説教要旨

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  • 2020年度

7/26 「命をかけたとりなし」 出エジプト記32章30~35節 小林泰輔師

  •  神の代弁者であるモーセ不在の間、ふもとの民は金の子牛を礼拝し罪を犯しました。そのために神は民を滅ぼそうとされるのですが、モーセの嘆願によって思い直してくださいました。
     しかし山を下りたモーセが目にしたのは聞きしに勝る民の堕落ぶりでした。モーセは「主につく者」(恐らく金の子牛礼拝に参加しなかった者たち)を集めました。すると多くのレビ人が集まりました。親兄弟関係なくこの罪に加担した者は剣で刺し通すように命じました。その日3,000人の人が死にました。滅ぼし尽くされることは免れましたが、罪の刈り取りはなされたのです。律法により神に仕えることになるレビ族の最初の奉仕が聖絶という過酷な奉仕になりました。神に仕える者は罪を断たなければならないことを教えられます。
     それからモーセはあらためて民全体のためのとりなしを決心します。モーセは主に申し上げました。「もし、(民を赦すことが)かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物(命の書)から私の名を消し去ってください。」(32)命の書に名前がないということは永遠に神の前から滅び去ることですから、命がけ以上のことでした。このとりなしの祈りにはイエスさまのとりなしの祈りの響きがあります。神さまはアブラハムにイサクをささげるよう命じたときのように、モーセを試みられたのかもしれません。モーセは、命を捨ててでも民を贖うという主の御思いと同じ思いにさせられました。
     主は、モーセに免じて赦そうとは言われませんでした。モーセの命では民を贖うことはできないのです。それは御子イエスの十字架のことば「父よ、彼らをお赦しください」とのとりなしによってのみ、主のみからだという犠牲によってのみ、成し遂げられることだからです。
     神さま、あなたのほかに頼る偶像崇拝を悔い改めます。二度と主イエスさまのご愛から迷い出てしまうことのないように、信仰をお守りください。主の十字架の贖いを感謝し、心からの賛美と礼拝をおささげします。

7/19 「畑に隠された宝」 マタイ13:44、Ⅱコリント4:7 小林泰輔師

  • 創立96周年を迎え、改めて心におぼえたいことは、私たちは神の栄光を表す者として召されているということです。私たちの中に住まわれる神さまは、私たちのうちにご自身の栄光を満たしておられます。それを覆ってしまったり、隠してしまうことなく、明らかにしていきたいと思います。
    畑に隠された宝の譬えでは、宝を見つけた人が神さまで、見つけられる宝が私たちという見方もできます。神さまは私たちを高価で尊い宝として見ておられ、それを見出して喜び、誰にも渡さず独り占めにするために、すべてを投げうってでも買い取ってくださるのです。続く高価な真珠の譬えでは、それがたった一粒の真珠でも全財産をもって買い取られることから、イエスさまの十字架による贖いは一人の私のためになされたことをおぼえます。
    畑の中から掘り出された宝である私たちは土の器であります。私のうちに神の栄光という宝が入れられているというのは、Ⅱコリント4:7にありますが、私たちはイエスさまの贖いの代価をもって買い取られ、罪の泥の中から掘り出されて、またきよいことのために用いる器としてきよめられたのです。土の器は光を灯すランプのようなものでしょうか、それは人々を照らすものであって机の下に隠したりするものではありません。土で覆われていたものが掘り起こされ、たくさんの真珠の中に紛れていても神によって見出されたように、隠されたもの覆われたものが露わになるようにして、神の栄光は表されるのです。
    また、それは教会を通して表されるものです。一人一人は小さな光でも、それを束ねて大きな光となるときに、灯台のように世の光として照らすことができます。私たちがうちに住まわれる神さまを喜び賛美し生きていくなら、自ずと内なる神の光が輝きだします。信仰の一致をもってこれからも神の栄光を表して歩んで参りましょう。

7/12  「神の愛するとなりびと」 マタイ5:7、詩篇112:1~10 森田学師

  •  あわれみ深い人、それは同情で一杯の人。他人の苦しみ悲しみを、自分の事の様に思い、その人を大事にし、温かく接する、まさに隣人を愛する人です。
    詩篇112篇では、あわれみ深い人について語られています。しかし、本当にあわれみ深いのは主ご自身であることが5節で知らされます。主は、みことばの通りに、光として、真っ暗な罪に囚われたあわれな私たち人間を救い出すため、この世に輝き出てくださいました。
    私たちを深くあわれみ、罪から何とかして救い出そうと、十字架で命まで捨てられたのは、イエス・キリストです。これほどあわれみ深いお方は他にはいません。
     この方のあわれみを受けた者の希望について112篇は語り続けます。それは、イエス様がルカ10章で語る良きサマリア人のようです。
    瀕死のイスラエル人を深く憐れんで助けたのは、イスラエルにとことん嫌われていたサマリア人です。
    仲良しだけが隣人ではないです。あなたが苦手な、関わりたくない、正直嫌いな、そのような人こそが、隣人なのです。あなたにとって敵のような存在をも、神さまは愛しているのですから。
     今のあなたにとって、隣人とは誰でしょう?あなたの敵を好きになる必要はないです。けれども、その神さまの愛する隣人のために、私たちは、こう祈り始めることができるのではないでしょうか。“この人苦手だけど…私が罪から救われたようにこの人も救われて欲しい”
    聖霊は、私たちを神さまの愛に生きる者としてくださっています。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』そして、私たちのうちでみことばを為してくださいます。

7/5 「わたしにはあなただけ」 テモテへの手紙第一2章4~6節 小林泰輔師

  • モーセの十戒第一の教え「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジ20:3)において、神はただお一人だけであって、ほかの神はいないことが教えられています。この世に宗教は多くありますが、その教えに一定の知恵や教訓はあるものの、真の神はお一人だけだと、神ご自身が聖書を通じて啓示されたのです。一神教は排他的だということで評判がよくないですが、真理は一つしかないから真理なのであって妥協はできません。
    またクリスチャンの側でもこの教えを「偶像崇拝禁止」という点だけで捉えてしまうとただの窮屈な縛りとなります。聖書は単なる戒律集や法令集ではありません。神さまから私たちへの愛のメッセージが記されているものです。「わたし以外に、ほかの神があってはならない」とはまさしく強烈な愛のメッセージです。私たちが自分の伴侶と誓い合うのと同じですよね。わたしにはあなただけ、ほかの誰かでは替えがきかないということなのです。
    「神は唯一です」(Ⅰテモテ2:5)とは、同時に神の目にはあなたもまた唯一無二の存在であることを表しています。重婚が認められないように、結婚という関係は唯一の関係です。他の誰も入り込むことは赦されません。こんなにも私を愛してくださるのは神さまだけなのです。十字架で文字通りに命を捨てて私をくださったのはイエスさまだけなのです。ほかのものを頼りにし、神さまに対して罪を犯してきた私たちを仲介して父なる神のみもとに導いてくださるのは、御子イエス・キリストだけなのです。

6/28 「モーセの嘆願」 出エジプト記32章1~14節 小林泰輔師

  • モーセは神さまから律法を授けられるために山に登りましたが、四十日もの間、帰ってきませんでした。モーセ遭難か?と不安になった民は、目に見える神を造ってくれるようにとアロンに迫ります。アロンは民の声に負けて、金の子牛像を造ってしまいました。その材料になったのは民の持ち物の金の耳輪などでした。おそらく、エジプト脱出の時にエジプトの民から剥ぎ取ったものではないでしょうか。神の不思議なみわざによってエジプトの民が好意をもってイスラエルに渡したものです(12:35,36参照)。それは神の恵みの象徴ともいえるものでした。また、偶像の題材になった牛はエジプトの神々を真似たものと思われます。すべて神の恵みを無にし、エジプトにいた方が良かったとでも言わんばかりの堕落ぶりです。「神の恵みを放縦に変え」ることがあってはなりません。それは父なる神と御子キリストを否むことに他ならないことです(ユダ4節)。
    神さまはイスラエルの背信に怒りをもってこれを打ち滅ぼそうとされましたが、そのみ旨をモーセに打ち明けられました。かつてアブラハムにそうしたように。そこでモーセもまた神さまに嘆願しました。神さまご自身の愛と、御名の栄光と、アブラハムや族長たちとの契約に訴えかけて、神さまを説得するかのように迫りました。私たちも祈るときには、確信をもって祈るためにみことばの約束を握って祈ります。
    神さまはモーセに何を言われようと、御自身の御心を変える必要などありませんでした。しかし、神さまはモーセの祈りに応え、「わざわいを思い直された」のです。モーセの祈りに心を動かしてくださったのです。私たちも、諦めず祈ることを励まされます。神さまは私たちの祈りをきいてくださり、心を動かしてくださる、あわれみ深いお方です。信仰の確信を得て、みことばを握ってとりなし、祈り求め続けましょう。

6/21 「キリストに倣う」 ヘブル人への手紙13章1~25節 小林泰輔師

  • 13章の内容の背景にソドムとゴモラを滅ぼした神の火のことがあります。これらの町は高慢、飽食、乏しい人を顧みないことなどの罪ゆえに滅ぼされました(エゼ16:49)。一言に言い換えれば兄弟愛に欠けていたゆえに罪に浸ることになったのです。ですから、兄弟愛をいつも持っていれば罪から守られるのです。旅人をもてなすということはお客さんの接待ということではなく、乏しい人を助けることでしょう。虐げられている人を思いやることも必要です。兄弟愛を持って異性と接するなら姦淫の罪を犯すことから守られます。金銭を愛するのではなく、神を愛し、兄弟姉妹を愛して、そのことのために金銭を用います。
    主がその民に望まれる生き方とは、このような生き方です。そして神の言葉を話した指導者たちはそれを実践してきました。彼らの生き方から生まれたものとは何でしょう。それは小さなキリストではないでしょうか。イエスさまの似姿に造り変えられた姿ではないでしょうか。先輩たちの歩みに倣うときに、私たちの生き方からもキリストの御形が生まれ出てくるのです。
    そのようにして私たちは世に遣わされていきます。神殿の中で祭儀や儀式や神学論争に明け暮れるのではなく、宿営の外に出て、そこにおられる主イエスとともに、善を行い、兄弟愛をもって分かち合うことで、真実の神へのいけにえをささげるのです。これが神の喜ばれる本当の礼拝です。
    20,21節の祝祷にあるように、神さまは私たちを「あらゆる良いものをもって、…整え、みこころを行わせてくださいます」。キリストに倣って宿営の外に出て、「御前で、みこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださ」る方に信頼し、神の栄光をあらわしつつ歩ませていただきましょう。栄光在主!

6/14 「良いもので満たすお方」 マタイ5:6、詩篇65:1~4 森田学師

  • 6節の義、それは、神の義、それは、神にある全ての良いもの。その中には、神の愛、救い、恵み、聖さ、審き…があります。神の全ての良いもの、それを私にも下さいと願うならば、その人たちは、神の良いものでお腹一杯になって満足するとイエスは約束しています。同時にこれは、私には義など無く、本当の良いものは、全て神ご自身にしかない、ということを認めるチャレンジでもあります。
    神のチャレンジがあるところに、悪魔の誘惑もあります。どのようにでしょうか?神を信じ従っていきたい。そう言いつつも、気が付けば私たちは、隣にいる人と自分を比べ、私の方が正しいと自分の不完全な義で他人を裁き、自分のお腹を偽りの義で満足させようとするのです。そして、私たちのお腹が、神の良いもの以外で一杯になると危険です。
    『幸いなことよ あなたが選び 近寄らせた人 あなたの大庭に住む人は。私たちは あなたの家の良いもの あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。』(詩篇65:4)
    忘れないでください。神の方から近くに引き寄せてくださって、私たちと触れ合いたいと言われるのです。私たちのお腹が、神の良いもの以外で満たされているなら、罪を悔い改めて、今こそ神の良いものを求め、神と触れ合うときです。
    イエスの十字架の贖いによって、私たちは神の良いものと敵対する悪魔の誘惑を、打ち破ることができます。私たちは、神の良いものでお腹いっぱいにさせてもらえる特権を持っています。遠慮せず、絶え間なく神と触れ合う者でありたいです。霊的リバウンドを起こさないために、日々神との触れ合いを全てにおいて優先し、私たちの内から神の良いものがあふれ流れることを、神は私たちに願っておられます。

6/7 「教会ってなに?」 使徒の働き2章40~47節 小林泰輔師

  • 教会とは何か。それはイエスさまを信じる人々の群れのことです。“イエスさまの夢見たもの”と言えば不適切な表現かもしれませんが、イエスさまが強く願われた世界のあり方を表す群れ、それが教会ではないかと思います。それは、私たちが互いに愛し合い、そのことを通して神の栄光を表すことです。けれども実際の私たちの世界はどうでしょうか。人種差別が行われる世界を見るにつけ、イエスさまの願われた世界から遠く離れていることを思います。そしてそれはまた他人事ではなく、私たちの内側にある罪によって出来てしまった世界なのです。イエスさまは「地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」と言われました(ルカ12:49)。火は私たちの罪を焼き尽くすものです。その火がすでに燃えていて私たちが熱心に悔い改めていたならどんなに良かったかと、熱く語られたのです。
    ペンテコステのあとに出来た群れは教会となり、神の御教えが語られ、その教えを守り、愛の交わりを保ち、パンを裂きつつ十字架の主をいつもおぼえ、熱心に祈っていました。これが教会のあるべき姿です。そしてまた、互いの間の愛が、自然に持ち物を分かち合い、共に生きるようにさせました。これが御父とイエスさまの願われた世界ではないでしょうか。これは天国さながらの姿です。しかし、実際には教会イコール天国ではありません。教会にも欺瞞や差別の問題が起こりました。イエスさまは地上の教会をもって天の御国としようとしたのではありませんが、天国のあり方を証しし、イエスさまの統治される天の御国の到来を宣べ伝えるものとして、教会を建てられたのです。
    教会は「キリストのからだ」です。イエスさまの願いを実現する手となり足となり、働いていきましょう。“私には夢がある”イエスさまの夢が私の夢です。御心が天で行われるように地でも行われることです。

5/31 「新しい皮袋」 ルカの福音書5章29~39節 小林泰輔師

  • イエスさまはこの箇所で、新しいいのちによって、新しい生活様式に変わっていくことを語ってくださいました。この話をしてくださった背景には「祝宴」の風景があります。取税人レビが救われたその祝いの席でのことでした。豪勢な食事を楽しんでいるとパリサイ人がクレームをつけてきました。なぜ罪人と食卓をともにし、なぜ断食をしないのかと。そこでイエスさまは四つのユーモアあふれる譬えを話されました。
    健康自慢の患者」医者に来るのが健康な者ばかりだったらどうかという話です。何のために来るのでしょう?自分の健康を自慢するために?教会が聖さ自慢の人ばかりだったら台無しですね。イエスさまは罪人を救うために来られたのです。
    披露宴で何も食べずに悲しむ人」せっかくのごちそうが…、いや、祝いの席が台無しですね。イエスさまは花婿、教会は花嫁です。花婿と一緒にいられる時は心から喜び楽しむのです。やがて花婿が取り去られる時が来るとも言われました。これは十字架の死のことです。その時にはイエスさまを十字架にかけた自分の罪を悔い改めます。
    おニューの服で古着を繕う」新品の一張羅が台無しです。私たちはイエスさまで型取りをした新しい衣を着せられています(エペソ4:23-25)。救われて新しくされた者にはイエスさまの生き方が一番似合うのです。新しくされた者が、古い生き方(律法主義的自己義認や罪)に戻るなら愚かなことです。
    皮袋は新しく、ワインは古い方が良い」古い皮袋は伸縮性がなく、新しいぶどう酒を入れると醗酵により皮袋を裂いてしまいます。袋もワインも台無し。イエスさまのくださるいのち、聖霊の満たしがあるなら、新しい生活様式が必要になります。心を柔らかくし御霊に聴き従うなら、私たちは香りの良いぶどう酒のように熟成されていくでしょう。私たちがキリストの香りを放つなら世の人々をキリストのもとに導きます。

5/24 「平和と聖さを追い求める」 ヘブル人への手紙12章14~29節 小林泰輔師

  •  平和と聖さを同時に求めることは可能なのでしょうか。“聖である”ということは“俗なるもの”から分離されていることです。この世界の罪と馴れ合いの平和では両立しません。ここでの「平和」とは11節にもある「義の平安」と同じく、神との平和のことであると思います。すべての人々が神との平和を得ることができるようになるには、私たちキリスト者の聖い生活によって証しを立てることが必要です。私たちの良い行いを見て、世界の人々は、天の父のおられることを知り、あがめるようになるのです(マタイ5:16)。キリストが唯一の救いの道ですから、キリストのからだである教会は、神への平和の架け橋と期待されるのではないでしょうか。
     15節では、神の恵みから落ちるということを問題にしています。これは救いの御手から漏れるということでなく、キリストを信じた者が自分から恵みを捨ててしまうことを表しています。その代表例として著者はエサウを挙げました。長男として生まれたことはまさしく神の選びによることで、長子の恵みに与る者ですが、エサウは一杯の煮物と引き換えにその恵みを売り渡してしまったのです。この行為をして聖書は「淫らな者」「俗悪な者」というのですから辛辣です。私たちキリスト者が受けた恵みを放縦に変え、自ら捨ててしまうならそれは世界に対して大きなつまづきを与えるのです。
     エサウの罪、モーセの民の金の子牛の偶像崇拝、律法の時代は厳しい裁きを受けることでした。カインに殺されたアベルの血は厳正な裁きを要求するでしょう。しかし、キリストの血は神の恵みを語るのです。罪を犯した者が赦される唯一の道があることを示すのです。このイエスの血にる恵みの契約は、天地が滅び去っても決して消え去ることはない約束です。この神の恵みに信頼して歩むことが、聖なる者の歩みです。感謝と喜びをもって礼拝をささげましょう。

5/17 「父が与える訓練」 ヘブル人への手紙12章1~13節 小林泰輔師

  • 「自分の前に置かれた競争を、忍耐をもて走り続けようではありませんか」(1節)。人生はマラソンレースのようです。上り坂もあれば下り坂もあり、また「まさか」という坂もあるとはよく言われことですね。人生の「まさか」の坂は試練だと思います。「神さまは耐えられない試練を与えない」とは一般でもよく聞かれるようになりましたが、もとはⅠコリント10:13のことばです。この「試練」は「誘惑」とも訳されることがあり、コリントの手紙の文脈ではそちらの方が調和します。耐えられないような苦しい出来事は人生には時々?しばしば?ありますよね。そこから悪魔の誘惑により信仰が揺さぶられることがあるかもしれません。人生の不条理に思える苦難はなくならないけれども、誘惑には耐えることができるのです。
     神さまが聖書を通してくださるひとつのメッセージは「わが子よ。人生とは難しいものだよ。でも大丈夫。わたしはいつもあなたとともにいるから」というものだと思います。11章で旧約オールスターズみたいな面々のことが取り上げられますが、それは霊的武勇伝を目的としたものではありません。苦難を味わい、失敗しながらも、難しい人生を主とともに歩み、誘惑に勝利した人々の例話ではないでしょうか。
     主イエスは信仰の創始者であり完成者です。主イエスは人として来られ、十字架の苦しみ、なぜ私がこんな目に!という苦難の極みを味わい、しかし父のみこころに最後まで従い抜かれ、完走された方です。その方が、私たちのマラソンレースの先導者であり伴走者であるのです。
     父が与える訓練は、私たちをご自分の聖さにまで引き上げてくださいます。そうして教会を整え、聖め、世人の救いのために用いてくださいます。弱った手と衰えたひざを強めていただいて、人々の救いのために通りやすいまっすぐな道をつくり、最後まで走り続けようではありませんか。

5/10 「誰よりもへりくだる主」 マタイの福音書5章5節 詩篇37篇1~11節 森田学師

  • イエス様は、柔和な(へりくだった)人は、なんと幸いなのでしょう!と言われます。柔和、それは腹を立てない人です。しかし、私は常に柔和ですと宣言できるでしょうか。否。それでも、イエス様は声をかけてくださるのです。その声を聴いたなら、私たちは、自分を腹立たせるものから思い切って離れ、そして、本当に柔和なものに目を向ける。そのことが必要です。
    本当に柔和なもの…それはイエス・キリストご自身です。イエスは、神であるのに神の栄光を捨て、誰よりも低くなられ、ご自分が創造された人間に仕え、どんな屈辱にも腹を立てずに耐え従われました。その柔和の頂点が十字架の死です。
    どこまでも柔和なイエス様が、腹を立てやすいという重荷があるなら、そのままでいいから私のところにおいで。と、今、私たちを招いています(マタイ11:28、9)恐れず近づきましょう。そして、静かに座って見取り稽古をするのです。柔和が欠けている私たちには、本物の柔和を見続けることが欠かせません。焦りは禁物です。一生涯を通して、イエス様は私たちを養い、イエス様のように優しい光を周りに溢れさせる者にしてくださいます。
    その私たちは、地を受け継ぐ。約3800年も前に、神様から約束の地を与えると言われたアブラハム。彼はどんなことがあっても、神様を信頼しました。それでも地上の約束の地に着くことはありませんでした。しかし、実は彼は、『天の故郷』に憧れていたことを知ります(ヘブル11:16)
    私たちの地上の歩みは、先が分からないときもあります。しかし、私たちも、同じ天の故郷に憧れ、希望を持って神様を信頼し、柔和なイエス様と一緒に歩むなら、なんと幸いなことでしょう。

5/3 「神に愛されている」 ヨハネの福音書3章16~21節 イザヤ書43章4節 小林泰輔師

  • 聖書のメッセージの内容は様々ですが、神は私を愛しておられる、私は神に愛されているということについては、この二つのみことばが最もシンプルなまとめではないかと思います。
    神の愛はどのようなものでしょうか。人間の愛は条件付きの愛です。しかし、神の愛は条件をつけません。イスラエルの民は弱く、不忠実でさえありましたが、そのイスラエルでも無条件に「高価で尊い」と愛されたのです(イザヤ43:4)。なぜ、それほどまでに愛して下さるのでしょうか。それは神が私たちを造られた造り主だからです(同43:1)。
    「神は…世を愛された」(ヨハ3:16)とありますが、世とはどういうものでしょう。罪ゆえに互いに憎みあい、殺し合いや戦争の絶えない世です。しかし、そのように罪深い私たちであっても、神は愛して下さるというのです。もちろん、神は罪を見過ごしにされる方ではありません。罪に対しては罰をもって報いられる方ですが、私たちの受けるべき罰を、ご自分のひとり子イエス様にすべて負わせられ、私たちは贖われたのです。
    この神の愛に触れられたならば、私たちは変えられます。神に赦された者として、隣人を赦し、愛することができるようになります。罪ゆえの憎しみの連鎖を断ち切ることができるのは、福音の力によってのみできることなのです。愛されている者から進み、さらに、愛する者へと変えていただきましょう。

4/26 「愛と赦しの黄金律」 ルカの福音書7章36~50節 小林泰輔師

  • コロナ禍にあって「STAY HOME」を合言葉に外出自粛がなされています。クリスチャンはさらに「STAY JESUS」でありたいと願います。イエスさまにとどまろうということです。今日の箇所の「罪深い女」と呼ばれた女性も、イエスさまのみそばを慕い求めた一人でした。
    パリサイ人シモンの家に招かれたイエスさまのもとに、この女性はやってきました。横たわって食事をしているイエスさまの足元に近づき、涙で御足を濡らし、髪の毛で拭い、香油を塗ってさしあげました。パリサイ人は、この人が罪深い女であることを知っていたので、それをイエスさまがどうあしらうかを見ていました。蔑むような視線を向けたのではないでしょうか。しかし、イエスさまは違いました。「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません」(詩篇51:17)。この女性の行為に、深い罪を悔いる思いと悲しみを見たイエスさまは、この行為を神へのいけにえとして受け入れてくださいました。
    「黄金律」と呼ばれる教えがありますが(ルカ6:31)、愛と赦しの関係にも黄金律があります。イエスさまは金貸しに借金を帳消しにしてもらった二人の人の、ごく短いたとえを用いてシモンに教えを説きました。より多くを赦された者は、より多く愛するようになるのです。これが愛と赦しの黄金律です。赦しについて、ルカ6:37,38には「赦しなさい。そうすれば赦されます」「与えなさい。そうすれば、…与えられます」とあります。私たちも人間関係において求めてばかりではいけません。こじれた相手には、向こうが先に態度を変えるべきだと思ってしまいますが、愛と赦しの黄金律は、先に赦し、自分から与えていくことを教えています。イエスさまがそうしてくださるからです。私たちがまだ罪人であったときに主は十字架にかかってくださったのです(ロマ5:8)。イエスさまの十字架の恵みに信頼するなら罪は赦されます。私たちもイエス様の足跡に倣って歩んで参りましょう。

4/19 「なぐさめに満ちたお方」 マタイ5:4、ゼカリヤ12:10 森田学師

  • なぜ悲しむ者が幸いなのでしょうか?悲しむことは、あってほしくないです。今、イエス様が言われている悲しみ、それは3節で言われている、“人がまことの神を求めて、イエス・キリストと出会う”そのときに生まれる悲しみです。救いの喜びとは別に、悲しみが沸き起こるのです。聖霊によって、私の内側に隠れている罪に気づかされるときに、『悲しむ者』となるのです。ゼカリヤ12:10で預言されている通りにです。私の罪のために、十字架で殺されたイエスキリスト。それは、私が殺したも同然。こんなこと、だれにも相談できないし、だれにも理解されない、そのような深い悲しみです。
    どうしたらいいかわからない…自分の罪の本性を知らされ、深い悲しみに襲われたとき、イエスさまの方から、心の奥深くに来て下さいます。お前が私を殺したのだ、と責めるのではなく…罪深い私を見て、嫌がって遠ざかるのでもなく…友のように、私だよ、大丈夫かい?と、よりそってくださるのです。私たちが罪を知らされ、罪を告白するときに、十字架の愛が迫てきます。私は十字架で死んだけれど、それは、あなたを愛しているからだよと、イエス様は、真実の愛であなたを包んでくださいます。あなたが、自分を憎み、自分に失望し、自分を消してしまいたいと思うほどに、悲しみ疲れ果てることがないように、その罪の悲しみを取り除くために、私は十字架で、すべての罪を背負ったのだよと、愛にあふれたお方は優しく慰めてくださいます。
    イエス・キリストは必ず、私たちの罪の告白を聴いてくださり、全ての罪を拭い去ってくださり、悲しみから救い出し、慰めてくださいます。そして、約束してくださいます。エレミヤ31:34『…わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。』と。なんと愛と慰めに満ちた言葉をかけてくださるのでしょうか。
    まことの救い主を知って、罪に悲しむ私たちに、こんなにも愛と慰めを注いでくださるお方は他にはいません。これにまさるお方はこの世のどこにもいません。私たちに沸き起こる、霊的悲しみを通して、私たちはさらに深く測り知れない愛の神を知るのです。

4/12 「復活の福音を届けよう」 ヨハネの福音書20章19~23節 小林泰輔師

  • 復活日の夕方の話です。弟子たちは恐れに閉じこもっていました。マグダラのマリアが園の墓で主がよみがえられたことを知り、マリアを通してその知らせを聞かされたのは午前中の出来事か、せいぜい昼過ぎまでの出来事でしょう。しかし、夕方になっても弟子たちはなおもユダヤ人たちの迫害を恐れて戸に鍵をかけて引きこもっていたのです。その中心にイエスさまが突然現れ、平安があるようにと言われました。たしかに弟子たちには何よりも平安がありませんでした。それから「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と主は言われました。
    今の私たちもある意味で「恐れ」の状況下にあると言えます。しかしイエスさまは「遣わします」と言われるのです。自粛要請を無視してでも外に出て伝道せよというのではありません。私たちの「恐れ」とは、伝道に対する怖じけた態度ではないでしょうか。その恐れの殻を突き破って、イエスさまの証し人として復活の福音を携えて遣わされて行きなさいというのです。復活の福音は、主がよみがえられた、私たちの罪の贖いは成ったということです。これは罪と死の恐怖からすべての人を解放します。その良い知らせを届けるために私たちは遣わされるのです。現代のテクノロジーを用いてもゴスペルをデリバリーすることができます。
    遣わされるにあたっては、何もなしに送り出されることはされません。聖霊を与えてくださいます。「聖霊を受けなさい」(22節)。また、主のみことばの権威を授けてくださいます。「あなたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」(23節)。私が赦されたように、イエスさまの十字架と復活を信じるならあなたの罪も赦されます、と宣言することができます。主の聖霊をいただき、主の権威を与えられた使者として、不安や恐れの中に閉じ込められている人たちのもとへと、遣わされていきましょう。

4/5 「最後の一息も」 ルカ23章32~49節  小林泰輔師

  • ルカ伝における、主イエスの十字架上における言葉に聴きましょう。(他に「エリ、エリ、レマサバクタニ」「あなたの息子です、あなたの母です」 「わたしは渇く」「完了した」合わせて「十字架上の七言」)
    ①「父よ、彼らをお赦しください、彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34節)主イエスは最後のその時も人々の罪が赦されるために執りなしてくださいました。それも神の御子であるご自身に刃向かう者たちの赦しを祈ってくださったのです。どんな罪をも赦してくださる深い愛です。
    ②「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)同じく十字架につけられた強盗の一人は悔い改めましたので、その者に向かってパラダイスにいると約束してくださいました。それまでの人生がどうであっても、主はただちに赦してくださるのです。どんな者でも迎えてくださる広い愛です。
    ③「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(46節)大声で叫ばれたのです。想像を絶する痛みや苦しみ、呼吸困難の中でも父の愛に信頼して、十字架の苦しみを忍ばれ、人々への神の愛を示し続けられました。最後の一息をも父なる神の栄光が現されるために用いられました。
    一部始終を見ていたローマの百人隊長の言葉です。「本当にこの方は正しい人であった」と神をほめたたえた(47節)。この人が救われたか、洗礼を受け教会に連なる者となったかは不明です。しかし、十字架のイエスさまを見て、最後の一息による言葉を聞いて、そこで確かに神に出会ったのです。私たちの最後の一息までも主を証しするために用いていただきましょう。

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