6/15 「神さまへのささげもの」 小林泰輔師
レビ記の捧げ物に関する規定は、一見すると現代の私たちには関係ないように思えるかもしれません。律法を「祭儀律法」「道徳律法」「司法律法」の三つに大別する解釈があります(厳密には重なり合う部分も)。祭儀律法、特に動物のいけにえの規定は、イエス・キリストが私たちすべての罪のための「子羊」として自らを犠牲にされたことで完全に成就しました。これにより、私たちは罪を犯すたびに動物のいけにえをささげる必要がなくなりました。道徳律法は神の性質を反映し、きよい生き方を教えるもので、イエスさまによってその本質が示され、深化しました。ゆえに現代も私たちに適用されます。司法律法は当時のイスラエル社会の法律ですから、そのまま守ることはありませんが、その根底にあるものは、変わらない愛の原則として今も重要です。 レビ記1〜7章に示される五種類のささげもの(全焼のいけにえ、穀物のささげもの、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のいけにえ)は、大きく「感謝」と「謝罪」に分けられます。全焼のいけにえは「なだめの香り」として、神との根本的な断絶がある人間が、神との交わりを始めるための感謝のしるしでした。和解のいけにえは、神との和解と、共に食卓を囲む喜びと感謝を表しました。罪のいけにえは「意図しない過失」、罪過のいけにえは「故意の罪」に対して、神の赦しと贖いを求めるものでした。 新約聖書では、これらすべてが、イエス・キリストのただ一度きりの十字架の犠牲によって完全に果たされたと教えられています。ここから学ぶべきことは、まず、私たちには自身の罪ゆえに神との間に溝があり、埋める必要があるということです。イエスさまが私たちの罪の代価をその命をもって支払ってくださったおかげで、溝を埋め、恐れることなく大胆に神の御前に進み出ることができる者としてくださったのです。そしてイエスさまの復活は、私たちの罪も罪過も確実に消し去られたことの証しです。 また、このレビ記の学びを通して、私たちはキリストがご自身を犠牲にされた模範に倣うことを教えられます。神がささげものの規定を与えたのは、民の罪を赦し、再び親しい交わりを回復したいと、神が願われたということです。私たちも神が招いておられる愛の食卓へと隣人を導くために、献身の歩みを続けましょう。
6/8 「それでも主は導かれる」 ルカの福音書5章1〜11節 岸本大樹師
信仰の始まりは各人それぞれです。大きな試練の中で教会へ導かれ、劇的な回心をされた方がいらっしゃれば、母親のお腹の中にいるときから教会へ通い、何の疑いもなく信仰を持った方もいらっしゃいます。では、ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の漁師であったシモンはどうだったのでしょうか。 イエス様が「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃったとき、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」とシモンは答えました。「でも、おことばですので…」という言葉をもって、シモンの信仰生活が始まりました。 「はい、わかりました」という素直な応答ではありません。シモンは、夜が明けてから漁に出かけるのはありえないと思ったことでしょうし、夜通し働いて収穫がなかったことから心身ともに疲れていたはずです。しかし、しゅうとめがイエス様に癒されたからでしょうか(ルカ4:38~39)、イエス様が語られたメッセージをすぐそばで聞いたからでしょうか(ルカ5:3)、シモンは「でも、おことばですので…」と言って、深みに漕ぎ出しました。このときのシモンは最初から積極的にイエス様を信じていたとは思われません。もしそうであるならば、大漁の奇跡を経験しても、驚くことがなかったはずだからです。 しかし、イエス様はそういうシモンを導かれました。大漁の奇跡を経験し、イエス様の足もとにひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言ったシモンであっても、イエス様は拒まれることなく、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」とおっしゃり、シモンをご自身の働きのために用いられました。 信仰の始まりは小さく、完璧ではなかったとしても、イエス様は私たちを導かれます。信仰生活の中で罪を示され、自分という存在が愚かで、惨めであったことを自覚しても、それでもイエス様は私たちを拒まれません。ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えるにあたり、そのことを御言葉によって再確認しましょう。
6/1 「神に召された者」 コリント人への手紙第一1章4〜9節 小林泰輔師
今日ここに集っているあなたがたは神に呼ばれた者です。Ⅰコリント1:4-9を見ていきます。まず初めに、先に主のみもとに召された父や母、祖父母や兄弟姉妹、友人、みな、あなたのことをおぼえて祈っていました(4節)。 しかし父や母に手を引かれて教会に行きながら、教会の説教や神学や信仰の実践のさまざまな点で、キリスト教を知的に理解しようとしたときにつまずいたことがあるかもしれません。けれども、信仰は「キリストにあって豊かな者とされ」ることから始まるのです(5節)。その父や母も、知識によってではなく、キリストとの個人的出会いによって変えられたのです。罪に死んでいた者の、霊が息を吹き返して生きる者となったのです。それから知識が与えられるのです。。その生き様に、あるいは死に様にはキリストの姿があったのではないでしょうか。「彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい」(ヘブル13:7)。あなたがキリスト者の家庭に生まれたことは、神からのプレゼントです。信仰は賜物だからです。クリスチャンの友人を通して信仰に導かれた方も、苦難や試練を通してキリストに出会った方も、それらはすべてキリストとともに食卓に着くために送られた神からの招待状です。 クリスチャンの生き方は倫理的に高い基準を歩もうとします。「ちゃんとしなさい」とよく叱られたでしょうか。親の務めとしてはどうしても厳しく言わなければならない。その陰で、父や母が涙ながらに自分こそが「ちゃんとできていない」ことを神に注ぎ出して祈る姿があるのです。自分で自分を救えない私たちを神は責めることはなさいません。なぜならば、すべての罪の責め苦はイエスが背負って十字架の上で死んでくださったからです。このイエスを信じる時に、私たちの罪の責めも死んだものとなり、最後まで保ってくださいます(8節)。 神は真実な方です。神は間違って選ぶことをなさいません。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです(9節)。
5/25 「旅に出たご主人」 マタイの福音書25章14〜30節 小林泰輔師
天の御国(神さまの統治)が、旅に出た主人としもべの関係でたとえられています。主人は神さま、しもべはすべての人間を指します。神さまは一人一人にタラント(賜物)を与えてくださいました。丈夫な体、器用な手、速く走れる足、話す力、人を励ます才能、柔和な笑顔。目に見える能力だけでなく、困難の経験や弱さも含まれ、神さまはそれらをも用いることがおできになります。神さまは良い方で、恵みを与えようと私たちを追いかける方です。 例え話では、主人は三人の人に五タラント、二タラント、一タラントを預けて旅に出かけました。主人の不在の間、二人は預かったものを用いて増やすことができました。主人が帰ってくると、この二人は儲けを報告し、ご主人は「よくやった、良い忠実なしもべだ」と褒めました。しかし、一タラント預かったしもべは、失敗を恐れて地面に穴を掘ってタラントを隠しました。そのことによって、彼が主人を信頼していなかったことが明らかになりました。主人は彼の不信仰を責め、彼のタラントを取り上げ、五タラント預けられた人に与えました。この役立たずのしもべは外の暗闇に追い出されてしまいました。そこで泣いて歯ぎしりする、これは地獄に落とされることの慣用表現です。 主人は、儲けを出したかどうかという成果にこだわったのではありません。主人である神さまに信頼して、リスクを冒してでも天の御国のために、人々の幸せのためにそれを用いたかどうかを問うているのです。たとえ失敗したとしても、神さまのために良かれと思ってしたことならば、何かを失ったとしても、神さまにとっては「わずかなもの」を失ったに過ぎないので、責められることはありません。 この世は主人不在の家のようです。しかし、今も聖霊なる神は共にいて、私たちと旅路を共に歩み、信仰と賜物を用いるよう励ましてくださいますから、主と共に冒険しましょう。
5/18 「福音の生けるあかし人」 コリント人への手紙第二3章2-3節 小林泰輔師
2024年度の歩みを振り返ります。「霊的に健康な教会」を目指して歩みました。ヨハネの手紙第三2節にあるように、私たちのたましいや霊の健康、そして教会としても健全に歩むことを願ってきました。創立100周年を迎え新しい霊の息吹を求めてまいります。 昨年度はコロナ禍の終息とともに、教会活動に新しい息吹が吹き込まれたと感じています。「教会学校」の代わりに、礼拝を子どもも大人も一緒にささげられる内容にできるだけ工夫し、毎月一回ジョイフルアワーも始めました。子どもたちが教会にいることは、教会が成長している証しであり、主からの励ましです。 また、日・中合同礼拝が毎月ささげられ、今年度からは月二回になりました。国籍を超えてイエスの御名のもとに一致する、連帯できる恵みのときです。黙示録7章の諸国の民が集まる礼拝を先取りのような幸いだと感じています。 交わりの面では公的な会合が途絶えた面はありましたが、それでもイエスさまを求めて通い続けた青年が洗礼を受けたり、バイブルキャンプを通して恵みを受けた子どもたちが受洗したりと、教会に新しい命が生まれていることを感謝します。霊的に健康な教会においては、新しい命を生み出します。 これからの私たちの教会は、かつての100人教会のような働きは不相応でしょう。今は小さな教会の部類に入り始めていますが、小さいことが生かされることもあります。ギデオンは大軍を相手に300人まで絞られました。それは小さな者を神が用いて大きなことを成すときに、神の栄光が最大限にあがめられるからです。 小さな教会には大きなチャレンジである伝道師招聘にも踏み出して参ります。みたまキリスト教会との協力体制も築きながら、常に主にフォーカスして、大きなことをなされるお方に信頼して新年度も、生きたキリストの手紙として、福音のあかし人として歩んで参ります。
5/11 「神の愛と赦しの体験」 コリント人への手紙第一2章14節〜3章3節 藤井聡美姉
人は良い人になろうと努力します。良い行いをすることで、悪い行いの埋め合わせをしようとします。しかし、人間的な努力では、決して罪を洗い流すことはできません。罪は人間の本質の1つだからです。罪の性質をもつ、私たち人間には神様からの超自然的なきよめが唯一の希望です。しかし、神の子どもとして生きるということは、罪の問題がなくなるということではありません。イエス様と親しく歩むことで、かえって罪の問題に敏感になります。 Ⅰコリント2:14~3:3には、神様の視点から見た、人間の3つの霊的状態が描かれています。一つ目は「生まれながらの人」、二つ目は「御霊に属する人」、三つ目は「肉に属する人」です。いつも御霊に属する人でいたいと思っていても、知らず知らずのうちに肉に属する人として歩んでしまっていることがあります。皆さんは今、この3つの中の、どの人の状態にいるでしょうか。 では、今、自分が「肉に属している人」だと気づいた場合、どうしたらよいでしょうか?「霊的呼吸」という概念で説明します。霊的に吐き出すとは、「罪を告白する」ということです。(Ⅰヨハネ1:9)告白するとは「同意する」「認める」ということです。神様が気づかせてくださった罪に同意します。そして、自分の罪を神様に伝えます。 霊的に「息を吐き出す」とき、霊的に「吸い込み」ます。霊的に息を吸い込むとは、「聖霊の満たし」のことで、肉に属する状態から、御霊に属する状態へと変えられます。簡単に言うと聖霊で満たしてくださるように祈るということです。 神様の赦しは完全です。信仰によって、神の愛と赦しを受け取りましょう。それにより、私たちはサタンの攻撃から守られます。御霊に属するクリスチャン生活は、そこから始まるのです。
5/4 「美しく変えられる」 ヨハネの福音書16章28-33節 小林泰輔師
「神の力強い手の下にへりくだりなさい。神はちょうど良い時にあなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6,7)「神の力強い手」という言葉が示すように、私たちの人生におけるあらゆる不安や心配事を、神さまの御手の中に委ねることができます。神さまは私たち一人ひとりを深く愛し、心配してくださっています。私たちが自分の人生を神さまの御手に委ねるならば、私たち自身で行うよりも遥かに美しく仕上げてくださるのです。「ちょうど良い時(in his time)」に神さまが最善を行ってくださる、そのタイミングは完璧です。 「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)ここでの「すべてのこと」とは、人生で起こる困難なこと、不安なこと、悲しい出来事、何かを失う喪失体験など、良いことも悪いことも全てを含みます。これら人生のあらゆる出来事が、神のタイミングと御手の中で、私たちにとって、そして神さまにとっての「益」へと変えられるという約束です。それはすぐに起こるかもしれないし、長い時間がかかるかもしれないですが、神は最善のタイミングを知っておられるので、最も美しくベストな形でその変化は訪れるのです。「すべてのこと」とは、単に時間だけでなく、協力者や環境(良かれ悪しかれ)、そして必要なものすべてが神さまに用いられることを意味し、天地を創造し支配する神さまが自由自在にこれらを働かせることができるからこそ、それは可能なのです。 「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言われました。イエスさまは、この世に苦難や悩み、不安、心配事が必ず存在することを率直に認めつつも、ご自身がすでに世に勝ったことで、私たちに平安を与えることができると約束されているのです。人間が支配する世界が続く限り心配事は絶えないかもしれませんが、イエスさまが共にいてくださるならば、困難や嵐の中でも私たちは平安でいられるのです。不安や弱さを持ったまま、ありのままの自分で神の御前に出て、全てを神さまに委ねることです。そうすれば、神さまが私たちの人生のすべて(不安、弱さ、困難、悲しみ、喜び、日常の何でもないこと)を、その素晴らしいタイミングと方法で、私たちにとって美しく、益となるように必ず変えてくださるという希望が与えられています。
4/27 「復活の主とトマス」 ヨハネの福音書20章19-31節 小林泰輔師
イエスがよみがえられた日の夕方のことです。弟子たちはマグダラのマリアから復活の主のことを聞かされていながら、まだ恐れの中に閉じこもっていました。扉には固く鍵をかけ、イエスの十字架刑の余波からくるユダヤ人たちからの迫害を恐れていました。 そんな中、イエスさまは来られ、彼らの真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように(シャローム)」と言われたのです。扉をノックすることもなく、鍵を開けてもらうこともなく、目の前に現れたのです。弟子たちは主を見て喜びました。確かに手と脇腹には傷跡がありました。十字架の出来事や、復活したという知らせや、この三日間の目まぐるしい出来事が夢か幻かのように思われたかもしれませんが、確かな事実だったのです。 主は私たちの罪を背負われて十字架にかけられました。そのために私たちの罪の責苦もまた死んだものとなりました。そして主は私たちのためによみがえられました。そのために私たちの罪が確かに赦されたことを知ったのです。これは歴史上に起きた確かな出来事でした。 ところが弟子の一人のトマスはその時、その場にいませんでした。彼が帰ると他の弟子たちは興奮気味に「私たちは主を見た」と言いました。トマスはどう思ったのでしょうか。その事実を疑ったのか、私も見たかったと悔しがったのか、「私は、その手の釘の跡を見なければ(中略)決して信じません」という反応でした。翌週、同じような状況でまた主は現れてくださいました。トマスのためにです。感激したトマスは「私の主、私の神よ」とイエスに対して信仰を告白しました。主イエスは「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。 私たちは、見たことはないけれども主をイエスと信じています。聖書のなかに記され、私たちの心の中に来られたイエスさまを信じています。その私たちに主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。福音の生けるあかし人として歩みましょう。
4/20 「新しい命の転換点」 ローマ人への手紙6章1-11節 小林泰輔師
復活節おめでとうございます。春は新しい命の芽吹きの季節であり、イースターエッグも命の象徴です。キリストの復活は、新しい命と新しい人生への転換点を示しています。私たちはイエスの十字架と復活によってすでに救われ、神のご計画において救いは達成されました。 これは過去形の出来事であると同時に、今も私たちは救われ続けており、将来の完成に向かって進んでいます。救いには「義認」「聖化」「栄化」という段階があります。義認は罪の赦しと神の子とされること、聖化は日々キリストに似た者へと変えられる過程です。 福音を伝えるには、「神・罪・救い」の三つを基本に、自分の体験や証しを交えるとよいでしょう。それはその人にしか語れない、特別な伝道になります。復活は救いの確証であり、十字架の贖いが有効である証です。私たちはキリストとともに死に、ともに生きる者とされました。聖化は、罪の力から解放され、罪を犯さずに歩む自由を得ることです。それはらせん階段のように少しずつ進む成長であり、自分では気づきにくいものですが、交わりの中で互いに励まされながら育まれます。 私たちはまだ罪の性質を持つ存在ですが、日々神に向き直り、キリストと共に歩む中で、神に対して生きる者へと変えられていきます。この人生の旅は、やがて主の再臨とともに完成されるのです。今を生きる私たちは、神に向き合いながら、「新しい命の転換点」を通って、救いの完成へと導かれているのです。救い主の御名をともに賛美しましょう。
4/13 「涙と笑いの交差点で」 詩篇62篇1-12節 エミリー・チョウ師
詩篇126篇に記された「主は私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ」という告白は、信仰者にとって過去の恵みを思い起こし、現在を支え、未来への希望をもたらす中心の言葉です。この詩篇が描くのは、涙と笑いが交差する人生の現場において、主の御業を見出す信仰の姿です。 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」と語られているように、神は私たちの悲しみを見過ごされず、それらを豊かな実りへと変えてくださる方です。ネゲブの乾いた地に命の水が注がれるように、主の恵みは乾いた心にも注がれ、回復と喜びをもたらします。 喜びは感情の高まりではなく、主がなしてくださった事実に基づいた信仰の応答です。それは表面的な笑顔ではなく、涙の現実を知った上でなお「主は大いなることをなさった」と告白できる確かな喜びです。 私たちもまた、涙と笑いの交差点に立ちながら、主の変わらぬ御業を信じ、今日も希望をもって歩み出していきたいと願います。
4/6 「歩くキリストの手紙」 コリント人への手紙第二 3章2-3節 小林泰輔師
今年度標語は「福音の生けるあかし人」です。今も昔も教会に足りていなかったのは、福音に生き、生かされているあかし人ではないでしょうか。大そうな伝道集会やプログラムやメソッドなどより、もっと身近で効果的なのは一人一人のキリスト者のあかしです。順境にあっては神に感謝と賛美をささげ、逆境にあっても神に信頼し祈る、そうして喜びをもって生きている一人の人がいるだけで、神さまは大きな栄光をお受けになります。 パウロ(当時はサウロ)は、元々はキリスト者を迫害する者でした。しかし、復活のイエスさまにお出会いし、イエスはキリストであるとあかしする者に全く変えられました。多くの人たち、おもに異邦人たちに宣教し、たくさんの教会を建てあげた使徒でした。しかし、十二使徒のようにイエスさま御在世当時からの弟子ではないこともあってか、パウロの使徒性を認めようとしない者もおりました。パウロがキリストの使徒であることを証明するのは、コリントやその他の教会の信徒たちであると、ここでパウロは言うのです。自分の功績を誇る推薦状など不要(1節)としながらも、推薦状があるとしたらそれはあなたがたですと言いました。パウロ自身も含めた「私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれてい」る“歩くキリストの手紙”それはあなたがた一人一人のことだと言いました(2節)。昔、旧約時代は石の板に書かれたみことば(十戒や律法)が外側から人を真理に導きましたが、今やエレミヤ書の“新しい契約”(エレ31:31-34)の通りに人の心の板に書き記されて内側からその人を導き、日々新しく造り変えられていくのです。それは内住のキリスト、御霊によるみわざです。私たちの心がけや努力によるところではなく、キリストの御霊によって新しくされるとき、内から言葉に尽くせない喜びが溢れ出てくるものです。そのさまを見て人々は神を仰ぎ見るようになります。委ねて聖霊を待ち望みましょう。