説教要旨

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  • 2021年度

7/18 「愛で紐付けられている」 ルカの福音書7章36~50節 小林泰輔師 

  •  先週は「罪を思い出さない神」というお話しでした。神さまは私たちをその罪によっておぼえず、愛に紐付けておぼえていてくださるのです。今日の箇所の中心人物である女性も、“町でも有名な罪深い女”としてではなく、“より多く主を愛した女性”としておぼえられるのです。
     パリサイ人シモンの家に招かれたイエスさまが、食事の席に着くと、その後方から一人の女性が近づいてきました。シモンをはじめ、町の人だれもが「あの女は罪深い女だ」としていました。その女性は涙を流しながらイエスさまの足元に近づくと、その涙でイエスさまの足を濡らし、髪の毛で土埃を拭い、良い香りのする香油で御足を綺麗にしてさしあげたのです。そしてその足に何度も口づけをして感謝と愛情を表しました。おそらく、この女性はすでにどこかで主イエスの福音を聴き、神の御手に触れられ、心を変えられたのでしょう。かつての罪への後悔と、しかし、それがまったく赦され、主にあって御前に受け入れられたことの感謝と喜びを表すためにこのようなことをしたのでしょう。
     イエスさまは感謝のささげものとしてそれを受けられ、そしてシモンに例え話をしました。50デナリの借金を赦された人と、500デナリの人とではどちらが多く金貸しを愛するかという単純なお話しです。この女性は自分は多くの罪を赦していただいたと思ったからこそ、自分の持てる最高のささげもので主に感謝をささげたのでした。しかし、それに対してシモンは客人に対する最低限の礼さえもせず、自分を罪ある者とはしなかったので、イエスさまを少しも愛することがなかったのです。
     イエスさまは女性に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださいました。この人や、私たちが信心深い良い行いをしたから救われたのではありません。イエスさまは私をすでに赦し、常に赦し、全く赦してくださると、その愛に信頼するからこそ、その信仰は今日も、この瞬間もあなたを救い続けるのです。

7/11 「罪を思い出さない神」 ヨハネの福音書7章53~8章11節 森田学師 

  •  自分はあの人よりは正しいと思っている人たちが、イエス様の前に、姦淫の罪を犯して掴まった女性をひっぱってきました。夫婦のために創られた性、その外で関係を持つことを神様は悲しまれます。彼らは、この女性を利用して、どっちに転んでも、イエスにとって不利なことを言わせて、捕えようと企んでいました。イエス様は、彼らが女性にしたひどい仕打ちに対しての怒りと、女性が無慈悲にも連れて来られたことを可哀そうに思い、身をかがめて、顔を地面に向けておられました。そんなイエス様の思いなどよそに、まんまと罠にはめたと思ったその時、イエス様は口を開かれます。7節『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。』なんと、イエスを追い詰めたはずが、人間が避けて通れない、罪という大きな問題に、光をあてられることになったのです。誰もが、私にはこの女性をさばく資格などないのだ。恥ずかしい。そう思ったに違いありません。全ての人が立ち去った後、イエス様と向き合った女性は、イエス様に罪を告白したのだと思います。『イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」』
     私たちは、あの人ほど私は悪いことをしていない。人と比べてしまいがちです。また、特に自分に対してされた悪は簡単に赦せません、手放せません。そんな私たちに言われています。『わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。』(イザヤ書43:25)イエス・キリストは、そこまで私たちを愛して下さり、罪の苦しみ悲しみの底なし沼から引きあげてくださって、罪を拭い去り忘れてくださるのです。同じように私たちも、人の罪を手放すことができますように。私たちの心が、人のした悪ではなくて、その人の罪をも赦し、救おうとされている愛の神様に、向けさせてくださいますように。

7/4 「神の国を通り過ぎていく人たち」 ルカの福音書7章24~35節 小林泰輔師 

  •  教会は人々にとっての良い知らせを告げます。けれどもその宣教の声を耳にしながら神の国を通り過ぎていく人がいます。神はそのような人たちを悲しみ痛んでおられます。イエスさまは、子どもたちのごっこ遊びのような呼びかけにたとえて、笛を吹いても踊らない、弔いの歌を歌っても泣かない人たちへの残念そうな物悲しさを表しました。
     当時の人たちは、バプテスマのヨハネの宣教の声を聞きました。しかしそれを、川辺にそよぐ葦を眺めるように遠巻きに見るだけのような人もいました。神の国の福音を耳にしながら、神の国に入ろうとはしない人たちです。バプテスマのヨハネは救い主が来られる先触れとして現れる者として、旧約に預言されていたその人だったのですが、パリサイ人や律法学者といった神のみことばに近く触れていた者ほど、ヨハネを認めず、神のみこころを拒んだのです。反対に取税人や罪人たちがヨハネを受け入れて悔い改めのバプテスマを受けました。自分の罪を認めて神の前に小さな者となり、身を低くして狭い門から入ったのです。へりくだってイエスさまを受け入れた者が神の国では偉大な者と呼ばれるのです。
     ヨハネのように、この世と同調せずにきよい生活を目指していたり、自分の罪を悲しみ悔い改め、人々にも悔い改めを勧めると、宗教にハマっている人というふうに見られ距離を置かれてしまうことがあるかもしれません。その正反対にイエスさまが罪人たちと喜びの宴をもたれたように、まったく自分の努力でなく救われることを喜んでいると、この世の宗教は自分の善行によって救われると説くので、思わぬ反発を受けることもあるかもしれません。そうして神の国を遠目に見て通りすぎる人、誤解して離れていく人がいるのです。
     神の知恵を頂いて、「知恵の子ら」として神の国の福音を宣べ伝えていきましょう。

6/27 「涙の向こうにあるもの」 ルカの福音書7章11~23節 小林泰輔師 

  •  ナインの町に住むあるやもめの一人息子が死んでしまいました。イエスさまが町に入られるとその葬列に出会いました。イエスさまはその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と声をかけられると、棺に手をかけ生き返らせてくださいました。
     やもめの息子の死という物語は、エリヤの時代にもありました。極度の貧しさのゆえに今まさに死のうとしている母子は、エリヤを養うことになりました。神の助けによりかめの粉は尽きず壺の油はなくなりませんでした。神への信仰が与えられたことでしょうけれども、その後、一人息子が病気になり死んでしまいます。彼女は信仰の危機を迎え、つまずきかけますが、主はエリヤを通して息子を生き返らせてくださいました。エリシャの時代にもよく似た話がありました。主イエスがやもめの一人息子を生き返らせたとき、人々はこの偉大な預言者たちを思い起こしたのでしょう。イエスさまを預言者、来るべき救い主と期待する声もあがりました。
     その頃、バプテスマのヨハネは投獄されており、約束のメシアはイエスさまなのか弟子たちを派遣して尋ねさせました。イエスさまが預言書(イザヤ61章等)の通りにみわざを行っていることを告げなさいと言われ、そして「わたしにつまずかない者は幸いです」と付け加えました。ヨハネでさえ神の救いのご計画の深遠なことにつまずく恐れがあったというのでしょうか。
     自分の手に負えない出来事、突然の病気や災害、死別などにおいては、ただ泣くしかないようなことがあります。そしてそれは時に信仰の危機になりえます。しかし、主は「泣かなくてもよい」と言われます。涙の向こうに神ご自身が私たちの涙を拭ってくださる神の国があるからです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあります(詩篇30:5)。だから涙の向こうに主を見上げて祈り続けましょう。

6/20 「百人隊長は知っている」 ルカの福音書7章1~10節 小林泰輔師

  •  カペナウムの町でのこと。ある百人隊長のしもべが病気で死にかけていたときのことです。百人隊長はイエスさまのことを知っていて、イエスさまならばこのしもべを癒し、救うことができると信じて、ユダヤ人の長老たちに頼んでイエスさまを呼びに行ってもらいました。長老たちは「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」と付け加えました。百人隊長は良好な人間関係を築き、ユダヤ人のために会堂を建てたり、地域への貢献もありました。
     しかし、百人隊長は知っているのです。自分は立派な人間でもなければ、神の特別の恩顧を受けられるような資格もないのだということを。立派だと言われれば言われるほど胸がちりちり痛むのです。しかしまた、百人隊長は知っているのです。自分には神の救いが必要だと言うことを。その両方の思いに揺れ、来てくださいと言ったと思えば来ないでくださいというような、右往左往する私たちです。
     イエスさまは知っているのです。私たちがどれだけ救いと癒しを必要としているかを。どれだけ自分の罪に悩み喘いでいるかを。ですから御子が十字架の犠牲によって、私たちが御父の前に出る道となってくださったのです。
     百人隊長は知っているのです。イエスさまには神の権威があることを。みことばによって悪霊を追い出し、熱病を叱りつけて癒し、嵐を静めることのできるお方です。自分自身も権威を知る者として、イエスさまのお言葉があれば当たり前にしもべは癒されると確信していました。当たり前なので驚きません。その驚かないことにイエスさまは驚かれたのです。そしてその信仰をイエスさまがお認めになった言葉と同時にしもべは癒されたのでした。
     神の国は資格を問いません。まるごとささげて委ねて、神の国の御計画に参画していきましょう。

6/13 「神の思い、私の思い」 ヨハネの福音書6章34~51節 森田学師

  •  ヨハネは、イエス様の行なわれた奇跡をたった7つだけに絞りました。それは、イエス様の栄光をあらわすためです。しかし、人々は、目前の奇跡にばかり感心を寄せ、イエス様には見向きもしません。奇跡はすばらしいものですが、イエス様に感心がないのなら、イエス様といくら会話をしても、心はすれ違い離れてしまいます。イエス様のことばさえも受け入れられず、不満があふれてきます。私たちの心を唯一満たす、いのちのパン=イエス様の言葉を心が食べない限り、心は満たされないのです。結局のところ、何か証拠を見たから信じると言うのは、実は信じるきっかけになることはあっても、信じることとは違うのです。今、神様が求めておられることは、奇跡を見て満足することではなく、奇跡を行われる、力あるお方イエス様の心を知ることです。
     誰でも、イエス様を心から求める時、神様の方が私たちを力強く引き寄せてくださり、私たちに神様の思いを教えてくださいます。そんな私たちに、永遠のいのちに至る食べ物、イエス様のために生きましょうと招かれています。私たちは、神様の御手の中で、いま生かされています。この地上の旅の終わりはいつなのか、神様にしかわかりません。突然父が天に召されたことを通して、永遠に続くものは、キリストを嬉しそうに誇ること。キリストの愛に生きることと知りました。
     しかし、他のものを優先にして生きても、地位や名誉や財産を築き上げても、何一つ天国へは持っていけません。私たちはなぜ、今の私たちなのでしょうか。あなたはなぜ、今のあなたなのでしょうか。『なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。』何よりも先ず、神様の思いに私の思いを重ねて生きるならば、人々はあなたに感心を寄せ、そのあなたの中にある神の思いに触れて、祝福の泉が流れていきます。

6/6 「行いの実を結ぶ」 ルカの福音書6章43~49節 小林泰輔師

  •  「心に満ちていること」(45)は何か。心をさぐられるみことばです。神に出会う前ならば、罪悪感や他者への苦い思いで満ちていることかもしれません。それではとげとげしいイバラのような悪い木につながり、悪い言葉が出てしまうかもしれません。しかし、私たちには自由が与えられています。良い木を選ぶことができます。良い木であるイエスさまにとどまり続けることは訓練することができます。神の恵みを思い起こす訓練です。そうすれば心の中は神さまへの感謝と賛美に満たされ、それが口から出てくるようになるでしょう。
     「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」(46)。道徳的善を行わないことを責めているというより、広い意味で捉えるなら、みことば通りに生きようとしないことでしょう。何よりもまず先に実践すべきみことばは、「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4-5)ではないでしょうか。ぶどうの木であるイエスさまにつながっていなければ、そもそも行いの実を結ぶことはできません。
     私たちは良い人生を送りたいと願います。どんな嵐にも揺るがない家(48)のような、確かな人生を積み上げていきたいのです。そのためにはイエスさまにとどまり続け、ぶどうの幹なるイエスさまから力をいただくことです。神の恵みをいつもおぼえている訓練を通して自分の信仰の内面を掘り下げていくなら、確かな土台の上に家を建て上げることができるでしょう。やがて世を去る時か、世の終わりの神のさばきの時でさえも、神の御前に確信をもって立つ(Ⅰヨハネ3:21)ことができるほどの信仰に成長するでしょう。人の知らないうちに植物が成長するように、行いの実も成長することでしょう。「与えよ、さらば与えられん」とも「求めよ、さらば与えられん」ともあるのは、人々に与えるために求めるのです。そうして、隣人の力になれたときには幸いな人生の喜びを実感するでしょう。

5/30 「イエスさまのようになる」 ルカの福音書6章37~42節 小林泰輔師

  •  「さばくな」という教えもまた、キリスト教の教えとして有名でしょう。人をさばくそのさばきで自分自身がさばかれることになるからです。しかし、それは「お互い様だから言いっこなし」という意味ではありません。人をさばくな、そうすれば神もあなたをさばかないという意味です。
     人をさばく心は人間関係を破壊します。人の行為や主張が正しいかを判定する「裁き」から始まり、やがてその人を不義に定めて下に見るようなさばきに発展していきます。裁判には勝敗があるように、さばく心は人間関係に競争を持ち込みます。勝負の相手は「敵」と呼ばれます。汝の敵を愛せよと語られましたが、そもそもその敵を作り出していたのは私たちのさばく心が原因だったのです。
     私たちはみな対等です。自分をさばき主の座に就かせるべきではありません。隣人も兄弟姉妹もみな仲間です。私たちがなすべきはさばき合うことではなく、与え合うことです。それが神の国の在り方です。さばき合うことをやめれば世界を変えることができます。そしてそれは私から始めることができるのです。
     兄弟姉妹の誤りを指摘してはいけないのか。そうではありません。目のちりを取らせてくださいというユーモラスなたとえの結論は、「ちりを取り除くことができる」です。自分自身の目には丸太が入っているのだから偉そうにするなとか、お互いの間違いは見なかったことにしようというのではないのです。そのためにはもちろん自分の目から丸太のようなごっつい罪を取り除いてもらう必要があります。これも私から始められることです。罪の本質は「自分中心」ですが、悔い改めも兄弟を赦すことも「自分次第」で私から始められます。それには「十分な訓練」が必要ですが(40)、主イエスにすべての権利を明け渡す訓練を受けるなら、イエスさまのように愛をもってちりを取り除くことができるようになります。

5/23 「汝の敵を愛せよ」 ルカの福音書6章27~36節 小林泰輔師 

  •  「汝の敵を愛せよ」とはキリスト教の特徴的な教えとして知られているかもしれません。「難しいチャレンジ」「立派な心がけ」「無理難題」「実現不可能な理想主義」と反応はさまざま。たしかに人間の心がけや努力だけでは実現不可能でしょう。
     イエスさまはここで二度「汝の敵を愛せよ」と言われましたが、どちらも、前の文脈を打ち消す「しかし」という言葉から始まります。一度目は、預言者たちが迫害されてきたという歴史から。迫害されたらその何倍に変えて仕返ししたくなるのが人間感情ですが、「しかし」迫害されても敵を愛しなさいと言われたのです(27)。
     二度目は、自分を愛してくれる人に愛で返すという愛の応酬が描かれた後、それなら罪人たちでも同じことをしていると言われ、「しかし」自分の敵をこそ愛しなさいと言われました(35)。教会にはとても温かい愛の交流があります。しかし、そこで恵みを受けるのは自分たちだけです。教会の外に目を向けるなら、そこには愛の冷え切った世界があります。人が誰かに敵対したりするのはどうしてでしょうか。その人自身が愛を十分に受けて来なかったからかもしれません。罪人同士の利害関係がぶつかり合う世においては、そこかしこに恨みや痛み、苦しみや悲しみが転がっています。イエスさまはそのような世界の文脈を打ち消し、「しかし」と言われるのです。
     敵を愛するという具体的な行動(あるいはシチュエーション)も語られましたが、これはすべてイエスさまが実際にその生涯で示してくださったことです。その時、敵とは私たちのことでした。神を否定し拒み敵対する私たちのために命を捨ててまで愛を示してくださったのです。愛の冷えた世に、憎しみの連鎖が止まらない世に、それでも「しかし」と流れを断ち切って、わたしとともに世界を変えようと招いておられます。御声に従い、主とともに歩みましょう。そのために聖霊を与えてくださいましたから。

5/16 「神の国の幸い」 ルカの福音書6章20~26節 小林泰輔師 

  •  主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めるとは、あなたの構想を捨てなさいということであり、当時、ユダヤ人には三つの構想がありました。①この世から離れて精神世界に逃げ込むこと(ex.クムラン教団)②この世と妥協すること(ex.ヘロデ党)③武力革命(ex.熱心党)しかし、主はそのどれでもない方法でイスラエルの統治を完成されます。それが良き知らせ、福音なのです。
     主の統治を受け入れるなら、すべてが新しくされ、何が幸いかという価値観も変えられます。貧しくても神がともにおられるなら平安があります。食物に飢えてもたましいには満たしがあります。今泣いていても主とともに笑う日が必ず来ます。クリスチャンであることを公言して疎まれても天において大きな報いがあります。しかし、私たちの人生構想はこうではありません。なるべく富をたくわえようと自分のことに躍起になります。実際、豊かな生活をしているので神を求めることをしなくなります。満腹になり、たましいの満たしを求めず、苦しみはなるべく避け、隣人の笑顔のために苦しみを請け負うこともなく、キリスト者であることを隠して世渡り上手になっていきます。人々の前で御父を知らないと言う私たちに、やがてのとき、御父もまた「あなたを知らない」と言われるでしょう。
     どんなに地上の暮らしを良くしようとしてもそれは砂上の楼閣です。主イエスの再臨とともに神の国がやって来る時には空しく崩れ去るものです。自分中心の人生構想を捨て、神の国の構想に生きることです。主イエスは世の終わりまでともにいてくださいます。神のみそばにいることこそが幸いです。御国の完成まで主とともに歩んでまいりましょう。

5/9 「今日御声を聞いたなら」 ヨハネの福音書5章12~19節 森田学師

  •  今、イエスは、38年もの間病気にかかっている人に目を留め、出会われます。イエスに「良くなりたいか。」と言われても、「主よ。…池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と自己弁護。歩けるのに諦めてしまう。誰かがしてくれないから治らない。私は悪くない。癒やされようともしない。38年間もです。他の病人たちも、憐れみの心は無く、彼を無視して泉に入ります。誰もが体の病だけではなく、霊的な病にかかっていたのです。
     そんな絶望と、無気力と、愛の無い虚しい人生が、たちまち変わる時が訪れます。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」イエスの御声を聞いたなら、そのときが救いの時です。神様との出会いの時です。「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」私たちも心が探られます。神様の真実なことばに、心が露わにされ、自分の弱さを初めて見ます。弱さを他人に擦り付け生きていたことが罪と気付き、今、自分の弱さに向き合うことができたのです。そして、罪を告白し、向きを変えて歩き出しました。
     迷うことなくイエスの言葉を受け容れるなら、私たちも同じ様に変えられるのです。十字架で命を差し出してまで愛してくださるイエスの御声を聞いて、迷わず従うその瞬間、聖霊が離れる決心も勇気も力も与え、私たちを創り変えます。私たちの思考、性格や人格、生き方さえも根底から変えることの出来るのは、人の名言でもなく、人の知識でもなく、ただ、神の御声だけです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
     彼にこんな長い間、悪習慣があったということに関心がいきがちですが、イエスにとっては、罪からの解放、救いは一瞬です。時を創られた神は、時間には囚われないからです。私たちは、過去の自分にいつまでも囚われていても何も生み出されません。今この瞬間が大事なのであり、今がイエスの御声を聴くときです。

5/2 「12人の使徒たち」 ルカの福音書6章12~19節 小林泰輔師

  •  12使徒が選ばれるところですが、その前にはイエスさまの祈りの姿がありました。山に行き、祈りのうちに夜を明かされたほど熱心に祈りに打ち込まれました。御父は天地創造の七日目に休まれましたが、その後は「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)方として天地を治めていてくださいます。御子は地上においては肉体を持たれ、疲れ、眠ることもありましたが、昇天されてからは永遠の大祭司として今も私たちのためにとりなしていてくださいます。御霊は私たちのためにうめき、とりなしていてくださいます。三位一体の神の祈りに支えられて私たちは在るのです。
     選ばれた12人の使徒たちは出自も性格も能力もみなバラバラでした。しかし、ふさわしい能力ややる気に満ち溢れる態度によって選ばれたのではありませんでした。まず神による選びがあったのです。そして彼らがその使命を全うすることができるためにも主イエスは祈っていてくださったのではないでしょうか。
     マルコの福音書では、使徒たちは選ばれてから二人組ですぐに伝道に遣わされています。使徒の名前の登場順がペアを表しているとすれば、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネのような兄弟組、ピリポとバルトロマイの先輩後輩(?)組、すぐに従った取税人マタイと慎重なトマス、年若く控えめな(?)小ヤコブの相棒は熱心党員シモン、イスカリオテのユダと、じゃない方のユダなど、面白い組み合わせに思えます。
     私たちも主に選ばれた弟子たちです。それぞれユニークな賜物を与えられていますが、互いに欠けを補い合いながら主の御用に用いられ励んでいきます。主はご自身が選んだ者のために祈っていてくださいます。祈りに支えられ遣わされていきます。

4/25 「安息日に働かれる主」 ルカの福音書6章1~11節 小林泰輔師

  •  昨今は自粛警察、マスク警察などが登場しましたが、本日の聖書箇所には「安息日警察」とも言える人たちが登場します。パリサイ人たちです。安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べてしまいます。他人の畑から少し頂くことは許されていました。しかし安息日に穂を摘むというのは収穫にあたり、手で揉んで食べるという脱穀にあたるという安息日の戒律違反だったのです。
     いわば法律論で責め立てるパリサイ人に対して、イエスさまは判例のように過去の事例を持ち出して反論しました。ダビデの時代に祭司しか食べてはいけないパンを食べたということでしたが、それについて神は何も咎めていないのです。裁いて罰することもできましたが、神はあわれみを優先なさったのです。「…あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジ33:19)ことは神さまの特権です。
     イエスさまは「人の子は安息日の主です」(5節)と言われました。安息日に何をして何をしないかを決めるのも神の特権です。安息日は人々の安息のための神のあわれみが本質にありますから、安息日に麦を摘むことも、この後の右手の萎えた人を癒すことも、神のあわれみにかなったことでした。神は天地創造の七日目には休みまれましたが、その後は眠ることもまどろむこともなく地を治め続けておられるのです。
     七日目に天地創造のわざを休まれた神に倣って私たちも休みを取ります。私たちは罪の性質を持っているので簡単に神の恵みを忘れてしまいます。ですから、七日ごとの休みに礼拝をささげ。神に感謝と賛美をささげる必要があります。主イエスに倣って安息日に愛し、助け、神のあわれみを表すわざを積極的に行ってまいりましょう。

4/18 「新しいぶどう酒と皮袋」 ルカの福音書5章33~39節 小林泰輔師

  •  イエスさまはこの箇所で、新しいいのちによって、新しい生活様式に変わっていくことを語ってくださいました。この話をしてくださった背景には「祝宴」の風景があります。取税人レビが救われたその祝いの席でのことでした。豪勢な食事を楽しんでいるとパリサイ人がクレームをつけてきました。なぜ罪人と食卓をともにし、なぜ断食をしないのかと。そこでイエスさまはユーモアあふれる譬えを話されました。
     「披露宴で何も食べずに悲しむ人」せっかくのごちそうが、祝いの席が台無しですね。イエスさまは花婿、教会は花嫁です。花婿と一緒にいられる時は心から喜び楽しむのです。やがて花婿が取り去られる時が来るとも言われました。これは十字架の死のことです。その時にはイエスさまを十字架にかけた自分の罪を悔い改めます。
     「おニューの服で古着を繕う」一張羅が台無しです。私たちはイエスさまで型取りをした新しい衣を着せられています(エペソ4:23-25)。救われて新しくされた者にはイエスさまの生き方が一番似合うのです。新しくされた者が、古い生き方(律法主義的自己義認や罪)に戻るなら愚かなことです。
     「皮袋は新しく、ワインは古い方が良い」古い皮袋は伸縮性がなく、新しいぶどう酒を入れると醗酵により皮袋を裂いてしまいます。袋もワインも台無し。新しいぶどう酒とは、イエスさまのくださるいのち、そして聖霊の満たし。それらが注がれるなら、新しい皮袋(新しい生活様式)が必要になります。心を柔らかくし御霊に聴き従うなら、私たちは香りの良いぶどう酒のように熟成されていくでしょう。それを人々に分け与えるために私たちは召されました。熟成されたキリストの良い香りを放り、世の人々をキリストのもとに導きましょう。

4/11 「信頼」 ヨハネの福音書4章43~54節 森田学師

  •  王室の役人は、50節と53節でなぜ二度も信じたのでしょう?一度目は偽りで、二度目で信じ直したのでしょうか?いいえ、ちがいます。不器用ながらも、もうイエスを信じるしかない、そして、神のことばが実現し神を体験したときに、初めの信仰が、神への深い信頼へと成長したのです。
     聖霊によって心の中に生まれたイエス・キリストを“信じます”という告白。それでも迷いやすく、疑いやすい私たち。だからこそ、神は私たちの意志を試すのです。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』イエス様のことばは心を探られます。しかし真実の愛ゆえに、魂に平安を与えます。イエス以外に信頼し、期待し、傷付き裏切られ絶望する人生から解放する、完全な救いをもたらします。
     イエスがなされた第二のしるしによって、イエスは奇跡を行なうだけではない、空間を超越し支配するまことの神であり、このお方の御手の届かないところは、この世界にはどこにも無い、命さえ支配されていると知るのです。
     神が私たちに望まれていることは、救い主イエスを信じ、めでたしめでたし、終わり。ではなく、神ご自身を体験することです。神を体験するとき、イエスのことばに生きることこそが絶対に間違いのない道。もうこのお方無しには、自分の人生は成り立たない、ということに気付かされていくのです。すべては、神の栄光がほめたたえるためです。ですから、神を体験して知っていくことは私たちの霊的財産です。
     もっとわたしを知ってほしい、もっと私を見つめて信頼してほしい、と神はあなたの告白を待っています。私たちは今どこに信頼を置いているでしょうか。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』

4/4 「堅く立ち、主のわざに励む」 Ⅰコリント15章57、58節 小林泰輔師 

  •  「堅く立ち」とは何の上に立つのか。それは主イエスがよみがえられたという事実の上に堅く立つのです。
     その朝、マリヤたちが墓に行くと、そこにイエスさまのからだはなく、空の墓がありました。御使いはその空の墓を見よと指し示しました。墓の中には普通「死」という動かしようのない事実があります。しかし空の墓には「死」がありません。「死は勝利に吞み込まれた」(Ⅰコリ15:54)のです。
     人々は死について、あまりにも無頓着で曖昧な考えしか持っていません。死んだら霊魂となって“あの世”に行き、残してきた家族を見守るだとか、根拠のない空想を頼りにしています。しかし、聖書にははっきりと「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(マルコ16:16)と書いてあります。信じない者は滅びるしかないというのが動かしようのない事実です。しかし、信じる者は救われるのです。その根拠がイエス・キリストの復活です。
     イエス・キリストは私たちの罪を身代わりに背負い、十字架に死なれました。私たちに罪があるままでは神の御前に立つことができないので、私たちの罪咎を十字架において消し去ってくださったのです。それでももしイエスがよみがえらなかったのならば、イエスの十字架による贖いというのも単なる空想に過ぎないことになってしまいます(Ⅰコリ15:17-19)。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同20節)
     復活には、私たちの罪が赦されたことを確証させるものであり、また、私たちも主イエスのような栄光のからだによみがえるという希望を持たせるものです。この確かな事実である主イエスの復活の上に堅く立ち、主のわざに満たされて参りましょう。
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