説教要旨
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- 2023年度
5/21 「天と地はひとつに」 ヘブル人への手紙12章1〜3節 小林泰輔師
- 今日は召天者記念主日礼拝です。今年から、召天者の写真を掲示することにしました。今朝のみことばにあるように、「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と、旧約の族長たちのみならず、私たちの愛する兄弟姉妹もともに、私たちを取り巻き、ともに主を礼拝していることを想起するためです。
★母は今どこにいるのか
召天された方々は今どこにおられるのでしょうか。お墓や納骨堂の中に遺骨はありますが、そこにいるわけではありません。目には見えないけれども私たちのそばにいるというわけでもなく(「雲のように取り巻いている」は比喩かと思われる)、意外かもしれませんが、天国にいるのでもありません。天国は来つつあるけれどもまだ完成していないからです。天国は行くのではなくて、天国は来るのです。やがて天と地がひとつになる日が来るのです。聖書のさまざまな箇所を見ていくと、眠っている(一時的に)という表現があったり、「よみ」というところなのか、イエスさまは「パラダイス(園)」という言葉を使われたこともあり、譬え話では「アブラハムの懐」という場所も出てきます。天でも地でもない、ここではないどこか、中間の状態があるようです。
★イエスは今どこにいるのか
イエスさまは今どこにおられるのでしょうか。目には見えないけれども私たちのそばにいる、それは御霊によって臨在されるイエスさまです。イエスさまは十字架で死んで葬られ、三日目にからだをもってよみがえられました。そして40日後にそのからだのまま天に昇られました。人間の姿でこの地に来られ、神の姿に戻ったのではなく、人間のからだ(ただしそれは私たちの体とも違う)で天に昇られたのです。また、天とは、空の上にあるのではなく、それもまた、ここではないどこかです。そしてそこで父なる「神の右に着座されたのです」。
★イエスはもう一度来られる
そしてイエスさまはもう一度来られるのです。天に昇られた時と同じ人間の姿で、栄光に輝くからだと、真の王の姿で来られるのです。その時、天と地は新しくひとつになり、イエスさまと共に新天新地が現れるのです。そしてまた、ここではないどこかで眠っている私たちの母や父はイエスさまと同じ栄光のからだを与えられて、イエスさまとともに神の国を治めるようになるのです。これが御国が来るということです。そのことを信じて母や父は信仰の馳場を駆け抜けました。私たちもその日が来るまで忍耐を持って走り続けようではありませんか。
5/14 「目よりも心を見てくださる神」 サムエル記第一16章1〜13節 森田学師
- ★神の配慮、言わない知恵★
主なる神ご自身のために見出された王・ダビデ。神を退ける民のわがままをあえて許容され選ばれた王・サウル。ある意味サウルは犠牲者だったとも言えます。それはそうと、サウルの心は神から離れ不安定です。そんなサウルに、新しい王を迎えに…なんて言った日には殺されると、恐れるサムエルに、神は新たな知恵を授けます。つい恐れるな!と言ってしまいがちですが、信仰は方程式ではありません。瞬間瞬間の神さまとその人との生きた交わりによって新たに導かれ続けることが大事です。相手の心を十分知らずに、無慈悲なことを言う私とは違い、神は、サムエルの心に寄り添い、脆いサウルの心にも配慮し、神経を逆なでることはなさらないのです。正直に言わないことは、嘘ではなく、神の愛の配慮です。この神の知恵は、さらにダビデの父エッサイとその息子たちを招くにも最善でした。なんでもかんでも正直に言う事よりも、神の願いに従う事が私たちの祝福なのです。神はいつも、私たちに最善をしてあげたいと願われているからです。
★目を見る人間、心を見る神★
ダビデを見出した神は言われます。『人はうわべを見るが、主は心を見る。」』(7節)神が言われる人の価値は『高価で尊い』と変わらないのに、私たち人間は、見た目の受ける印象や感覚で、その人の人格を思い描き、うわべでその人の価値を見積もってしまいます。直訳では、“人は目を見る”と言われています。なるほど、ことわざには「目は口ほどに物を言う」とあり、また目は嘘をつかないと人は言います。あるいは、相手の目を見て何かを読み取ることもあるかもしれません。しかし、心と心が触れ合うまで真意は分りません。私たちは神ではないからです。神は、私たちが相手の目を見て、相手の心をまるで把握したかのように、高ぶることがないように、そう教えておられます。
★心と心の交わりを大切に★
全知全能の神でさえ、私たちのうわべや目を見て判断はされません。心に直接触れて知ってくださるお方です。私たちも神に祈るとき、私の目を見れば何も言わなくてもわかるでしょう?とは言いません。そんな私たちが、人に“話さなくても目を見ればわかる”と思うことは、傲慢でしかありません。私たちの常識を超えて働かれる神の謙遜と柔和な心を養われていきたいと願います。目を見て語り合い、心と心の交わりの中にこそ、神さまの愛がより鮮やかに現われ働かれると信じます。日々出会う人と人との交わりが、神の愛の心で導かれ、神の素晴らしさが証しされますように、ともに祝福をお祈りしてまいりましょう。
5/7 「ときのしるし」 ルカの福音書21章5〜36節 小林泰輔師
- 立派なエルサレム神殿(ヘロデが建てた第二神殿)を見た人々が感嘆していると、イエスさまが神殿の崩壊をほのめかすようなことを言われました。神の臨在を象徴する神殿が崩壊するとは、世界の終わりのように人々には感じられたかもしれません。そのようなことが起こるとはにわかには信じ難い人々は、いつそのようなことが起こるのか、そのときのしるしはどのようなものかを尋ねました。
それらは、にせキリストの登場と惑わし(8節)、戦争や暴動のうわさ(9節)、地震や飢饉や疫病(10節)、迫害(11節)などです。「それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないから」(9節)恐れる必要はありませんと言われました。たしかにこれらは歴史上、幾度も繰り返されてきたことで、現在もあることです。とは言え、どれも私たちにとって嬉しいことではなく、苦しみを伴うものです。マタイの福音書24:8では「これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言われました。産みの苦しみの次に待っているのは、新しい命の誕生の喜びです。また、これらのときのしるしを、いちじくの木やすべての木にたとえて言われました。いちじくは実が成り、葉が茂ると、それで夏が近いことが分かると言います。同じようにこれらのしるしが過ぎ去ったら、神の国が近いのです。
イエスさまの約束のみことばに聞きましょう。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません」(18節)。その前の文脈では迫害で命を落とす者もいるとのことですから、これは神の前にあるあなたの永遠のいのちには誰も手出しができないということです。そして「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(33節)。神のことばによって約束されたことは決して違えることはないのです。いよいよというときのしるしは、「天のもろもろの力が揺り動かされる」(26節)ような天変地異でしょうか。そしてそのとき人の子イエスさまが雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ると言います(27節)。
そのときまでどのように過ごすか。これはすべてのみことばに対する応答として共通です。聖書を読み、神のみこころとご計画を知ったなら、そのときまでどのように過ごすのかが問われるのです。その日は盗人のように突然来ます。いつ来てもよいように、放蕩に耽ったり、思い煩いで信仰を失うようなことがないように、いつも目を覚まして祈り、待ち望みましょう。
4/30 「天に昇ったイエス様」 使徒の働き1章3〜14節 小林泰輔師
- 一度は絶望してしまった弟子たちですが、復活のイエスさまに出会って希望を取り戻しました。その希望は、メシアとしてイスラエル国を復興してくださるのではないかというものでした(6節)。しかし、イエスさまはそのことには言及されず、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け…わたしの証人となります。」(8節)と語られました。聖霊で心が満たされること(聖霊のバプテスマ)と、その結果、イエスさまの復活の証人となることが約束されたのです。
そう言ってからイエスさまは弟子たちの見ている前で天に昇って行かれました。あまりに不思議な厳かな光景に言葉を失い突っ立っていると、白い衣を着た人が二人そばに立ち、イエスさまは「同じ有様で、またおいでになります」と告げられました。
そこで使徒たちや他の弟子たちはエルサレムのとある家の上の階にみな集まり、熱心にイエスさまの約束のときがくるのを待ちました。御使いが言われたように、イエスさまがもう一度来ることを待っていたのか、イエスさまが言われたのように聖霊が降るのを待っていたのか、とにかく、神さまの御心が成るのをひたすら祈って待っていたのではないでしょうか。
イエスさまはどうして天に昇る必要があったのでしょうか。イエスさまは今、雲の上に、宇宙にいるのでしょうか。そうではありません。弟子たちの前から見えなくなるということが必要だったのです。目には見えないけれども今生きているイエスさま、イエスの御霊を信じる必要があるからです。それからは、御霊とともに歩むことになるからです。そして、イエスさまが命じられたように聖霊を待ち望み、聖霊に満たされて、イエスさまの証人としての働きをする必要がありました。イエスさまの証人となるということでは、自分の力だけではできないことです。聖霊によるのでなければ誰もイエスを主と呼ぶことはできません。説得力のある話や親切な取り扱いだけで人が救われるのではなく、聖霊が臨むときに受ける力が必要なのです。
弟子たちは、イエスさまの昇天を見せられることによって、主はまたもう一度来られるということを強烈に覚えさせられました。それは神にしか成し得ないことです。そして主イエスは神であり、この天と地を作り変えて、新しい天と地をもたらしてくださるということを弟子たちは信じて宣べ伝え、主の証し人となりました。
私たちも聖書を通して、また歴代の証人たちの証しを通して、この信仰を受け継いでいます。主が来られる日まで私たちも証し人として、聖霊に導かれて歩んでまいりましょう。
4/23 「献金について」 ルカの福音書21章1〜4節,第二コリント9章6〜15節 小林泰輔師
- イエスさまは人々が献金箱にお金を投げ入れるのを眺めていました。金持ちたちが大金を入れる一方、とあるやもめの女性がレプタ銅貨二枚を投げ入れました。それはとても小さな額でしたが、しかし、その人の全財産でした。イエスさまはその人の行動とその背後にある信仰を認められました。2017年訳では彼女は「持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と訳され、彼女のしたことの尊さがよくわかるようになりました。献金は額の大小にかかわらず、自分自身(心、人生、献身)をささげることにこそ、神の喜びがあるのだということを教えられます。
あの事件以来、宗教団体において“すべてをささげる”ということはデリケートなテーマになりました。十分の一献金という教会のよき慣習と伝統もあまり歓迎されなくなってきた感もあります。こういう時代だからこそ、献金について、聖書的に考えていきましょう。
献金は喜びであり祝福を伴うものです。ささげることができる何かが与えられているということが感謝であり、祝福です。力をささげ、時間をささげ、金銭をささげ、生きる手立てのすべてをささげて、神の栄光を表していくことが喜びです。神さまもまた、私たちのささげものを喜んで受けてくださり、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。神を喜び、神に喜ばれる、愛の交わりなのです。
十分の一献金はマラキ書3章10節で勧められています。最初の十分の一のささげものは、律法や戒律ではなく、アブラムがサレムの王メルキゼデク(天的な存在を思わせる不思議な人物、創世記14:18-20)に贈った贈り物でした。
贖いの代価はイエス・キリストの十字架ですべて支払われたので、私たちが何か義務的に支払うべきものもありません。十分の一はあくまでも目安であり、縛られるべき義務ではありません。また十分の一は神のもので、十分の九は私のものというわけでもありません。十分の十が神さまのものです。私たちは神さまのタラントをお預かりしているにすぎないのです。
イエスさまご自身が、律法学者やパリサイ人が偽善的、義務的、形式的に十分の一のささげものをしているのを戒めながらも、「十分の一もおろそかにしてはいけない」(マタイ23:23)と言っておられます。
大切なのはどこまでいってもいつの時代でも神さまを愛する心です。「いやいやながら…強いられて」なら、しないほうがましです。「神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリ9:7)。
4/16 「アーメン」 サムエル記第一15章1〜12節 森田学師
- あわれみ深い神は、失敗したサウルに、関係をやり直そうと声をかけます。『今、主の言われることを聞きなさい。』(15:1)サウルの信仰を育もうと、神はサウルを試されます。
信仰とは、“神はよいお方であると信頼し疑わないこと”と言えます。神が言われることは、私が良いと思うことよりも確かで、間違いがありません、従います。アーメン。そう神の言葉に生きるとき、神に栄光を帰すことになるのです。
神はサウルに、アマレク人とその家畜を聖絶(完全に神のものとして捧げ尽くす/呪われたものとして分離)せよと言われます。かつてアマレク人は、エジプトから脱出し長旅で疲れ果て倒れたイスラエル人を、後ろから襲って殺したのです。男も女も、年配者も幼子までも。その時、神は、アマレクの記憶を天の下から消し去ると、重ねて預言されました。あわれみ深く怒るのに遅い神ではありますが、神の定めたルールから意図的に外れ続け(=罪を犯し続け)、さらに他人を巻き込んで悪に陥れるアマレク人を、聖絶せよと言われます。厳かな命令ですが、この世の終わりのときには、イエスを信じる者と信じない者とを完全に分けられる、主なる神の姿を見ます。
神のことばを聞いたサウルは、アーメンと神に従ったように思われましたが、『ただ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶』します。(15:9)サウルは自分にとって良いと思うこと(最上級のささげ物を神へささげること)を優先させて、神の望まれていたことを無視してしまいます。加えて、民のことも思わず、自分の名誉のために生きることをサウルは選びます。そのために嘘に嘘を重ね、失敗を他人のせいにする。私たちも陥りやすい罪であります。
神は何度もサウルをあわれんで、正直に罪を告白することを待たれるのですが、残念ながらサウルは神に従えなかったことを隠し、神に向き直(悔い改め)る気がなく、無関心です。ついに神は、これ以上サウルが罪に罪を重ねて責任ある立場ゆえの悪い影響が周りへ溢れないように、あわれまれて、サウルを王位から退けられます。
『「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』(15:22)
私たちは、自分の思い描くよいこと、それ以上に神がよいお方であると信頼する者とさせていただきましょう。神の言われることにアーメンと、信頼して歩むとき、その遣わされているところで、ああやっぱりこの神は本当にすばらしいと、聖霊が私たちを通して証ししてくださいます。
4/9 「復活」 ルカの福音書24章1〜12節 小林泰輔師
- 十字架から三日目の朝早く、女弟子たちはイエスが葬られた墓に急ぎました。慣習に従って香油を塗るなどの葬りの儀式をするためです。十字架にかけられたのが金曜日でその日没から安息日に入るため、ちゃんとした葬りの儀式をできなかったので、改めて週が明けた日曜に墓に向かったのです。女弟子たちは十字架でイエスさまがお苦しみのときもそばで見ていたし、こうして墓に葬られるまでずっと見守っていました。イエスさまをとても愛していたのですね。
けれども、イエスさまは前もってわたしは「三日目によみがえらなければならない」(9:22)と言っておられました。その言葉をそのまま信じていたならば葬りの儀式は不要のはずです。女性たちはイエスさまへの愛着はありましたが、みことばへの信仰という面では男の弟子たちと同じく、不信仰だったとも言えます。(パリサイ人や律法学者の方が、イエスさまの遺体がなくなったことに狼狽えて、弟子たちが盗んだという嘘の情報を流させています。皮肉なことに彼らの方が復活を理解し恐れていたのです。)
女の人たちは、墓に到着すると、墓の封印が解かれ、蓋の石が転がされているのに驚きました。中を覗いて見ると、イエスさまのお体がありません。そこへ御使いが現れ、イエスさまの復活を告げます。「彼女たちはイエスのことばを思い出した」(8節)ので、復活を事実として受け入れる信仰に目覚めました。しかし、男の弟子たちはその報告を受けても「たわごと」として取り合わずにいました。ペテロは直接墓に走って行き、空の墓を見ますが、ただ驚くだけで信じるには至りませんでした(12節)。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。イエスはよみがえられた!この知らせが新約聖書の中核をなすものです。そしてキリストを死者の中からよみがえらせた神は生きておられる!その全能の神が私たちを愛し、私たちのために救いの道を用意してくださいました。それがイエスさまの十字架と復活です。そしてイエスさまはもう一度来られるときに、ご自分の御国を実現させてくださるのです。聖書はそのことの前もっての「告知」です。信じなければ神の国に入ることはできません。信仰を呼び覚ますイエスの御霊の声に聞き、信じて神の国に入りましょう。
4/2 「裸の王様」 ルカの福音書23章32〜38節 小林泰輔師
- 先日行われた中高生キャンプのテーマが「裸の王に俺はなる!」というものでした。人気漫画『ワンピース』の主人公ルフィのセリフ「海賊王に俺はなる!」をもじったものでしょう。けれども、「裸の王」と言うと、童話『裸の王様』も思い出されますし、キャンプ委員会の意図や如何に?と思いつつ参加しました。講師のメッセージによりわかったことは、裸の王とは、イエスさまの十字架のお姿のことでした。
十字架の凄まじい痛みと苦しみについては何度も説教などで聞かされたことですが、その恥辱と汚れについても解き明かされました。文字通りに全裸で、そして「これはユダヤ人の王」という罪状にて十字架にかけられたのです。私たちの受けるべき痛みと苦しみを身代わりに背負い、罪のないきよい神の御子が、私たちの罪の汚辱にまみれた姿で十字架にかけられたのです。
そのような中でイエスさまが発せられたみことばの一つは「父よ、彼らをお赦しください」でした。自分を苦しめ痛めつけ辱めた人々のために、その罪の赦しを祈られたのです。なんという愛でしょうか。そのような神がほかにあるでしょうか。このことを初めて聞いたとき私は驚愕しました。そしてその時からイエスさまは私のヒーローになりました。
また、「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」とも言われました。裸の王様は自分がどんなに愚かなことをしているか分かっていない、それでいて自分は賢いと思っている、そんな滑稽な姿を描いた物語です。同じ時に十字架にかけられた強盗の一人はイエスさまを罵りました。まさにそこに神への叛逆を罪と思わない罪人である私たちの姿があります。
イエスさまの十字架の愛に感動し、罪を悔い改めて、洗礼を受けた高校生の頃の私ですが、神の御子が死ななければならないほどに人間の罪は重いのだと観念的に理解しただけで、他の誰でもない自分自身の本当の愚かさ、醜さ、罪深さが身に染みてわかったのはそれから先のことでした。この私のためにこそイエスさまは十字架で死なれたのです。裸の王様のような私のために身代わりとなられ、罪なきイエスさまが罪の汚れと、神のさばきである十字架の痛みと苦しみを引き受けてくださったのです。まことの王であり、神である主イエスの愛に感謝して、悔い改め、神のもとへ立ち返りましょう。
「献金について」 ルカの福音書21章1〜4節 第二コリント9章6〜15節 小林泰輔師
