2019年度

3/29 「礼拝の喜び」 ヘブル人への手紙10章19~25節 小林泰輔師

礼拝の喜びは何よりも神さまにお会いできることです。神さまの御前に大胆に出て行くことが許されていることです。それは御子イエスさまの肉体が裂かれ、血潮が流されたことによるのです。イエスさまが十字架で死なれたとき、神殿の聖所と至聖所とを隔てていた垂れ幕が“上から下まで真っ二つに裂けた”(マタ27:51)ことは象徴的なことで、イエスさまが、みことばの通り、私たちが父なる神の御前に出るための道となってくださったのでした(ヨハ14:6)。
この箇所から三つの勧めがあります。①全き信仰をもって真心から神に近づこう(22)。「きよめられ」「洗われ」というのは覆しようのない事実として語られています。すでに十字架の血によって私たちの罪はきよめられ、救いは成し遂げられました。そのキリストの功に完全に信頼して、幼子が父の胸に飛び込むように大胆に神に近づいていきましょう。
②希望を告白し続けよう(23)。動揺させられる何かが教会にあったのかもしれません。しかし、約束してくださった方は、真実で変わることのない方ですから、御国は永遠に完成する(12~14節)という希望を告白し続けましょう。
③愛と善行を促し、励まし合い、互いに注意を払おう(24,25)。礼拝の喜びは教会としてともに礼拝をささげることにあります。そして互いに愛し合い、励まし合うことに教会に生きる喜びがあります。それをやめてしまうことなく、互いに注意を払い合い、ともに成長して参りましょう。疫病、地震や台風などの災害、さまざまな困難が今後もある中で、教会が世の光、地の塩として、愛と善行のキリストの良きしもべとなれるよう祈り備えましょう。

3/22「互いに愛し合う」ヨハネの福音書13章1~15節

イエスさまは過越しの祭りの際、弟子たちと最期の食事のときを持たれました。そこで弟子たちを「最後まで(極みまで)愛された」とあります。これまでも目いっぱいの愛を注いで来られましたが、世を去る時が近いのを知り、なおいっそう愛されたのです。これまでの教えの仕上げの時でもありました。
そこでイエスさまがなさったことは、弟子たちの足を洗うことでした。当時はサンダルで舗装のない道を歩きましたので、足が汚れます。それを洗うのは奴隷の仕事でした。しかし、イエスさま自らがご自分を低くして弟子たちに仕える姿を見せられたのです。
驚いたペテロは、そんなことはしないでくださいと遠慮しましたが、イエスさまは「わたしがしていることは、今はわからなくても、後で分かるようになります。」(7節)と言われました。弟子たちの足を洗うことは、互いに愛し合うことの模範であるとこの時も説明されました(14,15節)が、互いに愛し合うということがどういうことなのか、本当の意味が分かるのはイエスさまの十字架の愛を知ったときでした。
また、イエスさまに足を洗っていただくのでなければ、イエスさまと何の関わりもない者だということだとも言われました(8節)。私たちは人に迷惑をかけることを遠慮しますが、イエスさまは私たちの罪の汚れを洗うことを迷惑とはなさいません。ですから、私たちもイエスさまの弟子として師に従い、互いに大いに迷惑をかけ合いながら、重荷を負い合って、愛し合いながら共に生きるのです。その姿を見て、世は神のおられることと、その愛とを知るのです。(13:34,35)

3/15「主の御前に歩む」創世記17章1節 小林泰輔師

来る2020年度の教会標語は「主の御前に歩む」です。神さまの生きておられるところに、私たちも生きているという臨在の信仰が大切です。
この箇所から主はまず、「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である」と、ご自身の性質について新しい啓示を与えてくださいました。これは子孫の与えられる約束をいただきながら、長い沈黙の中で試みられてきたアブラムにとって新しい光となったことでしょう。主は全能の神です。「全き者」となる聖化の前提は、全能の神がそれを成してくださるということなのです。
 次に「わたしの前を歩み」なさい。と言われました。私たちは全能の主の御前を歩んでいるのです。今も生きて働いておられる主の御手の中で歩む、臨在信仰がなければなりません(ヘブ11:6)。主は全てご存知ですから、罪や過ちを告白しながら整えられていくことが必要です。
そうして「全き者であれ」と言われます。これは道徳的に罪のない完全な状態を指しているのではありません。神さまとの関係が健やかであることです。そうして隣人との関係も健やかになり、よいわざを行うために十分に整えられた者(Ⅱテモ3:17)とされるのです。全能の神さまがそれを成してくださいます。
神さまは愛においても全能です。神さまは私たちがどんな状態でも、全き愛をもって愛してくださいます。ですから、その神さまに信頼して歩みます。すべては神さまの御前で起きていることであります。神さまは決して私たちを手放すことはなさいません。御手の内にあることに平安をおぼえつつ、神の子どもとして健やかに歩ませていただきましょう。

3/8「見捨てないお方」 ヨシュア記6章1~27節 森田学師

私たちの信じる神とは一体どんなお方か?神の民イスラエル人のリーダー・ヨシュア、そして神に敵対する街エリコの住民・ラハブ、二人を通して教えられます。
①私たちは、たびたび人の力や考えではにっちもさっちもいかない、大きな石の壁にぶちあたります。
いまヨシュアは、エリコの街を取り囲む巨大な石の壁に歩みを妨げられています。そんなとき神は、人間では想像もつかないことを言われます。果たしてそんなこと意味あるのだろうか?そう思えることを…。しかし、神の言われることを、疑わずに信じ、みこばの通りにするときに、邪魔な石の壁は見事に崩れてなくなるのです。
私たちが、“神と一緒に歩くことを邪魔するもの”を、神は神の方法で、壊して取り除いてくださるお方なのです。
②もう一人は、ラハブです。遊女ラハブは職業がら同胞からも蔑まれていたでしょう。また、敵であるイスラエル兵を助けたこと(2章)もあり、ラハブの味方はもうどこにもいません。
そんな救いの無い中で、ラハブは大切なことに気づきました。ヨシュアと一緒にいる神こそが、本当の神なのだ!と。この神は、海を割って、太陽を止める、とんでもなくすごいお方…。
なんと、神を無視するエリコの街の中で奇蹟が起ったのです。この神こそが、私を、私の家族も親戚をも助けて救ってくださるに違いない!ラハブはそう信じ、本当の神だけに頼りました。
愛の深い神は、ラハブの求めを確かに聞き、覚えておられました。神は、ラハブの求め通りに、ラハブと家族、親戚すべてを救いました。驚くことに、ラハブの家は、崩れて無くなる石の壁の中にあったのです。
このように全く一方的に救われたラハブの子孫から、やがて真の救い主イエス・キリスト(ヨシュアのギリシャ語訳は、イエスというのも偉大な神のご計画を覚えます)が生まれてくださることは驚く恵みです。どんなに酷い惨めな私でも、神を求めるならば、神は見捨てず必ず救ってくださるお方なのです。
3400年経った今も、イエスは願っています。私たちだけではなく、誰もがラハブのように、イエスご自身を求めることを。

3/1 「あきらめないで祈る」ルカの福音書11章1~13節 小林泰輔師

祈ることについて弟子たちはイエスさまに教えを請いました。イエスさまはまず何を祈るべきかを教えてくださいました。有名な「主の祈り」です。「父よ」と祈るように教えてくださいました。神さまは私たちにとって天のお父さんです。そして父の栄光のために祈ること、日々の必要を祈ってよいこと、罪の悔い改めと誘惑から守られることなどを教えてくださいました。
 次に祈る態度について、たとえ話を通して教えてくださいました。夜中の旅人をもてなすのにパンがないというときに、近所の友人宅にパンを借りに行きますが、夜中のために対応してくれません。それでもしつこく頼み込むと友人は仕方なく対応してくれました。そこからあきらめないで祈ることを教えてくださいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。…だれでも、求める者は手に入れ」られるのです(9,10節)。
 そして最後に、祈りを聞いてくださる方がどのようなお方かを教えてくださいました。私たちの天のお父さんです。人間の父親には悪人もいますが、悪人でさえ子どもには良いものを与えようとします。ましてや天の良い父である神さまは私たちに最善を与えてくださいます。天の父は祝福を与えたいのです。
 祈りが聞かれないように思うとき、それは神さまが意地悪をしているのではなく、最も良いものを、最も良い時に与えようとしておられるのです。私たちの祈り深さのゆえではなく、神さまが良い父だから祈りは聞かれるのです。神さまが良い父で最善をなさる方であることを信じて、全くゆだねて祈り続けることをイエスさまは教えてくださいました。

2/23 「奇妙でわかりにく神の物語」 創世記9章1~17節ほか 大頭眞一師

【下向きの渦巻き】神さまを押しのけ自分が主人公になろうとしたアダムとエバ。愛し合うために造られた兄弟を競争相手とみなしたカイン。世界の主人公は神さまであることを忘れると、なにもかもがおかしくなっていきます。ノアの時代の罪は私たちと関係がないのではありません。私たちもまた、目の前にいる人と共に生きることに、たびたび失敗します。自分を愛するように目の前にいる人を愛することに失敗するのです。パウロはローマ書7章で、私たちを愛から遠ざけようとする力があると言います。罪の力です。
【神さまの賭け】神さまはそんな増大する罪に心を痛められました。私たちが罪を犯すときに、もっとも傷つくのは、神さまなのです。神さまの前には三つの選択がありました。①何もしないで人の悪がますます増大するのを見続ける②罪が増し加わるのをとどめるために、すべてを滅ぼす③ノアという一人の人とその子孫に賭ける。神さまは不思議なお方。人を造ったことによって心に痛めながら、なお人に期待し、人と共に生きようとしてくださるのです。
【神さまの勝利】ノアとその子孫に賭けた神さまは、この賭けに勝ちました。やがてノアの子孫から、主イエス・キリストがお生まれになったのです。主イエスは、十字架の死にいたるまで、父に従い抜かれ、復活のいのちを私たちにもたらしてくださいました。ローマ書8章には、この勝利が宣言されています。主イエスが与える新しいいのちは私たちを解き放ちます。
【空にかかる虹】「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」(9:13)とあります。神さまの契約は恵みの契約、一方的な恵みの誓いです。神さまは私たちを「永遠の契約」(9:16)で祝福する、と仰っています。自分の罪に打ちひしがれるときも、思うようにならない現実に悩むときも、私たちは、神さまの永遠の誓いを思い出すことができます。たとえ虹が出ていなくても、

2/16 「血によって離れ、つながる」ヘブル人への手紙9章1~15節 小林泰輔師

世界中に恐ろしい病が蔓延しています。死に至る病でありヒトからヒトへ感染もします。人類が太古の昔から苦しんできたこの病、それは罪という病です。マスクや手指の洗いきよめでは防ぐことも治すこともできません。ただ一つの特効薬は神の御子イエス・キリストの血です。
  御子は肉体をとり人となってこの世に来てくださいました。ただ一度だけ人として来られ、大祭司として、いけにえの小羊として贖いを成し遂げてくださいました(11,12節)。「キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によってお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」(14節)キリストの血が私たちの良心にふりかけられるとき、私たちの心にまつわりつく(ウィルスのような)罪を殺し、死んだ行い(肉欲や律法主義)から離れさせるのです。神殿における動物のいけにえの祭儀は対症療法的でしたが、キリストの血は根治療法です。
  そうしてまた、キリストの血は私たちを父なる神に結びつけ、生ける神を礼拝する者へと造り変えてくださいます。細胞ごと新しくされるようなものです。私たちを永遠の滅びに導く罪の病は、キリストの打ち傷によって癒されるのです(Ⅰペテ2:24)。それは私たちが罪を離れ、義に生きるためです。神に仕え神を礼拝する者として、神に喜ばれる礼拝とは何か。それは自己中心的な自我を明け渡し、隣人を愛して生きることです(イザヤ58:6-14)。キリストの血によって神につながり、幹であるイエスさまにつながり続けるときに、それは初めて可能になります。キリストの愛に、みことばにとどまり続け、実を結ぶ生涯を歩み続けて参りましょう(ヨハネ15:4,5)。

2/9「新しい人生」 ローマ人への手紙6章1~14節 森田学師

『罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。』イエスの罪の赦しはどれほどすばらしいものでしょうか。今まで神に背を向け、好んで罪に溺れていた者の罪を、すべて赦すと宣言してくださいます。罪から来る死、滅びという、罪の支配から私たちを全く解放してくださるのです。
そして、イエスを信じて始まる新しい人生には、今までは友であり、今は敵となった罪との戦いがあります。
 その戦いの中で、私たちは弱さを覚えることがあります。
 パウロも7章では、“善ではなくて、したくない悪を行なっている”と、自分の弱さを告白しています。
 それでも、パウロを通して主は励ましてくださいます。『罪があなたがたを支配することはないからです。』
 イエスを信じてからは、決して罪を犯さなくなる人はいません。完全な人はイエスだけだからです。
 そのイエスが、たった一度の十字架で、完膚無きまでに罪を負かし、悪魔に完全に勝利されたのです。それも、2000年前にです。
 この勝利は、私たちの新しい人生の未来にまでも働き続けます。イエスを信じてから先も、犯したくないけど犯してしまうであろう罪に対しても、変らぬ勝利の力があり続けるのです。イエスの勝利を信じましょう。
 罪が私たちを支配することを、決して許さない神の愛の御手の中で、私たちは今、守られていることを覚えたいです。
このような、人の理解を超えた驚くことをなされるのは、まことの神様だけです。

2/2「新しい契約」 ヘブル人への手紙8章1~13節 小林泰輔師

8章前半は、これまでの流れを受けて、旧約律法のもとにある祭司から、新しい契約のもとにある永遠の大祭司イエスさまについて書かれています。旧約の律法、祭司の職務やいけにえや幕屋などはすべて「天にあるものの写しと影」(5)であり、実体は御子イエスさまであることがわかります。イエスさまはよりすぐれた契約とその仲介者として世に来られたのです(6)。
 後半は、新しい契約が来た!ということです。「初めの契約の欠け」(7)とはなんでしょうか。それは「人々の欠け」(8)であったことがわかります。初めの契約(旧約)も十分に恵みとあわれみに満ちたものでした。神はイスラエルを愛し「手を握って」(9)助けてくださったのです。エジプトの奴隷として、ただの労働力として生き、そして死んでいく生涯。そのような生きる指針を失っていた民に、神に従い神の栄光のために生き、互いに愛し合うことを命じたのが律法です。それが救いでした。しかし、民はやがて恵みに慣れ、神の愛の契約にとどまらず自ら迷い出ていったのです。
 しかし、神の燃えるような愛はもう一度民をあわれみ、新しい契約を与えることを約束してくださいました(エレミヤ31:31-34)。これは御子の到来によって成就する、聖霊内住の預言でした。心の板に律法(神のみおしえ)が刻まれ、内住の聖霊によって御心が知らされ、主とひとつになるのです。またそれにより神を神として、私たちは従う者として(10)、正しい位置関係に矯正されます(Ⅱテモテ3:16)。私たちは不義であったのに、その罪を愛によって覆ってくださいました。私たちの犯した契約不履行の罪を思い起こさないと言われるのです(12)。古い契約のもとでの罪は、イエスさまの贖いにより消えさったのです(13)。ハレルヤ!

1/26 「王妃になったエステル」エステル記4章14~17節 小林泰輔師

エステル記には、主(ヤハウェ)という言葉が出てきませんが、主なる神さまが生きておられる救い主であることがよくわかるほんとうの物語です。
 クセルクセス王の時代、エステルと養父モルデカイはペルシアで暮らしていました。あるとき、王の妃(ワシュティ)がとある事件により失脚すると、新しい妃が選ばれることになりました。エステルもまた王宮の人たちの目に留まり、それでエステルが新しい妃に選ばれることになりました。
 またあるときから王は、アガグ人ハマンを重用するようになりました。それで王の家来もみなハマンにひれ伏しておじぎをするようになりました。しかしユダヤ人であるモルデカイは天地の造り主なる神さま以外にひれ伏すことはしませんでした。ハマンは、モルデカイだけが自分にひれ伏さないのを知って怒りました。それでモルデカイのみならず、イスラエル人を皆殺しにする計画を立て、王をたぶらかして法令を認めさせてしました。
 イスラエル人の危機を救うため、モルデカイはエステルに望みをかけ、助けを求めて言いました。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」(4:14)。エステルもこれが神の摂理であることを信じ応じました。前王妃ワシュティの例もあり、妃と言えど勝手なことをすれば死罪も有り得ることです。それでも「死ななければならないのでしたら死にます」との覚悟で立ち上がったのです。
私たちの人生にも神さまのご計画によって導かれています。御心に委ね、主を信じて、なすべきことをしていきましょう。

1/19 「完全なる救いの御子」 ヘブル人への手紙7章20~28節 小林泰輔師

①御子は救い主として完全にその要件を満たしておられます。「永遠に完全な者とされた御子」(28)は、真の神であり、真の人であられました。「敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司」(26)であられました。著者は、レビ族ではない祭司の例をメルキゼデクに求めます。そして世襲のレビ族とは違い、イエスさまは神の誓いによって祭司に任命されました(20,21節、5:5,6)。
 ②御子イエスの完全なる救い。御子イエスは「ご自分によって」(25)、「イエスは自分自身を献げ」られた(27)ので、その十字架の血によって救えない命はありません。その救いは完全なものです。今日も神の右の座におられて私たちのためにとりなしていてくださるので、救われ続けています。この主の救いから誰も私たちを奪い去ることはできません(ローマ8:33,34)。
 ③御子は私たちを完全な者にしてくださいます。救いとは、罪赦され天国に行けることにとどまりません。この地にあってキリストに似た者として完全な者となることです。御子は十字架の上で「完了した」(ヨハ19:30)と言われました。その後よみがえられたイエスさまは「聖霊によるバプテスマ」が授けられることを約束してくださいました(使徒1:5,8)。みことばの通りに、神のかたちを回復せられた者、完成した者となることができるのです。聖霊の満たしを求め続けましょう。上よりの力を受けて主の証し人として用いられるのです。大胆に神に近づき求めるなら、主は私たちを完全に救うことがおできになります(25)。

1/12 「さんびする人生」 詩篇103篇1~5節 森田学師

ほめたたえる=さんびとは、どんなに神さまはすばらしいお方か、天の父はなんてすてきなお方なのかをあらわすことです。神さまをさんびする形は無限です。作ること、奏でること、描くこと、喋ること、踊ること…など、主は、私たち一人ひとりによって、主が賛美されることを喜ばれます。人は、自分に都合の良い条件が揃わないと、主に感謝しない、主をほめたたえられない、主に望みを抱くことができません。しかし、状況に囚われずに、どんなに小さな感謝でも、人が主をさんびするときにその人は輝き、人々は主の栄光を見ます。疑ったり、無理と思うときでも、それでも、なお主に感謝して生きるときに、アブラハムのように、その私たちの信仰を喜ばれ、主が私たちの信仰を強められます。
 どのような状況であっても、いままで『主が良くしてくださったことを』一つ一つ感謝する。私たちは忘れやすいですが、聖霊が私たちの内で、神への感謝を思い起こさせてくださいます。【Ⅰテサロニケ5:16~19】
 聖霊ではなくて、怒りに満たされると大変です。悪魔が怒りを好んで感謝を喰い尽くしにやってきます。しかし、悪魔に勝った勝利のイエスを想い、なによりも神の愛へ感謝にあふれて歩む私たちとさせていただきましょう。

1/5 「助けがある」 詩篇46篇1~11節 小林泰輔師

「神はわれらの避け所」とあります。この「避け所」という言葉は風や嵐を避けるために岩陰に隠れるようなイメージがもとになっている言葉です。神様のもとに身を寄せるということは、最も安全で安心が保証されることです。人が安心を感じる場所というのは、自分が愛され受容されていると感じられる場所です。父なる神は私たちをありのままで受け容れて下さる方です。
 神はわれらの「力」であるとあります。この言葉は「要塞」とも訳せるように、戦いにおける力といった積極的な意味があります。私たちを惑わす罪の力に対して、また、私たちを恐れさせる死の力を打ち滅ぼすために神の力は行使されたのです。その力とは、御子イエスの十字架と復活において表されました。十字架によって勝利を得させて下さいましたので、罪と死の力を恐れることはなくなりました(Ⅰコリント15:56,57)。
 「苦しむとき、そこにある強き助け」とあります。これは「助け手」と訳される言葉です。私たちが悩み苦しむとき、その苦しみの経験の中に、私たちは神を見出すのです。助け主なる聖霊がいつもともにいて下さり、おりにかなった助けを与えて下さいます。
 「それゆえ、われらは恐れない」(2節)。真に畏れるべき方を知る私たちは、恐れなく世界に対して向き合うことができるのです。父、御子、御霊なる神様を畏れ、ひざをかがめ礼拝します。

12/29 「待ち望む」 ルカの福音書2章21~40節 エミリー・チョウ師

ルカの1章と2章にはイエスの幼かった頃の話があります。その中でシメオンとアンナに重要な役割があります。彼らは初めてイエスを救い主として認めた人だからです。そして、初めてこの福音を他の人に伝えた人でもあります。この福音、良い知らせはエルサレムの神殿から始まりました。
 この2人は信仰に堅く立ったクリスチャンとはどのような人かということを教えてくれます。まず、彼らは人生の中でも終盤にいました。年齢自体が最も大切なことではなく、彼らがそれだけ長い時間神を信じ、信頼しているということが大切だと言っています。
 どのようにしたらシメオンやアンナのように信仰を堅く守り、最も辛い時にも希望を持ち続けることができるようになるのでしょうか。私たちは彼らが聖霊の導きに従っていたことをみることができます。また、霊的な訓練を積んでいたことがわかります。今日私たちは自分自身を神の言葉や聖書の教えを守るために訓練していかなければなりません。神に対する畏敬の念を持って、日常生活でどのように人々に接し、考え、話し、行動していくかを決めるべきです。
 シメオンとアンナの話から学べる最後のポイントは、彼らは神の御業の成就を切に待ち望み、それと同時に神の偉大な計画の一部になることを切に望んでいたことです。シメオンとアンナが忍耐を持って神を待ち望み、正しく生き、望みと熱意を持って彼らの最期の時を生きていたかが分かります。彼らはいい人生のお手本ではないでしょうか?

12/22 「主は私たちの王」 マタイの福音書2章1~12節 小林泰輔師

イエスさまがお生まれになってから(おそらく)しばらくして、東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。彼らは占星術を用いる人たちで、不思議な輝きを持つ星にユダヤ人の王が生まれたことを読み取ってやって来たのです。彼らの目的は新しい王子の誕生を祝い、また礼拝することでした。また彼らはその星が先導するのを見て、この上なく喜んだとあります。異邦人の彼らがなぜそこまでするのでしょうか。失われた北イスラエルの10部族の末裔であったという説がありますが、そうであれば納得のいくところもあります。それはそうと、すべての民の救い主としてお生まれになったイエスさまを私たちも喜びます。
 しかし、ヘロデ王にとってはこの知らせは好ましいものではありません。東方の博士たちの来訪と、王の誕生の星占いの話を聞いて、律法学者たちに確認をとります。すると、ダビデの町ベツレヘムでその王は生まれると預言にあると言うではありませんか。ヘロデ王はイドマヤ人でしたので、偉大なダビデ王の血脈なる新しい王が生まれたとなれば、自分の地位が危ういとでも考えたのでしょう。恐ろしくも愚かな命令を出してしまいます。ベツレヘムと近辺の二歳以下の子どもを皆殺しにせよというのです。イエスさまと両親は、主の御告げによりエジプトに逃れ、難を逃れました。
 聖家族のエジプト逃避行の前に、博士たちはベツレヘムで幼子イエスに会うことができました。彼らは黄金、乳香、没薬をささげ礼拝しました。主イエスは黄金を受けるにふさわしく、まことの王です。また乳香を受けるにふさわしく、神なる方です。没薬を受けるにふさわしく、よみがえりの主です。私たちもこの上ない喜びをもって、このお方を礼拝します。

12/15 「成熟を目指して進む」 ヘブル人への手紙5:11~6:12 小林泰輔師

聖書のみことばには叱咤と激励があります。私の問題として、また教会の課題として、成熟を目指して進むために、みことばから叱咤激励を受けます。
叱咤①5:11-14私たちは聞くことに対して鈍い者ではないか。信仰は持っているだけでは「なまくら」になってしまいます。信仰は働かせるものです。キリスト者は信仰を働かせて聞き、学び、受け止め、期待して信じ、そして実行するものです。なまくらな信仰は乳や柔らかい食物のような優しいみことばしか食べません。しかし霊的な大人は固い食物も食べます。主のみことばは鋭い剣のように私たちの心のはかりごとを判別されます。そうして悔い改めて導かれながら、霊的大人として成熟していくのです。
 激励①6:1-3しかしここで聖書は「もう一度教会学校や洗礼準備会からやり直しなさい」とは言われず、「神が許されるなら、先に進みましょう」と言われます。子の成長を見守りながら、少しずつ次の段階に行くよう促す父の愛です。
 叱咤②6:4-8クリスチャンの堕落について厳しく戒めます。叱咤であり激励、鼓舞のようなところがあります。イエスさまに二度目の十字架を負わせて良いのか?と迫るようであり、主への愛を鼓舞されるものです。それこそが最も有効な罪の抑止力です。たびたび注がれる雨のような恵みですから、それに慣れてしまう愚かな私たちです。罪の赦しに慣れてしまい、小さな罪を積み重ねるという大きな罪を犯す者です。聖霊の御声に聞き、悔い改めましょう。
 激励②6:9-12神は公正な裁きをされる方です。罪を裁くこと以上に、私たちの働きや愛を忘れずに覚えていてくださり、報いてくださることによって公正さを表してくださいます。御国においてやがてすべては報われるという希望と確信を持ち続け、なまくらな怠け者にならないよう、信仰を働かせ小さな愛の花を咲かせ、忍耐をもって種を蒔き続けましょう。どんな小さな花でもかごいっぱい集めれば大きな愛になるのです。その成長を主は喜んでくださいます。

12/8 「神の予定、神の願い」エペソ人への手紙1:1~14 森田学師

 ★神の予定★みなさんは『世界の基が据えられる前から』神の子供となるように、神の永遠の愛の中で、神によって予め定められていたのです。オギャーと生まれる前から、一人ひとりのことをよく知ってくださっていて、愛してくださっているのです。
今このときも、罪人である全ての人が、救いに招かれているのです。救い主イエスの十字架を信じるなら救われます。
生きる目的もわからず、どこに向かって進んでいるのかもわらかず、光の無い真っ暗闇の中で彷徨う私たちが、そのまま滅んでほしくないからこそ、愛の声をかけて下さるのです。
 ★目的★なぜ今、神に選ばれて生きてるのでしょう。それは、『私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。』
人は、何かをすることが目的になりがちです。しかし、何をするか、何をしたか、ということよりも、大切なことは、今与えられている立場で、それを何のためにするのか?ということです。
神の栄光がほめたたえられうように、この目的をもって生きることこそが神の願いです。
 ★希望★私は弱い、できないと落ち込むときも、なお神は愛し続け、聖霊が心配してくださいます。
私たちが見失ってはいけないものは、私たちを愛をもってあらかじめ選んでくださったというこの事実です。神様のみことばは真実で、嘘や偽りが全くないです。
どうぞ、だれもがこの事実を受け止めることが出来ますように。
 神の願いを知り、みことばを信じて、みことばに生きたいと願うとき、願いに応じて聖霊が私たちを創り変えます。必ずです。
天の父の神の思いをもっと知りたい、その願いに生きていきたい。そのように、神の願いの先にある目的が、私たちの希望と重なっていきます。
私たちの信仰生活は、素晴らしいものです。
 神さまがほめたたえられることのためにと、そのことを想い生きることが、楽しみ喜びになるからです。

12/1 「御子は永遠の大祭司」ヘブル人への手紙4:14~5:10 小林泰輔師

アドベント(待降節)です。主イエスのご降誕を待ち望むときです。イエスさまはどのような方として来られたのでしょうか。暗闇を照らす光として来られました。また神からの贈り物として来てくださいました。そしてここでは、永遠の大祭司として救いの執り成しのため(5:7)、救いの源となられるため(5:9)に来られました。
 ①大祭司とは“偉大な祭司”という意味ですから、「偉大な大祭司」(4:14)とは“偉大な偉大な祭司”ということです。私たちとかけ離れて、いと高き方が、大祭司として私たちのために執り成してくださるのです。
 ②また、私たちの弱さに同情してくださる方です。人となられたイエスさまは私たちと同じ試みに遭われ、弱さを味わわれました。罪を犯すことはありませんでしたが、私たちの弱さには同情してくださるのです。
 ③そして御父に直接執り成してくださいます。罪人である私たちが神の御前に出るということは大それたことであるのに、御子イエスさまが道(ヨハネ14:6)を作ってくださいましたから、大胆にも恵みの御座に出ることが出来るのです。
 大祭司の資格要件は、神に任命されることと、民を思いやる者であることです。イエスさまは御父によって遣わされ、任命されました(5:5,6)。イエスさまも弱さと苦しみの中で「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」られました。そのゆえに「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(イザヤ63:9)私たちをあわれんで救ってくださるのです。イエスさまはゲツセマネで自分の願い通りにならない苦しみを味わわれましたが、それでも御心に従い通されました。十字架の苦しみの中で叫ばれ「父よ彼らを赦したまえ」と私の罪の赦しを祈ってくださいました。その敬虔のゆえに祈りは聞かれて、救いの源となられ、私のための贖いを成し遂げてくださいました。私は悔い改めをもって御座の前に進み出て祈ります。

11/24 「神の安息に入る人」ヘブル人への手紙4章1~16節 小林泰輔師

神の安息とは、永遠の安息のことであり、やがて来る御国での安息のことです。そこに入ることができるかどうかは、イエスを信じる信仰によるのです。信仰とは日本語がよく表しているように「信じる」ことと「仰ぐ」ことからなります。信じることは案外容易いのではないでしょうか。ほとんどの人は神的な何かを信じているでしょう。しかし神を恐れ、仰ぎ見る人は少ないのです。「私たちは恐れる心を持とうではありませんか」(1節)。
 神は裁き主であり、私たちはその方によって裁かれるのです。永遠の安息に入れないということがあるのです。モーセの時代の民が約束の地、安息の地、カナンに入れなかったのは、その世代が罪を犯したからでした。これを「不従順な悪い例」(11節)とし、その教訓に学びましょう。カナンの地、地理的イスラエルが永遠の安息なのではなく、主イエスの再臨のときに建てられる天のエルサレムこそが永遠の安息の地です。
 不従順が極まり、聖霊の御声を頑なに拒むようなことまでになれば、神の安息に入ることはできないでしょう。神を恐れ、へりくだって従順にみことばに聴き従っているでしょうか。表向きそのように演じることはできても、神を欺くことはできません。みことばの剣によって心の思いとはかりごとは見分けられています(12節)。私たちは自分の不従順を神の前で申し開きをしなければならないのです(13節)。
 しかし、御子イエスさまは大祭司として罪の贖いにより神に執り成してくださり(14-16節)、私たちの弁護者ともなってくださいます(Ⅰヨハネ2:1)。この方のあわれみにすがり、悔い改めをもって大胆に恵みの御座に近づいてまいりましょう。

11/17 「すべての人を愛する」ヨナ書1章1~3節 小林泰輔師

ヨナは神さまからにニネベに行けと命じられて、それに従うことを拒み、タルシシュ(スペイン地方か)に逃げようとしました。ニネベの町はイスラエルの
敵国であり、また、主を知らない民は罪深い歩みを続けていたのです。そんなニネベの民に神の裁きがくだることを警告しに行かせるために神様はヨナを選ばれ
たのです。しかし、ヨナは、そのような人々は滅んで当然と考え、警告を与えて悔い改めのチャンスを与えることなどしたくはなかったのです。
神さまの御顔を避けて逃げるヨナを、神さまは追いかけます。ヨナの乗った船を嵐に遭わせてヨナに迫ります。それでもヨナは船底で知らん顔を決め込むのです
が、この嵐はヨナが主に背いたからだということが知られると、ヨナもそのことを認め、水夫たちによって海の中に放り込まれてしまいます。そこに大きな魚が
現れて飲み込まれてしまいますが、食べられてしまったのではなく、主が魚を備えて守ってくださったのだと気付いたヨナは魚の腹のなかで神さまに悔い改め、
祈ります。
 再びニネベに行けとの召命を受けると今度は「主のことばのとおりに」しました。ニネベに国家的な悔い改めが起こりました。神さまはそれを見て、裁きを
思いなおされました。しかし、ヨナは面白くありません。神さまはとうごまを生えさせてヨナを涼ませ不機嫌を直そうとされましたが、また一晩明けたときには
そのとうごまを枯らしてしまいました。それをヨナが惜しむのを見て、とうごまをさえ惜しむのならましてやニネベの12万の民を惜しむのは当然だと御心を教え
諭されたのです。神さまは罪人をも愛し、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるのです。

11/10 「もう迷うことはない」エレミヤ4:1~2、Ⅰヨハネ1:9 森田学師

いま、あなたの魂はいまどこにありますか?どこに向かおうとしていますか?神さまは、今、語りかけて下さっています。『イスラエルよ、もし帰るのなら、…わたしのところに帰って来い。』
 何度も神さまを無視して背を向けていたイスラエル。そんな私たち人間に対する神さまの呼びかけは、無条件の愛によるものです。無理やりでもなく、強制もしないけれども、今あなたがどんなところに居ても、どんな状態であったとしても、帰ってきてほしいと。神様の切実な願いなのです。
 イスラエルの民がそうであったように、私たちを神さまの愛から引き離すものがあります。それは、『忌まわしいもの』=偶像です。偶像は、私たちの心を身体を、神さまの愛から引き離し、虚しく滅びて消えてなくなるものの奴隷にさせます。これこそが、忌まわしいもの=神さまの嫌いな罪です。
“罪”とは、神さまから見て、的外れな状態のことです。そして“悔い改め”とは、「私は的が外れていました、ごめんなさい」と罪を告白して、神さまの方へ向きを変える、神さまの方に向き直ることです。私たちが罪を悔い改めることができるように、イエス・キリストは、的を外した私たち一人一人の罪をすべて代わりに背負って十字架で死んで下さいました。『もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。』と神さまは約束して下さっています。『御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。』とあるとおりです。
 イエス・キリストの救いを信じましょう。この方以外には、救いは無いのです。神さま、あなたと生きていきたいのです、と。いままでは神さまを無視して、気づけば神さま以外のものを神としていました。ごめんなさいと、罪を悔い改めて、忌むべきもの・偶像を取り除いていただきましょう。
そして、遠慮しないで、主なる神さまの愛の中へ飛び込んでいきたいです。神さまは、いつでも待っています。無条件であなたを受け入れて下さいます。神さまのところに帰ってくることに、『あなたは迷うことは無い』と言ってくれています。神さまの限りない愛に生きる者とされたいです。そのとき、 みことばの通りに、私たちはお互いに祝福し合うのです。

11/3 「今日を共に生きる」 ヘブル人への手紙3章1~19節 小林泰輔師

私たちは、明日(来世)を御国で生きるために、今日(地上の生涯)を共に生きるのです。「今日」と言える日があるうちに神に会う備えをしなければならないのです。やがて「今日」も「明日」もない「永遠」という時が来るのです。その時になってからでは遅いという日がやって来るのです。人生は長い旅路です。楽しいことより苦しいことの方が多いかもしれません。ですから共に旅する者として私たちは励まし合います。
 ①私たちは神の家、一人一人は家族です。モーセは神の家族が脱落することのないように、忠実にリーダーの役目を果たそうとしました。イエスさまはモーセ以上のお方です。神の子とされた者が誰も落後することがないように導いてくださいます。
 ②ですから御霊は言われるのです。「今日」という日があるうちに悔い改めて生きよと。その御声を聞くなら、心を頑なにせず、ただちに悔い改めましょう。人生の終わりがいつ来るか分からないように、それ以上に主の再臨と最後の裁きはいつ来るか分かりません。御霊は私たちに悔い改めを迫るために、私たちを荒野(試練)に追いやることがあります。しかし、それを機に悔い改めるなら、救いを得ることができます。
 ③これは個人の救済にとどまる話ではありません。兄弟姉妹として互いに励まし合いながら、「生ける神から離れる者がないように」「罪に惑わされて頑なにならないように」気を付けて戒め合い、励ましあいながら、天の御国の安息を共に目指すのです。罪の悔い改めという重荷を互いに負い合うのです(ガラテヤ6:1,2)。誰かの弱さを引き受け、自らの弱さも披歴して助けを請う、そのような交わりが教会には必要なのです。私たちは信仰の友、神の家族なのですから。

10/27 「バトンを渡す」 列王記第二2章6~14節 小林泰輔師

預言者エリヤはその後継者として、神の導きによりエリシャを見出しました。エリヤがエリシャにかけてやった外套は預言者としての使命というバトンのようでした。エリヤはエリシャをしもべとして共に過ごし、預言者としての訓練を施しました。
 エリヤが竜巻に乗って天に携え挙げられる日が近づいてきた頃、エリヤはエリシャを残して静かに主のみもとへ去ろうとしたのでしょか、しかし、エリシャはエリヤから離れようとしません。ヨルダン川ではエリヤが外套を丸めて水を打つと、水が二つに分かれて乾いた地を渡る奇跡も起きました。そして、エリシャに最後に何をしてやるべきかを尋ねました。するとエリシャはエリヤの霊の二倍の分を求めました。大胆な求めでしたが、エリヤがこの世から取り去られる姿を見ることができれば、そうなるだろうと約束が与えられました。
 そのあと、火の戦車と火の馬が現れ、エリヤは竜巻に乗って携え挙げられていきました。エリシャはそれを見て「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と泣き叫びましたが、エリヤは見えないところに行ってしまいました。エリヤの身から落ちた外套を拾い、水を打つと同じように水が分かれて乾いた地を渡りました。エリヤの霊と力と使命とはエリシャに引き継がれたのです。「エリヤは我と同じ人なり」。私たちにもエリヤの働きが受け継がれています。エリヤに出来たことは私たちにも出来るのです。主は昔も今もこれからも変わることがないからです。私たちはその使命を教会の父祖たちから受け継ぎました。そしてまた、子や孫に受け継がせていくのです。そうしてこの地の宣教が続くように祈りましょう。

10/20 「信仰の友」 ルカの福音書5章17~26節 チョウ・エミリー師

「中風を患っている人」の物語がルカの福音書5章17〜26節に記載されています。
この人はイエスのところに行きたいと願いましたが、自分には無理なので、友人たちに運んでもらいました。しかし、人が大勢いて、
この人は部屋には入れなかったのです。すると、彼を運んでいる友たちは屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を人々の真ん中、イエスの前につり降ろしました。
散々な困難があっても、乗り越える決心をして、どうしてもイエスの前に行かなければならないとして、彼らは行動したのです。もちろん、
信仰の対象が間違ったらすべて無駄になりますが、対象が正しければ、正しい「信仰」が生じます。それは、人の意志とは関係なく、また人の能力とも関わらないです。なぜかというと、信仰の対象は人間ではなく、神様です。ですから、誰を信じるかという信仰の対象はキーポイントです。
対象以外に、信仰についてもう一つのポイントをイエスに教えられました。それはあきらめずに、かたく守るという決心です。困難にあったら畏縮し、
信仰を揺らして、他人、物事に依り頼もうとするのはまさにその反対です。病人と彼の友たちが、困難の中に、畏縮せず、乗り越えた結果、イエスは彼らの
「信仰」を見たのです。
信仰によってイエス様から友として受け入れた病人と彼の友たちと同じように、私たちも主イエスに友と呼ばれます。私たちはただ同じ教会を通っている
「教会の友達」ではなく、主によって信仰の友たちになりました。人の子、主イエスがこの地において託された使命を果たすことが出来ますように、共に努めましょう。

10/13「光を輝かせ」 マタイの福音書5章16節 森田学師

私たちは色々な思いを抱いて、今ここに招かれています。2000年前、お弟子さんも、また大勢の群衆も色々な思いを抱いてイエス様のそばにやってきました。そのイエス様が言われます。『あなたがたは世の光です。』このみことばは今も私たちに語られています。え?私なんてふさわしくない…。私なんて世の光になれない。そう思うことがあるでしょうか?でも、違うのです。世の光になりなさいとは言っていません。これは、イエス様の宣言で、言われた通りに必ずなるのです。ですから、私たちはもう『世の光』なのです。イエス様が私たちを世の光としてくださっているのです。イエス様が言われるみことばを素直に信じて受け入れる者でありたいです。
 世の光であることを認めないなら大変なことになります。13節と15節で言われていますが、塩が塩気を失うように、光がその輝きを失うならその隙を突いてサタンは闇に飲み込もうと惑わしてきます。
 主が宣言してくださっているのだから、世の光とされている身分を隠すことはもうやめましょう。『あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。』と、主が言われる通りです。私たちは、自分自身に、またお互いに、世の光とされているのだと感謝と勇気をもって励まし合うことが大事です。そして、イエス様の愛の素晴らしさとその良い御業を反射させる私たちと変えられていくのです。主は私たちに願っておられます。今まで一度も明かしたことのない友人や、家族、または職場の同僚の前で身分を明らかにしてゆくことを。それはとても輝かしいことです。
 私たちは何よりも、みことばを信じて、みことばに生きる私たちとされたいです。そのように私たちを内側から支え、助け、建て上げるのは聖霊のなされることです。みことばを信じていくときに、私たちの内で、主のことばは自由に生きて働き続けます。

10/6「人となられた神」 ヨハネの福音書1章14~18節 小林泰輔師

ちょうど400年前のこの日(1619年10月6日)、京都では大殉教がありました。橋本太兵衛、妻テクラ、子どもたち他合わせて53名(胎児含む)が迫害の末十字架火あぶりの刑に処されたのです。しかし、彼らはキリストの苦しみに与る栄誉を喜んでいたと言われています。
 人となられた神である御子イエスさまは苦しみを受けられるためにこの地に来てくださいました。そして私たちを罪から救うため十字架の上で死なれ、三日目によみがえり、その後しばらくして天に昇られました。これが福音(ゴスペル=Good News)だと聖書は言っています。
 イエスさまはおそらく仮庵の祭りの頃に生まれたと思います。荒野での神の臨在を表す仮庵は、御子がひととき人となられてこの地に住まわれることを示しているようです。イエスさまがお生まれになったとき飼葉桶に寝かされましたが、これは「しるし」であると言われます(ルカ2:12)。イスラエルの民に拒絶されるしるし(イザヤ1:2,3)であり、すべての人が救われて真理を知るようになる(Ⅰテモテ2:4)ために誰でもお会いできる飼葉桶に生まれたこともしるしです。御子を拒絶する私たち罪人のために来てくださいました。
 この方には神の恵みとまこと(契約に対する誠実)が満ちていました。モーセを通して与えられた律法に神の恵みとあわれみが表現されていましたが、イエスさまによって神の恵みとまこととが実現したのです(17)。主は決して私たちを見捨てることはなく、その愛の約束は永遠です。どんな困難があっても主イエスの愛に信頼するなら乗り越えられないことはありません。信じて歩みましょう。

9/29「聖なる招き」(『成長』より) テモテへの手紙第二1章1~5節 小林泰輔師

パウロは第一回伝道旅行の際、リステラの町でテモテに出会いました。母ユニケ、祖母ロイスに育てられ、唯一まことの主なる神さまを信じる信仰をしっかり持っていました。また父はギリシア人だったのでギリシア語も話せました。異邦人伝道に最適な人材として主が出会わせてくださったと確信したパウロは、テモテを伝道旅行に連れていきました。
 パウロとともに伝道旅行をするなかで、テモテはパウロから教えと薫陶を受けたことでしょう。パウロもテモテを自分の実の子のように愛し、弟子として手塩に掛けて育てました。
 パウロは今や投獄され、おそらく処刑されることになるだろうその時、夜昼、この愛弟子のために覚えては祈りました。テモテという働きの実を見ることができたことは大きな喜びでパウロは神さまに感謝しました。しかし、これから迫害が厳しくなっていく中で、テモテや教会に危害が及ぶことが予想され、そのためには主がテモテをさらに強めてくださるようにと祈らずにはいられませんでした。
 神さまは地の基の置かれる前から、テモテを選び、ユニケとロイスを通して信仰継承がなされ、「聖なる招きをもって召してくださ」り、パウロと旅を共にすることで訓練されました。聖霊がテモテを祝福し、賜物を与えてくださいました。それは力と愛と慎みの霊でありました。そのことを思い起こして信仰に堅く立つように励まします。
 私たちも「聖なる招き」によって召されたものです。神のご計画と恵みの確かさに信頼して、しっかりと務めを果たして参りましょう。

9/22「御子は救いの創始者」 ヘブル人への手紙2章1~18節  小林泰輔師

引き続き御使いとの比較から、御使いは霊的存在であり、御子は肉をもって来られたこと、御使いは敗北しないが、御子の十字架は見る人によっては敗北に見えたことなどから、御子は御使いに劣ると考え、「こんなにすばらしい(御子による)救いをないがしろに」してしまう人たちがいました。しかし、救いは御子によって語られ(3)、父なる御神の力あるわざによって証しされ、聖霊なる神の与える賜物により、御霊に満たされた人を通して証しされたのです。
 御子イエスの十字架は、決して敗北ではなく、その苦しみのゆえに栄光と誉れの冠を受けられたものであり(9)、私たちと同じ血肉をもって死なれ、よみがえられることによって、死と悪魔の力とを滅ぼされた勝利のしるしでした(14)。十字架と復活によって私たちは死の恐怖の奴隷から解放されたのです(15)。私たちの恐れは生活、老い、病、罪、つまるところ死につながる恐怖です。御子の十字架と復活だけがその解決であるのです。
 そのためには、御子は肉体をもって人として来られる必要があったのです。そのために御子は「御使いよりもわずかの間低いものと」(7)なられたのです。ご自身が永遠の大祭司としてと同時に神の子羊として犠牲になられることによって、神の御怒りの宥めとなってくださり、私たちは救われたのです。
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(18)
「もしも主イエスが苦しまなかったら 神さまの愛は表れなかった」(新聖歌292水野源三さん作詞)

9/15 「御子は神の栄光の輝き」 ヘブル人への手紙1章1~14節 小林泰輔師

聖書の神さま、キリスト教の神さまの一番の特徴は“啓示の神”であることです。神がご自身で神についてお語りになるのです。昔、旧約聖書(律法と預言者)において語られました(1節)。この世の終わりの近い今は、御子にあって語られます。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(3節)ですので、神について知りたければ御子イエス・キリストを見つめることです。御子の十字架に神の愛は輝いた、復活に希望は輝いた、昇天に、主の再臨の約束に、王の輝きがあったのです。
 ①御子は創造主であり、御国の相続者であり、万物を保つお方です。「力あるみことば」によって創造され、保持されるお方です。茫漠として何もないところから「光よあれ」と天地を創造した方は、何もない私の心にきよい心を造ることのできるお方です。この方の言葉に聴き従います。
 ②御子は罪のきよめを成し遂げられた方です。力ある主イエスの血によってそれを成し遂げてくださいました(9:12,14)。主はとこしえの大祭司であり、生ける神の子羊である方です。この方の“御名と御宝血を崇めます。”
 ③御子は大いなる方の右の座におられます。復活後、天に昇られ、父なる神の右の座に着かれました。万物の相続者の着座するところです。そこから統べ治めておられ、執り成しておられ、やがてその御座から再び降りて来られる、王の王、主の主なるお方です。この方を待ち望みます。
 御子は、預言者として、祭司として、王として来られました。そして私たちを救ってくださる救い主、真の神、主なる神です。この方にひれ伏し礼拝します。

9/8「平和をつくる者」 マタイ5:9 コリント第二5:18 森田学師

平和、それは多くの人が望むこと。しかし…平和は一体どこにあるのか?平和とは一体何と何の平和なのか?そう思います。
 ①イエス・キリストにこそ平和がある。イエスさまは『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。』と言われます。しかし、人だけではつくることはできません。なぜなら、本当の平和は、『平和の君』である、主イエス・キリストにあるからです。
 ②平和はイエス・キリストを信じるときに与えられる。イエス・キリストを知らなかった私たちすべての人は、本当の平和なんて知らずに、罪の中を生きる、争いの根源である悪魔の奴隷でした。神と平和があるどころか、神と敵対する存在でした。しかし、愛でいっぱいの神は、私たちが神と敵対し続けることを見過ごすようなことはしないで、平和を、神の方からもたらしてくださいました。イエス様こそが私の救い主です。と信じて、告白するとき、私たちは、罪を赦され、悪魔の支配から解放されて、神と和解し、平和を与えられるのです。イエスを信じるなら、私たちは神との平和を持っているのです。
 ③神との平和を、隣人にお知らせする。イエス様は、私たち“が”ではなくて、私たち“を”通して平和がつくり出されるように、と言われているのです。この神様との平和という素晴らしい知らせを、神様ご自身から私たちに、委ねられているのです(コリント②5:17~19)。そんな大役をと恐れることはありません。私たちには、力強い助っ人がいてくださいます。『御霊の実は、愛、喜び、平安…』と言われているように、神の愛の中で生きる私たちには、聖霊によって、平安=平和という実を、実らせる者に変えてくださいました。主なる神は、平和を宣べ伝える神の大使として、今、私たちに特別な権利を与えて下さっています。人の力ではできませんが、みことばの通りにしてくださる主なる神を信じ、さんびします。

9/1「イエスに出会った人々」 使徒の働き26章16~18節 小林泰輔師

①スカルの井戸の女性。ユダヤ人からは差別されていたサマリヤ人の女性。さらに私生活上の問題から周りの人を避けていた。主イエスはこの人の心の飢え渇きを知っておられ、尽きることのない命の水を与え、渇きを満たして下さった。
 ②ツァラアトに冒された人。ツァラアトは伝染性の皮膚病、宗教的なけがれともされ、宿営の外に住み、人々の前では「私はけがれています」と叫ばなければならなかった。主イエスはこの人の肌に触れ、心に触れ、きよめてくださった。
 ③極悪取税人ザアカイ。取税人は賤しい職業とされ、人々から除け者にされていた。ザアカイも心が拗ねて、人々の税に上乗せし不当な利益を得ていた。主はこのザアカイ目がけてエリコの町に来られ、彼の友となり、食卓をともにされた。
 ④迫害者サウロ(パウロ)。律法的に正しい人を自認するパリサイ人。イエスをメシアと認めず、主の弟子たちを追い回しては捕らえていた。あるとき、眩い光に圧倒され、目が見えなくなり、天の声を聞く。声の主がイエスであったことを知らされ、激しく悔い改め、主イエスの弟子に変えられた。
 これらの人々に共通することは、皆、主イエスを伝える人に変えられたことである。「わたしがあなたに現れたのは、…あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」(使徒26:16)。私たちも主の救いの喜びを伝える証人とされている。

8/25 「みことばの勢い」(『成長』より)  使徒の働き19章11~20節 小林泰輔師

 パウロはエペソの町でおよそ3年ほど伝道しました。エペソの町は栄えていましたがアルテミス神殿があり偶像崇拝の問題がある町でした。パウロは初めユダヤ人の会堂でもイエスが救い主であることを伝えましたが頑なに拒む人もいたので、その後は、ティラノの講堂で異邦人たちに語りました。パウロはイエスさまのことを語るとともに、神さまも奇跡を行ってくださり、パウロを通してたくさんの人が病を癒やされ、悪霊から解放されました。そうして人々は「主イエスの名をあがめるようになった」のです。(17節)
 悔い改めて神さまのもとへと立ち返った人たちに大きな変化が起きました。これまで魔術を行い悪霊に関わっていた人たちが、悔い改めるとともに、その魔術の書物を焼き捨てたのです。売れば銀貨五万枚にもなるものでしたが、売らずに焼き捨てました。二度とそのようなものに関わらないし、関わる人を増やさないという決意だったのではないでしょうか。
 「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」(20節)。さまざまな迫害や妨害があってもパウロは決してみことばを語ることを止めず、語り続けました。偶像崇拝をしていた人たちも、みことばの力と勢いによって心が突破されて、変えられたのです。主のみことばに信頼して、私たちも主の証し人として語り続けましょう。

8/11「こころに欠かせない栄養」 マタイの福音書4章1~11節 森田学師

 荒野で四十日四十夜断食をし、お腹を空かせていたイエス様。そこへ悪魔が「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と誘惑してきます。悪魔が私たちを誘惑する目的は、まことの神さまから引き離し、生きる目的を見失わせ、霊的な死に誘うことです。悪魔はイエス様をも誘惑してきます。それは、父なる神への従順をやめさせ、自分の力に頼るように仕向けようと。そうして、十字架への道を失敗さてやろうと。
 しかしイエス様は言われます。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」イエス様は、その神の口から出る一つ一つのことばによって、悪魔を徹底的に退けました。あえて私たちのお手本として悪魔の誘惑に会われたイエス様は教えてくださいます。私たちが生きるためには、からだの栄養(パン)も欠かせないが、何より必要な栄養は、神の口から出る一つ一つのことばであると。この神のことばは、“生きていて、力があります。私たちにいのちを与えます。私たちのこころの栄養となり、私たちを生かします。確かに生かすのですが、ただ単に食べるだけではあまり意味がありません。私たちが毎日食べるからだのごはん、おいしいなぁって感謝して食べるときにこそ、からだの栄養となります。同じように、こころのごはんもそうです。神さまのみことば一つ一つ、喜んでおいしくいただくときにこそ、栄養となり、測り知れない力となって私たちを生かすのです。悪魔の誘惑をも撃退します。本当に神のことばは完全で素晴らしいです。その、神の口から出る一つ一つのことばで生きる者へと、聖霊が必ず私たちを創り変え続けてくださいます。みことばで生きる私たちのうちから、神さまの賛美があふれ、私たちとことばを交わす隣人が、神のことばに触れ、ともに神様のすばらしさを味わい、私たちは、行く先々で神様の栄光を見るようになります。

8/4「赦される」詩篇103篇8~14節 小林泰輔師

 すべての人類に共通している一つのことは、「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:23)ということです。神の目から見た罪の基準は、神をも恐れぬ態度ということでしょうか。ですから、法律上の罪や倫理的な罪を犯していても、いなくても、人はみな罪人なのです。
 しかし、神はその罪人である私たちを赦して下さるというのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。
 「私たち」とは誰か。ヨハネはクリスチャンの向けてこの手紙を書きました。クリスチャンも罪の問題を卒業したわけではないのです。「罪を言い表す」ということが重要です(箴言28:13)。
 「神は真実で正しい方」です。この世の道徳的正義は、罪には報いがあるということですが、神が真実で正しい方であるというのは、イスラエル(神の民)を愛するという契約に対して誠実を尽くされるということです(エレミヤ31:3)。
 神は真実であるがゆえに、罪を赦して下さいます。しかし、それは罪を見過ごすということを意味しません。神の正しさと愛ゆえの赦しが共存しうるための鍵語は「御子イエスの血」(同7節)による犠牲なのです。
 神の愛は私たちをおおい(箴言10:12)「悪からきよめてくださいます」。罪人をきよめて神の勇士と造り変えて下さるのです(詩篇103:8~22)

7/28「ペテロが見た夢」(『成長』より)  使徒の働き10章1~22節  小林泰輔師

 カイサリアにローマの百人隊長でコルネリウスという人がいました。この人は異邦人であったけれども神さまを信じていました。彼は幻の中で神の使いに会い、ペテロを家に招くようにとのお告げを受けます。そしてその通りにペテロのもとへ使者を遣わしました。
 一方、ペテロの方も同じく幻を見ていました。ペテロは屋上で祈っていましたが、昼時になり空腹を覚えながら夢心地になっていると、幻を見たのです。天上から四隅を吊るされた敷物が降りて来て、そこには旧約聖書で“けがれている”とされた動物たちが入っていたのです。そしてそれを「屠って食べなさい」という声が聞こえました。ペテロは聖書の教えに従ってけがれた動物を食べたことはありませんでしたので「できません」と答えました。ところが、もう一度天の声がして「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と言うのです。そんなやりとりを三回もして、それから敷物は天に戻っていきました。そこで目が覚めたのですが、ちょうどその時、コルネリウスからの使者が訪ねてきました。異邦人の食卓に招かれて食事をするということは、ユダヤ人にとっては許されないことでした(28)。しかしペテロは幻に続いて御霊の声を聞きました。「ためらわずに彼らと一緒に行きなさい」(20)。
 コルネリウスは一族郎党友人知人を招いてペテロを出迎えました。そこでお互いに見た幻のことを明かすと、神さまのみこころがはっきりと表されました。「神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」(34~36)

7/21 「御国と家庭」 コロサイ人への手紙3章18節~4章1節 小林泰輔師

 ここには“良い家庭”の姿があります。良い家庭は一人一人が主イエスに従うことで築かれるものです。「御心の天になるごとく」この家庭にも成させたまえと
求めていくものです。前の箇所で学んだように、新しくされ、キリストを身に着せられ、愛を身に帯びる者として、成長し、訓練される場所が家庭なのではない」でしょうか。またそれはすべての人間関係の基礎を学ぶことでもあります。
 夫も、妻も、子どもも、父(親)も、しもべも(奴隷も家族の一員)、主人も、みなそれぞれが主に結ばれていることが大前提です。「主にある者にふさわしく」(18)、「主に喜ばれる」(20)、「主を恐れつつ」(21)、「主に対してするように」(22)、「主キリストに仕え」(24)と、すべての人間関係において彼と
我との間に主を置くことが大切なポイントです。
 夫婦は互いに尊敬し合い、仕え合うことです。尊敬は獲得するものではなく、尊敬は与え合う贈り物です。尊敬に値する夫だから従うのではなく、
尊敬に値する妻だから愛するのではなく、自分から主体的に尊敬を贈り物としてささげるのです。そのようにして夫婦が、親子が、愛し合うときに、
天の父が栄光を受けられます。
 また子は親に従うべきであり、親は子どもを「十分な威厳をもって…従わせる」(Ⅰテモテ3:4)べきですが、親の権威もまた神から授けられ、家庭の成員から
賦与されるものです。主イエスは良い羊飼いとして人々に仕え、尊敬を持って接し、人々を愛されたので多くのフォロワーによって権威が認められました。
 現代日本に奴隷はいませんが、今や私たちは神のしもべとして家族に仕え、隣人に仕えるものです。主にあって愛を注がれ満たされて、互いに尊敬し、
愛し合うことで、御父の栄光を表し、神をあがめましょう。

7/14「弱いときにこそ輝く宝」 コリント人への手紙第二4章6~15節 森田学師

 私たちは生きるときに、弱さをおぼえます。精神的にも、肉体的にも。でも、自分が弱いことを責めないでください。自分に対しても、相手に対してもです。そうではなく、自分の弱さを認めることが大切です。
 聖書は語ります。とてもたくさんの苦しみにあってきたパウロを通して証ししてくれています。私たちは弱い土の器であることを。 7節『私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるためです。』とあります。
 “イエスさまの救い、イエスさまのすばらしさ”とも言える宝を、私たちは持っているのです。そして、この宝が最も輝くときがあります。それは、私たちが弱いときです。ですから、弱くて脆く壊れやすい土の器で大丈夫なのです。
 勘違いしないでください。弱さを責めるとは神さまは言ってはいません。弱いことがだめだと誰が責めるのですか?
 危険なのは弱さを否定することです。否定すると自分の弱さしか見えなくなります。否定して自分が強いとなると、自分の力が輝いて、イエス様の輝きが見えなくなります。否定して開き直ると、弱さを理由に間違ったこと、罪を堂々と犯すということになりかねません。否定すると悪魔の罠にはまっていきます。
 私たちは弱くて、土の器にすぎないですが、その弱さを通して、測り知れない力の主が、私たちのうちで偉大な働きをなしてくださるのです。12章に『わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』とある通りです。
 そして、弱さを認めるとき、10節『私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。』と、イエス様が十字架で私たち一人ひとりの罪を背負って死なれた、贖いの死によって、いまの私たちはあるのだ。ああ、イエス様無しには生きることが出来ない。そのように気づかされていくのです。
 さらに、15節『…恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。』のみことばのとおりに、私たちの宝が、私たちの弱さを通して、輝きを放ち、多くの人に神様の栄光があらわされるように。そのように私たちを聖霊が用いてくださいます。

7/7 「主に感謝せよ」 コロサイ人への手紙3章12~17節 小林泰輔師

 士師サムエルはペリシテ人を退けたときに記念の塚を立て、「主がここまで助けてくださった」と感謝しつつそれをエベン・エゼル(助けの石の意)と名付けました。私たちも神の助けによって今日あることを覚え、この礼拝を記念の塚としたいと思います。
しかし、95年の歴史と伝統に依って驕るのではなく、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(ピリピ3:13)行く私たちに必要なのは、今生きて共にいてくださる主の御声です。私たちのこれまでの歩みに対する自己評価とは全く関係なく、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」との父の御声によって支えられるものです。
 私たちが何者であるかについて(12節)。
①「選ばれた者」であると言います。「おめでとう、恵まれた方」。マリヤはイエスさまを身ごもり母となるという務めのために選ばれました。私たちも神さまの御用のために選ばれた者です。使命に生きるものです。
②「聖なる者」とされています。私たちの努力によって聖くなったのではなく、神によって善いわざのために取り分けられたということが「聖別」ということです。私たちは神さまにとって“とっておき”なのです。
③「愛されている者」です。選び、取り分けられたがゆえに、愛を注いでくださいます。ヨセフが愛された子どもであるしるしに袖付きの長服を着せられたように、私たちも愛された子どものしるしが着せられます。それはイエス・キリストの姿形によって仕立てられたものです。それを着せられるとき、私たちは主イエスのように、深い慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐を身につけます。そしてそれらを用いるのに最後に愛を加えます。
 感謝の心をもって、神の子どもとされたことを喜び、共に主を礼拝しましょう。そして召された私たちは、キリストのからだなる教会として、これからも「互いに」愛し合いながら歩みましょう。また、すべてのことをイエスの御名のために行い、歩んで参ります。

6/30 「語り続ける弟子たち」(『成長』より) 使徒の働き5章15~42節 小林泰輔師

聖霊に満たされたペテロたちは、みことばを語り続けました。また人々は使徒たちの周りに集まり、病気が癒されたり、不思議な奇跡もありました。神さまの栄光が表され、人々が喜んでいるのに、祭司長やサドカイ人たちは面白くありません。ねたみにかられて使徒たちを捕らえにかかります。
しかし捕らえられても使徒たちには主がともにいてくださいます。主の使いが牢の戸を開け逃がしてくれました。そのとき「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい」という主のことばがありました。捕らえられた現場にもう一度戻りなさいということですが、聖霊に満たされたペテロたちは恐れません。再び宮に入り、イエスさまのことを教え始めました。
使徒たちを裁くために牢屋に行くとそこはもぬけの殻です。鍵もかかっていて、見張りもいたのに、使徒たちはいなくなっていたのです。そこへ使徒たちがまた宮で教えているという知らせが来ました。そこでもう一度捕らえに行き、尋問を始めました。イエスのことを語ってはいけないと言われても使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです」と答えました。いよいよ議会の人たちは怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人の提案によって、助けられました。使徒たちの語るようにイエスが救い主なのかどうか、もしにせキリストなら神が裁かれるだろうと言うので、その意見に皆従いました。使徒たちは、むちを打たれた上で釈放されましたが、イエスさまのお役に立てるならと、むち打たれたことさえ喜びました。また、二度とイエスのことを教えてはならないと戒められましたが、人の言葉に従うのでなく、神さまの命令に従って、イエスさまが救い主であることを語り続けました。「そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった」(5:42)

6/23「古い人を脱ぎ捨てよ」 コロサイ人への手紙3章1~14節 小林泰輔師

 「上にあるものを求めなさい」(3)とは、天の御国の在りようを求め、“御心の天になるごとく地にも成させたまえ”とすることでしょう。この地にあって“イエスならどうされるか?(WWJD)”と生きていくことです。それは人生の目的の大変化であり、暗やみから光へ救われたことの証しです。
 その上で、地においては戦いがあることを覚えさせられます。「肉」(2:18,23)、「地にあるからだの部分」(5) 、「古い人」(9)はいつでも顔を覗かせ誘惑してくるのです。それらは古いものであり、脱ぎ捨てるべきものなのですが、悪しき愛着とでも言いましょうか、ボロボロの罪の衣服を出してはそれを着てしまうのです。けれども、もはやそれは神の子たる私たちには似つかわしくないものなので、脱ぎ捨てるべきものなのです。
 パウロは、新しくされた者に古い罪の性質が誘惑してくることをほぼすべての手紙の中で取り扱っています。そして、その罪に戻り、再び闇の中を歩き続ける者には、神の御国を受け継ぐ資格がないことも厳しく語っています。古い人の持つ罪として、コロサイ書では性的な罪を取り上げます。そしてそれらの大元は「貪欲」であることを鋭く指摘しています。偶像礼拝者を象徴するのは「貪欲」です(5)。しかし、パウロは他の手紙同様ここでも改めて「あなたがたも以前は」(7)と(Ⅰテモテ1:13「私も以前は」)、罪の奴隷であったのは過ぎたことで、キリストの力により救われた「今」(8)を強調します。対人関係の罪は言葉になって表れますが、その大元は「怒り」です。それらもすべて古い人として脱ぎ捨てるべきものです。
そうして、キリストの似姿にかたどられた「新しい人」を着るのです(10)。これはイエスの型紙で作られた衣服のようなものですが、その衣服がぶかぶかでも私たちの方が成長させられて、神のかたちを回復していくのです。「愛の帯」(14)を締めて、光の子どもらしく歩みましょう。

6/16「心に刻まれる律法」 コロサイ2章16節~3章4節 小林泰輔師

 先週、ペンテコステと七週の祭りについて触れられましたが、七週の祭りは律法の授与を記念する日でもあります。その五旬節の日に聖霊がくだり、新しい契約―心に律法が刻まれる(エレミヤ31:31-34)―が成就したのです。
 律法は「来るべきものの影であって、本体はキリストにあります」(2:17)。そしてキリストは来られたのです。イエス・キリストによって律法は完成しました。動物のいけにえによって表されていた罪の贖いは、ただ一度のキリストの犠牲により成就したのです。旧約の儀式律法はキリストの贖いを指し示していたのです。律法を守ることで自分の救いが成し遂げられるというのは律法主義です。クリスチャン生活にも律法主義が入り込むことがあります。それで裁き合うこともあるかもしれませんが、それは正しい姿ではありません。しかし、それと同程度に誤った行き方は、無律法主義と言われるものです。新約の時代にあって律法はすべて無用となったのだとする考え方です。律法の中に表された神の基準は変わることはありません。道徳律法と呼ばれるもの(例えば十戒)は今も私たちの最高規範です。私たちは生まれながらに自律的・自由な者として造られたのではなく、神に従うべき者として造られたのです。ですから、神を恐れて、神の御心に従わなければならないのです。
 新しい契約の時代、聖霊の時代には律法のある部分においては役割が終わりました。それは儀式律法と政治律法です。これらは旧約時代の必要に応じて定められた律法です。ですから今は何を食べて良いかを気にする必要はありません(マルコ7:19)。どの日を守るとか破るとかいうこともありません。安息日は七日ごとの主日(日曜)に、よみがえりの主を記念して私たちも聖別します。
 そのためにみことばが私たちの心に刻まれ、聖霊が心に注がれました。私の中で神が生きておられ、御心のうちを歩ませてくださるのです(ガラテヤ2:20)。

6/9「もう一人の助け主」 ヨハネの福音書14章15~24節 森田学師

 ペンテコステ(五旬節・七週の祭り)は、聖霊が降られた記念として降誕節、復活節と並んでとても大切です。
 聖霊は「もう一人の助け主」です。一人目の助け主はイエス・キリストです。イエス様と同じく聖霊も人格を持ち、私たちを導き、慰め、励まし、助け、とりなしてくださるお方です。イエス様が語られたすべてのことを思い起こさせ、イエス・キリストについて証ししてくださいます。聖霊は、私たちが罪人であることと、イエス様が救い主であることを、私たちの心に語りかけてくださいます。私たちは聖霊によってイエス様が私の救い主ですと告白することができるのです。
 この聖霊は私たちのうちに住んでくださるのです。もう一人の助け主、聖霊を遣わすよ。あなたを見捨てない、孤児にはしないよ。と言われるイエス様の約束通りです。そればかりでなく、「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と聖霊だけでなく、父、御子、御霊の三つで一つのお方が私たちのうちにいてくださるというのです。三位一体の愛の交わりが私たちのうちにあるのです。
 それでも、全く祈れず苦しむとき、誰にも理解されず誰にも相談できないとき、孤独の中で心を閉ざしていることがあるかもしれません。そのようなとき、もう一人の助け主が、私たちの心の奥深くにある思いを知ってくださり、祈ることもできない私たちの代わりにうめきを知って祈っていてくださいます。聖霊とはそのようなお方です。
 今、神様が私たちに求めていることが一つあります。それはみことばを守ることです。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」神様のみことばを無視ではなく、その愛にとどまる選ぶ者とさせていただきたいです。その愛の中で私たちは聖霊によって、神を知らずに深い闇の中で生きる隣人へ、神の愛を届ける者へと育まれていくのです。

6/2「父の愛」 ヨハネの福音書15章9~11節 小林泰輔師

人間の父の愛と母の愛には違いがあると言われます。母の愛は無条件に受け入れる愛ですが、父の愛は条件つきの愛です。父の愛は子どもに期待し、要求します。そしてそれに子どもが応えるときに承認という形で愛を与えるのだそうです。
神の愛は無条件の愛と承認の愛の両方を含んでいます。無条件に「高価で尊い」ものとして愛してくださる(イザヤ43:4)一方、「~するなら」祝福を受けられるという、承認条件のようなみことばも多くあります。
父なる神の愛は、私たちに期待し、要求する愛です。子どもに何も期待しない父親は子どもを愛していると言えるでしょうか。ヘブル人への手紙12:5-8でそれは「懲らしめ」(2017版「訓練」)ということに表れています。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」(ヘブル12:6)。叱ったり、懲らしめたりすることは一時的に子どもに嫌われることになりますが、父が子どもの罪に向き合うことをしなければ、その子を滅びるままにさせておくのに等しいのです。
私たちはイエスさまの十字架の贖いを信じ受け入れることで、神の子どもとされました。それは無条件の愛です。一度、神の子どもとされたのなら善い行いや正しい行いで神の子どもであることを証明する必要はありません。神の愛を受け身的に表すならそこまでですが、神の愛のより能動的な関係は、父の愛の期待に積極的に応えていくことではないでしょうか。父の戒めを守るときに私たちの心は本当に満たされるのです(ヨハネ15:9-11)。イエスさまは十字架にかかられる前、父がわたしを愛されたように…あなたがたも互いに愛し合いなさいと言われました。これがイエスさまの遺言(テスタメント)です。

5/26「ぶどう園のたとえ」マタイの福音書20章1~16節 小林泰輔師

イエスさまは天の御国についてぶどう園のたとえをもって話されました。
ぶどう園にたくさんの収穫がありましたが、働き人が足りません。そこで主人は朝早く市場に出て行き、一日1デナリの約束で人を雇いました。それでもまだ人では足りません。朝の9時、正午、午後3時にも同じ様にして市場で声をかけ雇いました。主人は終業近くの午後5時にも市場に出かけて行きました。するとまだ市場に立っている人がいます。一日中何もしないでいたのか?と問うと、誰も雇ってくれないのですとその人は答えましたので、その人も雇ってやりました。
午後の6時にその日の収穫を終え、給料の支払いをしました。一番遅く来た人から始めて、その人には1デナリを与えました。午後3時の人も、昼からの人も、朝からの人も。最後に一番朝早くから来た人の番です。時給に換算すれば前の人たちより多くもらえるはずだと期待しましたが、与えられたのは同じく1デナリでした。不公平に感じたこの人は主人に文句を言いました。しかし、主人は1デナリは約束通りで不正はしていないと。何時から働いた人でも同じくしてやりたいのだ、気前よく与えたいのだと答えました。
このたとえ話のポイントは、「気前良さ」です。天の御国、神さまの統治においては、気前良く救ってやりたいと、神さまは考えておられるのです。早くから雇われた人たちは若さや力強さがあったのでしょう。雇ってもらえなかった人はそのような基準からあぶれた人かもしれません。天の御国の救いは人の能力や功績によらず、ただ神さまの気前良いあわれみによるのです。
早くに救われた人も、遅くに救われた人も、教会生活の長さも奉仕の量も関係ないのです。また、ある意味では私たちは皆が午後5時からの働き人です。私たちに救いに値する功績など何もないのですから。ただただ主のあわれみに感謝し御名をたたえます。

5/19「根こそぎ変えられる」 コロサイ人への手紙2章6~15節 小林泰輔師

 主キリスト・イエスを信じて受け入れ、キリストにあって歩むなら、その人は根本から造り変えられます。
 「キリストにあって歩む」(6)とはどういうことかが7節により教えられます。
 ①「キリストのうちに根ざし」
私たちの内に深く根を下ろし、そこに住んでくださる聖霊を求めましょう。それは同時にみことばが私たちの内に根付くということでもあります。そのために私たちが良い土壌であることを種まきのたとえから教えられます(マルコ4章)。良い土壌は柔らかく(みことばを素直に聴く)、深く掘り下げられ(真心からの悔い改め)、雑草がない(主のみに頼る)のです。
 ②「(キリストのうちに)建てられる」
神は私たちをあらゆる面で成長させてくださいます。成長は変化でもあります。主の御手による介入と変化を受け入れなければ成長はありません。自分のスタイルが成長を阻害しているのであれば、根こそぎ引き抜いて「心の一新」によって主に変えていただくのです。
 ③「教えられたとおり信仰を堅くし」
決して変えてはいけないものは教えられた真理です。みことばを身勝手な自己解釈などしてはいけません。教えられたとおりに信仰を堅くし、それを捨ててはいけません(箴言3:1-4)。
 ④「あふれるばかりに感謝しなさい」
キリストのうちに根差し、キリストの似姿に成長し、信仰を堅く保つなら、心の根本から造り変えられて、喜びと賛美と感謝があふれるようになります。そのあふれるままに喜んで神を礼拝し、献げ、仕えます。
 キリストにある神のご性質と、復活の神の力は、私たちのうちにも満ちていて(9,10)、私たちを新しくします。罪と律法の責めは十字架にともに釘付けにされました(14)。「私たちはキリストとともによみがえらされたのです」(12)。ハレルヤ!

5/12「こころの満たし」 マタイの福音書5章3節 森田学師

 マタイの5章から始まり7章の終わりまで続くイエス様の山上の説教では、そばに近寄ってきた弟子たちだけではなく、たくさんの人がイエス様を慕ってお話を聞いています。開口一番イエス様は『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。』と言われました。心の貧しい者とは、霊において飢え渇いている人のことです。
 私たちの霊、それは、神様が下さるいのちの息(創世記)、あるいは神の下さる霊(伝道者の書)です。ですから、霊において、本来あるべき神の霊への飢え渇きに気づかされる人は幸いです。 その人は渇きを満たされ、その人のうちから天の御国=神様の統治がはじまるからです。
 今、神の霊(聖霊)に、飢え渇いているでしょうか。聖霊を求めないことは危険です。求めないと知らぬ間に“聖霊欠乏症”になってしまいます。言葉や態度だけでなく、心の奥底から本当に聖霊に飢え渇いているかと問われているようです。『御霊を消してはなりません』とも言われますが、ときには、自分の罪の深さにがっかりし、求めることを忘れてしまうことがあるかもしれません。しかし、そのようなときこそ自分の罪を認め、罪を言い表し、ますます聖霊を求めるものとさせていただきたいです。聖霊は私たちの求めに応じて必ず与えられます。
 『神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。私を あなたの御前から投げ捨てず あなたの聖なる御霊を 私から取り去らないでください。』この詩篇51:10,11は、大きな罪を犯したダビデが、預言者ナタンに罪を指摘され、その罪を認め、罪を悔い改めて、それから聖霊を求めているところであります。
 私たちの霊が飢え渇き、聖霊を求め満たされるとき、揺るがないものへと変えられ、神様の統治が私たちのうちからはじまり広がってゆく。その希望に歩む者へとされていきましょう。

5/5「休もう」 マタイの福音書11章28~30節 小林泰輔師

 イエスのおられる所は安らぎに満ちていたのではないでしょうか。人々は安らぎを求めてイエスのまわりに集まりました。当時のユダヤの民はローマ帝国の圧政に苦しみ、疲れていました。ユダヤの宗教家たち(祭司、律法学者等)はその苦しみをケアするのではなく、さらに律法主義(行為義認)の重いくびきを負わせていました。そのような背景にあって、イエスは「疲れた人」「重荷を負っている人」を招かれ、「休もう」と声をかけられました。
 この世界が始まって以来、一番最初に「休もう」と言われたのは、ほかでもない主ご自身でした(創2:2,3)。そして後に律法の十戒において人間に休むことを命じました(出エジ20:8-11)。これは、第一に人の弱さをあわれみ、休息を与えてくださったことであり、第二に、このことを通して主のみことばへの従順を試すためでありました。
 イエスが、安息日に病人を癒し、弟子たちが空腹を満たすために収穫したことを許容されたのは、律法の本質が愛とあわれみだからです。そして「律法主義」の重いくびきではなく、イエスとともに担うくびきを負って神に従い歩むことを勧められたのです(決して律法を廃棄したのではありません)。主の許で本当の安息を得るのなら、心が満たされ、感謝と喜びにあふれて主のみこころを行うことができます。安息から奉仕に遣わされていくのです。

4/28「キリストとクリスチャン」 ヨハネの福音書21章1~19節 エミリー・チョウ宣教師

 ヨハネ福音書の21章は、ヨハネの福音書の番外編のようなものだと考えられます。福音書本編の中心は主人公であるイエスさまの生涯と彼の復活です。漫画やドラマと同じように、番外編では人気キャラクター同士の面白いやりとりが描かれています。そのやりとりを通じて、物語本編の内容を読者に思い出させます。よみがえられたイエスさまとペテロの再会シーンでは、二人が出会った時の出来事を思い出すでしょう。数年前、ガリラヤ湖で漁師として暮らしていたペテロが、イエスさまの呼びかけに答えて、弟子となりました。そして同じガリラヤ湖で、将来人間をとる漁師になるという使命をイエスさまから与えられました。
 みなさんはどうでしょうか?自分が初めてイエスさまを主として受け入れた時のことを覚えていますか。自分の人生に対する神さまのご計画について祈り求めたことを覚えていますか。信仰の歩みの中で自分の失敗や過ちを許せなくなってしまったとき、イエスさまから励まされた経験を覚えていますか?

ヨハネの福音書21書19節はイエスさまがペテロに言われたことです。
「わたしに従いなさい」
主は私達にも呼びかけています。

4/21 「三日目の復活」 ヨハネの福音書20章1~10節 小林泰輔師

 夜が明けて新しい朝、主はよみがえられました。十字架の贖いを成し遂げられて、すべてが新しくなりました。世界の再創造の始まりです。
イエスさまは十字架の死から三日目によみがえられましたが、そのことを予告しておられました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、
三日でそれを建てよう」(ヨハ2:19)。空の墓を見て、何が起きたのか理解できなかった(20:9)弟子たちも、この言葉を思い起こした時に「聖書とイエスが
言われたことばとを信じた」のです(2:22)。
 この予告は宮きよめのときに話されたことでした。神殿が金儲けの場所になっているというのは堕落した世の中の象徴のようです。神の御住まいで
あるはずの世界は、人々の罪と欲にまみれています。神が創造された天と地は「それは非常に良かった」(創1:31)のですが、堕落によってその
美しい世界は失われ破壊されてしまったのです。それを主イエスは建て直してくださるのです。三日目によみがえられたことによってそのことを
思い起こさせてくださいました。
 主イエスの復活は、わたしたちのいのちが死で終わるものではなく、主イエスを信じる者には永遠に続くいのちであることを確信させるものです。
しかし、それだけでなく、真の主、王の王であり、やがて来られる方が治める、新しい御国を建て上げる再創造の始まりであります。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリ5:17)。
古い罪の生き方に死に、主とともに新しく御国を建て上げ、御国の到来を宣べ伝える使命に生かされて参りましょう。

4/14「苦しみの欠けを満たす」 コロサイ書1章24節~2章5節 小林泰輔師

 受難週は、イエスさまのエルサレム入城から始まりました。歓呼の声でメシア・キリストとして迎えられましたが、逮捕されると民の失望は「十字架につけろ」という叫びに変わりました。そうしてイエスさまは、罵られ、辱められ、十字架の痛みと苦しみを味わわれました。これは聖書の預言の成就でした。イザヤ書53章には、「苦難のしもべ」が描かれています。まさに十字架のイエスさまを指し示す箇所です。真のしもべは苦難を受けつつ世を救う者となるという、この預言と使命は、選びの民イスラエルの負うべき使命でした。しかし、イスラエルはその任務を全うしきれなかったので、ダビデの家に生まれたイエスさまが、真のイスラエル、苦難のしもべとして遣わされ、その任を全うされたのです。キリストの「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテロ2:24)とある通り、私たちの罪は贖われ癒やされたのです。
 今や、この苦難のしもべはキリストのからだである教会の使命となりました。キリスト者は自分の十字架を負ってイエスさまに従い行く者です。それゆえ、パウロは自分が苦難の中にあることを喜んでいます。それは神の使命に生きていることを表すからです。神さまのために、この世を救うために、神のしもべとして負うべきキリストの苦しみがあり、それを十分に負いきれていないという自覚から「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(24)という表現になったのです。
 私たちの神のしもべとして、キリストのからだなる教会で仕え、自分の十字架を負ってイエスさまとともに歩んで参りましょう。私たちの労苦と苦闘への信仰の報酬は人々のたましいの救いの喜びです。

4/7「向きを変えて」 マタイの福音書18章1~10節 小林泰輔師

 2019年度の初めであり、受難節です。新標語「心の一新」をおぼえつつ、このところから「悔い改め」について教えられたいと願います。「悔い改め」とは何か、それは「向きを変えること」です。3節のみことばは2017年版では「向きを変えて」となっていますが、前の版では「悔い改めて」となっています。
 弟子たちはイエスさまに質問しました。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」(1)。後の20章にもヤコブとヨハネを右大臣・左大臣のようにしてくださいなどというお願いも出てくるように、弟子たちの関心事が何であったかが見え透いている言葉です。能力主義による出世競争などは「この世の調子」の最たるものです。そんな弟子たちにイエスさまは「向きを変えなさい」と言われたのです。そして一番偉いのは子どもだと言われました。それは能力主義からいくと最もあり得ない答えでした。無能な子どもを引き合いに出すことで、弟子たちのこの世の考えを一蹴されたのです。子どもは自分が親の庇護なしには生きていけないことを知っていますので、全面的に親に依存します。そのように、すがるように熱心に神を求める者こそが、最も神に喜ばれる者だというのです。
 自分の力に頼って生きる行き方をやめ、神に立ち返って、御顔を仰ぎ見て生きる者は、心のきよい者です(マタイ5:8)。また、神の子どもとして父の愛を一身に受けて満たされるならば、他者を愛し受け入れることができる者に変えられます。小さい者のつまずきにならず、むしろ受け入れ、愛し、支え、建て上げる者へと変えられます。平和をつくる者になるのです(5:9)。そのためにこそ神に向きを変えて、悔い改めましょう。

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