説教要旨

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  • 2022年度

9/25 「ソロモン王の生涯」 伝道者の書12章13節 小林泰輔師 

  • ① 知恵を求めたソロモン
     ソロモンはダビデの息子です。ダビデ王が亡くなる前に、ソロモンに言いました。「あなたの神、主への務めを守り…主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ」そうすればイスラエルの王座から人が絶たれることはないと神はダビデに約束しておられました。ある晩、主が夢に現れ、「あなたに何を与えようか。願え」と言われた時に、ソロモンは国を良く治めるために知恵と判断の心を願ったのです。そのことは主に喜ばれたので、ソロモンは誰よりも賢い王様になりました。
    ② 神殿を建てるソロモン
     ソロモンは国をとても栄えさせましたが、ダビデの時代から着々と蓄えられていた資材なども用いながら、主の神殿を建てました。父ダビデも神殿建設を願ったのですが、戦争で血を流しすぎたダビデにはふさわしくないとして叶わなかったのです。ソロモンの平和な治世において絢爛豪華な主の宮が建てられました。それは大いに主の栄光を証しするものとなりました。
    ③ ソロモンの罪
     輝かしい業績を残したソロモンでしたが、晩年には大きな罪を犯しました。治世の初期「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた」(3:3)とありますが、晩年は「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女…を愛した」(11:1)とあります。合計1000人にも及ぶ王妃と側女がおり、彼女たちが異国の神々を持ち込み、ソロモンの心も転じさせられたのです。それでも「ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった」(11:2)。主はソロモンに怒りを発せられ、二度も彼に現れて警告されたのに、それでも主の命令を守らなかったので、彼の息子の代でイスラエル王国は分裂することとなりました。
    ④ ソロモンは天国にいるのか?
     列王記にはさまざまな王が出てきます。生涯の初めはよかったけれど最後に罪を犯した者、その反対に悪王であったけれども最後に悔い改めた者。そのような王たちや、ソロモン王は天国にいるのだろうか、そんな風に考えてしまうこともありますが、誰が天国に行くかは神さまがお定めになることです。私たちには主イエスの十字架の贖いがあります。どんなに大きな罪でも赦していただけます。日々罪を悔い改めて主の道を歩んで参りましょう。

9/18 「あなたを目がけて来られた」 ルカの福音書19章1〜10節 小林泰輔師 

  •  母の胎内に形作られる前から私たちは神のまなざしの中にあります。不思議なことです(詩篇139:13-16、エペソ1:4-5)。先行する選びの恵みがあって、時至ってキリストとの出会いを人生の中で経験するのです。
     今日の箇所でキリストに出会い変えられた男の名はザアカイ。「正しい」という意味を持つ名前のこの人は、全く正しくない半生を歩んでいました。取税人として、人々から搾取し私腹を肥やしていたのです。しかし、彼自身も神の民イスラエルの端くれとしてそんな人生に納得はしていなかったでしょう。変われるものなら、変わりたいそんな思いがあったと思います。
     そこへ、ナザレのイエスがエリコの町にやってくるという話を聞きつけました。彼はイエスに会いたい一心で、人だかりに近づいて行きますが、背が低かったので姿が見えません。それで先に走って行き、前方から見ようとするけれども、それでも群衆のゆえに見えません。それならばと、大の大人がなりふり構わずイチヂク桑の木に木登りをしてようやくイエスさまの姿を目にすることができました。人々はちびたザアカイが木登りしていると嘲笑ったかもしれません。
     しかし、そんなザアカイをイエスさまは慈しみのまなざしで見つめられ、そして声をかけられました。第一声は「ザアカイ」でした。彼の名を呼んだのです。「正しい」という意味の彼の名を。まさに今、彼はもっとも正しいことをしていたのです。まことの神を求め、救い主イエスをまっすぐに信じ求めていくこと、それ以上に正しいことはありません。たとえそれまでの人生がどうであっても、今、彼は正しいのです。
     それからイエスさまは、「今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。もちろん予約のお電話などありません。でもその場の思いつきでもありません。この世の基の据えられるその前から、ザアカイはイエスさまに出会って救われることが定められていたのです。
     ザアカイはイエスさまに出会い、神の選びの愛を知り、心の底から変えられて悔い改めました。イエスさまはザアカイ一人のために、またあなた一人のために、あなたを目がけてこの地に来てくださいました。神は私たちを唯一無二のかけがえのない者として見つめてくださり、御子イエスのいのちを与えて救ってくださいました。神の招きの声に信仰をもって応えましょう。

9/11 「変わることのない神の願い」 Ⅰサムエル3章1〜10節 森田学師 

  •  ハンナの沈黙の祈りと感謝の祈りの中で生れ育まれるサムエルに、まれにしか語られていなかった主が語られます。それもサムエルが聞く準備が整うまで、何度も名前を呼んでくださるのです。神さまの働きかけを悟ったエリは、孫のようなサムエルが一人で、神さまの方へ向くことを励まします。9節「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」
     エリを慕うサムエルの姿はとても純粋で謙遜です。心に響く声があったとき、神さまからの声か分からなくても、勘違いだったとしても、恥じることなく信頼し相談できる人が近くにいることは、大きな助けです。エリもまた謙遜です。名誉欲や自己肯定感によって高ぶることなく、純粋に少年サムエルが神さまと親しく良い関係を持てますようにと、隣人の祝福を願う姿を教えられます。真の神、真理を求める人、イエスを知りたがる人、人生のどこかで私たちは相談を受けるときがあります。その時、私たちの存在が、神さまを求める妨げや遠ざける存在となりませんように。頼られる時その方が神さまと繋がり、神さまの祝福を受けられるように、祈り求めることこそ伝道の大切な一歩となると信じます。
     エリの家系へ語られた神さまのことばは、さばきの言葉でした。さばきには恐ろしいイメージがあります。しかし、神さまの言われるさばきとは、常に、永遠の救いと回復の希望、そして永遠の滅び、という二つの意味が含まれています。
     エゼキエル書(33:11)では『わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』と言われます。また、『神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。』(テモテ①2:4)
     昔も今も、まことの神さまへ向き直って(悔い改めて)生きることを、神ご自身が誰よりも願っておられます。正しくさばかれる神の願いを知り、私たちが神に愛されていること、神を愛していること、日々遣わされているところで、隠さず喜び歩ませていただきましょう。
     『私は あなたの義を心の中におおい隠さず あなたの真実とあなたの救いを言い表します。 私は あなたの恵みとあなたのまことを 大いなる会衆に隠しません。』詩篇40篇10節

9/4 「目を開けて」 ルカの福音書18章31〜43節 小林泰輔師 

  •  イエスさまがご自分の受難を予告されますが、十二弟子たちもイエスさまの言われたことを理解できなかったとあります。彼らの肉の目は開かれていたけれども、そこに映っていたのは政治的・軍事的なリーダーとしてのメシアの姿だったのかもしれません。それが死ぬなどということはにわかに受け入れ難いことかもしれません。
     そのような十二弟子とは対照的に次に盲人の目が開かれる話が挿入されます。共観福音書にはこの話があり、盲人は二人であったり、片方の名前がバルティマイであることなどを知ることができます。彼らには生計を立てる術がなく、物乞いをしていました。彼らは通りがかる人の気配を感じて、憐みを乞うたでしょう。そのために耳を澄ましていたのです。すると、空気が変わったのを感じたのではないでしょうか。イエスさまとその一行が近づいて来たのです。
     耳を澄まして福音の訪れを聞いた盲人は、次に口を大きく開けて叫び求めました。「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」(詩81:10)。開いた大きさに応じて満たされる分も大きくなります。主は彼の叫びに応えて、彼を呼び寄せ言われました。「わたしに何をしてほしいのですか。」実質、何でもしてあげようと言われているのと同じです。それで彼が「見えるようになることです」と答えると「見えるようになれ」と言われ、彼の目は開かれたのです。その目に初めて映ったのは、主イエスの麗しい御顔でした。なんと幸いな人でしょう。「主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」(詩34:5)。主を仰ぎ見ることなく、主の御前を去って行った富める青年との対比もここにあるのではないでしょうか。
     そしてイエスさまは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。信仰によって「癒された」のではなく、「救われた」のです。肉体の癒し以上のことが起きたのです。彼は目が開かれてものが見えるようになっただけではなく、神さまの愛がどれほど深いかを見て味わったのです。神の偉大な御力と栄光を見たのです。目が開かれる前に彼は、耳を澄まし、口を開けて、信仰をもって主を求めました。私たちも主を求め、そのすばらしさを味わい、見つめ、目を離さずに歩みましょう(詩34:4-10)。

8/28 「アキラとプリスキラ」 使徒の働き18章1~3、18〜28節 小林泰輔師

  •  アキラとプリスキラのお話しです。
     この夫妻はパウロの宣教を助けました。アキラはポントスの生まれでした。ペンテコステの出来事の時にポントス人もそこにいましたので、もしかして?と思いますが真相は分かりません。アキラは妻のプリスキラと一緒にローマに住んでいましたが、迫害を受けてコリントの町に逃れ住んでいました。そこにパウロたちがやって来たときに、夫妻はパウロを自分の家に住まわせて、コリント伝道に協力しました。そのおかげで、パウロは一年半も腰を据えて伝道することができました。パウロもアキラたちと同じ天幕職人でしたのでしばらく働きながら伝道しました。パウロにとっては心身ともに支えてくれる仲間でしたでしょう。伝道に必要なのはチームワークです。もちろん信仰をもって神を頼みとしますが、そうすると、神さまは人を与えて助けてくださるのです。
     コリントからシリアに向けてパウロが出発するときには、夫妻もついて行きました。短期宣教旅行ではありません。移住です。夫妻はエペソにとどまり、パウロは旅を続けました。エペソには、パウロとまた違ったタイプの伝道者アポロがやってきました。アポロはとても弁が立つ人で正確に聖書からイエスさまを証ししていました。それでもなお、足りないところがあったのか、知識の上でか人間性の上でか(ユダヤ人を論破しまくっていたようです)、アキラとプリスキラはアポロに助言してもっと正確にイエスさまのことを話して聞かせました。伝道者であろうと牧師であろうと信徒であろうと、皆変わらずに足りないところがあり、間違うこともあります。それを愛をもって指摘して励ましあうことはとても大事なことです。神さまの御名が汚されることを防ぎ、兄弟姉妹が愛し合うことを通して御名があがめられるようになります。
     そうして、アキラとプリスキラ夫妻は、自分の持てる力を十分に発揮して、自分らしく神さまに仕えました。パウロやアポロのように表舞台で大胆に語るような人ではありませんでしたが、パウロの伝道を物心両面で支え、アポロの信仰を正しく導き、自分のなすべきことをしたのです。私たちにもそれぞれにふさわしい役割が与えられています。自分でない誰かになる必要はありません。あなたらしく神さまに用いていただきましょう。

8/21 「宗教二世とニセ宗教」 ルカの福音書章18章18~27節 小林泰輔師 

  •  「宗教二世とニセ宗教」の問題が今、大きく取り沙汰されています。私たちが子供たちへ信仰を継承していくと、言わば宗教◯世になるわけですが、世間的には“宗教二世”とは新興カルト宗教を無理矢理教え込まれた子どもという理解はあるようです。私たちもそこに含まれるということは杞憂かもしれません。けれども、子どもたちの自由意志を尊重しながら、神さまの愛と救いを伝えていきたいものです。
     本日の登場人物“富める青年”は宗教◯世です。何百世代と続くユダヤ人です。律法を厳格に守ように育てられたようです。そして経済的に恵まれた家系に育ちました。彼に足りないものは「永遠の命の保証」だけに見えます。そうして、イエスさまの元にやってきて「良い先生、何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。
     しかし、主は「良い方は神おひとりのほか、だれもいません」と言われました。イエスはご自身を良い牧者であると言われましたから、イエスご自身が神であることを伏線を張るように迂遠的に述べたとも捉えられます。そしてそれは後に、十字架の贖いと復活と昇天によって証しされました。イエスは彼の目を自分自身から、神に向けさせたかったのでしょう。
     しかしまたイエスは彼の関心に沿って話を進められました。何をするべきかと言えば、十戒を守ることだと答えられたのです。宗教何百世でもある彼はそれは少年の頃から守ってきたという自負があります。けれどもイエスさまは彼に持ち物をすべて売り渡して貧しい人に分けなさいと言われます。彼にはそこまで徹底することはできませんでした。それで悲しんでイエスのもとを去っていきました。当時の価値観は、財産があるのは神の祝福の証であり善人の証でもありましたから、弟子たちは驚いて、彼が永遠のいのちを持てないのなら一体誰が救われるだろうかと言います。そこでイエスは「人にはできないことが神にはできるのです」と言われました。私たちには全財産を捨てることなどできません。またもはやそれをする必要もありません。イエスさまがすべてを捨てて私たちを贖ってくださったからです。私たちが売り払ったもので善行をしても、それで永遠のいのちを買うことはできないのです。ただ、イエスの贖いだけが私たちを救うことができるのです。神であるイエスにはそれができるのです。

8/14 「謙遜へと流れる神の恵み」 サムエル記第一2章1~10節 森田学師 

  •  誰からも理解されず…苦しみ黙って祈るハンナを、神さまは見捨てず、子を与えられます。そして今、その時よりも溢れる心で、ハンナは、神さまへ賛美の祈りを捧げます。ハンナの謙遜な心に、神の恵みが豊かに注がれ流れます。『主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。』ハンナは、祈りに応えられた神さまにこそ心を向けます。この謙遜の秘訣は、1章16節にあります。『このはしためを、よこしま(=無価値)な女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。』ハンナは、自分が弱く、価値の無い者だと知り、卑屈ではなく謙遜に、神さまにすがるほかないと心貧しくなっていたのです。
     私がこんなにお祈りしたから祈りがきかれた。私が、と思うことがあるでしょうか。ヤコブ書には『正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。』とあります。けれども、“祈りに応え大きな力で働く神さまがいるからこそ”を忘れるとき、私たちは自分の栄光を求めているのです。
     自分の祈りで何とかなるなら、神さまがいなくても同じで、神を無価値とみなす、自己中心です。まさに2章12節の『エリの息子たちはよこしま(=無価値)な者たちで、主を知らなかった。』とある、ホフニとピネハスの態度です。神の愛を無視し続け、弱さを認めようとせず、神と敵対し、常に自分たちが中心になっていたのです。それでは神から流れる恵みを受け損ねてしまいます。『「神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。』【ペテロ①5:5,6】水が高い所から低い所へ流れていくように、神さまの恵みは、ハンナの謙遜な心へ流れ、心から生まれる神賛美に、多くの人々が神を知り、栄光が神さまに帰っていきます。今もです。
     自分を誇る所には人々すら近づかず、サタンが不意打ちにやって来ます。しかし、イエスさまは、私たちの自分を誇る罪を、十字架の愛によって覆い隠し、聖霊さまが謙遜の心を養ってくださいます。私たちの祈りが凄いからではなく、祈りに応える神さまが凄いから、祈る意味があるのです。祈りが応えられたときこそ、神さまのなさったみわざを証するチャンスであることを感謝して受け取ります。

8/7 「ちゃんとしてる?」 ルカの福音書18章9~17節 小林泰輔師 

  •  ちゃんとしているかどうか、自分についても他人についても気になる、そんな時代の風潮です。もちろんちゃんとしていないといけない時と場面はあります。しかし、いつでもちゃんとしていないといけないのは、とても疲れることではないでしょうか。疲れた人を招かれるイエスさまのもとへと進み出ていきましょう。
     今日の箇所は祈りについての教えです。ルカはここでも先に結論を書いています。「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」それではいけないよということをイエスさまは話され、そのような心の有り様が一番現れてくるのが祈りだと言われたのです。
     これはたとえ話だということですが、とてもリアルに描かれています。登場人物はパリサイ人と取税人。片やとてもちゃんとしている人、そしてもう一方は、ちゃんとできないでいることに苦しんでいる人。こういう対比がなされて、私はさてどちらのタイプか?という読み方をするかもしれません。両者ともに祈るのですが、イエスさまはこの場合に義とされたのは取税人の方だと言われたのです。ちゃんとできない自分を恥じて、それでも神さまに心を注ぎ出して、神さまあわれんでくださいと心で叫ぶ。それでいいのだよ。そんな話に落ち着くかもしれません。
     しかし、そこで罪深い私たちの内には奇妙な逆転現象が起きます。私がこのパリサイ人のような高慢な者でないことを感謝しますと誇るような。そのような態度は祈りにも現れるし、現実の人間関係にも現れてきます。真面目な人や、良い行いに励む人を、あの人はパリサイ人タイプだと裁いたりするのです。
     ちゃんとしているか、していないかが問題ではないのです。神の基準においては誰もちゃんとできないのです。取税人はそのことを骨の髄まで身に沁みて自覚していたので、自分に失望し、かと言って取税人を辞めることもできない、自分ではどうにもできない弱さの中で天を見上げることもできず、ただただ、胸を叩きながら神のあわれみ深さに賭けるしかなかったのです。
     ちゃんとしなきゃいけないという思いが強くあるのに、それができない。そうやって泣きじゃくる子どものままの姿が私たちの心の中にはあるのです。神の国(統治)を受け入れるなら神の子どもに造り変えられます。ありのままの自分をさらけ出して、他の人など誰も目に入らないほどの真剣さで神を求めて参りましょう。

7/31 「神に叫び求める」 ルカの福音書18章1~8節 小林泰輔師

  •  この話は、イエスさまが私たちに祈ることを励ましてくださるお話です。祈りは神との対話であり、神さまはいつでも聞いてくださいます。ルカはこの話からのイエスさまの結論は「いつでも祈るべきで、失望してはならない」ということであるとしています。
     たとえ話自体はとても単純で、読んだままのことですが、登場人物はまたもや「不正な」裁判官です(前回は「不正な」管理人でしたね)。こういった悪しき人が出て来る場合は、「まして神は」という対比を際立たせるためです。不正な裁判官は自他共に認める悪代官でした。自分で「私は神をも恐れず、人を人とも思わない」と言ってしまうほどのろくでなしなのですが、よりによってそんな頼りにならない裁判官のところに、一人のやもめの女性が懇願に来るのです。生きていくだけで精一杯のこの人はさらに人間関係のトラブルまで抱えてしまって、それを裁いてくれるように頼みに来たのです。はじめは全く取り合おうとしない裁判官も、あまりにしつこいので面倒になって裁判を早く片付けようという気になります。不正な裁判官でさえ、こうなのだから、まして善良な裁き主である神さまは私たちの祈り叫ぶ声を夜昼問わず、聞いてくださるということです。
     エリシャの時代にシュネムという町に、子供のいない裕福な年寄り夫婦がいました。エリシャの活動を支援してくれていたのですが、そのお返しに何かしてほしいことはないかと聞きますが、特に何も求めません。子どもが与えられることを求めることはもう諦めたのでしょうか。期待することにも疲れたのでしょうか。静かな余生を望みますと言うかのようです。しかし、心の奥底にしまっていた思いに応えるかのように、神はエリシャを通して、子どもが与えられることを告げ、本当に男の子が生まれました。
     しかしある日、その子が突然死んでしまうのです。この母親はエリシャの足元にすがりつき、「子どもが欲しいなんて求めたでしょうか」と叫びます。こんな悲しい思いをするなら、子どもがいない方がよかったということでしょうか。でも死を受け入れられない、あるいは神の人エリシャなら奇跡もあるのではないか、そんな希望もあったのでしょうか。その信仰に応えるように神はこの子を生き返らせてくださいました。私たちも期待し諦めず祈りましょう。

7/24 「神の国と人の子の日」 ルカの福音書17章20~37節 小林泰輔師

  •  神の国はいつ来るのか。その時には人の子(メシア)が雲に乗って来られると信じられていました(ダニエル7:13-14)。それはいつ、どこで起こるのか、ここはパリサイ人たちの罠ではなく、真面目な質問だったことでしょう。
     ルカの福音書が書かれた時代は、すでに再臨についての様々な見解や異端的教えも混在していました。ですから、ルカは二回もこのことを取り上げています。現代においても「再臨のメシア」を名乗る者や、世の終わりや神の国がどのように来るのかを細かく述べる人や宗教団体がありますが、イエスさまでさえ、その日がいつかは知らないと言われたのです。現代の異端カルトには自分だけでなく、周りの人にも注意喚起していかなければならないと思わされます。
     イエスさまは神の国は、人々の間にすでに来ていると言われました。御子イエスさまが来られたことにより、救われた私たちは内側から作り変えられて、神の国のアイデンティティに生きるようになります。つまり、神を愛し、隣人を愛して生きていくことに喜びを見出すアイデンティティです。また、人の子の日に先立って御子の十字架の苦しみがあったことを忘れてはなりません。私たちの理性や人間性の進歩によって、道徳心が向上したり、人を愛せるようになったりしたのではないのです。
     神の国はすでに来たという現在性と、いまだ完成していないという未来性が同時にあります。神の国は、盗人のように突然やってきますが、その時、光の子とされている私たちは、それで慌てるようなことにはならないともパウロを通して言われました(Ⅰテサロニケ5;1-11)。
     その日が来るのを待ち望みながら、私たちは昼の子、光の子として、なすべきことをなすだけです。しもべがなすべきことをなすだけです。神の国の民であり、同時にこの世の善良な一市民として、良い生き方によって天におられる父を証しするのです(マタイ5:16)。それがキリストの香りを放つということでしょう。
     イエスさまはこの時、弟子たちに言われました。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります」。お前たちから死の腐臭がするのではあるまいか?そう弟子たちにも警句を語られたのでしょう。私たちも霊的な自分の匂いチェックに気を遣いましょう。芳しいキリストの香りを放って歩めますように。

7/17 「神の国とあなたと私」 ルカの福音書17章11~21節 小林泰輔師 

  •  十人のツァラアト患者の話から、「神の国とあなたと私」について聞いていきたいと思います。
     イエスさまはエルサレム向かう道のりで、サマリアとガリラヤの境を通られました。そこの村に少なくとも十人のツァラアト患者がいました(ツァラアトに関してはレビ記13〜14章を参照)。ツァラアトは宗教儀式上の「汚れ」とされていましたが、結果的にはそれが感染拡大を防いでいました。そのため彼らは町囲いの外に住まわなければなりませんでした。感染者同士なら肩を寄せ合って生きることもできたでしょうか。彼らは声を合わせてイエスさまにあわれみを請い叫んだのです。その叫びに応えてイエスさまは彼らに対して「行って自分を祭司に見せなさい」とだけ言われました。律法の規定により、ツァラアトの完治を宣言するのは祭司の役目でした。彼らはまだ癒えていない患部を見ながら、しかし信仰の目を開いて、癒されることを確信してエルサレム神殿の祭司の元へと旅立ちました。するとその途上で皆が癒されたのです。
     そのうちの一人、サマリア人だけが戻ってきて(彼だけはサマリア神殿に向かったのかもしれない)、イエスさまに叫んだとき以上の大声で神をほめたたえながら、イエスさまのもとに来て平伏して感謝をささげました。イエスさまはその礼拝をお受けになられました。しかし、残念そうに「戻って来たのは他国人のあなただけなのか、他の九人はどこにいるのか」と言われました。他の九人はイエスさまのお言葉に従ってエルサレムに向かったのです。律法の規定により、ツァラアトが癒されたら、神殿でなすべき儀式がたくさんありました。そのためにエルサレムへの道を進んでいたのです。そのような行動をイエスさまはお責めになったのでしょうか。
     イエスさまは苦しみを共に耐え抜いたこの十人が、「共に」神を礼拝する群れであり続けたら良かったのにと思われたのではないでしょうか。サマリア人に言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」。信仰によって癒されたのは十人とも癒されました。しかし、救いとは心の内側から全くきよめられ、新しく作り変えられることです。新しく作り変えられ、イエスさまを「共に」礼拝する共同体になることが神の救いの御心なのではないかと思います。神の国(支配)は目に見えないかたちで、私とあなたの間に来ています。共に生きる愛の絆として。

7/10 「たとえ声にならなくても」 サムエル記第一1章1~10節 森田学師 

  •  いつからか、不妊(近年男性にも)は恥という、神さま以外の文化が入り込んでいました。神さまが人間にプレゼントされた結婚の奥義は、『男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』(創世記2:24)一人の夫と一人の妻が、心も身体も一体とされる聖なる祝福、最も親密な愛の関係、それが結婚の奥義です。ここには、子についての祝福は含まれず完結しています。なぜなら、命を生む奇跡は、神のなさる御業であり、夫婦の祝福に、追加された祝福だからです。しかし、“ふたりは一体”との間にもう一人妻がいる点で誠実な愛とは言えず、ハンナは夫エルカナから理解されず悲しみ、さらに、子が与えられているペニンナからは見下され深く傷つきます。
     そんなハンナを主なる神は見捨てませんでした。主は、“耳があっても聞こえず”の偶像ではありません。主は、天地を創られ、私たちに命を与え生かすお方、全知全能の神です。『ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。』…全部ばれている…いいえ、既に知ってくれているからこそ、神さまには隠す必要が全くないのです。
     ハンナは、憂鬱に沈む心、苛立つ心を隠さず主の前に注ぎ出し、泣きながら祈ります。心を絞りだすと、言葉が出なくなります。でも、それで十分なのです。『民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。』(詩篇62:8)
     枯れ果てすがりつくその心ごとハンナを愛してくださる神が私たちの神です。酒に酔ったように誤解されるほどに、聖霊がとりなしてくださいます。祈りとは、まさに霊的な呼吸です。神さまとつながるための、大切な通信手段です。祈るとき、あなたを祝福したいと願われる神がおられることに気付かされます。さらに祈るうちに聖霊に満たされ、自分の願いを伝えつつも、ハンナはまだ問題が解決していないのにもかかわらず、神さまの栄光を求め始めるのです。『その顔は、もはや以前のようではなかった。』と平安に満たされ、なんと年が改まってから、命を授かるのです。私たちの心から絞り出される声にならない声を、決して無視しすることなく、疲れた魂を生き返らせる神さまは、祈りに応え、神ご自身の栄光のために、力あるみわざを行ってくださいます。

7/3 「なすべきことをしなさい」 ルカの福音書17章1~10節 小林泰輔師 

  •  今日の結論から言いますと、「神は、なすべきことをしなさいと言われるからには、そのための信仰と力を与えてくださる」ということです。
     本日の箇所ではまず、つまずきの問題を取り扱っています。赦された罪人の集まりである教会においてさえ、つまずきは避けられません。うっかりや過失の場合もあれば、故意や悪意のある場合もあるでしょう。故意に人をつまずかせる(別訳「誘惑する」)ような者は石臼をくくりつけて海に沈める方がましだとまで言います。自分自身が誰かのつまずきになっていないか、「自分自身に気をつけなさい」とはここだけでなく別の箇所(参照使徒20:28)でも言われています。
     しかし今日の個所では「つまずきは避けられない」と現実問題として捉えた上で、それでも互いに赦し合いなさいと勧めるのです。一日に七回(二時間おきに!?)つまずかされても、です。そんな人を赦さなければならないなど、無理難題と思ったのでしょうか。弟子たちはイエスさまに「私たちの信仰を増し加えてください!」とお願いします。するとイエスさまは「どうして無理なんだい?」とばかりに答えられました。すでに信仰はあなたがたのうちにあるではないかと。からし種のような小さな信仰でも、それがあるならば桑の木に動いて海の中に入れと言えばそのようになると言うのです。それこそ無理難題ですが、あなたがたにはすでに信仰も与えた、賜物も与えた、聖霊も共におられる、だから無理ではないと言うのです。上から外から増し加えられなくても、内におられるキリストのみたまが奇跡を可能にするというのです。赦せない人、愛せない人を、赦そう、愛そうと思い始めている時点でもう桑の木は動き始めているのです。
     主人である神さまが私たちのためにいちいち甲斐甲斐しく世話をしないでしょう。すでに預けた信仰とタラントを用いて、主人の帰りを待ちながら、隣人や兄弟姉妹に仕えなさいと言われます。それはしもべとして当然のことなのです。主人はそれに感謝はしないと言われます。冷淡な主人でしょうか。そうではありません。むしろそれぐらいのことはして当然と、私たちに期待し、信頼してくださっている証しであります。しもべとしてなすべきことを当然のように完遂することができたら、それは大きな喜びです。主が来られる時には安心して眠りにつくことができるでしょう。人を建て、教会を建て、御国を建て、なすべきことに打ち込んで参りましょう。

6/26 「お金との付き合い方」 ルカの福音書16章9~18節 小林泰輔師

  •  聖書は私たちの生活の幅広い領域にまで言及していて、生きる上での指針を与えてくれています。お金との付き合い方とは、結論から言うと、金銭を愛してはならないということです。
     前回からの不正な管理人の譬え話の続きからですが、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」とあります。何も悪事で得たお金を賄賂にして友を作れということではありません。不正な富とは何かというと、金銭一般のことです。金は天下の回りものと言いますが、その過程で人間の罪によって何かしらの不正が入り込むものだとして、そういったこの世の富をもって、良いことに用い、隣人に仕えなさいということです。この世の富というのは取るに足りないような小さなものであって、小さなものを神のみおしえに対して忠実な態度で用いるなら、天の御国においては大きな富を任せられることになるのです。もし、金銭を愛するようなことでもあるならば、必ず神を軽んじるようになります。人は二人の主人に仕えることはできないとイエスさまは警告されました。しかし、パリサイ人たち始め、当時のユダヤ人たちは、神に愛されているからこそ富にも愛され、豊かになれるのだと考えていました。だからこそ、パリサイ人たちはイエスさまの話を聞いて嘲笑ったのです。
     律法をイエスさまが短く要約されたことは、神を愛し、自分を愛するのと同じように隣人を愛することでした。しかし、パリサイ人は律法を歪めて偽善的な行いによって神からの祝福を得られるとしていました。誰もが力ずくで天の御国に入ろうとしていると言われたのは、頑張って神の国を目指して走っているということではなくて、力ずくで律法を自分の都合に合わせて捻じ曲げてでも天国に入ろうとすることです。
     その象徴的な例として離縁や姦淫の教えが挿入されます。唐突な印象もありますが、13節に対応したものではないでしょうか。つまり、しもべと主人の間に二心がないように、ましてや夫婦の間に二心はありえないのです。キリストの花嫁である教会が、神を愛していると言いながら、富という偶像をも愛することなどありえないのです。神の恵みでさえも偶像になりえます。真の恵みとは十字架を思うことです。
     生活にお金は必要です。しかし、もっと大きな夢、御国の建設に投資するなら幸いな人生です。神を愛して真の経済的自由を得ましょう。

6/19 「神の恵みの賢い管理者」 ルカの福音書16章1~18節 小林泰輔師

  •  不正な管理人の譬え話です。譬え話とは言え、神さまが不正をほめるとはどういうことか、理解が難しいこともあるかもしれません。とんちが利く一休さんの物語のように、小賢しさを誉めたものなのでしょうか。ずる賢さの「ずるさ」の部分は置いておいても、賢さは見習いなさいということなのでしょうか。あるいは、新興宗教の教理の不真実は差し引いても勧誘のしつこさだけは見習え、みたいなことなのでしょうか。
     この譬え話においても、不在主人の話という背景があるように思います。主人は財産を管理人に一任して旅に出かけていたのでしょうか。その男の普段の仕事ぶりを知らなかったかのようです。誰かの告げ口によって初めてそれを知ったのです。タラントの譬えにしても、油を絶やさず待つ乙女の譬えにしても、主人不在のときの振る舞いが、主人の帰宅時に問われるというものです。私たちの地上の生涯は、目に見えない神さまから預けられた恵みや賜物をどのように用いるかであり、再臨のときに問われるものです。
     こずるい管理人は一貫してこずるく、主人に債務のある人たちの、その額を勝手に減免し、恩を売ることで、おそらく解雇になるだろうその後を生き抜こうとします。こんな道徳的にもあまり好ましくない物語をひっくり返す言葉があります。それは「光の子」です。
     サウロ(のちのパウロ)は非常に賢い人でしたが主イエスに対しては反逆者でありました。その彼が、闇から光へと変えられたのです(使徒26:17,18)。光の子バージョンで先の譬えの後半を見るとどうでしょう。管理人は主人の財産を大胆に浪費します。そして債務を返すことのできない困窮している人たちを助けます。主人には損失ですが、債務者にとっては大きな喜びです。不正な管理人と光の子の決定的な違いは、主人との信頼関係にあります。神は喜んで浪費し、放蕩する神です。この世の子らが抜け目なく賢くやるなら、光の子はそれ以上に賢く神の財産を使いまくるのです。ですから、私たちも預けられた賜物を神のみわざとして用います。
     私たちにできないことをしてくれた方がいます。その方は債務の全額免除ということをしてくださいました。十字架にかかられた主イエス・キリストです。私たちが到底払いきれない罪の代価をご自身のいのちで支払ってくださったのです。主の大いなる恵みに感謝しましょう。

6/12 「志を立てさせ、事を行わせてくださる方」 ヨハネの福音書21章15~25節 森田学師

  •  イエスに会いたくて、いや恥ずかしくてか、慌てて湖に飛び込んでしまうペテロの心には、戸惑いがありました。それは、イエスが十字架で殺される前、“イエスと私は無関係だ、イエスなんか知らない、イエスなど知るわけがない”と皆の前で三度も、呪われてもいいと誓っていたからです。しかしその後、ペテロは自分の弱さを知り、激しく泣き、岩(=ペテロ)の心は砕け散っていたのです。
     ペテロの傷ついた姿を遠くから見つめておられたイエスは、復活の後、ペテロと三度も会われ、三度目にして声をかけるのです。『「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」』“あの時わたしを知らないと言ったよね?愛してなかったんだよね?”そんなことを思ってしまう私たちとは違い、イエスの私たち人間を見るまなざしは、本当に愛とあわれみに満ちています。イエスのことばこそ、人を罪から聖め、生かす言葉です。『「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」』今のペテロには、自我を圧し通し転がる岩の姿はありません。かつて“私だけは絶対に大丈夫です”とおごり高ぶっていた者が、謙遜に答えます。それでも自分が弱い者であると忘れやすい私たちのために、ペテロの信仰・イエスへの思いが、真剣で確かな決意をもってなされているのかを、皆の前で三度も、確認されるのです。
     私たちも互いに、イエスを信じることのすばらしさ、神の愛に生かされていることの尊さを、重ね重ね分ち合うことは、信仰者の生活に欠かせないものではないでしょうか。三度もペテロの意志を確かめつつ、どこまでもペテロを諦めず立たせてくださるイエスは、ペテロに初めに会って語られた、『人間をとる漁師にしてあげよう。』という志を、再び与えられます。(15~17節)イエスの愛に包まれたペテロは、もはや私が生きているのではなく、イエスが生きておられると確信し、神がすべての事を支配し、御業・事を行わせてくださるのだと知りました。『神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。』
     イエス・キリストは、今も私たちが自分の言葉と思いで、主を愛することを待っておられます。私たちがイエスに従うとき、私たちに志を与え、みわざを行われ、栄光を現してくださいます。

6/5 「聖霊に導かれて前進する」 Ⅰペテロ4:7-11、エペソ4:16 小林泰輔師 

  •  ペンテコステに合わせて教会の5つのビジョンより「聖霊に導かれて前進する」というところを見ていきましょう。教会のわざは、聖霊のわざです。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)神殿再建はなされましたが、その時に用いられたのは、神によってその霊を奮い立たされた人たちでした。ですから、教会形成もまた、聖霊が人を用いてなされるわざです。各人が与えられた賜物を喜んで神にささげつつ用いていくことを、聖霊は励ましてくださるのです。
     賜物というのはなんでしょうか。ローマ12章、第一コリント12章、エペソ4章、第一ペテロ4章などをご参照ください。まとめると、個人の資質や才能や情熱や、特別な霊的賜物や、ミニストリーや召命などのことです。
     しかし、賜物というとそれが才能のことだけを指すかのように捉えられがちです。そこで、自分にはそういう才能はないからできないと、何かを諦めてしまうことがあります。それを方便に主の召しから逃げるようなこともあるかもしれません。たとえばリーダーシップを例に挙げるなら、それは訓練で身につけることができます。大切なのは神が与えてくださる情熱であり、霊を奮い立たされるということです。主のお入り用ならばと、御声を聞き、立ち上がる信仰です。
     私たちは一人一人個性豊かにユニークに造られた存在です。そしてそれぞれにユニークなストーリーを持っています。それらすべてが神さまからの恵みです。人生経験も大いに用いていただくことができます。苦しんだ経験は、同じような苦しみにある誰かを慰めるために用いられますから(Ⅱコリ1:4)、それもまた恵みの賜物です。大切なことは、それらの「恵みの良い管理者」(Ⅰペテロ4:10)であることです。それらの恵みと賜物を磨き、成熟させ、発展させ、キリストの御名があがめられ、御国が来つつあることを知らしめることが私たちの役目です。
     前進することは後戻りすることではありません。新しい教会を作り上げていくことは、コロナ禍以前の教会に戻ることではなくて、さらに新しい皮袋になっていくことではないでしょうか。福音の力は常に私たちの霊的細胞を新しく生まれ変わらせてくださいます。この患難をも恵みと成長の機会として、祈り続け、考え続け、前進し続けてまいりましょう。

5/29 「あの世からの声ではなく」 ルカの福音書16章19〜31節 小林泰輔師 

  •  「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい」というみことばがあります(伝7:2)。召天者記念礼拝には喪中の家のような厳粛な雰囲気があるでしょうか。先のみことばはこう続きます。「そこにはすべての人の終りがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」。今日は私たち自身の死と生に向き合う時です。
     聖書では特に主イエスによって、神の国、平たく言えば天国のことが多く語られています。しかし、そこがどういうところであるかの描写は多くはありません。しかし、はっきりと、死後のいのち、あるいは死後の滅びについては書かれています(ヘブ9:27、ヨハ5:24-29)。
     人は死後ただちに天国または地獄に行くのではないようです。その中間の場所(状態?)があるようです。今日の譬え話の中において、金持ちは死んで「よみ」に行きそこで苦しみます。かたや貧しい人ラザロ(名の由来「神の憐みによって生きる」の意)は、「アブラハムの懐」という場所で安らいでいます。金持ちは贅沢に遊び暮らしていましたが、富める者の最低限の義務としてラザロが門前に居ることを許容し食卓の残りを食べられるようにはしていました。それ以上の積極的な助けはしませんでしたが、私たちはこの金持ちとは違うと言い切れるでしょうか。
     また、中間状態ですでに、苦しみの場所と慰めの場所に分けられ、そして互いに行き来はできないようです。我々が「あの世」と呼ぶようなその場所から、誰かを遣わして、金持ちの人の兄弟たちまでがこんな苦しい思いをしないように警告して欲しいと、金持ちはアブラハムに頼みます。しかし、神さまは譬え話のアブラハムを通して言います。聖書があるではないかと。モーセと預言者たちを通して警告したではないかと。聖書の神の声に聞き従うことがないなら、たとえ亡霊が現れて何を言っても聞きはしないだろうというのです。私たちもあの世からの声ではなく、今ここで聞くことのできる神の声、聖書のことばに聞き従いましょう。そして先に召された親兄弟たちが、その人生をかけて、命をかけてでも伝えたいと願っていた福音のことばを思い出し、この地に遺してくれた言葉に聞きましょう。
     この譬えの結末に反して主イエスは、十字架の死後、よみから帰り、復活のからだを見せ永遠の命を証明してくださいました。その目撃者たちを通して語られた神に聞き従いましょう。

5/22 「教会を築き上げる」 使徒の働き9章31節 小林泰輔師 

  •  新年度の標語である「世界の破れを繕う者」として、教会をもう一度新しく築き上げていくことが望まれます。2009年の元旦礼拝にて、教会形成の理念として、みことばが与えられました。
     「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」(使徒9:31新改訳Ⅲ)
     このみことばから、5つのことを教会形成において大事なこととしてあげています。①宣教する教会、②愛、喜び、平安に満ちた教会、③主を恐れかしこむ教会、④聖霊に導かれる教会、⑤成長する教会です。今回は、①~③までを見て、ペンテコステ礼拝にて、④~⑤を見ていきたいと思います。
     ①宣教する教会。「ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり」宣教した教会です。異邦人のガリラヤと呼ばれていた地域、王国時代まで遡り混血のゆえに分化していったサマリヤ、そして地の果てまでも福音は伝えられて、今の私たちがあります。私たちも自分が居る所を地の果てとして聖霊に導かれるままに宣教に励みます。
     ②愛、喜び、平安に満ちた教会。「築き上げられて、平安を保ち」とありますように、教会に来ると主の平安を感じられるというのが大切です。愛し合い、喜び合うだけでなく、安心して嘆くことができ、共に泣くことができることも大切なことです。弱さのうちに強く働かれる主に信頼して、弱さや足りなさをも誇りながら互いに励ましあいましょう。
     ③主を恐れかしこむ教会。主を礼拝することを何よりも優先します。礼拝とは何かというと、それは教会に来て集まることだけにとどまりません。神に自分をささげることが礼拝の本質ですから、毎日が礼拝です。心の中心に主をお迎えし、主と共に歩むことを私たちの人生の中心にしていきましょう。

5/15 「捜される神」 ルカの福音書15章11〜24節 小林泰輔師 

  •  ルカの福音書15章には三つのたとえ話が出てきますが、これは三つでひとつのたとえです。話の流れはみな、失われた者、捜される神、見つけられる喜びで共通しています。
     ①失われた者。私たちは神の前から失われた者です。羊は極端に弱い生き物です。羊飼いの守りと導きがなければ死んでしまいます。銀貨は価値あるものですが、持ち主の手を離れては価値を発揮することができません。家出息子は父との愛の関係を失いました。私たちは、神を離れては命を失い、生きる価値を失い、愛と喜びの関係を失ってしまうのです。
     ②探される神。羊飼いは命をかけて羊を探します。危険を顧みず深い谷底に下りて来てまで救うのです。銀貨を探すためには家の明かりをつけ(燃料を消費する)見つかるまで労力を惜しまずに探されます。家出息子は父の愛を思い出し、その愛に手繰り寄せられて、帰郷を果たしました。父は遠くから見つけて走り寄り、もう一度息子として受け容れました。
     ③主は喜び歌われる神。迷子の羊も、失われた銀貨も、家出息子も、ともに元に戻ったときには祝宴が開かれます。ゼパニヤ書3:17には主は喜び歌われると書いてあります。これは私たちが贖われたことを喜び歌われているのです。古代の王が勝利したときには吟遊詩人に勝利の歌を歌わせ、戦利品を眺めて楽しんだように、主は私たちをご自身の所有とされたことを喜び歌われるのです。しかも、主なる神の愛による支配は私たちにとっても安らぎとなるのです。主イエスは剣によってではなく十字架の贖いを通して勝利を取られましたから、主のもとに立ち返りましょう。そこに真の喜びと平安があります。

5/8 「平安があるように」 ヨハネの福音書20章19〜31節 森田学師 

  •  復活のイエスを仲間と一緒に見られなかった、納得いかない。トマスには他の弟子たちとは違う理由で平安がありません。
     自分の思い通りにならないと、思いやりをはねのけ、焦りや疑いに心が囚われてしまいます。人は自分のこだわりを持っていると、焦点が神から外れ、真実が目の前にあっても、見えなくなってしまうのです。
     イエスがどれほど忍耐され十字架で死なれたのか、また復活という輝かしい栄光を現わされたのか、まるで他人事。そんな自分本位の道を選ぶ弱さが私たちにはあります。
     そんなトマスに、イエスは『「平安があなたがたにあるように」』(26節)と声をかけます。すねて疑い焦りイライラを隠せないトマスを、いつまでもほおってはおかれず、あわれみと愛で包んでくださいます。『「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』
     今思っていることを正直に言ってごらん。神はいつも私たちと生きた交わりを持ちたいと迫ります。その時、トマスは神を知るのです。イエスの復活を信じるもんか、とすねて豪語しイライラのときでさえ、ずっとイエスはそばにいて私のことを心に留めておられたのだと。『神よ…私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。』(詩篇139:23,24)
     イエスの与える平安は、自分本位なこだわりなどどうでもよくなり、あんなに触りたがっていたトマスは、触れることなく、ただ見て信じるのです。
     神からの“平安があるように(=シャローム)”とは、お決まりの挨拶などではなく、真の神を信じられない心を安らかに変え、自己中心に生きてきた何の保証もない不安定な人生を、神中心という平安の人生に変える、あわれみと愛に満ちた恵みのことばです。
     イエスが私の主、私の人生の主人であることを忘れているとき、私たちの心は神からの平安を失います。
     私たちの心の王座に、イエスが座られ、このイエスのいのちの中で私たちが生きる、まことの平安を感謝して受け取りましょう。

5/1 「主についていく値打ち」 ルカの福音書14章25〜35節 小林泰輔師

  •  「主についていく値打ち」について、自分の人生を賭けて、いのちを捨ててでもイエスさまについていく値打ちがあるのか「まず座って」よく考えよと、イエスさまは群衆に向かって言われました。まるでふるいにかけるように、非常にむずかしいお言葉を語られました。父母、妻(夫)、子ども、兄弟姉妹を憎んで、自分の命すら憎んででもわたしを愛するかと問われたのです。そうでなければイエスさまの弟子にはなれないと言うわけです。「愛する/憎む」についての語感が私たちとは違うところがあります。愛するということには二番目に好きということはなく、愛している者以外は、憎むと言うのです。そこに憎悪の感情はないのですが、二の次にするというような意味のようなのです。ですから、イエスさまのもとに来て、イエスを主とあがめ一番にするのでなければ、神の国とその義とをまず第一にするのでなければ、イエスさまの弟子にも神の国の民にもなれないのです。
     そうして「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と言われました。現場にいた人はローマの処刑法である十字架を思い浮かべたでしょう。イエスを筆頭にローマに叛逆し討死する覚悟はあるかと誤解したかもしれません。塔を建て始めたら完成するまでやり遂げるのか、あるいは不利な戦いを挑まれたら講和の条件を交渉するのではないかと、譬えを用いて語られました。当時の人たちはローマ帝国相手に“御馬前討死”の覚悟の見積をしたかもしれません。しかし私たちは聖書を通して十字架と復活の意味を知り、聖霊の導きによりこれがどういう意味かを理解しています。自己中心的な生き方をしていた自分に死ぬということです。その信仰に生きる姿勢を貫き通すことができるか、そしてそうするだけの値打ちがイエスにあるかどうか損得勘定をせよということです。
     イエスさまにすべてを明け渡すとどうなるか、損得勘定をしてみましょう。より父母を愛するようになるのです。より妻を子を友を愛するようになるのです。そのために必要なものはすべて主が豊かに与えてくださるのです。
     そして私たちは「地の塩」になります。塩は溶けてなくなることで塩気をつけます。味気ない世に味をつけ、腐敗を防ぐのです。自我に死ぬことで私たちは塩として用いられるのです。

4/24 「来れ、既に備わりたり」 ルカの福音書14章15〜24節 小林泰輔師 

  •  今日も復活節をお祝いしましょう。本日の聖書箇所は宴会の譬え話です。イエスさまの譬えには宴会の話がよく出てきます。クリスチャンをクリスチャンたらしめているものの一つに「喜び」があると思います。「いつも喜んでいなさい」というみことばもありますが、その命令に従っているからというよりは、喜びが溢れ出てしまう、そんな人たちなのです。ですから毎週の礼拝は祝祭として、喜びの宴として、ともに神さまとの交わりを喜んでいるのです。
     さて、今日の譬え話では、宴会の主人があらかじめ招待しておいた人たちに「来れ、既に備わりたり」(文語訳)と改めて招待のお声がけをするところです。ここに神の喜びがあることを見ます。私たちもホームパーティーを開くことがあるでしょう。準備万端、ゲストがお越しになるのを待つ時というのは、楽しみと喜びに満ちた時間ではないでしょうか。神は、私たち一人一人の名前を呼び、招いてくださる方です。そこには、招きに応答することへの期待があり、神の喜びがあるのです。イスラエルの民を招く神の喜びといえば、創世記のアダムとエバの堕落後に救いのご計画を始められ、綿密な準備を行なって、ついに時が満ちて神の国が来た、御子イエスがこの地に来られたという、万感の思いでのお招きでした。
     ところが、招かれていたゲストたちは、ことごとく断りの返事をします。その用事というのも今日でなくてもよいものばかりです。何かと理由をつけては神の招きを拒んでいるのです。ここにイスラエルの頑なさ、「うなじのこわい民」である私たちの頑なさがあります。喜びにあふれる神の招きに対する、冷たく不誠実な応答の落差たるや、神の落胆がいかほどかおしはかることができないほどのことです。
     怒った主人は、障がい者や貧しい方などを呼び、食卓の席を埋めるようしもべに命じました。しかしまだ空席があるので、さらに街の隅に追いやられている人たち(異邦人)を招いて食卓の席を埋めるよう命じました。まさにこの日、主が招かれたパリサイ人の食卓にはいない人たちのことです。神の喜びの招きには分け隔てなどありません。教会のクリスチャンたちが隅に追いやってきたのはLGBTQの方々でしょうか。あらゆる差別を取り除き、乗り越え、神の喜びの宴にたくさんの方々をお招きしましょう。

4/17 「義人の復活のときに」 ルカの福音書14章1〜14節 小林泰輔師 

  •  復活節おめでとうございます。私たちはイエスさまがもう一度来られるときに、イエスさまと同じ栄光の姿によみがえります。すべての人がよみがえるのですが、善を行った者はよみがえって命を受け、悪を行った者はよみがえってさばきを受けます。このさばきの結果が第二の死であり永遠の滅びです。義人には第二の死はありません(ヨハネ5:28,29、黙示20:6)。そして義人とは誰か、それは主イエスを心の中心に迎え入れ、親しく食事の交わりをしてきた者たちのことです(黙示3:20,21)。
     さて、今日の箇所ではパリサイ人たちによって“目の前に病で苦しむ人がいたら安息日でも癒してしまう説”の検証がイエスさまに対して行われました。その結果次第ではイエスを批判しようとしたのでしょう。仕掛け人のように水腫を患った人が目の前に置かれました。イエスさまはその試みを知りながらでしょうけれども「安息日に癒すのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と尋ねますが、人々は答えません。イエスさまはその人を抱いて癒やし、家に帰してあげました。
     それから「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか」ともお尋ねになりましたが、誰も答えません。自分の息子なら助けるに決まっているからです。しかし、天の御父は私たちを罪から救うための愛と、罪人は裁かれなければならないという義とのゆえに、御子イエスさまを身代わりに見捨てられた者とするという痛みと苦しみを引き受けてくださいました。私が今救われてあるのは当たり前のことではないのです。
     そのような神の愛を知らず、人々は上座の席を争っていました。そこでイエスさまは婚宴の席次についての譬えを話されました。謙遜の美徳を教えたものではなく、天の御国の譬えです。やがて御国に着いたとき人生を振り返りつつ、末席に座るとイエスさまが来て「友よ」と声をかけてくださり、上席に、イエスさまの御座の隣に案内してくださるのです。自分の地位や名声ゆえに上席に座って当然と思っていると恥をかくこともあるようです。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまのように分け隔てなく目の前に置かれた人に精一杯仕えて歩みましょう。

4/10 「すべてが終わった」 ヨハネの福音書19章23〜30節 森田学師

  •  ついに、イエスが言われていた“わたしの時”(ヨハネ2:4)が来ました。なんと、救い主をずっと待ち望んでいたユダヤ人たちは、イエスが父なる神の栄光を現したことに激しく嫉妬し、どんな汚い方法でも死刑にしたくて仕方がないと言わんばかりです。(ヨハネ18:31、19:7)
     イエスのうちに、誰もが何一つ罪を認められなくても、イエスを神の御子、救い主と認めない。これこそ、人間の心にある罪の本性です。その姿こそ、目の前の真理~あなたを創られ生かす神~を無視し、我が道を行く、私たち人間の罪の姿なのです。(ヨハネの3:36)たとえ人を殺さなくても、「あんな人はいない方がいい」と思う心を、神は殺人と同じく重い罪とみなされます。だれもが神の前では罪ありとされ、だれもが神の御怒りを受けなければならないのです。それなのに、父なる神と一つであるお方が、ラザロを生き返らせたお方が、あえて十字架で死を選ばれたのは、あなたを救うためです。
     イエスは十字架の上で、『完了した』『すべてが終った(口語)』そう言われます。この言葉は絶望などでは決してありません。私たちがイエスと出会って、新しいいのちに生きるために言われた希望の宣言です。父なる神から託されたことを成し遂げ、世界の初めに預言された人間の救いがついに完成したのです。
     本当の意味で終わってしまうはずの“イエスなんて知らない”という虚しい人生、そのこと自体を終わらせるために、神の御怒りをすべて背負われ、イエスはあなたの身代わりに十字架で死なれ『完了した』のです。(イザヤ53:1~6)イエスの十字架の死と復活は、極悪人のバラバを、イエスをなぶり殺したユダヤ人たちを、イエスを裏切ったペテロや弟子たちを、人生終わったと彷徨う人々をも、救い生かします。
     ペテロ①3:18『正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。』
     イエスは私の罪ために、十字架で死んでくださったと信じるならば本当に幸いです。そのとき、私たちの心と人格の奥底にまでしみついた罪を、神は聖めてくださいます。イエスの生き方を愛し、イエスがなされたことを意識して生き始める、新しいいのちが私たちの中で息づき始めます。

4/3 「世界の破れを繕う者」 ルカの福音書13章31〜35節 小林泰輔師

  •  新年度標語聖句「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。」イザヤ書 58章12節より、「世界の破れを繕う者」という年間標語を導かれました。
     イザヤの時代、イスラエルにはまず礼拝の破れがありました。儀式的に形骸化したものになっていたのです。そのような礼拝や断食を主は喜ばれません。礼拝の回復が必要なのです。新型コロナ禍にあって、礼拝に破れたところがないかどうか、オンライン礼拝も長所と短所がありますが、大切なのは礼拝の心です。神さまが本当に喜ばれる礼拝というのは、儀式や形式にあるのではなく、礼拝に人々が共に集まり、そこで癒やしと解放が起こり、神の御名があがめられることです。安息日にこそ、解放が起きることを神は望まれるのです。教会再建にあたって「昔の廃墟を建て直」すと言っても、昔の時代のことをそのまま現代に適用しても通用しなかったり、かえって人々をつまずかせることすらあります。時代に合わせて変えていくべきは大胆に変えていくのです。しかし、「代々にわたる礎を築き直」すということは、変えてはいけないもののことです。神のみことばを水で薄めたり、混ぜ物をしたりしてはいけません。福音の真理は決して曲げてはいけないのです。
     イエスさまはパリサイ人たちからエルサレムより遠ざかるように警告を受けました。ヘロデ王の名を用いて脅して活動をやめさせようとしたのかもしれません。けれどもイエスさまは、「見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する」と言われました。今日も明日も、その次の日も進んで行かれる、ご自分の使命としてエルサレムに行かれることを宣言されました。
    私たちもどんな状況の下にあっても、自分たちに与えられた使命に進んでいくのです。たましいの飢え乾いた人たちに、命のパンであるイエスさまを与えることです。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはありえないと言われたように、私たちも私たちの持ち場を放り出して逃げ出すということはありえないことなのです。神さまは傷ついた人々を、御翼の下に匿われ、世界の破れを繕うその働きを私たち教会にゆだねられたのです。
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