説教要旨

  • バックナンバーはこちらへ
  • 2025年度

10/5 「十字架の死と復活 ① 」 ヘブル人への手紙9章26-28章 小林泰輔師

  •  先週、父の逝去に加え、短期間に相次いで三名の訃報に接し、私たち誰もがいつかは迎える「死」という現実をおぼえさせられました。聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と教えています(27節)。この世の騒がしさの中で忘れがちなことですが、人の死に触れるとき、私たちは自らも死すべき者であることを思い起こします。その備えはできているでしょうか。本当に必要な備えは、葬儀の準備や相続といった地上の「終活」ではなく、「死後」についての備えです。
     私たちは皆、この地上での肉体の死だけでなく、その後の「さばき」への備えをしなければなりません。では、どうすれば死後の備えができるのでしょうか。それは、神のひとり子イエス・キリストが、私たちの罪を取り除くために、ご自分をいけにえとして十字架にかかり、死んでくださったという真理を受け入れることです 。イエスさまの十字架の死は、私の罪を身代わりに背負うためだったのです。しかし、イエスさまの贖いは十字架で終わりません。死からよみがえり、天に昇られ、ご自分を信じる人々のために天国に場所を用意してくださっています。そして、イエスさまは再び来られます。「二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます」(28節)。
     イエスさまは今朝、「あなたのためにも居場所を準備してあるよ」と招いておられます。私たちはこの招きに「はい、主よ、参ります」と答えられるよう、イエスさまを信じる信仰の備えをしましょう。イエスさまの救いを受け入れ、天国の永遠の命への備えを完了することが、人生における最も大切な「死への備え」なのです。

9/28 「みことばに従ったヨシヤ」 列王記第二22章1-2章 小林泰輔師

  •  南ユダ王国の王ヨシヤは、聖書において「主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」と記されている人です。父アモンは主に背を向けた悪い王でしたが、ヨシヤはわずか8歳で王位につくと、まっすぐに神さまだけを見つめて歩みました。ヨシヤの治世中、神殿から律法の書が発見されます。それを聞いたヨシヤは、自分たちの民が、先祖の代からいかに神さまのみこころから離れ、罪を犯してきたかを知り、大きな衝撃を受けました。彼は自分のことだけでなく、民全体の罪を深く悲しみ、衣を引き裂いて心から悔い改め、涙ながらに神さまに祈ったのです。神さまは、ヨシヤのその謙虚な祈りを聞き入れられます。「あなたが心を痛めて主の前にへりくだり…わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる」と約束され、ヨシヤが生きている間は、国にわざわいを下さないと告げられました。この姿は、私たちのために涙をもってとりなしてくださるイエスさまの姿と重なります。ヨシヤは言葉だけでなく、行動をもって国中から偶像や神さまが嫌われるものを徹底的に排除し、民を神さまへと立ち返らせました。その生涯は、「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった」と、最高の言葉で称賛されています。しかし、これほど偉大な信仰者であったヨシヤの子どもは、残念ながら父の信仰を受け継ぎませんでした。このことは、私たちの信仰の拠り所が誰であるべきかを教えています。私たちのまことの父は、天におられる神さまです。 私たちが日々見つめるべきは、地上の誰かではなく、天の父なる神さまお一人なのです。人生の最後まで「神さまの子どもとして立派に歩んだね」と主に言っていただけるように、聖霊の助けをいただきながら、右にも左にもそれず、まっすぐにイエスさまの足跡に従って歩ませていただきましょう。

9/14 「御国を受け継ぐ者とされている」 サムエル記第二6章6-13章 森田学師

  •  【神を認める?認めない?】神を認める。それは、耳で聞き、頭で知り、心に招くことです。その神とは、命の無い像や人の想像で作る神ではなく、私たち人間を創り命を与える、生きておられる神です。
     【神を認めないウザ】ウザは、神の思いではなく、自分の都合で判断し、神の箱に触れます。その箱は、目には見えない神が確かに私たちとともに“そこにおられる”ことを覚えさせるものでした。しかし、神をただの置き物であるかのようにつかんだウザ。そこにウザと神との関係が見てきます。神を認めない、自分の都合や判断で生きるその先で、ウザに神の怒りが燃え上がり、ウザは神に打たれ死にました(第二サムエル6:6)。
     【神を認めるダビデ】神を認めて生きるダビデは、この事件に激し(動揺し)ます(6:8)。ダビデは神に負の感情をぶつけるほどに、神を認めているからです。神の御思いに敬意を払い、誠実に神と向き合い、事あるごとに神との会話を大切にします(5:17-19,22-25)。そこには、歩数を正確に覚えるほどに、神への感謝を事細かに覚える、ダビデの神への愛があります(6:13)。
     【誰もが祝福の中へ招かれている】神を認めず自分の経験や悟りだけに頼り、慣れや惰性という態度で神に接したウザ。かたや、一歩いっぽ神に頼り、感謝し、神の愛を覚え、神の恵みを受け、神の祝福の中で神から委ねられている王国を神の恵みによって支配していくダビデ。神は今、イスラエルの王ダビデの歩みへと、すべての人を招いてくださっています。
     【神の御怒りを飲み干されたイエス】神を認めず生きている私たちが、本来受けるはずの御怒りを、御子イエスに身代わりに背負わせ、イエスを十字架で死なせてくださったのもまた神です。この救い主イエスを信じる者は、神の御怒りを受けず、永遠に滅びることはありません。(第一テサロニケ1:10、5:9)誰でも神の救いの呼びかけに応え、神を心に迎えるときに、必ず神はそこから引きあげ救い、神との関係を癒やし回復させてくださいます。そして、ダビデのように、神の王国を受け継ぎ治める、神の子どもとして私たちを用いたいと願われている、神のことばを聴くことになります。
     『またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。』(エペソ1:11)
     【神の国を継ぐ者】この世での肩書よりも、もっと大切な私たちのアイデンティティー、それは神の国を継ぐ者です。神の国を受け継ぐとは、神さまあなたは私を通して何をされようとしているのですか?と、神の権威と支配を尊重して生きる時、自分だけではなく、周りの人々をも祝福していくのです。

9/7 「朽ちない種から生まれる」 ペテロの手紙第一1章13-25章 小林泰輔師

  •  秋風を感じるこの季節に、人生の「秋」を考えることから始めましょう。聖書は、人の命を「人はみな草のよう、その栄えはみな草の花のようだ」と語り、その儚さを率直に表現しています。どんなに美しく咲き誇った花も、やがては枯れてしまうように、私たちの人生もまた、確実に「老い」を経て「死」を迎えるのです。
     しかし神は、聖書を通して、空しさで終わる人生を語っているのではなく「決して朽ちることのない永遠の命」を約束してくださっています。それは、私たちが持っている、やがては朽ちてしまう命とはまったく別種の、聖なる「朽ちない種」から生まれる新しいいのちです。この種とは、神のみことばのことです。
     私たちは品種改良のような努力では、朽ちる種を朽ちないものに変えることはできません。イエス・キリストの尊い犠牲によって与えられた神さまからの「新しいいのち」は、神のことばであるイエスさまによって与えられました。それを受け取るとき、私たちの人生は根本的に変えられ、確かな希望に満たされるのです。
     そして、神さまの子どもとして新しく生まれた私たちは、「神の家族」の一員とされます。同じ神さまを御父と呼び、イエスさまを長兄とし、クリスチャン同士は兄弟姉妹として互いに愛し合うようになります。教会とは、この三位一体の神の交わりに入れられた、神の家族が集まる場所なのです。
     さらに、神の子とされた私たちは「聖なる者」となるよう求められます。しかしこれは、道徳的に完璧になるということではありません。神さまが世の汚れからご自身を区別されるように、私たちもこの世から区別され、神さまだけのものとされることです。子どもが自然と家風を身につけ、父親に似ていくように、神さまの家族の一員として生きる中で、私たちも少しずつ、父なる神の性質に、御子イエスさまの姿に似た者へと変えられていきます。
     この素晴らしい救いの恵みは、死後のためだけにあるのではありません。人生の空しさから解放され、永遠の命という揺るぎない希望に生きる「今ここから始まる」ものです。私たちの力ではなく、神さまの呼びかけに応えるとき、この計り知れない祝福は、今、この瞬間にも、あなたのものとなるのです。

8/31 「たましいの救いと喜び」 ペテロの手紙第一1章1-12章 小林泰輔師

  •  使徒ペテロは、苦難のただ中にあった小アジアの信徒たちへ手紙を書きました。それは、厳しい現実を生きる私たちへの希望のメッセージでもあります。ペテロは、試練の先にある栄光がいかに素晴らしいものであるかを示し、私たちはすでに「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っている」のだと宣言します。
     私たちが救われたのは、私たちの功績ではなく、父、御子、御霊なる三位一体の神さまの一方的な選びと、大きなあわれみによるものです。その確かな証拠が、イエスさまが死者の中からよみがえられたこと。この復活によって、私たちには決して朽ちることのない「生ける望み」が与えられました。この世の富は失われることがあっても、神さまと隣人のために用いたものは、朽ちることも汚れることもない永遠の資産として天に蓄えられていきます。
     地上での歩みには試練が伴います。サタンは苦難を通して神さまへの不信感を抱かせようとしますが、私たちは信仰によって「神の力に守られている」のです。それゆえ、試練は私たちの信仰を鍛え、不純物を取り除き、より純粋なものとするために神さまが用いられるプロセスです。試練を通して私たちはキリストに似た者へと成長させられ、やがてイエスさまの前に立つ日には、その信仰は「賞賛と栄光とほまれ」へと変えられるのです。
     ペテロの手紙の受け手たちは、イエスさまを直接見たことはありませんでしたが、みことばによって心を燃やされ、心から信じ、愛していました。その結果、彼らの内側から「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」が湧き上がり、心は躍っていたのです。私たちも同じです。この喜びこそ、「たましいの救い」を受け取っている確かな証しです。聖書の語る救いとは、死後のことだけでなく、今この瞬間に私たちの生き方そのものが新しく造り変えられること。神の子としての新しいアイデンティティを与えられ、揺るぎない希望に向かって歩む者とされることです。
     だからこそ私たちは、試練の中にあっても圧倒的な勝利と幸いをすでに手にしています。この救いの素晴らしさを心に留め、その喜びに生きることを通して、周りの人々に神さまの愛と、勝利の証ししていきましょう。

8/24 「ソロモン王の富と罪」 列王記第一10章、11章 小林泰輔師

  •  ソロモンは、世界のどの王よりも賢く、どんな質問にも答えられ、国を豊かにしたことで知られています。その名声は国境を越え、シェバの女王が多くの贈り物を携えて彼を訪れるほどでした。女王はソロモンの知恵、壮麗な宮殿、豪華な食事、そして彼に仕える人々の様子に息をのみ、感嘆しました。彼女は、ソロモンを王とされたイスラエルの神を褒めたたえたほどです。ソロモンは若い頃、神を愛し、父ダビデの掟に歩んでいました。
     しかし、その恵まれたソロモンが、外交政策のために多くの外国の女性と結婚したことが、人生の後半で大きな罪へとつながります。正式な妻だけで700人、そばめを含めると1000人もの女性がいたのです。これらの女性たちはそれぞれ異なる文化を持ち、信じる神も異なりました。彼女たちはソロモンに、それぞれの信じる偽りの神々を礼拝する場所を建てるよう求めました。神さまはかつてイスラエル人に、異国の民と交わってはならないと命じ、彼らは必ずあなたの心を翻して彼らの神々に従わせると警告していました。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかったため、ついには妻たちのために偶像の礼拝所を建て、そして自分自身も偽りの神々を拝むようになってしまったのです。
     神さまを心から愛していたはずのソロモンが、晩年には「彼女たちを愛して離れなかった」と聖書に記されたところに、神さまの深い悲しみが表されています。このソロモンの偶像礼拝という罪が国全体に広がり、その結果、イスラエルの国は二つに分裂してしまうという悲劇を招いたのです。
     ソロモンの生涯は、私たちにどのような教訓を残すでしょう。たとえ今、あなたの信仰が強く、神さまと共に歩んでいると感じていても、決して油断してはいけません。誰もが罪に陥る可能性を秘めているのです。しかし、もしあなたが道を踏み外してしまったとしても、神さまは決してあなたを見捨てません。いつでも「神さま、ごめんなさい」と立ち返れば、神は喜んで赦し、受け入れてくださいます。大切なのは、どんな時もただ父なる神だけを信じ続け、小さな一歩でも毎日、主イエスを仰ぎ続けることです。私たち自身の力ではなく、聖霊の導きによって、喜びをもって礼拝し続けることができますように。

8/17 「贖いの代価として」レビ記16章6-10節 小林泰輔師

  •  今朝の箇所から、人間の罪深さと神の聖さの隔たりを埋める、イエス・キリストによる完全な贖いについて教えられます。
     日本人は土着の信仰と仏教の融合から「因果応報」や「自業自得」といった思想に縛られ、自らの努力で罪を償おうとしたり、先祖や子孫の救いが功徳を積むことで得られると考えます。福音は、そのような呪縛から人を救います。人間が自力で罪に勝利することは不可能であり、根本的な解決にはならないと聖書は教えます。福音が示すのは、神の一方的な恵みとあわれみによって無償で与えられる救いです。その核心は「キリストが身代わりになられたこと」です。
     旧約聖書の「贖罪の日」には二頭の雄山羊が用いられました。一つは「主のために」罪の代価として屠られ、その血で神の怒りがなだめられることを象徴し、もう一つは「アザゼルのために」民の罪を背負って荒野に放たれ、罪が共同体から完全に除去されることを表しました。
     イエス・キリストは、罪なきご自身が身代わりとなり十字架にかけられ、血をもって罪の代価を完全に支払い、神の義の要求を満たされました。そして「ただ一度の十字架の贖い」が「永遠の贖い」を成し遂げ、過去、現在、未来のすべての罪を解決されたのです。マルコ10章45節にあるように、主イエスは「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」に来られました。神は、私たちが誰一人滅びることを望まず、その愛と正義の葛藤の中で、ひとり子イエスを犠牲にされました。
     一方で、人間の罪深い現実として、ロマ書1章の「罪に引き渡される」裁きは、神を拒絶する人間がその心の欲望のままに放置され、罪が蔓延していく姿を描写します。野に放たれ、草の根まで食い尽くし、ついには崖から落ちて死ぬアザゼルの山羊のように、罪のまま生きることは破滅へと向かいます。しかし、主は、そのような私たちを諦めきれませんでした。人間の目には一貫性がないように見えても、そこには、ご自身の御子イエスの命をもって私たちを救おうとする、神の揺るぎない、徹底した愛があるのです。
     この愛が私たちを山羊から羊へと変え、良い羊飼いの招きに応え、感謝と賛美を捧げる清められた共同体へと導いてくださいます。

8/10 「エパフラスのように」 コロサイ人への手紙1章1-8節 岡研二郎兄

  •  今回のテーマは、救われた私たちの中に宿るキリストという「奥義」です。
     聖書は、私たちが完全でなくとも、「聖なる者」「忠実な兄弟姉妹」と呼びかけます。私たちの日常生活には未熟な側面があるかもしれません。しかし、これは矛盾ではなく、まさに神様の深い真理なのです。その真理とは、私たちの中に「キリストがおられること」こそが、「栄光の望み」だということです。たとえ未熟な私たちであっても、心に宿るキリストは種のように働き、愛という実をはじめ、様々な良い実を結び、世界中で力強く成長していきます。遠い地でのクリスチャン人口の驚くべき増加も、この奥義の働きが今も続いている証です。
     かつて、ルターは、神の義を「罪を裁くもの」と恐れ悩みましたが、やがて、「神の義とは、信じる者に与えられる義である」と理解し、真に新しく生まれ、天国に入ったかのように感じたと告白しました。律法は私たちの罪を明らかにするかもしれませんが、福音だけがキリストの十字架を通して私たちを救い、生かします。
     私たちは不完全な「土の器」ですが、主は私たちを「聖なる者」と呼んでくださいます。それは、私たちのうちにキリストが住んでおられるからです。そして、神様は私たちを器として用いて、キリストの福音を証しし、神様の栄光を現そうとされます。
     さあ、古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を身につけましょう。神様に選ばれ、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容をまとい、互いに忍耐し、許し合い、何よりも愛を身につけましょう。キリストの言葉を心豊かに宿らせ、感謝をもって神を賛美する日々を送りましょう。私たちも、かつて福音を伝えた人々の歩みに倣い、悔い改めと感謝の信仰生活を日々新たに歩んでまいりましょう。キリストが私たちの中に住まわれるその力によって、あなたは変えられ、その栄光を現すことができるのです。

8/3 「救われるたった一つの方法」 使徒の働き4章5-12節 小林泰輔師

  •  前回の招待礼拝では、「大切なお知らせ」として、信じて永遠の命か、信じないで永遠の滅びか、という二択を迫られました。今回のテーマは、救いの道はイエス・キリストを通じたただ一つ、一択しかないということです。聖書は「この方以外には誰によっても救いはありません」と明確に告げています。
    私たちは生まれながら霊的に死んでいます。そのことがすでにさばきなのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。このままでは喜びのない人生を送ることになります。すでに滅びのさばきが始まっているのです。
     しかし、私たちの払いきれない罪の負債は、イエス・キリストの十字架と復活によりすでに全額支払われました。「完了した」との言葉は「借金返済完了」の意味です。この支払い証明書を手にするには、神を無視した罪を悔い改め、心でイエス様を信じ、口で告白するだけ。ローマ人への手紙10章10節の通り、「心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。
     信仰告白の瞬間から、あなたの霊は息を吹き返し、永遠の命をすでに受けた人の道を歩むことになります。生きる意味を知り、喜びに目覚めるでしょう。肉体の死は、神への応答期限です。いつ来るか分からないその時まで、神はあわれみにより待っておられますが、今日という日があるうちに応答することが何よりも大切です。
     私たちのため命を捨てよみがえられた唯一の救い主、イエス・キリストを心に迎え、その名を呼び求めましょう。喜びあふれる人生を、ここから共に歩みませんか?

7/27 「全世界に出て行く教会」 使徒の働き11章19-26節 小林泰輔師

  •  先週の礼拝では、「全世界に出て行く教会」と題してお話ししました。中心となった聖句は、マルコによる福音書16章15節の「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」というみことばでした。
     「クリスチャン(キリスト者)」という呼び名がどのようにして生まれたかをご存知でしょうか。かつてアンティオキアという町で、ステパノの迫害から散らされた信者たちが、ユダヤ人だけでなく、ギリシア語を話す外国人にもイエスさまの福音を伝え始めました。アンティオキアは外国人が多い町だったのです。そうして、異文化の人々を受け入れ、ともに礼拝する、聖書に出てくる最初の「外国人の教会」がここに誕生しました。そして、イエスさまを信じる人々が「クリスチャン(キリストに属する者)」と呼ばれ始めたのです。それは、このアンティオキアからだったのです。
     神さまはこのアンティオキアの教会から、バルナバとサウロ(後にパウロと呼ばれる)を「伝道旅行」へと送り出しました。これは単なる観光旅行ではありません。彼らは命がけで、まだイエスさまを知らない多くの人々に救いのメッセージを届ける旅に出たのです。
     この「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」というみことばは、パウロやバルナバのような特別なリーダーたちだけに語られたのではありません。私たち一人ひとりに語られている神さまからの大切な使命なのです。
     もちろん、誰もが彼らのように遠くまで旅に出られるわけではありません。ですが、私たちの持ち場、立場において、身近にいる「すべての造られた者」、つまり隣人や友人、家族にイエスさまの愛を伝えることはできます。私たちの住む日本は「全世界」の果てです。今いるところを宣教地として神の国から遣わされているのです。日々の生活の中で、神さまが私たちに与えてくださった召命に応答して歩んでいきましょう。

7/20 「きよさのなかで和む教会」 レビ記19章1-4節 小林泰輔師

  •  先週の創立記念礼拝では、「きよさのなかで和む教会」ということで、レビ記が示す「聖なる」ことの意味を探り求めました。レビ記は一見、私たちから遠い専門書のように感じられるかもしれません。しかし、そこで繰り返し語られるのは、「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。」という神の呼びかけです。
     「聖なる」とは、人間的な営みである「俗なるもの」と完全に分離している状態を指します。私たち自身の力ではこの基準に達することは到底できません。レビ記は、病や死に関することを「儀式的な汚れ」としています。神のみこころである生殖に関わることでも、命(経血や精液など)が地に落ちることから「汚れ」状態とされ、一時的に神の臨在から遠ざけられました。また、異教の風習を真似てはならないという「道徳的なきよさ」について記されているとされる、性的逸脱についての記述(18章)は、文脈を正視するなら、当時の異教文化(神殿娼婦や神殿男娼、子どもの人身御供等)との分離を教えたもので、現代の同性愛者を徒に苦しめるためのものではありません。同性愛指向や性別違和、性分化疾患等、その仕組みはわからないことがたくさんあります。わからないことについては謙虚であるべきです。「私は正しい」という偶像を捨てなければなりません。聖書は他人を裁くためではなく、自分自身を深く省みるためにあるのです。
     それでもなお、「聖なる者でなければならない」という言葉におそれを感じる私たち。しかし、ヘブル10章10節は語ります。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています」。私たち自身の判断に間違いがあったとしても、イエスさまの十字架のみわざによって、私たちはすでにきよくされている のです。この主のくださるきよさの中で、私たちは安心して和むことができます。日々の選択においても、イエスさまにフォーカスを当て、神の導きを信じて歩んでいきましょう。

7/13 「王が不在の場合」 士師記17章1-13節 エミリー・チョウ宣教師

  •  士師記17章から21章にかけて、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という言葉が、物語全体の中心テーマとして据えられています。この一節は単なる歴史的事実の記述ではなく、「神が王として認められていなかった」という霊的な危機を象徴しています。
     この章では、ミカとその母、そしてレビ人の若者という三人の人物が登場します。ミカの母は盗まれた銀を「主にささげる」と言いながら偶像を造り、ミカはその偶像を家に安置し、自分の息子を祭司に立てます。やがて現れたレビ人の若者は、自分の職分を生活の手段として差し出し、ミカの家の専属祭司になります。こうした姿は、「神のため」と言いながら、実際には自分の安心・願望・文化に従って信仰をつくりかえてしまう人間の姿を映し出しています。
     現代の私たちも、形式としての信仰を守っていても、心の中心には別のものが座っていないでしょうか。神が本当に「王」として私の心の座におられるか──それを問うのがこのメッセージのテーマです。外側の信仰がどれほど整っていても、王がいなければ、すべては人間中心の信仰になってしまいます。今日、この御言葉を通して、私たちの信仰の座をもう一度整えましょう。

7/6 「大切なお知らせ」 ヨハネの福音書3章16-18節 小林泰輔師

  •  「大切なお知らせ」というとまるでYouTuberの緊急発表のようなタイトルですが、聖書こそ私たちへの「良い知らせ」すなわち福音であり、「大切なお知らせ」なのです。新約聖書は教典や戒律集ではなく「お知らせ」です。しかしこの知らせは聞くだけでなく、私たちに具体的な「応答」を求めるものです。中途半端な姿勢というのはありません。その応答とは「信じるか、信じないか」という二択しかありません。第三の道や保留といった選択肢はないのです。ヨハネの福音書3章18節には、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」とあります。そうです、神のさばきが近づいているというお知らせなのです。しかし、神は人々を裁きたいのではなく、救いたいと願っておられます。そのために、ご自身のひとり子イエスさまをこの世に送ってくださったのです。「信じる」とは、単に事実を認めるだけでなく、信じたように生きることを伴います。そして神さまは、私たちが信じたように生きられるよう、聖霊を与えて助けてくださいます。私たちが信じるべきは、イエスさまが神のひとり子であり、私たちの救い主としてこの世に来られたという事実です。神様が私たちを愛しておられるという証拠は、まさにイエスさまが私たちの罪を全て背負い、十字架にかかって死なれ、そして三日目によみがえられたという出来事です。これは、天地創造という最初の恵みに加えられた、イエスさまの十字架と復活という「恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1:16)出来事なのです。「某日に大災難が来る」などという人間の根拠のない予言はいとも簡単に信じられているのに、イエスさまの復活を信じる人が少ないのはどういうことでしょう。新約聖書の膨大な写本や歴史的な証言など、多くの確かな証拠があることを覚えておいてください。神は、私たちが永遠の命を選べるよう、これ以上ないほどの証拠を愛によって示してくださいました。この「大切なお知らせ」である「信じる者は救われる」という真理に、皆さんはどのように応答されますか。永遠の命は、信じたその時から始まります。回答期日は誰にも分かりません。だから今が神さまの愛に応え、信仰をもって応答する時なのです。

6/29 「祭司となった教会」 レビ記9章7節 小林泰輔師

  •  「祭司」と聞くと、どこか特別な人を思い浮かべるかもしれません。でも聖書は、キリストを信じた私たちすべてを「聖なる祭司」と呼んでいます。これは名誉ある呼びかけであると同時に、重みのある使命でもあります。
     旧約の時代、祭司は民のために神に仕え、とりなしをし、いけにえをささげ、神の言葉を教えていました。それと同じように、今を生きる私たち教会もまた、この地上で神と人とをつなぐ「祭司」として立てられているのです。
     いけにえは、今やキリストご自身が一度限りの子羊となって成就してくださいました。けれども私たちは、日々の生活の中で、自分の時間や力、思いを神にささげる「生きたいけにえ」として歩むよう招かれています(ロマ12:1)。家庭での言葉一つ、職場での態度、目の前の小さな選択。それらすべてが、祭司としての私たちの礼拝になるのです。
     また、祭司の務めにおいて欠かせなかった「香」は、今の私たちにとって「祈り」です。私たちの祈りは、目には見えなくても、香のように神の御前に立ち上り、世界中に広がっていきます。だからこそ、どんなに短くても、拙くても、神に向かって心を開くことをやめてはならない。祈りは神の御前に立ち上る香りなのです。
     そして「律法を教える」務めは、今、御言葉を学び、それを日々に生かすことへと引き継がれました。ただ読むだけではなく、聞くだけでもなく、自分の人生の判断基準として、神の言葉を心に据える。そういう歩みを日々求めています。
     何よりも、私たちは一人で祭司として立たされているのではないということです。教会が、信仰共同体として、神の前に立ち、支え合い、仕え合う。これが「祭司となった教会」です。
     神は私たちを特別な使命へと招いておられます。高ぶることなく、でもおびえることもなく、キリストの恵みによって、祭司としての歩みを共に始めていきましょう。

6/22 「いのちのことばを語る教会」『成長』より 使徒5章17〜20、27〜32節 小林泰輔師

  •  聖霊を受ける前のペテロたちは弱々しく、逮捕されることを恐れてイエスを三度も否定しました。しかし、復活の主と出会い、聖霊を受けてからは一変して、裁判長の前でも大胆にイエスが救い主であることを語るようになりました。
     弟子たちを筆頭に教会の働きによって、信者はますます増えていきました。これに反発したユダヤ教のリーダーたちは弟子たちを捕らえて牢屋に入れてしまいます。しかし、その夜、不思議なことに御使いが現れ、神の力によって彼らは助け出されました。そして、「このいのちのことばを全て語りなさい」と命じられます。「いのちのことば」とはイエスを主と信じることで永遠のいのちが与えられるという福音のことです。弟子たちは再び捕らえられる可能性があることを承知で、恐れることなく、神の命令に従って神殿で福音を伝えました。
     しかし案の定、弟子たちは再逮捕され、ユダヤの指導者たちから「イエスのことを話してはいけない」と厳しく命じられましたが、ペテロたちは「人に従うより神さまに従うべきです」と答え、断固として拒否しました。その時、人々から尊敬されているガマリエルという教師が合理的かつ折衷的な提案をしました。イエスがもし偽物なら、その働きはうまくいかないだろうし、もし本当に神さまからの救い主ならその働きを誰も止めることはできない、だから放っておけばよいと言うのです。結局、弟子たちは鞭打たれた後に、イエスを絶対に話してはいけないと釘をさされて釈放されました。しかし、弟子たちはこのことをまったく辛いとは思わずに、その後も毎日喜んでイエスさまのことを伝え続けました。
     「このいのちのことばを全て語りなさい」と、今朝私たちにも命じられています。神さまがどのようなお方か、自分の知っていることや、経験したこと、その喜びや素晴らしさをすべて隠すことなく語ることです。また、すべての人に、どんな場所でも語るということも大切です。私たちはいつでも力を尽くして、知恵を尽くして、イエスさまにある救いを語り、人々の救いのために働くことができます。私たちに与えられている聖霊の力により、それができるのです。この地域の灯台のようにイエスの命の光を灯していきましょう。

6/15 「神さまへのささげもの」 レビ記1章1〜17節 小林泰輔師 

  •  レビ記の捧げ物に関する規定は、一見すると現代の私たちには関係ないように思えるかもしれません。律法を「祭儀律法」「道徳律法」「司法律法」の三つに大別する解釈があります(厳密には重なり合う部分も)。祭儀律法、特に動物のいけにえの規定は、イエス・キリストが私たちすべての罪のための「子羊」として自らを犠牲にされたことで完全に成就しました。これにより、私たちは罪を犯すたびに動物のいけにえをささげる必要がなくなりました。道徳律法は神の性質を反映し、きよい生き方を教えるもので、イエスさまによってその本質が示され、深化しました。ゆえに現代も私たちに適用されます。司法律法は当時のイスラエル社会の法律ですから、そのまま守ることはありませんが、その根底にあるものは、変わらない愛の原則として今も重要です。
     レビ記1〜7章に示される五種類のささげもの(全焼のいけにえ、穀物のささげもの、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、罪過のいけにえ)は、大きく「感謝」と「謝罪」に分けられます。全焼のいけにえは「なだめの香り」として、神との根本的な断絶がある人間が、神との交わりを始めるための感謝のしるしでした。和解のいけにえは、神との和解と、共に食卓を囲む喜びと感謝を表しました。罪のいけにえは「意図しない過失」、罪過のいけにえは「故意の罪」に対して、神の赦しと贖いを求めるものでした。
     新約聖書では、これらすべてが、イエス・キリストのただ一度きりの十字架の犠牲によって完全に果たされたと教えられています。ここから学ぶべきことは、まず、私たちには自身の罪ゆえに神との間に溝があり、埋める必要があるということです。イエスさまが私たちの罪の代価をその命をもって支払ってくださったおかげで、溝を埋め、恐れることなく大胆に神の御前に進み出ることができる者としてくださったのです。そしてイエスさまの復活は、私たちの罪も罪過も確実に消し去られたことの証しです。
     また、このレビ記の学びを通して、私たちはキリストがご自身を犠牲にされた模範に倣うことを教えられます。神がささげものの規定を与えたのは、民の罪を赦し、再び親しい交わりを回復したいと、神が願われたということです。私たちも神が招いておられる愛の食卓へと隣人を導くために、献身の歩みを続けましょう。

6/8 「それでも主は導かれる」 ルカの福音書5章1〜11節 岸本大樹師

  •  信仰の始まりは各人それぞれです。大きな試練の中で教会へ導かれ、劇的な回心をされた方がいらっしゃれば、母親のお腹の中にいるときから教会へ通い、何の疑いもなく信仰を持った方もいらっしゃいます。では、ガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の漁師であったシモンはどうだったのでしょうか。
     イエス様が「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃったとき、「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」とシモンは答えました。「でも、おことばですので…」という言葉をもって、シモンの信仰生活が始まりました。
     「はい、わかりました」という素直な応答ではありません。シモンは、夜が明けてから漁に出かけるのはありえないと思ったことでしょうし、夜通し働いて収穫がなかったことから心身ともに疲れていたはずです。しかし、しゅうとめがイエス様に癒されたからでしょうか(ルカ4:38~39)、イエス様が語られたメッセージをすぐそばで聞いたからでしょうか(ルカ5:3)、シモンは「でも、おことばですので…」と言って、深みに漕ぎ出しました。このときのシモンは最初から積極的にイエス様を信じていたとは思われません。もしそうであるならば、大漁の奇跡を経験しても、驚くことがなかったはずだからです。
     しかし、イエス様はそういうシモンを導かれました。大漁の奇跡を経験し、イエス様の足もとにひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言ったシモンであっても、イエス様は拒まれることなく、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」とおっしゃり、シモンをご自身の働きのために用いられました。
     信仰の始まりは小さく、完璧ではなかったとしても、イエス様は私たちを導かれます。信仰生活の中で罪を示され、自分という存在が愚かで、惨めであったことを自覚しても、それでもイエス様は私たちを拒まれません。ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えるにあたり、そのことを御言葉によって再確認しましょう。

6/1 「神に召された者」 コリント人への手紙第一1章4〜9節 小林泰輔師

  •  今日ここに集っているあなたがたは神に呼ばれた者です。Ⅰコリント1:4-9を見ていきます。まず初めに、先に主のみもとに召された父や母、祖父母や兄弟姉妹、友人、みな、あなたのことをおぼえて祈っていました(4節)。
     しかし父や母に手を引かれて教会に行きながら、教会の説教や神学や信仰の実践のさまざまな点で、キリスト教を知的に理解しようとしたときにつまずいたことがあるかもしれません。けれども、信仰は「キリストにあって豊かな者とされ」ることから始まるのです(5節)。その父や母も、知識によってではなく、キリストとの個人的出会いによって変えられたのです。罪に死んでいた者の、霊が息を吹き返して生きる者となったのです。それから知識が与えられるのです。。その生き様に、あるいは死に様にはキリストの姿があったのではないでしょうか。「彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい」(ヘブル13:7)。あなたがキリスト者の家庭に生まれたことは、神からのプレゼントです。信仰は賜物だからです。クリスチャンの友人を通して信仰に導かれた方も、苦難や試練を通してキリストに出会った方も、それらはすべてキリストとともに食卓に着くために送られた神からの招待状です。
     クリスチャンの生き方は倫理的に高い基準を歩もうとします。「ちゃんとしなさい」とよく叱られたでしょうか。親の務めとしてはどうしても厳しく言わなければならない。その陰で、父や母が涙ながらに自分こそが「ちゃんとできていない」ことを神に注ぎ出して祈る姿があるのです。自分で自分を救えない私たちを神は責めることはなさいません。なぜならば、すべての罪の責め苦はイエスが背負って十字架の上で死んでくださったからです。このイエスを信じる時に、私たちの罪の責めも死んだものとなり、最後まで保ってくださいます(8節)。
     神は真実な方です。神は間違って選ぶことをなさいません。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです(9節)。

5/25 「旅に出たご主人」 マタイの福音書25章14〜30節 小林泰輔師

  •  天の御国(神さまの統治)が、旅に出た主人としもべの関係でたとえられています。主人は神さま、しもべはすべての人間を指します。神さまは一人一人にタラント(賜物)を与えてくださいました。丈夫な体、器用な手、速く走れる足、話す力、人を励ます才能、柔和な笑顔。目に見える能力だけでなく、困難の経験や弱さも含まれ、神さまはそれらをも用いることがおできになります。神さまは良い方で、恵みを与えようと私たちを追いかける方です。
     例え話では、主人は三人の人に五タラント、二タラント、一タラントを預けて旅に出かけました。主人の不在の間、二人は預かったものを用いて増やすことができました。主人が帰ってくると、この二人は儲けを報告し、ご主人は「よくやった、良い忠実なしもべだ」と褒めました。しかし、一タラント預かったしもべは、失敗を恐れて地面に穴を掘ってタラントを隠しました。そのことによって、彼が主人を信頼していなかったことが明らかになりました。主人は彼の不信仰を責め、彼のタラントを取り上げ、五タラント預けられた人に与えました。この役立たずのしもべは外の暗闇に追い出されてしまいました。そこで泣いて歯ぎしりする、これは地獄に落とされることの慣用表現です。
     主人は、儲けを出したかどうかという成果にこだわったのではありません。主人である神さまに信頼して、リスクを冒してでも天の御国のために、人々の幸せのためにそれを用いたかどうかを問うているのです。たとえ失敗したとしても、神さまのために良かれと思ってしたことならば、何かを失ったとしても、神さまにとっては「わずかなもの」を失ったに過ぎないので、責められることはありません。
     この世は主人不在の家のようです。しかし、今も聖霊なる神は共にいて、私たちと旅路を共に歩み、信仰と賜物を用いるよう励ましてくださいますから、主と共に冒険しましょう。

5/18 「福音の生けるあかし人」 コリント人への手紙第二3章2-3節 小林泰輔師

  •  2024年度の歩みを振り返ります。「霊的に健康な教会」を目指して歩みました。ヨハネの手紙第三2節にあるように、私たちのたましいや霊の健康、そして教会としても健全に歩むことを願ってきました。創立100周年を迎え新しい霊の息吹を求めてまいります。
     昨年度はコロナ禍の終息とともに、教会活動に新しい息吹が吹き込まれたと感じています。「教会学校」の代わりに、礼拝を子どもも大人も一緒にささげられる内容にできるだけ工夫し、毎月一回ジョイフルアワーも始めました。子どもたちが教会にいることは、教会が成長している証しであり、主からの励ましです。
     また、日・中合同礼拝が毎月ささげられ、今年度からは月二回になりました。国籍を超えてイエスの御名のもとに一致する、連帯できる恵みのときです。黙示録7章の諸国の民が集まる礼拝を先取りのような幸いだと感じています。
     交わりの面では公的な会合が途絶えた面はありましたが、それでもイエスさまを求めて通い続けた青年が洗礼を受けたり、バイブルキャンプを通して恵みを受けた子どもたちが受洗したりと、教会に新しい命が生まれていることを感謝します。霊的に健康な教会においては、新しい命を生み出します。
     これからの私たちの教会は、かつての100人教会のような働きは不相応でしょう。今は小さな教会の部類に入り始めていますが、小さいことが生かされることもあります。ギデオンは大軍を相手に300人まで絞られました。それは小さな者を神が用いて大きなことを成すときに、神の栄光が最大限にあがめられるからです。
     小さな教会には大きなチャレンジである伝道師招聘にも踏み出して参ります。みたまキリスト教会との協力体制も築きながら、常に主にフォーカスして、大きなことをなされるお方に信頼して新年度も、生きたキリストの手紙として、福音のあかし人として歩んで参ります。

5/11 「神の愛と赦しの体験」 コリント人への手紙第一2章14節〜3章3節 藤井聡美姉

  •  人は良い人になろうと努力します。良い行いをすることで、悪い行いの埋め合わせをしようとします。しかし、人間的な努力では、決して罪を洗い流すことはできません。罪は人間の本質の1つだからです。罪の性質をもつ、私たち人間には神様からの超自然的なきよめが唯一の希望です。しかし、神の子どもとして生きるということは、罪の問題がなくなるということではありません。イエス様と親しく歩むことで、かえって罪の問題に敏感になります。
     Ⅰコリント2:14~3:3には、神様の視点から見た、人間の3つの霊的状態が描かれています。一つ目は「生まれながらの人」、二つ目は「御霊に属する人」、三つ目は「肉に属する人」です。いつも御霊に属する人でいたいと思っていても、知らず知らずのうちに肉に属する人として歩んでしまっていることがあります。皆さんは今、この3つの中の、どの人の状態にいるでしょうか。
     では、今、自分が「肉に属している人」だと気づいた場合、どうしたらよいでしょうか?「霊的呼吸」という概念で説明します。霊的に吐き出すとは、「罪を告白する」ということです。(Ⅰヨハネ1:9)告白するとは「同意する」「認める」ということです。神様が気づかせてくださった罪に同意します。そして、自分の罪を神様に伝えます。
     霊的に「息を吐き出す」とき、霊的に「吸い込み」ます。霊的に息を吸い込むとは、「聖霊の満たし」のことで、肉に属する状態から、御霊に属する状態へと変えられます。簡単に言うと聖霊で満たしてくださるように祈るということです。
     神様の赦しは完全です。信仰によって、神の愛と赦しを受け取りましょう。それにより、私たちはサタンの攻撃から守られます。御霊に属するクリスチャン生活は、そこから始まるのです。

5/4 「美しく変えられる」 ヨハネの福音書16章28-33節 小林泰輔師

  •  「神の力強い手の下にへりくだりなさい。神はちょうど良い時にあなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6,7)「神の力強い手」という言葉が示すように、私たちの人生におけるあらゆる不安や心配事を、神さまの御手の中に委ねることができます。神さまは私たち一人ひとりを深く愛し、心配してくださっています。私たちが自分の人生を神さまの御手に委ねるならば、私たち自身で行うよりも遥かに美しく仕上げてくださるのです。「ちょうど良い時(in his time)」に神さまが最善を行ってくださる、そのタイミングは完璧です。
     「すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)ここでの「すべてのこと」とは、人生で起こる困難なこと、不安なこと、悲しい出来事、何かを失う喪失体験など、良いことも悪いことも全てを含みます。これら人生のあらゆる出来事が、神のタイミングと御手の中で、私たちにとって、そして神さまにとっての「益」へと変えられるという約束です。それはすぐに起こるかもしれないし、長い時間がかかるかもしれないですが、神は最善のタイミングを知っておられるので、最も美しくベストな形でその変化は訪れるのです。「すべてのこと」とは、単に時間だけでなく、協力者や環境(良かれ悪しかれ)、そして必要なものすべてが神さまに用いられることを意味し、天地を創造し支配する神さまが自由自在にこれらを働かせることができるからこそ、それは可能なのです。
     「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言われました。イエスさまは、この世に苦難や悩み、不安、心配事が必ず存在することを率直に認めつつも、ご自身がすでに世に勝ったことで、私たちに平安を与えることができると約束されているのです。人間が支配する世界が続く限り心配事は絶えないかもしれませんが、イエスさまが共にいてくださるならば、困難や嵐の中でも私たちは平安でいられるのです。不安や弱さを持ったまま、ありのままの自分で神の御前に出て、全てを神さまに委ねることです。そうすれば、神さまが私たちの人生のすべて(不安、弱さ、困難、悲しみ、喜び、日常の何でもないこと)を、その素晴らしいタイミングと方法で、私たちにとって美しく、益となるように必ず変えてくださるという希望が与えられています。

4/27 「復活の主とトマス」 ヨハネの福音書20章19-31節 小林泰輔師

  •  イエスがよみがえられた日の夕方のことです。弟子たちはマグダラのマリアから復活の主のことを聞かされていながら、まだ恐れの中に閉じこもっていました。扉には固く鍵をかけ、イエスの十字架刑の余波からくるユダヤ人たちからの迫害を恐れていました。
     そんな中、イエスさまは来られ、彼らの真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように(シャローム)」と言われたのです。扉をノックすることもなく、鍵を開けてもらうこともなく、目の前に現れたのです。弟子たちは主を見て喜びました。確かに手と脇腹には傷跡がありました。十字架の出来事や、復活したという知らせや、この三日間の目まぐるしい出来事が夢か幻かのように思われたかもしれませんが、確かな事実だったのです。
     主は私たちの罪を背負われて十字架にかけられました。そのために私たちの罪の責苦もまた死んだものとなりました。そして主は私たちのためによみがえられました。そのために私たちの罪が確かに赦されたことを知ったのです。これは歴史上に起きた確かな出来事でした。
     ところが弟子の一人のトマスはその時、その場にいませんでした。彼が帰ると他の弟子たちは興奮気味に「私たちは主を見た」と言いました。トマスはどう思ったのでしょうか。その事実を疑ったのか、私も見たかったと悔しがったのか、「私は、その手の釘の跡を見なければ(中略)決して信じません」という反応でした。翌週、同じような状況でまた主は現れてくださいました。トマスのためにです。感激したトマスは「私の主、私の神よ」とイエスに対して信仰を告白しました。主イエスは「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。
     私たちは、見たことはないけれども主をイエスと信じています。聖書のなかに記され、私たちの心の中に来られたイエスさまを信じています。その私たちに主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われました。福音の生けるあかし人として歩みましょう。

4/20 「新しい命の転換点」 ローマ人への手紙6章1-11節 小林泰輔師

  •  復活節おめでとうございます。春は新しい命の芽吹きの季節であり、イースターエッグも命の象徴です。キリストの復活は、新しい命と新しい人生への転換点を示しています。私たちはイエスの十字架と復活によってすでに救われ、神のご計画において救いは達成されました。
     これは過去形の出来事であると同時に、今も私たちは救われ続けており、将来の完成に向かって進んでいます。救いには「義認」「聖化」「栄化」という段階があります。義認は罪の赦しと神の子とされること、聖化は日々キリストに似た者へと変えられる過程です。
     福音を伝えるには、「神・罪・救い」の三つを基本に、自分の体験や証しを交えるとよいでしょう。それはその人にしか語れない、特別な伝道になります。復活は救いの確証であり、十字架の贖いが有効である証です。私たちはキリストとともに死に、ともに生きる者とされました。聖化は、罪の力から解放され、罪を犯さずに歩む自由を得ることです。それはらせん階段のように少しずつ進む成長であり、自分では気づきにくいものですが、交わりの中で互いに励まされながら育まれます。
     私たちはまだ罪の性質を持つ存在ですが、日々神に向き直り、キリストと共に歩む中で、神に対して生きる者へと変えられていきます。この人生の旅は、やがて主の再臨とともに完成されるのです。今を生きる私たちは、神に向き合いながら、「新しい命の転換点」を通って、救いの完成へと導かれているのです。救い主の御名をともに賛美しましょう。

4/13 「涙と笑いの交差点で」 詩篇62篇1-12節 エミリー・チョウ師 

  •  詩篇126篇に記された「主は私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ」という告白は、信仰者にとって過去の恵みを思い起こし、現在を支え、未来への希望をもたらす中心の言葉です。この詩篇が描くのは、涙と笑いが交差する人生の現場において、主の御業を見出す信仰の姿です。
     「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」と語られているように、神は私たちの悲しみを見過ごされず、それらを豊かな実りへと変えてくださる方です。ネゲブの乾いた地に命の水が注がれるように、主の恵みは乾いた心にも注がれ、回復と喜びをもたらします。
     喜びは感情の高まりではなく、主がなしてくださった事実に基づいた信仰の応答です。それは表面的な笑顔ではなく、涙の現実を知った上でなお「主は大いなることをなさった」と告白できる確かな喜びです。
     私たちもまた、涙と笑いの交差点に立ちながら、主の変わらぬ御業を信じ、今日も希望をもって歩み出していきたいと願います。

4/6 「歩くキリストの手紙」 コリント人への手紙第二 3章2-3節 小林泰輔師

  •  今年度標語は「福音の生けるあかし人」です。今も昔も教会に足りていなかったのは、福音に生き、生かされているあかし人ではないでしょうか。大そうな伝道集会やプログラムやメソッドなどより、もっと身近で効果的なのは一人一人のキリスト者のあかしです。順境にあっては神に感謝と賛美をささげ、逆境にあっても神に信頼し祈る、そうして喜びをもって生きている一人の人がいるだけで、神さまは大きな栄光をお受けになります。
     パウロ(当時はサウロ)は、元々はキリスト者を迫害する者でした。しかし、復活のイエスさまにお出会いし、イエスはキリストであるとあかしする者に全く変えられました。多くの人たち、おもに異邦人たちに宣教し、たくさんの教会を建てあげた使徒でした。しかし、十二使徒のようにイエスさま御在世当時からの弟子ではないこともあってか、パウロの使徒性を認めようとしない者もおりました。パウロがキリストの使徒であることを証明するのは、コリントやその他の教会の信徒たちであると、ここでパウロは言うのです。自分の功績を誇る推薦状など不要(1節)としながらも、推薦状があるとしたらそれはあなたがたですと言いました。パウロ自身も含めた「私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれてい」る“歩くキリストの手紙”それはあなたがた一人一人のことだと言いました(2節)。昔、旧約時代は石の板に書かれたみことば(十戒や律法)が外側から人を真理に導きましたが、今やエレミヤ書の“新しい契約”(エレ31:31-34)の通りに人の心の板に書き記されて内側からその人を導き、日々新しく造り変えられていくのです。それは内住のキリスト、御霊によるみわざです。私たちの心がけや努力によるところではなく、キリストの御霊によって新しくされるとき、内から言葉に尽くせない喜びが溢れ出てくるものです。そのさまを見て人々は神を仰ぎ見るようになります。委ねて聖霊を待ち望みましょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加