説教要旨

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  • 2021年度

5/2 「12人の使徒たち」 ルカの福音書6章12~19節 小林泰輔師

  •  12使徒が選ばれるところですが、その前にはイエスさまの祈りの姿がありました。山に行き、祈りのうちに夜を明かされたほど熱心に祈りに打ち込まれました。御父は天地創造の七日目に休まれましたが、その後は「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)方として天地を治めていてくださいます。御子は地上においては肉体を持たれ、疲れ、眠ることもありましたが、昇天されてからは永遠の大祭司として今も私たちのためにとりなしていてくださいます。御霊は私たちのためにうめき、とりなしていてくださいます。三位一体の神の祈りに支えられて私たちは在るのです。
     選ばれた12人の使徒たちは出自も性格も能力もみなバラバラでした。しかし、ふさわしい能力ややる気に満ち溢れる態度によって選ばれたのではありませんでした。まず神による選びがあったのです。そして彼らがその使命を全うすることができるためにも主イエスは祈っていてくださったのではないでしょうか。
     マルコの福音書では、使徒たちは選ばれてから二人組ですぐに伝道に遣わされています。使徒の名前の登場順がペアを表しているとすれば、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネのような兄弟組、ピリポとバルトロマイの先輩後輩(?)組、すぐに従った取税人マタイと慎重なトマス、年若く控えめな(?)小ヤコブの相棒は熱心党員シモン、イスカリオテのユダと、じゃない方のユダなど、面白い組み合わせに思えます。
     私たちも主に選ばれた弟子たちです。それぞれユニークな賜物を与えられていますが、互いに欠けを補い合いながら主の御用に用いられ励んでいきます。主はご自身が選んだ者のために祈っていてくださいます。祈りに支えられ遣わされていきます。

4/25 「安息日に働かれる主」 ルカの福音書6章1~11節 小林泰輔師

  •  昨今は自粛警察、マスク警察などが登場しましたが、本日の聖書箇所には「安息日警察」とも言える人たちが登場します。パリサイ人たちです。安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べてしまいます。他人の畑から少し頂くことは許されていました。しかし安息日に穂を摘むというのは収穫にあたり、手で揉んで食べるという脱穀にあたるという安息日の戒律違反だったのです。
     いわば法律論で責め立てるパリサイ人に対して、イエスさまは判例のように過去の事例を持ち出して反論しました。ダビデの時代に祭司しか食べてはいけないパンを食べたということでしたが、それについて神は何も咎めていないのです。裁いて罰することもできましたが、神はあわれみを優先なさったのです。「…あわれもうと思う者をあわれむ」(出エジ33:19)ことは神さまの特権です。
     イエスさまは「人の子は安息日の主です」(5節)と言われました。安息日に何をして何をしないかを決めるのも神の特権です。安息日は人々の安息のための神のあわれみが本質にありますから、安息日に麦を摘むことも、この後の右手の萎えた人を癒すことも、神のあわれみにかなったことでした。神は天地創造の七日目には休みまれましたが、その後は眠ることもまどろむこともなく地を治め続けておられるのです。
     七日目に天地創造のわざを休まれた神に倣って私たちも休みを取ります。私たちは罪の性質を持っているので簡単に神の恵みを忘れてしまいます。ですから、七日ごとの休みに礼拝をささげ。神に感謝と賛美をささげる必要があります。主イエスに倣って安息日に愛し、助け、神のあわれみを表すわざを積極的に行ってまいりましょう。

4/18 「新しいぶどう酒と皮袋」 ルカの福音書5章33~39節 小林泰輔師

  •  イエスさまはこの箇所で、新しいいのちによって、新しい生活様式に変わっていくことを語ってくださいました。この話をしてくださった背景には「祝宴」の風景があります。取税人レビが救われたその祝いの席でのことでした。豪勢な食事を楽しんでいるとパリサイ人がクレームをつけてきました。なぜ罪人と食卓をともにし、なぜ断食をしないのかと。そこでイエスさまはユーモアあふれる譬えを話されました。
     「披露宴で何も食べずに悲しむ人」せっかくのごちそうが、祝いの席が台無しですね。イエスさまは花婿、教会は花嫁です。花婿と一緒にいられる時は心から喜び楽しむのです。やがて花婿が取り去られる時が来るとも言われました。これは十字架の死のことです。その時にはイエスさまを十字架にかけた自分の罪を悔い改めます。
     「おニューの服で古着を繕う」一張羅が台無しです。私たちはイエスさまで型取りをした新しい衣を着せられています(エペソ4:23-25)。救われて新しくされた者にはイエスさまの生き方が一番似合うのです。新しくされた者が、古い生き方(律法主義的自己義認や罪)に戻るなら愚かなことです。
     「皮袋は新しく、ワインは古い方が良い」古い皮袋は伸縮性がなく、新しいぶどう酒を入れると醗酵により皮袋を裂いてしまいます。袋もワインも台無し。新しいぶどう酒とは、イエスさまのくださるいのち、そして聖霊の満たし。それらが注がれるなら、新しい皮袋(新しい生活様式)が必要になります。心を柔らかくし御霊に聴き従うなら、私たちは香りの良いぶどう酒のように熟成されていくでしょう。それを人々に分け与えるために私たちは召されました。熟成されたキリストの良い香りを放り、世の人々をキリストのもとに導きましょう。

4/11 「信頼」 ヨハネの福音書4章43~54節 森田学師

  •  王室の役人は、50節と53節でなぜ二度も信じたのでしょう?一度目は偽りで、二度目で信じ直したのでしょうか?いいえ、ちがいます。不器用ながらも、もうイエスを信じるしかない、そして、神のことばが実現し神を体験したときに、初めの信仰が、神への深い信頼へと成長したのです。
     聖霊によって心の中に生まれたイエス・キリストを“信じます”という告白。それでも迷いやすく、疑いやすい私たち。だからこそ、神は私たちの意志を試すのです。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』イエス様のことばは心を探られます。しかし真実の愛ゆえに、魂に平安を与えます。イエス以外に信頼し、期待し、傷付き裏切られ絶望する人生から解放する、完全な救いをもたらします。
     イエスがなされた第二のしるしによって、イエスは奇跡を行なうだけではない、空間を超越し支配するまことの神であり、このお方の御手の届かないところは、この世界にはどこにも無い、命さえ支配されていると知るのです。
     神が私たちに望まれていることは、救い主イエスを信じ、めでたしめでたし、終わり。ではなく、神ご自身を体験することです。神を体験するとき、イエスのことばに生きることこそが絶対に間違いのない道。もうこのお方無しには、自分の人生は成り立たない、ということに気付かされていくのです。すべては、神の栄光がほめたたえるためです。ですから、神を体験して知っていくことは私たちの霊的財産です。
     もっとわたしを知ってほしい、もっと私を見つめて信頼してほしい、と神はあなたの告白を待っています。私たちは今どこに信頼を置いているでしょうか。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』

4/4 「堅く立ち、主のわざに励む」 Ⅰコリント15章57、58節 小林泰輔師 

  •  「堅く立ち」とは何の上に立つのか。それは主イエスがよみがえられたという事実の上に堅く立つのです。
     その朝、マリヤたちが墓に行くと、そこにイエスさまのからだはなく、空の墓がありました。御使いはその空の墓を見よと指し示しました。墓の中には普通「死」という動かしようのない事実があります。しかし空の墓には「死」がありません。「死は勝利に吞み込まれた」(Ⅰコリ15:54)のです。
     人々は死について、あまりにも無頓着で曖昧な考えしか持っていません。死んだら霊魂となって“あの世”に行き、残してきた家族を見守るだとか、根拠のない空想を頼りにしています。しかし、聖書にははっきりと「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」(マルコ16:16)と書いてあります。信じない者は滅びるしかないというのが動かしようのない事実です。しかし、信じる者は救われるのです。その根拠がイエス・キリストの復活です。
     イエス・キリストは私たちの罪を身代わりに背負い、十字架に死なれました。私たちに罪があるままでは神の御前に立つことができないので、私たちの罪咎を十字架において消し去ってくださったのです。それでももしイエスがよみがえらなかったのならば、イエスの十字架による贖いというのも単なる空想に過ぎないことになってしまいます(Ⅰコリ15:17-19)。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(同20節)
     復活には、私たちの罪が赦されたことを確証させるものであり、また、私たちも主イエスのような栄光のからだによみがえるという希望を持たせるものです。この確かな事実である主イエスの復活の上に堅く立ち、主のわざに満たされて参りましょう。
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