に神の臨在から遠ざけられました。また、異教の風習を真似てはならないという「道徳的なきよさ」について記されているとされる、性的逸脱についての記述(18章)は、文脈を正視するなら、当時の異教文化(神殿娼婦や神殿男娼、子どもの人身御供等)との分離を教えたもので、現代の同性愛者を徒に苦しめるためのものではありません。同性愛指向や性別違和、性分化疾患等、その仕組みはわからないことがたくさんあります。わからないことについては謙虚であるべきです。「私は正しい」という偶像を捨てなければなりません。聖書は他人を裁くためではなく、自分自身を深く省みるためにあるのです。
それでもなお、「聖なる者でなければならない」という言葉におそれを感じる私たち。しかし、ヘブル10章10節は語ります。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています」。私たち自身の判断に間違いがあったとしても、イエスさまの十字架のみわざによって、私たちはすでにきよくされている のです。この主のくださるきよさの中で、私たちは安心して和むことができます。日々の選択においても、イエスさまにフォーカスを当て、神の導きを信じて歩んでいきましょう。
7/13 「王が不在の場合」 士師記17章1-13節 エミリー・チョウ宣教師
- 士師記17章から21章にかけて、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という言葉が、物語全体の中心テーマとして据えられています。この一節は単なる歴史的事実の記述ではなく、「神が王として認められていなかった」という霊的な危機を象徴しています。
この章では、ミカとその母、そしてレビ人の若者という三人の人物が登場します。ミカの母は盗まれた銀を「主にささげる」と言いながら偶像を造り、ミカはその偶像を家に安置し、自分の息子を祭司に立てます。やがて現れたレビ人の若者は、自分の職分を生活の手段として差し出し、ミカの家の専属祭司になります。こうした姿は、「神のため」と言いながら、実際には自分の安心・願望・文化に従って信仰をつくりかえてしまう人間の姿を映し出しています。
現代の私たちも、形式としての信仰を守っていても、心の中心には別のものが座っていないでしょうか。神が本当に「王」として私の心の座におられるか──それを問うのがこのメッセージのテーマです。外側の信仰がどれほど整っていても、王がいなければ、すべては人間中心の信仰になってしまいます。今日、この御言葉を通して、私たちの信仰の座をもう一度整えましょう。
7/6 「大切なお知らせ」 ヨハネの福音書3章16-18節 小林泰輔師
- 「大切なお知らせ」というとまるでYouTuberの緊急発表のようなタイトルですが、聖書こそ私たちへの「良い知らせ」すなわち福音であり、「大切なお知らせ」なのです。新約聖書は教典や戒律集ではなく「お知らせ」です。しかしこの知らせは聞くだけでなく、私たちに具体的な「応答」を求めるものです。中途半端な姿勢というのはありません。その応答とは「信じるか、信じないか」という二択しかありません。第三の道や保留といった選択肢はないのです。ヨハネの福音書3章18節には、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」とあります。そうです、神のさばきが近づいているというお知らせなのです。しかし、神は人々を裁きたいのではなく、救いたいと願っておられます。そのために、ご自身のひとり子イエスさまをこの世に送ってくださったのです。「信じる」とは、単に事実を認めるだけでなく、信じたように生きることを伴います。そして神さまは、私たちが信じたように生きられるよう、聖霊を与えて助けてくださいます。私たちが信じるべきは、イエスさまが神のひとり子であり、私たちの救い主としてこの世に来られたという事実です。神様が私たちを愛しておられるという証拠は、まさにイエスさまが私たちの罪を全て背負い、十字架にかかって死なれ、そして三日目によみがえられたという出来事です。これは、天地創造という最初の恵みに加えられた、イエスさまの十字架と復活という「恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1:16)出来事なのです。「某日に大災難が来る」などという人間の根拠のない予言はいとも簡単に信じられているのに、イエスさまの復活を信じる人が少ないのはどういうことでしょう。新約聖書の膨大な写本や歴史的な証言など、多くの確かな証拠があることを覚えておいてください。神は、私たちが永遠の命を選べるよう、これ以上ないほどの証拠を愛によって示してくださいました。この「大切なお知らせ」である「信じる者は救われる」という真理に、皆さんはどのように応答されますか。永遠の命は、信じたその時から始まります。回答期日は誰にも分かりません。だから今が神さまの愛に応え、信仰をもって応答する時なのです。
6/29 「祭司となった教会」 レビ記9章7節 小林泰輔師
- 「祭司」と聞くと、どこか特別な人を思い浮かべるかもしれません。でも聖書は、キリストを信じた私たちすべてを「聖なる祭司」と呼んでいます。これは名誉ある呼びかけであると同時に、重みのある使命でもあります。
旧約の時代、祭司は民のために神に仕え、とりなしをし、いけにえをささげ、神の言葉を教えていました。それと同じように、今を生きる私たち教会もまた、この地上で神と人とをつなぐ「祭司」として立てられているのです。
いけにえは、今やキリストご自身が一度限りの子羊となって成就してくださいました。けれども私たちは、日々の生活の中で、自分の時間や力、思いを神にささげる「生きたいけにえ」として歩むよう招かれています(ロマ12:1)。家庭での言葉一つ、職場での態度、目の前の小さな選択。それらすべてが、祭司としての私たちの礼拝になるのです。
また、祭司の務めにおいて欠かせなかった「香」は、今の私たちにとって「祈り」です。私たちの祈りは、目には見えなくても、香のように神の御前に立ち上り、世界中に広がっていきます。だからこそ、どんなに短くても、拙くても、神に向かって心を開くことをやめてはならない。祈りは神の御前に立ち上る香りなのです。
そして「律法を教える」務めは、今、御言葉を学び、それを日々に生かすことへと引き継がれました。ただ読むだけではなく、聞くだけでもなく、自分の人生の判断基準として、神の言葉を心に据える。そういう歩みを日々求めています。
何よりも、私たちは一人で祭司として立たされているのではないということです。教会が、信仰共同体として、神の前に立ち、支え合い、仕え合う。これが「祭司となった教会」です。
神は私たちを特別な使命へと招いておられます。高ぶることなく、でもおびえることもなく、キリストの恵みによって、祭司としての歩みを共に始めていきましょう。
6/22 「いのちのことばを語る教会」『成長』より 使徒5章17〜20、27〜32節 小林泰輔師
- 聖霊を受ける前のペテロたちは弱々しく、逮捕されることを恐れてイエスを三度も否定しました。しかし、復活の主と出会い、聖霊を受けてからは一変して、裁判長の前でも大胆にイエスが救い主であることを語るようになりました。
弟子たちを筆頭に教会の働きによって、信者はますます増えていきました。これに反発したユダヤ教のリーダーたちは弟子たちを捕らえて牢屋に入れてしまいます。しかし、その夜、不思議なことに御使いが現れ、神の力によって彼らは助け出されました。そして、「このいのちのことばを全て語りなさい」と命じられます。「いのちのことば」とはイエスを主と信じることで永遠のいのちが与えられるという福音のことです。弟子たちは再び捕らえられる可能性があることを承知で、恐れることなく、神の命令に従って神殿で福音を伝えました。
しかし案の定、弟子たちは再逮捕され、ユダヤの指導者たちから「イエスのことを話してはいけない」と厳しく命じられましたが、ペテロたちは「人に従うより神さまに従うべきです」と答え、断固として拒否しました。その時、人々から尊敬されているガマリエルという教師が合理的かつ折衷的な提案をしました。イエスがもし偽物なら、その働きはうまくいかないだろうし、もし本当に神さまからの救い主ならその働きを誰も止めることはできない、だから放っておけばよいと言うのです。結局、弟子たちは鞭打たれた後に、イエスを絶対に話してはいけないと釘をさされて釈放されました。しかし、弟子たちはこのことをまったく辛いとは思わずに、その後も毎日喜んでイエスさまのことを伝え続けました。
「このいのちのことばを全て語りなさい」と、今朝私たちにも命じられています。神さまがどのようなお方か、自分の知っていることや、経験したこと、その喜びや素晴らしさをすべて隠すことなく語ることです。また、すべての人に、どんな場所でも語るということも大切です。私たちはいつでも力を尽くして、知恵を尽くして、イエスさまにある救いを語り、人々の救いのために働くことができます。私たちに与えられている聖霊の力により、それができるのです。この地域の灯台のようにイエスの命の光を灯していきましょう。
6/15 「神さまへのささげもの」 レビ記1章1〜17節 小林泰輔師
- レビ記の捧げ物に関する規定は、一見すると現代の私たちには関係ないように思えるかもしれません。律法を「祭儀律法」「道徳律法」「司法律法」の三つに大別する解釈があります(厳密には重なり合う部分も)。祭儀律法、特に動物のいけにえの規定は、イエス・キリストが私たちすべての罪のための「子羊」として自らを犠牲にされたことで完全に成就しました。これにより、私たちは罪を犯すたびに動物のいけにえをささげる必要がなくなりました。道徳律法は神の性質を反映し、きよい生き方を教えるもので、イエスさまによってその本質が示され、深化しました。ゆえに現代も私たちに適用されます。司法律法は当時のイスラエル社会の法律ですから、そのまま守ることはありませんが、その根底にあるものは、変わらない愛の原則として今も重要です。
レビ記1〜7章に示される五種類のささげもの(全焼のいけにえ、穀物のささげもの、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のいけにえ)は、大きく「感謝」と「謝罪」に分けられます。全焼のいけにえは「なだめの香り」として、神との根本的な断絶がある人間が、神との交わりを始めるための感謝のしるしでした。和解のいけにえは、神との和解と、共に食卓を囲む喜びと感謝を表しました。罪のいけにえは「意図しない過失」、罪過のいけにえは「故意の罪」に対して、神の赦しと贖いを求めるものでした。
新約聖書では、これらすべてが、イエス・キリストのただ一度きりの十字架の犠牲によって完全に果たされたと教えられています。ここから学ぶべきことは、まず、私たちには自身の罪ゆえに神との間に溝があり、埋める必要があるということです。イエスさまが私たちの罪の代価をその命をもって支払ってくださったおかげで、溝を埋め、恐れることなく大胆に神の御前に進み出ることができる者としてくださったのです。そしてイエスさまの復活は、私たちの罪も罪過も確実に消し去られたことの証しです。
また、このレビ記の学びを通して、私たちはキリストがご自身を犠牲にされた模範に倣うことを教えられます。神がささげものの規定を与えたのは、民の罪を赦し、再び親しい交わりを回復したいと、神が願われたということです。私たちも神が招いておられる愛の食卓へと隣人を導くために、献身の歩みを続けましょう。
6/8 「それでも主は導かれる」 ルカの福音書5章1〜11節 岸本大樹師
- 信仰の始まりは各人それぞれです。大きな試練の中で教会へ導かれ、劇的な回心をされた方がいらっしゃれば、母親のお腹の中にいるときから教会へ通い、何の疑いもなく信仰を持った方もいらっしゃいます。では、ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の漁師であったシモンはどうだったのでしょうか。
イエス様が「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃったとき、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」とシモンは答えました。「でも、おことばですので…」という言葉をもって、シモンの信仰生活が始まりました。
「はい、わかりました」という素直な応答ではありません。シモンは、夜が明けてから漁に出かけるのはありえないと思ったことでしょうし、夜通し働いて収穫がなかったことから心身ともに疲れていたはずです。しかし、しゅうとめがイエス様に癒されたからでしょうか(ルカ4:38~39)、イエス様が語られたメッセージをすぐそばで聞いたからでしょうか(ルカ5:3)、シモンは「でも、おことばですので…」と言って、深みに漕ぎ出しました。このときのシモンは最初から積極的にイエス様を信じていたとは思われません。もしそうであるならば、大漁の奇跡を経験しても、驚くことがなかったはずだからです。
しかし、イエス様はそういうシモンを導かれました。大漁の奇跡を経験し、イエス様の足もとにひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言ったシモンであっても、イエス様は拒まれることなく、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」とおっしゃり、シモンをご自身の働きのために用いられました。
信仰の始まりは小さく、完璧ではなかったとしても、イエス様は私たちを導かれます。信仰生活の中で罪を示され、自分という存在が愚かで、惨めであったことを自覚しても、それでもイエス様は私たちを拒まれません。ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えるにあたり、そのことを御言葉によって再確認しましょう。
6/1 「神に召された者」 コリント人への手紙第一1章4〜9節 小林泰輔師
- 今日ここに集っているあなたがたは神に呼ばれた者です。Ⅰコリント1:4-9を見ていきます。まず初めに、先に主のみもとに召された父や母、祖父母や兄弟姉妹、友人、みな、あなたのことをおぼえて祈っていました(4節)。
しかし父や母に手を引かれて教会に行きながら、教会の説教や神学や信仰の実践のさまざまな点で、キリスト教を知的に理解しようとしたときにつまずいたことがあるかもしれません。けれども、信仰は「キリストにあって豊かな者とされ」ることから始まるのです(5節)。その父や母も、知識によってではなく、キリストとの個人的出会いによって変えられたのです。罪に死んでいた者の、霊が息を吹き返して生きる者となったのです。それから知識が与えられるのです。。その生き様に、あるいは死に様にはキリストの姿があったのではないでしょうか。「彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい」(ヘブル13:7)。あなたがキリスト者の家庭に生まれたことは、神からのプレゼントです。信仰は賜物だからです。クリスチャンの友人を通して信仰に導かれた方も、苦難や試練を通してキリストに出会った方も、それらはすべてキリストとともに食卓に着くために送られた神からの招待状です。
クリスチャンの生き方は倫理的に高い基準を歩もうとします。「ちゃんとしなさい」とよく叱られたでしょうか。親の務めとしてはどうしても厳しく言わなければならない。その陰で、父や母が涙ながらに自分こそが「ちゃんとできていない」ことを神に注ぎ出して祈る姿があるのです。自分で自分を救えない私たちを神は責めることはなさいません。なぜならば、すべての罪の責め苦はイエスが背負って十字架の上で死んでくださったからです。このイエスを信じる時に、私たちの罪の責めも死んだものとなり、最後まで保ってくださいます(8節)。
神は真実な方です。神は間違って選ぶことをなさいません。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです(9節)。
5/25 「旅に出たご主人」 マタイの福音書25章14〜30節 小林泰輔師
- 天の御国(神さまの統治)が、旅に出た主人としもべの関係でたとえられています。主人は神さま、しもべはすべての人間を指します。神さまは一人一人にタラント(賜物)を与えてくださいました。丈夫な体、器用な手、速く走れる足、話す力、人を励ます才能、柔和な笑顔。目に見える能力だけでなく、困難の経験や弱さも含まれ、神さまはそれらをも用いることがおできになります。神さまは良い方で、恵みを与えようと私たちを追いかける方です。
例え話では、主人は三人の人に五タラント、二タラント、一タラントを預けて旅に出かけました。主人の不在の間、二人は預かったものを用いて増やすことができました。主人が帰ってくると、この二人は儲けを報告し、ご主人は「よくやった、良い忠実なしもべだ」と褒めました。しかし、一タラント預かったしもべは、失敗を恐れて地面に穴を掘ってタラントを隠しました。そのことによって、彼が主人を信頼していなかったことが明らかになりました。主人は彼の不信仰を責め、彼のタラントを取り上げ、五タラント預けられた人に与えました。この役立たずのしもべは外の暗闇に追い出されてしまいました。そこで泣いて歯ぎしりする、これは地獄に落とされることの慣用表現です。
主人は、儲けを出したかどうかという成果にこだわったのではありません。主人である神さまに信頼して、リスクを冒してでも天の御国のために、人々の幸せのためにそれを用いたかどうかを問うているのです。たとえ失敗したとしても、神さまのために良かれと思ってしたことならば、何かを失ったとしても、神さまにとっては「わずかなもの」を失ったに過ぎないので、責められることはありません。
この世は主人不在の家のようです。しかし、今も聖霊なる神は共にいて、私たちと旅路を共に歩み、信仰と賜物を用いるよう励ましてくださいますから、主と共に冒険しましょう。
5/18 「福音の生けるあかし人」 コリント人への手紙第二3章2-3節 小林泰輔師
- 2024年度の歩みを振り返ります。「霊的に健康な教会」を目指して歩みました。ヨハネの手紙第三2節にあるように、私たちのたましいや霊の健康、そして教会としても健全に歩むことを願ってきました。創立100周年を迎え新しい霊の息吹を求めてまいります。
昨年度はコロナ禍の終息とともに、教会活動に新しい息吹が吹き込まれたと感じています。「教会学校」の代わりに、礼拝を子どもも大人も一緒にささげられる内容にできるだけ工夫し、毎月一回ジョイフルアワーも始めました。子どもたちが教会にいることは、教会が成長している証しであり、主からの励ましです。
また、日・中合同礼拝が毎月ささげられ、今年度からは月二回になりました。国籍を超えてイエスの御名のもとに一致する、連帯できる恵みのときです。黙示録7章の諸国の民が集まる礼拝を先取りのような幸いだと感じています。
交わりの面では公的な会合が途絶えた面はありましたが、それでもイエスさまを求めて通い続けた青年が洗礼を受けたり、バイブルキャンプを通して恵みを受けた子どもたちが受洗したりと、教会に新しい命が生まれていることを感謝します。霊的に健康な教会においては、新しい命を生み出します。
これからの私たちの教会は、かつての100人教会のような働きは不相応でしょう。今は小さな教会の部類に入り始めていますが、小さいことが生かされることもあります。ギデオンは大軍を相手に300人まで絞られました。それは小さな者を神が用いて大きなことを成すときに、神の栄光が最大限にあがめられるからです。
小さな教会には大きなチャレンジである伝道師招聘にも踏み出して参ります。みたまキリスト教会との協力体制も築きながら、常に主にフォーカスして、大きなことをなされるお方に信頼して新年度も、生きたキリストの手紙として、福音のあかし人として歩んで参ります。
5/11 「神の愛と赦しの体験」 コリント人への手紙第一2章14節〜3章3節 藤井聡美姉
- 人は良い人になろうと努力します。良い行いをすることで、悪い行いの埋め合わせをしようとします。しかし、人間的な努力では、決して罪を洗い流すことはできません。罪は人間の本質の1つだからです。罪の性質をもつ、私たち人間には神様からの超自然的なきよめが唯一の希望です。しかし、神の子どもとして生きるということは、罪の問題がなくなるということではありません。イエス様と親しく歩むことで、かえって罪の問題に敏感になります。
Ⅰコリント2:14~3:3には、神様の視点から見た、人間の3つの霊的状態が描かれています。一つ目は「生まれながらの人」、二つ目は「御霊に属する人」、三つ目は「肉に属する人」です。いつも御霊に属する人でいたいと思っていても、知らず知らずのうちに肉に属する人として歩んでしまっていることがあります。皆さんは今、この3つの中の、どの人の状態にいるでしょうか。
では、今、自分が「肉に属している人」だと気づいた場合、どうしたらよいでしょうか?「霊的呼吸」という概念で説明します。霊的に吐き出すとは、「罪を告白する」ということです。(Ⅰヨハネ1:9)告白するとは「同意する」「認める」ということです。神様が気づかせてくださった罪に同意します。そして、自分の罪を神様に伝えます。
霊的に「息を吐き出す」とき、霊的に「吸い込み」ます。霊的に息を吸い込むとは、「聖霊の満たし」のことで、肉に属する状態から、御霊に属する状態へと変えられます。簡単に言うと聖霊で満たしてくださるように祈るということです。
神様の赦しは完全です。信仰によって、神の愛と赦しを受け取りましょう。それにより、私たちはサタンの攻撃から守られます。御霊に属するクリスチャン生活は、そこから始まるのです。
5/4 「美しく変えられる」 ヨハネの福音書16章28-33節 小林泰輔師
- 「神の力強い手の下にへりくだりなさい。神はちょうど良い時にあなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6,7)「神の力強い手」という言葉が示すように、私たちの人生におけるあらゆる不安や心配事を、神さまの御手の中に委ねることができます。神さまは私たち一人ひとりを深く愛し、心配してくださっています。私たちが自分の人生を神さまの御手に委ねるならば、私たち自身で行うよりも遥かに美しく仕上げてくださるのです。「ちょうど良い時(in his time)」に神さまが最善を行ってくださる、そのタイミングは完璧です。
「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)ここでの「すべてのこと」とは、人生で起こる困難なこと、不安なこと、悲しい出来事、何かを失う喪失体験など、良いことも悪いことも全てを含みます。これら人生のあらゆる出来事が、神のタイミングと御手の中で、私たちにとって、そして神さまにとっての「益」へと変えられるという約束です。それはすぐに起こるかもしれないし、長い時間がかかるかもしれないですが、神は最善のタイミングを知っておられるので、最も美しくベストな形でその変化は訪れるのです。「すべてのこと」とは、単に時間だけでなく、協力者や環境(良かれ悪しかれ)、そして必要なものすべてが神さまに用いられることを意味し、天地を創造し支配する神さまが自由自在にこれらを働かせることができるからこそ、それは可能なのです。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言われました。イエスさまは、この世に苦難や悩み、不安、心配事が必ず存在することを率直に認めつつも、ご自身がすでに世に勝ったことで、私たちに平安を与えることができると約束されているのです。人間が支配する世界が続く限り心配事は絶えないかもしれませんが、イエスさまが共にいてくださるならば、困難や嵐の中でも私たちは平安でいられるのです。不安や弱さを持ったまま、ありのままの自分で神の御前に出て、全てを神さまに委ねることです。そうすれば、神さまが私たちの人生のすべて(不安、弱さ、困難、悲しみ、喜び、日常の何でもないこと)を、その素晴らしいタイミングと方法で、私たちにとって美しく、益となるように必ず変えてくださるという希望が与えられています。
4/27 「復活の主とトマス」 ヨハネの福音書20章19-31節 小林泰輔師
- イエスがよみがえられた日の夕方のことです。弟子たちはマグダラのマリアから復活の主のことを聞かされていながら、まだ恐れの中に閉じこもっていました。扉には固く鍵をかけ、イエスの十字架刑の余波からくるユダヤ人たちからの迫害を恐れていました。
そんな中、イエスさまは来られ、彼らの真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように(シャローム)」と言われたのです。扉をノックすることもなく、鍵を開けてもらうこともなく、目の前に現れたのです。弟子たちは主を見て喜びました。確かに手と脇腹には傷跡がありました。十字架の出来事や、復活したという知らせや、この三日間の目まぐるしい出来事が夢か幻かのように思われたかもしれませんが、確かな事実だったのです。
主は私たちの罪を背負われて十字架にかけられました。そのために私たちの罪の責苦もまた死んだものとなりました。そして主は私たちのためによみがえられました。そのために私たちの罪が確かに赦されたことを知ったのです。これは歴史上に起きた確かな出来事でした。
ところが弟子の一人のトマスはその時、その場にいませんでした。彼が帰ると他の弟子たちは興奮気味に「私たちは主を見た」と言いました。トマスはどう思ったのでしょうか。その事実を疑ったのか、私も見たかったと悔しがったのか、「私は、その手の釘の跡を見なければ(中略)決して信じません」という反応でした。翌週、同じような状況でまた主は現れてくださいました。トマスのためにです。感激したトマスは「私の主、私の神よ」とイエスに対して信仰を告白しました。主イエスは「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。
私たちは、見たことはないけれども主をイエスと信じています。聖書のなかに記され、私たちの心の中に来られたイエスさまを信じています。その私たちに主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。福音の生けるあかし人として歩みましょう。
4/20 「新しい命の転換点」 ローマ人への手紙6章1-11節 小林泰輔師
- 復活節おめでとうございます。春は新しい命の芽吹きの季節であり、イースターエッグも命の象徴です。キリストの復活は、新しい命と新しい人生への転換点を示しています。私たちはイエスの十字架と復活によってすでに救われ、神のご計画において救いは達成されました。
これは過去形の出来事であると同時に、今も私たちは救われ続けており、将来の完成に向かって進んでいます。救いには「義認」「聖化」「栄化」という段階があります。義認は罪の赦しと神の子とされること、聖化は日々キリストに似た者へと変えられる過程です。
福音を伝えるには、「神・罪・救い」の三つを基本に、自分の体験や証しを交えるとよいでしょう。それはその人にしか語れない、特別な伝道になります。復活は救いの確証であり、十字架の贖いが有効である証です。私たちはキリストとともに死に、ともに生きる者とされました。聖化は、罪の力から解放され、罪を犯さずに歩む自由を得ることです。それはらせん階段のように少しずつ進む成長であり、自分では気づきにくいものですが、交わりの中で互いに励まされながら育まれます。
私たちはまだ罪の性質を持つ存在ですが、日々神に向き直り、キリストと共に歩む中で、神に対して生きる者へと変えられていきます。この人生の旅は、やがて主の再臨とともに完成されるのです。今を生きる私たちは、神に向き合いながら、「新しい命の転換点」を通って、救いの完成へと導かれているのです。救い主の御名をともに賛美しましょう。
4/13 「涙と笑いの交差点で」 詩篇62篇1-12節 エミリー・チョウ師
- 詩篇126篇に記された「主は私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ」という告白は、信仰者にとって過去の恵みを思い起こし、現在を支え、未来への希望をもたらす中心の言葉です。この詩篇が描くのは、涙と笑いが交差する人生の現場において、主の御業を見出す信仰の姿です。
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」と語られているように、神は私たちの悲しみを見過ごされず、それらを豊かな実りへと変えてくださる方です。ネゲブの乾いた地に命の水が注がれるように、主の恵みは乾いた心にも注がれ、回復と喜びをもたらします。
喜びは感情の高まりではなく、主がなしてくださった事実に基づいた信仰の応答です。それは表面的な笑顔ではなく、涙の現実を知った上でなお「主は大いなることをなさった」と告白できる確かな喜びです。
私たちもまた、涙と笑いの交差点に立ちながら、主の変わらぬ御業を信じ、今日も希望をもって歩み出していきたいと願います。
4/6 「歩くキリストの手紙」 コリント人への手紙第二 3章2-3節 小林泰輔師
- 今年度標語は「福音の生けるあかし人」です。今も昔も教会に足りていなかったのは、福音に生き、生かされているあかし人ではないでしょうか。大そうな伝道集会やプログラムやメソッドなどより、もっと身近で効果的なのは一人一人のキリスト者のあかしです。順境にあっては神に感謝と賛美をささげ、逆境にあっても神に信頼し祈る、そうして喜びをもって生きている一人の人がいるだけで、神さまは大きな栄光をお受けになります。
パウロ(当時はサウロ)は、元々はキリスト者を迫害する者でした。しかし、復活のイエスさまにお出会いし、イエスはキリストであるとあかしする者に全く変えられました。多くの人たち、おもに異邦人たちに宣教し、たくさんの教会を建てあげた使徒でした。しかし、十二使徒のようにイエスさま御在世当時からの弟子ではないこともあってか、パウロの使徒性を認めようとしない者もおりました。パウロがキリストの使徒であることを証明するのは、コリントやその他の教会の信徒たちであると、ここでパウロは言うのです。自分の功績を誇る推薦状など不要(1節)としながらも、推薦状があるとしたらそれはあなたがたですと言いました。パウロ自身も含めた「私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれてい」る“歩くキリストの手紙”それはあなたがた一人一人のことだと言いました(2節)。昔、旧約時代は石の板に書かれたみことば(十戒や律法)が外側から人を真理に導きましたが、今やエレミヤ書の“新しい契約”(エレ31:31-34)の通りに人の心の板に書き記されて内側からその人を導き、日々新しく造り変えられていくのです。それは内住のキリスト、御霊によるみわざです。私たちの心がけや努力によるところではなく、キリストの御霊によって新しくされるとき、内から言葉に尽くせない喜びが溢れ出てくるものです。そのさまを見て人々は神を仰ぎ見るようになります。委ねて聖霊を待ち望みましょう。