2020年度

3/28 「罪人を招く神」 ルカの福音書5章27~32節 小林泰輔師 

  •  イエスさまは収税所に座っているレビ(マタイ)に目を留められました。レビの心の願いや境遇や成育歴もすべてご存じのお方が、あわれみに満ちた眼差しを注いでくださり、そして「わたしについて来なさい」と招いてくださいました。レビはイエスさまの招きに即座に応じてつき従っていきました。
     レビはイエスさまに出会って変えられました。神の子どもとされるという立場が変わるだけで人は変わることができます。自分の力で変わりたいと思ってもできなかったことが、主イエスの御声に従うだけですべてが変わったのです。変えられたレビは、主のために生きるようになりました。イエスさまのために盛大な宴を催し、取税人仲間や罪人とされていた人々を集め、イエスさまに引き合わせる機会を作りました。
     しかし、この食卓の交わりがパリサイ人にとっては問題となりました。ラビは律法に導くためであっても汚れた人と同じ食卓についてはいけなかったからです。パリサイ人にとっては取税人や遊女などといった人たちは一括りに罪人とされていたのでしょう。そんな人たちと交わるのは“黒い交際”にしか見えませんでした。レビや取税人たちは確かに黒く汚れた心で人々から金銭をむしり取り暴利を貪っていましたから、罪人です。イエスさまも彼らを病人に例えています。だからこそ、たましいの医者であり、罪を赦す権威を持つイエスさまが必要なのです。イエスさまの真っ赤な血潮によってきよめられる必要があったのです。イエスさまだけが黒く汚れた罪人を雪よりも白く変えることができるのです。
     イエスさまが来られたのは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」正しい人とはだれでしょう。「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)とありますから、すべての人が罪人であって、取税人もパリサイ人も神に招かれています。私の心の内実に目を留めてくださり、悔い改めに導いてくださる主イエスの招きに応じて、主に従って行きましょう。

3/21 「だれが支払うのか⁉」 ルカの福音書3章17~26節 小林泰輔師

  •  中風を患っている人と、その人を主イエスの前に運び連れて来た友たちの物語です。その前日譚と言いましょうか、そこには主イエスの祈られる姿がありました(16節)。寂しいところに退いて、隠れたところにおられる父に祈られました。何を祈っておられたか、ゲツセマネの祈りなどから想像するに、御自身のこの地における働き、救いのご計画の遂行のために祈られたのでしょうか。つまりは私たちのために犠牲となることについてです。罪の代価の支払いは私たちの知らないところで、父、御子、御霊の神により、決められていたのです。
     再び賑やかな一室にてイエスさまは人々を教え、病気を癒やしておられました。中風を患った人を床に乗せたまま運ぼうとしましたが、人だかりのために入れません。そこで大胆な方法をとりました。屋根を剥がしてそこから主の御前につり降ろすというのです。後日譚を想像すると、その修復費用をだれが支払うのか?と思いましたが、その弁償も覚悟した上での友人たちの行動だったのでしょうか。私たちも、家族や友人たちを何としてでも主の御前に運び連れていくという姿勢を学ばされます。
    主は彼らの信仰を見られました。主の御前に連れていきさえすれば、あとは主イエスが、御霊なる主が、その人を救いに導いてくださる、そういうシンプルで力強い信仰だと思います。私たちも主の導きを信頼して、人々を主の御前に連れていく者となりましょう。友人たちの信仰と友情を見られた主は、その病人に「友よ」と呼びかけてくださいました。主はその友のために命を捨てる決意で(ヨハネ15:13)、友よと私たちにも呼びかけてくださるのです。
     パリサイ人たちの心中の批判は、はからずも真理を表していました。「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。(いやだれもいまい)」罪が贖われるためには犠牲の代価が必要です。私の大きな罪の代価は自分では支払いきれるものではありません。だれが支払うのか。だれが支払うことができるのか。主イエスのほかにはだれもいないのです。

3/14 「神の決意」 ヨハネの福音書3章16~21節 森田学師

  •  たとえ、誰も信じなくても、誰にも理解されなくても、すべての人に裏切られても、神の思いは永遠の昔から決まっていました。
     『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
     この神の愛は、そんな神に背を向ける一人ひとりが滅びてほしいとは望まれないからこそ、どうにかして神のもとへ戻ってきてほしい、そのためなら、自分の命を差し出しても惜しくない、そのような決意のなされた愛です。
     愛は今も変わりません。エレミヤ書31章3節『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』神の決意は、創造の初めより永遠の昔から、十字架の後も永遠にずっと愛は変わらないのです。神の愛の広さ、長さ、高さ、深さは、小さくなるどろころか、むしろこの愛がより偉大なことに気付かされていくものだと思います。
     何度私たちが裏切り、つまずき、不信仰に陥ってしまっても、生きることに疲れ果ててしまっても、神の決意の愛はずっと変わりません。その罪を覆うのは神の愛です。
     『さあ、来たれ、論じ合おう。―主は言われる―たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。』(イザヤ書1章18節)
     どんなに神に背中を向けて、イエスを無視して、身体も心も汚しきって、もう神だって私を赦せないだろうと思うような緋のように赤い罪だとしても、神の決意の愛は、妥協も諦めもないので、そんな罪をも、イエスの十字架の愛は、雪のように白くしてしまいます。自分を諦め、自分を責め、自分を傷付けても、神は今も諦めていない、赦したい、癒やしたいと言ってくださいます。
    今も私たちに差し出されている神様の決意の愛を、罪の赦しを、受け取るに邪魔するものは何もありません。

3/7 「イエスの心」 ルカの福音書5章12~16節 小林泰輔師

  •  ツァラアトに冒された人をイエスさまは癒やしてくださいました。伝染病のゆえに人との交わりが断たれる病気でした。律法では「汚れ」とされています。儀式的に神の前に出ることのできない“状態”のことです。「汚れ」の原因に罪があるとは書かれていません。性的な病気や月経なども「汚れ」の状態に置かれます(レビ15章参照)。「汚れ」は避けなければなりませんでした(レビ15:31)。しかし、神の御心を損ねる罪人である人間は、そこから差別を生み出してしまうのでした。律法の規定通りに宿営の外へと出て行くツァラアトの人に、人々はどのように声をかけるべきでしたでしょうか。あわれみの神が人々に望まれることは何だったでしょうか。
     イエスさまの前に出てきたツァラアトに冒された人は「主よ。お心一つで(イエスさまがお望みになるならば)私をきよくすることがおできになります」と言いました。イエスさまが望まれたことは、社会から隔絶された人に触れ、その心に触れることでした。そして罪人である私たちすべてが神との交わりを回復することでした。そのためにこの地に来られたのですから、この人も癒してきよめてくださいました。
     ツァラアトが癒やされたことは祭司に見せて確認される必要がありました。そしてそのときには律法によって定められた儀式がありました。二羽の小鳥を用意し、一羽を犠牲にし、もう一羽はその血に浸されたのち、空に放たれるのです。イエスさまの望みは、罪人である私たちが主イエスの贖いの血潮によってきよめられ、神との交わりを回復し、神の子どもとして自由に生き生きと羽ばたいていくことです。それがイエスさまの心にあるご計画でした。
     そのために支払われた代価はイエスさまの命でした。私の代わりにイエスさまが宿営の外に出され、ゴルゴタの丘の十字架で私の罪を背負って死んでくださったのです。主の十字架を感謝し、私たちも神さまのあわれみを表して生きていきましょう。

2/28 「選ばれた者の使命」 ルカの福音書5章1~11節 小林泰輔師 

  •  シモンがイエスさまに出会った時の話です。私たちはイエスさまに出会って信じるようになった時に、自分は神によって選ばれていたのだと知るのです。またそれは実を残すためであるとヨハネ15:16にあります。選ばれた者にはその使命があるのです。
     イエスさまはシモンに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言われました。それは夜通し働いて何も捕れなかった失意の朝のことでした。イエスさまの船上の説教にも信仰を奮い立たせることもできない、重たい心でありました。
     「おことばですので…」シモンは信仰からというよりむしろ半信半疑でイエスさまのことばに従いました。すると、おびただしい量の魚が捕れました。プロの漁師たちの目や技能、経験によっては見えなかった魚が主イエスには見えていたのです。私たちの知識や経験に反して神のみことばは「収穫は多い」と言われます。自分の力や知識や経験を頼みとする浅はかさを悔い改めさせられます。
     シモンはひれ伏して「主よ。」と言いました。兄弟アンデレに紹介されたメシア候補としての認識が、「私の主」としての確信に変えられたイエスとの二度目の出会いではないでしょうか。シモンは「ペテロ(岩)」というあだ名をつけられて、「人間を捕るようになる」と言われました。そのように選ばれていたのです。そして、そのみことばの通りにペテロはペンテコステの宣教を通しても、その後の働きを通しても、たくさんの人を救いに導きました。
     私たちも主によって選ばれた者です。そして実を残すための使命が私たちにもあります。使命を果たすことに疲れを覚えてしまう現実が目の前にはあるかもしれません。しかし、主はそれでも「深みに漕ぎ出しなさい」と優しく励まし、押し出してくださっています。ペテロたちが「網」に象徴される自分の経験や知識を捨てて主に従ったように、私たちも自分を捨てて主に従い、使命を果たすために、深みに漕ぎ出していきましょう。

2/21 「神のことばの権威と力」 ルカの福音書4章31~44節 小林泰輔師 

  •  イエスさまの「ことば」は「神のことばの権威と力」がありました。新改訳で「言葉」ではなく「ことば」とされているのは、「神のことば」は葉っぱのように地に落ちて朽ちることがないからだと思われます。その神のことばによってイエスさまは権威ある者として教え、力あることばによって悪霊を追い出し、熱病を癒やされました。そのようなことができるのは神さまだけですから、イエスが救い主であり神であられることを示す証となりました。イエスさまがナザレの会堂で解き明かされたイザヤ書61章のみことばの成就した証です。
     悪霊も言葉で人々を支配します。憑き物が付いたように喋れなくなったり、本人の意思と別の言葉を喋ったり、そういう現象が聖書の時代には見られたようです。現代ではオカルトの範疇に入れられることかもしれませんが、しかし、言葉を支配するという意味では悪霊の活動は今も盛んで支配的なのです。悪霊の働きの要点は、人を神から引き離しその関係を引き裂くことにあると思います。悪霊は今も私たち自身の言葉を支配して、お前はダメだ、お前が神に愛されているはずがないとか、神なんているわけがない、お前自身が神なのだから好きに生きたらいいではないか、そう吹聴して神から引き離そうとしてくるのです。
     しかし、主イエスのみことばには権威と力があり、悪霊を「黙れ。この人から出て行け。」と命じることがおできになり、ものを言うことをお許しにならないようにしてくださいます。悪霊の言葉が封じられれば、聞こえてくるのは神のみことばです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という慕わしい御声のみです。
     そうして神のかたちに創られた私が回復して、シモンの姑のように賜物を用いて本来の働きに専念できるようになるのです。神に愛されている子どもとして、神とともに生きる喜びを伝えて参りましょう。

2/14 「神の時」 ヨハネの福音書2章1~11節 森田学師 

  •  イエスがカナの婚礼に着いたとき、お祝いに不可欠なぶどう酒が無くなり、婚礼は危機を迎えます。『ぶどう酒がありません』マリアは他の誰でもなくイエスに必要を正直に告げます。その神に対する思いにイエスも応えます。『わたしの時はまだ来ていません。』わたしの時とは、①イエスが驚くような御業を通してまことの神として栄光をあらわされること。②最も偉大な神の愛のあらわれである十字架の栄光のことです。マリアは②のことは知らなかったと思いますが『主によって語られたことは必ず実現』した体験を思い起こし、神が“まだ”といわれるなら必ず神の時に、この危機を驚く恵みに変えると確信したのです。
     私たちは、一度神のことばを体験したからといって、安心してそれ以上神さまご自身を求めることを忘れてしまったりするのではないでしょうか。私たちには、神の時を信じて待ち、神ご自身を体験し続けることが必要なのです。神が栄光を現す時、約束のみことばの成就が、或いは助けが、それがいつだか知りません。しかし、神の時は必ず来ます。決して遅れることはありません。神の時は人の常識を覆す、驚くような方法で、人の考え得る最上をさらに越えた感謝と祝福をもたらします。いまイエスの栄光が現され、水がぶどう酒に変わり、これ以上ない最善の時に、これ以上ない祝福でその場の全ての人々を喜びに満たされました。
     神の時を待つ、それは辛く苦しいものかもしれません。その時、自分でもがいたり、文句を言い続けると、私たちの心は、不信仰というサタンの罠にひっぱられていってしまいます。神の時は早くもなく遅くもない最善であることを知りましょう。神さまは、私たちを苦しめようとか、困らせようとかしているわけではないのです。今下を見て嘆くのか、神に心を向け、神の時に期待するのか。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』と言われる、驚くようなタイミングで私たちの最善を願われている神が、私たちの神です。

2/7 「みことばは実現する」 ルカの福音書4章14~30節 小林泰輔師 

  •  荒野で悪魔の試みを受けられたイエスさまはその後、御霊の力を帯びてガリラヤ(おそらくカペナウム)に戻り、そこで御霊の力により教え、また奇跡も行われたのでしょう。それから郷里のナザレにも行かれました。そこでいつも通り安息日に会堂に行って礼拝をささげられました。礼拝を受けるべきお方が、人々とともに礼拝をささげられたのです。シナゴーグでの礼拝の型は聖書のみことばが中心にありましたが、それは今日まで続く礼拝の本質的な型です。
     イエスさまはそこで聖書朗読のためにイザヤ書を手渡されると61章をお開きになりました。囚われ人が放たれ、目の見えない人が見えるようになり、虐げられている人に自由が与えられる、主の恵みの年について語られているところを読み、「今日、この聖書のことばが実現しました」と言われました。これぞ説教であり教会の宣教です。聖書の通りになりますと宣言することです。
     ナザレの人々はその説教を受け入れませんでした。自分こそがメシアであるかのように言うが、あれは大工のヨセフのせがれじゃないか。救い主とはもっと有名実力者として現れるのではないか。大工の息子であるわけがない。もしそうならカペナウムで行った奇跡をここでも行ってもらおうじゃないか。そうすれば信じてもよい。そんな思いや言葉を読み取られたイエスさまは、旧約を例にイスラエル人ではなく異邦人であるツァレファテのやもめやナアマン将軍が癒やされ救われた話を引き合いに出されたので人々の怒りを買い、崖から突き落とされて殺されそうになりました。
     私たちも勝手な思い込みに囚われて、思い通りにならない神などいらないとなりがちな罪深い者です。囚われ人、真理の見えない人とは私たちのことです。しかし、神は私たちをあわれんでくださり、イエスさまをお遣わしくださいました。そして罪の縄目から解放し、霊の目を開いてくださり、虐待されていた者が神の子となったのです。みことばは確かに私の上に実現したのです。

1/31 「荒野で試みに遭うとき」 ルカの福音書4章1~13節 小林泰輔師

  •  イエス、荒野で誘惑に遭うというお話は何度も聞いたかもしれません。「人はパンのみにて生きるにあらず」とお答えになったその言葉は一般世間でもよく知られているのではないでしょうか。
     イエスさまはバプテスマの際に父の御声を聞き、それからさらなる交わりを求めて、御霊に導かれて荒野に退かれたのではないでしょうか。(マタイには
    「悪魔の試みを受けるために」と書かれてありますが。)40日間の交わりにも悪魔の試みはありましたが、その期間を終えて空腹を覚えられたときに悪魔は近づいてきました。
     第一の誘惑は石をパンに変えよというものでした。空腹を満たすため、あるいは飢えた人々をそれで救うこともできるとそそのかしたのかもしれません。それは“パンはあるけど神はいない世界”です。イエスさまはパンのためではなく御国の福音のために生きることを示されました。
     第二の誘惑はこの世のあらゆる力を支配する悪魔にひれ伏すことでした。そうすればそれらの力をすべて与えようというのです。権力、財力、軍事力によって王国を作れば良いではないかとささやいたでしょう。それは“神ならぬものを神とする世界”です。イエスさまは神だけが崇められる御国を作るために来られたのです。
     第三の誘惑は聖書にある通り神殿から飛び降りてみよということでした。そうすれば御使いによって守ってくれるでしょう。死なずに守られた奇跡をもって伝道すれば説得力も増すというもの。そこには、みことばを信じているようで自分の思い通りに神をコントロールしようという自我があります。しかしイエスさまは神を試みてはならない、神の主権にすべてゆだねるところに、私たちの思い描いた以上の神の国はやってくることを示されたのでした。主は、個人の信仰の戦いという以上に、神の国の在り方をここで語られたのではないでしょうか。私たちも荒野で誘惑に遭うときにも御国の成就を夢見て歩みます。

1/24 「愛され喜ばれている」 ルカの福音書3章15~38節 小林泰輔師

  •  バプテスマのヨハネは人々から、この人こそ待ち望んだメシア(キリスト)ではないかと見られていました。しかし、ヨハネ自身が否定し、さらにすぐれた方が来られることを予告します。ルカはヨハネのその後についてここで触れますが、ヘロデ王の不貞を指摘したために捕らえられる(マタイによればその後殺される)というものでした。ヨハネ自身が語った「正しいことを行う」の使信通りに、為政者に対しても真っ直ぐに真理を語ったゆえのことでした。
     「正しい」ということは現代では相対的なものととらえられがちです。価値観の多様化とともに(余程のことは別として)絶対的な善というものは語りにくい、伝わりにくいものとなりました。
     しかし聖書の語る「正しい」とは在り方の問題です。赦しを必要とする罪人である自分を自覚し、悔い改め、神のもとに立ち返ることが絶対に正しいことであり、父のみもとで、神の子どもとして在るということが正しいことなのです。
     イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになりました。罪のない方ですが、「正しいことを実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」と語られ受洗されました(マタイ3:15)。神の子ども、真のイスラエルとして正しい立ち位置を示されたのではないでしょうか。このときイエスは祈っておられたとあります。何を祈ったのでしょうか。御父のみこころを行うことができるように献身の祈りをされたのではないでしょうか。
     イエスさまが水から上がられると「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がしました。イザヤ書42:1と同じ響きのことばです。私たちもこの父の御声に迎えられたのです。子どもであり主の選ばれたしもべとして愛されて喜ばれている者です。御子イエスさまのように、父の御心に従って歩みましょう。

1/17 「バプテスマのヨハネ」 ルカの福音書3章1~17節 小林泰輔師 

  •  皇帝ティベリウスの治世の第15年…とこのような記述から歴史上に確かにあった出来事であることが分かりますが、様々な統治者の名が併記されていることからはイスラエルにとって混迷の時代であったことも分かります。
     そんな時代にバプテスマのヨハネが語ったのは神の赦しについてでした。罪を悔い改めるなら神は赦してくださるのです。その証しとして水のバプテスマを授けました。ヨハネは旧約聖書に預言されていた、エリヤのような預言者がもう一度現れて、主の道を整えるというまさにその役目を果たしたのです。
     ヨハネは悔い改めのバプテスマを受けた人々の質問に答えて、どのようにして生きるべきかを答えました。それは悔い改めにふさわしい実を結ぶということでした。群衆には持っているものを分け与えるように教え、取税人には決められた以上の不正な取り立てを戒め、軍人には権力を乱用しないようにと。それはごく当たり前のことのように思いますが、その当たり前のことを当たり前にできないのが、私たちの罪の性質なのです。「まむしの子孫たち」と呼ばれたのは私たちのことでもあるのです。
     しかし、そのような道徳的善を行うことによって救いがもたらされるのではありません。世直しによって世が救われるなら、ヨハネが救い主と呼ばれたかもしれませんが、歴史が示す通り世直しによって世が改まったことなどないのです。それはヨハネ自身が承知していたことで、自分よりもあとに来られる方こそ救い主であると言いました。そして、その方が治める世に備えて、人々に行動変容を促していたのです。
     主イエスは聖霊と火のバプテスマにより罪を滅ぼされる方だからです。悔い改めにより私たちの罪は麦の殻のように吹き飛ばされ私たちから離れますが、悔い改めを拒むなら罪と一緒に滅びることになります。

1/10 「私たちを慕う神さま」 ヨハネの福音書1章43~51節 森田学師 

  •  ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
     ナタナエルをイエスのもとに連れて行ったのは、ピリポでした。しかし、イエス様は、既にナタナエルを知っていて関心を寄せていたのです。イエス様が私たちを見る目は、人間とは違います。イエス様は、出会う前からその人を慕い求めておられるのです。
     そうは言っても、実際に見て会ってみないことには、気付かないことでもあります。そこでピリポは言いました。『「来て、見なさい。」』また、詩篇(34:8)には『味わい 見つめよ』とあります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」
     そして、ナタナエルは、イエス様の十字架の御業を見ることになります。それだけにとどまらず、ペンテコステ、やがては再臨の希望と続く神のみわざです。
    イエス様を慕って、近づき見つめる時に、出会って終わりではなくて、さらに素晴らしい神さまの御業を見させていただけるのです。イエス様は、ご自分のことを慕わせておいて、あとはどうぞご勝手に、と私たちのことを放って置かれるお方ではありません。私たちが今どんな状況にあっても、神さまは、ご自分のなさる御業を、ぜひ私たちとシェアしたいと望んで、今日も私たちを慕っておられるのです。
     生きていると、日々どんなことが起こるかわかりません。しかし、私たちの心配や期待を遥かに越えて、神さまは私たちにそれぞれに一番良いことしかなさいません。

1/3 「神の家族とともに」 ルカの福音書2章39~50節 小林泰輔師

  •  今朝の箇所は聖書のなかでも珍しい、少年イエスに関する記述です。イエスさまと両親は過越の祭りを祝うためにエルサレムに行きました。ユダヤでは13歳で霊的には一人前と認められ、12歳からその準備を始めていました。イエスさまはこのときの巡礼で家族とはぐれてしまいました。両親が帰途一日の道のりを終えるまで気づかなかったというのはおかしな気もしますが、巡礼団は親戚や知人など大勢いたので、どこかにいるだろうと思っていたのでしょう。しかし一日終えて宿についた頃、どこにもいないので慌てて捜しに来た道を戻っていったのです。両親がイエスさまを見つけたのは三日後のことでした。少年イエスはエルサレムで教師たちに教えを受けていたのです。両親はどうして離れてしまったのかと心配させたことを咎めましたが、少年イエスは「どうしてわたしを捜されたのですが。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と答えました。両親にはただちには理解できませんでしたが、母マリアはこのことを心に留め置きました。
     少年イエスが迷子になった話、ではないのです。父なる神のもとを離れて迷子になっているのは私たちの方なのです。ですから、少年イエスは、「父のもと」という居るべき場所から離れていないとお答えになったのです。私たちは自分から迷い出て父なる神のみもとを離れた罪人です。
     主イエスの、そして御父のみこころは、神の家族がともに一つに家に集まり、ともに御父を中心とした交わりをすることです。長子であり私たちの兄君であるイエスさまは、私たちを捜して救うためにこの地に来てくださいました。49節の別訳では「父のみわざのうちにいることは当然である」とも訳されます。失われた子どもたちである、イスラエルを、そして私たちを捜して交わりに引き寄せる使命から離れてしまわれたのではなく、父の家で神の家族(ここではユダヤの教師たち)との交わりをもっておられたのです。私たちも御父のみわざのなかにあるこの使命に生きて参りましょう。

12/27 「新時代の幕開け」 ルカの福音書2章21~40節 小林泰輔師 

  •  イエスさまがお生まれになった後、両親は律法に従い八日目の割礼を施し、またきよめの期間が過ぎた後、いけにえをささげるために神殿に赴きました。そこで、シメオンとアンナに出会ったのでした。
     シメオンは「主のキリスト」を見るまでは死なないと聖霊に告げられていました(26)。聖霊に導かれ宮に入り、そこで幼子イエスを見て「主のキリスト」であることを確信すると神をほめたたえました。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」(29)。シメオンの生涯は「イスラエルが慰められるのを待ち望んで」(25)祈り続けた生涯でした。その祈りの答えを得て満足し、神をほめたたえて人生の最期を迎える、そんな最期を私たちも迎えたいものです。アンナもまた「宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」(37)祈りの人であり、幼子イエスによってイスラエルが贖われることを確信し、救いを待ち望む人々に救い主イエスのことを語りました(38)。
     シメオンはヨセフとマリアに予言的な言葉を伝えます。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ」る(34)と。イエスを主と信じ従うかが滅びか救いかの分岐となるという意味にもとれるし、罪に倒れた者がイエスによって赦しを受けもう一度立ち上がるという意味にもとれます。後者の場合、続く「人々の反対にあう」という言葉が、パリサイ人や律法学者の反対にあうという意味につながります。主イエスは律法によって罪人と裁かれるべき人々の友となり、彼らに罪が赦されることを語っていたからです。
     主イエスの到来は、新しい時代の幕開けでした。イザヤ書61章にある通り、貧しい人に良い知らせが告げられ、心の傷ついた人が癒やされ、囚われ人は解放され、罪人には赦しが宣言されるのです。これが新しい御国の在り方です。私たちの教会も傷つき倒れた人々の友となる、癒しと慰めの共同体として用いられるように、イエスさまに従って歩んで参りましょう。

12/20 「喜びの知らせ」 ルカの福音書2章1~20節 小林泰輔師 

  •  クリスマスで大事なのはケーキでもプレゼントでもなく、「おめでとう」と互いに挨拶を交わすことです。主イエスの降誕によって、救いが訪れたことを知らせ合い喜び合う挨拶です。このような記念日は何に例えられるか、それは終戦記念日であり、独立記念日であり、建国記念日であります。
     この一年はコロナ禍のなかで、予定もすべて飛び、思うようにいかない日々に「なんて日だ!」と叫びたくなるような気持ちだったのではないでしょうか。今日の箇所に出てくる羊飼いはそんな気持ちも忘れてしまうほどに苦境に慣れてしまった人たちかもしれません。住民登録に人々が大移動している中、忘れ去られたように、いつも通りに羊の世話をしていました。その羊飼いたちに御使いが現れ、喜びの知らせを告げられたのです。旧約聖書の約束の通りに、「ダビデの町」で救い主がお生まれになりました。その知らせを聞いて、羊飼いたちは、しるしである飼葉桶を探し当てました。そこに眠っているみどりごを見て、イザヤ書9章6,7節にある預言を思い起こしたかもしれません。
     このみどりご誕生の知らせは小さなイスラエルだけの喜びではありません。たしかにイスラエルに対する約束の成就ではありますが、それは「みこころにかなう人々」(14節)すべてのための救いの知らせでした。神のみおしえに従って歩む人はすべて、約束の子であり、神の子どもなのです(ローマ9:8、ヨハネ1:12,13)。
     クリスマスおめでとう。もう戦いは終わりました。主イエスの十字架により、罪とそのさばきである死との戦いは終わったのです。
     クリスマスおめでとう。主イエスの復活によって、私たちの罪が赦されたことが証しされ、罪の奴隷から解放されたのです。
     クリスマスおめでとう。御子の到来によって、新しい御国の治世が始まりました。新しいいのちは何度でも立ち上がる力を与えてくれます。主イエスとともに新しい御国の新しい使命に生かされて参りましょう。

12/13 「曙の光が訪れる」 ルカの福音書1章67~80節 小林泰輔師

  •  ザカリヤの賛美と預言の歌は冒頭の「ほむべきかな」のラテン語から「ベネディクトゥス」と呼ばれています。舌が解かれて、癒やされて開口一番が「ほむべきかな」だったのです。私たちも祈りが聴かれ、癒やされ、救われた、その後の歩みが重要です。
     この賛美の内容を見てみましょう。イスラエルの歴史の中で神は絶えずその民をあわれみ、契約に忠実に愛をもって導いてこられました(68~75)。旧約時代から400年、闇夜の沈黙と思われるような時を過ごしましたが、神はイスラエルを忘れることなく顧みてくださったのです。「私たちのすべての日々において」(75)とあるように、今も私たちは覚えられています。それは「神の深いあわれみ」によることです(78)。(ヨハネという名も“主はあわれみ深い”の意)
     78節。夜の終わりを告げる「曙の光」が訪れました。イエスさまが人となって「いと高き所から私たちに訪れ」てくださったのです。
     79節。そうして、「暗闇と死の陰に住んでいた」私たちを照らしてくださったのです。
     「暗闇」の中では道を見失います。どのように生きたらよいか、何のために生きたらよいか、道を失った私たちのために、イエスさまは人となって来てくださり、神のみおしえの通り人々を愛して生きる行き方を示してくださいました。
     「死の陰」とあるように私たちの日常には「死」が暗い影を落としています。死んだらどうなるのか?普段口にすることは避けていても、誰もが死に怯えています。しかし、イエスさまは十字架につけられ葬られても、三日目に死を打ち破りよみがえってくださいました。イエスさまの十字架の犠牲により私の罪は消え去り、死はもはや力を失い、キリストとともによみがえるという信仰と希望が与えられるのです。「死の陰の谷を歩むときも、主ともにいませばわれ恐れじ」(詩篇23:4のとある楽曲の歌詞)
     神の怒りはイエスによって宥められ、神との「平和の道」に導かれたのです。
     「自分に光があるうちに、光のこどもとなれるように、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)

12/6 「ことばは人となって」 ヨハネの福音書1章1~14節 森田学師 

  •  ヨハネの福音書はとても美しい詩で始まります。イエスと地上の歩みを共にしたヨハネが、イエスのすばらしさを心の中だけに留めてはおけない!と、霊を燃やされ、言葉を巧みに用いて、証しせずにはいられなかったと思わずにはいられません。
     イエスが“ことば”であるかのように証しされています。それはイエスが、父なる神が発する“ことば”の通りに、すべてのことを寸分たがわず完全に実践されたからです。まるで神のことばが実体化でもしたのかと思わせるほど、イエスは全く父と一つであったのです。(神が二人になったわけではなく、父と子と聖霊=唯一の神です。)
     その中でも特に際立っていたのは、愛です。神の愛に鈍感な罪深い私たちのため、イエスは地上で生活し、愛のことばで慰め、行動で見て分かるように愛をあらわされたのです。それはイエスの人となって生まれたクリスマスから十字架にまでずっと続きます。
     『すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。』この暗く、希望も、救いもよくわからない。人生の先に何があるのかもわからない。死んだら終わりだ。そんな暗闇に苦しむすべての人を照らすために、イエスは来てくださるのです。
     『その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』イエスは、父と聖霊と共に永遠のはじめからおられました。あの創世記一章の「はじめに」よりも前、始まりの無い永遠です。イエスは、万物を創り、そして、私たちにいのちを与えられたお方なのです。
     この偉大なお方が、私たちを暗闇と罪から救うために、十字架で死ぬために、そして復活し、暗闇を、罪を、消し去るために生まれたのです。ですからクリスマスは申し訳なくもあり、嬉しくもあるのです。このイエスこそ、私たちの輝かしい希望であり、いのちそのものです。

11/15 「神の望まれる私たちの幸せ」 サムエル記 第一 8章1~10節 森田学師

  •  人の描く幸せ、そこにまことの神が居られるか、否かでは、全然別なものになります。
     神の愛するイスラエルの民は、他国のように王が欲しい!とだだをこねます。それは、彼らのリーダー(ヨエルとアビヤ)が、父サムエルとは真逆に、己の欲望を満たすという幸せのために生きていたからです。父にあって、息子達に無いもの。それは、神に近づくことです。『しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。』(詩篇73:28a)神のみそば、声をかければ、目配せすれば、すぐに寄って来ることのできる近さ。手を差し出せば、触れることができる近さ。神とあなたが親密な関係こそ幸せ、と聖書は語ります。
     祈りは人を神に近づけます。しかし、リーダーが神に祈らないので、民も祈りを忘れ、共に神から遠ざかり、神を退けるのです。驚くことに、神は300年以上も前から知っていたのです。民が神を排除して王を欲しがることを。
    それでも忍耐深い神は、その選択は本当に幸せだろうか?と迫ります。神と引き換えに王を得るとき、自分の大切な人や物を奪われ、その上、過度に苦しむことになっても、それを求めるのか?と。それでもわがままを押し通し神を排除する民。神のため息が聞こえてきそうです。
     ああ、私はこのリーダーや民ほど悪くない!本当にそう思うでしょうか?私たちは神を求め祈り、神に近づきます。しかし、みそばに引き寄せて下さるのは神です。(ルカ18:9-14)神が、引き寄せたいと願われたのは、自分を高くしたパリサイ人ではなく、なんと、嫌われ者の取税人でした。罪はお嫌いになりますが、罪人を愛してやまない神は『自分を低くする者』をみそばに引き寄せられます。
     二番目に選ばれた王、ダビデも罪に気づかされたとき、罪を認め神と民の前に低くなっていきました。民のわがままで立てられた王。しかし、このダビデ王と、その子孫から、イエス様がお生まれになったことは、人智を遥かに超えた神の恵みです。そして、誰よりも低くなり、嘲けられながら成就された、イエス・キリストの十字架への謙遜が、私たちの高慢という罪を打ち砕き、私たちはイエスの救いによって低くされ、神のみそばにいる幸せを味わえるのです。『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。』(イザヤ57:15)

11/1 「一番すぐれているのは愛」 コリント人への手紙第一13章1~13節 小林泰輔師

  •  「そこに愛はあるのか?」私たちは、ことあるごとにこのことを自分に問うていかなければなりません。愛がなければ、どんなにすぐれた言葉も行いも、やかましい銅鑼やシンバルと同じだと聖書は言います。愛のない正しい言葉や正義というものは、「自粛警察」などに見られる「正義の暴走」で経験しました。また、日常の人間関係においても、悩み傷ついている方に、慰めより先に正論を語って失敗してしまうこともあります(2節)。驚くことにどんな英雄的行為であっても、愛なしに為し得るのが人間だと言うのです(3節)。
     4~8節は「愛の讃歌」と言わることもあります。完全な愛とはこういうものだということを歌いあげています。私たちはこういった愛を持ち合わせておりません。それが証しに、「愛」というところに自分の名前を入れ替えて読んでみると、「私は寛容であり、私は親切です」とは自信をもって言い切れない己に恥ずかしくなり、読むのをやめたくなります。しかし、イエスさまのお名前はしっくり当てはまります。「イエスは寛容であり、イエスは親切です…」と最後まで読み上げることができます。イエスさまの愛は決して絶えることがありません(8節)。イエスさまから流れる神の愛は無尽蔵です。決して絶えることも、質が落ちることもありません。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル13:8)
     「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです」(10節)と、異言や預言、知識(神についての伝聞的知識)などは、完全な天の御国が完成するまでの一時的なものとしています。それらは御国が来たなら、主と面と向かって交わるので、必要のないものとなります。しかし、愛は今もこれからも変わることなく必要なものであり、その愛をこそ追い求めなさいと言うのです。一番すぐれているのは愛です。信仰、希望、そして主の愛を子どもたちに語り聞かせ、継承していきましょう。

10/25 「その名はイエス」 ルカの福音書1章26~38節 小林泰輔師 

  •  マリアの受胎告知の場面です。ザカリヤとエリサベツに現れた御使いガブリエルが、ガリラヤの町ナザレに住むマリアのところにもやってきました。御使いは「おめでとう」と言いました。救い主の母と選ばれたことがおめでとうなのでしょう。またイスラエルの民にとっても、私たちにとってもこれは良い知らせでありました。遂に民を罪から救うメシアが来られるのです。クリスマスおめでとうとの挨拶は、私たちがお互いに言い交す「おめでとう」なのです。
     あなたは身ごもって男の子を生む、その名をイエスとつけなさい、この子はダビデの王位を受け継ぐ救い主ですと、一気にいろんなことを言われますが、マリアはどうしてそのようなことがあるでしょうと答えます。確かに系図にある通りヨセフも、そしておそらくマリアも、ダビデ王の血筋だったのでしょう。しかし他にもダビデ王の血筋で名家や有力者はいたでしょう。どうして田舎町の普通の夫婦のところに生まれるのでしょう、そういう思いもあったと思います。それだけでなく決定的なことは、マリアはヨセフと婚約していたけれどもまだ結ばれていなかったのです。処女懐胎という奇跡をもって生まれるその子どもは聖霊によるのです、というのが御使いの答えでした。そして、不妊と言われていたエリサベツの例を挙げ、「神にとって不可能なことは何もありません」と告げました。神が約束された「言葉」を成就させるのに不可能なことはないという意味です。マリアの信仰は呼び起こされて、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と応答しました。
     その名は「イエス」。「主は救い」という意味です。その名は「インマヌエル」。「神は私たちとともにおられる」という意味。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として来られる方です。麗しい主イエスの御名に込められた神の約束が、おことばどおりこの身になりますようにと、私たちも待ち望みましょう。

10/18 「主のために整えられた民」 ルカの福音書1章5~25節 小林泰輔師

  •  イエスさまの誕生の前にルカは一組の夫婦をとりあげます。夫ザカリヤは「主は覚えておられた」、妻エリサベツは「私の神は誓い」という意味の名前です。ザカリヤはアビヤの組の祭司で、神殿で香をたく奉仕に当たっていました。その奉仕の最中に聖所の中で、御使いが彼に現れたのです。恐怖に取り乱している
    ザカリヤに「恐れることはありません」と語りかけると、次にザカリヤとエリサベツに子どもが与えられると告げました。この夫婦には子がなかったのですが、二人ともすでに高齢でした。アブラハムとサラのときのようにザカリヤもにわかには信じられませんでしたが、確かに御使いの現れた証であるとともに不信仰への戒めとして、口がきけなくなりました。
     神さまは御使いを通して約束を告げられました。旧約時代、預言者マラキによって語られていた、主の大いなる日の前に遣わされる預言者エリヤ。ザカリヤとエリサベツの間に生まれる子どもこそがその人であると。しかし、名前は「ヨハネ」とつけなさいと言われました。「主は恵み深い」という意味の名です。子どものなかった夫婦にとって喜びとなるばかりか、イスラエルの待ち望んで来た約束のメシアの先触れとしての使命をその子はもっているのだというのです。旧約最後のマラキ書の時代からおよそ400年間、救い主を待ち望むイスラエルに、神さまは沈黙を通されました。主は約束を忘れてしまわれたのだろうか、人々は約束を待てず、期待も信仰も薄れていたところでしたが、主は誓いを覚えておられ、恵み深い主の救いのご計画をここに成就させてくださったのです。
     私たちもその約束が御子イエスさまの到来によって成就したことを知っており、また、再臨の約束を待っています。その日は「必ず来る。遅れることはない」
    (ハバクク2:3)主も忍耐して待っていてくださいますから、人々に救いの福音を知らせましょう。

10/11 「イエス・キリストの真実さゆえに」 サムエル記第一5章1~12節 森田学師 

  •  偶像に頼る残酷なペリシテ人と、神の愛するイスラエル人の戦いです。今まで勝利に導いてきた神の箱(=神の臨在⇒神ご自身が一緒にいるよという神の愛のメッセージの顕れ)を、イスラエル人はアクセサリーと見なし、形式だけの礼拝を始めました。その結果、イスラエル人は大敗し、神の箱は奪われ、神が離れたショックでリーダーは死にます。対して神の箱は、ペリシテ人には、偶像の破滅と、腫物による絶叫をもたらします。神の箱は、敵も味方も滅ぼしてしまうのか…。断じて違います。神は、心から神を慕わないイスラエル人にも、神に敵対するペリシテ人にも、神を認めて、愛し合いたいと交わりを求めておられるのです。
     しかし神は、味方から無視され、敵からは煙たがられ、たらい回しにされていきます。ペリシテ人も、イスラエル人も、なんて酷いのだ。そう言えるでしょうか?
     この姿は、イエス様と重なります。イエス様も味方から捨てられ、敵から辱めを受け、そして、十字架で殺されました。私たちが、どんなに薄情で、神を無視しても、すべての罪を赦し、救うためにです。
     この信頼に値する、嘘偽りのない真実の赦し、真実の救い、真実の愛。このイエス・キリストの真実さのゆえに、私たちは救われるのです。イエス・キリストが真実だからこそ、神様を信じて生きることが喜びです。礼拝、祈り、賛美、すべてが喜びです。このことを教えるのは、紛れもなく聖霊です。
     今、形式でも伝統でもない、新しい礼拝『御霊と真理によって礼拝』する特権に招かれています。真理であるイエスと、聖霊によっての礼拝です。驚くことに、一番初めに招かれたのは、サマリアの女性です。身分や境遇を超えた、神の一方的な介入です。
     私たちは、イエス様の真実さに感動し、この方の真実を隠さない生き方を、日々聖霊によってさせていただきましょう。

10/4 「奴隷から神の子どもに」 ピレモンへの手紙11~25節 小林泰輔師

  •  私の尊敬する先輩牧師の言葉です。「私たちは喜んで苦労しましょう。苦難のなかにある時こそ私たちの心の距離は近くなるのだから。」“ソーシャル・ディスタンス”とは社会的距離などと訳されますが、感染対策で空けなければならないのは物理的距離なのであって、苦しい時こそむしろ社会的距離は詰めていくものなのです。この手紙においてパウロとピレモンも信仰の友として関りあい距離を縮めていくのです。
     そしてまた、逃亡奴隷オネシモの赦しのため、執り成すことでパウロはピレモンとオネシモの距離も縮めようとします。オネシモは不忠実なしもべでありましたが、救われて本当に「有益な者」に変えられました。イエス・キリストの福音は人を変えるということの証しをここに見ます。ピレモンとオネシモの関係も新しく変えられました。奴隷と主人としてではなく、主にある兄弟として迎えるようにとパウロは勧めています。
     またパウロは逃亡の際に金品を盗んだり、損害を与えたようなことがあれば、それは私が補償しますと申し出ました。「良きサマリヤ人のたとえ」のサマリヤ人も敵対していたユダヤ人を助けたばかりでなく、さらに介抱の費用が必要なら私に言ってくださいと宿屋に言い残して旅を続けました。イエスさまは、私たちの過去の罪の負債を十字架によって身代わりに支払ってくださっただけでなく、未来に犯す罪をも含めて、私に請求してくださいと御父に申し出てくださり、私のために十字架にかかってくださったのです。何という愛でしょう。パウロは自分自身が主から受けた愛と赦しの恵みを、次にはピレモンに、そしてオネシモに分け与えているのです。そうすることで、主イエスから受けた愛に報いているのです。
     主イエスはパウロを通して私たちに語られます。「あなたの好意に与りたい」と。私たちが弱っている誰かを、イエスさまに対してしてさしあげるのだと思って愛と善の施しをするなら、主はご自身が好意に与ったように喜んでくださるのです。

9/27 「ピレモンへの手紙」 ピレモンへの手紙1~12節 小林泰輔師

  •  ピレモンの手紙は聖書の中でも特異な存在です。とても短い手紙でありながらしかし内容はとても濃く、神の愛と赦しという福音が凝縮されています。パウロがピレモン個人に宛てた手紙ですが、その用件は逃亡奴隷オネシモが保護され救われたことと、そのオネシモを受け入れてやって欲しいと頼むものでした。
     ピレモン(「深く愛する者」の意)、アッピア(「親愛なる」の意)はおそらく夫婦であったと言われています。またアルキポ(「馬を御する者」の意)は子どもであったと見る向きもあります。その家庭で雇われていた奴隷のオネシモは、金品か何かを盗んで逃亡してしまったのです。それが、ローマの町でパウロの関係者に見つかり、パウロの元に導かれ、福音を聞いて救われたのです。
     ピレモンもおそらくエペソでパウロによって救いに導かれた一人でしょう。その後コロサイで家の教会をしていたピレモン一家はパウロにとって喜びであり慰めでありました(7)。パウロは獄中にありましたが、ピレモンのことをよく聞かされ、ピレモンもまたパウロのことを聞かされてお互いに祈っていたでしょう。お互いに知らせ合い祈り合うことで、キリスト者の信仰の交わりは生き生きとしたものになるのです(6)。コロナ禍にあって直接会うことが制限されている今の状況にあって、教会の交わりの肝心要を教えられるところです。
     パウロは牧会者らしい丁寧な配慮でオネシモのことを話題に挙げます。彼を奴隷とは呼ばず、「獄中で生んだわが子」(10)と紹介します。ピレモンがパウロの霊の子どもなら、オネシモもそうだというのだから、もはや二人は同じ親を持つ兄弟ということになります。逃亡奴隷であったオネシモ(「有益な者」の意)は有益どころか不利益でしかない者でした。しかし、それが回心し今や本当に主の働きのために役に立つ者と変えられたのです(11)。能力のことを言っているのではないことは明白です。主イエスの愛に捕らわれて、このオネシモはイエスさまに似た者に創り変えられ、心から仕える者になったのです。

9/20 「主を見上げて」 出エジプト記40章34~38節 小林泰輔師 

  •  出エジプト記の最後は幕屋の完成をもって幕が閉じられます。前章で見たように、適材適所それぞれに割り振られた仕事により、幕屋の部材が作られていきました。今日のところではそれらが組み合わされ、一つの神の幕屋がついに完成します。そこには携わった一人一人の思いなどもあったでしょう。幕屋の完成を見た民には感動があったのではと思います。
     幕屋を組み立てていくにあたっては「すべて主がモーセに命じたとおり」に行いました。私たちも、主が命じられたとおりに、この地における神の宮づくりを行います。聖書の歴史においては、壊れたものの再建、失われたものの回復が繰り返し語られます。出エジプト、捕囚からの帰還、そしてイエス・キリストによる罪からの救いと解放です。そして、今は神の民である教会を通して世界が再建される時です。私たちはその再建計画におけるタスクフォース(実働部隊)です。神さまが神の民に命じられた再建のビジョンは例えばイザヤ書58章やマタイ25章に見ることができるでしょう。悪の束縛を解き、虐げられた者たちを自由の身とし、飢えた者にパンを分け与えることです。弱く小さくされた者に、善を行うことです。主イエスは、それら小さな者の一人にしたことはわたしにしたことであると、言われました。そのようにして私たちは「破れを繕う者、通りを住めるように回復する者」(イザヤ58:12)と呼ばれ、その使命を全うすることになるのです。
     完成した幕屋には、神の栄光が満ちていました。イスラエルの宿営の中にいつも目に見えるかたちで、神の臨在があったのです。イスラエルは自分の幕屋から常に会見の天幕の方を見上げていました。そして「行け」と「とどまれ」というサインを見逃しませんでした。私たちも祈りと聖書のみことばとによって、進むべきか、とどまるべきか、世界の破れを繕うために何をすべきか、知ることができます。御子イエスにより大胆に至聖所に入ることができるようにしてくださいましたから、そこで主に会見し、いつも主を見上げ祈りつつ歩みましょう。

9/13  「イエスさまが一番」 マタイの福音書5章10~12節 森田学師 

  •  『義のために迫害されている者は幸いです…。』イエス様が語られた八つの幸いの最後です。3~6節では、神と出会い、罪を示され、罪より救われ、神と共に生きる者へと霊的回復が語られています。
     そのとき始まる新しい人生の幸いが7節から語られています。イエス様のように神の愛に生きる者に、神の聖さを求める者に。そして、神との平和を携えて、この世に実際的に遣わされる者に変えられる幸いです。
     その道の途中、迫害があるのです。この迫害は『わたしのために…』と言われています。つまり、私たちが、どんな時でもイエス様を一番にしているからこそ、イエス様のことを隣人に明かされるときに受ける迫害です。
     しかし、迫害があっても、私たちには喜びがあります。その理由は二つです。
     ①神さまの願う生き方に直接つながる。なぜなら、イエス様を伝えることが私たちの使命であり、神様の願いだからです。『悪に対して悪を返さず、…逆に祝福しなさい。』迫害する人のために祝福を祈れるなんて、私たちにしか出来ない特権です。
     ②永遠の命と復活の希望がある。もし、地上の命だけを考えて生きているなら、絶望の二文字です。しかし、そうではなく、迫害されても永遠のいのち、復活の希望がある私たちは、だれよりも幸いな者なのです。この地上の人生も大切です。しかし、それよりももっと大切ないのち…それは肉体が死んでも続きます。もはや餓えも渇きもない、死、苦しみ、悲しみもない、呪いも夜もない、天の御国への復活の希望があるのです。
     神様は、私たちがどんなに馬鹿にされようが、イエス様を一番にするとき、必ず私たちを祝福します。神を無視していた者が救われたように、迫害する人を祝福し、とりなし祈る幸いを覚えたいです。神様は、迫害する人をも祝福しようと待っておられるお方です。

9/6 「神に祈る祈り」 ピリピ人への手紙4章6~7節 小林泰輔師

  •  「~をお祈り申し上げます」とは手紙などの定型文として使われますが、いったい何に対して祈っているのでしょうか。祈りとは「こうだったらいいな」と願うことではありません。誰に対して祈るか定まっていない祈りというのは、無人島からSOSメッセージを瓶に詰めて海に流すようなものです。そこには希望も平安もないのです。
     祈りとは、神さまに祈るものです。神さまは今も生きておられ、私たちの祈りを確かに聞いてくださるお方です。神さまは「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え」ると言われます(エレミヤ33:3)。祈りは聞き届けられるという確信が祈りの力となるのです。そして聞いてくださる方は天地を創造され、全知全能であられ、御子を死人のなかからよみがえらせた力ある神です。
     何を祈るべきかは「さかなとねこ」です。①「さ」神さまへの賛美。②「か」神さまへの感謝。祈る生活に感謝は尽きることがありません。③「な」嘆き・慰めを祈ります。悲しいこと、胸を痛めていることを何でも神さまにお話しします。④「と」誰かのためにとりなすことです⑤「ね」願いです。⑥「こ」罪の告白です。罪の告白は、祈りの前提として大事です。私たちに悔い改めていない罪があるとき、それが神との間の仕切りとなり隔ての壁となるとあります(イザヤ59:1-2)。罪を告白し、イエス・キリストの十字架の赦しを受け取ることにより、神さまと私たちの間の壁が打ち砕かれ、祈りが聞かれるということを期待できるようになります。
     祈ったらどうなるのでしょうか。単純なことですが、聞き届けられます。そして「理解を超えた多いなること」みこころを知り(エレミヤ33:3)、「理解を超えた神の平安」が与えられます(ピリピ4:7)。天地を造られた全能の神が、私たちの願いをはるかに超えて最善な道に導いてくださいます。主イエス・キリストの父なる神に祈りましょう。

8/30 「六日間は仕事をする」 出エジプト記35:1~3、29~35 小林泰輔師 

  •  一週間のうち七日目(ユダヤでは土曜)は安息日です。神さまがそう定められました。そして「六日間は仕事をする」とあります。安息日は大切ですが、それ以外の六日間が大切でないということはありません。安息日だけが礼拝したり神さまのことを考える日なのではありません。今回は、六日間のことについて教えられたいと思います。
     当時のユダヤ人にとって仕事とは何だったのでしょうか。毎日どこかに通勤するわけではないですね。羊を飼うとか狩りをするとかいうことも想像しますが、この文脈では神の幕屋を建てる過程に「仕事」という言葉がたくさん出てきます。
     私たちも日々の仕事や働きを通して、神の幕屋(御住まい)を建てているのではないでしょうか。神が住まわれるのは最終的には新天新地です。やがて来る世のために今、私たちはそれぞれが置かれている所で神の栄光のために働き、御国の建設をしているのです。この地は滅び去りますが、この地で成した働きは無駄になることはありません(Ⅰコリ15:58)。何らかの形で新天新地に引き継がれるものです。そこに働くことの意味があります。ですから適材適所、天幕を造り、祭壇を造り、装束や刺繍をこしらえたように、私たちも良い企業を作って人々を助け、良い政治をもって公正な世を作り、良い芸術を生み出して神の栄光を表し、そうして神の御住まいを建て上げていくのです。
     神の幕屋を建て上げる人々は「心を動かされ」「進んで献げる心」をもって貢献しました。自分の働きが神の栄光に直結していることに満足し誇りを持って働いたのです。また、働くための力、知恵と英知と知識と技能、教える能力などもすべて神さまが与えてくださいます。人間の堕罪によって壊れた世界を、神さまはもう一度人間の手のわざを用いて、神の御住まいとして建て直すようにしてくださったのです。六日間をも主のためにささげて生きましょう。

8/23 「かつてない奇しいこと」 出エジプト記34章1~10節 小林泰輔師

  •  主はもう一度イスラエルと契約を交わすために、石の板を用意しなさいと言われました。金の子牛礼拝に怒ったモーセが砕いてしまったからです。「もう一度」という言葉はとても福音的な響きがします。実際は「もう一度」が7の70倍(マタイ18:21,22)を超えて何回も何回もあって私たちは主に赦されているのです。
    ここで神ご自身が、そのご性質について語られるように、主はあわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みに富んでおられるお方だからです。当然滅んで然るべき罪人の私が、イエスさまの十字架の贖いによって、罪赦され、神の子とされたのです。それでもまだ罪を犯してしまう私でさえも、何度でも赦してくださり、朝毎に新しい恵みを与えてくださるのです(哀歌3:22,23)。
     神さまが与えてくださる新しい契約で、「かつてなされたことがない奇しいことを行う」(10)とあります。直接的にはカナンの地に住む異国人を追い出し、イスラエルを住まわせること(11)を指しています。当時においては異国人=異教の民であり、おぞましい偶像崇拝の罪にまみれた者たちでした。その罪を駆逐し、神の民の住む地とするという約束でした。そしてそのわざを主はイスラエルの民とともに行うのです。
     このことは、御子イエスさまの到来によって究極的には成就します。この罪の世の中にあって、その罪を取り除き、神との平和をもたらすのは福音の力によることです。ロケット弾やミサイルによっては平和は成し遂げられません。ダイナマイトより大きな聖霊の力によってのみ、罪は駆逐されるのです。罪なき神の御子が私のために死なれたという衝撃の事実、御子を主と信じるだけで救われるという福音が凄まじい威力で人々の心を占領し、福音によって人々は心の内側から変えられていくのです。そのみわざを神の民である私たちが、主とともに行うのです。福音を携えて出て行こう。

8/16  「主の臨在がともに」 出エジプト記33章11~23節 小林泰輔師

  •  伝統的な技術をもとに、自由な発想で新製品を開発しました。前章でモーセの魂をかけたとりなしを神さまは聞いてくださり、裁きは軽減されました。しかし、今日の箇所を見ると、神さまはまだ怒っておいでのようです。約束の地には連れて行くが、「うなじを固くする」強情で不信仰な民とは共に行かないというのです。これは「悪い知らせ」であり、民はこのような結果を招いた罪のきっかけになった飾り物を外して嘆き悲しみました。
     モーセはとりなしを続けます。神さまが共に行かれないというなら、他に誰をお遣わしくださるのですかと。すなわちモーセ一人では民を連れ上ることなどできませんと訴えたのです。また、安息の地に行くために、「あなたの道を教えてください」と訴えます。すると、一緒に行かないと言った神さまが、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」(14節)と約束してくださいました。「臨在(直訳「顔」)」をともに行かせるというのです。
    “会社の顔”など、顔とは全体を象徴するものです。その顔を見ると全体の様子も伺い知ることができるのです。神の御子イエスさまは、人となって来られ、人々と顔と顔とを向き合わせて語り、教え、導いてくださいました。神さまがどのようなお方か、イエスさまを見ればよく分かります。神の御顔であり、インマヌエルの臨在でありました。
     この14節の言葉はイエスさまにおいて完全に成就しました。イエスさまがともにいて私たちを休ませ、安息の地、天の御国に導いてくださる道であるお方です(マタイ11:28、ヨハネ14:6)。このお方がともにおられるということ、「臨在」が良い知らせ=福音です。「神の不在」は悪い知らせであり嘆き悲しむべきことです。罪の飾り物を捨て、悔い改めて、臨在の主とともに歩みましょう。

8/9 「神を畏れ、神を喜ぶ」 マタイの福音書5章8節 森田学師 

  •  今『心のきよいものは幸いです』と語られるイエスが、愛であり、そして、聖なるお方であること覚えたいです。
     聖とは、区別することです。それは創造主であるお方と、被造物である私たちをです。
     神が聖と知るときに、私たちは被造物としての神への畏れが生まれます。
     また、聖にはもう一つのメッセージがあります。それは、神の聖さにならう者とされることです。
     イエスが十字架で血を流され死なれたのは、私たちが罪からきよめられ、聖なる者となるようにとの招きでもあるのです。イエスを信じる人は誰でも救われ、この世とは区別された、天に属する新しい人生が始まります。
     そうして神のものとなった私たちは、神のために生きる喜びゆえに、罪から離れてイエス様のように聖くなりたいと願うように変えられていきます。
     その究極の希望はこうです。『私たちは…栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(コリント②3:18)
     みことばの約束を信じることほど、真実なものはありません。求めに応じて聖霊は私たちの人格をも創り変え続けてくださいます。
     ついに、天の御国へ帰るとき、御言葉が成就され、主と直接お会いするのです。『心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。』
     イザヤが神の聖さを目の当たりにし畏れたとき、神の愛によって罪が赦され、神の招きに喜んで応じ、遣わされたように、
     私たちも神の聖さと愛のうちに、神との平和の福音を告げ知らせる者とされるのです。

8/2 「あなたにとって聖書とは?」 詩篇119:105、ヤコブ1:21 小林泰輔師

  •  詩篇119篇の著者にとって聖書とは「私の足のともしび」「私の道の光」であるといいます。みなさんにとって聖書とはどういうものでしょうか。
    聖書を読んだことのない日本人にとってはおとぎ話に思われたり、神秘的ではあるけれども実際的ではないもの、そんな印象があるのではと思う一方、他方で世界中で聖書は読まれていて、発行部数においてはギネスブック1位です。宗教というだけで「アヤシイ本」と思われるかもしれませんが、聖書は古代文書のなかで写本の数が圧倒的に多く、新約聖書なら5000強あります(例:「ガリア戦記」で写本数は9)。また書かれた年代と出来事の年代も十数年後と近く(例:「ガリア戦記」のカエサルで900年の隔たり)、それだけ記事の信憑性が確証されているということになります。
     客観的に聖書は信頼できる書物であると言えますが、個人的な経験としても聖書に人生を変えられ、神を信じるようになった人の証しもたくさんあります。日本人でも幕末志士、坂本龍馬の盟友、沢辺琢磨は北海道でロシア正教の宣教師に出会い、洗礼を受け、その後日本人初のロシア正教の司祭にまでなりました。龍馬を斬った男と言われる今井信郎(のぶお)は、維新後、横浜の海岸そばの教会に、聖書や教会を批判するために入ったところが、みことばに捕らえられて、信仰に導かれました。
     「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)。私も使徒2:36~38のみことばを通して、神の御子を十字架にかけた自分の罪を知り、心を刺され、すがるような思いで洗礼を受けました。その後社会人になってから、Ⅱコリント2:17のみことばに道を照らされてイエス・キリストの福音をまっすぐに人々に語る伝道者の生涯に入れていただきました。
     「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハ20:31)聖書はあなたのために書かれたのです。信じていのちを得てください。

7/26 「命をかけたとりなし」 出エジプト記32章30~35節 小林泰輔師

  •  神の代弁者であるモーセ不在の間、ふもとの民は金の子牛を礼拝し罪を犯しました。そのために神は民を滅ぼそうとされるのですが、モーセの嘆願によって思い直してくださいました。
     しかし山を下りたモーセが目にしたのは聞きしに勝る民の堕落ぶりでした。モーセは「主につく者」(恐らく金の子牛礼拝に参加しなかった者たち)を集めました。すると多くのレビ人が集まりました。親兄弟関係なくこの罪に加担した者は剣で刺し通すように命じました。その日3,000人の人が死にました。滅ぼし尽くされることは免れましたが、罪の刈り取りはなされたのです。律法により神に仕えることになるレビ族の最初の奉仕が聖絶という過酷な奉仕になりました。神に仕える者は罪を断たなければならないことを教えられます。
     それからモーセはあらためて民全体のためのとりなしを決心します。モーセは主に申し上げました。「もし、(民を赦すことが)かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物(命の書)から私の名を消し去ってください。」(32)命の書に名前がないということは永遠に神の前から滅び去ることですから、命がけ以上のことでした。このとりなしの祈りにはイエスさまのとりなしの祈りの響きがあります。神さまはアブラハムにイサクをささげるよう命じたときのように、モーセを試みられたのかもしれません。モーセは、命を捨ててでも民を贖うという主の御思いと同じ思いにさせられました。
     主は、モーセに免じて赦そうとは言われませんでした。モーセの命では民を贖うことはできないのです。それは御子イエスの十字架のことば「父よ、彼らをお赦しください」とのとりなしによってのみ、主のみからだという犠牲によってのみ、成し遂げられることだからです。
     神さま、あなたのほかに頼る偶像崇拝を悔い改めます。二度と主イエスさまのご愛から迷い出てしまうことのないように、信仰をお守りください。主の十字架の贖いを感謝し、心からの賛美と礼拝をおささげします。

7/19 「畑に隠された宝」 マタイ13:44、Ⅱコリント4:7 小林泰輔師

  • 創立96周年を迎え、改めて心におぼえたいことは、私たちは神の栄光を表す者として召されているということです。私たちの中に住まわれる神さまは、私たちのうちにご自身の栄光を満たしておられます。それを覆ってしまったり、隠してしまうことなく、明らかにしていきたいと思います。
    畑に隠された宝の譬えでは、宝を見つけた人が神さまで、見つけられる宝が私たちという見方もできます。神さまは私たちを高価で尊い宝として見ておられ、それを見出して喜び、誰にも渡さず独り占めにするために、すべてを投げうってでも買い取ってくださるのです。続く高価な真珠の譬えでは、それがたった一粒の真珠でも全財産をもって買い取られることから、イエスさまの十字架による贖いは一人の私のためになされたことをおぼえます。
    畑の中から掘り出された宝である私たちは土の器であります。私のうちに神の栄光という宝が入れられているというのは、Ⅱコリント4:7にありますが、私たちはイエスさまの贖いの代価をもって買い取られ、罪の泥の中から掘り出されて、またきよいことのために用いる器としてきよめられたのです。土の器は光を灯すランプのようなものでしょうか、それは人々を照らすものであって机の下に隠したりするものではありません。土で覆われていたものが掘り起こされ、たくさんの真珠の中に紛れていても神によって見出されたように、隠されたもの覆われたものが露わになるようにして、神の栄光は表されるのです。
    また、それは教会を通して表されるものです。一人一人は小さな光でも、それを束ねて大きな光となるときに、灯台のように世の光として照らすことができます。私たちがうちに住まわれる神さまを喜び賛美し生きていくなら、自ずと内なる神の光が輝きだします。信仰の一致をもってこれからも神の栄光を表して歩んで参りましょう。

7/12  「神の愛するとなりびと」 マタイ5:7、詩篇112:1~10 森田学師

  •  あわれみ深い人、それは同情で一杯の人。他人の苦しみ悲しみを、自分の事の様に思い、その人を大事にし、温かく接する、まさに隣人を愛する人です。
    詩篇112篇では、あわれみ深い人について語られています。しかし、本当にあわれみ深いのは主ご自身であることが5節で知らされます。主は、みことばの通りに、光として、真っ暗な罪に囚われたあわれな私たち人間を救い出すため、この世に輝き出てくださいました。
    私たちを深くあわれみ、罪から何とかして救い出そうと、十字架で命まで捨てられたのは、イエス・キリストです。これほどあわれみ深いお方は他にはいません。
     この方のあわれみを受けた者の希望について112篇は語り続けます。それは、イエス様がルカ10章で語る良きサマリア人のようです。
    瀕死のイスラエル人を深く憐れんで助けたのは、イスラエルにとことん嫌われていたサマリア人です。
    仲良しだけが隣人ではないです。あなたが苦手な、関わりたくない、正直嫌いな、そのような人こそが、隣人なのです。あなたにとって敵のような存在をも、神さまは愛しているのですから。
     今のあなたにとって、隣人とは誰でしょう?あなたの敵を好きになる必要はないです。けれども、その神さまの愛する隣人のために、私たちは、こう祈り始めることができるのではないでしょうか。“この人苦手だけど…私が罪から救われたようにこの人も救われて欲しい”
    聖霊は、私たちを神さまの愛に生きる者としてくださっています。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』そして、私たちのうちでみことばを為してくださいます。

7/5 「わたしにはあなただけ」 テモテへの手紙第一2章4~6節 小林泰輔師

  • モーセの十戒第一の教え「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジ20:3)において、神はただお一人だけであって、ほかの神はいないことが教えられています。この世に宗教は多くありますが、その教えに一定の知恵や教訓はあるものの、真の神はお一人だけだと、神ご自身が聖書を通じて啓示されたのです。一神教は排他的だということで評判がよくないですが、真理は一つしかないから真理なのであって妥協はできません。
    またクリスチャンの側でもこの教えを「偶像崇拝禁止」という点だけで捉えてしまうとただの窮屈な縛りとなります。聖書は単なる戒律集や法令集ではありません。神さまから私たちへの愛のメッセージが記されているものです。「わたし以外に、ほかの神があってはならない」とはまさしく強烈な愛のメッセージです。私たちが自分の伴侶と誓い合うのと同じですよね。わたしにはあなただけ、ほかの誰かでは替えがきかないということなのです。
    「神は唯一です」(Ⅰテモテ2:5)とは、同時に神の目にはあなたもまた唯一無二の存在であることを表しています。重婚が認められないように、結婚という関係は唯一の関係です。他の誰も入り込むことは赦されません。こんなにも私を愛してくださるのは神さまだけなのです。十字架で文字通りに命を捨てて私をくださったのはイエスさまだけなのです。ほかのものを頼りにし、神さまに対して罪を犯してきた私たちを仲介して父なる神のみもとに導いてくださるのは、御子イエス・キリストだけなのです。

6/28 「モーセの嘆願」 出エジプト記32章1~14節 小林泰輔師

  • モーセは神さまから律法を授けられるために山に登りましたが、四十日もの間、帰ってきませんでした。モーセ遭難か?と不安になった民は、目に見える神を造ってくれるようにとアロンに迫ります。アロンは民の声に負けて、金の子牛像を造ってしまいました。その材料になったのは民の持ち物の金の耳輪などでした。おそらく、エジプト脱出の時にエジプトの民から剥ぎ取ったものではないでしょうか。神の不思議なみわざによってエジプトの民が好意をもってイスラエルに渡したものです(12:35,36参照)。それは神の恵みの象徴ともいえるものでした。また、偶像の題材になった牛はエジプトの神々を真似たものと思われます。すべて神の恵みを無にし、エジプトにいた方が良かったとでも言わんばかりの堕落ぶりです。「神の恵みを放縦に変え」ることがあってはなりません。それは父なる神と御子キリストを否むことに他ならないことです(ユダ4節)。
    神さまはイスラエルの背信に怒りをもってこれを打ち滅ぼそうとされましたが、そのみ旨をモーセに打ち明けられました。かつてアブラハムにそうしたように。そこでモーセもまた神さまに嘆願しました。神さまご自身の愛と、御名の栄光と、アブラハムや族長たちとの契約に訴えかけて、神さまを説得するかのように迫りました。私たちも祈るときには、確信をもって祈るためにみことばの約束を握って祈ります。
    神さまはモーセに何を言われようと、御自身の御心を変える必要などありませんでした。しかし、神さまはモーセの祈りに応え、「わざわいを思い直された」のです。モーセの祈りに心を動かしてくださったのです。私たちも、諦めず祈ることを励まされます。神さまは私たちの祈りをきいてくださり、心を動かしてくださる、あわれみ深いお方です。信仰の確信を得て、みことばを握ってとりなし、祈り求め続けましょう。

6/21 「キリストに倣う」 ヘブル人への手紙13章1~25節 小林泰輔師

  • 13章の内容の背景にソドムとゴモラを滅ぼした神の火のことがあります。これらの町は高慢、飽食、乏しい人を顧みないことなどの罪ゆえに滅ぼされました(エゼ16:49)。一言に言い換えれば兄弟愛に欠けていたゆえに罪に浸ることになったのです。ですから、兄弟愛をいつも持っていれば罪から守られるのです。旅人をもてなすということはお客さんの接待ということではなく、乏しい人を助けることでしょう。虐げられている人を思いやることも必要です。兄弟愛を持って異性と接するなら姦淫の罪を犯すことから守られます。金銭を愛するのではなく、神を愛し、兄弟姉妹を愛して、そのことのために金銭を用います。
    主がその民に望まれる生き方とは、このような生き方です。そして神の言葉を話した指導者たちはそれを実践してきました。彼らの生き方から生まれたものとは何でしょう。それは小さなキリストではないでしょうか。イエスさまの似姿に造り変えられた姿ではないでしょうか。先輩たちの歩みに倣うときに、私たちの生き方からもキリストの御形が生まれ出てくるのです。
    そのようにして私たちは世に遣わされていきます。神殿の中で祭儀や儀式や神学論争に明け暮れるのではなく、宿営の外に出て、そこにおられる主イエスとともに、善を行い、兄弟愛をもって分かち合うことで、真実の神へのいけにえをささげるのです。これが神の喜ばれる本当の礼拝です。
    20,21節の祝祷にあるように、神さまは私たちを「あらゆる良いものをもって、…整え、みこころを行わせてくださいます」。キリストに倣って宿営の外に出て、「御前で、みこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださ」る方に信頼し、神の栄光をあらわしつつ歩ませていただきましょう。栄光在主!

6/14 「良いもので満たすお方」 マタイ5:6、詩篇65:1~4 森田学師

  • 6節の義、それは、神の義、それは、神にある全ての良いもの。その中には、神の愛、救い、恵み、聖さ、審き…があります。神の全ての良いもの、それを私にも下さいと願うならば、その人たちは、神の良いものでお腹一杯になって満足するとイエスは約束しています。同時にこれは、私には義など無く、本当の良いものは、全て神ご自身にしかない、ということを認めるチャレンジでもあります。
    神のチャレンジがあるところに、悪魔の誘惑もあります。どのようにでしょうか?神を信じ従っていきたい。そう言いつつも、気が付けば私たちは、隣にいる人と自分を比べ、私の方が正しいと自分の不完全な義で他人を裁き、自分のお腹を偽りの義で満足させようとするのです。そして、私たちのお腹が、神の良いもの以外で一杯になると危険です。
    『幸いなことよ あなたが選び 近寄らせた人 あなたの大庭に住む人は。私たちは あなたの家の良いもの あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。』(詩篇65:4)
    忘れないでください。神の方から近くに引き寄せてくださって、私たちと触れ合いたいと言われるのです。私たちのお腹が、神の良いもの以外で満たされているなら、罪を悔い改めて、今こそ神の良いものを求め、神と触れ合うときです。
    イエスの十字架の贖いによって、私たちは神の良いものと敵対する悪魔の誘惑を、打ち破ることができます。私たちは、神の良いものでお腹いっぱいにさせてもらえる特権を持っています。遠慮せず、絶え間なく神と触れ合う者でありたいです。霊的リバウンドを起こさないために、日々神との触れ合いを全てにおいて優先し、私たちの内から神の良いものがあふれ流れることを、神は私たちに願っておられます。

6/7 「教会ってなに?」 使徒の働き2章40~47節 小林泰輔師

  • 教会とは何か。それはイエスさまを信じる人々の群れのことです。“イエスさまの夢見たもの”と言えば不適切な表現かもしれませんが、イエスさまが強く願われた世界のあり方を表す群れ、それが教会ではないかと思います。それは、私たちが互いに愛し合い、そのことを通して神の栄光を表すことです。けれども実際の私たちの世界はどうでしょうか。人種差別が行われる世界を見るにつけ、イエスさまの願われた世界から遠く離れていることを思います。そしてそれはまた他人事ではなく、私たちの内側にある罪によって出来てしまった世界なのです。イエスさまは「地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」と言われました(ルカ12:49)。火は私たちの罪を焼き尽くすものです。その火がすでに燃えていて私たちが熱心に悔い改めていたならどんなに良かったかと、熱く語られたのです。
    ペンテコステのあとに出来た群れは教会となり、神の御教えが語られ、その教えを守り、愛の交わりを保ち、パンを裂きつつ十字架の主をいつもおぼえ、熱心に祈っていました。これが教会のあるべき姿です。そしてまた、互いの間の愛が、自然に持ち物を分かち合い、共に生きるようにさせました。これが御父とイエスさまの願われた世界ではないでしょうか。これは天国さながらの姿です。しかし、実際には教会イコール天国ではありません。教会にも欺瞞や差別の問題が起こりました。イエスさまは地上の教会をもって天の御国としようとしたのではありませんが、天国のあり方を証しし、イエスさまの統治される天の御国の到来を宣べ伝えるものとして、教会を建てられたのです。
    教会は「キリストのからだ」です。イエスさまの願いを実現する手となり足となり、働いていきましょう。“私には夢がある”イエスさまの夢が私の夢です。御心が天で行われるように地でも行われることです。

5/31 「新しい皮袋」 ルカの福音書5章29~39節 小林泰輔師

  • イエスさまはこの箇所で、新しいいのちによって、新しい生活様式に変わっていくことを語ってくださいました。この話をしてくださった背景には「祝宴」の風景があります。取税人レビが救われたその祝いの席でのことでした。豪勢な食事を楽しんでいるとパリサイ人がクレームをつけてきました。なぜ罪人と食卓をともにし、なぜ断食をしないのかと。そこでイエスさまは四つのユーモアあふれる譬えを話されました。
    健康自慢の患者」医者に来るのが健康な者ばかりだったらどうかという話です。何のために来るのでしょう?自分の健康を自慢するために?教会が聖さ自慢の人ばかりだったら台無しですね。イエスさまは罪人を救うために来られたのです。
    披露宴で何も食べずに悲しむ人」せっかくのごちそうが…、いや、祝いの席が台無しですね。イエスさまは花婿、教会は花嫁です。花婿と一緒にいられる時は心から喜び楽しむのです。やがて花婿が取り去られる時が来るとも言われました。これは十字架の死のことです。その時にはイエスさまを十字架にかけた自分の罪を悔い改めます。
    おニューの服で古着を繕う」新品の一張羅が台無しです。私たちはイエスさまで型取りをした新しい衣を着せられています(エペソ4:23-25)。救われて新しくされた者にはイエスさまの生き方が一番似合うのです。新しくされた者が、古い生き方(律法主義的自己義認や罪)に戻るなら愚かなことです。
    皮袋は新しく、ワインは古い方が良い」古い皮袋は伸縮性がなく、新しいぶどう酒を入れると醗酵により皮袋を裂いてしまいます。袋もワインも台無し。イエスさまのくださるいのち、聖霊の満たしがあるなら、新しい生活様式が必要になります。心を柔らかくし御霊に聴き従うなら、私たちは香りの良いぶどう酒のように熟成されていくでしょう。私たちがキリストの香りを放つなら世の人々をキリストのもとに導きます。

5/24 「平和と聖さを追い求める」 ヘブル人への手紙12章14~29節 小林泰輔師

  •  平和と聖さを同時に求めることは可能なのでしょうか。“聖である”ということは“俗なるもの”から分離されていることです。この世界の罪と馴れ合いの平和では両立しません。ここでの「平和」とは11節にもある「義の平安」と同じく、神との平和のことであると思います。すべての人々が神との平和を得ることができるようになるには、私たちキリスト者の聖い生活によって証しを立てることが必要です。私たちの良い行いを見て、世界の人々は、天の父のおられることを知り、あがめるようになるのです(マタイ5:16)。キリストが唯一の救いの道ですから、キリストのからだである教会は、神への平和の架け橋と期待されるのではないでしょうか。
     15節では、神の恵みから落ちるということを問題にしています。これは救いの御手から漏れるということでなく、キリストを信じた者が自分から恵みを捨ててしまうことを表しています。その代表例として著者はエサウを挙げました。長男として生まれたことはまさしく神の選びによることで、長子の恵みに与る者ですが、エサウは一杯の煮物と引き換えにその恵みを売り渡してしまったのです。この行為をして聖書は「淫らな者」「俗悪な者」というのですから辛辣です。私たちキリスト者が受けた恵みを放縦に変え、自ら捨ててしまうならそれは世界に対して大きなつまづきを与えるのです。
     エサウの罪、モーセの民の金の子牛の偶像崇拝、律法の時代は厳しい裁きを受けることでした。カインに殺されたアベルの血は厳正な裁きを要求するでしょう。しかし、キリストの血は神の恵みを語るのです。罪を犯した者が赦される唯一の道があることを示すのです。このイエスの血にる恵みの契約は、天地が滅び去っても決して消え去ることはない約束です。この神の恵みに信頼して歩むことが、聖なる者の歩みです。感謝と喜びをもって礼拝をささげましょう。

5/17 「父が与える訓練」 ヘブル人への手紙12章1~13節 小林泰輔師

  • 「自分の前に置かれた競争を、忍耐をもて走り続けようではありませんか」(1節)。人生はマラソンレースのようです。上り坂もあれば下り坂もあり、また「まさか」という坂もあるとはよく言われことですね。人生の「まさか」の坂は試練だと思います。「神さまは耐えられない試練を与えない」とは一般でもよく聞かれるようになりましたが、もとはⅠコリント10:13のことばです。この「試練」は「誘惑」とも訳されることがあり、コリントの手紙の文脈ではそちらの方が調和します。耐えられないような苦しい出来事は人生には時々?しばしば?ありますよね。そこから悪魔の誘惑により信仰が揺さぶられることがあるかもしれません。人生の不条理に思える苦難はなくならないけれども、誘惑には耐えることができるのです。
     神さまが聖書を通してくださるひとつのメッセージは「わが子よ。人生とは難しいものだよ。でも大丈夫。わたしはいつもあなたとともにいるから」というものだと思います。11章で旧約オールスターズみたいな面々のことが取り上げられますが、それは霊的武勇伝を目的としたものではありません。苦難を味わい、失敗しながらも、難しい人生を主とともに歩み、誘惑に勝利した人々の例話ではないでしょうか。
     主イエスは信仰の創始者であり完成者です。主イエスは人として来られ、十字架の苦しみ、なぜ私がこんな目に!という苦難の極みを味わい、しかし父のみこころに最後まで従い抜かれ、完走された方です。その方が、私たちのマラソンレースの先導者であり伴走者であるのです。
     父が与える訓練は、私たちをご自分の聖さにまで引き上げてくださいます。そうして教会を整え、聖め、世人の救いのために用いてくださいます。弱った手と衰えたひざを強めていただいて、人々の救いのために通りやすいまっすぐな道をつくり、最後まで走り続けようではありませんか。

5/10 「誰よりもへりくだる主」 マタイの福音書5章5節 詩篇37篇1~11節 森田学師

  • イエス様は、柔和な(へりくだった)人は、なんと幸いなのでしょう!と言われます。柔和、それは腹を立てない人です。しかし、私は常に柔和ですと宣言できるでしょうか。否。それでも、イエス様は声をかけてくださるのです。その声を聴いたなら、私たちは、自分を腹立たせるものから思い切って離れ、そして、本当に柔和なものに目を向ける。そのことが必要です。
    本当に柔和なもの…それはイエス・キリストご自身です。イエスは、神であるのに神の栄光を捨て、誰よりも低くなられ、ご自分が創造された人間に仕え、どんな屈辱にも腹を立てずに耐え従われました。その柔和の頂点が十字架の死です。
    どこまでも柔和なイエス様が、腹を立てやすいという重荷があるなら、そのままでいいから私のところにおいで。と、今、私たちを招いています(マタイ11:28、9)恐れず近づきましょう。そして、静かに座って見取り稽古をするのです。柔和が欠けている私たちには、本物の柔和を見続けることが欠かせません。焦りは禁物です。一生涯を通して、イエス様は私たちを養い、イエス様のように優しい光を周りに溢れさせる者にしてくださいます。
    その私たちは、地を受け継ぐ。約3800年も前に、神様から約束の地を与えると言われたアブラハム。彼はどんなことがあっても、神様を信頼しました。それでも地上の約束の地に着くことはありませんでした。しかし、実は彼は、『天の故郷』に憧れていたことを知ります(ヘブル11:16)
    私たちの地上の歩みは、先が分からないときもあります。しかし、私たちも、同じ天の故郷に憧れ、希望を持って神様を信頼し、柔和なイエス様と一緒に歩むなら、なんと幸いなことでしょう。

5/3 「神に愛されている」 ヨハネの福音書3章16~21節 イザヤ書43章4節 小林泰輔師

  • 聖書のメッセージの内容は様々ですが、神は私を愛しておられる、私は神に愛されているということについては、この二つのみことばが最もシンプルなまとめではないかと思います。
    神の愛はどのようなものでしょうか。人間の愛は条件付きの愛です。しかし、神の愛は条件をつけません。イスラエルの民は弱く、不忠実でさえありましたが、そのイスラエルでも無条件に「高価で尊い」と愛されたのです(イザヤ43:4)。なぜ、それほどまでに愛して下さるのでしょうか。それは神が私たちを造られた造り主だからです(同43:1)。
    「神は…世を愛された」(ヨハ3:16)とありますが、世とはどういうものでしょう。罪ゆえに互いに憎みあい、殺し合いや戦争の絶えない世です。しかし、そのように罪深い私たちであっても、神は愛して下さるというのです。もちろん、神は罪を見過ごしにされる方ではありません。罪に対しては罰をもって報いられる方ですが、私たちの受けるべき罰を、ご自分のひとり子イエス様にすべて負わせられ、私たちは贖われたのです。
    この神の愛に触れられたならば、私たちは変えられます。神に赦された者として、隣人を赦し、愛することができるようになります。罪ゆえの憎しみの連鎖を断ち切ることができるのは、福音の力によってのみできることなのです。愛されている者から進み、さらに、愛する者へと変えていただきましょう。

4/26 「愛と赦しの黄金律」 ルカの福音書7章36~50節 小林泰輔師

  • コロナ禍にあって「STAY HOME」を合言葉に外出自粛がなされています。クリスチャンはさらに「STAY JESUS」でありたいと願います。イエスさまにとどまろうということです。今日の箇所の「罪深い女」と呼ばれた女性も、イエスさまのみそばを慕い求めた一人でした。
    パリサイ人シモンの家に招かれたイエスさまのもとに、この女性はやってきました。横たわって食事をしているイエスさまの足元に近づき、涙で御足を濡らし、髪の毛で拭い、香油を塗ってさしあげました。パリサイ人は、この人が罪深い女であることを知っていたので、それをイエスさまがどうあしらうかを見ていました。蔑むような視線を向けたのではないでしょうか。しかし、イエスさまは違いました。「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません」(詩篇51:17)。この女性の行為に、深い罪を悔いる思いと悲しみを見たイエスさまは、この行為を神へのいけにえとして受け入れてくださいました。
    「黄金律」と呼ばれる教えがありますが(ルカ6:31)、愛と赦しの関係にも黄金律があります。イエスさまは金貸しに借金を帳消しにしてもらった二人の人の、ごく短いたとえを用いてシモンに教えを説きました。より多くを赦された者は、より多く愛するようになるのです。これが愛と赦しの黄金律です。赦しについて、ルカ6:37,38には「赦しなさい。そうすれば赦されます」「与えなさい。そうすれば、…与えられます」とあります。私たちも人間関係において求めてばかりではいけません。こじれた相手には、向こうが先に態度を変えるべきだと思ってしまいますが、愛と赦しの黄金律は、先に赦し、自分から与えていくことを教えています。イエスさまがそうしてくださるからです。私たちがまだ罪人であったときに主は十字架にかかってくださったのです(ロマ5:8)。イエスさまの十字架の恵みに信頼するなら罪は赦されます。私たちもイエス様の足跡に倣って歩んで参りましょう。

4/19 「なぐさめに満ちたお方」 マタイ5:4、ゼカリヤ12:10 森田学師

  • なぜ悲しむ者が幸いなのでしょうか?悲しむことは、あってほしくないです。今、イエス様が言われている悲しみ、それは3節で言われている、“人がまことの神を求めて、イエス・キリストと出会う”そのときに生まれる悲しみです。救いの喜びとは別に、悲しみが沸き起こるのです。聖霊によって、私の内側に隠れている罪に気づかされるときに、『悲しむ者』となるのです。ゼカリヤ12:10で預言されている通りにです。私の罪のために、十字架で殺されたイエスキリスト。それは、私が殺したも同然。こんなこと、だれにも相談できないし、だれにも理解されない、そのような深い悲しみです。
    どうしたらいいかわからない…自分の罪の本性を知らされ、深い悲しみに襲われたとき、イエスさまの方から、心の奥深くに来て下さいます。お前が私を殺したのだ、と責めるのではなく…罪深い私を見て、嫌がって遠ざかるのでもなく…友のように、私だよ、大丈夫かい?と、よりそってくださるのです。私たちが罪を知らされ、罪を告白するときに、十字架の愛が迫てきます。私は十字架で死んだけれど、それは、あなたを愛しているからだよと、イエス様は、真実の愛であなたを包んでくださいます。あなたが、自分を憎み、自分に失望し、自分を消してしまいたいと思うほどに、悲しみ疲れ果てることがないように、その罪の悲しみを取り除くために、私は十字架で、すべての罪を背負ったのだよと、愛にあふれたお方は優しく慰めてくださいます。
    イエス・キリストは必ず、私たちの罪の告白を聴いてくださり、全ての罪を拭い去ってくださり、悲しみから救い出し、慰めてくださいます。そして、約束してくださいます。エレミヤ31:34『…わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。』と。なんと愛と慰めに満ちた言葉をかけてくださるのでしょうか。
    まことの救い主を知って、罪に悲しむ私たちに、こんなにも愛と慰めを注いでくださるお方は他にはいません。これにまさるお方はこの世のどこにもいません。私たちに沸き起こる、霊的悲しみを通して、私たちはさらに深く測り知れない愛の神を知るのです。

4/12 「復活の福音を届けよう」 ヨハネの福音書20章19~23節 小林泰輔師

  • 復活日の夕方の話です。弟子たちは恐れに閉じこもっていました。マグダラのマリアが園の墓で主がよみがえられたことを知り、マリアを通してその知らせを聞かされたのは午前中の出来事か、せいぜい昼過ぎまでの出来事でしょう。しかし、夕方になっても弟子たちはなおもユダヤ人たちの迫害を恐れて戸に鍵をかけて引きこもっていたのです。その中心にイエスさまが突然現れ、平安があるようにと言われました。たしかに弟子たちには何よりも平安がありませんでした。それから「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と主は言われました。
    今の私たちもある意味で「恐れ」の状況下にあると言えます。しかしイエスさまは「遣わします」と言われるのです。自粛要請を無視してでも外に出て伝道せよというのではありません。私たちの「恐れ」とは、伝道に対する怖じけた態度ではないでしょうか。その恐れの殻を突き破って、イエスさまの証し人として復活の福音を携えて遣わされて行きなさいというのです。復活の福音は、主がよみがえられた、私たちの罪の贖いは成ったということです。これは罪と死の恐怖からすべての人を解放します。その良い知らせを届けるために私たちは遣わされるのです。現代のテクノロジーを用いてもゴスペルをデリバリーすることができます。
    遣わされるにあたっては、何もなしに送り出されることはされません。聖霊を与えてくださいます。「聖霊を受けなさい」(22節)。また、主のみことばの権威を授けてくださいます。「あなたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」(23節)。私が赦されたように、イエスさまの十字架と復活を信じるならあなたの罪も赦されます、と宣言することができます。主の聖霊をいただき、主の権威を与えられた使者として、不安や恐れの中に閉じ込められている人たちのもとへと、遣わされていきましょう。

4/5 「最後の一息も」 ルカ23章32~49節  小林泰輔師

  • ルカ伝における、主イエスの十字架上における言葉に聴きましょう。(他に「エリ、エリ、レマサバクタニ」「あなたの息子です、あなたの母です」 「わたしは渇く」「完了した」合わせて「十字架上の七言」)
    ①「父よ、彼らをお赦しください、彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34節)主イエスは最後のその時も人々の罪が赦されるために執りなしてくださいました。それも神の御子であるご自身に刃向かう者たちの赦しを祈ってくださったのです。どんな罪をも赦してくださる深い愛です。
    ②「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)同じく十字架につけられた強盗の一人は悔い改めましたので、その者に向かってパラダイスにいると約束してくださいました。それまでの人生がどうであっても、主はただちに赦してくださるのです。どんな者でも迎えてくださる広い愛です。
    ③「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(46節)大声で叫ばれたのです。想像を絶する痛みや苦しみ、呼吸困難の中でも父の愛に信頼して、十字架の苦しみを忍ばれ、人々への神の愛を示し続けられました。最後の一息をも父なる神の栄光が現されるために用いられました。
    一部始終を見ていたローマの百人隊長の言葉です。「本当にこの方は正しい人であった」と神をほめたたえた(47節)。この人が救われたか、洗礼を受け教会に連なる者となったかは不明です。しかし、十字架のイエスさまを見て、最後の一息による言葉を聞いて、そこで確かに神に出会ったのです。私たちの最後の一息までも主を証しするために用いていただきましょう。

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