説教要旨

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  • 2024年度

4/21 「竜と二匹の獣」 ヨハネの黙示録13章1〜18節 小林泰輔師 

  •  聖書は信仰の書物ですが、信じてはいけないものについても厳しく警告します。それはサタンとその手下たちのことです。神は目に見ることはできませんが、悪魔も同じです。見極める信仰の眼と、声を聞き分ける耳が必要です。
     13章には竜と二匹の獣が出てきます。象徴であり、竜はサタンのこと、二匹の獣はそれぞれ反キリストと偽預言者のことです。獣と書かれてあってもそれは人間のことです。海から上がってくる獣(反キリスト)はキリスト教徒に戦いを挑む王たち(王権、王国)のことです。サタンからその権威が授けられ、一時的に活動し、聖徒たちに勝つことが許されました。死んだように見えますが蘇生します。そのようなことから復活したキリストのように人々から拝まれるようになります。けれどもその本質は獰猛な獣に例えられる暴力的で神を冒涜する者です。地から上がってくる獣は、預言者が神の言葉を語るように、竜の語る言葉を語り告げます。そして先の反キリストを崇拝するように人々を惑わします。天から火を降らすなどの奇跡も行います。その名を数字で表すと「666」ですが、これは人間を表すと書いてあります。
     世の終わりが近づくとこのような者が現れます。荒らす忌むべき者とか不法の子などとも呼ばれます。歴史上いつの時代にもそのような人物はさまざま存在しました。今も反キリストの力は働いています。私たちには、上からの知恵(ヤコブ3:17-18)、まことの羊飼いの声を聞き分ける耳が必要です。獣の暴力性に気づき、悪に対して悪で報いるようなことはせず、イエスさまに似た者として敵のために祈る、イエスさまの説いた神の愛に生き、みことばを聞き分け従って参りましょう。

4/14 「新しく創造された者」 第二コリント5章14〜21節 エミリー・チョウ宣教師 

  •  『キリストの愛が私たちを捕えている』
    パウロは、「キリストの愛が私たちを捕らえている」と表現しました。これは、私たちがキリストに深く愛され、その愛に導かれて行動することを意味します。キリストの愛によって私たちは神の子となり、神を「アバ」と呼ぶ関係を持つようになります。この愛は、私たちを行動に駆り立て、愛に応えたいという気持ちを引き出します。キリストの愛に応えることは、時には自己犠牲を伴いますが、その喜びは大きく、神への愛に対する応答として私たちを解放します。時に私たちは神を感じられないかもしれませんが、それでもキリストの中にあり、神の愛に素直になる必要があります。
     『新しく造られた者』
    パウロは、キリストの中にある者は新しく造られた者であると述べます。これは、キリストを信じることで新しい生命を得、古い自己から解放されることを意味します。パウロは自身の経験を通して、イエスとの出会いが自己変革をもたらしたことを語り、聖霊の働きがキリストを理解し、神を畏れ、敬うことを可能にすると主張します。
     『和解の務め』
    神によって新しく創造された私たちは、キリストの使節として神との和解のメッセージを他に伝える役割を果たします。キリストの十字架での働きによって、神と人類との関係が回復され、新しい関係が築かれることが強調されます。

4/7 「幸せはたましいの健康から」 ヨハネの手紙第三 2 節 小林泰輔師

  •  2024 年度の年間標語は「霊的に健康な教会」です。今年度で清和キリスト教会は100 周年を迎えますが、新しい時代には霊性も新しくされる必要があります。古くて改めるべきものは新しくし、古くても普遍的なものは守り通していく必要があります。霊性の形成ということにおいては、誤った理解や実践もあったのではないかとキリスト教会にも反省すべきものがあるかもしれません。福音の力の本性は、人を常に新しく生まれ変わらせることにあります。神のみことばの真理は変わらないけれども、私たちは変えられ続けなければなりません。新しい価値観のすべてが正しいわけではありませんが、古い価値観に固執して人々が教会の門をくぐる妨げになったことはないだろうかという反省も必要です。
     さて本題ですが、キリスト教とは、人を幸せにするためにあります。私たち教会は人類の幸福のためにこの地に存在しています。自分の幸せのためだけではなく、この町の、この国の幸せや健康のために祈ることが使命です。自分の周りの世界をケアすることが使命なのです。幸福のためには、まず、たましいの幸いが必要であると、みことばは言います。世間的な価値観は逆かもしれません。健康や経済や事業などの欲求が満たされてから、次に心やたましいと言った霊性を求めていくようなところがあるのではないかと思います。けれども真理は違います。たましいの健康が真っ先に大事です。
     人間は霊的存在です。創造のとき、土くれから作られた人間の形をしたものに、神が息(霊)を吹き込まれて、人は神の像(かたち)に似るように造られたのです。霊性とは、心とか魂とか意思とか理性とかを含みます。人間は霊的存在であることを人は忘れたかのように生きていますが、無自覚にそれを求めています。運命とか運勢とかを信じたくなるのも、人間関係に心を使うのも霊性に関するものです。
     「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか」(詩篇42 篇)と、たましいに語りかけていますが、心がたましいに語りかけているのです。自分の中のたましいの対話が必要です。霊は私たちの中核にある本質で、そこにキリストの御霊が入ることで、私たちは神のみこころを歩むことができます。たましいは私たちの存在を全体的(ホリスティック)に包み込むものです。そして私たちを取り巻く広大な領域に神の愛を注ぎ出すために存在しています。ですから、無意味に生かされているいのちなど一つもありません。私たちの全存在をもって、健康なたましいで健全に世に働きかけ、世界を救う神のご計画に参画していきましょう。
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