説教要旨

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  • 2024年度

1/26 「イエスさまの目的」 ルカの福音書19章1〜10節 小林泰輔師 

  •  ザアカイはユダヤ人でしたが、ローマ帝国の税金を徴収する「取税人」でした。取税人はいくつかの理由で同胞から嫌われていました。まず、敵国、支配国であるローマ帝国の手先のように感じられたことです。そして、取税人はローマの定めた税率よりも多く徴収して私腹を肥やすことが多かったことなどです。
     ザアカイの住むエリコの街に、イエスさまがやって来るという知らせがありました。ザアカイはイエスさまを一目見たいと思いました。それで走ってその場所に行きましたが、背が低かったので見えません。ザアカイは人目も憚らずいちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。そんなザアカイをイエスさまは見つけてくださいました。そして「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている」と言われました。すでに決めていたというのです。イエスさまがエリコに来た目的はこのたった一人のザアカイを救うためだったのかもしれません。
     ユダヤのラビでもあったイエスさまが、罪人の代表格のようなザアカイの家に泊まり、食卓を共にするということは異常なことでしたから、人々は文句を言いました。にもかかわらず愛してくださるイエスさまに出会ってザアカイは救われ、変えられました。「今日、救いがこの家に来ました。…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのです。」あなたや私を救うため。それが、イエスさまがこの地に来られた目的です。

1/19 「神の栄光の都」 ヨハネの黙示録21章9〜27節 小林泰輔師

  •  この箇所には新しい天と地(天国)の情景が描かれていますが、それはヨハネの語彙の限界をゆうに超えて、書いてあること以上に素晴らしいことでしょう。私たちが描くSF物語の未来世界みたいなものかもしれません。2025年の今現在よりさらなる未来を古代人であるヨハネが見たらどのように映るのでしょうか。一つ言えることは、黙示録や聖書の記述は断片的でありすべてを明かしているわけではないので、予告編が本編を超えないように、想像をはるかに凌ぐ素晴らしさだということでしょう。
     都の大きさが詳しく書かれています。一辺が2,200Kmもある立方体です。日本列島の長さの三分の二ぐらいの建造物です。幅と奥行きはまだしも、それだけの高さの建物を人間の技術では作ることはできません。都の大きさだけでそれほどあります。この都は新しいエルサレムとして天からくだってくるのです。また、城壁があり、その外には広大な地が広がります。それらが私たちに相続され、割り当てられ、私たちはそこを治めることになるのです。天の御国での毎日は充実した日々になりそうです。
     今ここにある天と地は、やがては滅び去るものです。それでは、この地上で積み上げるものは一切が無意味なのでしょうか。この箇所には「こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる」と書かれています(26節)。私たちが地上で成したことは、神の栄光の中に組み入れられ、何某かの形で次に来る世に持ち越されることがある、と窺えます。
     主イエスは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)言われました。文字通りの意味で、死んでも復活し、よみがえりのからだをもって新しい天の御国で生きるという意味であり、また、死んでもその生きた証は永遠に生き続けるという意味でもあることが、合わせて読むとわかります。この地上の生涯を生かされている間、今ここでのいのちを、主とともに懸命に生きていきましょう。

1/12 「主をほめたたえよ」 詩篇103篇1〜22節 小林泰輔師

  •  「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」新しい一年をこのみことばとともに始めてまいりたいと思います。“息を吐くように嘘をつく”という表現がありますが、クリスチャンは真逆のことで“息を吐くように神を賛美する、神に感謝する、神に願い求める”者です。それはつまり祈りのことです。祈りは呼吸です。
     世にあっては「忘年会」をします。嫌なことを忘れて、新しい年を迎えようという催しだと思いますが、一緒によかったことまで忘れてしまってはいけません。また困難な出来事のなかにあっても感謝すべきこともあるのです。そのことを忘れてはいけません。
     逆に神さまが忘れてくださることがあります。それは私たちの犯した罪や過ちのことです。天が地上はるかに高いように、東が西から遠く離れているように、主の恵みは私たちの想像を超えてすばらしく、私たちの罪を私たちから遠く引き話してくださるのです(11,12)。
     エレミヤ書33章3節には『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう』と言われました。主を呼び求めることを神さまは喜んでくださいます。Iさんは病床洗礼を受けましたが、クリスチャンとしての作法を知る時間はありませんでした。それでも苦しい時「アーメン!アーメン!」と神さまを呼んだというのです。神はその叫びに応えて痛みを鎮め平安を与えてくださいました。
     小説の主人公、少女パレアナは牧師である父からピリピ書の「主にあって喜びなさい」ということをどんな境遇でも喜ぶゲームとして教えられました。やがて不遇な環境に追いやられてもパレアナはこの「よかった探し」を続けました。するとその影響が少しずつ周りの人々を変えていったのです。
     私たちも新しい一年、息をするように賛美し感謝し祈る日々として過ごしていきましょう。

1/5 「天の父に信頼する」 マタイの福音書6章5〜8節 佐藤創師

  •  祈りは私たちの信仰生活の中心であり、単なる願望や要求を届ける手段ではなく、天の父との信頼関係を築くためのものです。「絶えず祈りなさい」という聖書の言葉は、祈りを特別な時だけでなく日々の営みとするよう促しています。しかし、私たちはしばしば「苦しい時の神頼み」に陥り、祈りが最終手段のようになってしまうことがあります。
     聖書は、偽善的な祈りや形式的な祈りではなく、隠れたところでの祈りを強調しています。人目を気にする祈りや、言葉を繰り返すだけの祈りではなく、天の父に心を向けることが重要です。イエスは「父は私たちが求める前から必要を知っている」と教え、私たちが神に不足を補うように祈るのではなく、神がすべてを知り、愛しておられるという信頼に基づいて祈ることを勧めます。
     祈りは「事」ではなく、すべての必要を知る天の「父」に焦点を当てるべきです。そして祈りは、私たちの信仰を深め、神との交わりを深めるものです。心の密室を作り、他者や世間の価値観から離れて神との関係を築く必要があります。
     祈りは信仰の表現であり、安心して神に委ねるものであるべきです。2025年も祈りを日常の中で実践し、天の父への信頼を深めていきましょう。

12/29 「あなたの知らないうちに」 マルコの福音書4章26〜34節 小林泰輔師

  •  「あなたの知らないうちに」というと、多くの人は、自分の知らないところで悪いことが起きていると恐れるかもしれませんが、今日の話はその逆で、知らないうちに良いことが起きているという話です。結論は、自分の人生を完全にコントロールする必要はないということです。
     「種まきのたとえ」は、神の言葉を聞いたとき、人間の心がどのように反応するかについて四つの土壌にたとえています。道端に蒔かれた種はサタンによってすぐに取り去られ、岩地に蒔かれた種は浅い根しか持たないため、困難が来ると信仰がしぼんでしまいます。茨の中に蒔かれた種は芽を出しますが、世の思い煩いや富の誘惑によって成長できません。しかし、良い地に蒔かれた種はしっかりと根を張り、実を結びます。みことばを受け入れる心が大切なのです。
     また、へりくだって神の前に出ることが重要です。私たちは神に創造された者でありながら、自分が神より上に立ってしまう罪を持っています。それを悔い改め、神を神として仰ぐべきです。イザヤ書45:22には、「わたしを仰ぎ見て救われよ」とあります。神を仰ぎ見ることで救いがもたらされるのです。これには、自分の力を頼らず、神にすべてを委ねることが求められます。
     さらに、神の国は「ひとりでに」成長するものです。信仰を持った者は自分の力で成長しようとせずとも、神の力によって成長していきます。神の国(神による心の統治)は目に見える形で少しずつ成長していき、私たちの信仰の歩みにも自ずと実として表れてくるものです。
     からし種のたとえでは、非常に小さな種が大きく成長することが示されています。神の国もまた、小さな始まりから驚くべき成長を遂げるという教えです。神は小さなものを大きくし、弱い者を強くし、貧しい者を豊かにするのです。聖書には、少年ダビデが巨人ゴリアテを倒し、若きエレミヤが大預言者となるなどの事例が多くありますが、これこそが神の方法であり、人間の誇りではなく、神の力によってこそ成し遂げられるものであることを教えています。
     信仰が強いか弱いかではなく、信仰はあるかないかが重要です。イエスは「信仰がない」ことを叱りました。小さな信仰でも、ありさえすれば神はそれを幾倍にもして用いて大きな働きをされます。私たちの信仰は神の力によって成長し、神の国も知らないうちに広がっていくのです。

12/22 「羊飼いと御使い」 ルカの福音書2章8〜20節 小林泰輔師

  •  羊飼いたちは野宿をして羊たちの夜番をしていました。このように羊飼いは、羊の世話が常に必要なので、ユダヤ人の安息日も会堂の礼拝も守ることができませんでした。ですから、人々からは見下されていたのです。そんな風な日常の中に突然、神の使いが現れて、彼らはびっくり仰天しました。さらにびっくりすることに、長い間、待ち望んでいた救い主の誕生の知らせが告げられたのです。今日、ダビデの町で、飼い葉桶に、そのヒントをもとに羊飼いたちは救い主を礼拝するために出かけていけました。普段礼拝儀式に参加することのできなかった者たちに、一番最初に礼拝の機会が許されたのです。
     ヨセフやマリアは生まれる子どもが救い主であることを知らされていましたから、羊飼いたちの礼拝を受け入れましたが、どこで知らされてやってきたのか不思議に思ったことでしょう。彼らにも御使いが現れて、そして礼拝にやってきたことを聞いて、やはりこの子は救い主キリストなのだとマリアもまた確信を深めたでしょう。マリアはこのことを心に留めておきました。そしてルカに証言として聞かせ、福音書に記されることとなりました。
     羊飼いたちは救い主に出会った喜びに歌い踊りながら日常へと帰っていきました。その後の彼らの人生はどのように変えられたでしょうか。私たちの人生は救い主との出会いによってどのように変えられたでしょうか。
     今日、一人の人が受洗の恵みに与りました。彼女の人生はどのように変えられていくのでしょうか。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」この世界を住まいとされ、生まれてくださった方は、どんな人の心の中にも宿ってくださいます。そして内側から根本的に徹底的に救い、洗いきよめ、新しい命に生かしてくださいます。この喜びをおぼえて、声をあげて救い主の御名を賛美しましょう。

12/15 「千年王国の王」 ヨハネの黙示録20章1〜15節 小林泰輔師 

  •  「千年王国」という言葉は聖書にはありませんが、再び地に来られるキリストが千年の間、王として治めると書いてあります。そして、そのときにはキリストを信じた者たちも祭司として、王と、共に治めるとも書いてあります。すでに死んでいた信徒たちはこのときに復活します。これを「第一の復活」と呼びます(ただし、「第二の復活」という言葉は出てきません)。このことから「千年王国」または「千年期」と呼ばれています。この千年の期間には、サタンは縛られ、底知れぬ所に投げ込まれ、封印されます。この千年期が終わるまで不信者がよみがえることはありません。
     千年期の終わりにサタンは一時的に解き放たれ、ゴグとマゴグを惑わし、神と聖徒たちの陣営に戦いを挑みます。「ゴグとマゴグ」は、ある地域、ある統治体を示しています(現代あるいは未来において何を指すのかは完全には明かされていません)。その人たちは千年期のキリストの完全な統治を目にしながらなおサタンに従うというのですから、サタンの惑わしの巧妙さのゆえか、人間の底知れぬ欲望のゆえか、恐ろしさをおぼえます。しかし、聖霊なる主は私たちの信仰を終りまで保ってくださいますから、主にゆだねる者には平安があります。
     千年期の終りに、すべての死者がよみがえります。そして、古い天と古い地は消え去り、白い御座とそこに座す方だけがおられる空間で最後の審判が行われます。そのとき、主を信じて歩んだ者はいのちの書から名が読み上げられ、信仰とその行いに応じて良い報いを受けます。罪についての訴えはイエス・キリストの十字架の犠牲により無効とされ、永遠のいのち、新天新地における生に定められます。
     しかし、最後まで主を信じることのなかった者は裁きを受けるためによみがえり、その不信仰と行いのゆえに、永遠の死に定められます。これを聖書は「第二の死」と呼びます。サタン、死とよみ、いのちの書に名前の記されていない者は火の池に投げ込まれます。
     今の時の試練や患難はひとときのことでありますが、新天新地は永遠のものです。そこに入る方法は極めてシンプルです。自分を主にするのをやめ、悔い改め、イエスを主として受け入れ、神を愛し、人々を愛して生きていくことです。

12/8 「居場所のない者の居場所となってくださったお方」 ルカの福音書2章1〜20節 山口翔主事

  •  歴史上最初のクリスマスは、居場所を探す二人の夫婦の物語から始まります。ヨセフは、住民登録をするために、自分の生まれ故郷であるベツレヘムへと向かいました。彼にはマリアという妊娠している妻がおり、彼女も一緒に向かいました。ここには信じられないことが書いてあります。マリアがなんと飼葉桶で出産したというのです。飼葉桶とは、牛や馬の餌を入れる器のことです。彼らは、馬小屋で出産して、生まれたばかりの赤ちゃんを餌箱に寝かしたということです。どうしてでしょうか?7節の後半にその理由が書いてあります。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」自分の生まれ故郷なのに、居場所がなかった彼らは、馬小屋という汚く臭い場所へと追いやられました。そこで男の子が生まれ、この男の子が、イエス様です。どうして、イエス様は飼葉桶の中で生まれたのでしょうか?それは居場所がない人たちの居場所となるためでした。8節から登場するのは、羊飼いです。彼らは、安息日に礼拝を守れないことが主な理由で、人々から軽蔑され社会的に孤立していました。彼らには、社会的に居場所がなかったのです。そんな彼らに突然天使が現れました。彼らにとって、この天使の登場は、非常な恐怖でした。しかし、そんな中一つだけ彼らの耳に残る言葉がありました。それが「飼葉桶」であり、飼葉桶がある場所は、彼らにとって「自分が自分で居られる場所」でした。そこに救い主が生まれました。
     飼葉桶というのは、羊飼いたちの心も表しています。飼葉桶の汚さのように、汚い心の声もあれば、ヒビと傷だらけの飼葉桶のように、傷ついた心の声もある。まさに飼葉桶のような心です。それは、私たちの心そのものだとも思います。私たちの裸の心は、飼葉桶のような心なのです。そんな心を持つ私たちに会いたいと願っている存在がイエス様なのです。イエス様の元では、隠さず、仮面を外して、そのままの姿で居られます。
     天使が伝えた知らせとは、羊飼いだけでなく、私たちにも向けられた、「イエス・キリストの元にこそ本当の居場所がある」という良い知らせなのです。これがクリスマスの知らせであり、私たちがお祝いする理由です。この良い知らせを受け取って歩んでいきましょう。

12/1 「わたしとあなた」 イザヤ書43章4節 小林泰輔師

  •  聖書を読むときに、「わたし」と「あなた」という言葉がよく出てきます。「わたし」は平仮名の場合は神さまです。その際の「あなた」イスラエルや教会、つまり私たちのことです。また「私」からも神に向かって「あなた」呼びかけます。神さまと私たちの関係は互いに「あなた」と呼び合う関係です。決して「彼」や「それ」などという遠いところにいる誰かを指す言葉ではないのです。
     「わたしの目にはあなは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と聖書にある言葉は、神さまの目に映る私はとても価値があり尊いものだという、神さまからのメッセージです。その後にはストレートに「愛している」と書かれています。どこかの誰かと比較して価値があると言っているのではないのです。
     クリスマスの知らせを最初に知らされたのは、社会で除け者にされていた羊飼いたちでした。また、取税人ザアカイに出会ってくださった主は、きょうはあなたのところに泊まることにしてあると言われました。世界の基の置かれる前からザアカイを選び、ザアカイを目掛けてエリコの町にきてくださったのです。神さまは、あなたのためにも、あなたを目掛けて、救うために来てくれたのです。
     聖書の神は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」と言いますが、それは他宗教の否定とか偶像崇拝の禁止以上の意味があります。愛とは相互関係です。愛し、愛されることで私たちは満ち足ります。私たちは愛することにも飢え渇いています。その愛を神は一身に引き受けてくださいます。そして愛に応えて、わたしたちを養い、守り、導いてくださいます。もちろん、はじめに愛してくださったのは神さまです。その愛に応えて私たちも神さまを愛します。神は唯一であり、神にとってあなたも唯一の存在であり、愛の関係も唯一です。ほかでは替えが効かない、欠け替えのない存在、欠け替えのない関係なのです。
     しかし、その関係には壁があります。それは私たちの罪です。神の愛に背を向けることです。私のために死ぬためにこの世に来てくださったイエスさまを無視するのは、とてつもなく重い罪です。イエスさまを信じてその愛を受け入れましょう。

11/24 「必要なことは一つ」(『成長』より) ルカの福音書10章38〜42節 小林泰輔師

  •  イエスさまは、ベタニヤの町をよく訪れました。そこには、マルタとマリアとラザロの姉弟が住んでいて、彼らとは特別親しかったようです。今回もイエスさまは弟子たちと一緒に彼らの家に行きました。大勢のお客さんをもてなすため、マルタは張り切って準備したことでしょう。それはイエスさまを愛するがゆえのことでした。たくさんの料理やぶどう酒を準備して、それを運んだり、お皿を片付けたり大忙しです。そんなときに、妹のマリアがイエスさまのそば近くで、イエスさまのお話にじっくり耳を傾けているのが目に入りました。「私だってイエスさまのお話を聞きたいのに…」そんな思いがあったかもしれませんね。「妹がちゃんと手伝ってくれていたら、早く接待の用事が終わって、二人ともにお話を聞けただろうに」そんな合理的な考えも私(筆者)なら浮かぶかもしれません。
     とうとう、イライラとモヤモヤが頂点に達して文句が口から出てしまいました。「私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。」イエスさまに向かってそう言ったのです。あまりにも忙しいのでつい言い過ぎてしまったようです。妹への批判ではなく、イエスさまへの批判になってしまいました。
     しかし、イエスさまはマルタの心の深いところまでご存じです。マルタがイエスさまを愛して、そのためにあくせく働いていたこともご存じです。イエスさまは優しくたしなめるように「マルタ、マルタ」と呼びかけました。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」もしかしたら、この日の出来事だけではない、これまでのことや、思考の癖や、そんな心の奥深くにある「いろいろなこと」も指して言われたのかもしれません。それらでマルタは「心を乱して」いると言われました。
     マリアにも心を乱されるような「いろいろなこと」があったでしょう。しかし、この時は、イエスさまのみことばを聴く時を逃すまいと、たった一つの大切なこと、いろいろなことの中で一番良いほうを選んだのです。私たちにも心を割くべき「いろいろなこと」があります。役割や社会的責任もあります。しかし、主を慕い、みことばを聴くこと以上に大切なことはないのです。

11/17 「キリストは花嫁を待っている」 ヨハネの黙示録19章1〜10節 小林泰輔師

  •  ついに黙示録に示された「予言」も世界の回復と神の子羊の完全勝利へと向かっていきます。この章には福音の全体像、つまりこの世界の成り行きが示されているので、これを読むときに私たちは人生の目当てを見出すことができます。福音とは罪の処理の仕方を教えることではなく、神のみこころの全体像を伝えることです。十字架の贖いは福音の中核ではありますが全部ではないのです。
     ハレルヤ!という叫び声がこだまする新約聖書で唯一の箇所です。「アーメン(ギリシャ語)。ハレルヤ(ヘブル語)。」と並んでいるのは新約と旧約が一つとなったような象徴的な表現に思います。二十四人の長老も、12族長と、12使徒を表すように思います。イスラエルの物語の下地があり、ダビデの裔としてイエスが来られ、教会の物語が始まり、そして私の物語はその連続性の中に組み込まれているのです。神は必ず悪を滅ぼされます。罪も死もサタンも滅ぼされます。その勝利の宴においてハレルヤ(神をほめたたえる)と叫ばれているのです。
     また、全能者を崇めるこの礼拝の風景は、子羊の婚礼の宴であることが示されています。私たちの毎週の礼拝も、婚礼(婚約?)の宴といえます。キリストが花婿で、教会(私たち)が花嫁です。私たちはキリストの花嫁であるというアイデンティティーを持つことが大切です。聖書は神がどのようなお方であるかを示すと同時に、私たちがどのような者であったか、そしてどのような者に再創造されるのかを語っています。私たちは罪に汚れた者でしたが、子羊の血で洗われた真っ白な衣を着せられた花嫁へと生まれ変わるのです。アイデンティティーが定まることによってどのように生きるべきかが分かります。私たちは神の愛し子であり、キリストの花嫁です。神に絶対的に愛されているのです。花嫁は花婿が迎えにきてくださる日のために準備します。また、花婿キリストも私たちの用意ができるのを今か今かと待ち望んでおられるのではないでしょうか。顔と顔を合わせて会うその日には「私の美しい花嫁よ」と呼んでくださいます。正しい行いにより花嫁となるのではなく、花嫁であることが、愛する方を喜ばせる正しい行いへと向かわせるのです。

11/10 「疲れ果てた時に示される神の道」 列王記第一19章1〜18節 エミリー・チョウ師

  •  「エリヤは紀元前9世紀のイスラエルにおいて、真の神ヤハウェを守る預言者として活躍した。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した時代、王アハブとその妻イゼベルはバアル信仰を広め、主の預言者たちを迫害していた。エリヤは偽預言者たちに立ち向かい、雨を求める競争で主ヤハウェの力を証明し、大勝利を収めた。しかし、この勝利がイゼベルの怒りを買い、エリヤは荒野で逃亡生活を余儀なくされ、孤独と絶望に襲われた。彼は「もう十分です。私のいのちを取ってください」と嘆き、深い落胆を経験した。
     エリヤの落胆の原因は三つに分けられる。第一に、彼の努力にもかかわらずイスラエルの信仰が完全に回復しなかったこと。第二に、自分自身の能力に対する疑念である。第三に、周囲の理解不足と孤立感である。しかし、神様はエリヤを見捨てず、御使いを送り、パンと水を与え、休息を提供してくださった。
     このエリヤの物語から、私たちは困難な時期にも信仰の「芯」を保ち、神様の導きを信じることの重要性を学ぶことができる。試練の中でも揺るがない信仰を持ち続けることで、困難を乗り越える力を得ることができる。また、教会という共同体の中で互いに支え合い、励まし合うことが、信仰を深めるために欠かせない。エリヤのように、信仰の試練に直面した時こそ、私たちは神様の計画を信じ、小さなことから従順に行動することが大切である。神様のご計画に信頼し、共同体の支えを受けながら、信仰の「芯」を強めていこう。

11/3「真理があなたを自由にする」 ヨハネの福音書8章31〜36節 小林泰輔師

  •  「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(32)私たちは不自由なのでしょうか。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(34)とありますから、罪人は不自由です。では、私たちはどんな罪を犯したのでしょう。日本人が「罪」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは犯罪のことでしょう。または道徳的な罪も含まれるかもしれません。それらはもちろん神さまの目に罪でしかありませんが、犯罪を犯さず、道徳的にも常識的な生き方をしていれば罪人ではないと言えるでしょうか。聖書が語る罪を言い表すのに「不義理」という観点も加えると分かりやすいでしょうか。神は私たちを愛され、私たちの罪の代わりに死ぬほどでも、私たちがその愛に応えることをしないならそれは不義理ではないでしょうか。
     神の犠牲によって罪の牢獄から解放されるということが真理です。その真理を知ったのなら私たちは自由です。いつでも牢獄の戸は開かれています。けれども、その牢獄から出ようとするかは私たち次第です。しかし、私たちはこの世の価値観や概念に囚われて、思考の牢獄に留まり続けてしまう弱さを持っています。
     サタンが巧みに攻撃してくるのは、その思考の部分です。悪い概念が悪いイメージを増幅し、悪いイメージは感情を落ち込ませます。サタンの手口は昔から変わりません。「神は信用ならない」「神は戒めによって私たちから搾取する」というような疑いを吹き込んでくるのです。さらに私たちの生育歴から得たイメージも悪用します。特に両親や教師など権威者から不適切な扱いを受けた経験を悪用して、神イメージを歪ませて、私たちの自己イメージを貶めるのです。
     しかし、私たちは真理を知りました。真理はただひとつ「主我を愛す」ということです。嘘も100回聞き続けたら真実に思えてしまいます。サタンの唆す通りに私はダメ人間だと自分に言い続ければその通りに思ってしまいます。否!それは嘘だ!私は真理を知っている、神は私をこよなく愛しておられる!神の愛のみことばを聞き続けることです。そしてそれを反芻することが霊的な修練です。真理があなたを自由にするのです。やりたい放題です。やりたいことや夢が、神を喜ばせること、隣人に仕えることに変えられているので、聖潔に至ります(ロマ6:22)。

10/27 「ヨシュアとカレブ」 ヨシュア記14章6〜15節 小林泰輔師

  •  神さまはアブラハムと約束してくださって、カナンの地を与えるとおっしゃいました。しかし、アブラハムの子孫ヨセフの頃のききんのため、エジプトに寄留することになりました。ヨセフのことを知らない王様の時代になるとイスラエルは奴隷に転じて苦しい生活を余儀なくされました。そこへ神さまがお立てになったリーダーがモーセでした。モーセを通して神さまは、エジプトのファラオの支配からイスラエルを脱出させてくださいました。約束の地カナンを目指す旅は最短で行けば数十日で着く道のりでしたが、紆余曲折、イスラエルの背きの罪などあり、40年かかりました。モーセ自身はカナンの地に入ることはできずに次世代のリーダー、ヨシュアとカレブにそのミッションは委ねられました。
     カナンの地は、イスラエルがエジプトにいる間に他の民族の支配地域になってしまいました。そのために、すんなりとは入れません。侵攻しなければならなかったのです。その時の偵察隊のメンバーにいたのもヨシュアとカレブでした。他の偵察隊が、あの地は強い民族がいて占領は難しそうだという報告をするなか、主の約束を信じたヨシュアとカレブはイスラエルを励まし、見事に約束の地に入ることに成功しました。
     それから年月が過ぎ、カレブは85歳になりました。約束の地カナンを分け合うときに、カレブはまだ占領の終わっていない、ヘブロンの山地をくださいと言いました。歳を取っていても神さまがついていてくださるから、必ず勝利できると確信していたのです。
     ヨシュアも歳を取ったときに、イスラエルの人々を集めました。自分が天に召される前に伝えておくべきことがあったからです。神さまがアブラハムに与えられた約束、モーセの時代ファラオを災いで退けたこと、エリコの城壁を神さまの方法で陥落させたこと、アモリ人の二人の王は神さまがスズメバチを送って追い払ったことなどを思いださせました。イスラエルの武力によらず、すべて神さまの力によって導かれてきたのです。そうして「私と私の家とは主に仕える」と宣言し、イスラエルの民にも決断を迫りました。私たちもいつまでも神さまに従い続けましょう。

10/20 「ゼロから始める教会生活」 ピリピ人への手紙3章12〜21節 小林泰輔師

  •  100年と言えば1世紀分の時間です。神の目には瞬きのようなものであっても、ただの数字のようであっても、100年は私たちにとっては大きな数字です。何事かを成し遂げたような思いもある一方、これからまた101年目に向かって行くだけのような思いもあります。100周年という経過点において、忘れるべきことと、忘れるべきでないことがあります。
     過去の罪や誤りは主イエスの十字架の贖いによってすべて赦されたものです。罪責の念も含め忘れてよいものです。また、何事かを成し遂げた功績もすべて主の栄光としてお返しして忘れるべきものです。
     「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103)とあります。何一つ忘れないでいることは実際は不可能のように思います。節目節目、所々は覚えていられますから、忘れないために今回のような記念会や周年行事を行います。ただ確実に忘れないでいられることがあります。それは主は良いお方であるという事実です。「ヘセド」というヘブライ語がありますが、神さまの恵みやあわれみを表す言葉といわれます。また、そのような和訳では表しきれないほどの恵みとも言われています。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追ってくるでしょう」(詩篇23篇6節)とあります。神さまの恵みは、私たちが拒んでも逃げても追いかけてくるような、何としてでも私を救おうとする神の愛なのです。これは驚くべき恵みです。何かラッキーな出来事が起きてもすぐに忘れてしまいます。けれども、神の恵みに対する驚きと感動(Sense Of Wonder)を取り戻して、いつも朝ごとに新しい神の恵みに目を開かせていただきましょう。うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、天の主を見上げて右にも左にもそれずに歩いていきましょう。「主を待ち望む者は新しく力を得」ます(イザヤ40:31)。それは何かを破壊するような力や、ほしいままに獲得する力ではなく、走っても力衰えず、歩いても疲れないという、持続的な力です。主ご自身が私の割り当て地(報酬)です。もう一度原点に返り主ご自身を求める歩みを踏み出して参りましょう。

10/13 「弟子のアイデンティティ」 ヨハネの手紙第一3章1〜3節 藤井聡美姉

  •  私たちクリスチャンが誰であるのか。その答えは、「神の子としてのキリストにあるアイデンティティ」に基づきます。自分がどのような存在であるのかという理解こそが、クリスチャンとしての考え方、行動指針の決定的な基盤となります。イエス様を救い主として受け入れた人々には神の子どもとなる特権が与えられています(ヨハネ1:12)。私たちクリスチャンは神の子どもです。これは揺らぐことがない事実です。そう感じられなかったとしても、私たちは神の子どもです。
     新約聖書の中で、クリスチャンを示す最もよく用いられている言葉は「聖徒」です。聖徒とは、「聖い人」です。パウロ書簡や他の書簡においても、平凡なクリスチャンを指して、惜しげもなく「聖徒」という言葉を使っています。パウロはクリスチャンたちが一生懸命に頑張ったから「聖徒」と言ったのではりません。パウロが明確に語っていることは、私たちクリスチャンは神様に召されて「聖徒」になったということです。聖書には、私たちは神に「聖徒として召された」ゆえに「聖徒」であると書かれています(Ⅰコリント1:2)。私たちが努力したから、ではありません。私たちは自分の本当の存在を認識する必要があります。それは、罪を犯すことがあるかもしれないけれど、私たちは「聖徒」であるということです。どう生きるのかが存在そのものを左右するのではありません。どういう存在であるのかが生き方を決定していくのです。
     自分はそういう者だと思えなかったとしても、御言葉を通して神様が語っていることを信じてください。キリストにあって自分が成長するための最も良い方法は、いつも自分がキリストにあってどういう存在であるかを思い起こすことです。
     私たちは神の子どもです。神の子として生きるためには、自分自身を神の子であると認識しなければなりません。自分はキリストにあって神の子どもなのだと認識すると、生き方が、歩み方が、変わります。なぜなら、誰一人として自分はこうであると認識していることと、矛盾するような生き方をし続けることはできないからです。

10/6 「栄えに満ちた喜びに踊る」 ペテロの手紙第一1章1〜9節 小林泰輔師 

  •  今日、大切な人に話しておくべきことはただ一つです。「また天国でお会いしましょう。」そのためには、イエス・キリストを救い主として信じていただく必要があります。今日、教会を訪れた方、親族や友人にクリスチャンがおられる方、そのようなところで聖書の神さまの話を聞いた方は、「父なる神の予知」(2節)によって選ばれている人たちだと思います。イエス・キリストが十字架の上で私たちの身代わりに罪の罰を受けてくださって、「その血の注ぎかけを受けるように選ばれた」のです。私たち人間は、どんなに努力しても、善行を働いても、神に背いた罪過ちを自分で償うことはできません。罪の償いのためには血の代価が必要であり、命をもって償わなければならないのです。しかし、罪の刑罰と私自身の命を天秤にかけたところで釣り合わないのです。それほどに神に背くということは大きな罪なのです。そのままでは滅びて地獄へ行くだけです。しかし、神の愛はそれをよしとせず、予め選んでいた人々を呼び出し、イエス・キリストの血の注ぎかけを受けるようにして、救われるようにしてくださったのです。具体的には、天地を造られた聖書の神、唯一の神の存在を無視してほかの神々に走った罪、自分自身が神であるかのように振る舞った罪、それを悔い改める必要があります。そうして、イエス・キリストの十字架と復活によって明らかになった神の愛を信じ、イエス・キリストを自分の主として心に受け入れ、従うことが必要です。そうすれば、私たちの罪がどんなに重くても、「緋のように赤くても、雪のように白く」(イザヤ1:18)、完全な赦しと癒しが与えられるのです。神に赦された者はもはや罪の奴隷ではなく、神の子どもです。父なる神は、子どもである私たちを決して見捨てることなく、見放すことなく、天の御国に至るまで共にいてくださいます。私たちの信心深さによって信仰を維持するのではなく、偉大な神の御力によって私たちの信仰と希望は尽きることがないように守られるのです。あなたもイエス・キリストを信じて救われてください。

9/29 「バビロンの死」 ヨハネの黙示録18章1〜24節 小林泰輔師

  •  ついにバビロンの死がやってきます。ヨハネが「バビロン」という名を用いたのは、具体性のある地域、国、勢力を指すものとしてのことでしょう。その勢力は「すべての国々の民」を巻き込み、「地の王たち」や「地の商人たち」にも影響を及ぼすものでした。
     すべての国々とあるからには、私たちの日常にも無関係ではありません。私たちの生活の隅々に至るまで悪の影響は及ぶものです。そして、それは世の中的には一見良いものにさえ見えるものです。巧妙な悪魔の惑わしに目を覚まして気をつけなければなりません。
     「地の王たち」というところからは、この世の政治システムにも悪影響が及んでいることを考えなければなりません。この国の、この世代の政治思想や政策は神の国の価値観に反するものとなっていないか、地の塩として私たちは見極めていく使命があります。そしてパウロがテモテに書き送ったように、この国の地位の高い人たちのために祈りましょう(Ⅰテモテ2:1)。
     「地の商人たち」というところからは、この世の経済システムにも悪影響が及んでいることを考えなければなりません。国を超えた世界規模の巨大企業が、新たな経済圏をつくりあげようとしています。さまざまな最新技術によって生活は便利になりました。けれども人の生み出す最新技術の中には倫理的な問題を含むものもあるでしょう。それらを見極めなければなりません。また、資本主義経済における投資というものは、本来は世の中を良くするためのものですが、人々は金銭欲から投機的な投資に傾きがちです。同じくパウロはテモテに、金銭を愛することがあらゆる悪の根であると警告しています(Ⅰテモテ6:10)。
     クリスチャンになるということは世捨て人になることではありません。むしろ積極的に世と関わり、御国の価値観で世を治める使命があります。大きなこと(メガス)は良いことだと、発展のなかに毒麦を仕込むのがサタンの策略です。私たちは肉に蒔くのではなく、御霊に蒔く者として、福音の種を蒔き、人々が永遠のいのちを得られるように、その刈り取りを求めて善を行っていきましょう。

9/22 「まことの神はただ一人」 出エジプト記32章1〜14節 小林泰輔師 

  •  モーセが神との交わりにおいて御声を聴くために山に登っていました。そうして幾日も過ぎたときに民は不安になりました。モーセは死んだのではないかと。モーセを先頭に荒野を導かれてきた民は、新たな先導者を求めますが、それを目に見える神という形で求めました。エジプトほか、この時代には多くの神々の像があり、信仰されていましたから、イスラエルも目に見えて分かりやすい偶像の神々を求め、まことの神を自分たちの理想のなかに押し込めようとしたのです。民はアロンに申し入れ、アロンはそれに応じてしまいます。民衆の暴動を恐れたのでしょう。それで人々の金の耳飾りなどを集めて、それを溶かしてアロンが作った鋳型にはめ、金の子牛の像を作ったのです。民はそれで大喜びし、座っては食べ、立っては踊り、異教の民が行うようなふしだらな礼拝をして金の子牛を拝みました。そこへモーセが帰ってきました。目に見えないまことの神の直接の御声により、山を降りるように命じられたのです。偶像の神々は目はついていても見えません。口はあっても語れません。しかし、目に見えないまことの神は、すべてを見ておられ、みことばを通して語ってくださるのです。主の怒りは彼らに燃え上がり、民を滅ぼして、モーセを新しいアブラハムとして「大いなる国民」とすると言われましたが、モーセは嘆願しました。主は耳があっても聴こえない偶像ではありません。モーセの嘆願を聴いてくださり、わざわいを思い直されました。
     十戒を聴いたばかりの民が、ほんの少しのモーセの不在により、偶像崇拝に堕ちてしまったのです。モーセは心の憤りを抑えることができず、みことばを彫り刻んだ石板を叩き割ってしまいました。信頼していたアロンも火に金を入れたら勝手に子牛が出てきたと嘘をつく始末。モーセは自分に従うレビ族に命じて処罰を行いました。それで三千人が死にました。大きな代償でしたが、モーセ自身はそれ以上に大きな代償を支払う覚悟でした。自分の名前をいのちの書から消し去ってでも、民の罪をお赦しくださいと祈ったのです。命を投げ捨ててでも私を救ってくださった唯一の方、キリストの愛の予表を見ます。

9/15 「大淫婦への裁きと子羊の勝利」ヨハネの黙示録17章1〜18節 小林泰輔師

  •  17章と18章では「大淫婦バビロンへのさばき」が描かれます。悪の三位一体とも称される、竜、獣、にせ預言者ですが、その勢力に第四の象徴として「大淫婦バビロン」が加わります。淫婦とは姦淫を行うものです。もちろん文字通りの姦淫も含みますが、聖書ではしばしばイスラエルの神以外の神々を拝むことを姦淫にたとえて表現しています。
     この章では「大淫婦」とか「大バビロン」とか「大(メガス)」という言葉が頻出します。その惑わしは、大きさ、高さ、深さの魅力によって神から引き離そうとするものです。昔からサタンがよく使う手です。エバを誘惑したとき、神のようになれる、と、禁断の実を食べるように誘惑しました。イエスの荒野の誘惑では高い所から全世界を見せてサタンを拝めば世界の一部をくれてやると誘惑しました。私たちの周りにも、収入の高さ、知恵の深さ、人情の深さなど、誘惑となり得るものがあります。それらを全否定するわけではありませんが、麦の中に毒麦を混ぜるのが悪魔のやり方です。現代的価値観において一見善いことの中にも悪は紛れています。しかし、高さも深さもほかのどんなものもキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。神の愛の大きさを一心に見つめて、わき目もふらずに歩みましょう。
     「バビロン」とは歴史上の具体的な国の名前であり実在のエリアのことですから、この予言が象徴的・比喩的なものでは終わらないことを表しています。すでに起こったことと、いまだその時は来ていないことの間に私たちは生きています。七つの頭(七人の王)と十本の角(十人の王)とは、歴史的実在の人物のことであることを聖書は示しています。現代の情勢も世の終わりの様相に見えますが、過去の歴史においても常に終末的様相がありました。世界情勢についての判断は難しいものがあります。時のしるしを留意し、しかし極端な政治信条に偏るような軽挙妄動に走ることなく、イエスのように隣人を愛し、平和を作る者となり、いつ再臨があってもいいように、小さな事にこそ忠実な歩みをしましょう。互いに愛し合うことで神の栄光を表すために私たちは召されたのです。

9/8 「自分のため?神のため?〜高慢と謙遜」 Ⅰサムエル31:1-7、Ⅱサムエル1:23-27 森田学師

  •  ★サウル、そして親友ヨナタンの死★
     ダビデの親友ヨナタンが殺され、ヨナタンの父サウルは、敵国ペリシテ人に追い詰められ瀕死です。サウルを殺すなんてと恐れる道具持ちを前にして、サウルは敵になぶられないよう自ら剣の上に倒れ込み、死ぬことになります。
     ★心の高ぶり★
     それから三日後、ダビデのもとへアマレクの男がやってきました。その男の死亡報告は、他の聖書の証言とはまるで違います。彼は良いことをしたつもりでした(②サムエル4:10)。口ではダビデのために、しかし心では、自分の名前が高められて、自分の栄光があらわされることを求めていたのです。報告が嘘であれ、神が油注がれた王(サウル)を殺した発言は、神をも恐れないことです。アマレクの男は、ダビデから“よくやった!あの執念深いサウルをよく殺してくれた!”と、手柄をほめられて、輝かしいご褒美を…もらうことは無く、、一瞬のうちに自分の命を失ってしまうのです。『人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。』箴言18章12節
     ★へりくだり★
     ダビデは、サウルという上司から認められなくても、嫉妬され殺されかけ逃げることになっても、復讐することなく愛で応え続けました。そしていま『サウルもヨナタンも愛される立派な人だった』と祝福し歌い、イエスのように自分を低くし、隣人を愛することに生きるのです。
     ★神の愛★
     ダビデはさらにこう歌います『ヨナタン…あなたの愛は、女の愛にもまさってすばらしかった。』この愛こそは、アガペーといわれる神の愛です。夫婦の愛・友情の愛・親子の愛の土台となる、別次元の特別な神の愛。この愛をダビデは神から迷いなく受け取り、その愛でヨナタンばかりか、サウルをも愛したのです。そして、ダビデの子孫として生まれてこられた、神の御子イエス・キリストこそ、この神の愛に最も生きて示してくださいました。神ご自身が誰よりも低くなって、十字架で私たちの罪を背負われて、死なれた。それほどに、自らを犠牲にしてまでも相手を優先する献身的な大きなイエスの愛。そんな愛が、私たちを愛する神がおられるのです。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』①ヨハネ4:10
     ★神の愛を受けとって歩む★
     私たちに愛される資格があるから、神は私たちを愛するのではないのです。神は、あなたの存在を、愛すべき大切な存在としてすでに認めておられ、そして現に今も愛してくださっているのです。誰かが見ていなくても、誰かに認めてもらわなくても、誰よりも神があなたの存在を認め、愛しておられることほど、真実で頼もしいことはありません。神の愛は本当に不思議で、奇跡です。この愛を受けとる私たちが、ますます神ご自身を味わわせていただいて、すばらしい神の栄光が全ての人に届けられることを望む。そのような神の愛に歩めますようにと、聖霊の助けをともに祈りましょう。

9/1 「変容〜自分を変えるには」 コリント人への手紙第二3章18節 小林泰輔師

  •  これまでに人間の堕落について、そしてキリストの贖いによる回復について見てきました。生まれながらに罪を持つ者が、本来の根本的に善なる者の姿を取り戻すのです。その、罪の奴隷であった私がイエスの血によって洗いきよめられ、神の子へと瞬時に変わるということを指して「救い」と表現しますが、救いには成長の過程「聖化」も含まれます。聖書は「成長」や、聖なる者に変容する「聖化」について多く紙面を割いています。
     しかし、私たちは、罪の処理が済んで、天国行きの切符を手にしたらそれでアガリかのように考えていないでしょうか。クリスチャンの失敗(著名な牧師や伝道者は目立つ)を見るときに、世の人たちが教会やキリスト信仰に失望するのも無理はありません。私たちには、未だに残る罪の性質との戦いがあり、キリストの似姿に変えられ続ける必要があります。けれども自分の力で罪の性質を駆逐することはできません。
     そこでまた、救いは神の一方的な恵みによることであり、私たちはその恵みに対して応答するには全く無能力であるという考えを持ち出しますが、本当にそうなのでしょうか。自分を変えるために、私にできることは何もないのでしょうか。
     聖書にある成長や聖化について目を留めるときに、私たちにも為すべきことがあることに気付かされます。信仰か行いかではなく、信仰があればこそ行いが生み出されていくのです。その逆はありません。行いによって信仰が生み出されることはありません。
     変容は自分の力だけでは成しえませんが、願わないことには何も始まりません。まずヴィジョンを持つことです。どのような自分になりたいのか。それは杓子定規ではなく工場既製品のような一つの型でもなく、キリストのご性質の豊かさと同じく、無限の可能性がありえます。私たちは神のみおしえに反しない限り、どんな者にもなりうるのです。まず願うことです。神は私たちに志を与えてくださいます。そして、ご自身のみこころに沿うような意志と決意を与えてくださいます。それを実行するために、私たちは神のくださる賜物を活かして、手段や方法を工夫して行います。そのとき私たちは、自分が今、神がなさろうとしていることに行動をもって参加していることに気づくでしょう。神はあなたのヴィジョンと行動をも用いて神の国を建設されるのです。

8/25 「私たちを救う過越の子羊」 出エジプト記12章5-7,12-14節 小林泰輔師

  •  エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すために、神さまはモーセを選ばれました。そして神のことばを伝えるためにはモーセの兄弟アロンを用いられました。モーセとアロンはエジプト王ファラオの前に何度も出て行き、神のメッセージとして、イスラエルをエジプトから出て行かせるようにと伝えます。しかし、ファラオはそれを受け入れません。すると神さまはエジプトに恐ろしい災いをもたらし、ファラオにご自身の力を示されました。ファラオは災いを見た直後はモーセやアロンの申し入れを受け入れるものの、すぐに心変わりしてしまい、頑なになって神のみこころを受け入れません。そんなことが九回も繰り返され、ついに神の憤りが極まりました。最後の災いはエジプトの長子が、人間から家畜にいたるまでみな死んでしまうというものでした。
     その災いの天使が来られる時に、イスラエル人の家には、門柱と鴨居にヒソプの枝を使って小羊の血を塗るようにと、神さまは命じられました。すると、その家の上は天使が過ぎ越して、長子が死ぬ災いから免れたのです。
     この最後の災いではファラオの子も死んでしまい、やっと王はイスラエルの民がエジプトから旅立つことを許したのでしたが・・・。イスラエルの民はそのとき、急いで旅立ったので種を入れないパン(発酵させる時間もなかった)を立ったまま食べてから、出発しました。
     この出来事は、私たちの罪による神の裁きを免れるためには、イエス・キリストの十字架の血が必要であることを示していました。
    「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
     イエス・キリストは、私たちを救う過越の子羊として十字架にかかって死なれ、よみがえられたのです。その血は、私の罪のためであったことをおぼえ、イエスを主と信じて救われましょう。

8/18 「名前だけでも覚えてください」 使徒の働き4章12節 小林泰輔師

  •  「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていないからです。」(使徒4:12)
     私自身の救いの証し(イエスを主なる神と受け入れるに至った経験)をお話しします。人を救うことのできる神はこの方以外におられないと信じています。この方、救い主イエス・キリストの名前だけでもおぼえて帰ってください。
     イエス・キリストという方については物心ついた頃から名前を知っていました。姉がカトリックの幼稚園に通っていたからです。小学生頃の私は死の恐怖に取り憑かれたようになっていました。恐ろしくて夜も寝られず、とにかく効きそうな神の名前を(マリヤさま仏さまご先祖さまなどと)呼んで祈っていました。しかし、不安はまったく消えずに念じることに疲れて眠るといった感じでした。しかし、友人に誘われ教会に導かれ、そこでイエス・キリストの本当の姿に出会いました。宣教師を通して教えられたのは、イエスは私の友となってくださる神だということです。死と裁きの恐ろしい神ではなく、むしろ私を死の恐怖から救うために身代わりとなって死んでくださった方だと教えられました。そしてよみがえって今も生きて私のそば近くにいてくださると聞いて、この方こそ、まことの神、私の救い主だと思いました。
     家庭環境に問題のあった少年時代でした。父親不在のなかで愛に飢えていた私は、教会の交わりの中で、聖書のみことばを通して神から愛されていることを知りました。それからは神さまが私のお父さんになりました。父親に捨てられたのではないかという寂しさを心に秘めていましたが、自分でも蓋をしていたそんな感情に気付かされると同時に癒されました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と語ってくださったのです。
     病気の苦しみの中にいるときには「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)「あなた(がた)はわたしの手の中にある」(エレミヤ18:6)と語りかけ励ましてくださいました。
     「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ1:21)その名はインマヌエル(神は私たちと共におられる)。この救い主の名前だけでもおぼえて帰ってください。

8/11 「神の友となる」 ガラテヤ人への手紙5章6節 川口竹志師 

  •  私たち夫婦は長野に移住し、農業やコーヒーの活動を通して地域と関係を築きながら教会開拓をしています。ハワイやテキサスからのサポートや、小林師ご家族、清和教会の皆様のお祈りとサポートを受け、長野で救いのみわざが起こっています。しかし、私は、開拓当初、愛が欠けている事を神さまから示され悔い改めました。1コリント13:1-3には「愛がないなら何の役にも立ちません」と書いてあります。
     ガラテヤ5:6でパウロは、律法主義的な信仰が入ってきたガラテヤの教会に、大事なのは外見や儀式ではなく愛によって働く信仰だと教えています。私たちクリスチャンは単なる宗教行事を行っているだけでは霊が満足できません。信仰を働かせる事は私たちを霊的な停滞やマンネリから守ります(2ペテロ1:5-10)。もちろん、行いが私たちを救うわけではありません。しかし、聖書はあらゆる努力をして成長を目指すように教えています。パウロ自身も「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって」進んでいると告白しています(ピリピ3:12-16)。そして、ガラテヤ書では「愛によって」信仰を働かせるように言っています。アブラハムは神を愛し、信仰が行いに現れました。そして、その行いを見て神さまは彼を「神の友」と呼びました(ヤコブ2:20-24)。私たちが愛によって信仰を働かせるなら、神の子どもであると同時に神の友となるという事ではないでしょうか。
     神さまから示されている、あなたの「次の課題」は何でしょうか?肉体の健康を保つ事に運動が欠かせないように、霊的な健康を保つために、愛によって信仰を働かせる事は非常に大切です。1歴代誌28:10,20のみ言葉に励まされます。今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。
     神の愛と恵みから目を離さずに、その恵みに力を与えられつつ、愛によって信仰を働かせるあゆみを共にしていきたいと思います。

8/4 「回復〜根本的善へ」 ペテロの手紙第一5章10節 小林泰輔師 

  •  キリスト教の人間観は「性悪説」だと言われますが、聖書的には、人間は本来「神のかたち」に似せて作られた善なる存在です。創造の時点から見れば「性善説」とも言えます。しかし堕落により罪の性質を持って生まれるようになり、本来の善から遠ざかってしまいました。
     救いとは、その堕落した状態から「根本的善」へと回復されることを意味します。教会の福音提示の仕方はその点で不十分であったと反省します。救いは恵みとしてタダで与えられるということを強調してきました。死後の救いのためには罪を悔い改めイエスの十字架と復活を信じるだけでよい、そうすればただ神の恵みのみによって天国に行くことができる、そう強調しました。しかし、死後の救いだけが福音なのではなく、罪深い者が神のかたちに造り変えられ、この地上の生涯を喜びをもって生きることができる、根本的善の回復も福音なのです。そのためにイエスは全てを神にささげることも求めています。これは永遠の命を得るためには自分の命をささげるべきだというイエスの教えに基づいています(マタイ16:24-26)。どちらも聖書の語る真実です。矛盾ではありません。聖書はあらゆる角度から、あらゆる対象や事象への真理を語るため、一見矛盾するように見えますが、表と裏は同時には見られないものです。
     私の持つ全てのもの、つまり魂や感情、身体など、人生そのものを神にささげる必要があります。それは惜しむべきものでしょうか。大切に握りしめているその命は堕落した壊れた命です。それを神の命、新しい命と交換するという取引をしようと言うのです。その損得勘定をせよと言うのです。この取引には裏で(目に見えない神の側で)莫大なコストが支払われています。それはイエス・キリストの十字架の犠牲によって支払われました。「手付金」として聖霊が与えられ私たちは少しずつ内面から変化し、与えることに喜びを見出すようになります。日常生活の中で少しずつキリストの姿に近づき、「根本的善」へと回復されていくのです。

7/28 「水の上を歩く!?」 マタイの福音書14章22〜33節 小林泰輔師

  •  五千人の給食の奇跡のあと、イエスさまは弟子たちを「強いて」舟に乗せ湖に出航させました。そしてご自身は山に行き静まって御父と交わる時間をもたれました。やがて弟子たちのいる湖では嵐になり、その水の上を人影が歩いているのが見えました。弟子たちは幽霊だと思って怖がりましたが、「わたしだ(エゴーエイミ)」という声でイエスさまだとわかりました。なんと水の上を歩いて近づいて来られたのです。ペテロはその姿を見て、私にも水の上を歩くようにお命じくださいとお頼みしました。すると、来なさいと言われます。ペテロが数歩進んだところで強風が吹き、恐ろしくなったペテロは沈みかけてしまいました。助けを求めるペテロにイエスさまは「どうして疑ったのか、信仰の薄いものだな」と(たぶん笑われながら)助けてくださいました。そしてペテロとイエスさまが舟に乗ると風がやみました。一部始終を見ていた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝しました。ユダヤ人は決して人間を礼拝しません。イエスさまは神さまだという信仰が弟子たちの中で始まったのです。イエスさまは信仰の創始者です。そして自らもヨセフの子として歩まれ、十字架の上で死に至るまで御父なる神に忠実にであられました。そして信実(ピスティス)を全うしてくださり、「完了した」と言われて、私たちの救いを完成してくださったのです。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さずに歩むなら、私たちもイエスさまのピスティスにより信仰の生涯を全うすることができます。
     私たちの人生はさまざまな試練があり、そもそもが水の上を歩くような困難で不確かなものです。しかし、イエスと共に歩くなら、どんな試練も乗り越えることができ、天の御国に至るまで信仰の歩みを続けることができます。主は良い羊飼いであられ、私たちはその牧場の羊として忘れられることなく数えられています。眠れぬ夜にはそのことを思い起こしましょう。

7/21 「七つの鉢の苦しみ」 ヨハネの黙示録16章1〜21節 小林泰輔師

  •  ついに七つの鉢がぶちまけられ、災いが地にやってくることになりました。終末の時代における災いはこれまでも起きていましたが、それは地の三分の一の被害に抑えられていました。そこにはまだ人々の悔い改めを促す意図が神にはあったと思いますが、神の怒りが極まった今、災いは全地におよぶものとなりました。しかし驚くべきことにそれでも人々は悔い改めることはなく、むしろ神に対してけがしごとを言うような有様でした。
     七つの鉢の災いは、1:ひどい悪性の腫物。出エジプトの第6の災いと同じです。
              2:海が血に変わり海洋生物が死に絶える。
              3:川と水の源も血に変わる。海の食物は食べられず、川から飲み水の確保も難しくなります。
              4:太陽が人々を焼く。最近の暑さも炎暑と呼べるものですが、それ以上の暑さでしょう。
                今年の暑さも、悔い改めに導いてくださることを思い起こす機会として感謝しましょう。
              5:獣の国が暗闇におおわれ、人々は苦しみのゆえに舌を噛む。光合成もできなくなると農作物も不作になり飢えに苦しむでしょう。
              6:ユーフラテス河が涸れて、東の方から王たちが攻め来たる道ができます。そして彼らは汚れた霊に導かれたサタンの勢力です。
                その軍勢の集合場所が「ハルマゲドン」です。
              7:鉢が空中に撒かれます。空中の権威を持つサタンへの裁きです。すると稲妻、大地震、島が消えるほどの地滑り、巨大な雹が降り、
                大バビロンが倒れます。
     これらの災いを通して、神の声が神殿から響き「事は成就した」と言われます。神の怒りの裁きが極まったのです。主イエスの十字架上の言葉「完了した」と似ていますが、これは神のあわれみが極まった言葉です。裁きの日においてはもう人々は聖霊によって悔い改めに導かれることもなく、罪のおもむくままにさせられるのです。それ自体がとても厳しい裁きです。悔い改めの機会が与えられている今の恵みとあわれみの時代を感謝しましょう。

7/14 「食卓のことに仕える」 使徒の働き6章1〜7節 エミリー・チョウ師 

  •  使徒の働き6章は、初期教会が直面した課題とそれに対処する方法を示しています。教会が急速に成長する中で、文化的背景の異なる信者が増え、特にギリシャ語を話すユダヤ人やもめたちが毎日の配給でなおざりにされ、不公平感が生じました。この問題に対して、使徒たちは祈りと神の言葉の奉仕に専念するため、食卓のことに仕えるための七人を選びました。
     使徒たちは、御霊と知恵に満ちた評判の良い七人を選び、その役割を任せました。これは食卓のことが軽視されているのではなく、むしろ重要な役割であることを示しています。教会内の役割分担がうまく機能することで、神の御言葉が広まり、教会が成長しました。
     特に、ステパノは七人の一人として選ばれ、のちに強力な説教を行い、信仰の力を示す模範となりました。彼の殉教は教会に深い影響を与えました。
     この箇所は、教会の一致と成長のためにはすべての奉仕が重要であり、互いに仕え合うことが必要であることを教えています。現代の教会でも、霊的なものと社会的なものを分けるのではなく、すべての奉仕を神聖なものと認識し、バランスを保つことが求められます。
     結論: 初期教会の模範に倣い、私たちも信仰と知恵をもって互いに仕え合い、教会の一致と成長を促進することが大切です。すべての奉仕には神の導きがあり、それぞれが神の国の拡大に寄与するものです。

7/7 「堕落〜魂の病巣」 ローマ人への手紙3章9〜18節 小林泰輔師

  •  今日も「霊的に健康な教会」を目指して、健康について学びます。私たちのうちにある罪を犯さずにいられない性質(それはアダムの堕落以来始まった)は魂の病巣であると言えます。人は生まれつきみな等しく堕落しています。堕落の本質は「神に対する恐れがない」(18節)にあります。神を恐れるとは、“悪いことが起きると予感すること”です(ダラス・ウィラード『心の刷新を求めて』より)。神を恐れることがないと、何でもありになり、結果、自分が神になります。しかしそれは妄想であって事実私は神ではありません。
     自尊心は大切なことですが、神なき自尊心は堕落の隠れ蓑にしかなりません。どうしようもなく罪にまみれた私を、それでも神は愛してくださった、だから私は尊いのであり、神に向き直ることで人としての尊厳を回復することができる、これが本当の自尊心です。主を恐れるということが、魂の癒しにつながるのです。
     しかし罪に堕落した人間は、卓越した現実否認力を身につけてきました。神が存在することも、私たちが生まれながらの罪人であることも決して認めない、見つめようともしないのです。何かの悪い事件が起きても、浅い原因を探ることはしても深いところまでは考えません。犯人がどうしてそのような犯行に至ったかは考察しますが、人の心の中にある共通した欲望や罪の性質について、つまり自分も同じ犯罪者になる可能性については考えません。人は進化、進歩して、社会も倫理的に良くなっていくと考えます。ですから人間の堕落などないし、生まれながらの罪人などいないし、ゆえに神の救いなどというものも必要としないと、人類は現実否認の努力をもって神の存在を無視し、自分の罪に目を瞑ってきたのです。
     神から離れて生きることによって「誰もかれもが無用な者となった」元々は神の似姿に造られた者としての、互いに愛し合い、神を礼拝して喜んで生きるという、その力が発揮できなくなりました。「罪の中においては、ただ要求するばかりになっている。皆で同じ神のいのちを生きる代わりに、自分だけの人生を生きている」(ボンヘッファー)。
     その結果は地獄です。神のおられない世界のことです。地獄はうっかり落ちる場所ではなく、努力して行く所です。罪の報酬(努力の対価)は死だからです。しかし神のくださる賜物(ギフト)は永遠の命です。これぞ福音です(ロマ6:23)。
    神を求めて生きましょう。私の困りごとにちょこっと助けてもらうという求め方ではありません。神が神であられるように求めましょう。そして私は神なしには生きて行けないことを認めて、神の臨在を求めましょう。それが永遠の命を生きるということです。

6/30 「極まる〜神の栄光と憤り」 ヨハネの黙示録15章1〜8節 小林泰輔師

  •  15章からまた時系列的な記述に戻ります。ここからは神の裁きが激しく地を襲うことになっていきます。七人の御使いが、七つの鉢に災害を携えてやってきます。「ここに神の憤りが極まるのである」とあります(1節)。
     神の憤りは、まず竜と獣と大淫婦バビロンといったサタンの勢力に対する者でありますが、同時に最後まで神を恐れずにサタンに従う者たちに向けられるものでもあります。サタンに従う者たちはイエスに従う者たちに戦いを挑み、迫害し、キリスト者たちは殉教の死を味わうことさえあるのですが、殉教者たちの祈りは香の煙のように立ち上り、祈りが満ちた時に、その祈りの応えとして神の憤りがあらわれるのです。神は恐れられるべきお方です。神の憤りは、神の威厳と栄光の現れなのです。
     「火が混じった、ガラスの海のようなもの」が何を指すのかは分かりませんが、そのほとりで信仰の勝利者たちは歌います。その歌は「モーセの歌」と「子羊の歌」であると言います。エジプトの苦難から偉大な神の手により贖われたことと、患難を通らされたキリスト者が子羊イエスの十字架の贖いによって救いが確証されていることをほめたたえる歌が対比されています。
     続いてヨハネは「天にある、あかしの幕屋である神殿」を見ます(5節)。そこから七つの災害を携えた七人の御使いが出てくるのをみます。彼らに七つの鉢が渡され、その鉢が一つ一つぶちまけられることになりますが、そのたびに恐ろしい災いが起こります。神殿の中は「神の栄光とその御力から立ち上る煙で満たされ」ていましたが、七つの災害が終わるまでは、誰もその中に入ることはできないのです。神の憤りは、今、神のあわれみによって先延ばしにはされています。しかし、その時が来てしまったらもうどうすることもできません。今まさにその時代が来ようとしているのです。
     「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます」(ローマ11:22)。神のいつくしみの中にいられるうちに、神に立ち返りましょう。

6/23 「ヨセフの逆転人生」 創世記39章〜41章 小林泰輔師 

  •  ヨセフの人生から学びます。ヨセフはヤコブの息子として、またベニヤミンとともに母ラケルの忘れ形見として、父ヤコブの寵愛を受けて育ちました。(説教にヨセフとベニヤミンの出生時について誤りがありましたので訂正します。ヨセフの弟ベニヤミンの誕生は35章参照。出産と同時にラケルは死去。)しかし、その行き過ぎた偏愛がヨセフの人格形成に歪みを生じさせたように思います。父ヤコブもまたその母リベカの偏愛を受けて育ちました。ヤコブの父イサクは兄エサウを愛しました。このような家族のヒストリーは世代間伝播し、人格形成に決して小さくはない影響を及ぼします。ですからヨセフは無邪気であったのかもしれませんが、預言的な夢を話すときも兄たちの反応を慮ることはしませんでした。普段からそういうところがあったのでしょう。兄たちの妬みは鬱積して行き、ヨセフは兄たちにとって「厄介な隣人」となりました。
     そうして兄たちの策略によってヨセフはエジプトに奴隷として売られることになってしまいます。しかし、主はそんなヨセフであっても、愛し続けていてくださり、いつも共にいてヨセフを訓練し続けてくださいました。ポティファルの召使いとなったときも主の守りのゆえに出世したものの、またもポティファルの妻の奸計にはまり、囚人に転落します。主はヨセフが牢獄にいるときも共にいてくださったので、ヨセフという器を通して牢獄にも祝福が流れ出ました。ヨセフのおかげで釈放された献酌官の執りなし(しばらく忘れられていたけれども)によって、エジプト王ファラオの前に出る機会が与えられました。不可解な夢に苦しめられていたファラオの夢を解き明かし、夢の通りに豊作と飢饉が起きましたが、豊作時の蓄えによってエジプトが守られ、ヨセフを通して国家的祝福が流れでました。
     ヨセフは持って生まれた才能と、苦難のゆえに磨かれた品性と信仰を持っていました。しかし彼の人生を逆転勝利に導いたのは、ヨセフ自身の才覚によることではなく、「主が彼とともにおられた」ことによるのです。私たちにとっても「主はともにおられる(インマヌエル)」お方です。私たちの人生の「行く道すべてにおいて、主を知」る(箴言3:6)ことができるのも、主がいつも離れずにそばにいてくださるからこそです。主の足跡に従いイエスの似姿に変えられるのです。

6/16 「幸いな死」 ヨハネの黙示録14章1〜20節 小林泰輔師 

  • ①子羊と144,000人(1〜5節)
     「シオンの山」で子羊と選ばれた人々が立っています。天から雷のような大きな声を聞いたとありますが、その声は賛美の声でした。天の御座の前で四つの生き物や二十四人の長老や御使いたちが歌う賛美礼拝の声でしょうか。その声を聞き、歌を学ぶことができたのは地上では144,000人だけで、その人たちは「女に触れて汚れたことがない」(4)と言います。「字義通り」聖書全体の文脈にも照らし合わせるなら、霊的姦淫を犯さなかった人々ということでしょう。数字も完全数を表す象徴的なものだと思われます。「文字通り」の解釈だと144,000人は全員男性ということになります。
    ②御使いたちの知らせ(6〜12節)
     そこへ御使いの知らせがあります。第一の御使いは「永遠の福音」を携えてきました。その内容は、神を恐れ、神を礼拝せよという招きでした。世の終わりにあっては十字架と復活や罪の赦しといったフェーズはすでに越えて、永遠の礼拝に備えるように語られます。第二の御使いにより、先の霊的姦淫(偶像崇拝)の根源たる「大バビロン(大淫婦バビロン)」は倒れたと勝利の予告がなされます。第三の御使いは獣(サタンの勢力)の刻印を受けてはならないと警告します。もし屈してしまうなら「昼も夜も安らぎがない」永遠の滅びに入れられます。
    ③イエスと御霊のことば(13節)
     竜と獣と大淫婦の支配する世にあっては迫害や信仰の試練がたくさんあります。たとえそれで信仰を守り通して死ぬことがあっても、それはむしろ「幸いである」というのです。それほど患難時代の「労苦」は過酷なものであり、そこから解放されて永遠の安息に入れられることは殉教の死を幸いなものにするのです。
    ④二つの刈り取り(14〜20節)
     一つは「神と子羊に献げられる初穂」の刈り取りで、従順な信仰者たちが報われる時です。もう一つの刈り取りは「御怒りを招く淫行のぶどう酒」となるぶどうの房の刈り取りで、不信仰な者たちは神の怒りの酒ぶねに入れられ踏み潰されます。
    ⑤適用:子羊が行くところどこにでもついていくような信仰で主の足跡に従いましょう。何かを「買う」喜びよりも、主に「贖われる(買い取られる)」喜びの方が幸いなのです。世の終わりに至るまで忠実でありたいものです。

6/9 「律法に表されたキリストの愛」 マタイの福音書5章17〜20節 山口翔KGK主事 

  •  私たちクリスチャンの歩みとは、律法を守り行う、正しい生活をする歩みです。しかし、正しい生活と聞くと、そこには恵みではなく厳しさがあるように思えます。その理由は、私たちの律法の理解が間違っているからです。イエス様は今日の箇所でその間違いを指摘され、私たちに十字架の恵みを伝えています。
     律法とは、神様の心です。それは、「ここまで守れば大丈夫」や「これは守らなくても良い」というようなルールではありません。神様の心そのものなのです。私たちはこの点で勘違いをしています。マタイの福音書22章には、「戒めの中でどれが一番大切か」と勘違いをしている律法学者への答弁があります。そこでイエス様は、「神様と人とを愛すること」と答えられます。
     律法を前にして、私たち必要なものは、神様への愛です。しかし、私たちには神様への愛がありません。律法を読むとき、私たちの心で起こるのは、律法に対する拒絶反応です。そのような私たちの現実がある中で、19節からイエス様は、神様への愛をもって律法を受け取らなければ、神様に受け入れられないと言います。
    ここで、イエス様は、私たちの間違った律法理解を指摘すると共に、私たちには神様への愛がなく、自分の力で神様に受け入れられることは不可能であることを教えています。
     しかし、ここで終わりではありません。私たちには不可能であるから、イエス様がこの地上に来られ、十字架にかかってくださったのです。十字架とは、神様に見捨てられた人を象徴する処刑方法でした。つまり、本来そこに掛けられるべきは私たちです。しかし、イエス様がそこに掛けられました。それは、イエス様の義が私たちの義となるためです。このイエス様の十字架を自分のこととして受け入れた私たちは、神様に完全に受け入れられているのです。
     その証拠に与えられたのが聖霊です。さらに、聖霊によって私たちは、神様を愛する心が与えられます。その聖霊から与えられた愛をもって、私たちは初めて神様の心である律法を喜んで受け入れることができるのです。この良い知らせを受け取って歩んでいきましょう。

6/2 「主イエスは病を直す方」 ルカの福音書4章16〜30節 小林泰輔師 

  •  今朝の箇所では、預言者イザヤが救い主の到来を数百年前に予言し、それがイエスによって実現したことを示す出来事が語られています。イエスはナザレで育ち、ある時、故郷の会堂でイザヤ書の朗読を任された時に、自分がその救い主であると宣言しました。この宣言に故郷の人々は驚き、彼を疑いました。イエスは、人々が真実を受け入れないことを見越し、旧約のイスラエルの事例を挙げて指摘しました。
     私自身も持病をいくつか抱えています。生まれつき軽度の骨形成不全症という指定難病を抱え、また、心臓弁膜症で手術を受け、その後は自律神経失調症やパニック障害も患いました。これらの病気により不安や困難を経験しましたが、教会の信頼と支えに感謝しています。
     本日のテーマ「主イエスは病を直す方」について、私自身も肉体の病気は完治していなくとも、魂の病み(闇)は神との出会いによって「直った」ことを経験しました。本来「直す」という表現は、壊れたものを修理することや、特に西日本では散らかったものを元の場所に戻す意味で用いられます。魂の病みが直されたことで、私と神との関係は修復され、あるべき場所に帰り、元の姿を取り戻しつつあるのです。
     現代人は悪に向き合うことができないと言われます。多様な価値観や相対主義的な考え方が中心になっている世にあって、罪の認識に向き合うことが難しくなっているのです。罪の病の症状として、虚栄、自己中心、敵意、人を恐れることなど、挙げればきりがありません。しかし、人々はこれを直視できずにいるのです。私も同じく罪を抱えている一人ですが、神の赦しと愛に出会い、神の愛によって罪に向き合う勇気が与えられ、救われてその症状が改善していく癒しの旅路を経験しているのです。
     あなたの病は必ず直ります。これまでの牧師としての経験において、教会を訪れた人々にそうはっきり伝えるべきこともあったと懺悔しています。主イエスはたましいの医者であり、病を直すためにこの地に来られたことは強調してもしすぎることはありません。

5/26 「霊的に健康な教会」 ヨハネの手紙第三2〜12節 小林泰輔師 

  •  霊的に健康な教会の四つのポイント
    【真理のうちを歩むこと(3-4節)】
     教会が霊的に健康であるためには、まず神の言葉に従って生きることが重要です。これは個人だけでなく、教会全体が聖書の教えに従う姿勢を持つことを意味します。また、他の人がその教えに従っていることを喜ぶことも含まれます。例えば、教会で育った子供たちや求道者が聖書の教えに従って成長していく様子を見守り、共に喜ぶことが大切です。
    【他の人の働きを助けること(5-8節)】
     教会が霊的に健康であるためには、他の人の働きを支援する姿勢も必要です。具体的には、巡回伝道者や宣教師を献金や祈り、もてなしを通じて支援することが挙げられます。直接宣教活動に参加できない場合でも、支援を通じてその働きに協力することが求められます。予算に教会全体として宣教師や伝道者のための献金が含まれていることは神に喜ばれることです。
    【不健康を指摘できること(9-10節)】
     霊的に健康な教会であるためには、内部の不健全な状況を指摘し改善することが重要です。教会も人間の集まりであるため、権威主義的なリーダーや不健全な振る舞いが生じることがあります。こうした問題を放置せず、直接指摘することで教会の健全性を保つことができます。ヨハネはこの重要性を強調し、直面する問題を見過ごさない姿勢を取ることを示しています。
    【善を見習うこと(11節)】
     最後に、霊的に健康な教会であるためには、善を行うことを見習う姿勢が大切です。デメテリオという人物が例に挙げられていますが、彼のような善を行う巡回伝道者の行動を受け入れ、見習うことが推奨されています。より広い意味では、クリスチャンであるか否かに関わらず、良い行いをしている人々の姿勢を見習うことも大切です。教会は社会に対して良い影響を与えるために、神の国の実現を証しするために、良い行いを奨励し、自らも実践することが求められます。

5/19 「助け主である聖霊の働き」 ヨハネの福音書16章7〜13節 小林泰輔師 

  •  ペンテコステ、五旬節、七週の祭りと、同じ日を指していますが、その日に主イエスの約束の通りに弟子たちが祈っていると、激しい風が吹くような現象があり、また一人一人の上に炎のような分かれた舌が降り、不思議なことに各人が未修得であるはずの外国の言葉で話したというのです。
     聖霊の働きはペテロや弟子たちを勇敢で大胆な使徒に変えました。それまではユダヤ人の迫害を恐れて隠れていたのです。ところが、この時はたくさんのユダヤ人や異邦人の前でイエスがキリストであることをはっきりと宣言し悔い改めを迫りました。
     聴衆にも聖霊の働きがありました。聖霊の働きは、人々の心のうちを明るく照らします。そして心の闇にある罪に気づかせます。人々は自らの罪深さに気付かされ、ペテロに教えを乞いました。そうしてペテロの説教に応答して大勢がバプテスマを受けました。3,000人ほどの人がその日に信じて、世界で最初のキリスト教会が誕生しました。ペンテコステが教会の誕生日と呼ばれる所以です。
     このように聖霊の働きは、信じる前から私たちの外側から働きかけ、私たちの悔い改めるべき罪を示し、そしてイエスの十字架と復活による贖いに救いがあることを指し示します。イエスの御名によってバプテスマを受けるなら、賜物として聖霊が与えられます。この時から聖霊は内に住んでくださるようになります。そして、日々、神の御心を知らせてくださいます。求めれば求めるほど聖霊は深く深く、隅々にまで満ちてくださいます。これを聖霊の満たしとか聖霊のバプテスマ(浸されること)と呼ぶこともあります。
     聖霊の働きは一回的なもの(受洗来の内住)と漸進的なものとがあります。毎日、毎時、毎分、聖霊に満たされ続けることが大事です。神の御心と私の願いがひとつになるまで祈って参りましょう。

5/12 「神の豊かな恵み」 ルカの福音書7章36〜50節 藤井聡美姉 

  •  クリスチャン生活を送っていると、「恵み」という言葉はたくさん出てくると思います。よく使われる言葉ですが、皆さんは「恵み」についてどれくらい理解しているでしょうか。恵みという言葉は聖書の中に160回以上出てくるのですが、そのうち128回は新約聖書に出てきます。イエス様にある神の恵みは新約聖書の中心テーマです。恵みとは、それを受けるにふさわしくない対象に対して示された「愛」です。
     神の恵みは、神様のひとり子であるイエス様が、罪人である私たちの身代わりに死んでくださったところに表されています。また、神の子とされた私たちがイエス様の流された血によって、絶えず神様に受け入れられているところにも表されています。神の恵みは、私たちの人生に深い喜びと満足感をもたらす揺るがない希望です。そのため、神の恵みを理解し、体験し、日々自分の生活の中で適用していくことは、すべてのクリスチャンにとってとても重要なことです。今回は「神の恵み」について3つのポイントで学んでいきたいと思います。
     1つ目のポイントは、「私たちは神の恵みを救いの瞬間に体験している」。2つ目のポイントは、「私たちは神の恵みを日々の生活の中で体験できる」。3つ目のポイントは、「神の恵みを自分の人生に適用する」。
     皆さんにとって、神の恵みを十分に理解していないように思う領域はどこでしょうか。自分自身を見る目でしょうか、神と人に仕える動機でしょうか、または人間関係でしょうか。そして、それに対して具体的にどのようなことが思い浮かぶでしょうか。次に、そのことに関して、神様はどのように教えているのか、御言葉を読んで考えてみましょう。そして、心に浮かぶそれに反するささやきは何か考えてみてください。最後に、神様の真理を信じた自分の態度と行動はどうあるべきか、考えてみましょう。
     日々様々な悩みや試練がありますが、毎日神様は私たちに豊かな恵みを注いでくださっています。何よりも、救いはとても大きな恵みです。その恵みに感謝しつつ、主と共に歩んでいきましょう。

5/5 「死からいのちへ」 ヨハネの福音書5章24節 小林泰輔師 

  •  日本では死の話題はタブーとされています。中世ヨーロッパの流行語には「メメントモリ(死を覚えよ)」というものがありました。人はいつ死ぬかわからないのだから、今のいのちを最善を尽くして生きよというメッセージが込められています。
     “人は死んだらそれでおしまい”と考える人もいますが、はたして本当にそうでしょうか。聖書はそうではないと言っています。それは本日の聖書箇所で「永遠のいのち」という言葉に端的に表されています。
     人は皆一度は死ぬ者ですが(ヘブル9:27)、その後の行き先については「永遠のいのち」か「第二の死(永遠の滅び)」かに分かれるのです。
    イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた者は新しく生まれた者です。「二度生まれた者は一度だけ死に、一度しか生まれなかった者は二度死ぬ」のです。この第二の死は永遠に神の前から断たれることです。
     しかし、主イエスは私たちが滅びることがないように、永遠のいのちへの道を用意して下さいました。主イエスは十字架の上で私たちの罪を滅ぼし、復活によって死の力を滅ぼして下さったのです。
     ですから、私たちはもはや死の力を恐れることはありません。「死の恐怖の奴隷」(ヘブ2:15)ではなく「死からいのちに移っているのです」(ヨハ5:24)

4/28 「おろかな金持ち」 ルカの福音書12章13〜21節 小林泰輔師 

  •  ある人が遺産相続のトラブルでイエスさまの元に相談に来ました。ユダヤのラビはこのようなことをさばくことも仕事のうちでした。イエスさまはその機会を捉えて、その人にも周りの人々にも、貪欲に気をつけるべきだと教えるためのたとえ話をされました。
     ある金持ちの畑が豊作であったのですが、その人は喜びや感謝よりも、保存の心配をしました。そして自分の蔵を拡張して溜め込むことにしました。それでこの先何年も食べて飲むことができると喜んだところで、神さまの声がありました。愚か者、お前のいのちは今夜取り去られるのだと。
     それから自分のために富を溜め込むのではなく、神に対して富むものとなりなさいと教えられました。神さまが与えてくださった賜物や祝福は自分だけのものにするのではなく、むしろ大胆に用いていくのなのです。それは、神さまに富を預けるようなものであって、大きな霊的祝福が利子となって返ってくるのです。金持ちが言ったことばは、そのまま神さまとの幸いな関係に置き換えられます。「自分のたましいにこう言おう。わがたましいよ、これまで何年も神さまは私にとって良いお方でいてくださり、これから先何年もとこしえまでも、たくさんの愛がためられた。さあ休め。主の御前で食べて、飲んで、楽しめ。」
     イエスさまは、その人の宝のあるところにその人の心もありますとも言われました。私の宝がどこにあるかを考える前に、神の宝はどこにあるでしょうか。神の宝、それは神の民のことです。わたしの目にあなたは高価で尊いと言って、いのちに代えてでも手に入れたい宝だと、御子イエスを犠牲にしてまでも私をご自分のものにしてくださったのです。ハレルヤ!

4/21 「竜と二匹の獣」 ヨハネの黙示録13章1〜18節 小林泰輔師 

  •  聖書は信仰の書物ですが、信じてはいけないものについても厳しく警告します。それはサタンとその手下たちのことです。神は目に見ることはできませんが、悪魔も同じです。見極める信仰の眼と、声を聞き分ける耳が必要です。
     13章には竜と二匹の獣が出てきます。象徴であり、竜はサタンのこと、二匹の獣はそれぞれ反キリストと偽預言者のことです。獣と書かれてあってもそれは人間のことです。海から上がってくる獣(反キリスト)はキリスト教徒に戦いを挑む王たち(王権、王国)のことです。サタンからその権威が授けられ、一時的に活動し、聖徒たちに勝つことが許されました。死んだように見えますが蘇生します。そのようなことから復活したキリストのように人々から拝まれるようになります。けれどもその本質は獰猛な獣に例えられる暴力的で神を冒涜する者です。地から上がってくる獣は、預言者が神の言葉を語るように、竜の語る言葉を語り告げます。そして先の反キリストを崇拝するように人々を惑わします。天から火を降らすなどの奇跡も行います。その名を数字で表すと「666」ですが、これは人間を表すと書いてあります。
     世の終わりが近づくとこのような者が現れます。荒らす忌むべき者とか不法の子などとも呼ばれます。歴史上いつの時代にもそのような人物はさまざま存在しました。今も反キリストの力は働いています。私たちには、上からの知恵(ヤコブ3:17-18)、まことの羊飼いの声を聞き分ける耳が必要です。獣の暴力性に気づき、悪に対して悪で報いるようなことはせず、イエスさまに似た者として敵のために祈る、イエスさまの説いた神の愛に生き、みことばを聞き分け従って参りましょう。

4/14 「新しく創造された者」 第二コリント5章14〜21節 エミリー・チョウ宣教師 

  •  『キリストの愛が私たちを捕えている』
    パウロは、「キリストの愛が私たちを捕らえている」と表現しました。これは、私たちがキリストに深く愛され、その愛に導かれて行動することを意味します。キリストの愛によって私たちは神の子となり、神を「アバ」と呼ぶ関係を持つようになります。この愛は、私たちを行動に駆り立て、愛に応えたいという気持ちを引き出します。キリストの愛に応えることは、時には自己犠牲を伴いますが、その喜びは大きく、神への愛に対する応答として私たちを解放します。時に私たちは神を感じられないかもしれませんが、それでもキリストの中にあり、神の愛に素直になる必要があります。
     『新しく造られた者』
    パウロは、キリストの中にある者は新しく造られた者であると述べます。これは、キリストを信じることで新しい生命を得、古い自己から解放されることを意味します。パウロは自身の経験を通して、イエスとの出会いが自己変革をもたらしたことを語り、聖霊の働きがキリストを理解し、神を畏れ、敬うことを可能にすると主張します。
     『和解の務め』
    神によって新しく創造された私たちは、キリストの使節として神との和解のメッセージを他に伝える役割を果たします。キリストの十字架での働きによって、神と人類との関係が回復され、新しい関係が築かれることが強調されます。

4/7 「幸せはたましいの健康から」 ヨハネの手紙第三 2 節 小林泰輔師

  •  2024 年度の年間標語は「霊的に健康な教会」です。今年度で清和キリスト教会は100 周年を迎えますが、新しい時代には霊性も新しくされる必要があります。古くて改めるべきものは新しくし、古くても普遍的なものは守り通していく必要があります。霊性の形成ということにおいては、誤った理解や実践もあったのではないかとキリスト教会にも反省すべきものがあるかもしれません。福音の力の本性は、人を常に新しく生まれ変わらせることにあります。神のみことばの真理は変わらないけれども、私たちは変えられ続けなければなりません。新しい価値観のすべてが正しいわけではありませんが、古い価値観に固執して人々が教会の門をくぐる妨げになったことはないだろうかという反省も必要です。
     さて本題ですが、キリスト教とは、人を幸せにするためにあります。私たち教会は人類の幸福のためにこの地に存在しています。自分の幸せのためだけではなく、この町の、この国の幸せや健康のために祈ることが使命です。自分の周りの世界をケアすることが使命なのです。幸福のためには、まず、たましいの幸いが必要であると、みことばは言います。世間的な価値観は逆かもしれません。健康や経済や事業などの欲求が満たされてから、次に心やたましいと言った霊性を求めていくようなところがあるのではないかと思います。けれども真理は違います。たましいの健康が真っ先に大事です。
     人間は霊的存在です。創造のとき、土くれから作られた人間の形をしたものに、神が息(霊)を吹き込まれて、人は神の像(かたち)に似るように造られたのです。霊性とは、心とか魂とか意思とか理性とかを含みます。人間は霊的存在であることを人は忘れたかのように生きていますが、無自覚にそれを求めています。運命とか運勢とかを信じたくなるのも、人間関係に心を使うのも霊性に関するものです。
     「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか」(詩篇42 篇)と、たましいに語りかけていますが、心がたましいに語りかけているのです。自分の中のたましいの対話が必要です。霊は私たちの中核にある本質で、そこにキリストの御霊が入ることで、私たちは神のみこころを歩むことができます。たましいは私たちの存在を全体的(ホリスティック)に包み込むものです。そして私たちを取り巻く広大な領域に神の愛を注ぎ出すために存在しています。ですから、無意味に生かされているいのちなど一つもありません。私たちの全存在をもって、健康なたましいで健全に世に働きかけ、世界を救う神のご計画に参画していきましょう。
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