説教要旨

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  • 2024年度

5/12 「神の豊かな恵み」 ルカの福音書7章36〜50節 藤井聡美姉 

  •  クリスチャン生活を送っていると、「恵み」という言葉はたくさん出てくると思います。よく使われる言葉ですが、皆さんは「恵み」についてどれくらい理解しているでしょうか。恵みという言葉は聖書の中に160回以上出てくるのですが、そのうち128回は新約聖書に出てきます。イエス様にある神の恵みは新約聖書の中心テーマです。恵みとは、それを受けるにふさわしくない対象に対して示された「愛」です。
     神の恵みは、神様のひとり子であるイエス様が、罪人である私たちの身代わりに死んでくださったところに表されています。また、神の子とされた私たちがイエス様の流された血によって、絶えず神様に受け入れられているところにも表されています。神の恵みは、私たちの人生に深い喜びと満足感をもたらす揺るがない希望です。そのため、神の恵みを理解し、体験し、日々自分の生活の中で適用していくことは、すべてのクリスチャンにとってとても重要なことです。今回は「神の恵み」について3つのポイントで学んでいきたいと思います。
     1つ目のポイントは、「私たちは神の恵みを救いの瞬間に体験している」。2つ目のポイントは、「私たちは神の恵みを日々の生活の中で体験できる」。3つ目のポイントは、「神の恵みを自分の人生に適用する」。
     皆さんにとって、神の恵みを十分に理解していないように思う領域はどこでしょうか。自分自身を見る目でしょうか、神と人に仕える動機でしょうか、または人間関係でしょうか。そして、それに対して具体的にどのようなことが思い浮かぶでしょうか。次に、そのことに関して、神様はどのように教えているのか、御言葉を読んで考えてみましょう。そして、心に浮かぶそれに反するささやきは何か考えてみてください。最後に、神様の真理を信じた自分の態度と行動はどうあるべきか、考えてみましょう。
     日々様々な悩みや試練がありますが、毎日神様は私たちに豊かな恵みを注いでくださっています。何よりも、救いはとても大きな恵みです。その恵みに感謝しつつ、主と共に歩んでいきましょう。

5/5 「死からいのちへ」 ヨハネの福音書5章24節 小林泰輔師 

  •  日本では死の話題はタブーとされています。中世ヨーロッパの流行語には「メメントモリ(死を覚えよ)」というものがありました。人はいつ死ぬかわからないのだから、今のいのちを最善を尽くして生きよというメッセージが込められています。
     “人は死んだらそれでおしまい”と考える人もいますが、はたして本当にそうでしょうか。聖書はそうではないと言っています。それは本日の聖書箇所で「永遠のいのち」という言葉に端的に表されています。
     人は皆一度は死ぬ者ですが(ヘブル9:27)、その後の行き先については「永遠のいのち」か「第二の死(永遠の滅び)」かに分かれるのです。
    イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた者は新しく生まれた者です。「二度生まれた者は一度だけ死に、一度しか生まれなかった者は二度死ぬ」のです。この第二の死は永遠に神の前から断たれることです。
     しかし、主イエスは私たちが滅びることがないように、永遠のいのちへの道を用意して下さいました。主イエスは十字架の上で私たちの罪を滅ぼし、復活によって死の力を滅ぼして下さったのです。
     ですから、私たちはもはや死の力を恐れることはありません。「死の恐怖の奴隷」(ヘブ2:15)ではなく「死からいのちに移っているのです」(ヨハ5:24)

4/28 「おろかな金持ち」 ルカの福音書12章13〜21節 小林泰輔師 

  •  ある人が遺産相続のトラブルでイエスさまの元に相談に来ました。ユダヤのラビはこのようなことをさばくことも仕事のうちでした。イエスさまはその機会を捉えて、その人にも周りの人々にも、貪欲に気をつけるべきだと教えるためのたとえ話をされました。
     ある金持ちの畑が豊作であったのですが、その人は喜びや感謝よりも、保存の心配をしました。そして自分の蔵を拡張して溜め込むことにしました。それでこの先何年も食べて飲むことができると喜んだところで、神さまの声がありました。愚か者、お前のいのちは今夜取り去られるのだと。
     それから自分のために富を溜め込むのではなく、神に対して富むものとなりなさいと教えられました。神さまが与えてくださった賜物や祝福は自分だけのものにするのではなく、むしろ大胆に用いていくのなのです。それは、神さまに富を預けるようなものであって、大きな霊的祝福が利子となって返ってくるのです。金持ちが言ったことばは、そのまま神さまとの幸いな関係に置き換えられます。「自分のたましいにこう言おう。わがたましいよ、これまで何年も神さまは私にとって良いお方でいてくださり、これから先何年もとこしえまでも、たくさんの愛がためられた。さあ休め。主の御前で食べて、飲んで、楽しめ。」
     イエスさまは、その人の宝のあるところにその人の心もありますとも言われました。私の宝がどこにあるかを考える前に、神の宝はどこにあるでしょうか。神の宝、それは神の民のことです。わたしの目にあなたは高価で尊いと言って、いのちに代えてでも手に入れたい宝だと、御子イエスを犠牲にしてまでも私をご自分のものにしてくださったのです。ハレルヤ!

4/21 「竜と二匹の獣」 ヨハネの黙示録13章1〜18節 小林泰輔師 

  •  聖書は信仰の書物ですが、信じてはいけないものについても厳しく警告します。それはサタンとその手下たちのことです。神は目に見ることはできませんが、悪魔も同じです。見極める信仰の眼と、声を聞き分ける耳が必要です。
     13章には竜と二匹の獣が出てきます。象徴であり、竜はサタンのこと、二匹の獣はそれぞれ反キリストと偽預言者のことです。獣と書かれてあってもそれは人間のことです。海から上がってくる獣(反キリスト)はキリスト教徒に戦いを挑む王たち(王権、王国)のことです。サタンからその権威が授けられ、一時的に活動し、聖徒たちに勝つことが許されました。死んだように見えますが蘇生します。そのようなことから復活したキリストのように人々から拝まれるようになります。けれどもその本質は獰猛な獣に例えられる暴力的で神を冒涜する者です。地から上がってくる獣は、預言者が神の言葉を語るように、竜の語る言葉を語り告げます。そして先の反キリストを崇拝するように人々を惑わします。天から火を降らすなどの奇跡も行います。その名を数字で表すと「666」ですが、これは人間を表すと書いてあります。
     世の終わりが近づくとこのような者が現れます。荒らす忌むべき者とか不法の子などとも呼ばれます。歴史上いつの時代にもそのような人物はさまざま存在しました。今も反キリストの力は働いています。私たちには、上からの知恵(ヤコブ3:17-18)、まことの羊飼いの声を聞き分ける耳が必要です。獣の暴力性に気づき、悪に対して悪で報いるようなことはせず、イエスさまに似た者として敵のために祈る、イエスさまの説いた神の愛に生き、みことばを聞き分け従って参りましょう。

4/14 「新しく創造された者」 第二コリント5章14〜21節 エミリー・チョウ宣教師 

  •  『キリストの愛が私たちを捕えている』
    パウロは、「キリストの愛が私たちを捕らえている」と表現しました。これは、私たちがキリストに深く愛され、その愛に導かれて行動することを意味します。キリストの愛によって私たちは神の子となり、神を「アバ」と呼ぶ関係を持つようになります。この愛は、私たちを行動に駆り立て、愛に応えたいという気持ちを引き出します。キリストの愛に応えることは、時には自己犠牲を伴いますが、その喜びは大きく、神への愛に対する応答として私たちを解放します。時に私たちは神を感じられないかもしれませんが、それでもキリストの中にあり、神の愛に素直になる必要があります。
     『新しく造られた者』
    パウロは、キリストの中にある者は新しく造られた者であると述べます。これは、キリストを信じることで新しい生命を得、古い自己から解放されることを意味します。パウロは自身の経験を通して、イエスとの出会いが自己変革をもたらしたことを語り、聖霊の働きがキリストを理解し、神を畏れ、敬うことを可能にすると主張します。
     『和解の務め』
    神によって新しく創造された私たちは、キリストの使節として神との和解のメッセージを他に伝える役割を果たします。キリストの十字架での働きによって、神と人類との関係が回復され、新しい関係が築かれることが強調されます。

4/7 「幸せはたましいの健康から」 ヨハネの手紙第三 2 節 小林泰輔師

  •  2024 年度の年間標語は「霊的に健康な教会」です。今年度で清和キリスト教会は100 周年を迎えますが、新しい時代には霊性も新しくされる必要があります。古くて改めるべきものは新しくし、古くても普遍的なものは守り通していく必要があります。霊性の形成ということにおいては、誤った理解や実践もあったのではないかとキリスト教会にも反省すべきものがあるかもしれません。福音の力の本性は、人を常に新しく生まれ変わらせることにあります。神のみことばの真理は変わらないけれども、私たちは変えられ続けなければなりません。新しい価値観のすべてが正しいわけではありませんが、古い価値観に固執して人々が教会の門をくぐる妨げになったことはないだろうかという反省も必要です。
     さて本題ですが、キリスト教とは、人を幸せにするためにあります。私たち教会は人類の幸福のためにこの地に存在しています。自分の幸せのためだけではなく、この町の、この国の幸せや健康のために祈ることが使命です。自分の周りの世界をケアすることが使命なのです。幸福のためには、まず、たましいの幸いが必要であると、みことばは言います。世間的な価値観は逆かもしれません。健康や経済や事業などの欲求が満たされてから、次に心やたましいと言った霊性を求めていくようなところがあるのではないかと思います。けれども真理は違います。たましいの健康が真っ先に大事です。
     人間は霊的存在です。創造のとき、土くれから作られた人間の形をしたものに、神が息(霊)を吹き込まれて、人は神の像(かたち)に似るように造られたのです。霊性とは、心とか魂とか意思とか理性とかを含みます。人間は霊的存在であることを人は忘れたかのように生きていますが、無自覚にそれを求めています。運命とか運勢とかを信じたくなるのも、人間関係に心を使うのも霊性に関するものです。
     「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか」(詩篇42 篇)と、たましいに語りかけていますが、心がたましいに語りかけているのです。自分の中のたましいの対話が必要です。霊は私たちの中核にある本質で、そこにキリストの御霊が入ることで、私たちは神のみこころを歩むことができます。たましいは私たちの存在を全体的(ホリスティック)に包み込むものです。そして私たちを取り巻く広大な領域に神の愛を注ぎ出すために存在しています。ですから、無意味に生かされているいのちなど一つもありません。私たちの全存在をもって、健康なたましいで健全に世に働きかけ、世界を救う神のご計画に参画していきましょう。
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