説教要旨

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  • 2024年度

7/14 「食卓のことに仕える」 使徒の働き6章1〜7節 エミリー・チョウ師 

  •  使徒の働き6章は、初期教会が直面した課題とそれに対処する方法を示しています。教会が急速に成長する中で、文化的背景の異なる信者が増え、特にギリシャ語を話すユダヤ人やもめたちが毎日の配給でなおざりにされ、不公平感が生じました。この問題に対して、使徒たちは祈りと神の言葉の奉仕に専念するため、食卓のことに仕えるための七人を選びました。
     使徒たちは、御霊と知恵に満ちた評判の良い七人を選び、その役割を任せました。これは食卓のことが軽視されているのではなく、むしろ重要な役割であることを示しています。教会内の役割分担がうまく機能することで、神の御言葉が広まり、教会が成長しました。
     特に、ステパノは七人の一人として選ばれ、のちに強力な説教を行い、信仰の力を示す模範となりました。彼の殉教は教会に深い影響を与えました。
     この箇所は、教会の一致と成長のためにはすべての奉仕が重要であり、互いに仕え合うことが必要であることを教えています。現代の教会でも、霊的なものと社会的なものを分けるのではなく、すべての奉仕を神聖なものと認識し、バランスを保つことが求められます。
     結論: 初期教会の模範に倣い、私たちも信仰と知恵をもって互いに仕え合い、教会の一致と成長を促進することが大切です。すべての奉仕には神の導きがあり、それぞれが神の国の拡大に寄与するものです。

7/7 「堕落〜魂の病巣」 ローマ人への手紙3章9〜18節 小林泰輔師

  •  今日も「霊的に健康な教会」を目指して、健康について学びます。私たちのうちにある罪を犯さずにいられない性質(それはアダムの堕落以来始まった)は魂の病巣であると言えます。人は生まれつきみな等しく堕落しています。堕落の本質は「神に対する恐れがない」(18節)にあります。神を恐れるとは、“悪いことが起きると予感すること”です(ダラス・ウィラード『心の刷新を求めて』より)。神を恐れることがないと、何でもありになり、結果、自分が神になります。しかしそれは妄想であって事実私は神ではありません。
     自尊心は大切なことですが、神なき自尊心は堕落の隠れ蓑にしかなりません。どうしようもなく罪にまみれた私を、それでも神は愛してくださった、だから私は尊いのであり、神に向き直ることで人としての尊厳を回復することができる、これが本当の自尊心です。主を恐れるということが、魂の癒しにつながるのです。
     しかし罪に堕落した人間は、卓越した現実否認力を身につけてきました。神が存在することも、私たちが生まれながらの罪人であることも決して認めない、見つめようともしないのです。何かの悪い事件が起きても、浅い原因を探ることはしても深いところまでは考えません。犯人がどうしてそのような犯行に至ったかは考察しますが、人の心の中にある共通した欲望や罪の性質について、つまり自分も同じ犯罪者になる可能性については考えません。人は進化、進歩して、社会も倫理的に良くなっていくと考えます。ですから人間の堕落などないし、生まれながらの罪人などいないし、ゆえに神の救いなどというものも必要としないと、人類は現実否認の努力をもって神の存在を無視し、自分の罪に目を瞑ってきたのです。
     神から離れて生きることによって「誰もかれもが無用な者となった」元々は神の似姿に造られた者としての、互いに愛し合い、神を礼拝して喜んで生きるという、その力が発揮できなくなりました。「罪の中においては、ただ要求するばかりになっている。皆で同じ神のいのちを生きる代わりに、自分だけの人生を生きている」(ボンヘッファー)。
     その結果は地獄です。神のおられない世界のことです。地獄はうっかり落ちる場所ではなく、努力して行く所です。罪の報酬(努力の対価)は死だからです。しかし神のくださる賜物(ギフト)は永遠の命です。これぞ福音です(ロマ6:23)。
    神を求めて生きましょう。私の困りごとにちょこっと助けてもらうという求め方ではありません。神が神であられるように求めましょう。そして私は神なしには生きて行けないことを認めて、神の臨在を求めましょう。それが永遠の命を生きるということです。

6/30 「極まる〜神の栄光と憤り」 ヨハネの黙示録15章1〜8節 小林泰輔師

  •  15章からまた時系列的な記述に戻ります。ここからは神の裁きが激しく地を襲うことになっていきます。七人の御使いが、七つの鉢に災害を携えてやってきます。「ここに神の憤りが極まるのである」とあります(1節)。
     神の憤りは、まず竜と獣と大淫婦バビロンといったサタンの勢力に対する者でありますが、同時に最後まで神を恐れずにサタンに従う者たちに向けられるものでもあります。サタンに従う者たちはイエスに従う者たちに戦いを挑み、迫害し、キリスト者たちは殉教の死を味わうことさえあるのですが、殉教者たちの祈りは香の煙のように立ち上り、祈りが満ちた時に、その祈りの応えとして神の憤りがあらわれるのです。神は恐れられるべきお方です。神の憤りは、神の威厳と栄光の現れなのです。
     「火が混じった、ガラスの海のようなもの」が何を指すのかは分かりませんが、そのほとりで信仰の勝利者たちは歌います。その歌は「モーセの歌」と「子羊の歌」であると言います。エジプトの苦難から偉大な神の手により贖われたことと、患難を通らされたキリスト者が子羊イエスの十字架の贖いによって救いが確証されていることをほめたたえる歌が対比されています。
     続いてヨハネは「天にある、あかしの幕屋である神殿」を見ます(5節)。そこから七つの災害を携えた七人の御使いが出てくるのをみます。彼らに七つの鉢が渡され、その鉢が一つ一つぶちまけられることになりますが、そのたびに恐ろしい災いが起こります。神殿の中は「神の栄光とその御力から立ち上る煙で満たされ」ていましたが、七つの災害が終わるまでは、誰もその中に入ることはできないのです。神の憤りは、今、神のあわれみによって先延ばしにはされています。しかし、その時が来てしまったらもうどうすることもできません。今まさにその時代が来ようとしているのです。
     「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます」(ローマ11:22)。神のいつくしみの中にいられるうちに、神に立ち返りましょう。

6/23 「ヨセフの逆転人生」 創世記39章〜41章 小林泰輔師 

  •  ヨセフの人生から学びます。ヨセフはヤコブの息子として、またベニヤミンとともに母ラケルの忘れ形見として、父ヤコブの寵愛を受けて育ちました。(説教にヨセフとベニヤミンの出生時について誤りがありましたので訂正します。ヨセフの弟ベニヤミンの誕生は35章参照。出産と同時にラケルは死去。)しかし、その行き過ぎた偏愛がヨセフの人格形成に歪みを生じさせたように思います。父ヤコブもまたその母リベカの偏愛を受けて育ちました。ヤコブの父イサクは兄エサウを愛しました。このような家族のヒストリーは世代間伝播し、人格形成に決して小さくはない影響を及ぼします。ですからヨセフは無邪気であったのかもしれませんが、預言的な夢を話すときも兄たちの反応を慮ることはしませんでした。普段からそういうところがあったのでしょう。兄たちの妬みは鬱積して行き、ヨセフは兄たちにとって「厄介な隣人」となりました。
     そうして兄たちの策略によってヨセフはエジプトに奴隷として売られることになってしまいます。しかし、主はそんなヨセフであっても、愛し続けていてくださり、いつも共にいてヨセフを訓練し続けてくださいました。ポティファルの召使いとなったときも主の守りのゆえに出世したものの、またもポティファルの妻の奸計にはまり、囚人に転落します。主はヨセフが牢獄にいるときも共にいてくださったので、ヨセフという器を通して牢獄にも祝福が流れ出ました。ヨセフのおかげで釈放された献酌官の執りなし(しばらく忘れられていたけれども)によって、エジプト王ファラオの前に出る機会が与えられました。不可解な夢に苦しめられていたファラオの夢を解き明かし、夢の通りに豊作と飢饉が起きましたが、豊作時の蓄えによってエジプトが守られ、ヨセフを通して国家的祝福が流れでました。
     ヨセフは持って生まれた才能と、苦難のゆえに磨かれた品性と信仰を持っていました。しかし彼の人生を逆転勝利に導いたのは、ヨセフ自身の才覚によることではなく、「主が彼とともにおられた」ことによるのです。私たちにとっても「主はともにおられる(インマヌエル)」お方です。私たちの人生の「行く道すべてにおいて、主を知」る(箴言3:6)ことができるのも、主がいつも離れずにそばにいてくださるからこそです。主の足跡に従いイエスの似姿に変えられるのです。

6/16 「幸いな死」 ヨハネの黙示録14章1〜20節 小林泰輔師 

  • ①子羊と144,000人(1〜5節)
     「シオンの山」で子羊と選ばれた人々が立っています。天から雷のような大きな声を聞いたとありますが、その声は賛美の声でした。天の御座の前で四つの生き物や二十四人の長老や御使いたちが歌う賛美礼拝の声でしょうか。その声を聞き、歌を学ぶことができたのは地上では144,000人だけで、その人たちは「女に触れて汚れたことがない」(4)と言います。「字義通り」聖書全体の文脈にも照らし合わせるなら、霊的姦淫を犯さなかった人々ということでしょう。数字も完全数を表す象徴的なものだと思われます。「文字通り」の解釈だと144,000人は全員男性ということになります。
    ②御使いたちの知らせ(6〜12節)
     そこへ御使いの知らせがあります。第一の御使いは「永遠の福音」を携えてきました。その内容は、神を恐れ、神を礼拝せよという招きでした。世の終わりにあっては十字架と復活や罪の赦しといったフェーズはすでに越えて、永遠の礼拝に備えるように語られます。第二の御使いにより、先の霊的姦淫(偶像崇拝)の根源たる「大バビロン(大淫婦バビロン)」は倒れたと勝利の予告がなされます。第三の御使いは獣(サタンの勢力)の刻印を受けてはならないと警告します。もし屈してしまうなら「昼も夜も安らぎがない」永遠の滅びに入れられます。
    ③イエスと御霊のことば(13節)
     竜と獣と大淫婦の支配する世にあっては迫害や信仰の試練がたくさんあります。たとえそれで信仰を守り通して死ぬことがあっても、それはむしろ「幸いである」というのです。それほど患難時代の「労苦」は過酷なものであり、そこから解放されて永遠の安息に入れられることは殉教の死を幸いなものにするのです。
    ④二つの刈り取り(14〜20節)
     一つは「神と子羊に献げられる初穂」の刈り取りで、従順な信仰者たちが報われる時です。もう一つの刈り取りは「御怒りを招く淫行のぶどう酒」となるぶどうの房の刈り取りで、不信仰な者たちは神の怒りの酒ぶねに入れられ踏み潰されます。
    ⑤適用:子羊が行くところどこにでもついていくような信仰で主の足跡に従いましょう。何かを「買う」喜びよりも、主に「贖われる(買い取られる)」喜びの方が幸いなのです。世の終わりに至るまで忠実でありたいものです。

6/9 「律法に表されたキリストの愛」 マタイの福音書5章17〜20節 山口翔KGK主事 

  •  私たちクリスチャンの歩みとは、律法を守り行う、正しい生活をする歩みです。しかし、正しい生活と聞くと、そこには恵みではなく厳しさがあるように思えます。その理由は、私たちの律法の理解が間違っているからです。イエス様は今日の箇所でその間違いを指摘され、私たちに十字架の恵みを伝えています。
     律法とは、神様の心です。それは、「ここまで守れば大丈夫」や「これは守らなくても良い」というようなルールではありません。神様の心そのものなのです。私たちはこの点で勘違いをしています。マタイの福音書22章には、「戒めの中でどれが一番大切か」と勘違いをしている律法学者への答弁があります。そこでイエス様は、「神様と人とを愛すること」と答えられます。
     律法を前にして、私たち必要なものは、神様への愛です。しかし、私たちには神様への愛がありません。律法を読むとき、私たちの心で起こるのは、律法に対する拒絶反応です。そのような私たちの現実がある中で、19節からイエス様は、神様への愛をもって律法を受け取らなければ、神様に受け入れられないと言います。
    ここで、イエス様は、私たちの間違った律法理解を指摘すると共に、私たちには神様への愛がなく、自分の力で神様に受け入れられることは不可能であることを教えています。
     しかし、ここで終わりではありません。私たちには不可能であるから、イエス様がこの地上に来られ、十字架にかかってくださったのです。十字架とは、神様に見捨てられた人を象徴する処刑方法でした。つまり、本来そこに掛けられるべきは私たちです。しかし、イエス様がそこに掛けられました。それは、イエス様の義が私たちの義となるためです。このイエス様の十字架を自分のこととして受け入れた私たちは、神様に完全に受け入れられているのです。
     その証拠に与えられたのが聖霊です。さらに、聖霊によって私たちは、神様を愛する心が与えられます。その聖霊から与えられた愛をもって、私たちは初めて神様の心である律法を喜んで受け入れることができるのです。この良い知らせを受け取って歩んでいきましょう。

6/2 「主イエスは病を直す方」 ルカの福音書4章16〜30節 小林泰輔師 

  •  今朝の箇所では、預言者イザヤが救い主の到来を数百年前に予言し、それがイエスによって実現したことを示す出来事が語られています。イエスはナザレで育ち、ある時、故郷の会堂でイザヤ書の朗読を任された時に、自分がその救い主であると宣言しました。この宣言に故郷の人々は驚き、彼を疑いました。イエスは、人々が真実を受け入れないことを見越し、旧約のイスラエルの事例を挙げて指摘しました。
     私自身も持病をいくつか抱えています。生まれつき軽度の骨形成不全症という指定難病を抱え、また、心臓弁膜症で手術を受け、その後は自律神経失調症やパニック障害も患いました。これらの病気により不安や困難を経験しましたが、教会の信頼と支えに感謝しています。
     本日のテーマ「主イエスは病を直す方」について、私自身も肉体の病気は完治していなくとも、魂の病み(闇)は神との出会いによって「直った」ことを経験しました。本来「直す」という表現は、壊れたものを修理することや、特に西日本では散らかったものを元の場所に戻す意味で用いられます。魂の病みが直されたことで、私と神との関係は修復され、あるべき場所に帰り、元の姿を取り戻しつつあるのです。
     現代人は悪に向き合うことができないと言われます。多様な価値観や相対主義的な考え方が中心になっている世にあって、罪の認識に向き合うことが難しくなっているのです。罪の病の症状として、虚栄、自己中心、敵意、人を恐れることなど、挙げればきりがありません。しかし、人々はこれを直視できずにいるのです。私も同じく罪を抱えている一人ですが、神の赦しと愛に出会い、神の愛によって罪に向き合う勇気が与えられ、救われてその症状が改善していく癒しの旅路を経験しているのです。
     あなたの病は必ず直ります。これまでの牧師としての経験において、教会を訪れた人々にそうはっきり伝えるべきこともあったと懺悔しています。主イエスはたましいの医者であり、病を直すためにこの地に来られたことは強調してもしすぎることはありません。

5/26 「霊的に健康な教会」 ヨハネの手紙第三2〜12節 小林泰輔師 

  •  霊的に健康な教会の四つのポイント
    【真理のうちを歩むこと(3-4節)】
     教会が霊的に健康であるためには、まず神の言葉に従って生きることが重要です。これは個人だけでなく、教会全体が聖書の教えに従う姿勢を持つことを意味します。また、他の人がその教えに従っていることを喜ぶことも含まれます。例えば、教会で育った子供たちや求道者が聖書の教えに従って成長していく様子を見守り、共に喜ぶことが大切です。
    【他の人の働きを助けること(5-8節)】
     教会が霊的に健康であるためには、他の人の働きを支援する姿勢も必要です。具体的には、巡回伝道者や宣教師を献金や祈り、もてなしを通じて支援することが挙げられます。直接宣教活動に参加できない場合でも、支援を通じてその働きに協力することが求められます。予算に教会全体として宣教師や伝道者のための献金が含まれていることは神に喜ばれることです。
    【不健康を指摘できること(9-10節)】
     霊的に健康な教会であるためには、内部の不健全な状況を指摘し改善することが重要です。教会も人間の集まりであるため、権威主義的なリーダーや不健全な振る舞いが生じることがあります。こうした問題を放置せず、直接指摘することで教会の健全性を保つことができます。ヨハネはこの重要性を強調し、直面する問題を見過ごさない姿勢を取ることを示しています。
    【善を見習うこと(11節)】
     最後に、霊的に健康な教会であるためには、善を行うことを見習う姿勢が大切です。デメテリオという人物が例に挙げられていますが、彼のような善を行う巡回伝道者の行動を受け入れ、見習うことが推奨されています。より広い意味では、クリスチャンであるか否かに関わらず、良い行いをしている人々の姿勢を見習うことも大切です。教会は社会に対して良い影響を与えるために、神の国の実現を証しするために、良い行いを奨励し、自らも実践することが求められます。

5/19 「助け主である聖霊の働き」 ヨハネの福音書16章7〜13節 小林泰輔師 

  •  ペンテコステ、五旬節、七週の祭りと、同じ日を指していますが、その日に主イエスの約束の通りに弟子たちが祈っていると、激しい風が吹くような現象があり、また一人一人の上に炎のような分かれた舌が降り、不思議なことに各人が未修得であるはずの外国の言葉で話したというのです。
     聖霊の働きはペテロや弟子たちを勇敢で大胆な使徒に変えました。それまではユダヤ人の迫害を恐れて隠れていたのです。ところが、この時はたくさんのユダヤ人や異邦人の前でイエスがキリストであることをはっきりと宣言し悔い改めを迫りました。
     聴衆にも聖霊の働きがありました。聖霊の働きは、人々の心のうちを明るく照らします。そして心の闇にある罪に気づかせます。人々は自らの罪深さに気付かされ、ペテロに教えを乞いました。そうしてペテロの説教に応答して大勢がバプテスマを受けました。3,000人ほどの人がその日に信じて、世界で最初のキリスト教会が誕生しました。ペンテコステが教会の誕生日と呼ばれる所以です。
     このように聖霊の働きは、信じる前から私たちの外側から働きかけ、私たちの悔い改めるべき罪を示し、そしてイエスの十字架と復活による贖いに救いがあることを指し示します。イエスの御名によってバプテスマを受けるなら、賜物として聖霊が与えられます。この時から聖霊は内に住んでくださるようになります。そして、日々、神の御心を知らせてくださいます。求めれば求めるほど聖霊は深く深く、隅々にまで満ちてくださいます。これを聖霊の満たしとか聖霊のバプテスマ(浸されること)と呼ぶこともあります。
     聖霊の働きは一回的なもの(受洗来の内住)と漸進的なものとがあります。毎日、毎時、毎分、聖霊に満たされ続けることが大事です。神の御心と私の願いがひとつになるまで祈って参りましょう。

5/12 「神の豊かな恵み」 ルカの福音書7章36〜50節 藤井聡美姉 

  •  クリスチャン生活を送っていると、「恵み」という言葉はたくさん出てくると思います。よく使われる言葉ですが、皆さんは「恵み」についてどれくらい理解しているでしょうか。恵みという言葉は聖書の中に160回以上出てくるのですが、そのうち128回は新約聖書に出てきます。イエス様にある神の恵みは新約聖書の中心テーマです。恵みとは、それを受けるにふさわしくない対象に対して示された「愛」です。
     神の恵みは、神様のひとり子であるイエス様が、罪人である私たちの身代わりに死んでくださったところに表されています。また、神の子とされた私たちがイエス様の流された血によって、絶えず神様に受け入れられているところにも表されています。神の恵みは、私たちの人生に深い喜びと満足感をもたらす揺るがない希望です。そのため、神の恵みを理解し、体験し、日々自分の生活の中で適用していくことは、すべてのクリスチャンにとってとても重要なことです。今回は「神の恵み」について3つのポイントで学んでいきたいと思います。
     1つ目のポイントは、「私たちは神の恵みを救いの瞬間に体験している」。2つ目のポイントは、「私たちは神の恵みを日々の生活の中で体験できる」。3つ目のポイントは、「神の恵みを自分の人生に適用する」。
     皆さんにとって、神の恵みを十分に理解していないように思う領域はどこでしょうか。自分自身を見る目でしょうか、神と人に仕える動機でしょうか、または人間関係でしょうか。そして、それに対して具体的にどのようなことが思い浮かぶでしょうか。次に、そのことに関して、神様はどのように教えているのか、御言葉を読んで考えてみましょう。そして、心に浮かぶそれに反するささやきは何か考えてみてください。最後に、神様の真理を信じた自分の態度と行動はどうあるべきか、考えてみましょう。
     日々様々な悩みや試練がありますが、毎日神様は私たちに豊かな恵みを注いでくださっています。何よりも、救いはとても大きな恵みです。その恵みに感謝しつつ、主と共に歩んでいきましょう。

5/5 「死からいのちへ」 ヨハネの福音書5章24節 小林泰輔師 

  •  日本では死の話題はタブーとされています。中世ヨーロッパの流行語には「メメントモリ(死を覚えよ)」というものがありました。人はいつ死ぬかわからないのだから、今のいのちを最善を尽くして生きよというメッセージが込められています。
     “人は死んだらそれでおしまい”と考える人もいますが、はたして本当にそうでしょうか。聖書はそうではないと言っています。それは本日の聖書箇所で「永遠のいのち」という言葉に端的に表されています。
     人は皆一度は死ぬ者ですが(ヘブル9:27)、その後の行き先については「永遠のいのち」か「第二の死(永遠の滅び)」かに分かれるのです。
    イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた者は新しく生まれた者です。「二度生まれた者は一度だけ死に、一度しか生まれなかった者は二度死ぬ」のです。この第二の死は永遠に神の前から断たれることです。
     しかし、主イエスは私たちが滅びることがないように、永遠のいのちへの道を用意して下さいました。主イエスは十字架の上で私たちの罪を滅ぼし、復活によって死の力を滅ぼして下さったのです。
     ですから、私たちはもはや死の力を恐れることはありません。「死の恐怖の奴隷」(ヘブ2:15)ではなく「死からいのちに移っているのです」(ヨハ5:24)

4/28 「おろかな金持ち」 ルカの福音書12章13〜21節 小林泰輔師 

  •  ある人が遺産相続のトラブルでイエスさまの元に相談に来ました。ユダヤのラビはこのようなことをさばくことも仕事のうちでした。イエスさまはその機会を捉えて、その人にも周りの人々にも、貪欲に気をつけるべきだと教えるためのたとえ話をされました。
     ある金持ちの畑が豊作であったのですが、その人は喜びや感謝よりも、保存の心配をしました。そして自分の蔵を拡張して溜め込むことにしました。それでこの先何年も食べて飲むことができると喜んだところで、神さまの声がありました。愚か者、お前のいのちは今夜取り去られるのだと。
     それから自分のために富を溜め込むのではなく、神に対して富むものとなりなさいと教えられました。神さまが与えてくださった賜物や祝福は自分だけのものにするのではなく、むしろ大胆に用いていくのなのです。それは、神さまに富を預けるようなものであって、大きな霊的祝福が利子となって返ってくるのです。金持ちが言ったことばは、そのまま神さまとの幸いな関係に置き換えられます。「自分のたましいにこう言おう。わがたましいよ、これまで何年も神さまは私にとって良いお方でいてくださり、これから先何年もとこしえまでも、たくさんの愛がためられた。さあ休め。主の御前で食べて、飲んで、楽しめ。」
     イエスさまは、その人の宝のあるところにその人の心もありますとも言われました。私の宝がどこにあるかを考える前に、神の宝はどこにあるでしょうか。神の宝、それは神の民のことです。わたしの目にあなたは高価で尊いと言って、いのちに代えてでも手に入れたい宝だと、御子イエスを犠牲にしてまでも私をご自分のものにしてくださったのです。ハレルヤ!

4/21 「竜と二匹の獣」 ヨハネの黙示録13章1〜18節 小林泰輔師 

  •  聖書は信仰の書物ですが、信じてはいけないものについても厳しく警告します。それはサタンとその手下たちのことです。神は目に見ることはできませんが、悪魔も同じです。見極める信仰の眼と、声を聞き分ける耳が必要です。
     13章には竜と二匹の獣が出てきます。象徴であり、竜はサタンのこと、二匹の獣はそれぞれ反キリストと偽預言者のことです。獣と書かれてあってもそれは人間のことです。海から上がってくる獣(反キリスト)はキリスト教徒に戦いを挑む王たち(王権、王国)のことです。サタンからその権威が授けられ、一時的に活動し、聖徒たちに勝つことが許されました。死んだように見えますが蘇生します。そのようなことから復活したキリストのように人々から拝まれるようになります。けれどもその本質は獰猛な獣に例えられる暴力的で神を冒涜する者です。地から上がってくる獣は、預言者が神の言葉を語るように、竜の語る言葉を語り告げます。そして先の反キリストを崇拝するように人々を惑わします。天から火を降らすなどの奇跡も行います。その名を数字で表すと「666」ですが、これは人間を表すと書いてあります。
     世の終わりが近づくとこのような者が現れます。荒らす忌むべき者とか不法の子などとも呼ばれます。歴史上いつの時代にもそのような人物はさまざま存在しました。今も反キリストの力は働いています。私たちには、上からの知恵(ヤコブ3:17-18)、まことの羊飼いの声を聞き分ける耳が必要です。獣の暴力性に気づき、悪に対して悪で報いるようなことはせず、イエスさまに似た者として敵のために祈る、イエスさまの説いた神の愛に生き、みことばを聞き分け従って参りましょう。

4/14 「新しく創造された者」 第二コリント5章14〜21節 エミリー・チョウ宣教師 

  •  『キリストの愛が私たちを捕えている』
    パウロは、「キリストの愛が私たちを捕らえている」と表現しました。これは、私たちがキリストに深く愛され、その愛に導かれて行動することを意味します。キリストの愛によって私たちは神の子となり、神を「アバ」と呼ぶ関係を持つようになります。この愛は、私たちを行動に駆り立て、愛に応えたいという気持ちを引き出します。キリストの愛に応えることは、時には自己犠牲を伴いますが、その喜びは大きく、神への愛に対する応答として私たちを解放します。時に私たちは神を感じられないかもしれませんが、それでもキリストの中にあり、神の愛に素直になる必要があります。
     『新しく造られた者』
    パウロは、キリストの中にある者は新しく造られた者であると述べます。これは、キリストを信じることで新しい生命を得、古い自己から解放されることを意味します。パウロは自身の経験を通して、イエスとの出会いが自己変革をもたらしたことを語り、聖霊の働きがキリストを理解し、神を畏れ、敬うことを可能にすると主張します。
     『和解の務め』
    神によって新しく創造された私たちは、キリストの使節として神との和解のメッセージを他に伝える役割を果たします。キリストの十字架での働きによって、神と人類との関係が回復され、新しい関係が築かれることが強調されます。

4/7 「幸せはたましいの健康から」 ヨハネの手紙第三 2 節 小林泰輔師

  •  2024 年度の年間標語は「霊的に健康な教会」です。今年度で清和キリスト教会は100 周年を迎えますが、新しい時代には霊性も新しくされる必要があります。古くて改めるべきものは新しくし、古くても普遍的なものは守り通していく必要があります。霊性の形成ということにおいては、誤った理解や実践もあったのではないかとキリスト教会にも反省すべきものがあるかもしれません。福音の力の本性は、人を常に新しく生まれ変わらせることにあります。神のみことばの真理は変わらないけれども、私たちは変えられ続けなければなりません。新しい価値観のすべてが正しいわけではありませんが、古い価値観に固執して人々が教会の門をくぐる妨げになったことはないだろうかという反省も必要です。
     さて本題ですが、キリスト教とは、人を幸せにするためにあります。私たち教会は人類の幸福のためにこの地に存在しています。自分の幸せのためだけではなく、この町の、この国の幸せや健康のために祈ることが使命です。自分の周りの世界をケアすることが使命なのです。幸福のためには、まず、たましいの幸いが必要であると、みことばは言います。世間的な価値観は逆かもしれません。健康や経済や事業などの欲求が満たされてから、次に心やたましいと言った霊性を求めていくようなところがあるのではないかと思います。けれども真理は違います。たましいの健康が真っ先に大事です。
     人間は霊的存在です。創造のとき、土くれから作られた人間の形をしたものに、神が息(霊)を吹き込まれて、人は神の像(かたち)に似るように造られたのです。霊性とは、心とか魂とか意思とか理性とかを含みます。人間は霊的存在であることを人は忘れたかのように生きていますが、無自覚にそれを求めています。運命とか運勢とかを信じたくなるのも、人間関係に心を使うのも霊性に関するものです。
     「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか」(詩篇42 篇)と、たましいに語りかけていますが、心がたましいに語りかけているのです。自分の中のたましいの対話が必要です。霊は私たちの中核にある本質で、そこにキリストの御霊が入ることで、私たちは神のみこころを歩むことができます。たましいは私たちの存在を全体的(ホリスティック)に包み込むものです。そして私たちを取り巻く広大な領域に神の愛を注ぎ出すために存在しています。ですから、無意味に生かされているいのちなど一つもありません。私たちの全存在をもって、健康なたましいで健全に世に働きかけ、世界を救う神のご計画に参画していきましょう。
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