2021年度

3/26 「人生の鍵を握るのはあなた」 ルカの福音書13章22〜30節 小林泰輔師 

  •  今日の箇所と関連箇所として挙げた黙示録3:20とは共通点があります。戸の外に立って叩き中の人に開けて招き入れてもらうということです。黙示録の方で、戸の外に立って叩いているのはイエスさまです。外側には把手のない扉を叩くように、中の人に呼びかけ開けて招きいれてもらうのを待っているのです。そうして、招き入れるのならば、イエスさまはその家の中に入り親しく一緒に食事をするのです。
     しかし、このルカの福音書では立場が逆転しています。戸の外に立っているのは私たちの側です。しかし、主人は戸の外の者に向かって、お前たちのことなど知らないというのです。私たちはイエスさまのことを知っています、面前で食事をしました、教えも聞きましたと答えますが、主は知らないと言われるのです。心の中心にイエスさまを迎え入れて、イエスさまと親しく食卓を囲むほどの関係にはなっていないというのです。面前にいながら知らない、声を聞きながらそれでも知らないということがあるのです。それほどに「知る」という言葉は深い交わりを表す言葉です。
     イエスさまが語られた「狭い門」とはどういうことなのでしょうか。天国はからし種の生長やパン種の膨張にたとえられ、大きく膨らむのだと直前で語られました。しかし、狭き門の話をされました。これは超難関大学受験のような、入ることの難しさを示しているのでしょうか。道徳的に完全なきよさを示し、誰からも尊敬される人格者となり、すべてのことをちゃんとできる人でないと神の国には入れないということなのでしょうか。
     狭い門から入るように「努めなさい」というのも競技アスリート的な努力を指している言葉です。マラソン競技にはゴールの時限があります。狭い門とは閉じかかって狭まっている門のことではないでしょうか。完全に閉まってからでは、入ろうとしても入れないのです。
     神さまは私たちにさまざまなものを預けて旅に出ておられる、そういうたとえが多くあります。今は門の鍵を私たちに預けて旅に出ておられます。戸の外に立って叩くイエスさまを迎え入れるかどうかは私たちの選択にかかっています。主を迎え入れて幸せな生涯を送ることを選ぶ力と権利をあなたは握っているのです。神にお会いできるうちに立ち返りましょう。

3/20 「主の安息に生きる」 ルカの福音書13章10〜21節 小林泰輔師 

  •  清和キリスト教会5つのビジョンの中に「私たちの教会は、人々に主にある安息をもたらす教会です」というものを掲げています。教会に来たらほっとする、のんびりリラックスできる、そんな場所でありたいと願います。イエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われて人々を招かれました。そのみことばに従って、教会も人々を招き入れていきたいと思います。
    しかし、人々の教会に対するイメージには「なんだか窮屈そう」というものがあります。キリスト教に限らず宗教全般へのイメージかもしれませんが、どうしてそのようなイメージになってしまうのでしょうか。
     聖書には「十戒」というものがあります。十の戒めと理解されていますが、原語は「十のことば」です。確かに命令形で書かれているので、自由を制限されたり束縛されたりするイメージになってしまうのかもしれませんが、根底には神さまの愛があります。私たちが自分自身の蒔いた過ちの種によって苦しみの実を刈り取ることがないための囲いなので、頑丈な硬さが必要なのだとも言えます。
     今日の箇所では安息日の教えが問題になっています。安息日にイエスさまが18年間腰が曲がったまま苦しんでいた女性を癒したことが発端でした。安息日に仕事をするのは禁じられていて、人を癒すことはそれにあたると言うのです。会堂司は責任者らしく、自分の管理する会堂でそのような十戒破りが行われたことを責めました。しかし、そこには長く苦しんだ女性が解放されたことへの喜びや、神のみわざがなされたことへの感謝と賛美は少しも見られません。
     安息日は、それを守って自分自身の宗教的正しさを証明してみせる日ではありません。安息日は「人々を休ませる日」です。安息日にこそ解放が起こるべきなのです。それなのに、当然起こるはずべきことが会堂礼拝ではまったく見られなかったのです。イエスさまがそう指摘されると、反対していた人たち(宗教家たち)は恥入り、群衆は輝かしいみわざを喜んだのです。
     当然起こるべきはずの愛のわざが教会で起きていれば、神の国はからし種のように大きくなり、人々がそこを止まり木とします。パン種のようにふくらみ、喜びと感謝と神への賛美が広まります。主の安息に生きる者となりましょう。

3/13 「神のいのちに生きる」 ヨハネの福音書17章1〜5節 森田学師 

  •  “いのち”は私たちの生きる源、力、原動力です。イエスのいのちは闇に輝く光です。私たちがイエスを知り、イエスは私の罪からの救い主と信じるとき、私たちのうちに永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、今地上に生きるこの命…いま息をし、心臓が動き、生きている、この命も神様が創られた尊いものです。しかし、永遠のいのちは地上の命が終わってからもずっと続くものです。御子イエス・キリストが十字架の上で、ご自分を完全に父なる神へ捧げられたのは、この永遠のいのちが私たちのものとなるためなのです。
     イエスは、全くご自分を父なる神のものと(=聖別)されました。私たちのためにご自分を捧げられたほどの、この神の愛にまさるものはこの世にはありません。この神の大きな愛によって、神のものとされ、一つとされたとき、私たちの生き方も、イエスに似たものへとされていくのです。永遠のいのちもまた、私たちの生きる源となるはずだからです。
     とは言っても、私たちは、キリストによるのでない自由を選ぼうとする誘惑があります。イエスのいのちに生きるとは、世の人に気に入られる自由とは異なるものです。
     また、平和を求めても、その人自身が神との平和を持っていないのであれば、どうして本当の平和があるのでしょうか。神は、私たちに『この世と調子を合わせてはいけません』(ロマ12:2)と言われています。世の中で上がる声、平和、自由、愛、どれもすばらしいものです。しかし、私たちのうちにある永遠のいのちは、この世のものではないことを覚えたいです。『わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。』
     私たちは強くて偉いからそう言うのでしょうか。そんなことはあり得ないことです。むしろ弱いものです。私たちのうちにある神のいのちが原動力となり、世ではなく神に同調することを望むのです。違いを見せつける必要もありません。それは傲慢となってしまうでしょう。
     ただ私たちは、神様との日々の絶え間ない交わりによって、神のいのちがますます私たちの内から輝きあふれることを求める者でありたいです。イエスの十字架の恵みを受け取りましょう。

3/6 「忠実で賢い管理人」 ルカの福音書12章35〜48節 小林泰輔師

  •  主人が婚礼に出かけていて、その帰りを待つしもべたちというたとえ話です。ここで主人とはイエスさまであり、しもべたちとは私たちのことです。イエスさまはやがてもう一度、この世に帰って来られますが、その時がいつであるかは誰も知りません。しかし、いつ帰って来られてもいいように、しっかり準備していなさいというのが大筋です。
     奴隷と主人の話ですが、搾取や人権蹂躙とはほど遠い、主人と奴隷の幸いな情景が描かれていると思います。しもべは主人の帰りを今かと待ち、ドアの近くに居て、帰ってきたらすぐに戸を開けられるように待機しています。主人は帰ってくると、寝ないで待っていたしもべを労い、自ら帯を締めて奴隷たちに食事を給仕するのです。お互いのことを思いやる愛と愛が重なり合うような美しい光景ではないでしょうか。
     以上は良かったパターンですが、悪いパターンもあります。主人の不在に怠けているだけならまだしも、家のしもべたちを打ち叩いて自分がその家の主人になったようにこき使っているところに主人が帰ってくるパターンです。泥棒がいつ入ってくるのかわからないように、主もいつ来られるかはわからないのだと、主ご自身が言われます。
     このたとえで、「次に主にお会いするのはいつか」を考えますと、それは再臨の時か、自分自身の人生の終わりの時かです。「死を迎える」というのは「主を迎える」ことと同じことです。アモス4:12に「あなたの神に会う備えをせよ」とあるように、主を迎える時が思いがけない時だったと慌てなくてよいように準備しておかなければなりません。
     主イエスはこのような主人不在の物語をよくたとえ話にされました。私たちの住むこの世界を的確に表現したものだと思います。神さまは今も生きておられますが、ご自身は遠隔地におられるようにその留守をしもべたち(私たち)に任せておられるのです。私たちは忠実で賢い管理人であることが求められています。忠実とは、主人の思いを知る者として、主人の願う通りに治めることです。賢いとは、知能のことではなくセンスのことです。主人が喜ばれること悲しまれることに敏感であることです。主の喜びのために働く忠実で賢い管理人となりましょう。

2/27 「火は投げ込まれた」 ルカの福音書12章49〜59節 小林泰輔師 

  •  主イエスは「地上に火を投げ込むために来ました」と言われました。これは裁きの火のことか、聖霊の火、燃えるような信仰のことか、どのように受け止めたらよいのかと思いますが、どちらかひとつというより、その両方であると思います。火の性質は、光を照らす、温める、燃やすというものです。主イエスは私たちの心の闇を照らし、冷えた心を温め、罪を燃やし尽くすために来てくださったのです。
     今回は特に「焼き尽くす火」について見ていきたいと思います。黙示録20:12-15に裁きの後の状態が書かれています。「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」とあります。そこは悪魔も獣も偽預言者も(20:10)、そして死とよみ(同13)も投げ込まれるところで、「彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける」と書いてある恐ろしいところです。人はみな一度死にますが、死後に裁きを受け、主イエスを信じなかった者は第二の死として、この火の池に入れられるのです。裁きの結果の滅びとは、消滅するのではなく、永遠に苦しみ続けることです。
     私たちはイエス・キリストを私の神、主として信じるかどうか、態度をはっきりさせなければなりません。信じないという決断をするならば火の池に入れられる、そのような火がイエスの到来によってすでに地上に投げ込まれたからです。イエスを信じて、主とあがめ、主に従って歩むのかどうか、その信仰には反対する者も現れます。それがもし父や母や兄弟姉妹であったなら、そこには分裂もやむなしということになります。それほどの覚悟をもって神に対する態度を明らかにしなければならないのです。
     私たちは天候の変化から、出かけるべきか、洗濯ものを干すべきか、機会判断をします。神が忍耐して待っていてくださるこの機会を逃さず、神を信じる決断を今しなければなりません。
     私たちは裁きの時に向かって歩いています。その道中で訴える人と和解するならば、裁きを免れることができます。最後の審判で私たちを訴えるのも、罪に定めるのも、義なる神です。その方が、今、私たちとともに旅路を歩んでいてくださるのです。この機を逃さず、神と和解しましょう。有罪が確定したら1レプタさえ支払う能力もありません。代わりに払ってくださる主イエスの恵みを受け取りましょう。

2/20 「忠実で賢い管理人」 ルカの福音書12章35〜48節 小林泰輔師 

  • 主人が婚礼に出かけていて、その帰りを待つしもべたちというたとえ話です。ここで主人とはイエスさまであり、しもべたちとは私たちのことです。イエスさまはやがてもう一度、この世に帰って来られますが、その時がいつであるかは誰も知りません。しかし、いつ帰って来られてもいいように、しっかり準備していなさいというのが大筋です。
    奴隷と主人の話ですが、搾取や人権蹂躙とはほど遠い、主人と奴隷の幸いな情景が描かれていると思います。しもべは主人の帰りを今かと待ち、ドアの近くに居て、帰ってきたらすぐに戸を開けられるように待機しています。主人は帰ってくると、寝ないで待っていたしもべを労い、自ら帯を締めて奴隷たちに食事を給仕するのです。お互いのことを思いやる愛と愛が重なり合うような美しい光景ではないでしょうか。
    以上は良かったパターンですが、悪いパターンもあります。主人の不在に怠けているだけならまだしも、家のしもべたちを打ち叩いて自分がその家の主人になったようにこき使っているところに主人が帰ってくるパターンです。泥棒がいつ入ってくるのかわからないように、主もいつ来られるかはわからないのだと、主ご自身が言われます。
    このたとえで、「次に主にお会いするのはいつか」を考えますと、それは再臨の時か、自分自身の人生の終わりの時かです。「死を迎える」というのは「主を迎える」ことと同じことです。アモス4:12に「あなたの神に会う備えをせよ」とあるように、主を迎える時が思いがけない時だったと慌てなくてよいように準備しておかなければなりません。
    主イエスはこのような主人不在の物語をよくたとえ話にされました。私たちの住むこの世界を的確に表現したものだと思います。神さまは今も生きておられますが、ご自身は遠隔地におられるようにその留守をしもべたち(私たち)に任せておられるのです。私たちは忠実で賢い管理人であることが求められています。忠実とは、主人の思いを知る者として、主人の願う通りに治めることです。賢いとは、知能のことではなくセンスのことです。主人が喜ばれること悲しまれることに敏感であることです。主の喜びのために働く忠実で賢い管理人となりましょう。

2/13 「神の愛に結ばれて」 ヨハネの福音書16章20〜33節 森田学師 

  •  イエス様が地上を去られた後、弟子たちがサタンの攻撃に騙され絶望しないよう、イエス様は励まし続けます。
     15章では、ぶどうの木であるわたしに、あなたがたは枝としてとどまっていなさいと言われます。枝は自ら離れようと思っても木から離れられないので、不思議なたとえです。『あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、すでにきよいのです。』(15:3)と言いつつ、イエス様は何度も主の愛にとどまり、互いに愛し合うことを勧めます。神の愛を実践するとき、私たちを通して、神ご自身が証しされるためなのです。
     しかし、私たちは主の愛を口にしていても、人の前では隠してしまいがちかもしれません。『…あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。』事実、弟子たちはイエス様を捨てて逃げていってしまいます。主の愛に結ばれているのに、その愛を隠すとき、サタンは私たちに揺さぶりをかけ、神の愛に疑いをかけてきます。周りの目が怖くなります。“イエスは神なのに死んだのか?イエスは嘘つきだ”と偽りの言葉で憎まれます。私たちも、イエス様を信じていることを明らかにするとき、無関心の憎しみを受けます。『…世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変ります。』『その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。』
     イエス様の励ましは真実です。イエス様は十字架で私たちの罪の身代わりに死んで終わらなかった。死とサタンを打ち破ってよみがえり、再び弟子たちの前に現れます。私たちがイエス様を捨てたようなものなのに。友のためにいのちを捨てたイエス様が、どれほど私たちを愛しているでしょうか。私たちの愛は、弱く、誤りやすく、気分で変化しやすい脆いものなのに。それでも、神が私たちを愛するその偉大な御力によって、今までも、今現在も、そしてこれからも、神の愛に結ばれています。
     『私はこう確信しています。死も、いのちも…そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』私たちから、復活の主に出会う喜びを、誰も奪い去ることはできません。聖霊によって神様の愛を隠さず歩んで参りましょう。

2/6 「美しくあれ」 ルカの福音書12章22〜34節 小林泰輔師 

  •  「機能美」という言葉がありますが、道具や製品などの本来の機能がいかんなく発揮なくできるデザインについての言葉です。私たちは,神さまの創造の意図に沿うときに美しくあることができるのではないでしょうか。
     このところで主は、心配するなと語られます。私たちは心配するために造られたのではないからです。心配するのは神さまの仕事です。心配したところで、私たちは自分では身長を1ミリ延ばすことさえできないのですから。
     けれども私たちには日々さまざまな心配を抱えてしまいます。衣食住の生活の心配、健康の心配、人間関係の心配、コロナにまつわる心配。目に見えないウィルスを完全に防ぐことなど出来ないのに、神のように完璧であることを自分にも他人にも求めてしまいます。
     「心配」の根底にあるのは「貪欲」と同じく「恐れ」です。私たちが恐れなくてもよいことを、主イエスは空の鳥、野の花を指しながら優しく語られます。烏は自分の食糧を庫に納めたりしなくても神が養ってくださるので生きていられます。烏でさえ大事にしてくださる神にとって、まして人間はどれほど価値があるでしょうか。野のゆりはそこにあるだけで美しいものです。栄華を誇ったソロモン王朝の金銀財宝さえその美しさにはかないません。しかし、ゆりは自分で何かをして美しくなったわけではありません。まして私たちのことを神はどれほど美しく装ってくださることでしょうか。
     私たちは神さまに信頼して、ただそこにいて、置かれた場所で咲くだけで美しくあることができるのです。神さまに信頼し、神さまとの間にある愛が確かなものであることに自信をもって、神に感謝し、ほめたたえて生きることが、私たちの本来的な美しさなのです。
     その上で私たちのなすべきことは、「御国」を求めることです。神さまが治める世を求めることであり、神さまが私を支配してくださることを求めることです。すると、心の中が神さまがのことでいっぱいになって、神さまの栄光のために生きたいと思うようになります。そのために必要なものはすべて神が与えてくださいます。小さな私、小さな群れであっても、神は大きく用いてくださいます。与えられた賜物を倉に収めず、開け放して分け与えましょう。それこそがとても本質的な美しい在り方です。

1/30 「神に対して富む者」 ルカの福音書12章13〜21節 小林泰輔師

  • 事の始まりはある人の遺産相続の相談からでした。聖書の教師であるイエスさまに遺産相続の相談をすることは間違ったことではありませんでした。律法に遺産相続のことも書いてあるからです。しかし、遺産相続などは大した問題ではありません。本来、自分たちでさばくことのできる「ごく小さな事件」(Ⅰコリ6章参照)です。イエスさまはそれよりも大きな問題であり、誰にとっても問題である「貪欲」について話されたのです。
    財産に執着してはなりません。貪欲とはあり余るほど持っていても満ち足りないということです。「その人のいのちは財産にあるのではない」財産がその人の人生を生きているかのように歩むのは愚かなことです
    続いて話されたたとえは、教訓おとぎ話のような恐ろしさを感じるものでした。ある金持ちの畑が豊作であったのに、その人の第一声は「どうしよう」でした。喜びもなく感謝もなく、平安もないのです。たくさんの「私の作物」(17)、「私の倉、私の穀物、私の財産」(18)と語るこの人にとって、私=財産であるかのようです。この金持ちは財産を倉にしまい込んで、これから何年分も命の保証を得られたと言いますが、神はそんな彼に「愚か者」と言われます。この金持ちの命はその夜に取り去られるのです。そうしたら貯め込んだ物は誰のものになるのかと問うのです。その人自身はもうそれを使うことはできません。子どもに相続できればまだいいでしょうが、そもそもの相談は遺産相続がうまくいかないという話でしたから期待薄です。
    しかし、神に対して富む者はどうでしょう。どのような富で富んでいるのでしょうか。それは金銭ではなく、神さまの愛に満たされて富んでいるのです。神に対面して「私はあなたの愛で富んでいます」と言う人です。「わがたましいよ、これまで何年も神さまは私にとって良い方でいてくださり、これから先何年分もとこしえまでもいっぱい神の愛がためられた。さあ休め。主の御前で食べて、飲んで、楽しめ」と。このようにして満たされて溢れるほどの神の愛を貯め込んだなら、たましいが取り去られるとき、この愛はだれのものになるのでしょう。子どもたちに、信仰の友たちに、教会の仲間に受け継がれていくのです。いつまでも残るものは信仰、希望、愛だからです。

1/23 「言うべきことを言う」 ルカの福音書12章1〜12節 小林泰輔師

  • 言うべきことを言う、当たり前のことのようで難しいこともあります。特に言論を取り巻く環境が大きく変化してきた昨今はそうかもしれません。またそこには恐れがあります。しかし、今朝の箇所は、本当に言うべきことならば恐れずにそれを言いなさいと語っています。
    必要ではないこと、むしろ不要、無駄な言葉を多く口にしていることを反省させられます。陰口、悪口、愚かな噂話。これは「パリサイ人の偽善」に表れているもので、神のためではなく、権威や名声のために奉仕するような人々のすることです。
    私たちが本当に言うべきことは何か。それは、イエスがキリストであり、私の救いはイエスにあるということです。私はそれを知っていると語ることです。イエスさま御在世当時は秘密とされたことが明るみに出され、言い広められるのです。難しい宗教論は要りません。自分の経験したことを話すのです。うまく喋れないことを恐れる必要はないし、誰かに否定されることを恐れる必要も、自分の証しが受け入れられるかを恐れる必要もありません。
     証しをする時にも、どんな時にも、私たちには天の父の守りがあります。一羽のすずめさえ、父の許しなしには地に落ちることはないのですから、ましては愛する子どものためにはひとすじの髪の毛すら落ちることのないように守られるのです。私たちの父は良い父だからです。
     そしてまた聖霊も私たちを導いてくださいます。聖霊の導きに信頼することです。一方で何を語るかは心配するなと言い(ルカ12:11)、他方でペテロは何を語るべきか弁明の用意をしておきなさいと言います(Ⅰペテロ3:15)。しかしこれは矛盾ではなく、私たちは私たちにできることとして証しの準備をしておく、そして神さまは働いてくださり、最善に導いてくださる。私たちの努力と神の働きは矛盾することではありません。私たちは神の領域を冒してまで頑張る必要はありませんが、私にできることを力を尽くしてします。何かを成し遂げたとしても、それは神さまにしかできない領域での助けがあってこそ成し遂げられたことですから、すべての栄光を主に帰することです。
     主は良いお方。そのことを私は知っている。ただひたすらこのことを証しして生きていきましょう。

1/16 「永遠の愛の約束」 エレミヤ書31章3節 小林泰輔師 

  •  本日は婚約式があります。この良き日にふさわしい聖書箇所ですが、エレミヤ書31:3には、神さまとイスラエルの民との間の契約が出て参ります。結婚とは契約です。一般の契約条項にもありますように、その当事者は契約が保たれるように契約に対して誠意をもって真摯に向き合わなければなりません。神さまの契約に向き合う姿勢は、永遠の愛という言葉に表れています。人間の契約は死んだらその契約から解かれますが、神さまは永遠に私たちを愛してくださるのです。また「限りない愛」(口語訳)とも訳されますが、その愛の高さ広さ深さは限りないものです。しかし、もう一方の当事者である私たちは、この契約にたびたび違反してしまうのですが、それなのにもかかわらず主は真実の愛で誠実を尽くし続けてくださるのです。
     今日の箇所にはヘブライ語で二つの愛が出てきます。「アハヴァー」というのは「永遠の愛」と訳されましたが、広く、どんな人にも注がれる愛ですが、他方「へセド=真実の愛」というのは対象者にだけ注がれる狭く深い愛です。また、神さまは「アハヴァー」をもってたくさんの人の中から私を選んでくださいました。「選びの愛」とも言われます。一方的に選び、愛してくださるのです。私たちが罪を犯してもそれでも一方的に新しい契約(31:31-34)を更新されます。私たちは、愛される資格がないと思うのですが、それでも「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われるのです。
     そして「へセド」真実の愛を尽くし続けてくださるのです。私たち人間の神への「へセド」は「朝もやの露」のようなもので、すぐに消えてしまう、簡単に裏切ってしまうものですが、神さまは決して消えることのない、裏切ることのない愛で愛してくださいます。そうして真実の愛は極みまで行って、十字架にかかって私たちの契約違反の責めを負って死に、赦しを与えて生かしてくださったのです。
     しかし、神さまは私たちの愛をあきらめたわけではありません。今でも私たちのことを激しく求めておられます。自分の力では真実の愛になりえないのですが、「新しい契約」にあるとおり、真理の御霊を私たちに与え、内側から変えてくださったのです。そうして私たちを、神を愛し神に愛される人生に招き入れてくださったのです。真実の愛に生きていきましょう。

1/9 「真心を見せて」 ルカの福音書11章37〜54節 小林泰輔師 

  •  パリサイ人、律法学者には厳しく臨まれることの多いイエスさまではありますが、これはどこかの誰かの話ではなく、自分へのメッセージとして受け止めることが必要です。私の内実が主の光にさらされたならば、私のうちにもドロドロとした汚いものがあることを認めざるを得ません。しかし、その上で主は私たちに、取り繕ったような心ではなく、真心を見せて欲しいと願っておられるのではないでしょうか。
     イエスさまはパリサイ人、律法学者たちに、言うなれば「お前たちはプリテンダーだ!」と言われたのです(「プリテンド」=「〜のふりをする」の意)。パリサイ人は表面的な振る舞いは完璧に近いものがありました。自分でも立派だと思うのも無理ないことでした。私たちも気づかない内に高慢になってしまうことがあります。ですから、内実を暴かれることもまた恵みです。罪に気づくことがなければ悔い改めることもなく、悔い改めることがなければ救われることもないからです。これもまた主の愛です。
     イエスさまはまたパリサイ人たちを「墓」にたとえて言いました。ルカ伝では「人目につかない墓」、マタイ伝では「白く塗った墓」と言われました。墓の中の死骸は汚れているとされていました。夜など、気づかないうちに墓を踏んで汚れに触れるといけないので、目立つように墓は白く塗られていたのです。しかし、墓は墓ですから、いくら外側を白くして綺麗に見えても内側には腐敗したものが満ちている、そういうたとえでした。マタイ、ルカ、両方のたとえに共通する本質的な問題は「お前は墓のように死んでいる」ということではないでしょうか。
     罪と汚れに満ちた内実を暴かれたならば、それを悔い改めて、自分に死ぬことです。そしてイエスとともによみがえって新しいいのちに生きることです。
     ヨハネ4:23の「霊とまことによって礼拝する」という言葉は新しい訳では「御霊と真理によって」となりました。私たちの霊的なひたむきさと誠実さによって礼拝するのではなく、御霊と真理であるイエスさまとによって父なる神を礼拝するのです。御霊の導きにより悔い改め、イエスさまの贖いのみわざにより、父の子にされたのです。私たちの内にあった「強欲と邪悪」は「御霊と真理」に変えられました。人々にもこの福音を届けましょう。

1/2 「道となられるイエス」 ヨハネの福音書14章1〜11節 森田学師 

  •  愛する弟子たちへの突然の別れ。『「主よ、どこにおいでになるのですか。」』ペテロだけでなく、神を真剣に考えるとき、質問が生まれます。人の正直な思いにイエスは答えます。『「あなたは今ついて来ることができません。」』ペテロがついて行くことが出来ない場所、それは十字架です。トマスにも答えます。『「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」』イエスのことばは、どんな人間の説く道とは、全く違うものです。
     救いとは、人の努力や人の良い行いにはよらないことを、イエスは今はっきりと示されます。イエスこそが道です、真理、いのちです。“道”というものは、人が大地を踏みつぶし、踏み固められて出来ます。まさか、あんなに麗しく慕っていたイエス様が、あの恐ろしい十字架刑になるなんて。人々から呪われ極悪人扱いされて殺されるだなんて。屈辱の極みだ。そんなの聞いてないよイエス様。口ではそう言い、私たち人間は、このイエスに唾を吐き、鞭で打ち、ののしり、そして十字架で殺す。まるで道が出来るほどに、足で踏み潰され、ボロボロになられるイエス様。
     確かにペテロは、否、誰もがイエス様のあとをついて行くことはできなかったのです。私たちに踏まれるのをよしとされ、誰よりも低くなられるイエス様。とは言え、十字架で身代わりに殺されるとは、どれほどの痛み、苦しみ、悲しみがあったのでしょう。それでも、人々に踏みつぶされて道となられるイエス様こそ、私たちが神様と永遠に生きるために必要な、真実のいのちの道そのものなのです。歩みが辛くて立ち止まることがあり、転ぶときもあります。それでも道であるイエス様は、あなたを振り落とすことはなさいません。私たちがどんな状況でも、イエス様は喜んで道となり続け、父のみもとへ行くまでずっと支えてくださいます。
     私たちが天の御国へ向かって、この新しい一年も歩み進むために、罪をも覆う大きな愛で、イエス様が道となられたことを感謝します。

12/26 「ひとり子の栄光を見た」 ヨハネの福音書1章9〜18節 小林泰輔師 

  •  マタイとルカの福音書にはイエス・キリストの系図が載っています。イエスさまの出自がダビデ王家に連なることを示しています。
     ヨハネの福音書には人間の系図は出てきませんが、イエスさまの出自が神にあることを示しています。御子イエスは、神を父と呼びましたが、人間の親子関係とはまた違います。父や母から生まれるのではなく、「この方はもとから世におられ」たのです。御父から生まれたのではありません。天地の造られる前から、御子は御父とともにおられ、この方によって万物は創造されたのです。そうして私たちもイエスにあって造られたのです。ここに系図を見るとすれば、この神にイエスによって◯◯(皆さんの名前)が生まれた、となるのではないでしょうか。
     その創造主なる方は、ご自分の造られた世界に来られたのに、人々はこの方を知らなかった、受け入れようとしなかったのです。知識や情報として「イエス・キリスト」という名前を知っていても、神であり主である方として受け入れることはなかったのです。そのような罪深い私たちに、ただ一方的な恵みのゆえに選ばれて、神を知るようにされたのです。信仰すら賜物であり、私たちには誇れるようなものは何ひとつありません。
     ヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た。父のもとから来られたひとり子としての栄光である」と言います。どこに栄光を見たのでしょうか。栄光はどこに輝くのでしょうか。それは王宮の中ではありませんでした。貧しい家庭に、飼い葉桶のなかに、その栄光を見たのです。また、愛と義に生きた人としてのイエスさまの歩みのなかに栄光は輝いたのです。取税人や遊女や罪人たちの友となり親しく交わる方に、愛の光を見たのです。
     この方は恵みとまことに満ちておられました。そして恵みの上にさらに恵みをとありますが、初めにあった恵みは律法の恵みです。人が罪に陥らないようにする囲い、それが神の優しさであり恵みです。その上に律法違反を犯してしまう罪深い私たちを赦すための十字架の恵みと復活の勝利が、恵みとして与えられました。御子イエスさまは、ご自身の歩みを通して、神を説き明かしてくださいました。私たちはその栄光を見ました。御子のご降誕を喜び心からの感謝と賛美をささげます!

12/19 「見よ、光は来た」 ルカの福音書11章29〜36節 小林泰輔師 

  •  ヨハネ1:9に「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」とありますが、「来ようとしていた」その光(イエス)が「来た」のがクリスマスの出来事です。
     本日の箇所の後半には、光は燭台の上に置かれ、家に入って来た人たちに光が見えるようにされたと書いてあります。主イエスの生涯が聖書に記され、十字架の死によって私たちの罪が贖われたこと、三日目に死人からよみがえられたことによって私たちの罪が赦され、栄光のからだにつくり変えられ、神の国に入れられることが明らかになりました。これがイエスの福音の光であり、私たちの希望です。これをしっかりと見つめて目を離さないようにしたいです。
    「からだの明かりは目です」とあります。カメラの眼はレンズですが、レンズには「絞り値」というものがあって絞りを開放すると明るい写真になります。しかしまた、レンズが曇っていると良い写真はとれません。「あなたの目が健やかなら全身も明るくなります」(34節)とは、目が澄みきっているとも訳せます。曇りのない目でイエスさまを見つめるなら、私たちも明るく快活でいられるでしょう。
     私たちは目に見えない方を見ています。肉眼ではなく、霊の目、信仰というレンズを通してイエスさまを見ています。しかし、悪い時代はしるしを求めるのです。神のおられるしるし(証拠)はどこにあるのか!と求めるのは裁判官が証拠を求めるように、自分を裁き主とすることであり、神に対する不遜で高慢な態度です。
     かつてしるしとしての証人は与えられました。ヨナと南の女王(シバの女王)です。ニネベの人たちはヨナの語る説教によって悔い改めましたが、ヨナの説教に勝るしるしは、「神のことば」そのものであるイエスさまご自身です。そのイエスさまのことばを聞いて信じない人なら、どんな証拠をあげても信じることはないでしょう。南の女王はソロモンの知恵を聞くため、はるばるやって来て、その神の知恵に感嘆しひれ伏しました。しかし、ソロモンに勝る知恵があります。それが御子による救いのご計画です。神の御子が十字架にかかって死ぬことで私たちの罪が赦されるとは、なんという知恵、なんという愛でしょう。また、多くの信徒方が証人としておられます。私たちもイエスさまから目を離さずについて行きましょう。(ヘブル12:1-2)

12/12 「もう神の国は来ている」 ルカの福音書11章14〜28節 小林泰輔師 

  •  今朝の箇所はイエスさまが悪霊を追い出すところが書かれている記事です。悪霊とは、目に見えない力であり、人に働きかけて悪影響を与えます。聖書の時代は科学が未発達であり、病気も悪霊のしわざとされることがありました。しかし、科学が発達したからといって、悪霊が存在しなくなるわけではありません。現代もまた「サタンの国(支配)」であると言えます。罪の力とともに悪霊の働きによって今の世も縛られています。サタンの力は「内輪も揉め」という言葉にも表れていますが、誹謗中傷、仲違いの力により、神の子たちの結束を破壊することです。それでは国は立ち行かないのですが、それこそが悪霊の存在目的です。
     しかし、サタンの支配の中に、神の国が来たのです。イエスさまの到来とともに、神の支配がこの地を侵略し始めました。神の子たちを奪還するべく、神の国が来たのです。内輪揉めの支配の中に、御子イエスにより互いに愛し合うという支配が入ってきました。神の指がほんの少し動くだけで、私たちは変えられます。怒りや憎しみを捨て、愛の人に変えられます。サタンは「強い者」であり、私たちの心を占拠して、武装して丹念に巡回監視をし、私たちが疑心暗鬼に駆られ人を信用することなく、互いに足を引っ張り合うようにさせています。しかし、「もっと強い人」である御子と御霊を私たちの心に迎え入れるなら、キリストの霊が心を支配するようになり、人を愛するようになります。もう神の国は来ているのです。心の中に。
     そのようにして、心をの中を聖霊の光によってきよめられたなら、二度とサタンの支配に後戻りしてはいけません。神の光を受けてなお、サタンの力に身を任せてしまうのなら、悪霊が戻ってきて、その人の状態は前よりも悪くなるとイエスさまも言われました。ヘブル書6:4〜にもそう書いてあります。一度、回心し、神のあわれみと恵みを知った上で、信仰から離れている方があるでしょうか。聖霊の御声に従って悔い改めましょう。聖霊の御声をシャットアウトしてしまうのなら悔い改める機会を失ってしまい、救われることができなくなります。
     「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです」。「守る」とは見守ることです。神のことばの成就を見届けるように、神の国の完成を期待して祈り待ち望みましょう。

12/5 「足を洗い合うほどの愛」 ヨハネの福音書 13章1~17節 森田学師 

  •  十字架で死なれる前夜、イエスは弟子たちの足を洗われます。足というものは汚く、その足で触れられることは嫌なものです。私自身幼少の頃は、家の中が汚れるから足を拭きなさいと、上がる前に釘を刺されていました。
     2000年前は、履物は粗末、道はボコボコの砂まみれ。大人でも外を歩けば足は真っ黒だったでしょう。その汚れた足を洗うのは奴隷の仕事でした。ところが、イエスは弟子の前で腰をかがめて、その汚い足に触れ、洗い始めます。イエスの行動と思いを理解できないペテロに「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」と優しく答えるイエス。このイエスの姿こそ、仕える者の姿であり、真の謙遜と愛のあらわれです。もし、弟子たちの間で逆のことが起こっていたら…自分たちすらしようと思わなかったことを、先生にさせているぞと、自分を高く上げ裁き合うなら、破壊的な対立が生まれていたでしょう。
     弟子たちが理解できなくても、イエスは語り続けます。『全身がきよいのです。あなたがたはきよいのです。』イエスの十字架の救いの完全性を伝えつつ(ヘブル10:10)、『あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。』とさらなるチャレンジを与えられます。自分の足を洗うのはいつでもできることですが、互いに洗い合うとなると、ぐんとハードルがあがります。だからこそ、イエスから目をそらさないでいたいと思います。イエスは、サタンに囚われたイスカリオテのユダにも、最後の最後まで愛を注ぎ続けました。誰にでもある弱さや欠け(足の汚れ)、それすらも愛で包むイエス。十字架で罪赦されている者には、聖霊によってこの特権が与えられています。
     頑なな私は、不本意にも嫌っていた父の足に触れ看病させられたときに、私の汚れた足を愛される、神の愛と赦しに目が開かれ、抗いようもない父への尊敬と愛を与えられてしまいました。イエスの愛と謙遜こそ、私たちを隣人の非を責める生き方から解放し、お互いの間に神の愛を溢れさせる、神の恵みです。

11/21 「必要なことは一つ」 ルカの福音書10章38〜42節 小林泰輔師

  •  ある村でのことです。イエスさまとその一行はマルタとマリア(そして弟ラザロ)の家に迎え入れられました。マリアはイエスさまの足元に座り、「主のことばに聞き入って」いました。そのように女性が学ぶということが珍しい時代でしたが、マリアはただただイエスさまの語る御国の福音に夢中だったのでしょう。
     姉のマルタはイエスさまと弟子たちをもてなすために一生懸命働いていました。マリアもそのうち手伝ってくれるだろうと期待していたでしょうか。でも一向に手伝う気配がありません。あれもしなきゃ、これもしなきゃと、マルタは「いろいろなもてなしのために心が落ち着」きませんでした。マルタだって、イエスさまのことを慕い敬っていたのです。“よきサマリア人のたとえ”で言うなら、今はイエスさまこそが傷ついた旅人です。疲れて弱っているイエスさまの必要を満たしてさしあげたい、よきサマリア人のようにマルタは手当てをしてあげたかったのです。まさに「あわれみ深い行い」をしようとしたのです。思いやりから始まったことでしたが、しかし、いつしかそれが、思い煩いになってしまいました。イエスさまのためにと思って始めたことで、イエスさまを責めるという本末転倒に陥ってしまったのです。
     イエスさまは、愛情深く二度、マルタの名を呼んでくださいました。いろいろなことに気を遣って、そして思い煩って、心を乱してしまっていますね。でも、必要なことは一つだけです。そう言われました。必要なのはマルタのようにせっせと働くことではない、というのでしょうか。マリアのようにイエスさまのそばでみことばに聞き入ることだけが正解なのでしょうか。
     いいえ。あれか、これか、なのではなく、イエスさまとともにするか、イエスさまなしにするか、なのです。マリアはその良い方を選びました。主は世の終わりまで私たちとともにいてくださいます。主の臨在と守りと導きが私たちから取り上げられることはありません。
    私たちも“イエスさまのために”と言いながら、“イエスさまのためにやっている自分”に思いが行ってしまうことがあります。主が求めておられるのは、“イエスさまのために”ではなく、“イエスさまとともに”生きることなのです。いつも心の中心にイエスさまをお迎えし、どんなときも主とともに歩んで参りましょう。

11/14 「誰のために生きる」 ヨハネの福音書12章20〜33節 森田学師 

  •  ユダヤ人が千年以上も待ち望んでいた救い主イエス・キリストが、ついにエルサエルに入城します。(15節)王といっても地上の王としてではなく、神と人との平和の王として。
     そして今、イエスに直接会うことを妨げられている名も無きギリシア人(20節)とユダヤ人との間にある壁を壊す、平和の王としても来られたことを明かされます。
     『一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』(24節)一粒の麦であるイエスの十字架の死は、ユダヤ人のみならずギリシア人にも及ぶ豊かな救いの力なのです。神の民と、未だそうではない民を区別して、自分たちよりも劣った存在として見なす、人と人との間にある壁が打ち壊される必要があったのです。(エペソ2:14)
     イエスは十字架によって、ユダヤ人と異邦人との間にある、敵対心、嫉妬、争いという、すべての隔たりを打ち砕いてくださいました。同じ唯一の神によって一つとされ、一つのキリストのからだになるためです。
     出身地、育ち、立場の違い、私たちは簡単に壁を作る世界に生きています。偏見や、嫉妬、敵対が至る所で生まれています。近所でも、学校でも、会社でも。
    しかし、私たちは、既にイエス・キリストによって、それらの壁を取り除かれ生きる者とされました。
     私たちが出会う人々の中に、どこかでイエスを求めている人々が、イエスを知らなかったとしても、真理を求めて生きている人々がおられます。(31,32節)
     私たちは、そういう人々がイエスと出会う助けとなるために、今それぞれ生きる使命を与えられている。そう言えます。
     世と調子を合わせることは出来ません、しかし救われているから優れている、などと自分自信を誇ることがありませんように。私たちが誇れるものは、ただイエスの十字架のみです。イエスの十字架によって、自分を誇る愚かさを打ち砕いていただき、隣人の祝福を祈り、とりなす楽しさと、喜びが私たちの生活に溢れますように。聖霊の導きを求めましょう。

11/7 「よき隣人に」 ルカの福音書10章25〜37節 小林泰輔師

  •  ある律法学者との問答ですが、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」というものです。それに対してイエスさまは「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」と質問で返されました。律法学者が答えたのは「シェマー」と呼ばれるユダヤ人がことあるごとに唱えるみことばでした。「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」どんな時でも、どんな場所でも、唯一の神を神としているかと問われます。考え事をしているときも、主がともにおられます。力を尽くして主に奉仕をささげるために健康にも留意したいものです。知性を用いて、現代の知見によって人を愛するスキルを身につけることも大切です。かくして隣人を愛することを通して、神を愛していることが証しされるのです。
     イエスさまは律法学者に対してごくシンプルに命じます。「それを実行しなさい。」ところが律法学者は真正面から受け止めず、「私の隣人とは誰ですか」と尋ねます。同胞であるユダヤ人こそが隣人であるという認識だったのでしょうか。イエスさまは、いわゆる「よきサマリア人のたとえ」を話されました。そうして、イエスさまは尋ねました。祭司、レビ人、サマリア人、このうち、誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか。律法学者は渋々といった様子で「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えました。それはサマリア人のことでした。サマリア人は、強盗に襲われた人を「かわいそうに思った」のですが、それは「はらわた痛む」とも訳される言葉で、福音書ではイエスさまにだけ使われる言葉です。またもイエスさまの適用はシンプルです。「あなたも行って、同じようにしなさい。」十字架を背負って誰かの身代わりに死ぬようなことは、自分にはできないと、愛の足りないことを嘆かわしく思うこともあります。しかし、このたとえでサマリア人がしたことは、2デナリ分の親切でした。それならば私たちにもできないこともないのではないでしょうか。しかし、もっと大きなことは、差別や憎しみを乗り越えることかもしれません。それには悔い改めが必要です。主の助けを仰ぎながら、憐れみに生きられるように祈りましょう。

10/31 「勝利の喜び」 ルカの福音書10章17〜24節 小林泰輔師 

  •  10月31日は宗教改革記念日です。マルティン・ルターが95箇条の論題を発した、歴史的大転換のあった日です。しかし、何にも勝る大転換はイエス・キリストの到来でしょう。主イエスの到来によって罪と死に対する勝利がもたらされたのです。
     今日の箇所で弟子たち72名は、伝道派遣から帰ってきました。彼らは喜んで報告しました。「(イエスさまの)御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」(17)と。イエスの御名に力があることを素直に認め、「御名」を喜んでいるのです。主イエスも、サタンが天から落ち、敵の力が打ち砕かれたことをお話しになり、弟子たちの報告を認めてくださいました。そしてまた、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。弟子たちを何かたしなめられたようにも見えますが、イエスさまもシンプルに弟子たちの「名」を喜んでおられたのではないでしょうか。それは弟子たち一人一人の存在を喜ぶ神の御思いであります。
     そしてさらに御子に聖霊が臨まれ喜びがあふれます。御父に祈られ「父よ、これはみこころにかなったことでした」と神の救いのご計画の通りであることを喜ばれました。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています」。この世にあっては悪霊の支配があります。私たちの罪の性質を刺激し、誘惑し、罪を犯させようとします。しかし、その悪霊の力を踏み砕き、私たちを罪から解放してくださったのです。これが神さまの願われたことでした。イスラエルを、そして私たちをご自分の手に取り戻すことをどれほど願われたことでしょうか。私たちの名前を手のひらに刻み込んで覚えておられたのです。御子はその手のひらに釘を打ち込まれ、その打傷によって私たちは救われ、私たちの名は天のいのちの書に刻まれたのです。
     そして勝利の主はやがてもう一度来られ、その時に完全な勝利が与えられます。預言者や王たちが見たいと望んだその姿を、私たちも見ることになります。その時、主は私の名前を喜びつつ呼びかけてくださるでしょう。ハレルヤ!

10/24 「危急存亡の秋」 ルカの福音書10章1〜16節 小林泰輔師 

  •  危急存亡の秋とは、生きるか亡ぶかの瀬戸際が近づいているという意味です。なぜ秋(「とき」と読むが)なのか、それは、秋は収穫の時で、万物が成熟する大事な時であるからとのことです。聖書のメッセージにおいても今は秋です。収穫の見込める時でありますが、もし不作なら飢えにも結びつく重要な時でもあります。
     主イエスは「収穫は多い」と言われました。目を上げれば刈り入れを待つばかりとなった豊かな実りがあります。私たちの周りにも救いに導かれるべき魂が多くあります。しかし、それにもかかわらず、働き手が少ないのでせっかくの実りが無駄になろうとしているので、働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈りなさいとあります。そのように語られて、イエスさまは72人の弟子たちを伝道に派遣しました。
     また、「神の国は近づいている」とも語られました。イエスさまが来られたことで、神の国が到来しました。その成熟の時は近づいています。神の国(支配)が近いという知らせが福音であり、良い知らせですが、それを受け入れない人にとっては、滅びの選択をする時となってしまいます。弟子たちに伝道の手引きを語る際、イエスさまは、拒む人たちを説得しなさいとは言われませんでした。ただ、神の国が近いということだけは知っておいてくださいと言いなさいと教えられました。神さまはあわれみ深い方であり、今、受け入れられない人のためにも待っていてくださいます。神の国が近いことだけは覚えておきなさいと、いつか信じられるチャンスが来るようにと待っていてくださいます。危急存亡の秋において、亡びを選び取ることがないように、この秋を逃すと次はないかもしれません。イエスを主と信じて、神の支配を受け入れて救われますように。
     また、私たちクリスチャンも、緊迫感をもって神の国を宣べ伝えましょう。父を葬るという尊いわざより、さらに緊急大事なこととして宣教を位置付けられました。宣教に必要なものはすべて、知恵も力も機会も、収穫の主がご自分の収穫のために整えてくださいますから、信じて従い、収穫の働き手となるべく立ち上がりましょう。

10/17 「この道わが旅」 ルカの福音書9章46〜62節 小林泰輔師 

  •  十字架の道をわが旅とするのがキリスト者の歩みです。しかし、弟子たちは、主イエスのお言葉を聞いたそばから正反対のことを論じ始めました。誰が一番偉いのかということです。マルコの福音書では、この時、真のリーダーになりたければしんがりに立ち、皆に支える者になりなさいと言われました。一番先頭でイエスさまの話を聞いて、知識は増えるかもしれないが、頭でっかちの知識ばかりの信仰ではなく、後になって仕えるという、実践する信仰を求められたとも言えます。そして、子どもを受け入れることのできる謙遜さを持つような、小さな者こそが一番偉いのだと語られました。
     弟子たちはこのことも理解できずに、伝道を拒むサマリヤ人を滅ぼしましょうかと言ってみたり、悪霊を追い出す人たちが自分たちのグループでないからとやめさせようとしたり、高慢さを次々と露呈させ、イエスさまに叱られました。
     それから、三人の人がイエスさまの旅の同行者として志願してきます。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」(57)この言葉は私たちの思いでもあります。受洗したときに誓ったことでもあります。嘘偽りなく、本気でそう誓いました。イエスさまは言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」そのような旅が私たちにできるのか、その覚悟が問われます。
     また、二人目は、従って来なさいとの招きに対して、父を葬ってからにしてくださいと答えました。葬儀は何よりも優先されることでしょう。どんなに忙しくても忌引き休暇は許可されます。しかし、それ以上に緊急なのは、神の国を言い広めることだと言われました。
     三人目も、家族に別れを告げてからと答えました。エリシャの真似をしたのでしょう。しかし、「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」と言われました。父母を敬うべきであり、家族との別れが大切であるからこそ、それと比較することで、どんな状況でも宣教の働きが中断されてはいけないことを示されました。
     主に従い通す、十字架の道をわが旅とする、この決意は聖霊によるのでなければ完遂できません。日々聖霊の導きを求めて歩み続けましょう。

10/10 「死んでも生きるのです」 ヨハネの福音書11章1〜11節 森田学師 

  •  “死”は、イヤなものです。唯一まことの神が、天地万物と私たち人間を創られ、全てがよかったそのとき、“死”は存在しませんでした。神が愛を分かち合うために、初めに創られた人間アダムとその妻エバが、神の愛を無視し信頼を裏切ったとき『…一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった…』(ロマ5:12)のです。いのちの源である神を否定したとき、本来味わわなくてもよい“死”を、人は自ら招いてしまったのです。
     その“死”に敵対するイエスは、十字架を目前にして、最大の奇跡を行われます。イエスの愛する友、ラザロの復活です。それにしても死んで四日とは、誰もが死を認めるには十分すぎる長さです。私の父は、帰宅した母が見つけたときには死後3時間経っていましたが蘇生不可でした。終わりの日に栄光の身体で復活する希望を抱くマルタでさえ、『主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。』と諦めています。そんなマルタにイエスは、『「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』と十字架の死と復活の預言ばかりかラザロの復活を約束されていたのですが…。イエスが、ラザロの危篤を聞いても、なお彼が死ぬまで二日も待ち、焦り非難する人々をよそに、死後四日目に着くように進まれるのは、偉大な神の御力を全ての人が見るためです。とはいえ、イエスは“死”に対して、二度も霊に憤りを覚えられ、心を騒がせています。これは“死”への宣戦布告です。『「ラザロよ、出て来なさい。」』神のことばは生きていて力があるとは本当にこのことです。イエスは、誰一人復活どころか、復活のふの字すら思い描けなかったすべての人の想像を遥かに越えたところで、ラザロを復活させました。
     この後、イエスの十字架を通して『死は勝利に呑み込まれ』ます。死は敗北し死が人生の終わりではなくなったのです。罪を取り除きその結果の“死”そのものを打ち負かしたイエスを信じる者は、死んでも生きるのです。この世に生きながら、創造の初めの永遠のいのちへの回復を生きることは希望でなくてなんでしょうか。

10/3 「曲がった時代から救われよ」 ルカの福音書9章37〜45節 小林泰輔師

  •  「曲がった時代」とは、いつの時代もそうであるように思えます。真っ直ぐな時代などなかったのではないでしょうか。それは私たち人間の心がねじ曲がっているからです。曲がった時代は、曲がった心が作るのです。
     今朝の箇所は、悪霊に憑かれたように引き付けを起こす少年と、その父親の話です。癒しと悪霊追い出しを願ってイエスさまのところにやってきました。それ以前に弟子たちのところにも来たのですが、弟子たちには悪霊を追い出せなかったのです。
     癒しを求めてイエスさまの御前に出た父親に言われたのは「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」というものでした。うんざり辟易としているようなお言葉です。優しいイエスさまがどうしたというのでしょう。「曲がった時代」という言葉は旧約聖書にいくつか出てきます。申命記32:5では、モーセを通して不信仰なイスラエルの民について語られています。あのモーセの時代から変わらない不信仰な態度を、モーセを再現する形で預言者的振る舞いとして指摘したのでしょう。
     イエスさまは息子を連れて来なさいと言われました。マルコの福音書9:20〜27にはもう少しくわしいやりとりが描かれています。父親はイエスさまに「おできになるなら…お助けください」と言いました。イエスさまは「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と諭されました。すると父親は叫んで「信じます。不信仰な私をお助けください」と言いました。写本によっては泣いて言ったとあるそうです。
     私たちも自分の信仰のなさに情けなくなり、泣きたくなるときがあります。それでもイエスさまにしがみついて、こんな不信仰な私でも助けてくださいと祈るなら、神さまは喜んで助けてくださいます。祈ることをためらったり、もうダメだと自分で結論を出してしまったりする私たちを見て、「頼れ、頼れ」と待っていてくださるのです。「不信仰な私を助けてください」という叫びであるのに、それこそが信仰だと認めてくださるのです。

9/26 「成就される出発」 ルカの福音書9章28〜36節 小林泰輔師 

  •  いわゆる変貌山での出来事です。出エジプト記にも同じようなことがありました。ここではイエスさまはペテロとヨハネとヤコブをともなって山に登りましたが、モーセはヨシュアを連れてシナイ山に登りました。そこで神の臨在に触れモーセの顔が輝きました。しかし、イエスさまはご自身が光の源です。夜の山は死を感じさせるものです。罪と死の闇に光り輝くイエスさまは私たちの希望です。
     暗闇に中でイエスさまの光に照らされて、モーセとエリヤの姿が現れました。「律法と預言者」つまり旧約聖書時代を代表する二人です。彼らとイエスさまの会話の内容は、これからイエスさまがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期についてでした。直訳すると、成就しようとしている出発となっています
    (欄外注)。「エクソドス」という単語の訳し方によるのですが、出エジプト記の書名も「エクソダス」であるように、脱出、出発のことです。エジプトの奴隷状態から脱出し、約束の地へ向けての出発でありました。イエスさまの最期、すなわち十字架は、私たちを罪と死の奴隷状態から脱出させ、新しいいのちへと出発させるものです。
     イエスさまの姿が光り輝く姿になったことが「変貌」として描かれますが、そもそも、神であられる方が、神の御姿を捨てて人になられたことが大きな変貌です。そして十字架で遂げられた最期と復活によって成就される新しい出発、それは私たちもイエスさまと同じ栄光のからだによみがえり、永遠のいのちが与えられ、神の御国を受け継ぐということです。私たちも日々、少しずつ、イエスさまの似姿に変貌させられています。
     新しい創造、再創造によって、神の民としての出発が成就されました。天からの神の声があって「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」と語られました。イザヤ書42章に預言されているように、イエスさまの十字架がこの地に打ち立てられ、それによって遂に、地にさばきが確立します。それはすべてが報われる時です。その日、その時が来たら、御国に凱旋することができるように、日々十字架を負ってくださるイエスさまとともに歩んで参りましょう。

9/19 「イエスはキリスト」 ルカの福音書9章18〜27節 小林泰輔師 

  •  「イエス=キリスト」という表記を見かけることがあります。イエスは(イコール)キリストとも読めますから、それ自体が信仰告白のような気がします。イエス・キリストと呼ぶとき、私たちは最も短い信仰告白をしているとも言えるでしょう。ペテロはイエスさまに向かって「神のキリストです」と告白しました。人々がイエスのことを預言者のよみがえりだと噂していた時に、「(それはさておきほかでもない)あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」との問いに答えたものでした。この世の人々も、神や、救いや、救い主についてさまざまな見解を持っていますが、私たちは「イエスはキリスト、よみがえられた救い主」と毎主日、毎日、毎時、名を読んで信仰を告白するものです。
     救い主はだれかという真理が明かされた、その告白をイエスさまは、この時点では広めることのないようにと指示されます。ペテロや弟子たちの告白には、この世の王としてのメシア期待が含まれていたからでした。そして、神の救いの御計画は明らかにされます。救い主イエスは苦しめられ、長老たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならないと。この世の王としての快進撃とは程遠いものでした。
     その上で、地上の王にではなく、天の御国の王、永遠の救い主についてくるなら、神の国の生き方に従いなさいと命令されます。それは、自分を捨てること、十字架を負って自分に死ぬことを意味していました。それこそが、私たちがいのちを得る道だったのです。神さまは私たちにいのちを得させたいと願っております。一人として滅びることを望んでおられません。ですが、弱い羊である私たちは、辛さや苦しさの中でもがいて、自分で自分を救おうと躍起になり、空しい努力に明け暮れてしまうのです。しかし、やればやるほど沼に嵌っていくようなものです。自分のいのちを救おうとすることでかえっていのちを失ってしまうのです。
     しかし、自分を捨て、他者のために生きるときに私たちのいのちは神の栄光で輝きはじめ、イエスの御姿に似ていくのです。実に、受けるよりも与えるほうが幸いなのです。たとえ世的な成功者にはなれなくても、全世界の宝にまさる永遠のいのちが与えられます。主の目に恥じられることのない生き方を、十字架を担いつつ主イエスとともに歩んで参りましょう。

9/12 「神の囲いの中にある恵み」 ヨハネの福音書10章1〜18節 森田学師 

  •  イエスは言われます。アーメン、アーメン(真実に、本当に)“わたしは羊たちの門です”(7節)。イエスという救いの門を通り、神の治める囲いの中(神の国)にいる羊たちにのために、“良い牧者”(11,14節)でもあるイエスがいてくださるのです。イエスは、実際の羊飼いの生き様を通して、ご自分が良い羊飼であることを明かします。
     羊飼いは朝起きると、羊たちを呼びに行き、一匹一匹名前と顔と声を確認し、連れ出し、野原に放牧させます。周りには危険が潜み、敵が狙いを定めてきますが、羊飼いは羊たちの先頭に立って盾となり、命をかけて羊たちを守ります。そして安全に戻ってくるのです。さらに、イエスは十字架の犠牲によって、ご自分の命を与えて、私たちを養われます。
     そこには、多くの恵みがあります。①主の声に耳を傾けることで、主の声を敏感に聞き分ける感受性が養われ、②声を聞いて応えるとき、対話が生まれ、言葉を交わすことによって、主と人格的な交わりを持ち、③日々主の声を聞き、交わるとき、羊である私たちは野原に出ても、主の後にくっつき従順に歩きます。さらに、④この世に生きながら、永遠のいのちを与えられ、⑤永遠のいのちは、この世を去った後も、滅びることがなく、⑥これらの恵みは他の誰からも私たちから奪い去ることはできないという守りがあります。
     しかし、囲いの外は、かつての私たちがいたところです。硬く閉ざす心、離れる心、逆らう心、死、危険、滅び。私たちは、日々門を出て外へ遣わされて行きます。それは、イエスと言う門から、世に放り出されるわけではありません。『神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。』(ヨハネ①4:16)イエスと父が一つであるように、私たちはイエスと愛によって結びあわされています。どこへ遣わされても、霊の目を開いてみるならば、私たちは良い牧者の囲いの中に居続けるのです。『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。』今も、この恵みの囲いの中に主は迷う羊たちを招いておられます。

9/5 「神の国の祝宴」 ルカの福音書9章1〜17節 小林泰輔師 

  •  イエスさまは弟子たちを呼び集め、そして神の力と権威を授けて、宣教に派遣しました。神の国(支配)が始まるということを宣伝布告するために遣わしたのです。その際に、持ち物は最低限にして旅に出かけるよう言われました。神の国においては、神から受けた恵みを分け合うことが当然であり、それでいて誰も欠乏することがないことを、弟子たちが身をもって体験するためだったと思います。満ち溢れるほどの恵みがありそれを分け合う。神の恵みによって生きる新しい王国での新しい生き方です。
     使徒たちが宣教旅行から帰ってくると、イエスさまはベツサイダにひそかに退かれましたが、それでも群衆が後について来ました。他の福音書では群衆を見て、「羊飼いのいない羊の群れのよう」であるのをあわれむ(マコ6:34)まことの羊飼いの姿がありますが、ここでは「彼らを喜んで迎え」てくださるまことの王の姿がありました。王の王である主を礼拝するために教会に集まってくる私たちを、王なる主イエスは喜んで迎えてくださり、癒しや問題の解決や信仰の成長などを求めてみもとに出る私たちの一切の必要を満たしてくださるのです。
     幸いな時はあっという間に過ぎ、日が暮れる頃、使徒たちは解散を命じてくださいと、イエスさまのもとに来ました。けれどもイエスさまは「あなたがたが、あの人たちに食べるものをあげなさい」と言われました。使徒たちは五つのパンと二匹の魚のほかには何も持っていません。できません。と答えましたが、それはイエスさまも承知しておられたはず。それでもあえて言われたのは、これが大事な命令であり、神の国あり方を示すものだからです。足りないものはすべて神が満たしてくださるという前提のもとに、あなたがたが受けた恵みを分かち合い、互いに互いを養い合いなさいということです。
     奇跡により五千人以上の人が満腹し、なお12のかごが余りました。それは誰のためのものでしょう。神の国の祝宴に与るべき人が、まだまだたくさんいます。お金も力も地位も名誉もないけれど、“パンとぶどう酒”はあります。人々に神の恵みを分け合う教会となりましょう。

8/29 「恐れないで、ただ信じなさい」 ルカの福音書8章40〜56節 小林泰輔師

  •  今日の箇所は二人の女性の人生に起きた奇跡の物語です。二人に共通していたのは「12年」という期間です。一人めの人は、12年間、長血と言われる病に苦しんだ女性でした。辛く苦しい12年を暗いトンネルの中を進むようなものだったでしょう。病気を治すために医者を渡り歩いて財産も使い果たし、力も気力も使い果たしたところでイエスさまにお会いしました。イエスさまの衣の房に触れるだけでも癒していただけると期待して、最後の一雫のような信仰を振り絞って、手を伸ばしました。すると、たちどころに癒されたのです。この女性の物語を通して、神さまは私たちの不信仰を責められます。しかし、責めながら励まされるのです。勇ましく大胆な信仰でなくても、イエスさまの衣にそっと触れるようなことでよい、手を伸ばしてわたしに祈りなさいと励ましてくださるのです。
     二人めは12歳の女の子でした。会堂管理人ヤイロの娘でしたが、この女の子は病気か何かで死にかけていました。家族に愛され、家族にも喜びと希望をもたらした、光り輝く12年間でしたが、今その光が潰えようとしていたのです。
     長血を患っていた女性と関わっている間に、家から使いがやってきて、娘が亡くなったということを告げられました。それでもイエスさまは「恐れないで、ただ信じなさい」と言われます。イエスさまを信じ、家にお連れするも、人々が泣いて悲しんでいる事実に直面し、信仰が揺らぎます。主は「泣かなくてもよい。死んだのではなく、眠っているのです」と言われ、また「子よ。起きなさい」と言われると、娘は息を吹き返しました。長血を患った女性が癒されたことを見て、さらに死人が生き返るというみわざを信じる必要があったヤイロでした。
     私たちはさらに、嵐を鎮め、悪霊を追い出されるイエスさまのみわざを見てなお、私の罪のためにイエスさまが十字架におかかりくださり、その贖いによりすべての罪が消え去ったことを信じ、やがてのとき、復活のイエスさまと同じ栄光のからだによみがえることを信じる必要があるのです。そんなことがありえましょうか。「恐れないで、ただ信じなさい。」

8/22 「イエスによる解放」 ルカの福音書8章26〜39節 小林泰輔師

  •  前の箇所で風や波を叱りつけ、嵐を鎮めるイエスさまについて、弟子たちが「この方はどういう方なのだろう」と感嘆したのを見ました。今日の箇所はその言葉に対するもう一つの答えとも言えるところです。
     ゲラサ人の地で悪霊に憑かれた二人の人がイエスを迎えました。ルカはそのうちの一人に焦点を当てています。彼は長い間、家を出て墓場に住み、何回も発作のようなものを起こし、鎖で繋がれても引きちぎってしまう、そのような凄まじい悪霊の力に占領されていました。
     悪霊と言っても、オカルト的な荒唐無稽な話として片付けるのは危険です。目に見えないからといって存在しないわけではありません。コロナウィルスも(肉眼では)見えないけれども確かに存在し害を及ぼしています。エペソ2:2では、悪霊が「空中の権威を持つ支配者」と書かれています。人種差別、虐待、いじめ、同調圧力、正義の暴走、そういう風潮や空気が蔓延しているなかで、私たちの世界は、私たちの心は、悪霊に支配下にあると言えないでしょうか。
     ゲラサ人に取り憑いていた悪霊は「レギオン」と名乗りました。「軍団」を意味する言葉です。いかに強大な力によって抑圧されていたかがわかります。個人の力では為す術もない力です。暴力の連鎖、貧困の連鎖、そういったものが世代間でも連鎖していくのを見るにつけ、呪いのような鎖で縛られている思いがします。その呪いの連鎖を打ち破ることができるのは、唯一無二、神の愛と御力だけです。イエスさまは風や波といった自然現象も、霊的世界の超自然も支配される方です。救い主イエスさまが来てくださった。イエスさまが私たちの罪の力を打ち破ってくださった。この福音の真理が私たちを呪いから解放し、自由にしてくださるのです。
     偉大な神の力によって悪霊が追い出され、男の人は正気に戻りました。人々はイエスさまを恐れ、その地から追い出してしまいます。しかし、悪霊から解放されたその人をイエスさまはこの地に残しました。私たちも今いるところを遣わされた地としてとどまり、宣教の働きを担って参りましょう。

8/15 「向こう岸へ渡ろう」 ルカの福音書8章22〜25節 小林泰輔師

  •  人生は、向こう岸を目指して船漕ぐ旅路のようなものです。一人一人の小船があり、また教会というキリスト者が相乗る船があります。そしてそこにはイエスさまが共にいてくださるのです。主イエスは私たちに「向こう岸に渡ろう」と冒険の旅に招いておられます。人生航路には困難や試練の嵐がありますが、主が共におられるならば、心を騒がせる必要はないのです。
     湖の向こう岸はゲラサ人の地、異邦人の地でした。船を漕ぎ出し、向こう岸で一人か二人の悪霊に憑かれた人を解放してくださいました。私たちの人生にも、教会の宣教の歩みにも、チャレンジがあります。未踏の地を行くような冒険かもしれない。支払うリスクに対して得られるものは一見多くはないのかもしれない。けれども、この物語の続きが示すように、たった一人の人でも救われるならば、私たちの人生にとって大きな喜びとなるのです。
     しかし、人生航路においては嵐があり、不安とのたたかいがあります。そんな中でイエスさまを見上げると、なんと主は眠っておられるのです。私たちは様々な不安を時に抱えます。このままでは死んでしまう!と叫ぶような八方塞がりの状況に陥ることもあるでしょう。イエスさまはヨハネ14:1で「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われます。もし、イエスさまが何かをする必要があるなら、眠ってはおられないはずです。ですから心を騒がせる必要はないのです。イエスさまが船に乗っておられるという事実だけで大丈夫なのです。目に見えて体感する波や風の事実を、主が共におられるという事実が凌駕するのです。
     弟子たちの不安な心の騒がしさにより、主イエスは目をさまされ、波風を叱りつけ鎮めてくださいました。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と問われましたが、そんな弟子たちの不恰好無様な叫びにさえも主は応えてくださり、大いなるみわざを見せてくださるのです。この主のあわれみが、眠っている私の信仰を呼び覚まします。主と共に進む人生航路は前途洋々、向こう岸を目指して進んで参りましょう。

8/8 「神の栄光のために」 ヨハネの福音書9章1〜12節 森田学師 

  •  目の見えない人の目が開かれる、それは神の輝かしいみわざです。さらにここで神が語るのは、心の目=霊的な目が閉ざされていることがどれほど不幸であるか、です。イエスは暗闇を照らすまことの光としてこの世に来られました。霊の目が閉ざされた私たちには、光が必要不可欠だからです。
     『この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。』弟子たちはイエスの愛に目が閉ざされていました。そうでなければ、目の見えない人を前に、私は目が見えるからこの人よりも幸せで罪がありません。とは言わないはずです。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。』イエスは、私たちとは全く違う視線で人を見ておられます。
     弟子たちの目が開かれるためにも、イエスは、目が見えない彼をあわれんで近寄り、目を開かれるのです。私たちは、自分の弱さが照らされるとき、こんな弱く欠けだらけの私が赦され愛され、生かす神を知ります。この後、目の見えない人は、イエスのなされるままに、まぶたに泥を塗られ、イエスの言われた通りに、シロアムの池に行って目を洗い、見えるようになります。彼はイエスに出会い、神のみわざを体験しました。神の栄光が現れるのはさらにこの後です。目が開かれると、癒しの喜びよりも、イエスが自分に何をして、イエスがどんなお方なのかをひたすら証しし続けました。ののしるパリサイ人にもめげずにです。
     イエスは言われます。『「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』私の方が神を知っているのだ、と高ぶるパリサイ人は、自分自身を神の愛の招きから遠ざけ、結果的に自分をさばくのです。『人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。』と言われている通りです(箴言18:12)。
     イエスは私たちの弱さや欠けをも、神の栄光をあらわす機会としてくださるのです。イエスのなされた真実を、いつでもお証しできるように知恵と力と勇気を求めていきましょう。

8/1 「聞き方に注意しなさい」 ルカの福音書8章16〜21節 小林泰輔師

  •  「ここでは二つのたとえが語られています。明かりのたとえと、隠れているもののたとえです。どちらも神のことばについてのたとえです。
     神のことばは私たちの歩む道を照らす光です。私たちの人生を明るく照らし安全に導くものです。神のみことば、聖書の使信とは、神の御子イエスが王となられ、やがて御国を統べ治めることになるというものであり、その告知であります。イエスさまの治める御国には、イエスを主と信じる者しか入ることができません。このことは今やイスラエルだけでなく異邦人にも知らされ、すべての人を照らし導く光となりました。「入って来た人たちに光が見えるように」明かりは燭台に置かれているのです。
     「隠れているもの」「秘められたもの」、「奥義」とも呼ばれるものの覆いは取り除かれ、あらわにされました。神の御国の福音は旧新約聖書を通してもはやすべての人に開かれたものとなっています。ですから、知らなかった、聞かされていなかったとは言えないのです。
     ですから、聞き方に注意しなさい。聞く耳を持って聞き、従う心をもって聞きなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。持っている者と持たない者とは、聞く耳、信じる信仰のあるなしのことです。
     イエスさまの家族が出てきます。兄弟たちは他の福音書などの記述からすると「イエスを信じていなかった」(ヨハネ7:5)とあります。イエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちことです」と言われました。神のことばの「聞き方」とは、それを聞いたら実行するつもりで聞くことです。イエスさまが王となられる国の民、王なるイエスさまの兄弟として、御国の共同相続人として生きるのです。そうとなれば王の家族としてふさわしく振る舞うようになるでしょう。
     「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」(ヤコブの手紙1:22)

7/25 「種は蒔かれた」 ルカの福音書8章1~15節 小林泰輔師 

  •  イエスさまは群衆に向かってたとえを用いて話されました。種を蒔く人のたとえですが、それは解き明かしなしにはその真意を理解できないものです。弟子たちはイエスさまにその意味を教えてくださるようにお頼みしました。しかし、イエスさまの語ることに耳を傾ける気のない人はその意味を尋ねることなく聞き流すのでしょう。聞く耳を持たなければ、福音の種は芽を出すことがありません。
     種を蒔く人のたとえの結論は、立派な良い心でみことばを聞く者は豊かな実を結ぶというものです。種を蒔く人は神さまで、蒔かれる種は神のみことばです。それを受け止める四つの土地は私たちの心や信仰の有様を表しています。
     「道端」で表されるのは、みことばを聞いても信じることがなく、後で悪魔が来てみことばが取り去られてしまうという姿です。「後で」とあるように(マルコの「すぐに」と対照的ですが)、信仰者でも、信じる心を失えばみことばを取り去られることもあると教えられます。「岩地」で表されるのは、みことばを聞いてしばらくは信じるが、試練のときに信仰を失ってしまう心のことです。「茨の中」は思い煩いや富や快楽などで信仰の成長が阻害される状態のことです。「良い地」が立派な良い心でみことばを聞くことです。そうすれば百倍の実を結ぶと約束されています。これは四種類の人がいるのではなく、同じ人の四種類の心の有様を表しています。
     世の中には二種類の人間がいます。みことばに対して、聞く耳をもっている人と、そうでない人です。聞く耳を持ちさえすれば、信仰が成長し百倍の実を結ぶという可能性が開かれています。四つの状態を行きつ戻りつするかもしれませんが、良い土を保つことを目指していくのです。それは励まし合い、戒めあうことなしには難しいことです。共に成長していくために、そして宣教の種蒔きを協働するために神さまは教会をこの地に建てあげてくださいます。そのためにこそ私たちは召され、教会になるのです。

7/18 「愛で紐付けられている」 ルカの福音書7章36~50節 小林泰輔師 

  •  先週は「罪を思い出さない神」というお話しでした。神さまは私たちをその罪によっておぼえず、愛に紐付けておぼえていてくださるのです。今日の箇所の中心人物である女性も、“町でも有名な罪深い女”としてではなく、“より多く主を愛した女性”としておぼえられるのです。
     パリサイ人シモンの家に招かれたイエスさまが、食事の席に着くと、その後方から一人の女性が近づいてきました。シモンをはじめ、町の人だれもが「あの女は罪深い女だ」としていました。その女性は涙を流しながらイエスさまの足元に近づくと、その涙でイエスさまの足を濡らし、髪の毛で土埃を拭い、良い香りのする香油で御足を綺麗にしてさしあげたのです。そしてその足に何度も口づけをして感謝と愛情を表しました。おそらく、この女性はすでにどこかで主イエスの福音を聴き、神の御手に触れられ、心を変えられたのでしょう。かつての罪への後悔と、しかし、それがまったく赦され、主にあって御前に受け入れられたことの感謝と喜びを表すためにこのようなことをしたのでしょう。
     イエスさまは感謝のささげものとしてそれを受けられ、そしてシモンに例え話をしました。50デナリの借金を赦された人と、500デナリの人とではどちらが多く金貸しを愛するかという単純なお話しです。この女性は自分は多くの罪を赦していただいたと思ったからこそ、自分の持てる最高のささげもので主に感謝をささげたのでした。しかし、それに対してシモンは客人に対する最低限の礼さえもせず、自分を罪ある者とはしなかったので、イエスさまを少しも愛することがなかったのです。
     イエスさまは女性に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださいました。この人や、私たちが信心深い良い行いをしたから救われたのではありません。イエスさまは私をすでに赦し、常に赦し、全く赦してくださると、その愛に信頼するからこそ、その信仰は今日も、この瞬間もあなたを救い続けるのです。

7/11 「罪を思い出さない神」 ヨハネの福音書7章53~8章11節 森田学師 

  •  自分はあの人よりは正しいと思っている人たちが、イエス様の前に、姦淫の罪を犯して掴まった女性をひっぱってきました。夫婦のために創られた性、その外で関係を持つことを神様は悲しまれます。彼らは、この女性を利用して、どっちに転んでも、イエスにとって不利なことを言わせて、捕えようと企んでいました。イエス様は、彼らが女性にしたひどい仕打ちに対しての怒りと、女性が無慈悲にも連れて来られたことを可哀そうに思い、身をかがめて、顔を地面に向けておられました。そんなイエス様の思いなどよそに、まんまと罠にはめたと思ったその時、イエス様は口を開かれます。7節『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。』なんと、イエスを追い詰めたはずが、人間が避けて通れない、罪という大きな問題に、光をあてられることになったのです。誰もが、私にはこの女性をさばく資格などないのだ。恥ずかしい。そう思ったに違いありません。全ての人が立ち去った後、イエス様と向き合った女性は、イエス様に罪を告白したのだと思います。『イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」』
     私たちは、あの人ほど私は悪いことをしていない。人と比べてしまいがちです。また、特に自分に対してされた悪は簡単に赦せません、手放せません。そんな私たちに言われています。『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。』(イザヤ書43:25)イエス・キリストは、そこまで私たちを愛して下さり、罪の苦しみ悲しみの底なし沼から引きあげてくださって、罪を拭い去り忘れてくださるのです。同じように私たちも、人の罪を手放すことができますように。私たちの心が、人のした悪ではなくて、その人の罪をも赦し、救おうとされている愛の神様に、向けさせてくださいますように。

7/4 「神の国を通り過ぎていく人たち」 ルカの福音書7章24~35節 小林泰輔師 

  •  教会は人々にとっての良い知らせを告げます。けれどもその宣教の声を耳にしながら神の国を通り過ぎていく人がいます。神はそのような人たちを悲しみ痛んでおられます。イエスさまは、子どもたちのごっこ遊びのような呼びかけにたとえて、笛を吹いても踊らない、弔いの歌を歌っても泣かない人たちへの残念そうな物悲しさを表しました。
     当時の人たちは、バプテスマのヨハネの宣教の声を聞きました。しかしそれを、川辺にそよぐ葦を眺めるように遠巻きに見るだけのような人もいました。神の国の福音を耳にしながら、神の国に入ろうとはしない人たちです。バプテスマのヨハネは救い主が来られる先触れとして現れる者として、旧約に預言されていたその人だったのですが、パリサイ人や律法学者といった神のみことばに近く触れていた者ほど、ヨハネを認めず、神のみこころを拒んだのです。反対に取税人や罪人たちがヨハネを受け入れて悔い改めのバプテスマを受けました。自分の罪を認めて神の前に小さな者となり、身を低くして狭い門から入ったのです。へりくだってイエスさまを受け入れた者が神の国では偉大な者と呼ばれるのです。
     ヨハネのように、この世と同調せずにきよい生活を目指していたり、自分の罪を悲しみ悔い改め、人々にも悔い改めを勧めると、宗教にハマっている人というふうに見られ距離を置かれてしまうことがあるかもしれません。その正反対にイエスさまが罪人たちと喜びの宴をもたれたように、まったく自分の努力でなく救われることを喜んでいると、この世の宗教は自分の善行によって救われると説くので、思わぬ反発を受けることもあるかもしれません。そうして神の国を遠目に見て通りすぎる人、誤解して離れていく人がいるのです。
     神の知恵を頂いて、「知恵の子ら」として神の国の福音を宣べ伝えていきましょう。

6/27 「涙の向こうにあるもの」 ルカの福音書7章11~23節 小林泰輔師 

  •  ナインの町に住むあるやもめの一人息子が死んでしまいました。イエスさまが町に入られるとその葬列に出会いました。イエスさまはその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と声をかけられると、棺に手をかけ生き返らせてくださいました。
     やもめの息子の死という物語は、エリヤの時代にもありました。極度の貧しさのゆえに今まさに死のうとしている母子は、エリヤを養うことになりました。神の助けによりかめの粉は尽きず壺の油はなくなりませんでした。神への信仰が与えられたことでしょうけれども、その後、一人息子が病気になり死んでしまいます。彼女は信仰の危機を迎え、つまずきかけますが、主はエリヤを通して息子を生き返らせてくださいました。エリシャの時代にもよく似た話がありました。主イエスがやもめの一人息子を生き返らせたとき、人々はこの偉大な預言者たちを思い起こしたのでしょう。イエスさまを預言者、来るべき救い主と期待する声もあがりました。
     その頃、バプテスマのヨハネは投獄されており、約束のメシアはイエスさまなのか弟子たちを派遣して尋ねさせました。イエスさまが預言書(イザヤ61章等)の通りにみわざを行っていることを告げなさいと言われ、そして「わたしにつまずかない者は幸いです」と付け加えました。ヨハネでさえ神の救いのご計画の深遠なことにつまずく恐れがあったというのでしょうか。
     自分の手に負えない出来事、突然の病気や災害、死別などにおいては、ただ泣くしかないようなことがあります。そしてそれは時に信仰の危機になりえます。しかし、主は「泣かなくてもよい」と言われます。涙の向こうに神ご自身が私たちの涙を拭ってくださる神の国があるからです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあります(詩篇30:5)。だから涙の向こうに主を見上げて祈り続けましょう。

6/20 「百人隊長は知っている」 ルカの福音書7章1~10節 小林泰輔師

  •  カペナウムの町でのこと。ある百人隊長のしもべが病気で死にかけていたときのことです。百人隊長はイエスさまのことを知っていて、イエスさまならばこのしもべを癒し、救うことができると信じて、ユダヤ人の長老たちに頼んでイエスさまを呼びに行ってもらいました。長老たちは「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」と付け加えました。百人隊長は良好な人間関係を築き、ユダヤ人のために会堂を建てたり、地域への貢献もありました。
     しかし、百人隊長は知っているのです。自分は立派な人間でもなければ、神の特別の恩顧を受けられるような資格もないのだということを。立派だと言われれば言われるほど胸がちりちり痛むのです。しかしまた、百人隊長は知っているのです。自分には神の救いが必要だと言うことを。その両方の思いに揺れ、来てくださいと言ったと思えば来ないでくださいというような、右往左往する私たちです。
     イエスさまは知っているのです。私たちがどれだけ救いと癒しを必要としているかを。どれだけ自分の罪に悩み喘いでいるかを。ですから御子が十字架の犠牲によって、私たちが御父の前に出る道となってくださったのです。
     百人隊長は知っているのです。イエスさまには神の権威があることを。みことばによって悪霊を追い出し、熱病を叱りつけて癒し、嵐を静めることのできるお方です。自分自身も権威を知る者として、イエスさまのお言葉があれば当たり前にしもべは癒されると確信していました。当たり前なので驚きません。その驚かないことにイエスさまは驚かれたのです。そしてその信仰をイエスさまがお認めになった言葉と同時にしもべは癒されたのでした。
     神の国は資格を問いません。まるごとささげて委ねて、神の国の御計画に参画していきましょう。

6/13 「神の思い、私の思い」 ヨハネの福音書6章34~51節 森田学師

  •  ヨハネは、イエス様の行なわれた奇跡をたった7つだけに絞りました。それは、イエス様の栄光をあらわすためです。しかし、人々は、目前の奇跡にばかり感心を寄せ、イエス様には見向きもしません。奇跡はすばらしいものですが、イエス様に感心がないのなら、イエス様といくら会話をしても、心はすれ違い離れてしまいます。イエス様のことばさえも受け入れられず、不満があふれてきます。私たちの心を唯一満たす、いのちのパン=イエス様の言葉を心が食べない限り、心は満たされないのです。結局のところ、何か証拠を見たから信じると言うのは、実は信じるきっかけになることはあっても、信じることとは違うのです。今、神様が求めておられることは、奇跡を見て満足することではなく、奇跡を行われる、力あるお方イエス様の心を知ることです。
     誰でも、イエス様を心から求める時、神様の方が私たちを力強く引き寄せてくださり、私たちに神様の思いを教えてくださいます。そんな私たちに、永遠のいのちに至る食べ物、イエス様のために生きましょうと招かれています。私たちは、神様の御手の中で、いま生かされています。この地上の旅の終わりはいつなのか、神様にしかわかりません。突然父が天に召されたことを通して、永遠に続くものは、キリストを嬉しそうに誇ること。キリストの愛に生きることと知りました。
     しかし、他のものを優先にして生きても、地位や名誉や財産を築き上げても、何一つ天国へは持っていけません。私たちはなぜ、今の私たちなのでしょうか。あなたはなぜ、今のあなたなのでしょうか。『なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。』何よりも先ず、神様の思いに私の思いを重ねて生きるならば、人々はあなたに感心を寄せ、そのあなたの中にある神の思いに触れて、祝福の泉が流れていきます。

6/6 「行いの実を結ぶ」 ルカの福音書6章43~49節 小林泰輔師

  •  「心に満ちていること」(45)は何か。心をさぐられるみことばです。神に出会う前ならば、罪悪感や他者への苦い思いで満ちていることかもしれません。それではとげとげしいイバラのような悪い木につながり、悪い言葉が出てしまうかもしれません。しかし、私たちには自由が与えられています。良い木を選ぶことができます。良い木であるイエスさまにとどまり続けることは訓練することができます。神の恵みを思い起こす訓練です。そうすれば心の中は神さまへの感謝と賛美に満たされ、それが口から出てくるようになるでしょう。
     「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」(46)。道徳的善を行わないことを責めているというより、広い意味で捉えるなら、みことば通りに生きようとしないことでしょう。何よりもまず先に実践すべきみことばは、「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4-5)ではないでしょうか。ぶどうの木であるイエスさまにつながっていなければ、そもそも行いの実を結ぶことはできません。
     私たちは良い人生を送りたいと願います。どんな嵐にも揺るがない家(48)のような、確かな人生を積み上げていきたいのです。そのためにはイエスさまにとどまり続け、ぶどうの幹なるイエスさまから力をいただくことです。神の恵みをいつもおぼえている訓練を通して自分の信仰の内面を掘り下げていくなら、確かな土台の上に家を建て上げることができるでしょう。やがて世を去る時か、世の終わりの神のさばきの時でさえも、神の御前に確信をもって立つ(Ⅰヨハネ3:21)ことができるほどの信仰に成長するでしょう。人の知らないうちに植物が成長するように、行いの実も成長することでしょう。「与えよ、さらば与えられん」とも「求めよ、さらば与えられん」ともあるのは、人々に与えるために求めるのです。そうして、隣人の力になれたときには幸いな人生の喜びを実感するでしょう。

5/30 「イエスさまのようになる」 ルカの福音書6章37~42節 小林泰輔師

  •  「さばくな」という教えもまた、キリスト教の教えとして有名でしょう。人をさばくそのさばきで自分自身がさばかれることになるからです。しかし、それは「お互い様だから言いっこなし」という意味ではありません。人をさばくな、そうすれば神もあなたをさばかないという意味です。
     人をさばく心は人間関係を破壊します。人の行為や主張が正しいかを判定する「裁き」から始まり、やがてその人を不義に定めて下に見るようなさばきに発展していきます。裁判には勝敗があるように、さばく心は人間関係に競争を持ち込みます。勝負の相手は「敵」と呼ばれます。汝の敵を愛せよと語られましたが、そもそもその敵を作り出していたのは私たちのさばく心が原因だったのです。
     私たちはみな対等です。自分をさばき主の座に就かせるべきではありません。隣人も兄弟姉妹もみな仲間です。私たちがなすべきはさばき合うことではなく、与え合うことです。それが神の国の在り方です。さばき合うことをやめれば世界を変えることができます。そしてそれは私から始めることができるのです。
     兄弟姉妹の誤りを指摘してはいけないのか。そうではありません。目のちりを取らせてくださいというユーモラスなたとえの結論は、「ちりを取り除くことができる」です。自分自身の目には丸太が入っているのだから偉そうにするなとか、お互いの間違いは見なかったことにしようというのではないのです。そのためにはもちろん自分の目から丸太のようなごっつい罪を取り除いてもらう必要があります。これも私から始められることです。罪の本質は「自分中心」ですが、悔い改めも兄弟を赦すことも「自分次第」で私から始められます。それには「十分な訓練」が必要ですが(40)、主イエスにすべての権利を明け渡す訓練を受けるなら、イエスさまのように愛をもってちりを取り除くことができるようになります。

5/23 「汝の敵を愛せよ」 ルカの福音書6章27~36節 小林泰輔師 

  •  「汝の敵を愛せよ」とはキリスト教の特徴的な教えとして知られているかもしれません。「難しいチャレンジ」「立派な心がけ」「無理難題」「実現不可能な理想主義」と反応はさまざま。たしかに人間の心がけや努力だけでは実現不可能でしょう。
     イエスさまはここで二度「汝の敵を愛せよ」と言われましたが、どちらも、前の文脈を打ち消す「しかし」という言葉から始まります。一度目は、預言者たちが迫害されてきたという歴史から。迫害されたらその何倍に変えて仕返ししたくなるのが人間感情ですが、「しかし」迫害されても敵を愛しなさいと言われたのです(27)。
     二度目は、自分を愛してくれる人に愛で返すという愛の応酬が描かれた後、それなら罪人たちでも同じことをしていると言われ、「しかし」自分の敵をこそ愛しなさいと言われました(35)。教会にはとても温かい愛の交流があります。しかし、そこで恵みを受けるのは自分たちだけです。教会の外に目を向けるなら、そこには愛の冷え切った世界があります。人が誰かに敵対したりするのはどうしてでしょうか。その人自身が愛を十分に受けて来なかったからかもしれません。罪人同士の利害関係がぶつかり合う世においては、そこかしこに恨みや痛み、苦しみや悲しみが転がっています。イエスさまはそのような世界の文脈を打ち消し、「しかし」と言われるのです。
     敵を愛するという具体的な行動(あるいはシチュエーション)も語られましたが、これはすべてイエスさまが実際にその生涯で示してくださったことです。その時、敵とは私たちのことでした。神を否定し拒み敵対する私たちのために命を捨ててまで愛を示してくださったのです。愛の冷えた世に、憎しみの連鎖が止まらない世に、それでも「しかし」と流れを断ち切って、わたしとともに世界を変えようと招いておられます。御声に従い、主とともに歩みましょう。そのために聖霊を与えてくださいましたから。

5/16 「神の国の幸い」 ルカの福音書6章20~26節 小林泰輔師 

  •  主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、あなたの構想を捨てなさいということであり、当時、ユダヤ人には三つの構想がありました。①この世から離れて精神世界に逃げ込むこと(ex.クムラン教団)②この世と妥協すること(ex.ヘロデ党)③武力革命(ex.熱心党)しかし、主はそのどれでもない方法でイスラエルの統治を完成されます。それが良き知らせ、福音なのです。
     主の統治を受け入れるなら、すべてが新しくされ、何が幸いかという価値観も変えられます。貧しくても神がともにおられるなら平安があります。食物に飢えてもたましいには満たしがあります。今泣いていても主とともに笑う日が必ず来ます。クリスチャンであることを公言して疎まれても天において大きな報いがあります。しかし、私たちの人生構想はこうではありません。なるべく富をたくわえようと自分のことに躍起になります。実際、豊かな生活をしているので神を求めることをしなくなります。満腹になり、たましいの満たしを求めず、苦しみはなるべく避け、隣人の笑顔のために苦しみを請け負うこともなく、キリスト者であることを隠して世渡り上手になっていきます。人々の前で御父を知らないと言う私たちに、やがてのとき、御父もまた「あなたを知らない」と言われるでしょう。
     どんなに地上の暮らしを良くしようとしてもそれは砂上の楼閣です。主イエスの再臨とともに神の国がやって来る時には空しく崩れ去るものです。自分中心の人生構想を捨て、神の国の構想に生きることです。主イエスは世の終わりまでともにいてくださいます。神のみそばにいることこそが幸いです。御国の完成まで主とともに歩んでまいりましょう。

5/9 「今日御声を聞いたなら」 ヨハネの福音書5章12~19節 森田学師

  •  今、イエスは、38年もの間病気にかかっている人に目を留め、出会われます。イエスに「良くなりたいか。」と言われても、「主よ。…池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と自己弁護。歩けるのに諦めてしまう。誰かがしてくれないから治らない。私は悪くない。癒やされようともしない。38年間もです。他の病人たちも、憐れみの心は無く、彼を無視して泉に入ります。誰もが体の病だけではなく、霊的な病にかかっていたのです。
     そんな絶望と、無気力と、愛の無い虚しい人生が、たちまち変わる時が訪れます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」イエスの御声を聞いたなら、そのときが救いの時です。神様との出会いの時です。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」私たちも心が探られます。神様の真実なことばに、心が露わにされ、自分の弱さを初めて見ます。弱さを他人に擦り付け生きていたことが罪と気付き、今、自分の弱さに向き合うことができたのです。そして、罪を告白し、向きを変えて歩き出しました。
     迷うことなくイエスの言葉を受け容れるなら、私たちも同じ様に変えられるのです。十字架で命を差し出してまで愛してくださるイエスの御声を聞いて、迷わず従うその瞬間、聖霊が離れる決心も勇気も力も与え、私たちを創り変えます。私たちの思考、性格や人格、生き方さえも根底から変えることの出来るのは、人の名言でもなく、人の知識でもなく、ただ、神の御声だけです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
     彼にこんな長い間、悪習慣があったということに関心がいきがちですが、イエスにとっては、罪からの解放、救いは一瞬です。時を創られた神は、時間には囚われないからです。私たちは、過去の自分にいつまでも囚われていても何も生み出されません。今この瞬間が大事なのであり、今がイエスの御声を聴くときです。

5/2 「12人の使徒たち」 ルカの福音書6章12~19節 小林泰輔師

  •  12使徒が選ばれるところですが、その前にはイエスさまの祈りの姿がありました。山に行き、祈りのうちに夜を明かされたほど熱心に祈りに打ち込まれました。御父は天地創造の七日目に休まれましたが、その後は「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)方として天地を治めていてくださいます。御子は地上においては肉体を持たれ、疲れ、眠ることもありましたが、昇天されてからは永遠の大祭司として今も私たちのためにとりなしていてくださいます。御霊は私たちのためにうめき、とりなしていてくださいます。三位一体の神の祈りに支えられて私たちは在るのです。
     選ばれた12人の使徒たちは出自も性格も能力もみなバラバラでした。しかし、ふさわしい能力ややる気に満ち溢れる態度によって選ばれたのではありませんでした。まず神による選びがあったのです。そして彼らがその使命を全うすることができるためにも主イエスは祈っていてくださったのではないでしょうか。
     マルコの福音書では、使徒たちは選ばれてから二人組ですぐに伝道に遣わされています。使徒の名前の登場順がペアを表しているとすれば、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネのような兄弟組、ピリポとバルトロマイの先輩後輩(?)組、すぐに従った取税人マタイと慎重なトマス、年若く控えめな(?)小ヤコブの相棒は熱心党員シモン、イスカリオテのユダと、じゃない方のユダなど、面白い組み合わせに思えます。
     私たちも主に選ばれた弟子たちです。それぞれユニークな賜物を与えられていますが、互いに欠けを補い合いながら主の御用に用いられ励んでいきます。主はご自身が選んだ者のために祈っていてくださいます。祈りに支えられ遣わされていきます。

4/25 「安息日に働かれる主」 ルカの福音書6章1~11節 小林泰輔師

  •  昨今は自粛警察、マスク警察などが登場しましたが、本日の聖書箇所には「安息日警察」とも言える人たちが登場します。パリサイ人たちです。安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べてしまいます。他人の畑から少し頂くことは許されていました。しかし安息日に穂を摘むというのは収穫にあたり、手で揉んで食べるという脱穀にあたるという安息日の戒律違反だったのです。
     いわば法律論で責め立てるパリサイ人に対して、イエスさまは判例のように過去の事例を持ち出して反論しました。ダビデの時代に祭司しか食べてはいけないパンを食べたということでしたが、それについて神は何も咎めていないのです。裁いて罰することもできましたが、神はあわれみを優先なさったのです。「…あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジ33:19)ことは神さまの特権です。
     イエスさまは「人の子は安息日の主です」(5節)と言われました。安息日に何をして何をしないかを決めるのも神の特権です。安息日は人々の安息のための神のあわれみが本質にありますから、安息日に麦を摘むことも、この後の右手の萎えた人を癒すことも、神のあわれみにかなったことでした。神は天地創造の七日目には休みまれましたが、その後は眠ることもまどろむこともなく地を治め続けておられるのです。
     七日目に天地創造のわざを休まれた神に倣って私たちも休みを取ります。私たちは罪の性質を持っているので簡単に神の恵みを忘れてしまいます。ですから、七日ごとの休みに礼拝をささげ。神に感謝と賛美をささげる必要があります。主イエスに倣って安息日に愛し、助け、神のあわれみを表すわざを積極的に行ってまいりましょう。

4/18 「新しいぶどう酒と皮袋」 ルカの福音書5章33~39節 小林泰輔師

  •  イエスさまはこの箇所で、新しいいのちによって、新しい生活様式に変わっていくことを語ってくださいました。この話をしてくださった背景には「祝宴」の風景があります。取税人レビが救われたその祝いの席でのことでした。豪勢な食事を楽しんでいるとパリサイ人がクレームをつけてきました。なぜ罪人と食卓をともにし、なぜ断食をしないのかと。そこでイエスさまはユーモアあふれる譬えを話されました。
     「披露宴で何も食べずに悲しむ人」せっかくのごちそうが、祝いの席が台無しですね。イエスさまは花婿、教会は花嫁です。花婿と一緒にいられる時は心から喜び楽しむのです。やがて花婿が取り去られる時が来るとも言われました。これは十字架の死のことです。その時にはイエスさまを十字架にかけた自分の罪を悔い改めます。
     「おニューの服で古着を繕う」一張羅が台無しです。私たちはイエスさまで型取りをした新しい衣を着せられています(エペソ4:23-25)。救われて新しくされた者にはイエスさまの生き方が一番似合うのです。新しくされた者が、古い生き方(律法主義的自己義認や罪)に戻るなら愚かなことです。
     「皮袋は新しく、ワインは古い方が良い」古い皮袋は伸縮性がなく、新しいぶどう酒を入れると醗酵により皮袋を裂いてしまいます。袋もワインも台無し。新しいぶどう酒とは、イエスさまのくださるいのち、そして聖霊の満たし。それらが注がれるなら、新しい皮袋(新しい生活様式)が必要になります。心を柔らかくし御霊に聴き従うなら、私たちは香りの良いぶどう酒のように熟成されていくでしょう。それを人々に分け与えるために私たちは召されました。熟成されたキリストの良い香りを放り、世の人々をキリストのもとに導きましょう。

4/11 「信頼」 ヨハネの福音書4章43~54節 森田学師

  •  王室の役人は、50節と53節でなぜ二度も信じたのでしょう?一度目は偽りで、二度目で信じ直したのでしょうか?いいえ、ちがいます。不器用ながらも、もうイエスを信じるしかない、そして、神のことばが実現し神を体験したときに、初めの信仰が、神への深い信頼へと成長したのです。
     聖霊によって心の中に生まれたイエス・キリストを“信じます”という告白。それでも迷いやすく、疑いやすい私たち。だからこそ、神は私たちの意志を試すのです。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』イエス様のことばは心を探られます。しかし真実の愛ゆえに、魂に平安を与えます。イエス以外に信頼し、期待し、傷付き裏切られ絶望する人生から解放する、完全な救いをもたらします。
     イエスがなされた第二のしるしによって、イエスは奇跡を行なうだけではない、空間を超越し支配するまことの神であり、このお方の御手の届かないところは、この世界にはどこにも無い、命さえ支配されていると知るのです。
     神が私たちに望まれていることは、救い主イエスを信じ、めでたしめでたし、終わり。ではなく、神ご自身を体験することです。神を体験するとき、イエスのことばに生きることこそが絶対に間違いのない道。もうこのお方無しには、自分の人生は成り立たない、ということに気付かされていくのです。すべては、神の栄光がほめたたえるためです。ですから、神を体験して知っていくことは私たちの霊的財産です。
     もっとわたしを知ってほしい、もっと私を見つめて信頼してほしい、と神はあなたの告白を待っています。私たちは今どこに信頼を置いているでしょうか。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』

4/4 「堅く立ち、主のわざに励む」 Ⅰコリント15章57、58節 小林泰輔師 

  •  「堅く立ち」とは何の上に立つのか。それは主イエスがよみがえられたという事実の上に堅く立つのです。
     その朝、マリヤたちが墓に行くと、そこにイエスさまのからだはなく、空の墓がありました。御使いはその空の墓を見よと指し示しました。墓の中には普通「死」という動かしようのない事実があります。しかし空の墓には「死」がありません。「死は勝利に吞み込まれた」(Ⅰコリ15:54)のです。
     人々は死について、あまりにも無頓着で曖昧な考えしか持っていません。死んだら霊魂となって“あの世”に行き、残してきた家族を見守るだとか、根拠のない空想を頼りにしています。しかし、聖書にははっきりと「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(マルコ16:16)と書いてあります。信じない者は滅びるしかないというのが動かしようのない事実です。しかし、信じる者は救われるのです。その根拠がイエス・キリストの復活です。
     イエス・キリストは私たちの罪を身代わりに背負い、十字架に死なれました。私たちに罪があるままでは神の御前に立つことができないので、私たちの罪咎を十字架において消し去ってくださったのです。それでももしイエスがよみがえらなかったのならば、イエスの十字架による贖いというのも単なる空想に過ぎないことになってしまいます(Ⅰコリ15:17-19)。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同20節)
     復活には、私たちの罪が赦されたことを確証させるものであり、また、私たちも主イエスのような栄光のからだによみがえるという希望を持たせるものです。この確かな事実である主イエスの復活の上に堅く立ち、主のわざに満たされて参りましょう。
このエントリーをはてなブックマークに追加