4/27 「復活の主とトマス」 ヨハネの福音書20章19-31節 小林泰輔師
- イエスがよみがえられた日の夕方のことです。弟子たちはマグダラのマリアから復活の主のことを聞かされていながら、まだ恐れの中に閉じこもっていました。扉には固く鍵をかけ、イエスの十字架刑の余波からくるユダヤ人たちからの迫害を恐れていました。
そんな中、イエスさまは来られ、彼らの真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように(シャローム)」と言われたのです。扉をノックすることもなく、鍵を開けてもらうこともなく、目の前に現れたのです。弟子たちは主を見て喜びました。確かに手と脇腹には傷跡がありました。十字架の出来事や、復活したという知らせや、この三日間の目まぐるしい出来事が夢か幻かのように思われたかもしれませんが、確かな事実だったのです。
主は私たちの罪を背負われて十字架にかけられました。そのために私たちの罪の責苦もまた死んだものとなりました。そして主は私たちのためによみがえられました。そのために私たちの罪が確かに赦されたことを知ったのです。これは歴史上に起きた確かな出来事でした。
ところが弟子の一人のトマスはその時、その場にいませんでした。彼が帰ると他の弟子たちは興奮気味に「私たちは主を見た」と言いました。トマスはどう思ったのでしょうか。その事実を疑ったのか、私も見たかったと悔しがったのか、「私は、その手の釘の跡を見なければ(中略)決して信じません」という反応でした。翌週、同じような状況でまた主は現れてくださいました。トマスのためにです。感激したトマスは「私の主、私の神よ」とイエスに対して信仰を告白しました。主イエスは「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。
私たちは、見たことはないけれども主をイエスと信じています。聖書のなかに記され、私たちの心の中に来られたイエスさまを信じています。その私たちに主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。福音の生けるあかし人として歩みましょう。
4/20 「新しい命の転換点」 ローマ人への手紙6章1-11節 小林泰輔師
- 復活節おめでとうございます。春は新しい命の芽吹きの季節であり、イースターエッグも命の象徴です。キリストの復活は、新しい命と新しい人生への転換点を示しています。私たちはイエスの十字架と復活によってすでに救われ、神のご計画において救いは達成されました。
これは過去形の出来事であると同時に、今も私たちは救われ続けており、将来の完成に向かって進んでいます。救いには「義認」「聖化」「栄化」という段階があります。義認は罪の赦しと神の子とされること、聖化は日々キリストに似た者へと変えられる過程です。
福音を伝えるには、「神・罪・救い」の三つを基本に、自分の体験や証しを交えるとよいでしょう。それはその人にしか語れない、特別な伝道になります。復活は救いの確証であり、十字架の贖いが有効である証です。私たちはキリストとともに死に、ともに生きる者とされました。聖化は、罪の力から解放され、罪を犯さずに歩む自由を得ることです。それはらせん階段のように少しずつ進む成長であり、自分では気づきにくいものですが、交わりの中で互いに励まされながら育まれます。
私たちはまだ罪の性質を持つ存在ですが、日々神に向き直り、キリストと共に歩む中で、神に対して生きる者へと変えられていきます。この人生の旅は、やがて主の再臨とともに完成されるのです。今を生きる私たちは、神に向き合いながら、「新しい命の転換点」を通って、救いの完成へと導かれているのです。救い主の御名をともに賛美しましょう。
4/13 「涙と笑いの交差点で」 詩篇62篇1-12節 エミリー・チョウ師
- 詩篇126篇に記された「主は私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ」という告白は、信仰者にとって過去の恵みを思い起こし、現在を支え、未来への希望をもたらす中心の言葉です。この詩篇が描くのは、涙と笑いが交差する人生の現場において、主の御業を見出す信仰の姿です。
「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」と語られているように、神は私たちの悲しみを見過ごされず、それらを豊かな実りへと変えてくださる方です。ネゲブの乾いた地に命の水が注がれるように、主の恵みは乾いた心にも注がれ、回復と喜びをもたらします。
喜びは感情の高まりではなく、主がなしてくださった事実に基づいた信仰の応答です。それは表面的な笑顔ではなく、涙の現実を知った上でなお「主は大いなることをなさった」と告白できる確かな喜びです。
私たちもまた、涙と笑いの交差点に立ちながら、主の変わらぬ御業を信じ、今日も希望をもって歩み出していきたいと願います。
4/6 「歩くキリストの手紙」 コリント人への手紙第二 3章2-3節 小林泰輔師
- 今年度標語は「福音の生けるあかし人」です。今も昔も教会に足りていなかったのは、福音に生き、生かされているあかし人ではないでしょうか。大そうな伝道集会やプログラムやメソッドなどより、もっと身近で効果的なのは一人一人のキリスト者のあかしです。順境にあっては神に感謝と賛美をささげ、逆境にあっても神に信頼し祈る、そうして喜びをもって生きている一人の人がいるだけで、神さまは大きな栄光をお受けになります。
パウロ(当時はサウロ)は、元々はキリスト者を迫害する者でした。しかし、復活のイエスさまにお出会いし、イエスはキリストであるとあかしする者に全く変えられました。多くの人たち、おもに異邦人たちに宣教し、たくさんの教会を建てあげた使徒でした。しかし、十二使徒のようにイエスさま御在世当時からの弟子ではないこともあってか、パウロの使徒性を認めようとしない者もおりました。パウロがキリストの使徒であることを証明するのは、コリントやその他の教会の信徒たちであると、ここでパウロは言うのです。自分の功績を誇る推薦状など不要(1節)としながらも、推薦状があるとしたらそれはあなたがたですと言いました。パウロ自身も含めた「私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれてい」る“歩くキリストの手紙”それはあなたがた一人一人のことだと言いました(2節)。昔、旧約時代は石の板に書かれたみことば(十戒や律法)が外側から人を真理に導きましたが、今やエレミヤ書の“新しい契約”(エレ31:31-34)の通りに人の心の板に書き記されて内側からその人を導き、日々新しく造り変えられていくのです。それは内住のキリスト、御霊によるみわざです。私たちの心がけや努力によるところではなく、キリストの御霊によって新しくされるとき、内から言葉に尽くせない喜びが溢れ出てくるものです。そのさまを見て人々は神を仰ぎ見るようになります。委ねて聖霊を待ち望みましょう。